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海援隊とは、江戸時代後期、土佐脱藩浪士・坂本龍馬が結成した、日本初の株式会社として評価されている組織である。
同名の音楽グループに関しては、本項では扱わない。
概要
1867年(慶応3年)から1868年(慶応4年)までの間、私設海軍・貿易などを行うかたわら、薩摩藩などからの資金援助も受け、物資の運搬や貿易の仲介など運輸、開拓、本藩の応援、射利、投機、教育修行を行い、また隊においては自活運営、政治・商事活動をおこなった。
海援隊のたどった歴史
「社中」結成
慶応元年閏5月(1865年6月~7月)。
勝海舟の結成した海軍士官養成機関・神戸海軍操練所が幕命により閉鎖したことに伴い、薩摩藩の
西郷吉之助(隆盛)や小松帯刀、商人
小曾根英四郎の援助を得て、坂本龍馬と操練所の学生たちが長崎の亀山(現・長崎県長崎市伊良林地区)において海援隊の前身となる「亀山社中」が結成された。
従来まで、この「亀山社中」は「商社」のような活動を行っていたというのが通説であったが、2010年以降に幕末当時の史料の再検証が行われ、従来の説に一石を投じることとなった。
まず、結成当時の慶応元年閏五月に龍馬は長崎にいなかった可能性が浮上した。このグループの設置に立ち会ったのは、龍馬の甥・高松太郎と、操練所時代からの友人・近藤長次郎の両名であるとされる。
また、当時の呼称も「亀山社中」ではなく「社中」であったことが当時の文書から明らかになっている。
この「社中」の結成には、結成に際しては小松が近藤や高松らと同道して長崎入りし、「社中」の所属者には薩摩藩から一人3両2分が支給されたという。
「社中」は、スコットランドの貿易商人トーマス・グラバーの長崎代理店であった「グラバー商会」などと取引し、武器や軍艦などの兵器を薩摩藩名義で購入、長州藩が薩摩藩を経由して武器を購入する仲介を果たしたとされてきた。
しかし、グラバー商会から武器を買う交渉をした長州藩の伊藤俊輔(博文)は後年の回想で「鉄砲を買う方は直接外国人に買った」と述べ、同じく井上聞多(馨)は「薩摩藩との接触に高松・近藤らの紹介を経たが、『薩摩藩』名義の使用は小松帯刀との直接交渉で許しを得た」と述べている。
そうしたことから、「社中」の実態を「商社」ではなく、「薩摩藩名義で買い上げた軍艦を、薩摩の指示のもとで運航していた土佐の脱藩浪人の集団」とする見解が強まっている。
慶応元年7月、近藤は井上聞多とともに小松の帰国に同行し、薩摩藩に1か月近く滞在した。
井上の回想によれば、その間に近藤は
大久保一蔵(利通)・桂久武・伊地知壮之丞などの薩摩藩の用人に面会し、
「
今こそ長州と手を組んで幕府に対抗し、政権を再び皇尊に政権を御返し申し上げたのち、この日本を統一して広く西洋諸国との交易をおこなうべきです」
と語ったとされる。
そうして慶応二年(1866年)、薩摩藩と長州藩は「薩長同盟」を締結したのである。
薩長同盟締結後、近藤は、「長州藩が薩摩藩の名義で軍艦を購入し、乗組員の大半を「社中」の隊員とする。軍艦を長州藩が使わないときは、薩摩藩がそれを自由に使えるとする」という内容の条約、すなわち「桜島条約」を井上と作成し、薩摩藩の了解を得てこれを締結することに成功した。
話は少し前後するが、慶応元年10月、近藤はグラバーから借金して長崎にて軍艦ユニオン号を購入し、下関まで操縦してこれを長州藩士に披露した。
しかしここで、「すぐにでもその船を毛利家の船として使わせてくれ」と主張する長州藩に対して、近藤が「代金をお支払いいただけないのでしたら、この船をお渡しすることはできません」と突っぱね、両者が対立することとなった。
これが「ユニオン号事件」である。
この事件には別件で下関を訪れていた坂本龍馬が対処にあたり、長州藩に有利な内容の新条約を再締結することで、この事件は解決を見た。
話は、もどる。
慶応二年(1866年)5月。鹿児島に入港したユニオン号を譲渡先の長州藩に届けることになった。ここに龍馬が船長として乗り組み、6月4日に出港、14日に下関に到着した。
この頃すでに第二次長州征伐が始まっており、長州藩の「乙丑丸」となったユニオン号は、17日に高杉晋作率いる長州艦隊に協力して門司攻撃に参加し、これにより戦局は長州側に有利となり、勝利がほとんど確実なものとなった。
この第二次長州征伐を境に、龍馬は土佐脱藩浪士グループ・旧勝門人グループ・旧幕府水夫グループの統率者となった。
なお、薩摩藩側が当初「社中」メンバーに最も求めていた海軍の育成支援の必要性は、藩自体がそれらの事業に乗り出したために「薩長同盟」以降は薄れていき、海軍の育成支援の次に求めていた海運業や開拓といった機能を「社中」が担うようになる契機ともなった。
なお、前述の「薩摩藩からの、所属者の一人につき3両2分の給金の支払い」は同年10月から開始された。
始動、海援隊!
慶応3年(1867年)4月。坂本龍馬の脱藩の罪が許されて隊長となり、土佐藩に付属する外郭機関として「海援隊」と改称される。
海援隊は土佐藩の援助を受けたが、基本的には独立しており、脱藩浪人、軽格の武士はもちろん、庄屋、町民まで手広く受け入れていた。
「海援隊約規」においては「本藩を脱する者、および他藩を脱する者、海外の志のある者、この隊に入る」という採用基準が存在し、同規約において、業務活動としては「運輸、射利、投機、開拓、本藩の応援」と紹介されていた。
なお、この「射利」とは「利益の追求」という意味であり、このことは海援隊の「商社」としての存在意義を一層強めるものであった。
つまるところ、この「海援隊」は「商社」と「海軍」を兼ねた組織であり、また航海術や政治学、語学などを学ぶ「学校」としての顔も持ち合わせていた。
同年4月23日、紀州藩の軍艦「明光丸」と、海援隊所有の蒸気船「いろは丸」が瀬戸内海で衝突・沈没した事件が勃発した。「いろは丸事件」である。
この事件で海援隊は多額の損害を被り、龍馬は「万国公法」に記載された条項にのっとり、紀州藩に対して損害賠償を要求した。
当初は紀州藩側があくまでも非を認めず、交渉は難航したが、龍馬らは交渉に加え、外国人立ち会いのもと裁定を求めるなど近代的な手法をとった。
これにより、紀州藩が約8万両を賠償することで事件は解決をみた。この一件は、日本における近代的な民事訴訟の先駆ともいえる出来事として知られている。
なお、紀州藩に賠償を請求する際、龍馬ら海援隊は「ミニエー銃400丁など銃火器3万5630両や金塊など4万7896両198文を積んでいた」と主張したが、後年に複数回にわたって行われた調査では、重火器のたぐいは一切発見されなかった。
このことから、前述の主張は、海援隊が紀州藩から多額の賠償金を得るための「はったり」ではないかとする見方が存在する。
同年7月には、龍馬の同志である
中岡慎太郎が武力討幕を目標に掲げた「陸援隊」を組織。中岡は「海援隊」と「陸援隊」を併せて翔天隊とする構想を練っていたという。
終焉、そして継承
同年11月15日。「海援隊」に衝撃が走った。隊長・坂本龍馬が同志・中岡慎太郎とともに、京都近江屋にて暗殺されたのである。
当初、「龍馬らの暗殺の黒幕は紀州藩の人物ではないか」という噂が海援隊・陸援隊の間に流れていた。龍馬の殺害動機が、前述の「いろは丸事件」において、海援隊への多額の賠償金の支払いを余儀なくされたことへの報復であると考えられたのである。
そうして海援隊隊員・陸奥陽之助は紀州藩公用人・三浦休太郎の殺害を計画した。陸奥は龍馬から大変目をかけられており、それだけに紀州藩への恨みを一層募らせていった。
同年12月7日、陸奥は十津川郷士・中井庄五郎や、沢村惣之丞、岩村精一郎、大江卓ら海援隊・陸援隊士総勢16名とともに、三浦休太郎と新選組隊士らが天満屋2階にて酒宴を行っていたところを襲撃した。
この時中井が三浦に斬りつけ、三浦は頬と顎を負傷した。海援隊・陸援隊と新選組は襲撃の報を聞きつけた新選組、紀州藩が援助に向かったものの、かれらが現場に着いた頃には陸奥らは素早くその場を引き揚げていた。
慶応四年正月。鳥羽・伏見の戦いの幕が切って落とされたのを皮切りに、「戊辰戦争」と呼ばれる一連の戦争が始まった。
長岡謙吉らの一派は天領である讃岐国の小豆島などを占領、千屋寅之助(菅野覚兵衛)らも、土佐藩上士で海援隊や坂本龍馬ら郷士の理解者であった佐々木高行に率いられて長崎奉行所を占領し、また小豆島においても幕府軍に勝利した。
同年4月、長岡は土佐藩より二代目海援隊長に任命された。長岡の一派は「梅花隊」に再編となるが、同年閏4月27日(6月17日)には藩命により「海援隊」は解散を余儀なくされた。
なお、海援隊並びに龍馬の支援者で、当時土佐藩開成館長崎商会に努めた岩崎弥太郎は海援隊の残務整理を担当した。
一方、長崎に渡った隊員は長崎遊撃隊を母体とする「振遠隊」に参加した。
隊員の石田英吉が同隊長に任命され、海援隊からは、野村辰太郎が軍監・司令官として、大山壮太朗が軍監・司令官として、千屋寅之助が軍監・司令官として、山本洪堂が医官として参加し、「振遠隊」における重要なポストを担った。
長崎に凱旋した振遠隊は論功行賞を賜り、特に隊長の石田は短刀一振金子2万疋の特勲恩賞を賜った。そうして、明治五年(1872年)を以て「振遠隊」は解散となった。
明治以降も、龍馬の「遺志」は脈々と引き継がれていった。
土佐藩首脳・林有造は海運業私商社として、後に三菱財閥の事業の源流となる後の九十九商会を設立した。
この商会の代表者は海援隊隊員で船舶の操縦経験のあった土居市太郎、長崎商会で貿易実務を経験していた中川亀之助、事業監督を担った岩崎弥太郎の3名であった。
また、龍馬は生前、蝦夷地開発事業に着手する計画を持っていた。
この計画を龍馬の甥で、前述の高松太郎の弟にあたる坂本直寛が引き継ぎ、北海道空知管内浦臼町に入植し、開拓を行った。
隊員名簿
隊長・隊員の略歴、並びに名前の読みは宮崎十三八、安岡昭男編『幕末維新人名事典』(新人物往来社、1994)を参考とした。
- 坂本龍馬(1836~1867)
土佐国高知城町の郷士・坂本八平次男として生を受ける。剣術を日根野弁治・千葉定吉に学ぶ。
当初は武市半平太率いる土佐勤皇党に参加するも、方針の不一致により離脱し、1862年に脱藩。
江戸で勝海舟に会い、開国の重要性を説かれ、以降は神戸の海軍操練所に学び、塾頭となる。
操練所閉鎖後、長崎に「社中」(亀山社中)を結成し、翌年薩長同盟の締結に成功。
千八百六十七年に「海援隊」を結成し、それ以降大政奉還の根回しを行うが、同年十一月十五日に京都近江屋にて中岡慎太郎とともに京都見廻組により暗殺さる。
より詳細な履歴は
個別項目を参照。
- 沢村惣之丞(1843~1868)
土佐国土佐郡潮江村の地毛浪人の家の子に生まれる。学問を正木哲馬に学び、土佐勤皇党に加入。1862年に坂本龍馬とともに脱藩する。
この翌年に幕臣・大久保一翁に面会し、啓発されて神戸の海軍操練所に学ぶ。1867年に海援隊に参加し、龍馬の補佐役を担った。
龍馬横死後は陸奥陽之助ら同志とともに天満屋事件を起こす。鳥羽・伏見の戦いにおいて無人状態となった長崎奉行所に入居し、警備活動を行うが、この時乱入してきた酒乱状態の暴漢を誤って射殺してしまう。
海援隊と薩摩藩の間に軋轢が発生することを恐れ、海援隊本部で薩摩藩関係者の制止を振り切り、
「男子たるもの、布団の上で呻吟し薬鍋と組み打ちするより、このほうが往生際が良いぞ」
と言い残し、切腹して果てた。
- 近藤長次郎(1838~1866)
土佐国高知城下水通町の饅頭屋の家に生まれる。江戸で安積艮斎、手塚玄海、高島秋帆に学ぶ。
1863年に苗字・帯刀を許され、名乗りを「饅頭屋長次郎」から「近藤長次郎」に改める。神戸の海軍操練所に入塾し、坂本龍馬とともに学んで、龍馬の主宰する「社中」に加入した。
薩長提携運動では銃船購入の実務をこなし、井上聞多(馨)と桜島条約を締結。
1865年のユニオン号購入のため尽力し、購入に成功するとその船でイギリスへの留学をもくろむが、これは横領行為も同然であったため、隊の規則に違反したとして切腹。
龍馬は「俺がいたら死なせはしなかった」と彼の死を嘆いたという。
- 長岡謙吉(1834~1872)
土佐国高知城下浦戸町の町医者の子として生まれた。1852年、江戸や大坂に留学に赴く。
1859年には長崎で西洋医術を学んだ。この最中、「キリスト教の信仰」という罪状で、大津村の鹿児に一時謹慎となる。
1867年に海援隊に参入。龍馬とともに、大政奉還の建白書の起草の作成に携わる。戊辰戦争にも出征し、讃岐国の小豆島などを占領する手柄を立て、海援隊二代目隊長となる。
1872年に工部省に出仕するが、若くして病没する。
- 陸奥陽之介(1844~1897)
紀州藩士・伊達千広の次男として生まれる。父の失脚により国を離れ、江戸の安井息軒・水本成美らに学ぶ。
1862年に京に赴き、その翌年に龍馬と知り合う。龍馬の知遇と兄・伊達五郎の手引きで神戸の海軍操練所に入塾するが、入塾の翌年に同所は閉鎖。
やがて、長崎において「社中」に合流し、1867年に海援隊に参入する。海援隊では商取引に関わることが多く「商法の愚案」と題する商事意見書を作成し、提出した。龍馬は陸奥を高く評価しており、
「刀なしで生きていけるのは、俺と陸奥だけだ」
とまで言っていたという。
龍馬横死後は龍馬の敵討ちのため、天満屋事件を起こす。戊辰戦争の最中には伊藤博文らと外交方面に活動した。明治期には「宗光」と改名。藩閥政府に対決姿勢をとり、西南戦争のさなかに「立志社」の政府転覆計画に加担し禁固刑となった。出獄後は欧米諸国を視察し、駐米公使・農商務大臣・外務大臣を歴任する。特に、外務大臣として領事裁判権の撤廃に成功した功績は有名である。
土佐国土佐郡小高坂村に生まれる。1861に江戸へ出て安井息軒に入門。同地で諸藩の志士と交流し武市半平太の土佐勤王党に参加した。
1863年、土佐藩の不安定な動向および長州藩の攘夷実行に触発され、脱藩。下関での外国船砲撃、大和国での天誅組挙兵にとあいついで戦地に身をおいた。
天誅組挙兵の際には洋銃隊長として、石田英吉らと主将中山忠光を護衛して諸藩の包囲網から脱出。翌年の禁門の変にも長州軍に身を投じて戦った
1866年、薩長同盟の締結のため上京する龍馬らと行動をともにし、その後は「社中」にも参加。同年、ワイルウェフ号を薩摩へ回航する途中、暴風雨のため遭難し、肥前国の五島潮谷崎の海中に没した。
龍馬は
「お前が生きてくれれば、俺の死んだ後に『社中』の後をお前に任せるつもりだったのだ。俺より先に死ぬ奴がいるか」
と内蔵太の死を嘆いたという。
本来、内蔵太は「海援隊」結成時にはすでに亡くなっていたため、「海援隊」の隊員ではなかったが、便宜上ここに記載した。
- 新宮馬之助(1836~1886)
土佐国香美郡冨家村に生まれる。1853年、高知城下の叔母の家へ寄宿し、焼継業を手伝いながら河田小龍に学問と画を学ぶ。
1864年、神戸の海軍操練所で航海術を学んだ。龍馬の「社中」そして「海援隊」に参入。隊中きっての美男子であったらしく、龍馬はそんな馬之助に対して
「君は男振りが好いから女が惚れる。俺は男振りが悪いがやっぱり惚れる」
と語っていたという。
維新後、蝦夷地の開拓に従事し浦賀海兵団に勤務。海軍大尉にまで出世した。
- 千屋寅之助(1842~1893)
土佐国の庄屋の家の子に生まれる。「菅野角兵衛」の名乗りでも知られる。
当初は土佐勤皇党に加盟し、五十人組の一員として江戸へ向け出立したが途中、京都に残留することとなり同地で何度か斬奸事件に関わりを持つ。
1863年、龍馬の誘いと藩命をうけ、神戸の海軍操練所へ入門。航海術を学んだが、塾閉鎖以降、自身も厳しい浪人狩りに遭遇する。閉塾後、龍馬たちと行動をともにし社中・海援隊と幹部として活躍。
1866年の四境戦争にさいしてはユニオン号の船将をつとめ、海戦に参加した。
龍馬横死後はその細君の楢崎龍(おりょう)の妹・君江と結婚した。戊辰戦争では振遠隊の軍監をつとめた。明治初年、小松帯刀の斡旋で白峰駿馬(後述)と米国ラトガース大学へ留学した。帰国後は海軍少佐に就任し、退官後は福島県郡山で開拓事業に従事した。
- 高松太郎(1842~1898)
土佐国安芸郡安芸村の郷士・高松順蔵の長男として生まれる。母親が龍馬の姉・千鶴であったため、血縁上は龍馬の甥にあたる。
剣術を叔父と同じく日根野弁治に習ったほか、土佐勤皇党に加入した。
叔父とともに神戸の海軍操練所で航海術を学び、「社中」設立にも尽力。「海援隊」においては中堅幹部として活躍した。
薩長同盟にあたっては、近藤長次郎の補佐役を担う。1868年には権判事として箱館府に在勤。1871年には「坂本直」と改名し、龍馬の後継ぎとなった。
- 白峰駿馬(1847~1909)
越後長岡藩士・鵜殿瀬左衛門の三男として生まれる。16歳の時、脱藩して「白峰」の名字を名乗り、京都へ赴いたのち、江戸を訪ねた。
神戸の海軍操練所において龍馬と知りあい、閉塾後も龍馬と行動をともにする。「社中」ならびに「海援隊」では、その中心人物の一人として活躍し、野村辰太郎とともに太極丸の船将を務めた。龍馬横死時には、いち早く現場に赴いている。
明治初年には小松帯刀の斡旋で、千屋寅之助とともにラトガース大学やニューヨーク海軍造船所にて造船術を学ぶ。帰国後は海軍省の主船寮主船小匠司に就任し、洋式帆船の「白峰丸」を建造した。1878年、海軍省を辞し、自らの名前にちなんで「白峯造船所」を経営した。
- 中島作太郎(1846~1899)
土佐国高岡郡塚地村の郷士の家の子に生まれる。
1864年、同志の細木元太郎とともに脱藩し、長州に赴いた。この地で、八月十八日の政変により「都落ち」していた公卿・三条実美らの警護にあたっていた土佐出身の同志らと合流し、しばらくは土佐藩出身の同志と行動をともにすることが多かったとされる。
「社中」や「海援隊」への正式な時期は不明だが、1867年1月付の龍馬の書簡中にはすでにその名前が見えることが確認されている。「いろは丸事件」の際に紀州藩と交渉にあたった際には、多額の賠償金を得ることに成功している。
維新後は「中島信行」と名乗って太政官入りし、神奈川県令に就任した。自由党設立にあたって副総理に就任し、第一回衆議院議長を務め、外交官となった。
なお、かつて会津戦争に新政府軍の小隊長として出征し、会津藩家老の西郷頼母の長女・西郷細布子が自刃した際に介錯したと伝えられてきたが、高知県での郷土研究の結果、中島は戊辰戦争に従軍したことも、会津に行ったこともないことが明らかになっている。
この件に関しては、同じ土佐藩の「中島茶太郎」という人物と混同されて伝わった可能性が指摘されている。
【余談】
冒頭でも触れたとおり、同名の音楽グループが存在していた。
こちらは、リーダーの武田鉄矢が坂本龍馬の大ファンであったことから、こちらの海援隊にあやかって名付けたものである。
追記・修正は貿易を志し、日本の夜明けを夢見てからお願いします。
- J!O!D!AN! -- 名無しさん (2025-07-23 15:07:09)
- 海援隊は海援隊しかないから、(幕末)って付けなくてもいいんじゃないかな?音楽グループの方は、名前を借りてるだけだし、こっちが唯一にして正統な「海援隊」だろうから -- 名無しさん (2025-07-23 15:15:48)
- ページ名を変更しました。 -- makinomantaro (2025-07-23 15:19:57)
最終更新:2025年07月23日 20:31