海援隊

登録日:2025/07/23 Wed 14:46:12
更新日:2025/07/23 Wed 20:31:07NEW!
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海援隊とは、江戸時代後期、土佐脱藩浪士・坂本龍馬が結成した、日本初の株式会社として評価されている組織である。
同名の音楽グループに関しては、本項では扱わない。


概要

1867年(慶応3年)から1868年(慶応4年)までの間、私設海軍・貿易などを行うかたわら、薩摩藩などからの資金援助も受け、物資の運搬や貿易の仲介など運輸、開拓、本藩の応援、射利、投機、教育修行*1を行い、また隊においては自活運営、政治・商事活動をおこなった。


海援隊のたどった歴史

「社中」結成

慶応元年閏5月(1865年6月~7月)。勝海舟の結成した海軍士官養成機関・神戸海軍操練所が幕命により閉鎖したことに伴い、薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)*2や小松帯刀、商人小曾根(こそね)英四郎(えいしろう)の援助を得て、坂本龍馬と操練所の学生たちが長崎の亀山(現・長崎県長崎市伊良林地区)において海援隊の前身となる「亀山社中」が結成された。


従来まで、この「亀山社中」は「商社」のような活動を行っていたというのが通説であったが、2010年以降に幕末当時の史料の再検証が行われ、従来の説に一石を投じることとなった。
まず、結成当時の慶応元年閏五月に龍馬は長崎にいなかった可能性が浮上した。このグループの設置に立ち会ったのは、龍馬の甥・高松太郎と、操練所時代からの友人・近藤長次郎の両名であるとされる。
また、当時の呼称も「亀山社中」ではなく「社中」であったことが当時の文書から明らかになっている。
この「社中」の結成には、結成に際しては小松が近藤や高松らと同道して長崎入りし、「社中」の所属者には薩摩藩から一人3両2分が支給されたという。


「社中」は、スコットランドの貿易商人トーマス・グラバーの長崎代理店であった「グラバー商会」などと取引し、武器や軍艦などの兵器を薩摩藩名義で購入、長州藩が薩摩藩を経由して武器を購入する仲介を果たしたとされてきた。
しかし、グラバー商会から武器を買う交渉をした長州藩の伊藤俊輔(博文)は後年の回想で「鉄砲を買う方は直接外国人に買った」と述べ、同じく井上聞多(馨)は「薩摩藩との接触に高松・近藤らの紹介を経たが、『薩摩藩』名義の使用は小松帯刀との直接交渉で許しを得た」と述べている。
そうしたことから、「社中」の実態を「商社」ではなく、「薩摩藩名義で買い上げた軍艦を、薩摩の指示のもとで運航していた土佐の脱藩浪人の集団」とする見解が強まっている。


慶応元年7月、近藤は井上聞多とともに小松の帰国に同行し、薩摩藩に1か月近く滞在した。
井上の回想によれば、その間に近藤は大久保一蔵(利通)・桂久武・伊地知壮之丞などの薩摩藩の用人に面会し、
今こそ長州と手を組んで幕府に対抗し、政権を再び皇尊(すめらみこと)に政権を御返し申し上げたのち、この日本を統一して広く西洋諸国との交易をおこなうべきです
と語ったとされる。
そうして慶応二年(1866年)、薩摩藩と長州藩は「薩長同盟」を締結したのである。
薩長同盟締結後、近藤は、「長州藩が薩摩藩の名義で軍艦を購入し、乗組員の大半を「社中」の隊員とする。軍艦を長州藩が使わないときは、薩摩藩がそれを自由に使えるとする」という内容の条約、すなわち「桜島条約」を井上と作成し、薩摩藩の了解を得てこれを締結することに成功した。
話は少し前後するが、慶応元年10月、近藤はグラバーから借金して長崎にて軍艦ユニオン号を購入し、下関まで操縦してこれを長州藩士に披露した。
しかしここで、「すぐにでもその船を毛利家の船として使わせてくれ」と主張する長州藩に対して、近藤が「代金をお支払いいただけないのでしたら、この船をお渡しすることはできません」と突っぱね、両者が対立することとなった。
これが「ユニオン号事件」である。
この事件には別件で下関を訪れていた坂本龍馬が対処にあたり、長州藩に有利な内容の新条約を再締結することで、この事件は解決を見た。


話は、もどる。
慶応二年(1866年)5月。鹿児島に入港したユニオン号を譲渡先の長州藩に届けることになった。ここに龍馬が船長として乗り組み、6月4日に出港、14日に下関に到着した。
この頃すでに第二次長州征伐が始まっており、長州藩の「乙丑丸」となったユニオン号は、17日に高杉晋作率いる長州艦隊に協力して門司攻撃に参加し、これにより戦局は長州側に有利となり、勝利がほとんど確実なものとなった。
この第二次長州征伐を境に、龍馬は土佐脱藩浪士グループ・旧勝門人グループ・旧幕府水夫グループの統率者となった。
なお、薩摩藩側が当初「社中」メンバーに最も求めていた海軍の育成支援の必要性は、藩自体がそれらの事業に乗り出したために「薩長同盟」以降は薄れていき、海軍の育成支援の次に求めていた海運業や開拓といった機能を「社中」が担うようになる契機ともなった。
なお、前述の「薩摩藩からの、所属者の一人につき3両2分の給金の支払い」は同年10月から開始された。




始動、海援隊!

慶応3年(1867年)4月。坂本龍馬の脱藩の罪が許されて隊長となり、土佐藩に付属する外郭機関として「海援隊」と改称される。
海援隊は土佐藩の援助を受けたが、基本的には独立しており、脱藩浪人、軽格の武士はもちろん、庄屋、町民まで手広く受け入れていた。
「海援隊約規」においては「本藩を脱する者、および他藩を脱する者、海外の志のある者、この隊に入る」という採用基準が存在し、同規約において、業務活動としては「運輸、射利、投機、開拓、本藩の応援」と紹介されていた。
なお、この「射利」とは「利益の追求」という意味であり、このことは海援隊の「商社」としての存在意義を一層強めるものであった。
つまるところ、この「海援隊」は「商社」と「海軍」を兼ねた組織であり、また航海術や政治学、語学などを学ぶ「学校」としての顔も持ち合わせていた。


同年4月23日、紀州藩の軍艦「明光丸」と、海援隊所有の蒸気船「いろは丸」が瀬戸内海で衝突・沈没した事件が勃発した。「いろは丸事件」である。
この事件で海援隊は多額の損害を被り、龍馬は「万国公法」に記載された条項にのっとり、紀州藩に対して損害賠償を要求した。
当初は紀州藩側があくまでも非を認めず、交渉は難航したが、龍馬らは交渉に加え、外国人立ち会いのもと裁定を求めるなど近代的な手法をとった。
これにより、紀州藩が約8万両を賠償することで事件は解決をみた。この一件は、日本における近代的な民事訴訟の先駆ともいえる出来事として知られている。
なお、紀州藩に賠償を請求する際、龍馬ら海援隊は「ミニエー銃400丁など銃火器3万5630両や金塊など4万7896両198文を積んでいた」と主張したが、後年に複数回にわたって行われた調査では、重火器のたぐいは一切発見されなかった。
このことから、前述の主張は、海援隊が紀州藩から多額の賠償金を得るための「はったり」ではないかとする見方が存在する。
同年7月には、龍馬の同志である中岡慎太郎が武力討幕を目標に掲げた「陸援隊」を組織。中岡は「海援隊」と「陸援隊」を併せて翔天隊とする構想を練っていたという。




終焉、そして継承

同年11月15日。「海援隊」に衝撃が走った。隊長・坂本龍馬が同志・中岡慎太郎とともに、京都近江屋にて暗殺されたのである。
当初、「龍馬らの暗殺の黒幕は紀州藩の人物ではないか」という噂が海援隊・陸援隊の間に流れていた。龍馬の殺害動機が、前述の「いろは丸事件」において、海援隊への多額の賠償金の支払いを余儀なくされたことへの報復であると考えられたのである。
そうして海援隊隊員・陸奥陽之助は紀州藩公用人・三浦休太郎の殺害を計画した。陸奥は龍馬から大変目をかけられており、それだけに紀州藩への恨みを一層募らせていった。
同年12月7日、陸奥は十津川郷士*3・中井庄五郎や、沢村惣之丞、岩村精一郎、大江卓ら海援隊・陸援隊士総勢16名*4とともに、三浦休太郎と新選組隊士らが天満屋2階にて酒宴を行っていたところを襲撃した。
この時中井が三浦に斬りつけ、三浦は頬と顎を負傷した。海援隊・陸援隊と新選組は襲撃の報を聞きつけた新選組、紀州藩が援助に向かったものの、かれらが現場に着いた頃には陸奥らは素早くその場を引き揚げていた。


慶応四年正月。鳥羽・伏見の戦いの幕が切って落とされたのを皮切りに、「戊辰戦争」と呼ばれる一連の戦争が始まった。
長岡謙吉らの一派は天領である讃岐国の小豆島などを占領、千屋寅之助(菅野覚兵衛)らも、土佐藩上士で海援隊や坂本龍馬ら郷士の理解者であった佐々木高行に率いられて長崎奉行所を占領し、また小豆島においても幕府軍に勝利した。
同年4月、長岡は土佐藩より二代目海援隊長に任命された。長岡の一派は「梅花隊」に再編となるが、同年閏4月27日(6月17日)には藩命により「海援隊」は解散を余儀なくされた。
なお、海援隊並びに龍馬の支援者で、当時土佐藩開成館長崎商会に努めた岩崎弥太郎は海援隊の残務整理を担当した。


一方、長崎に渡った隊員は長崎遊撃隊を母体とする「振遠隊」に参加した。
隊員の石田英吉が同隊長に任命され、海援隊からは、野村辰太郎が軍監・司令官として、大山壮太朗が軍監・司令官として、千屋寅之助が軍監・司令官として、山本洪堂が医官として参加し、「振遠隊」における重要なポストを担った。
長崎に凱旋した振遠隊は論功行賞を賜り、特に隊長の石田は短刀一振金子2万疋の特勲恩賞を賜った。そうして、明治五年(1872年)を以て「振遠隊」は解散となった。


明治以降も、龍馬の「遺志」は脈々と引き継がれていった。
土佐藩首脳・林有造は海運業私商社として、後に三菱財閥の事業の源流となる後の九十九(つくも)商会(しょうかい)を設立した。
この商会の代表者は海援隊隊員で船舶の操縦経験のあった土居市太郎、長崎商会で貿易実務を経験していた中川亀之助、事業監督を担った岩崎弥太郎の3名であった。
また、龍馬は生前、蝦夷地開発事業に着手する計画を持っていた。
この計画を龍馬の甥で、前述の高松太郎の弟にあたる坂本(さかもと)直寛(なおひろ)が引き継ぎ、北海道空知管内浦臼町に入植し、開拓を行った。




隊員名簿

隊長・隊員の略歴、並びに名前の読みは宮崎十三八、安岡昭男編『幕末維新人名事典』(新人物往来社、1994)を参考とした。


【余談】

冒頭でも触れたとおり、同名の音楽グループが存在していた。
こちらは、リーダーの武田鉄矢が坂本龍馬の大ファンであったことから、こちらの海援隊にあやかって名付けたものである。






追記・修正は貿易を志し、日本の夜明けを夢見てからお願いします。

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最終更新:2025年07月23日 20:31

*1 政法・火技・航海・汽機・語学等を学ばせた

*2 操練所の講師を務めていたころ、勝は西郷に面会し、西郷の人柄を高く評価していた

*3 勤皇派の郷士で、海援隊や陸援隊とも親交があった

*4 15名説アリ

*5 なお、「海援隊」の活動を行う最中示した「船中八策」については後年の創作とする見方が強まっている

*6 名の読みを「たいこ」とする文献もある