トウカイテイオー(競走馬)

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&font(#6495ED){登録日}:2011/08/18(木) 15:31:42 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 7 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- #center(){&big(){&bold(){&color(whitesmoke,blue){『百折不撓』}}}} トウカイテイオーは、日本の競走馬。 幾度もの故障と挫折を乗り越え、競馬界の頂点に立った不屈の名馬である。 父:[[シンボリルドルフ>シンボリルドルフ(競走馬)]] 母:トウカイナチュラル 母父:ナイスダンサー 馬主:内村正則氏 調教師:松元省一(栗東) 通算成績:12戦9勝 主な勝鞍:皐月賞 東京優駿 ジャパンカップ 有馬記念 **【悲劇の名牝】 ---- トウカイテイオーの誕生から遡ること51年。 1頭の牝馬が東京優駿大競走―――日本ダービーをレコードタイムで制した。 牝馬のダービー勝利は日本競馬の歴史上初めてのことであり、その走りは&bold(){「無人の野を行くが如く」}&bold(){「空を駆ける豪脚」}と讃えられた。 同じく牝馬の身でダービーを制し、JRA顕彰馬となったクリフジでさえも敵わないと激賞された至高の名牝。 その名をヒサトモという。 ……しかし、その末路はあまりにも悲惨なものであった。 繁殖牝馬としては凡庸な仔しか出せず、ついには病気で繁殖能力を喪失。 戦後の混乱の中で競走に復帰させられ、酷使の末に倒れ伏し、そのまま息を引き取ったのである。 ダービーを制した至高の名牝は、人の都合に振り回された悲劇の名牝としてその名を記憶されることになってしまったのだった。 そして、ヒサトモの死から20年近くが経った1966年。 ヒサトモの第四仔であるブリユーリボンの仔、トツプリュウが1頭の牝馬を出産する。 この牝馬がひとりの馬主を動かし、競馬界に数々の奇跡を引き起こすこととなる。 **【名牝の血脈】 ---- トツプリュウの仔は当時気鋭の馬主であった内村正則氏に購買され、トウカイクインの名を与えられた。 当時すでにヒサトモの系統は断絶寸前だったが、トウカイクインは中央競馬で通算6勝という上々の結果を残す。 これによって内村氏は競馬に深い興味を抱き、そしてトウカイクインの曾祖母―――ヒサトモの存在を知った。 #center(){ &bold(){&color(#0000ff){「この系統は、いつかきっと大物を出す」}} } 内村氏は私財を投じ、ヒサトモの血を引く牝馬を買い集めた。悲劇的な最期を迎えた名牝の血が、再び日本競馬の頂点を極める日を夢見て。 その情熱は10数年の後に結実。トウカイクインの孫であるトウカイローマンがオークスを制し、内村氏にクラシック制覇の栄光をもたらした。 そして、トウカイローマンの引退レース―――新潟大賞典からトウカイテイオーの物語はスタートする。 **【無敗の二冠馬】 ---- トウカイローマンの引退にあたり、内村氏はひとつの夢を思い描いていた。 無敗でクラシック三冠を制し、&bold(){「皇帝」}と称された七冠馬、シンボリルドルフとの交配である。 種付けの権利も確保し、あとは無事に引退するだけ……だったのだが、なんとトウカイローマンはこの新潟大賞典を2着と激走。 引退は冬まで延期となり、せっかくの種付け権が宙に浮いてしまう事態になってしまった。 内村氏は思案の末、代役を立てることを決定。トウカイローマンの半妹であり、一足先に繁殖入りしていたトウカイナチュラルに白羽の矢が立った。 そして1988年4月20日、北海道新冠の長浜牧場。 いくつもの奇跡と偶然が重なった末に、トウカイテイオーは生を受けた。 当初は華奢な体つきで見栄えも悪く、それほど高い評価は受けていなかったという。 そして2歳(当時)になった頃、トウカイテイオーはちょっとした事件を起こす。 &font(#ff0000){130cmもある柵を飛び越えてしまった}のである。 一歩間違えば骨折、最悪予後不良の事態だったが、当の本人は怪我するどころか元気よく走り回り、そして何事もなかったかのようにまた柵を飛び越え、 放牧地に戻っていった。 並外れた柔軟性とすさまじい瞬発力を兼ね備えていたからこそできた芸当であろう。 その後のトウカイテイオーは順調に育ち、松元省一調教師の元に預けられた。 松元師はこの馬ならクラシックを狙えると確信し、出入りの装蹄師も「ダービー馬が来たな」と口にしたという。 トウカイテイオーもその期待に応え、皐月賞までの4戦を無敗で、しかも鞭を一発も入れずに完勝。 本番の皐月賞では、重賞未勝利にもかかわらず3歳(当時)王者イブキマイカグラを抑えての1番人気に支持された。 レースでは先行策を取り、直線早めに抜け出して押し切る横綱相撲で完勝。 鞍上の安田隆幸騎手は記念撮影の馬上で人差し指を挙げ、事実上の三冠奪取宣言を行った。 続く日本ダービーも直線大外から抜け出し、レオダーバンに3馬身差をつけての完勝。 見事に&font(#0000ff){無敗の二冠馬}となった。 ダービーの勝ちっぷりはシンボリルドルフをも上回るものであり、親子による無敗のクラシック三冠達成はもはや確定的とみられていた。 年末の有馬記念においては最強古馬メジロマックイーンとの対決も見込まれ、ファンの期待は膨らむ一方であった。 ……しかし、ダービー勝利の僅か3日後、陣営から絶望的な発表が成される。 &bold(){「左第3足根骨骨折・全治6か月」} 帝王の身体を苛む、終わりのない苦難の始まりであった。 **【挫折した天才】 ---- 翌1991年、骨折の癒えたトウカイテイオーは大阪杯から始動。 海外遠征に備え、鞍上は海外経験の豊富な岡部幸雄騎手に乗り替わった。 レースはまたも鞭を使わずの完勝。大目標である天皇賞(春)に向けて上々の滑り出しを見せた。 天皇賞(春)ではついにメジロマックイーンとの対決が実現。 岡部騎手が「地の果てまで駆けていく馬」と語れば、メジロマックイーンの主戦騎手を務める武豊騎手が「こっちは天まで昇っていく馬」と反駁。 レース前から大いに対決ムードが盛り上がった。 当日はトウカイテイオーが単勝1.5倍の1番人気。メジロマックイーンは単勝2.2倍の2番人気となった。 ……しかし、レースはメジロマックイーンの圧勝。 トウカイテイオーは直線失速し、メジロマックイーンから10馬身近く離されての5着に終わった。 無敗の二冠馬が味わう初めての敗北であり、そして初めての明確な挫折であった。 実際のところ、天皇賞(春)がトウカイテイオーにとって適距離のレースでなかったことは明らかであり、ファンからは宝塚記念での再戦を望む声が多く上がった。 しかし、レース後に両馬共々骨折が判明。その後も互いの状況が嚙み合わず、結局この2頭が再びレースで相まみえることはなかった。 トウカイテイオーは同年の9月に復帰。 調整が思うようにいかず、天皇賞(秋)は前哨戦なしのぶっつけ出走になってしまう。 レースではメジロパーマーとダイタクヘリオスが作り出した&font(#ff0000){1000メートル57秒}という殺人的なハイペースに折り合いを欠き、 掲示板すら外す7着に敗退する。 この時点で、トウカイテイオーは&bold(){「もう終わった」}馬と見なされるようになった。 度重なる故障と府中2000mでの無様な敗戦は、トウカイテイオーの力落ちを示すに十分な説得力があった。 無敗の二冠についても、&bold(){「世代のレベルが低かっただけ」}と言われるようになっていた。 数多ある前例と同じように、トウカイテイオーもこのまま消えていくものと思われた。 ……しかし、挫折した天才の反抗は、ここから本番を迎えるのである。 **【復活と更なる苦難】 ---- 続くジャパンカップだが、この年から国際G1に認定された影響か、海外からはユーザーフレンドリなどといった当時の欧州やアメリカを代表する実力馬が参戦。 それに対し、日本のG1馬はトウカイテイオーのみであり、外国馬による上位独占は確実で、日本馬の出番はないというのがファンや関係者達の予想だった。 しかし、その予想の反しテイオーは残り200メートルで先頭に立つと、追撃してくるナチュラリズムを振り切り優勝。 父ルドルフ以来となる日本馬によるジャパンカップ制覇、そして記念すべき初の国際G1ホースとなりついに復活を果たした。   しかし、次走の[[有馬記念>1992年第37回有馬記念]]で再びテイオーに苦難が降りかかった。 まず主戦の岡部騎手が騎乗停止で急遽田原成貴騎手に乗換。 さらにレース中に腰を痛めてしまい1生涯最悪の11着と大敗してしまった。 **【奇跡の復活】 翌年も宝塚記念で復帰を予定していたが再び骨折が判明し、復帰は年末の有馬記念にまでずれ込んだ。 [[この年の有馬記念>1993年第38回有馬記念]]はトウカイテイオーを含め8頭のG1ホースが出走する豪華な顔ぶれだった。 主戦の岡部騎手は1年ぶりのブランク、そして既にテイオーは終わったと判断し、有馬記念ではビワハヤヒデを選択。 替わりに手綱を取ったのは昨年の有馬でコンビを組んだ田原騎手だった。   レースは昨年の覇者メジロパーマーが逃げる展開となりビワハヤヒデは4番手に位置しそのビワハヒデをマークするようにトウカイテイオーが6番手につけた。 そして、最終コーナー出口でビワハヤヒデは先頭に踊りだしそのまま押し切る体制に入った。 誰もがビワハヤヒデの勝利を確信した瞬間……。 #center(){大外から鹿毛の馬…そう、トウカイテイオーが追い込んできたのだ…} まるで1年近くのブランクを感じさせない走りで残り100メートルでビワハヤヒデを交わすと、そのまま半馬身差でゴール。 前走の有馬記念から364日ぶりの勝利に中山競馬場か歓喜の渦に包まれ、按上の田原騎手は涙を流した。 岡部騎手もまた「トウカイテイオーに負けて悔しくないか?」という記者の問いに対して、 「そんなことはない、負けるんならテイオーに負けたほうがいい」と答えている。 翌年も現役を続行したが再び骨折、これ以上の現役続行は不可能と判断し引退が決まった。 もし無事であれば、ビワハヤヒデとの再戦だけでなく、ビワハヤヒデの弟で三冠馬ナリタブライアンとの対決もあっただけに惜しまれる引退だった。 引退後は社台ファームで種牡馬生活を送っているが、[[サンデーサイレンス]]産駒の猛威もあり成績はあまりいいものではなく、 23歳になった現在も残念ながら後継種牡馬はまだ出ていない。 (G1勝ち馬にトウカイポイントと[[ストロングブラッド>ストロングブラッド(競走馬)]]がいるが前者は現役中に気性改善のため、後者も乗馬になるのに伴い去勢してしまっている) 追記・修正はサードステージに勝ってからでお願いします #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,3) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - 結局死んじまったな……親父共々 -- 名無しさん (2013-10-09 20:38:36) - どうでもいいけどビワハヤヒデがビワハヒデになってる。しかし勝ちパターンに持ち込んでいたビワハヤヒデを1年ぶりのレースで捻じ伏せたあのシーンは感動した。(リアルで見ていないけど) -- 名無しさん (2015-02-05 02:17:46) #comment #areaedit(end) }
&font(#6495ED){登録日}:2011/08/18(木) 15:31:42 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 7 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- #center(){&big(){&bold(){&color(whitesmoke,blue){『百折不撓』}}}} トウカイテイオーは、日本の競走馬。 幾度もの故障と挫折を乗り越え、競馬界の頂点に立った不屈の名馬である。 父:[[シンボリルドルフ>シンボリルドルフ(競走馬)]] 母:トウカイナチュラル 母父:ナイスダンサー 馬主:内村正則氏 調教師:松元省一(栗東) 通算成績:12戦9勝 主な勝鞍:皐月賞 東京優駿 ジャパンカップ 有馬記念 **【悲劇の名牝】 ---- トウカイテイオーの誕生から遡ること51年。 1頭の牝馬が東京優駿大競走―――日本ダービーをレコードタイムで制した。 牝馬のダービー勝利は日本競馬の歴史上初めてのことであり、その走りは&bold(){「無人の野を行くが如く」}&bold(){「空を駆ける豪脚」}と讃えられた。 同じく牝馬の身でダービーを制し、JRA顕彰馬となったクリフジでさえも敵わないと激賞された至高の名牝。 その名をヒサトモという。 ……しかし、ヒサトモの末路はあまりに悲惨なものであった。 繁殖牝馬としては凡庸な仔しか出せず、ついには病気で繁殖能力を喪失。 戦後の混乱の中で競走に復帰させられ、酷使の末に倒れ伏し、そのまま息を引き取ったのである。 ダービーを制した至高の名牝は、人の都合に振り回された悲劇の名牝としてその名を記憶されることになってしまったのだった。 そして、ヒサトモの死から20年近くが経った1966年。 ヒサトモの第四仔であるブリユーリボンの仔、トツプリュウが1頭の牝馬を出産する。 この牝馬がひとりの馬主を動かし、競馬界に数々の奇跡を引き起こすこととなる。 **【名牝の血脈】 ---- トツプリュウの仔は当時気鋭の馬主であった内村正則氏に購買され、トウカイクインの名を与えられた。 当時すでにヒサトモの系統は断絶寸前だったが、トウカイクインは中央競馬で通算6勝という上々の結果を残す。 これによって内村氏は競馬に深い興味を抱き、そしてトウカイクインの曾祖母―――ヒサトモの存在を知った。 #center(){ &bold(){&color(#0000ff){「この系統は、いつかきっと大物を出す」}} } 内村氏は私財を投じ、ヒサトモの血を引く牝馬を買い集めた。悲劇的な最期を迎えた名牝の血が、再び日本競馬の頂点を極める日を夢見て。 その情熱は10数年の後に結実。トウカイクインの孫であるトウカイローマンがオークスを制し、内村氏にクラシック制覇の栄光をもたらした。 そして、トウカイローマンの引退レース―――新潟大賞典からトウカイテイオーの物語はスタートする。 **【無敗の二冠馬】 ---- トウカイローマンの引退にあたり、内村氏はひとつの夢を思い描いていた。 無敗でクラシック三冠を制し、&bold(){「皇帝」}と称された七冠馬、シンボリルドルフとの交配である。 種付けの権利も確保し、あとは無事に引退するだけ……だったのだが、なんとトウカイローマンはこの新潟大賞典を2着と激走。 引退は冬まで延期となり、せっかくの種付け権が宙に浮いてしまう事態になってしまった。 内村氏は思案の末、代役を立てることを決定。トウカイローマンの半妹であり、一足先に繁殖入りしていたトウカイナチュラルに白羽の矢が立った。 そして1988年4月20日、北海道新冠の長浜牧場。 いくつもの奇跡と偶然が重なった末に、トウカイテイオーは生を受けた。 当初は華奢な体つきで見栄えも悪く、それほど高い評価は受けていなかったという。 そして2歳(当時)になった頃、トウカイテイオーはちょっとした事件を起こす。 &font(#ff0000){130cmもある柵を飛び越えてしまった}のである。 一歩間違えば骨折、最悪予後不良の事態だったが、当の本人は怪我するどころか元気よく走り回り、そして何事もなかったかのようにまた柵を飛び越え、 放牧地に戻っていった。 並外れた柔軟性とすさまじい瞬発力を兼ね備えていたからこそできた芸当であろう。 その後のトウカイテイオーは順調に育ち、松元省一調教師の元に預けられた。 松元師はこの馬ならクラシックを狙えると確信し、出入りの装蹄師も「ダービー馬が来たな」と口にしたという。 トウカイテイオーもその期待に応え、皐月賞までの4戦を無敗で、しかも鞭を一発も入れずに完勝。 本番の皐月賞では、重賞未勝利にもかかわらず3歳(当時)王者イブキマイカグラを抑えての1番人気に支持された。 レースでは先行策を取り、直線早めに抜け出して押し切る横綱相撲で完勝。 鞍上の安田隆幸騎手は記念撮影の馬上で人差し指を挙げ、事実上の三冠奪取宣言を行った。 続く日本ダービーも直線大外から抜け出し、レオダーバンに3馬身差をつけての完勝。 見事に&font(#0000ff){無敗の二冠馬}となった。 ダービーの勝ちっぷりはシンボリルドルフをも上回るものであり、親子による無敗のクラシック三冠達成はもはや確定的とみられていた。 年末の有馬記念においては最強古馬メジロマックイーンとの対決も見込まれ、ファンの期待は膨らむ一方であった。 ……しかし、ダービー勝利の僅か3日後、陣営から絶望的な発表が成される。 &bold(){「左第3足根骨骨折・全治6か月」} 帝王の身体を苛む、終わりのない苦難の始まりであった。 **【墜ちた天才】 ---- 翌1991年、骨折の癒えたトウカイテイオーは大阪杯から始動。 海外遠征に備え、鞍上は海外経験の豊富な岡部幸雄騎手に乗り替わった。 レースはまたも鞭を使わずの完勝。大目標である天皇賞(春)に向けて上々の滑り出しを見せた。 天皇賞(春)ではついにメジロマックイーンとの対決が実現。 岡部騎手が「地の果てまで駆けていく馬」と語れば、メジロマックイーンの主戦騎手を務める武豊騎手が「こっちは天まで昇っていく馬」と反駁。 レース前から大いに対決ムードが盛り上がった。 当日はトウカイテイオーが単勝1.5倍の1番人気。メジロマックイーンは単勝2.2倍の2番人気となった。 ……しかし、レースはメジロマックイーンの圧勝。 トウカイテイオーは直線失速し、メジロマックイーンから10馬身近く離されての5着に終わった。 無敗の二冠馬が味わう初めての敗北であり、そして初めての明確な挫折であった。 実際のところ、天皇賞(春)がトウカイテイオーにとって適距離のレースでなかったことは明らかであり、ファンからは宝塚記念での再戦を望む声が多く上がった。 しかし、レース後に両馬共々骨折が判明。その後も互いの状況が嚙み合わず、結局この2頭が再びレースで相まみえることはなかった。 トウカイテイオーは同年の9月に復帰。 調整が思うようにいかず、天皇賞(秋)は前哨戦なしのぶっつけ出走になってしまう。 レースではメジロパーマーとダイタクヘリオスが作り出した&font(#ff0000){1000メートル57秒}という殺人的なハイペースに折り合いを欠き、 掲示板すら外す7着に敗退する。 この時点で、トウカイテイオーは&bold(){「もう終わった馬」}と見なされるようになった。 度重なる故障と府中2000mでの無様な敗戦は、トウカイテイオーの力落ちを示すに十分な説得力があった。 無敗の二冠についても、&bold(){「世代のレベルが低かっただけ」}と言われるようになっていた。 さすがにこれは暴論としても、一度の敗北で心を折られ、力を発揮できなくなった馬は枚挙に暇がない。 数多ある前例と同じように、トウカイテイオーもこのまま消えていくものと思われた。 ……しかし、墜ちた天才の反攻は、ここから本番を迎えるのである。 **【天才の証明】 ---- 1992年11月29日。 この日は日本競馬にとって特別な一日となった。 「世界に通用する強い馬づくり」を目標として設立された国際招待競走、ジャパンカップ。 この年よりジャパンカップは&bold(){国際G1}に指定され、世界中から強豪馬が集結していた。 イギリス二冠牝馬のユーザーフレンドリーを筆頭に、英ダービー馬のドクターデヴィアスとクエストフォーフェイム、オーストラリアの年度代表馬レッツイロープなど、 レース史上最高とも言われるメンバーが揃い踏みする中、トウカイテイオーは日本馬の総大将としてレースに臨んだ。 ……もっとも、これはトウカイテイオーの実力が評価されたからではない。 この年のジャパンカップ出走馬の中でG1を勝利しているのはトウカイテイオーのみであり、言ってしまえば「消去法」で大将に祭り上げられただけであった。 単勝オッズは屈辱の10.0倍。外国馬による上位独占は確実で、日本馬の出番はまず考えられない。 せめて無様な姿だけは晒してくれるなというのが、かつてトウカイテイオーに夢を見たファンたちの本音であったかもしれない。 レースが始まると、トウカイテイオーは4~5番手をスムーズに追走。 直線馬なりのままで位置を押し上げ、残り200mで一気に加速。最内に進路を取ったオーストラリアのG1馬、ナチュラリズムに馬体を併せる。 激しい叩き合い。残り50m。 名手岡部の気合に応え、トウカイテイオーはライバルからクビ差抜け出し、栄光のゴールへと飛び込んだ。 &bold(){トウカイテイオー、復活の勝利。} 日本馬のジャパンカップ制覇はシンボリルドルフ以来の快挙であり、同時にトウカイテイオーは&font(#0000ff){日本競馬史上初の国際G1馬}となった。 もう終わったとさえ言われた馬が、海外の強豪から日本の看板を守り抜き、世界一の称号を勝ち取ったのである。 あまりにも鮮やかな復活劇にファンは酔いしれ、挙って賛辞を贈った。 挫折から這い上がり、再び頂点を掴む。 トウカイテイオーの物語は、このまま大団円を迎えるものと思われた。 ……しかし、運命の神はトウカイテイオーにまたも苦難を与える。 **【暗転する運命】 ---- 凱旋出走となった[[有馬記念>1992年第37回有馬記念]]。 もはやトウカイテイオーの実力を疑う声はなく、当日は単勝2.4倍の1番人気に推された。 岡部騎手が騎乗停止となっていたため、鞍上が田原成貴騎手に乗り替わるハプニングこそあったが、追い切りの動きは非常によく、 勝利に向けての不安要素はないものと思われていた。 レースが始まると、因縁のメジロパーマーとダイタクヘリオスがまたも爆走。 トウカイテイオーをマークする他馬を尻目にガンガン飛ばし、15馬身以上のリードを取って直線に入る。 粘るダイタクヘリオスを競り落とし、メジロパーマーが脚を伸ばす。いち早くエンジンをかけ、追い上げにかかるレガシーワールド。 前半の貯金を最大限に活かし、メジロパーマーはハナ差粘り込んでグランプリを制圧した。 トウカイテイオーは一切の見せ場なく後方に沈み、11着と大敗した。 &bold(){挫折から這い上がり、再び頂点へと舞い戻った天才が、再びどん底へと叩き落とされた瞬間であった。} **【奇跡の復活】 ---- トウカイテイオーは宝塚記念での復帰を目標とし、鹿児島県の牧場で休養を取る。 しかしレース直前、通算&bold(){三度目}となる骨折が判明。 復帰は年末の有馬記念にまでずれ込んだ。 [[この年の有馬記念>1993年第38回有馬記念]]はメンバーが揃い、トウカイテイオーを含め8頭のG1馬が出走するという豪華な顔ぶれとなった。 かつて主戦を務めた岡部騎手はトウカイテイオーを見限り、当年の菊花賞馬ビワハヤヒデを選択。 代わりにトウカイテイオーの手綱を取ったのは、昨年の同レースでコンビを組んだ田原騎手であった。 当日はビワハヤヒデが単勝3.0倍の1番人気。 1年ぶりの出走となったこともあり、トウカイテイオーは単勝9.4倍の4番人気に甘んじた。 ……「豪華な顔ぶれ」と書いたのだが、実情は少し異なる。 当時はまだ秋競馬で4戦以上を使うのが当たり前であり、多くの馬が使い詰めで有馬記念に臨んでいた。 特にジャパンカップ組の出来落ちは明らかであり、悪い意味で「どれを買ったらいいかわからない」と嘆くファンも多かったという。 そうした中でただ1頭、全身に闘志を漲らせ、元気一杯にパドックを闊歩する馬がいた。 馬場に入ってもそれは変わらず、解説を務めていた有名競馬評論家は以下の発言を残している。 #center(){&font(#ff0000){「喜びに満ちた、いい返し馬をしていますよ」}} ……果たして何人のファンが、その言葉を真剣に受け止めていたのだろうか? レースでは昨年の覇者メジロパーマーがやはり爆走。 ビワハヤヒデは4番手、トウカイテイオーは6番手につけて折り合い、レースを進めた。 直線に向いたところでメジロパーマーは失速。ビワハヤヒデが堂々先頭に立つ。 誰もがビワハヤヒデの勝利を確信した瞬間――― #center(){&font(#0000ff){「外側から、トウカイテイオーも来ている!」}} 赤い帽子に栗毛の馬体。 もはや復活できようもなかったはずの馬、トウカイテイオーが力強く脚を伸ばしてきたのだ。 粘るビワハヤヒデを見事に捉え、半馬身差し切ってのゴールイン。 &bold(){トウカイテイオー、奇跡の復活。} 中364日という超長期休養を乗り越えてのG1勝利である。 中山競馬場は歓喜の渦に包まれ、鞍上の田原騎手は人目をはばからず涙を流した。 翌年も現役を続行したが、四度骨折を発症。 これ以上の現役続行は不可能と判断され、引退が決まった。 &bold(){関係者、そしてファンからの評価は極めて高い。} ヒサトモから続くドラマ性ある血統、優れた容姿、無敗で二冠を制した天才性―――そしてなにより、 &bold(){挫折のたびに輝きを増して復活する姿}が圧倒的な支持を受けた。 G1勝利こそ4つ止まりだが、その才能は父馬になんら劣るものではなかったとされる。 度重なる故障により、順調な競走馬生活を送れなかったことが大いに悔やまれる。 引退後は社台ファームで種牡馬生活を送っているが、[[サンデーサイレンス]]産駒の猛威もあって成績は芳しくなく、 残念ながら後継種牡馬は出ていない。 (G1勝ち馬にトウカイポイントと[[ストロングブラッド>ストロングブラッド(競走馬)]]がいるが、前者は現役中に気性改善のため、後者も乗馬になるのに伴い去勢してしまっている) 追記・修正はサードステージに勝ってからでお願いします。 #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,3) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - 結局死んじまったな……親父共々 -- 名無しさん (2013-10-09 20:38:36) - どうでもいいけどビワハヤヒデがビワハヒデになってる。しかし勝ちパターンに持ち込んでいたビワハヤヒデを1年ぶりのレースで捻じ伏せたあのシーンは感動した。(リアルで見ていないけど) -- 名無しさん (2015-02-05 02:17:46) #comment #areaedit(end) }

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