数学的構成主義

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&font(#6495ED){登録日}:2010/09/07(火) 12:49:49
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突然だが、この項目をご覧の紳士淑女の皆様方の中には「数学なんて大嫌い!」という方も多い事だろう。
ぶっちゃけ大学で学ぶ理系の学生でも、数学特有の概念や考え方が肌に合わず理解不能に陥るなんて事は日常茶飯の出来事。
なので数学が難しいというのは恥ずかしい事でもなんでもなく、そんなの当たり前の話なのである。

では、少し話を変えて、こんな風に考えた事はないだろうか?

「数学が自分の分かる範囲だけだったらいいのに……」と。

自分が分かんない所なんか飛ばしてしまえればこれほど楽な事は無い。
理解できない範囲なんかやる必要無いじゃないか、と。

そんな都合の良い数学なんてある訳が……と思いきや、実はそれを可能とする数学というか主義主張があるにはあるのである。
「構成的な数学」を信奉し、自分が認める範囲の数学のみを妥協し、それ以外を「構成的でない」と排他する主義……
人、それを『数学的構成主義』という。
この数学的構成主義、結果的にはこのような独善的な発想に繋がりかねない考え方に落ち着いてはいるが、
かつて数学という学問が立ち行かなくなりかけた際に登場した、ある意味で画期的な考え方であった。

以下では、この一見不思議な考え方である「数学的構成主義」について記述する。


・数学は完全ではなかった
さて、我々が習った(ている)数学という学問は、大昔から多くの人達が培って来た理論の集大成である。

ここで少々昔話となるが、
数学という学問は19世紀に入った頃、数や関数を始めとした諸概念を全部集合の概念で表すようになっていった。
これは、「多様化しつつあった数学にも全数学が共通して基づく基盤があってもおかしくない」、
「実際に集合論がその基盤になりそうだ」と当時の数学者たちが考え至ったためである。

このような流れになった背景には、二人の数学者の影があった。
まずデデキントという偉いおっちゃんが今まで暗黙の了解的に使って来た『実数』の概念をちゃんと定義し直した。
次に、その友達であるカントールというこれまた偉いおっちゃんが、デデキントの定義した実数を基に集合論を導いた。
これによって集合論というものが世に広まったのだ。まさに数学者の歴史である。
 
このように、19世紀は数学が集合論を基にさらなる飛躍を遂げる希望に満ちた時代となるはずだった……のだが、残念ながらそうはならなかった。
実は上記のカントールの唱えた集合論に、致命的な欠陥が見つかってしまったのである。
その欠陥とは、ラッセルというまたもや偉いおっちゃんが見つけた「ラッセルのパラドックス」である。
(ちなみに、数ある指摘の中で最も強烈で有名になったのがラッセルのパラドックスだったというだけで、
ラッセル以外にも多くの数学者が集合論の問題点を指摘している。
それは集合論を唱えたカントール自身も例外ではなかった。
彼は「カントールのパラドックス」として自分自身の生み出した集合論の欠陥を指摘しているのである。)

この「ラッセルのパラドックス」によって上記の集合論はおろか、今までの数学はめちゃくちゃにぶっ壊されてしまったのだ。

ここで、このラッセルのパラドックスに興味ある人も多いと思うので簡単に説明する。
まず、カントールの作り上げた集合論というものは、大まかには「集合は数式であれば任意」という定義しかなかった。

つまり余計な制限が無いため、いくらでも自分で好きな大きさの集合を好きなだけ定義できるという、実にパワフルな理論だったのだ。

だが、ここにラッセルが『待った』をかけた。
 
ラッセル「ねーねー、自分自身を含まない集合ってさ、自分自身を含んでるの?含んでいないの?」

この問いの意味をかいつまんで説明すると、
要は「『集合の集合』は集合ではない」と指摘したのである。

このパラドックスは、次の問題から生じる。
(以下は懐かしきアニヲタを儚んでのギャグなので、詳しく知りたい方は『床屋のパラドックス』でググってほしい)
「あるアニヲタの集いでたった一人の尻穴の冥殿は、
自分で尻穴を拡張しない人全員のアレを受け入れ、
それ以外の人(自分で尻穴を拡張する人)のアレは受け入れない。
この場合、冥殿自身のアレは誰が受け入れるのだろうか?」

冥殿が自分のアレを受け入れなければ、彼は規則に従って、自分のアレを自分で受け入れなくてはいけなくなり、矛盾が生じる。
しかし、冥殿が自分のアレを受け入れるならば、「自分で尻穴を拡張しない人全員のアレを受け入れる」という規則に矛盾する。
したがって、この規則はどちらにしても矛盾してしまうことになる。

これは数式的に書けばもっとはっきりする。
もしも、冥殿が冥殿のアレを受け入れるとすると次のような問題を起こすのだ。
冥殿={冥殿,自分で尻穴を拡張しない人のアレ}
冥殿={{冥殿,自分で尻穴を拡張しない人のアレ},自分で尻穴を拡張しない人のアレ}(∵冥殿={冥殿,自分で尻穴を拡張しない人のアレ})
冥殿={{{冥殿,自分で尻穴を拡張しない人のアレ},自分で尻穴を拡張しない人のアレ},自分で尻穴を拡張しない人のアレ}(∵冥殿={冥殿,自分で尻穴を拡張しない人のアレ})
冥殿={{{{冥殿,自分で尻穴を拡張しない人のアレ},自分で尻穴を拡張しない人のアレ},自分で尻穴を拡張しない人のアレ},自分で尻穴を拡張しない人のアレ}(∵冥殿={冥殿,自分で尻穴を拡張しない人のアレ})
(以下略)
と、この集合は冥殿という冥殿が冥殿のアレを受け入れられる存在(集合を作れる集合)によって無限に発散していく。
これが、明らかにおかしい自体であることは明白であろう。

つまり、カントールの集合論は好きな大きさの集合をいくらでも作れる(つまり集合の集合を構成できる)という点で明らかにおかしいのである。

19世紀の時代の数学は(カントールの)集合論を基に全てを表すようになっていた。
つまり、基盤に矛盾のある集合論を用いる事ができるという事は、既存の数学そのものに矛盾が存在してしまっているという事に他ならなかったのだ。
これは有史以来の前代未聞の大危機であった。


・なぜ数学的構成主義は生まれたか
ラッセルのパラドックスが世に出た後、数学者達はその矛盾を解消するためにそれぞれの手法を編み出し、大きく分けて3つの派閥に分かれてしまった。
1つ目が、数学に型(タイプ)という概念を持ち込み、この型の違いによって矛盾を排除しようとしたタイプ理論。
2つ目が、厳密に集合というものを定義し矛盾を排除しようと試み、最も多数派であった公理的集合論。
3つ目が最も少数派で、最も哲学的で、「構成主義者が2人揃えば構成主義は崩壊する」とまで言われた数学的構成主義である。

この数学的構成主義が生まれた背景にはブラウワーという、これまたとっても偉い数学者のおっちゃんの存在があった。
このおっちゃんは考えた。なぜ、集合論に矛盾が生じるのかを。
彼はその原因を今まで数学の世界で暗黙の了解であった「排中律」(後述)の概念だとし、徹底的に批判したのだ。
そして「数学の証明は構成的な数学によってのみ行われるべきだ」として数学的構成主義を唱えたのである。

ここで、構成的な数学とは、誤解を恐れずに言えば「実際に全ての結果や理論内容が観測・確認されなければその理論や考え方は信じない」とする数学のことである。
簡単に言い換えると、「全部の答えと解法の中身が見えていない数学は認められない」とする考え方である。
実数を扱うならば全ての実数を示さないとならないし、極限を認めるためにはある値に収束するまでの値の変化を全て示さないとならない、つまり「構成主義」とは自分の手で触れるものしか扱わないのだ。
もちろん帰納法的な発想……つまりn番目、n+1番目というようなパターン的思考もNG。
言わずもがなかなりぶっ飛んだ考え方である。

なぜ、こんな突拍子もない考え方が生まれたかと言えば、それは上記のもう一つの聞きなれないワード「排中律」に関連する。
排中律とは、論理学の言葉で『Aであるか、またはAでない』という、あるかないか、イエスかノーかのような2つの論理式から解法を求める事を指す。
数学においては特に背理法の際にお世話になるのだが、実はブラウワーという数学者の最も嫌ったものがこの『背理法』であり、
彼は無限集合を舞台とする証明において排中律が用いる事を頑なに批判したという。

というのも
「ある命題Aが『Aであるか、またはAでない』という二元論に果たして分けられるのだろうか?
AであるかAでないかが分からない場合もあるのでは?」
という疑問が拭えなかったからだ。

実際彼は、ある命題が2つに分けられない例として、「円周率の無限小数の中に0が100個続く部分があるかどうか分からない」という例を挙げたとされている。
(またこれに続くエピソードとして、「しかし神なら100個続く部分があるかどうか分かるのでは?」という質問を受け、
それに対して「残念ながら我々は神と交信する方法を知りません」と答えたという。)

結局ブラウワーによる排中律への疑念が、このような主義を生むきっかけとなり、その後世に広まって行ったのだ。

・数学的構成主義のあれこれ
以上のように、数学的構成主義は従来の数学が持っていた不安要素を無くそうといった考え方から出発をしている大変素晴らしい考え方ではあるのだが、
いかんせん哲学的でありすぎるため色々ネタ要素を含んでいる。
特に、上記の「構成主義者が2人揃えば構成主義は崩壊する」という点はその筆頭であろう。

上記のような厳格な数学的構成主義を信奉するお方は、恐らくいないだろう。
というのも、実数すらまともに使えないと算数並のことしかできないので、多くの場合構成主義者の構成主義への厳格さは人によってまちまちなのだ。
なので
「俺は実数くらいなら許してやるぜ!」
とか
「微積分無いと話にならないからそれくらいは許してよ」
のような差が生まれてしまうのだ。

つまり、主義としての基盤が人それぞれに差があるため、同じ「数学的構成主義者」を名乗っていても、
その厳格さの違いから、議論はおろか構成主義自体も崩壊しかねないのである。

数学の持つイメージからすると、ずいぶんとまぁユニークである。

それと、冒頭のように自分にとって都合の良い数学しか信じないという程度の意味で「数学的構成主義者」を名乗るのは自由だし、ネタにもなると思われるが、
上述の通りこの数学的構成主義とは、数学に本当に深い造詣があった人間が真理を追究しようという過程で辿り着いたある種の極みであるという事だけは忘れないで頂きたい。





追記・修正は構成的な手法を以ってお願いします。



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- 懐かしさのあまり調子に乗って加筆修正した。反省はあんまりしていない。  -- この項目を書いた人  (2013-06-29 16:47:18)
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