斎藤一諾斎

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&font(#6495ED){登録日}:2011/05/21(土) 01:24:39
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斎藤一諾斎(1813年〜1874年)は、幕末期の僧侶で新選組隊士。

一諾斎は幕臣の家に生まれたが、6歳の時に浅草今戸潮江院住職の養子となり出家、秀全と号す。
18歳から駒込吉祥寺で修行。諸国を巡る。
29歳で潮江院住職となる。
以降、一諾斎は数々の寺の住職を歴任。僧侶として穏やかな人生を歩んでいた。

転機は1868年、新選組との出会いだった。
当時甲斐国の全福寺に身を置いていた一諾斎は、甲陽鎮撫隊と名を変えた新選組の協力要請を受ける。
一諾斎は申し出を「一諾」し、物資の提供等を行う。
(この「一諾」が一諾斎を名乗るきっかけだったと言われている)

甲州勝沼の戦いで新選組は敗北するが、戦いを目の当たりにして火がついたのか、
一諾斎は&font(#ff0000){56歳}にして、自ら武器を手に取って戦うことを決意する。

彰義隊を経て新選組に入隊した一諾斎は宇都宮、会津と転戦。奮闘するも仙台で新政府軍に降伏。静岡で謹慎生活を送る。


謹慎が解けてからは、佐藤彦五郎(新選組の後援者。妻は土方歳三の姉)の許に身を寄せ、
土方が宇都宮城の攻撃のときに逃げ出そうとした従兵を斬ったことなど、様々な話を伝えた。
以後は多摩郡中野村の金住院に身を置き、地元の子弟に漢籍や習字を教えた。
また、生蘭学舎(現在の八王子市立由木東小学校)という学校の建設に尽力し、開校後は訓導(教員)をつとめた。

1874年12月18日、一諾斎は62歳で病死。
没後、教え子や地元の人々の手で一諾斎の顕彰碑が建てられる。
自由民権運動の関係者や、近藤勇、土方歳三の縁者が発起人として名を連ねていることから、
一諾斎が教育者として高く評価され、地元の人々から親しまれていたであろうことを窺い知ることができる。

名前が斎藤一を連想させることから、斎藤一諾斎と斎藤一は同一人物である、ということや縁者なのではないか、といった誤解が多い。
しかしながら両者の間には新選組隊士だった、という以上の接点はない。
(誤解の原因の一つに、&font(#ff0000){[[司馬遼太郎]]が『燃えよ剣』で斎藤一の変名として用いた}ということが挙げられる)
斎藤一との関連を期待して本項目をご覧になっている方も少なくないだろう。そして、「なんだ釣りか」と思われた方もまた、少なくないだろう。
しかしながら、斎藤一諾斎がただ名前が紛らわしいだけの人物ではないということはおわかりいただけたのではないだろうか。


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