トウカイテイオー(競走馬)

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&font(#6495ED){登録日}:2011/08/18(木) 15:31:42
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トウカイテイオー
父:[[シンボリルドルフ>シンボリルドルフ(競走馬)]]
母:トウカイナチュラル
母父:ナイスダンサー
馬主:内村正則氏
調教師:松元省一(栗東)
通算成績:12戦9勝
主な勝鞍:皐月賞 東京優駿 ジャパンカップ 有馬記念




トウカイテイオーの生まれにはちょっとしたハプニングがあった。
馬主の内村氏はトウカイローマンでオークスを制し、始めてG1馬のオーナーになった。
そして、この年のダービー馬はクラシック三冠を無敗で制することになるシンボリルドルフで彼の圧倒的な強さを見た内村氏は「ルドルフが種牡馬になったら絶対ローマンに付けよう」と心に決めたという。

1987年の春に引退し繁殖入りする予定だったのだが、引退レースの筈だった新潟大賞典で2着に入り、結局年末まで引退が延期。
そのため、ローマンのために確保していたシンボリルドルフの種付け権が宙に浮いてしまう事態になってしまい、急遽ローマンより一足先に繁殖入りしていた半妹のトウカイナチュラルに種付けされることになった。


そして、1988年4月20日、北海道新冠の長浜牧場でトウカイテイオーが生を受けた。
生まれた当初は華奢な体つきから評価はあまり高いものではなかった。
しかし、成長するにつれて柔軟な動きを見せるようになり関係者の期待を集めた。

そして2歳(当時)の時トウカイテイオーはある事件を起こす。

&font(#ff0000){130cmもある柵を飛び越えてしまった}のである。

一歩間違えば骨折、最悪予後不良の事態だったが、当の本人は元気よく走り回り、何事もなかったかのようにまた柵を飛び越え放牧地に戻っていった。
これはトウカイテイオーの並外れた柔軟性とすざましい瞬発力を兼ね備えていたから出来た芸当である。

そして、トウカイテイオーは1990年10月、栗東の松元省一調教師の元に預けられた。
松元調教師は彼を一目見てクラシックは狙えると確信、クラシックを意識したローテーションが組まれることとなった。


その期待に答え皐月賞までの4戦を無敗で、しかも鞭を一発も入れずに完勝。
本番の皐月賞では重賞未勝利(皐月賞トライアルである若葉賞はOP特別)であるにもかかわらず3歳(当時)王者イブキマイカグラを抑えて1番人気に支持された。
レースは先行策をとり直線で早めに抜け出し押し切る横綱相撲で完勝。
主戦騎手の安田隆幸騎手は記念撮影でシンボリルドルフで皐月賞を制した岡部幸雄騎手に倣い馬上で人差し指を挙げ事実上の三冠奪取宣言をした。
続く日本ダービーも最後の直線で大外から抜け出し、レオダーバンに3馬身差をつけて完勝。
&font(#ff0000){親子無敗}での二冠を達成した。

この圧倒的な強さにファンは史上初となるであろう親子での三冠制覇、そして年末の有馬記念での最強古馬メジロマックイーンとの対決に夢をはせた。

しかしその夢はダービーの3日後、松元調教師のある報告で潰える事になる…。

「左第3足根骨骨折・全治6か月」

それは、親子三冠の夢が潰えたのと同時に、栄光を掴み取ったテイオーの苦難の始まりだった。
翌1991年、トウカイテイオーは春の天皇賞の前哨戦、大阪杯から始動。
海外遠征に備え国際経験が豊富な岡部幸雄騎手に乗り替わった。
レースは鞭を使わずの完勝で春の天皇賞に向けて上場の滑り出しを見せた。

そして、春の天皇賞は昨年の有馬記念で実現しなかったメジロマックイーンとの対決が実現。
岡部騎手が「地の果てまで駆けて行く馬」と語ればマックの主戦騎手武豊騎手は「こっちは天まで昇っていく馬」と対抗。
レース前から対決ムードが盛り上がった。

しかし、レースはマックの圧勝に終わりテイオーは&font(#0000ff){5着}に沈んだ。

ファンからは距離適性の差という声もあり宝塚記念での再戦が期待されたが、テイオー、マック共々骨折、その後も運のめぐり合わせもあり、この二頭が再び同じターフに立つことはなかった。
骨折の程度がさほどひどくなかったテイオーは9月に復帰。
しかし、熱発などで調整が思うように行かず本番の秋の天皇賞も前哨戦なしのぶっつけになってしまう。
レースもメジロパーマーとダイタクヘリオスのバカコンビが作り出した&font(#ff0000){1000メートル57秒}という殺人的なハイペースに折り合いを欠き、7着と初めて掲示板をはずしてしまう。

続くジャパンカップだが、この年から国際G1に認定された影響か、海外からはユーザーフレンドリなどといった当時の欧州やアメリカを代表する実力馬が参戦。
それに対し、日本のG1馬はトウカイテイオーのみであり、外国馬による上位独占は確実で、日本馬の出番はないというのがファンや関係者達の予想だった。

しかし、その予想の反しテイオーは残り200メートルで先頭に立つと、追撃してくるナチュラリズムを振り切り優勝。
父ルドルフ以来となる日本馬によるジャパンカップ制覇、そして記念すべき初の国際G1ホースとなりついに復活を果たした。
 

しかし、次走の[[有馬記念>1992年第37回有馬記念]]で再びテイオーに苦難が降りかかった。
まず主戦の岡部騎手が騎乗停止で急遽田原成貴騎手に乗換。
さらにレース中に腰を痛めてしまい1生涯最悪の11着と大敗してしまった。

翌年も宝塚記念で復帰を予定していたが再び骨折が判明し、復帰は年末の有馬記念にまでずれ込んだ。

[[この年の有馬記念>1993年第38回有馬記念]]はトウカイテイオーを含め8頭のG1ホースが出走する豪華な顔ぶれだった。
主戦の岡部騎手は1年ぶりのブランク、そして既にテイオーは終わったと判断し、有馬記念ではビワハヤヒデを選択。
替わりに手綱を取ったのは昨年の有馬でコンビを組んだ田原騎手だった。
 

レースは昨年の覇者メジロパーマーが逃げる展開となりビワハヤヒデは4番手に位置しそのビワハヒデをマークするようにトウカイテイオーが6番手につけた。
そして、最終コーナー出口でビワハヤヒデは先頭に踊りだしそのまま押し切る体制に入った。
誰もがビワハヤヒデの勝利を確信した瞬間……。











#center(){大外から鹿毛の馬…そう、トウカイテイオーが追い込んできたのだ…}











まるで1年近くのブランクを感じさせない走りで残り100メートルでビワハヤヒデを交わすと、そのまま半馬身差でゴール。
前走の有馬記念から364日ぶりの勝利に中山競馬場か歓喜の渦に包まれ、按上の田原騎手は涙を流した。

岡部騎手もまた「トウカイテイオーに負けて悔しくないか?」という記者の問いに対して「そんなことはない、負けるんならテイオーに負けたほうがいい」と答えている。
翌年も現役を続行したが再び骨折、これ以上の現役続行は不可能と判断し引退が決まった。
もし無事であれば、ビワハヤヒデとの再戦だけでなく、ビワハヤヒデの弟で三冠馬ナリタブライアンとの対決もあっただけに惜しまれる引退だった。

引退後は社台ファームで種牡馬生活を送っているが、[[サンデーサイレンス]]産駒の猛威もあり成績はあまりいいものではなく、23歳になった現在も残念ながら後継種牡馬はまだ出ていない(G1勝ち馬にトウカイポイントと[[ストロングブラッド>ストロングブラッド(競走馬)]]がいるが前者は現役中に気性改善のため、後者も乗馬になるのに伴い去勢してしまっている)


追記修正はサードステージに勝ってからでお願いします

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