宮本慎也

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&font(#6495ED){登録日}:2010/03/28(日) 13:53:27
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#center(){&bold(){&font(#0000ff){毎日毎日、勝ちたい、勝ちたいと思ってグラウンドに出ていた}}}




宮本慎也とは[[東京ヤクルトスワローズ]]に所属し、全日本の主将を何度か務めたことのある&font(#ff0000){エロ魔人}である。

守備位置は主に遊撃や二塁、最近は年齢もあり三塁を守ることが多い。


出身はプリンスホテルだが、&font(#0000ff){脱税}やら危ういおでこやらで、全然プリンスじゃない。


【経歴】
PL高→同志社大→プリンスホテル→東京ヤクルトスワローズ

PL高校時代は一つ上の立浪、片岡らと甲子園優勝を達成。そのまま同志社大学、プリンスホテルと渡り歩き、1995年にヤクルトに入団。プリンスホテル時代は客室セッティングもやったとか。%%ちなみにヤクルトは後に「社会人時代『外回り行って来い』と言われては喫茶店でサボっていた」と白状した古田敦也が正捕手になった%%

1997年にプロ野球脱税事件にて執行猶予付きの有罪判決を受けるが、[[池山隆寛]]から遊撃手の座を奪う。


2001年は二番打者として固定され、日本記録のシーズン67犠打を達成。ヤクルトの日本一に貢献をする。


2004年のアテネオリンピックでは主将を任せられ、予選ではポジション外の二塁を守り、本戦では井端に代わり遊撃に入って活躍、打率五割を記録し監督不在のチームをなんとか三位に導いた。
 

2005年は一番に座ったが執拗なマークを受け、6月までに8死球を浴びてしまい、思ったような成績を上げられ無かった。
しかし6月からは一番として青木宣親が台頭、結果マークが薄れる。

また同年、選手会会長に古田敦也の後を継いで就任する。


2006年のWBCには井口資仁が出場辞退した為に、&font(#ff0000){パチンコを打っている所に出場を打診}され、快諾。
主に代打や守備固めとして出場した。

同年は調子こそ良かったが、怪我に悩まされ出場は73試合に留まる。
契約更改では500万増を掲示されたがこれを蹴り、自ら1500万減を申し出、浮いた金額を二軍球場の戸田球場の改修費用に回すように進言し、受け入れられる。

2008年の北京オリンピックにも選出される、監督の1001をして「成績がどうであれ呼ぶつもりだった」と言わせるほどであった。
 

しかし結果は四位に終わってしまい、責任感から涙を流していた。

その年のオフには二年契約を結び、選手会会長の座から退く。

2010年シーズンからはコーチ兼での契約となっており、ヤクルトを牽引している。
2011年4月、自身初の月間MVP獲得。40歳5ヶ月での初受賞はセリーグ最年長記録である。また三塁手としてベストナインとゴールデングラブ賞を授賞した


【プレイスタイル】
特筆すべきはまず守備であろう。


前任の池山や井端などのような派手さこそ無いが、その守備はまさに堅実。
前もって打球の位置を予想して其方を前もって守備をし、難しいボールをも難なく捌きアウトにするスタイルで、滅多に打球に飛び付くことはしない。
その守備は見る人に野球とはこうも簡単なスポーツか、と錯覚させるほど。
それは宮本の信条である「ファインプレーでは、投手は打たれてしまった感覚を残してしまうから、難しいボールほど簡単に捌ける能力が守備の能力として必要だ」という哲学から。

 

遊撃手の基本として、小学生の時に野球教室で教わった牛若丸こと吉田義男に教わった心得を守っているという。


2007年に自らのサヨナラエラー(宮本だからエラーになったという説もあり、なによりどこかで殺さなきゃ負けなので)で巨人の胴上げを赦すなど、極希ではあるがエラーも犯すが、その守備力は誰もが認める所であり、ゴールデングラブを計七回(遊撃六回、三塁一回)獲得している。


打撃に関しては入団時こそ守備は一流だがタマをうてないから「自衛隊」と野村監督に言われるほどであった。
しかし年数を重ねるごとに打撃も円熟味を増し、今ではシーズン打率三割を記録するリーグ屈指の好打者の一人である。
 

[人物]
自ら年俸の引き下げを希望したり、スコアラーの増員
日本代表やヤクルトの主将を複数回務めるなど、出来た人物であり人望もあり、「漢」といえる素質もある。

…だが、そんな彼にもちょっとアレな面がある、
そう、彼は


#center(){&font(#ff0000){エロ魔人}}

なのである。

彼が出たバラエティと呼ばれる分野の番組を見れば明らかなのだが
ことあるごとにエロDVDの話(エロDVDコレクションの自慢、キャンプに持ち込んだetc)をし、
ゴールデンでも構わずに会いたい芸能人を問われると「及川奈央」と連呼、
手をつけられなくなり、浜田雅功も出来るだけ話を振らないようにと注意するほどの暴れっぷりであった。
こうなってくるとむしろこっちの方が「漢」なのかもしれない。

このせいで奥さんにかなり怒られたらしい。

後輩にお金を渡しAVを買いに行かせたことがある。


2012年、2年契約の最終年を迎える。

流石に走塁面で衰えを感じているらしく、また11年の秋季キャンプもコーチとして参加しているため、今シーズンで&font(#ff0000){引退}してしまう可能性がある。

本人曰く、「記録(2000本安打)を達成した後、若手に追い抜かれて引退するのが理想」だとか。





この人の後継者は出てくるのだろうか?





2012年5月4日、神宮球場で行われた広島戦で&font(#ff0000){2000本安打達成}。
大学、社会人を経てプロ入りした選手の2000本安打達成は古田敦也以来&font(#ff0000){2人目}、41歳5ヶ月での達成は[[落合博満]]の41歳4ヶ月を抜いて&font(#ff0000){史上最年長記録}である。
また、達成者の中で&font(#ff0000){最も多い[[犠打>バント(野球・犠打)]]}を記録し、&font(#0000ff){最も本塁打が少なかった}選手である。

また、数日前に2000本安打を達成した[[日ハム>北海道日本ハムファイターズ]]の稲葉篤紀とはヤクルトの同期入団で、担当スカウトも同じ(現東京ヤクルトスワローズ監督の小川淳司)である。
2000本安打の達成試合数も&font(#ff0000){1976試合}、そして2人とも&font(#ff0000){第1打席で達成}と全く同じであった。
宮本が2000本安打を達成した日、稲葉は通算250本目となる本塁打を放った。
 
2013年には代打を中心としてチームに貢献していたが、ついに引退を決意。
引退試合では先発出場をし、5打席無安打という残念な結果だったがホームランギリギリの当たりを飛ばすなど最後までインパクトを残した。
その後はコーチとしてチームに関わっており、シーズン最終戦の巨人戦では試合後に両チームの選手によって胴上げが行われている。

2013年シーズン終了後はヤクルトを完全に退団し、以後は野球解説者及び評論家として活動をする。
また、NPBの調査委員を務めることになったのだった。 



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