セプター(競走馬)

登録日:2024/05/04(土) 17:14:10
更新日:2024/06/10 Mon 20:14:11
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セプター(Sceptre)とは、1899年生まれのイギリスの競走馬・繫殖牝馬。

英国五大クラシック競走の全てに出走したばかりか、そのうち4つを制して空前絶後の四冠馬となったたぐいまれなる女傑である。


概要


父パーシモン母オーナメント母の父ベンドアという血統。

父はセントサイモンの直仔で、アルバート・エドワード・ウェールズ皇太子(のちの英国王エドワード7世)所有馬として英ダービー・セントレジャーを制した二冠馬
種牡馬としても3回にわたって英愛リーディングサイアーに輝いた名馬で、父の気性難を受け継がず温厚な馬だったことでも有名。
母は生涯無敗の三冠馬オーモンドの全妹。極めて優秀な牝系の出で、彼女の牝系子孫はGⅠ馬だけでもあまりにも膨大でここには書ききれないレベルである。
とりあえず、日本馬に限っても大種牡馬クモハタ初代JRA顕彰馬ハクチカラ「黄金の不沈艦」ゴールドシップらの牝系祖先であるとだけ述べておこう。
母の父もまた英ダービー馬で、ガロピンやその息子のセントサイモンに阻まれながらも優秀な種牡馬実績を残したノーザンダンサー系の直系の父系先祖である。


この信じがたいほど華やかな配合を実現してセプターを生産したのは、母父ベンドアや母の全兄オーモンドの生産者でもある初代ウェストミンスター公爵ヒュー・グローヴナー卿。
しかしグローヴナー卿はセプターの誕生直後にこの世を去ってしまい、本馬は競売にかけられることになった。
グローヴナー卿の専属調教師だったジョン・ポーター師は跡継ぎの第2代ウェストミンスター公爵による落札を熱望していた。

…のだが、5000ギニーから始まったこのセリでセプターを競り落としたのは、全く別の人物だった。

1歳馬としては当時史上最高額の1万ギニー*1でセプターを落札したその男の名は、ロバート・シービア
全ての元凶である。



シービアとの出会い


このロバート・シービアという男には二つの大きな顔があった。

一つには、彼はジャーナリストで"The Winning Post"というゲームではない競馬雑誌の編集者兼代表者である。
しょっちゅう毒舌や辛口評価を吐くことで有名だったらしい。

しかしより大きな二つ目の顔は、手が付けられないほどタチの悪いギャンブラーであった
このギャンブル好きは異常なほどで、ブックメーカーを相手に多額の賭けをしてある時は莫大な借金を抱え、ある時は超のつく大金持ちになっているというのが平常運行だった。お前はカイジか。

本馬がセリに出されたのはまさにシービアが大勝ちして羽振りのよくなっていた時期で、もしそうでなければ競馬の歴史は大きく変わっていただろう。
ちなみにセプターという名前を本馬に与えたのもシービア。
貴族ら上流階級のひしめく競馬界で平民出身の自らに名声をもたらしてくれることを願ってSceptre(王笏)」という言葉を選んだのであろう。

さて、シービアはセプターと一緒にデュークオブウェストミンスターという馬も落札しており、2歳を迎えた両馬はチャールズ・モートン調教師に預けられた。
調教ではセプターはデュークオブウェストミンスターを子ども扱いしておりすでに大器の片鱗を見せていたが、
さっそくシービアはフラグ回収とばかりにギャンブルで負けて負債を抱え、2頭のうちどちらかを手放さなければならなくなった。
それを聞きつけたポーター師は、ジェラルド・ファーバーという人物に対してセプターを購入するよう薦めた。しかしファーバーは牡馬であるデュークオブウェストミンスターの方を評価してそちらを購入。
セプターはシービアの手元に残ることとなったこれフラグです。


2歳時


6月にエプソム競馬場のウッドコートステークス(芝6F)でデビューし、1番人気の評価通りに馬なりのまま2着を4馬身ぶっちぎってデビュー勝ちを収める。
この時硬い馬場が災いして膝を痛めてしまったものの、お構いなしに翌月の次戦でもたやすく勝利。
しかし3戦目は冬毛が生え始めて体調も優れず、3着に終わった。
2歳時は3戦2勝と、ごくごくまともなローテでシーズンを終えた。そう、これはまともなローテである。
これが翌年常軌を逸した世界に突入するなど誰が予想したであろうか大体ヤツのせいなのだが。


3歳時


セプターが3歳になったばかりの頃、シービアとモートン師が仲たがいするという事件が発生。
モートン師は南アフリカ競馬に転じることとなり、セプターは転厩しなければならなくなってしまった。

ここでシービアはなんと「自身がセプターの管理を行う」ことを宣言もういい。俺が走る。
ポーター師から調教場所を貸してもらいそこで調教が行われた。
当初は調教助手を雇っていたのだが、3歳初戦のリンカンシャーハンデキャップ(芝8F)で4歳牡馬のセントマクルーに短頭差の2着。
僅差とはいえセントマクルーはセプターより斤量が20ポンドも重く内容的には完敗で、怒ったシービアは調教助手をクビに。
以降は馬主シービアが自らの手で調教も行うという前代未聞の事態と化した
しかもド素人のシービアによる管理はいい加減というレベルではなく、セプターを馬房に放置したまま出張に出るなどめちゃくちゃなものだった
だがこれはまだ序の口である。


クラシック戦線


そもそも、イギリスのクラシック競走は以下の5競走から成り立っている。

  • 2000ギニーステークス(8F)
  • 1000ギニーステークス(8F)
  • ダービーステークス(12F)
  • オークスステークス(12F)
  • セントレジャーステークス(14F115y)

基本的に三冠を狙うならば、
  • 牡馬なら2000ギニーダービーセントレジャー
  • 牝馬なら1000ギニーオークスセントレジャー*2
である。牝馬は2000ギニーとダービーにも出走可能だが、2000ギニーと1000ギニー、ダービーとオークスの間隔は中1日*3で、
物理的に連闘は可能だが勝利を目指すならとても現実的なローテではない。一言でいえば非常識な、ありえない話である。

だが常識の欠片もない馬主がいたら…?
そんな馬主が同じく常識の埒外の素質馬を手に入れてしまったら…?

その答えこそ、このシービアとセプターなのである。


話をセプターに戻すと、3歳初戦を落とした彼女の次戦はクラシック第1冠、2000ギニーステークス
牝馬がいきなり牡馬クラシックにハナから殴りこんでいる時点でどこか妙だが気にしたら負けである。
ここでのライバルはかつての同僚デュークオブウェストミンスターや、ステークス競走2勝のアードパトリックら強豪が相手となった。
しかしセプターはこれらをまとめて粉砕1分39秒0のコースレコードで一蹴してみせた

そしてそれから中1日1000ギニーの舞台には2000ギニー馬となったセプターの姿があった。なんで?
レース前に蹄鉄が歪んでしまったがシービアは装蹄師を雇っておらず、結局蹄鉄をつけずに出走する羽目に。
しかし牡馬の強豪をレコードで蹴散らしたセプターには牝馬限定戦におけるハンデにもならなかったようで、馬なりのままで2着に1馬身差つけて快勝

この2レースが規格外すぎたため、続くダービーステークスでは1番人気に。
しかしレース直前に脚を負傷、さらにイレ込みもあってスタートに失敗してしまう。くわえて鞍上のランドール騎手が出遅れを取り返すため無理やり先頭集団につけたせいでスタミナも消耗してしまい、2000ギニーで下したアードパトリックの4着に敗れてしまった。
ちなみにシービアは1000ギニーと2000ギニーの賞金にかき集めた有り金を足した30000ギニーをセプターの勝ちに賭けており、このダービーで大損することになった

そしてシービアはその負けを取り戻すつもりか、無慈悲にもセプターを中1日オークスステークスに出走させた。知ってた。
しかしハンデを負ってなお牡馬と勝ち負けするセプターには牝馬の相手などお茶の子さいさいであり、2着に3馬身差をつける楽勝であった



これでセントレジャーを前にしながら五大クラシックのうち3つを制する偉業を果たしたセプター。
この超ハードスケジュールをこなしたのだから、普通なら夏場を休養に充てるもの。ということでここまでの連戦を考慮して彼女に休養は


与 え ら れ な か っ た


シービアはクラシック戦線のただなかにもかかわらず、セプターでのフランス遠征を決行
当時のフランス競馬最大のレースであるパリ大賞(芝3000m)に参戦した。この男の辞書に常識の文字はないのである。
イギリス人はセプターの勝利を微塵も疑わなかったが、宿敵イギリスの馬にフランスの競馬ファンからは容赦ない罵声が浴びせられ、それで集中力を削がれたか終始大外を走らされ、着外に敗れてしまった。
初めての海外遠征であるし、この地獄めいたローテによる疲労の蓄積もあっただろう。

しかしパリ大賞を走ってからたった中2日で英国のコロネーションステークス(芝8F)に出走。
結果は5着に敗れた。

さらにその翌日にはセントジェームズパレスステークス(芝8F)に出走。
ここではダービーで2着だったライジンググラスらを破って勝利した。

かくしてセプターは、英ダービー(6月4日)からセントジェームズパレスステークス(同月19日)までの半月の間に5戦、しかも途中でフランス遠征を挟むというデタラメなローテを5戦2勝の好成績で完走してしまった
だがシービアの暴走はとどまるところをしらず、翌7月にはサセックスステークス(芝8F)で2馬身差の2着。
そこから中2日のナッソーステークス(芝12F)で4馬身差の1着と快勝。
だめだこいつ…はやくなんとかしないと…



さすがに8月は休養となり、秋初戦は9月のクラシック最終戦、セントレジャーステークスとなった。
ここではセントジェームズパレスS以来の対決となったライジンググラスを3馬身差の2着に抑えて以下をまったく寄せつけず完勝。

ここに、空前絶後のイギリスクラシック四冠、かつ1892年のラフレッシュ以来10年ぶりのイギリス牝馬クラシック三冠を達成した
もはや三冠はおまけである。

空前と書いたが、実は1868年にイギリスの初代三冠牝馬フォルモサが初めてイギリスクラシック4勝を挙げており、セプターは2頭目となる。
ただしフォルモサは2000ギニーが同着で、その後の決勝戦に出走しなかったため、「クラシック3.5勝」*4という書かれ方をされることが多い。
そのため大抵、「セプターこそが真のクラシック四冠馬」であるとされる。当然セプターの後例はない。
またフォルモサはダービーに出走していないため、イギリス五大クラシック競走すべてを走った馬はセプターが唯一である
正確には今までのところ唯一と書くべきだが、そんな馬が2頭も現れなくていい。



この大偉業から中1日でなぜかセントレジャーと同コース同条件のパークヒルステークスに出走するが、さすがに無理がたたって勝ち馬の1馬身差2着に敗戦
またもや賭けに負けたシービアも有り金をブックメーカーにごっそり持っていかれた。もう何からつっこんでいいのかわからない。
これでこの常軌を逸したシーズンが12戦6勝でようやく終わりを迎えた。


この頃になるとシービアの財政状況は悪化の一途だったため彼はセプターを競売にかけたのだが、この年の酷使により見栄えが悪かったのか、はたまた20000ギニーという希望価格が強気すぎたのか、落札最低価格に届かず主取りとなったこれもフラグです。




4歳時


昨年も出走した3月のリンカンシャーハンデキャップから始動するが、他馬よりはるかに重い127ポンドの斤量を背負っており、
23ポンドのハンデを与えた牡馬オーヴァーノートンの5着に敗戦。
そしてこのレースでセプターの勝利に全財産を賭けていたシービアは無事爆死し、破産
文無しとなったシービアはセプターを含む全所有馬を手放さざるをえず、かくして本馬はようやくこの破天荒すぎる馬主から解放されたのであった。
ちなみにシービアが全財産を賭けているというニュースは話題をさらっており、人々はレースよりもむしろシービアの様子の方に注目していたのだが、全財産が吹き飛ぶのが明らかになってからもシービアは動揺している様子もなく平然と葉巻をくゆらせていたそうな。
破産後も1935年に亡くなるまで強気の人生を貫き通し、辛口評論を続けながらギャンブルに明け暮れたという。


売りに出されたセプターは25000ギニーでウィリアム・バス卿に購入され、アレック・テイラー・ジュニア調教師に預けられた。
しかし当時のセプターはそれまでの酷使によりひどい状態で、それを見たテイラー・ジュニア師はどうすればいいかわからずシービアに尋ねた。

「この馬、どうすればいいんだ?」

それに対するシービアの答えは、

「二流品のように扱え」

というものだった。テイラー・ジュニア師は深く頷き、すぐにセプターを当面の間休養させることにした。
なるべく無理をさせず調教が始まってからも体調の立て直しを最優先する方策が奏功し、セプターの状態は十分に回復した。
そして6月のハードウィックステークス(芝12F)で復帰し、2着に5馬身差をつけて圧勝
完全復活を果たした。

次戦はエクリプスステークス(芝10F)となった。
ここにはかつてダービーでセプターを下したアードパトリックにくわえ、
この年の2000ギニーとダービーを勝った当時の二冠馬、そしてのちにセントレジャーも勝って三冠馬となるロックサンドが参戦。
セプター、アードパトリック、ロックサンドの3頭で合わせて7つのクラシック勝ち星が並ぶ三強対決“Battle of Giantsとして空前の盛り上がりを見せ、当時の英国王エドワード7世をはじめとする大観衆が詰め掛けた。
レースでは1番人気のロックサンドが逃げ、それをセプターとアードパトリックが追う展開となった。
最終直線ではロックサンドにセプターが競りかけそこに後ろからアードパトリックが追い込んでくる大激戦となり、
一度はセプターが抜け出したもののアードパトリックの末脚が勝り、セプターは首差の2着に惜敗。
しかしロックサンドには先着しており、英国競馬史上有数の名勝負と謳われたこのレースでのパフォーマンスに恥じるべきところはなかった。

その後10月のジョッキークラブステークス(芝14F)に参戦。ここで三冠馬になったばかりのロックサンドとの再戦となった。
斤量は牝馬であるセプターの方が牡馬のロックサンドよりも重かったのだが、歯牙にもかけず4馬身差つけて圧勝した

そして次走のデュークオブヨークステークス(芝10F)では1世代下のオークス馬らをまとめてねじ伏せ
続くチャンピオンステークス(芝10F)を10馬身差、ライムキルンステークス(芝10F)を8馬身差単勝1倍台の人気を背負いながら圧勝
4歳シーズンの戦績は7戦5勝で、クラシックでの圧倒的強さを再び人々に見せつけた。


5歳時


5歳でも現役を続行し、コロネーションカップ(芝12F)から始動。
ロックサンドと二度目の対戦となったが、このレースはロックサンドと同期ながらクラシック登録が消滅して裏街道を進んでいた実力馬のジンファンデルが勝利。
セプターは1馬身差の2着となったが、三冠馬ロックサンドに三度先着することとなった

次走のアスコットゴールドカップ(芝20F)ではそのジンファンデルと再戦したが、結果は単勝21倍の伏兵スローアウェイが1馬身差で勝利。
セプターは2着のジンファンデルからさらに3/4馬身差の3着に敗れた。
この後ジンファンデルはジョッキークラブカップや翌年のアスコット金杯も勝ち、ロックサンドを超える世代最強馬へと成長していく。

直後に昨年も出走したハードウィックSに参戦しここでサンドロックと四度目の対戦となるが、アスコット金杯による疲労か充実度の差か、
勝ったロックサンドから5馬身差の3着に敗れ、このレースをもって現役を引退した。

ちなみにようやくセプターに雪辱を果たしたロックサンドだったがそれまでに3回も完敗していたがために、20戦16勝という立派な戦績にもかかわらず「弱い三冠馬」とみなされる不遇の名馬であった。しかしこればかりは対戦相手が悪すぎたというほかないだろう。
この印象のせいで種牡馬入り後も能力に疑問符をつけられ続けたロックサンドはアメリカへ放出され、その地で母父として初代ビッグ・レッドを生み出すことになるが、それはまた別の話である。


5歳時は3戦0勝で、生涯通算では25戦13勝(うち2着5回3着3回)であった。フランス遠征を除けば5着以内を外したことはないという高い安定感を誇った


引退後



所有者バス卿のもとで、彼の所有するマントンスタッドの繁殖牝馬となった。
7歳時に初仔となる娘メイドオブザミストを出産。メイドオブザミストはナッソーステークスなど3勝を挙げ、8歳時に産んだメイドオブコリントも2勝を挙げる活躍を見せた。
ここまでは順調だったのだが、以降セプターの産駒の成績は下降の一途で不受胎も目立つようになっていった。

セプターが12歳になった1911年にバス卿は馬産から撤退してしまい、競売にかけられた彼女は競走馬のセリを一手に担うタタソールズ社の経営者一族であるエドムンド・サマーヴィル・タタソールにより7000ギニーで落札された。
この時はフランスの大金持ちであるロスチャイルド男爵もセプターを狙って競りかけてきていたため、翌日の新聞には「タタソール氏、セプター国外流出防止に成功!」との見出しが踊った

しかしその後もセプターの繁殖実績は芳しくなく、1914年にタタソールはセプターを知人のジョン・マスカーに売却。
しかしこのマスカーもほどなく馬産から撤退してしまい、そこから競売に出されたセプターはグレンリイ卿により落札された。
グレンリイ卿は馬産に注力しておりセプターのおかれた環境は良好であったが、彼女の繫殖実績は上向かず不受胎ばかりであった。
そのためグレンリイ卿は知り合いのブラジル人にセプターを500ギニーで売却しようとした。
それは1歳時のセプターにつけられた10000ギニーの20分の1の額でしかなかった。

しかしそれを聞きつけた元の所有者であるタタソールやイギリスの競馬ファンが、高齢になったセプターが国外に流出することを危惧して「セプター基金」を設立。
タタソールに再び引き取られたセプターは、セプター基金の庇護のもとでイギリスの牧場に繋養され、ついに安らぎを得ることができた。


そして3年後の1926年、セプターは老衰で亡くなり、その波乱に満ちた26年の生涯に幕を下ろしたのだった。






競走馬としての特徴


競走能力

なんといってもまずは、その並外れたタフネスである。とくに3歳時の連戦過程は想像を絶するもので、現代よりかなり使い詰めるローテが一般的だった当時の基準でも考えられないものだったが、彼女はそれをこなしてみせた。
そしてさらに驚嘆すべきは、ただこなすだけではなく、並み居る牡馬のトップと互角以上に渡り合ってこれらを打ち破った比類なき競走能力である

この2つを併せ持った稀代の名牝がセプターであり、それゆえにおそらく世界のどこを探してもお目にかかれないであろうクラシック四冠という偉業が可能になった。

このようなハードスケジュールをこなしながら圧倒的強さを誇った馬として挙げられる最たる例はキンチェムであろうが、セプターが生きた1900年頃はキンチェムの時代から30年も経っており、サラブレッド全体の競走能力も各段に改良されているのである。
なによりシービアによるいい加減というレベルではない劣悪な管理と調教のもとで、である。
そのようななかでこれだけの強行軍を成し遂げたセプターの素質には目を見張るものがある

しかしやはりセプターがこれだけの結果を残したのは、最初の馬主であるシービアによるところが大きい
その扱い方からセプターのことを単なるギャンブルの道具としてしか見ていなかったと思われ、もっと時代が下れば競馬サークルから追放されかねないほどの大バッシングを受けること間違いなしであるが、そうでなければセプター最大の偉業もありえなかった。
競馬という競技の光と闇を象徴するところであろう


馬体


セプターは牝馬としては図抜けて大柄で、成長後の体高は16.5ハンド=168センチに達した。このような大柄という特徴もキンチェムに共通したところがある。

またセプターの祖母リリーアグネスは偉大な繁殖牝馬だったが喘鳴症という持病を抱えており、これはオーモンドをはじめ彼女の子孫にも多く見られたのだが、幸いセプターには受け継がれなかった。


性格・逸話


現役時代はリンゴが大好物で、引退してからはチョコレートが好物だったという。

またもともとの性格か、それともシービア厩舎(??)での境遇への反動なのか、テイラー・ジュニア厩舎でのセプターは非常にわがままで、とくに食事にうるさかった
ある日に白い燕麦を食べたと思ったら翌日には黒い燕麦を欲しがり、それを食べたまた次の日には白黒混合のものを…と注文が目まぐるしく変わった。
おまけにそれらの与え方にしても飼い葉桶に入れたり、古いカゴに盛ったり、また別の時は床にぶちまけたりと、毎日変えなければならなかったという。





その後、死してなお…


さて、先ほどセプターの繁殖実績について述べたが、その実績は現役時代のド派手さと比べて期待外れな結果だと思われた方も多いであろう。

だが実際はそうではない。

むしろセプターの血筋は大繁栄を遂げ、一大牝系を形成した
というのも彼女の残した牝駒は繁殖牝馬として目覚ましい成績を残したからである*5

まず初仔のメイドオブザミスト。彼女はセプター産駒の中で最も成功し、牝系を急拡大させた立役者である。
その牝系子孫にはフランスダービー馬で凱旋門賞も制したソットサスや、日本競馬の先駆者となったあのスピードシンボリがいる。

そして3番仔のコロネーション、4番仔のクイーンカーバインやラストクロップのクイーンエンプレスらも成功し、その牝系からは
凱旋門賞でシーバード最大のライバルとなったフランスダービー馬リライアンス*6、大種牡馬ペティションとその子孫たち、社台グループに初めて日本ダービー勝利をもたらした隆盛の祖ダイナガリバー、日本ダートの女王サンビスタなどそうそうたる優駿を輩出することとなり、今もなお世界各国のサラブレッドの牝系に息づいている。
なおペティションの末に連なる一頭は、日本競馬にとって絶大すぎる貢献をもたらすことになった。

2023年には前述のソットサスの全弟であるシンエンペラーが日本で京都2歳ステークスを制し、クラシック戦線を沸かせている。


1世紀前に空前絶後の偉業を成し遂げた女傑セプター
これからもセプターの血を引いたサラブレッドたちが日本、ひいては世界の競馬で大きな役割を果たしていくことだろう


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最終更新:2024年06月10日 20:14

*1 それまでの最高額は1890年のラフレッシュにつけられた5500ギニーで、セプターは実に倍近い額に更新したことになる。このラフレッシュもクラシック三冠を達成している。

*2 日本とは異なり、イギリスで牝馬がクラシック三冠を果たすためには日本の菊花賞にあたるセントレジャーを勝つことが必須条件となる。え?秋華賞は?と思われる方もおられるだろうが、イギリスには日本の秋華賞のモデルとなったレースはないため三冠を構成しえない(そもそも秋華賞はクラシック競走ではない)。詳細は三冠牝馬の項目も参照。

*3 いちおう両ギニーはニューマーケット、ダービー&オークスはエプソムと開催競馬場は同じである。が、だからといって難易度が下がるわけもない。

*4 当時のルールでは同着の場合は1着賞金の山分けをするか、決勝戦というマッチレースに出て白黒つけるかを選ぶことができた。…のだがフォルモサの馬主は決勝戦に応じたもののなぜか出走しなかった。そのためルールに厳密に従えば正式な勝者とはいえず、クラシック3.5勝と呼ばれることが多い。

*5 ちなみにセプターの半姉スプレンディドも繁殖牝馬として大成功した。その子孫の一頭が下総御料牧場の基礎牝馬にして日本競馬はじまりの繁殖牝馬「星旗」である。有名な牝系子孫はゴールドシップ。

*6 リライアンスの母にはマンノウォーの血が、すなわちロックサンドの血が入っている。セプター「また会ったわね?」ロックサンド「?!」