松中信彦

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松中信彦 - (2015/09/29 (火) 14:20:22) のソース

&font(#6495ED){登録日}:2011/10/08(土) 04:53:06
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1972年生まれ [[熊本県]]出身のプロ野球選手。 
左投げ左打ち
外野手


八代第一高校(現:秀岳館高校)を卒業後、新日鐵君津に入社。
1996年にはアトランタ五輪に出場し、四番としてチームのメダル獲得に貢献。その年のドラフトで[[福岡ダイエーホークス>福岡ソフトバンクホークス]]に入団した。背番号は26。 

入団後は、金属バットと木製バットの違いに苦しむも、1999年にレギュラーとして定着した。

翌2000年には、背番号を現在の3に変更。打率.312・本塁打33本・106打点をマークし、チームのリーグ二連覇に貢献。シーズンMVPに輝いた。 

2001年も、小久保裕紀の後を打つ五番打者として活躍。
小久保裕紀、井口資仁、城島健司と共に、パリーグ初となる&font(#ff0000){30本カルテット}を形成した。
 
2003年、小久保が大怪我を負い1年チームを離れた際には、四番として打線を引っ張り、チームの日本一に大きく貢献した。
 
小久保が巨人へ移籍した2004年以降は四番に定着。
打撃力は更に増し、&font(#ff0000){打率358・本塁打44本・120打点を挙げ、平成初の打撃主要タイトル三冠王に輝いた。}(更に、最多安打と最高出塁率のタイトルも獲得。打撃タイトル五冠を独占した。)

低反発球が導入された2005年にも、打率315・46本・121打点の好成績を残し、本塁打王と打点王の二冠王になった。松坂大輔から1試合3本塁打を記録したのもこの年。
 
2006年には、WBC日本代表の四番を務め、本塁打を捨てたバッティングスタイルで.433の高打率をマークした。(この大会で放った13安打は、1試合多い2009年大会で青木などが記録した12安打を上回る最多安打記録である。)
 
しかし、シーズンでは、城島が退団し、かつて30本カルテットを形成したメンバーが松中だけとなった事もあり、各球団のマークが集中。その結果、本塁打は19本にまで激減した。(徹底したマークの副産物として、自己最多の102四球、自己最少の32三振を記録した。)

2007年は、小久保がFAでチームに復帰。更に[[多村仁志]]が横浜からトレードで入団し、TMK砲として大活躍する……
と、思われたが、かつてない打撃不振に陥り、打率.266・本塁打15本・68打点と自己最悪の成績に終わった。

2008、2009年は、持ち前の長打力とミート力を取り戻したが、年齢やケガなどの問題もあり、全盛期ほどの成績は残せなかった。

 
2010年は、前年の膝のケガが完治しなかった結果、シーズン前にろくな調整が出来ず2007年を下回る大不振となった。しかし、シーズン終盤に迎えた首位西武との三連戦では、それまでの鬱憤を晴らすような大活躍を見せ、チームの逆転優勝を演出した。
 
2011年は、自身の不振と打線の大型補強の影響で、シーズン序盤にレギュラーを剥奪されてしまう。
しかし、シーズン途中に、フォームを「すり足打法」に変更。これが功を奏して、代打の切り札として結果を残すと、不動の3番・内川がチームを離脱した際に、レギュラーに返り咲いた。
レギュラー復帰後は、&font(#ff0000){[[統一球>統一球(プロ野球)]]の影響や、それまでの不振を全く感じさせない大活躍}を見せる。
シーズン終盤に死球を受けて離脱し、そのままシーズンを終えるも、打率は.308を記録。規定打席には満たなかったものの、2006年以来となる.300越えを達成した。
本塁打も、パリーグ9位タイとなる12本を放ち、三冠王復活をアピールするシーズンとなった。
 

【人物】
高校時代に、左肘が曲がらなくなり、父と二人三脚で[[右投げに転向>MAJOR(メジャー)]]。社会人時代に、左肘の手術を受け、再び左投げに戻った。
 

【選手としての特徴】
パリーグを代表する長距離砲であると同時に、高い打率を残せるアベレージヒッター。
選球眼も良く、打率の高さと相まって、&font(#ff0000){出塁率.400以上を5度記録している。}
内角捌きが非常に巧みで、特にインハイの直球に対しては抜群の強さを見せる。死球スレスレの直球を軽々とスタンドへ運ぶ姿はまさに変態であり、某動画サイトに動画が上がった際は&font(#ff0000){内角掃除大臣}というタグが付けられる。
また、外角に弱い訳でも無く、全盛期は内角より外角の方が打率は高かった。
 
走力は並み以上のものを備えており、万全の状態ならば俊足とさえ呼べるレベルだが、膝のケガなどもあり全力で走れない場合が多い。走塁技術は高く、走塁面での貢献度は意外に高い。
 
外野守備に就いた際の守備範囲は狭く肩も弱い。球際に強く範囲内の打球は堅実に処理出来るものの、守備力は低い部類である。
かつて一塁の守備に就いていた時は、ゴールデングラブ賞を獲得した事もあった。
 

【秋の風物詩】
2004年に導入されたプレーオフ(現クライマックスシリーズ)では、&font(#0000ff){シーズンでの活躍を微塵も感じさせないほど役に立たない}事で知られている。
チームが敗戦し、ベンチで呆然とする様は&font(#0000ff){秋の風物詩}と呼ばれ、松中ネタキャラ化の一端を担った。
三冠王でありながら、参観してるだけという皮肉を込めて&font(#0000ff){参観王}などと呼ばれる事も…
 

【真中中央併殺打事件】
2008年。王貞治監督(当時)最後のシーズンとなったこの年の最終戦(vs東北楽天ゴールデンイーグルス戦)の延長12回表、相手投手の佐竹健太が投じた&font(#ff0000){ド真ん中のストレート(140km/h)}を弾き返した打球は、松中シフトで予め一塁寄りに守っていた二塁手の正面に転がり最悪のゲッツーとなった。
この後チームはサヨナラ負けを喫し、シーズン最下位が確定。(余談だか佐竹はこれで一球勝利を収めた)
この併殺打は、チームの大失速(9月始めの頃はソフトバンクは首位に立っていた)と共に、野球ファンの脳裏に(主にネタとして)強烈に刻まれる事となった。 
&font(#0000ff){&u(){&font(#ffffff){実際の戦犯はサヨナラ打を打たれた馬原孝浩なのではないか、とは思っちゃいけない。}}} 
 
 
&font(#ff0000){しかし………}


【CS代打満塁ホームラン】
2011年。
チームは7度目となるクライマックスシリーズに進出。初戦を勝利で飾り、迎えた2戦目の8回裏2アウト満塁の場面で、松中は代打として登場。
西武の守護神・牧田が投じた初球のスライダー(真ん中低め)をライトポール際に叩き込み、上記の二大汚名を返上して見せた。
チームも勢いに乗り、3連勝で8年ぶりとなる日本シリーズ進出を決定。
7年という長きに渡った&font(#0000ff){CSの呪縛}から、ようやく解き放たれた。


なお、3戦目の12回表、西武最後の攻撃が終わった際に、&font(#ff0000){1人だけ大はしゃぎしながらグラウンドに飛び出す}という珍プレーをやらかしてしまった。(引き分けでも日本シリーズ進出が確定する状態だった為、試合終了と勘違いしたものと思われる。)

今までのネタキャラっぷりを払拭する働きを見せながら、最終的に自ら新しいネタを供給してしまうという、なんとも微笑ましいCSとなった。



追記・修正は、1人でベンチから飛び出しながらお願いします。
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- 三冠王時代も凄いが、2006年の「100四球以上40三振以下」はNPBじゃ空前絶後なんじゃなかろうか。鳥谷や栗山が霞んで見えるレベルだが他に達成者はいるんかな?  -- 名無しさん  (2014-05-01 00:07:40)
- 二軍でバリー・ボンズみたいな成績を記録している模様。代打じゃなかったらまだ結果残せるかも知れんが、層が厚いから使う必要が無いというジレンマ  -- 名無しさん  (2014-06-28 01:44:20)
- ついに引退報道が なお、ホークス公式ツイッターは否定した模様 どっちやねん!  -- 名無しさん  (2015-09-29 14:20:22)
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