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独ソ戦 - (2011/07/14 (木) 19:05:25) の1つ前との変更点

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#contents ---- **映画スターリングラードは皆様から見て実際には考えられないシーンはあったでしょうか? 印象的なのが数人に一人しか銃が配布されないことだが、 あれは実際あった。ソ連に限らない。 手ぶらで戦場をうろついてる兵隊はいつでもどこでも居たらしい。 ソ連政治将校が味方の兵隊を撃つのもあった話。あれほど 大々的に撃つかどうかは微妙。 戦車のすぐ脇に兵が立っていて、戦車砲を発砲するのは かなりおかしい。爆風でぶっ倒れるし、鼓膜が危険。 戦車のすぐ脇に生身の人間が立っているのは、危険なので ふつうやらない。やっても後ろに立つ。 戦闘終了直後にいきなり高級将校がシャワー浴び出すのは どうかと思ったが。あり得なくはないが、不用心にもほどがある。 最前線で裸にはなりたがらないだろ、ふつう。 記憶にある限りではこんな感じかな。 #right(){(44:11)} **独ソ戦でドイツ軍はKV2戦車にかなり手を焼いたそうですが、開戦前にKV2の性能についてドイツ軍は掴んでいなかったんでしょうか? 存在は把握していたし性能も掴んでいた。 だが、独ソ戦に先だってのフィンランド戦争での実戦投入結果から、 KV-2(当初のドイツ側の呼称は大型砲塔KV戦車)は「陣地突破戦用の火力支援戦車」であり、 ソビエト軍が”守り”の戦闘を行うならば、拠点に固定配置されてトーチカのごとく 運用されると考えられていた(これはソビエト側の開発意図もそうなので分析としては正しい)。 その為、電撃戦では敵軍が強固に守る拠点は迂回して孤立させるか航空支援で潰すものなので、 ドイツ戦車が正面切ってこれと戦わねばならないような局面はそうそう無いであろうと考えられていた。 まさか、「単独でドイツ軍部隊に対し阻止突撃を仕掛ける」とか「五月雨式に投入し とにかく手近なドイツ軍部隊に殴りこませる」などといった運用をしてくるとは 思ってもいなかったため、ドイツ軍はKV-2に遭遇すると非常に苦労することになる。 だが、現実にはKV-2は足回りとエンジンに無理が掛かっているので故障が多く、 重量が重過ぎてちょっと路外走行をしただけで軟弱地にはまって動けなくなって しまったり重すぎて橋が渡れず無理やり橋を渡ろうとして橋ごと川に落下・・・と 戦闘以前に行動に不能になってしまったものが多く(この辺戦争後期のドイツ軍 重戦車群と同じ)、”伝説”として語られているほどには実際の戦闘では活躍は していない。 戦闘参加以前に上記のような理由で搭乗員に放棄されてしまった車両も多く、 ドイツ軍に「撃破」された車両の半数くらいは乗組員が爆破放棄したものであったり ドイツ側が行動不能になって放置されたものに弾を撃ち込んで「撃破した」という ことにしたものだったりして、そういう点でも戦争後期のドイツ軍重戦車と同じ 結果になっている。 いや、「重すぎる重戦車は自滅する」ということが独ソ戦の初期に既に証明されていた、 と言うべきか。 #right{(402:683)} **独ソ戦では補給が途絶えた地域で人肉食が日常的に行なわれたというのは本当? >市場では人肉が売買され、人肉目当ての子供の誘拐も横行したとか 今は手元にないので記憶モードだが ソールズベリー著「攻防900日」に同趣旨の記載がある。 雪道に解体された金髪の少女の生首が置いてあったとか ブーツを買いに出た若者がアパートに案内され、室内を覗いたところ 天井から解体された人体のパーツが吊り下げられていたとか (その若者は何とか逃亡、兵士に助けを求めて生き延びた)。 レニングラード周辺の攻防は3年くらい続いたが、ソ連が盛り返してくると 包囲下とはいえ生活も徐々に楽になっていったようだ。 1944年にソ連軍が独軍を駆逐して、完全に包囲が終わったあとの市場では 人肉を売る闇商人は姿を消し、みんなが子猫を買いたがっていたと書いてあった。 質問とは関係ないが、この本はルーデルがJu87を駆ってマラートを 大破着底させた時のレニングラード市民の証言も載っていて面白かった。 マラートの受けた大損害の様子は市民の間でも語り草になっていたみたい。 #right{(517:二人兄弟の墓 ◆z8d8W/sbaQ)} 『食人全書』のレニングラード包囲戦の章を嫁! #right{(517:754)} **スターリングラードって戦略的価値はあったんですか? >レニングラードやモスクワへ侵攻する進路よりはかなり南方だし、目の前は黒海やグルジア。 >カフカスまで攻めくだれば油田があるけど・・・ウクライナの穀倉地帯を確保するため? もともとスターリングラードは完全占領しようとしていた訳ではない A軍集団がカフカスの油田占領に失敗し、第四装甲軍との共同作戦であるドン河下流でのソ連軍撃滅にも失敗 このザマでは世界と同盟国に対するドイツの威信やヒトラーの威信まで危うい そのためヒトラーはスターリングラードにソ連軍けん制で展開していたB軍集団にスターリングラード完全占領の総統命令を発令した 何故スターリングラードの完全占領に踏み切ったかというとスターリングラードはその名の通り敵国の最高指導者の名前が冠されており 軍需産業の一大集積地でありヴォルガ河水上交通の要所であったため #right{(539:219)} **ソ連軍は独ソ戦で、戦車を先頭に数で押しつぶす戦法で大損害を出しました。どうして米軍のように空軍で支援しながら前進しなかったのですか? 戦車と火力、航空支援の活用による縦深戦術の提唱者だったトハチェフスキーが粛清され、 さらにそれが全軍に波及したために人材や戦術が低レベルのままだった。 独ソ戦開戦初頭にソ連空軍はドイツ空軍によって大打撃を受けており、 制空権を掌握されていたので航空支援を行うことが困難だった。 開戦当初のソ連戦車部隊の主力は三号や四号でも太刀打ちできるBTやT-26といった装甲の薄い戦車で、 T-34やKV-1の配備はまだ少数にとどまっていた。 戦車部隊と歩兵部隊を切り離して投入するような拙劣な戦術や、通信機器の不足から 戦車部隊が連携した行動を取れなかったことで戦車を活用できなかった。 アメリカからのトラックを始めとする物資の供与や、T-34の大量配備、ウラル以東での航空機を 始めとする兵器の増産、戦争中盤までの戦訓を基にした戦術の改良がなされて逆襲に転じるのが1943年以降となる。 #right(){(343:55)} **パンツァーフロントにザクセンドルフというマップがありますが、どういう戦場だったんでしょうか? ザクセンドルフはベルリン東方、オーデル河畔のキュストリンとゼーロウ高地の間にある小村。 http://www.geocities.com/panzerfrontuk/historysachsendorf.html に戦いの概要について記述されてる。 要約すればオーデル河を渡河したソ連軍が橋頭堡を築いたキュストリン奪回のためにSS第502重戦車大隊と第9降下猟兵師団が進撃した作戦。 しかしソ連軍の反撃にあい攻撃は挫折、この後両部隊はゼーロウへと後退し、さらに502はベルリンでの市街戦で最後を迎えることになる。 「SS戦車隊 下巻」の後半は502の戦闘記録が中心で、ごくわずかだがザクセンドルフ戦に関する記述がある。 (ただし地名がザクセンベルクと誤記されてるが) グーグルアースかマップでベルリン東方をみるとわりと簡単に見つかり、ここがベルリン防衛上の要地であることがわかる。 ちなみにパンフロのゼーロウはザクセンドルフのすぐ西、「最後の戦闘」のコルガスト(正しくはGorgast)はキュストリンのすぐ東でマップに出てくる要塞もちゃんとある。 #right(){(340:208)} **ドイツ軍はレニングラードを包囲したまま占領しませんでしたが、これはなぜ占領せず包囲にとどめたのでしょうか? >レニングラードを占領して海路からの補給線を確保した方がワルシャワで渋滞してた鉄道輸送の負荷軽減になり、 >また、モスクワ戦へ北方軍集団の一部を投入でき、メリットが大きそうなんですが。 戦力の余裕がなかったから。 独ソ戦初期のキエフやミンスクを占領した経緯から、ソビエト軍が頑強に守る 都市を陥落させて掃討し仕掛けられた爆薬等を撤去して完全な制圧下に置く には物凄い手間と人員と物資と予算がかかることが解っていたので、あえて 作戦目的に「都市を占領しての完全制圧」を入れなかった。 スターリングラード戦の経過と顛末を見るにこの判断は正しかったと思われる。 レニングラードは放置することはできず、かといって陥とすには方手間では無理・・・ という非常に厄介な目標で、ドイツ軍としても頭の痛い所であったろう。 後出しジャンケンで考えるなら、モスクワさえ早期に陥としてしまえば後はなんと でもなったろうからレニングラード包囲に裂いた戦力をモスクワ攻略に使えば よかったのだろうが・・・。 >モスクワ陥落したらなんとでもなる、の根拠は何? 兵器工場がモスクワに集中していたからじゃないの。 モスクワが落ちるさなか疎開が順調に進むとも思えないし、 たとえ順調にいったとしても丸一年は掛かるだろうし、 T34の生産能力が半減どころか三分の一にまで減ったら逆転は難しいでしょう。 いや、モスクワやレニングラードが脅かされた頃には戦車工場を初め 兵器工場はみんなウラルに避難してたわけだが。 ”タンコグラード”と呼ばれるようになったチェリャビンスクなんか 有名だな。 「モスクワが脅かされた頃」には、首都機能はクイビシェフ(現サマーラ)に移転していたわけだが #right(){(339:535-617)} **独ソ戦開戦時のドイツ軍の配備状況 「1941年6月22日におけるドイツ軍は205個師団 西方戦場 28個師団 ノルウェー 12個師団 デンマーク 1個師団 バルカン 7個師団 リビア 2個師団 東部戦線投入可能兵力 145個師団」 下記、メモを参照ください。 http://www.oc.jful.jp/~oc429s/newpage13.htm #right(){(603:霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk.)} **ドイツ軍は常に劣勢の兵力でソ連軍と戦ってたの? 緒戦からして枢軸国軍の方が多いんですけど バルバロッサ作戦は350万超えてる枢軸国軍(独軍だけでも300万)と250万強のソ連軍の戦い これが逆転するのはモスクワ戦の辺りで、それまでは一貫して枢軸側の方が多い #right(){(603:476)} **1944年6月22日の時点で、ドイツ北方軍集団には1個装甲師団(第12、リガ近郊)、中央軍集団には1個装甲師団(第20、ミンスク近郊)しか配備されていないようですが、なぜ? >それに対して北ウクライナ軍集団には10個(ハンガリー第1戦車師団を含む)、南ウクライナ軍集団には8個(GD師団を含む)と、 >プリピャチ沼沢地の北側に比べて非常に手厚い配備状況になっています。 >中央軍集団が東に突出した形になっているにもかかわらずこのように偏った配置になっているのは >素人目にも危険に思えますし、事実壊滅してしまいましたがどういう理由があったのでしょうか? それまでのソビエト軍の攻勢志向から、すでに大損害を受けカルパチア山脈ふきんまで後退してた 南北ウクライナ軍集団をそのまま突破してバルト海まで駆け抜け中央軍集団を丸ごと包囲すると予測したから、 無理をして北方、中央、両軍集団から装甲部隊を指しまわしたから。 けっかてきに予測が外れたわけだ。 #right(){(604:826)} **北方軍集団がドヴィナ川を渡る前に最後に遭遇したソ連軍の機甲部隊との戦いはどんなものでしたか >敗北の情報は正しく伝えられましたか? バルバロッサ作戦の初期 北部で、レープの北方軍集団が目的地である、バルト軍管区の向こう側、レニングラードを目指し 彼らとそのの間にある最大の障害、ドヴィナ川に向かって進軍していた ゲオルグ・ハンス・ラインハルトの第42機甲師団は、6月23日の夜に リストニアのライゼニヤ村において、編成されたばかりの機械化軍団の一部である戦車部隊に攻撃を受けた しかし、編成されて間もないこの部隊が、ドイツの熟練した機甲部隊にかなうはずもなく 戦術は単純そのもの、ただただ、火力で勝る敵に対し正面から波状攻撃を掛けていった 当然、自らの手で戦力を消耗する形となり 挙句の果てに、側面からの別働隊の攻撃にさらされ湿地帯に追い込まれた 結局、ソ連軍虎の子の戦車部隊は185両の損失を出し、全滅 ドイツ軍はほとんど損害を出さず、何食わぬ顔でソヴィナ川に向かって進軍していった ソ連機甲部隊の唯一の戦火といえば、弾薬と燃料を浪費させ さらにほんの数時間、ドイツの進撃を鈍らせたにとどまった 情報については、同日午後十時 ―「ソ連側に有利な戦況にあり、ドイツは押し戻されている」― ・・・ソ連軍参謀総長を務めるゲオルギー・K・ジェーコフが 開戦後の戦況とこう判断したことからわかるように モスクワでは、すべての命令が実行され、ドイツ軍に対して猛反撃が加えられているだろうと確信していた つまり、情報は正しく伝えられず、命令と架空の戦況のみが報告されていた #right(){(315:名無し上級大将 ◆80fYLf0UTM)} **独ソ戦でドイツ軍は冬将軍に悩まされていましたが、当時ソ連軍はどのような防寒装備をしていたのでしょうか? ソ連軍の防寒装備で最も基本になったのは、ウール製のコート。 シューバと呼ばれる羊の毛皮を使った厚手のコートもあります。 裏側には羊毛が敷き詰められており、保温性は非常に高いです。 また、1941年にはチュラグレイカと呼ばれる木綿製のキルティング 衣服も用いられました。 ブーツは皮製で、ワレンキと呼ばれるフェルト製のオーバーシューズを 使うこともあります。 ブーツを履くときには、ポルチャンキと呼ばれる木綿製の布を 靴下代わりにしっかり足に巻いて、その上からブーツを履きます。 冬季は分厚い布を使い、隙間には藁などを詰めました。 #right(){(314:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} **ドイツ軍の歩兵で一人で10何両のソ連戦車を撃退したやつがいたそうですが、その人の名前を教えていただけませんか レミ・シュライネン http://spysee.jp/%E3%83%AC%E3%83%9F%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8D%E3%83%B3/1331700/ #right(){(299:322)} **レニングラード市民は何故逃げなかったの?祖国の為に戦う決意があったから? 陸路がほぼ完全に包囲されていました。冬季になると湖が凍り付いてその上に鉄道を 仮設し補給ができるようになりました。動力橇なども使用され、氷の上にトラックが 通行できる道も作られたようです。 市民は全員が戦闘員として動員され子どもや老人もバリケードを作ることになりました。 レニングラード大学の女子学生と戦車工場の女子工員が銃を持って突撃し全滅した記録も 残っています。 フィンランド軍はドイツの再三の要請にも関わらず旧国境線から前進せず、包囲戦に参加 しませんでした。結果的にこれは後にフィンランドの立場をよくする好判断でした #right(){(652:543)} **スターリングラードではソ連狙撃兵が勝因でしたか? 勝因の一つでした。 下記、『最強の狙撃手』 アルブレヒト・ヴァッカーから引用 http://yakouhai.seesaa.net/article/73650639.html 「熟練の狙撃兵ならば、たった一人で敵部隊を足止めすることが可能だからです。 後退時の後衛として、狙撃兵ほどうってつけの存在はいませんでした。 ただし、ドイツ軍がこうした狙撃兵戦術を学んだのは、モスクワ前面での苦い教訓からでした。 ソ連軍の狙撃兵は、まさにこの戦術によって、ドイツ軍の進撃を遅滞せしめ、冬将軍の到来まで耐え抜いたのです。 致命的なことに、バルバロッサ作戦開始時、ドイツ軍にはソ連軍狙撃兵に対抗すべき狙撃兵が、ほとんど存在しませんでした。 というのも、ドイツ軍は1931年に狙撃兵という兵種を事実上、廃止していたからです。 マイク・ハスキュー『戦場の狙撃手』P67によれば、1931年12月5日付け陸軍総司令官指令として「現有分を除き、 以降はスコープ付狙撃銃を生産・保管しない」との通達が発せられたとのこと。 これに対しソ連軍は、1930年代初頭から狙撃兵の育成に重点を置いていました。 狙撃兵予備軍の証であるヴォロシロフ射手章を有する兵士は、1938年時点で600万人も存在し、 モシン・ナガン狙撃銃は独ソ戦勃発後、毎年5万丁も生産されました(『戦場の狙撃手』P106)。 これではソ連軍狙撃兵の排除に苦労するのは当然でした。 悩んだドイツ軍は、窮余の策として前線の兵に狙撃銃を持たせ、即席狙撃兵を作ることで対抗することになります。 」 #right(){(686:霞ヶ浦の住人 ◆1qAMMeUK0I)} **レニングラードは列車砲で砲撃していましたが、連日砲撃を続けていれば町は壊滅しなかったんですか? レニングラードを砲撃してた列車砲は、弾薬の集積が進まず、ろくに砲撃を行わないうちに、 第11軍と共にセバストポリ要塞攻略のために南方軍集団に引きぬかれています。 レニングラードって、市となのってるけど、WW2で占領されたのは、市の上のレニングラード州の一部が占領されただけで、 その州の大きさも関東平野の6倍近く大きいので、市街地の外縁の防御陣地を砲撃するのが精一杯です。 #right(){(687:334)} **スターリングラード包囲戦において、ソ連兵に化けて包囲を突破したドイツ兵はいなかったのでしょうか? グムラク飛行場の喪失などで、空路からの脱出手段がなくなった後徒歩で脱出に成功した者はいなかったはず。 第6軍が降伏した43年2月以降、徒歩でドイツ軍の戦線方向に歩く個人や小部隊は偵察機などから目撃されているが、いずれも消息を絶っている。 カレルのバルバロッサ作戦に、ただ一人友軍にたどり着いた直後に砲撃で死んだ下士官の話が出てくるが、これは実話ではないらしい。 他の戦場では、ロシア語が堪能なバルト出身のドイツ人が捕虜を後送するロシア兵に化けて戦線の突破に成功した例などがある。 #right(){(287:887)} **ドイツ上層部はソ連領内の鉄道の規格が違う事や道路事情が悪い事を事前に認識していたのでしょうか? 絶版になってますが「補給戦」には割と詳しく書かれています。 鉄道に道路網は考えずに侵攻を開始したようです。 ドイツ陸軍には鉄道連隊があって、侵攻に合わせて鉄道の幅を 改修して、トラック輸送部隊で不足分は補えると考えてました。 実際は鉄道連隊は数が少なく(西部戦線で手がいっぱい)前線 部隊の進撃に追いつけなかった。ロシアの道路網も舗装道路は モスクワ-スモレンスク間だけで、その他は良くて砂利道でした。 西ヨーロッパの地図表記と、ソビエトの道路の表記は同じだと 勘違いをしており、道路網の不備と泥道が進撃を阻んだと言って 間違いがありません。ドイツ陸軍の戦車も機械化部隊も基本的 には、舗装道路を進撃する軍隊だったのです。不整地の走破力は 非常に非力でした。 #right(){(151:一等自営業 ◆JYO8gZHKO.)} **WW2の東部戦線において「コサック義勇兵の中隊」などといったものが登場するのですが。 SSの義勇師団も含めての話かな? 主にスラブやカフカス地方の住民で構成された陸軍の外国人部隊(いわゆる東方大隊)は、 基本は大隊編成だが連隊や師団規模の部隊もあった。 師団規模以上だとパンヴィッツ将軍が率いたコサック騎兵師団とか、ウラソフのロシア解放軍とか。 ただ兵士たちの来歴(反共主義から熱烈に戦ったコサックもいれば、収容所での餓死を逃れるために志願した捕虜もいる)もさまざま。 ヒトラーやヒムラーのスラブ人蔑視から大規模な部隊の編成や実戦投入が中々許可されなかった為に、多くは後方での 建設労働や捕虜収容所の警備といった汚れ仕事をやらされている。 これらの部隊の成り立ちや戦歴、運命についてはユルゲン・トールヴァルトの「幻影 ヒトラーの側で戦った赤軍兵たちの物語」 (フジ出版)が詳しい。 #right(){(248:991) ----
#contents ---- **映画スターリングラードは皆様から見て実際には考えられないシーンはあったでしょうか? 印象的なのが数人に一人しか銃が配布されないことだが、 あれは実際あった。ソ連に限らない。 手ぶらで戦場をうろついてる兵隊はいつでもどこでも居たらしい。 ソ連政治将校が味方の兵隊を撃つのもあった話。あれほど 大々的に撃つかどうかは微妙。 戦車のすぐ脇に兵が立っていて、戦車砲を発砲するのは かなりおかしい。爆風でぶっ倒れるし、鼓膜が危険。 戦車のすぐ脇に生身の人間が立っているのは、危険なので ふつうやらない。やっても後ろに立つ。 戦闘終了直後にいきなり高級将校がシャワー浴び出すのは どうかと思ったが。あり得なくはないが、不用心にもほどがある。 最前線で裸にはなりたがらないだろ、ふつう。 記憶にある限りではこんな感じかな。 #right(){(44:11)} **独ソ戦でドイツ軍はKV2戦車にかなり手を焼いたそうですが、開戦前にKV2の性能についてドイツ軍は掴んでいなかったんでしょうか? 存在は把握していたし性能も掴んでいた。 だが、独ソ戦に先だってのフィンランド戦争での実戦投入結果から、 KV-2(当初のドイツ側の呼称は大型砲塔KV戦車)は「陣地突破戦用の火力支援戦車」であり、 ソビエト軍が”守り”の戦闘を行うならば、拠点に固定配置されてトーチカのごとく 運用されると考えられていた(これはソビエト側の開発意図もそうなので分析としては正しい)。 その為、電撃戦では敵軍が強固に守る拠点は迂回して孤立させるか航空支援で潰すものなので、 ドイツ戦車が正面切ってこれと戦わねばならないような局面はそうそう無いであろうと考えられていた。 まさか、「単独でドイツ軍部隊に対し阻止突撃を仕掛ける」とか「五月雨式に投入し とにかく手近なドイツ軍部隊に殴りこませる」などといった運用をしてくるとは 思ってもいなかったため、ドイツ軍はKV-2に遭遇すると非常に苦労することになる。 だが、現実にはKV-2は足回りとエンジンに無理が掛かっているので故障が多く、 重量が重過ぎてちょっと路外走行をしただけで軟弱地にはまって動けなくなって しまったり重すぎて橋が渡れず無理やり橋を渡ろうとして橋ごと川に落下・・・と 戦闘以前に行動に不能になってしまったものが多く(この辺戦争後期のドイツ軍 重戦車群と同じ)、”伝説”として語られているほどには実際の戦闘では活躍は していない。 戦闘参加以前に上記のような理由で搭乗員に放棄されてしまった車両も多く、 ドイツ軍に「撃破」された車両の半数くらいは乗組員が爆破放棄したものであったり ドイツ側が行動不能になって放置されたものに弾を撃ち込んで「撃破した」という ことにしたものだったりして、そういう点でも戦争後期のドイツ軍重戦車と同じ 結果になっている。 いや、「重すぎる重戦車は自滅する」ということが独ソ戦の初期に既に証明されていた、 と言うべきか。 #right{(402:683)} **独ソ戦では補給が途絶えた地域で人肉食が日常的に行なわれたというのは本当? >市場では人肉が売買され、人肉目当ての子供の誘拐も横行したとか 今は手元にないので記憶モードだが ソールズベリー著「攻防900日」に同趣旨の記載がある。 雪道に解体された金髪の少女の生首が置いてあったとか ブーツを買いに出た若者がアパートに案内され、室内を覗いたところ 天井から解体された人体のパーツが吊り下げられていたとか (その若者は何とか逃亡、兵士に助けを求めて生き延びた)。 レニングラード周辺の攻防は3年くらい続いたが、ソ連が盛り返してくると 包囲下とはいえ生活も徐々に楽になっていったようだ。 1944年にソ連軍が独軍を駆逐して、完全に包囲が終わったあとの市場では 人肉を売る闇商人は姿を消し、みんなが子猫を買いたがっていたと書いてあった。 質問とは関係ないが、この本はルーデルがJu87を駆ってマラートを 大破着底させた時のレニングラード市民の証言も載っていて面白かった。 マラートの受けた大損害の様子は市民の間でも語り草になっていたみたい。 #right{(517:二人兄弟の墓 ◆z8d8W/sbaQ)} 『食人全書』のレニングラード包囲戦の章を嫁! #right{(517:754)} **スターリングラードって戦略的価値はあったんですか? >レニングラードやモスクワへ侵攻する進路よりはかなり南方だし、目の前は黒海やグルジア。 >カフカスまで攻めくだれば油田があるけど・・・ウクライナの穀倉地帯を確保するため? もともとスターリングラードは完全占領しようとしていた訳ではない A軍集団がカフカスの油田占領に失敗し、第四装甲軍との共同作戦であるドン河下流でのソ連軍撃滅にも失敗 このザマでは世界と同盟国に対するドイツの威信やヒトラーの威信まで危うい そのためヒトラーはスターリングラードにソ連軍けん制で展開していたB軍集団にスターリングラード完全占領の総統命令を発令した 何故スターリングラードの完全占領に踏み切ったかというとスターリングラードはその名の通り敵国の最高指導者の名前が冠されており 軍需産業の一大集積地でありヴォルガ河水上交通の要所であったため #right{(539:219)} **ソ連軍は独ソ戦で、戦車を先頭に数で押しつぶす戦法で大損害を出しました。どうして米軍のように空軍で支援しながら前進しなかったのですか? 戦車と火力、航空支援の活用による縦深戦術の提唱者だったトハチェフスキーが粛清され、 さらにそれが全軍に波及したために人材や戦術が低レベルのままだった。 独ソ戦開戦初頭にソ連空軍はドイツ空軍によって大打撃を受けており、 制空権を掌握されていたので航空支援を行うことが困難だった。 開戦当初のソ連戦車部隊の主力は三号や四号でも太刀打ちできるBTやT-26といった装甲の薄い戦車で、 T-34やKV-1の配備はまだ少数にとどまっていた。 戦車部隊と歩兵部隊を切り離して投入するような拙劣な戦術や、通信機器の不足から 戦車部隊が連携した行動を取れなかったことで戦車を活用できなかった。 アメリカからのトラックを始めとする物資の供与や、T-34の大量配備、ウラル以東での航空機を 始めとする兵器の増産、戦争中盤までの戦訓を基にした戦術の改良がなされて逆襲に転じるのが1943年以降となる。 #right(){(343:55)} **パンツァーフロントにザクセンドルフというマップがありますが、どういう戦場だったんでしょうか? ザクセンドルフはベルリン東方、オーデル河畔のキュストリンとゼーロウ高地の間にある小村。 http://www.geocities.com/panzerfrontuk/historysachsendorf.html に戦いの概要について記述されてる。 要約すればオーデル河を渡河したソ連軍が橋頭堡を築いたキュストリン奪回のためにSS第502重戦車大隊と第9降下猟兵師団が進撃した作戦。 しかしソ連軍の反撃にあい攻撃は挫折、この後両部隊はゼーロウへと後退し、さらに502はベルリンでの市街戦で最後を迎えることになる。 「SS戦車隊 下巻」の後半は502の戦闘記録が中心で、ごくわずかだがザクセンドルフ戦に関する記述がある。 (ただし地名がザクセンベルクと誤記されてるが) グーグルアースかマップでベルリン東方をみるとわりと簡単に見つかり、ここがベルリン防衛上の要地であることがわかる。 ちなみにパンフロのゼーロウはザクセンドルフのすぐ西、「最後の戦闘」のコルガスト(正しくはGorgast)はキュストリンのすぐ東でマップに出てくる要塞もちゃんとある。 #right(){(340:208)} **ドイツ軍はレニングラードを包囲したまま占領しませんでしたが、これはなぜ占領せず包囲にとどめたのでしょうか? >レニングラードを占領して海路からの補給線を確保した方がワルシャワで渋滞してた鉄道輸送の負荷軽減になり、 >また、モスクワ戦へ北方軍集団の一部を投入でき、メリットが大きそうなんですが。 戦力の余裕がなかったから。 独ソ戦初期のキエフやミンスクを占領した経緯から、ソビエト軍が頑強に守る 都市を陥落させて掃討し仕掛けられた爆薬等を撤去して完全な制圧下に置く には物凄い手間と人員と物資と予算がかかることが解っていたので、あえて 作戦目的に「都市を占領しての完全制圧」を入れなかった。 スターリングラード戦の経過と顛末を見るにこの判断は正しかったと思われる。 レニングラードは放置することはできず、かといって陥とすには方手間では無理・・・ という非常に厄介な目標で、ドイツ軍としても頭の痛い所であったろう。 後出しジャンケンで考えるなら、モスクワさえ早期に陥としてしまえば後はなんと でもなったろうからレニングラード包囲に裂いた戦力をモスクワ攻略に使えば よかったのだろうが・・・。 >モスクワ陥落したらなんとでもなる、の根拠は何? 兵器工場がモスクワに集中していたからじゃないの。 モスクワが落ちるさなか疎開が順調に進むとも思えないし、 たとえ順調にいったとしても丸一年は掛かるだろうし、 T34の生産能力が半減どころか三分の一にまで減ったら逆転は難しいでしょう。 いや、モスクワやレニングラードが脅かされた頃には戦車工場を初め 兵器工場はみんなウラルに避難してたわけだが。 ”タンコグラード”と呼ばれるようになったチェリャビンスクなんか 有名だな。 「モスクワが脅かされた頃」には、首都機能はクイビシェフ(現サマーラ)に移転していたわけだが #right(){(339:535-617)} **独ソ戦開戦時のドイツ軍の配備状況 「1941年6月22日におけるドイツ軍は205個師団 西方戦場 28個師団 ノルウェー 12個師団 デンマーク 1個師団 バルカン 7個師団 リビア 2個師団 東部戦線投入可能兵力 145個師団」 下記、メモを参照ください。 http://www.oc.jful.jp/~oc429s/newpage13.htm #right(){(603:霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk.)} **ドイツ軍は常に劣勢の兵力でソ連軍と戦ってたの? 緒戦からして枢軸国軍の方が多いんですけど バルバロッサ作戦は350万超えてる枢軸国軍(独軍だけでも300万)と250万強のソ連軍の戦い これが逆転するのはモスクワ戦の辺りで、それまでは一貫して枢軸側の方が多い #right(){(603:476)} **1944年6月22日の時点で、ドイツ北方軍集団には1個装甲師団(第12、リガ近郊)、中央軍集団には1個装甲師団(第20、ミンスク近郊)しか配備されていないようですが、なぜ? >それに対して北ウクライナ軍集団には10個(ハンガリー第1戦車師団を含む)、南ウクライナ軍集団には8個(GD師団を含む)と、 >プリピャチ沼沢地の北側に比べて非常に手厚い配備状況になっています。 >中央軍集団が東に突出した形になっているにもかかわらずこのように偏った配置になっているのは >素人目にも危険に思えますし、事実壊滅してしまいましたがどういう理由があったのでしょうか? それまでのソビエト軍の攻勢志向から、すでに大損害を受けカルパチア山脈ふきんまで後退してた 南北ウクライナ軍集団をそのまま突破してバルト海まで駆け抜け中央軍集団を丸ごと包囲すると予測したから、 無理をして北方、中央、両軍集団から装甲部隊を指しまわしたから。 けっかてきに予測が外れたわけだ。 #right(){(604:826)} **北方軍集団がドヴィナ川を渡る前に最後に遭遇したソ連軍の機甲部隊との戦いはどんなものでしたか >敗北の情報は正しく伝えられましたか? バルバロッサ作戦の初期 北部で、レープの北方軍集団が目的地である、バルト軍管区の向こう側、レニングラードを目指し 彼らとそのの間にある最大の障害、ドヴィナ川に向かって進軍していた ゲオルグ・ハンス・ラインハルトの第42機甲師団は、6月23日の夜に リストニアのライゼニヤ村において、編成されたばかりの機械化軍団の一部である戦車部隊に攻撃を受けた しかし、編成されて間もないこの部隊が、ドイツの熟練した機甲部隊にかなうはずもなく 戦術は単純そのもの、ただただ、火力で勝る敵に対し正面から波状攻撃を掛けていった 当然、自らの手で戦力を消耗する形となり 挙句の果てに、側面からの別働隊の攻撃にさらされ湿地帯に追い込まれた 結局、ソ連軍虎の子の戦車部隊は185両の損失を出し、全滅 ドイツ軍はほとんど損害を出さず、何食わぬ顔でソヴィナ川に向かって進軍していった ソ連機甲部隊の唯一の戦火といえば、弾薬と燃料を浪費させ さらにほんの数時間、ドイツの進撃を鈍らせたにとどまった 情報については、同日午後十時 ―「ソ連側に有利な戦況にあり、ドイツは押し戻されている」― ・・・ソ連軍参謀総長を務めるゲオルギー・K・ジェーコフが 開戦後の戦況とこう判断したことからわかるように モスクワでは、すべての命令が実行され、ドイツ軍に対して猛反撃が加えられているだろうと確信していた つまり、情報は正しく伝えられず、命令と架空の戦況のみが報告されていた #right(){(315:名無し上級大将 ◆80fYLf0UTM)} **独ソ戦でドイツ軍は冬将軍に悩まされていましたが、当時ソ連軍はどのような防寒装備をしていたのでしょうか? ソ連軍の防寒装備で最も基本になったのは、ウール製のコート。 シューバと呼ばれる羊の毛皮を使った厚手のコートもあります。 裏側には羊毛が敷き詰められており、保温性は非常に高いです。 また、1941年にはチュラグレイカと呼ばれる木綿製のキルティング 衣服も用いられました。 ブーツは皮製で、ワレンキと呼ばれるフェルト製のオーバーシューズを 使うこともあります。 ブーツを履くときには、ポルチャンキと呼ばれる木綿製の布を 靴下代わりにしっかり足に巻いて、その上からブーツを履きます。 冬季は分厚い布を使い、隙間には藁などを詰めました。 #right(){(314:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)} **ドイツ軍の歩兵で一人で10何両のソ連戦車を撃退したやつがいたそうですが、その人の名前を教えていただけませんか レミ・シュライネン http://spysee.jp/%E3%83%AC%E3%83%9F%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8D%E3%83%B3/1331700/ #right(){(299:322)} **レニングラード市民は何故逃げなかったの?祖国の為に戦う決意があったから? 陸路がほぼ完全に包囲されていました。冬季になると湖が凍り付いてその上に鉄道を 仮設し補給ができるようになりました。動力橇なども使用され、氷の上にトラックが 通行できる道も作られたようです。 市民は全員が戦闘員として動員され子どもや老人もバリケードを作ることになりました。 レニングラード大学の女子学生と戦車工場の女子工員が銃を持って突撃し全滅した記録も 残っています。 フィンランド軍はドイツの再三の要請にも関わらず旧国境線から前進せず、包囲戦に参加 しませんでした。結果的にこれは後にフィンランドの立場をよくする好判断でした #right(){(652:543)} **スターリングラードではソ連狙撃兵が勝因でしたか? 勝因の一つでした。 下記、『最強の狙撃手』 アルブレヒト・ヴァッカーから引用 http://yakouhai.seesaa.net/article/73650639.html 「熟練の狙撃兵ならば、たった一人で敵部隊を足止めすることが可能だからです。 後退時の後衛として、狙撃兵ほどうってつけの存在はいませんでした。 ただし、ドイツ軍がこうした狙撃兵戦術を学んだのは、モスクワ前面での苦い教訓からでした。 ソ連軍の狙撃兵は、まさにこの戦術によって、ドイツ軍の進撃を遅滞せしめ、冬将軍の到来まで耐え抜いたのです。 致命的なことに、バルバロッサ作戦開始時、ドイツ軍にはソ連軍狙撃兵に対抗すべき狙撃兵が、ほとんど存在しませんでした。 というのも、ドイツ軍は1931年に狙撃兵という兵種を事実上、廃止していたからです。 マイク・ハスキュー『戦場の狙撃手』P67によれば、1931年12月5日付け陸軍総司令官指令として「現有分を除き、 以降はスコープ付狙撃銃を生産・保管しない」との通達が発せられたとのこと。 これに対しソ連軍は、1930年代初頭から狙撃兵の育成に重点を置いていました。 狙撃兵予備軍の証であるヴォロシロフ射手章を有する兵士は、1938年時点で600万人も存在し、 モシン・ナガン狙撃銃は独ソ戦勃発後、毎年5万丁も生産されました(『戦場の狙撃手』P106)。 これではソ連軍狙撃兵の排除に苦労するのは当然でした。 悩んだドイツ軍は、窮余の策として前線の兵に狙撃銃を持たせ、即席狙撃兵を作ることで対抗することになります。 」 #right(){(686:霞ヶ浦の住人 ◆1qAMMeUK0I)} **レニングラードは列車砲で砲撃していましたが、連日砲撃を続けていれば町は壊滅しなかったんですか? レニングラードを砲撃してた列車砲は、弾薬の集積が進まず、ろくに砲撃を行わないうちに、 第11軍と共にセバストポリ要塞攻略のために南方軍集団に引きぬかれています。 レニングラードって、市となのってるけど、WW2で占領されたのは、市の上のレニングラード州の一部が占領されただけで、 その州の大きさも関東平野の6倍近く大きいので、市街地の外縁の防御陣地を砲撃するのが精一杯です。 #right(){(687:334)} **スターリングラード包囲戦において、ソ連兵に化けて包囲を突破したドイツ兵はいなかったのでしょうか? グムラク飛行場の喪失などで、空路からの脱出手段がなくなった後徒歩で脱出に成功した者はいなかったはず。 第6軍が降伏した43年2月以降、徒歩でドイツ軍の戦線方向に歩く個人や小部隊は偵察機などから目撃されているが、いずれも消息を絶っている。 カレルのバルバロッサ作戦に、ただ一人友軍にたどり着いた直後に砲撃で死んだ下士官の話が出てくるが、これは実話ではないらしい。 他の戦場では、ロシア語が堪能なバルト出身のドイツ人が捕虜を後送するロシア兵に化けて戦線の突破に成功した例などがある。 #right(){(287:887)} **ドイツ上層部はソ連領内の鉄道の規格が違う事や道路事情が悪い事を事前に認識していたのでしょうか? 絶版になってますが「補給戦」には割と詳しく書かれています。 鉄道に道路網は考えずに侵攻を開始したようです。 ドイツ陸軍には鉄道連隊があって、侵攻に合わせて鉄道の幅を 改修して、トラック輸送部隊で不足分は補えると考えてました。 実際は鉄道連隊は数が少なく(西部戦線で手がいっぱい)前線 部隊の進撃に追いつけなかった。ロシアの道路網も舗装道路は モスクワ-スモレンスク間だけで、その他は良くて砂利道でした。 西ヨーロッパの地図表記と、ソビエトの道路の表記は同じだと 勘違いをしており、道路網の不備と泥道が進撃を阻んだと言って 間違いがありません。ドイツ陸軍の戦車も機械化部隊も基本的 には、舗装道路を進撃する軍隊だったのです。不整地の走破力は 非常に非力でした。 #right(){(151:一等自営業 ◆JYO8gZHKO.)} **WW2の東部戦線において「コサック義勇兵の中隊」などといったものが登場するのですが。 SSの義勇師団も含めての話かな? 主にスラブやカフカス地方の住民で構成された陸軍の外国人部隊(いわゆる東方大隊)は、 基本は大隊編成だが連隊や師団規模の部隊もあった。 師団規模以上だとパンヴィッツ将軍が率いたコサック騎兵師団とか、ウラソフのロシア解放軍とか。 ただ兵士たちの来歴(反共主義から熱烈に戦ったコサックもいれば、収容所での餓死を逃れるために志願した捕虜もいる)もさまざま。 ヒトラーやヒムラーのスラブ人蔑視から大規模な部隊の編成や実戦投入が中々許可されなかった為に、多くは後方での 建設労働や捕虜収容所の警備といった汚れ仕事をやらされている。 これらの部隊の成り立ちや戦歴、運命についてはユルゲン・トールヴァルトの「幻影 ヒトラーの側で戦った赤軍兵たちの物語」 (フジ出版)が詳しい。 #right(){(248:991)} ----

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