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戦後関連2 - (2011/04/06 (水) 19:02:45) の編集履歴(バックアップ)



太平洋戦争当時の機雷っていまだに残っているんですか?

残っています。
今でも年に数発ほどのペースで見つかっており、そのつど掃海隊が処分しています。

ここ数年でも、漂着した機雷の信管をそれと知らずにいじったり、焚き火に突っ込んだり
して爆発負傷する事故もおきています。
(42:797)

井上成美の戦犯等についてもおしえてください

井上成美は昭和50年(1975)12月15日、午後5:55
横須賀市長井町の自宅で富士子夫人に看取られて
亡くなられました(享年86歳)

戦後の井上は、親米英派であり三国同盟や
日米開戦に反対していた為、戦犯にはなりませんでした

因みに戦後米海軍横須賀基地から顧問就任を要請されて
いたという話もあるそうです
(43:933)

旧軍の元憲兵って今でも嫌われてるのでしょうか?

うちの実家の隣のおっちゃんが憲兵でした。
うちの爺さん(看護兵長だったかな)は蛇蝎のごとく嫌ってました。
(47:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

戦後、宮崎繁三郎や今村均や岡村寧次ってどうなったの?

今村 均大将は終戦後東京裁判で禁固10年の判決を受け、昭和23年5月に
ジャワの刑務所に移送(後マヌス島刑務所に移送)され、1953(昭和28)年8月巣鴨刑務所に移転し
昭和29年11月釈放されました。その後故郷に帰られ昭和43年に亡くなられました。

岡村 寧次大将は昭和20年9月9日南京で何応欽将軍に降伏しましたがその後、
中国の戦犯裁判では無罪となっています。
その後蒋介石政権の支援活動を行い台湾に渡って軍事顧問になった事もあるとか。
昭和41年9月2日死去。

宮崎繁三郎中将は昭和20年8月21日終戦を知らされ、英軍の捕虜収容所に入りました。
昭和22年6月帰国、下北沢に店を開きます。なかなか目先の利く人だったとか。
昭和43年8月30日死去。
昏睡状態での最期の言葉は
「参謀、敵中突破で、分離した部隊をまちがいなく掌握したか?」
(47:名無し軍曹)

日本が第2次大戦で攻め込んだ国々で現在それらの国々の対日感情はどうなんでしょうか

いろんな感情が無い混ぜになっている…というべきでしょうか。

実際、肯定的評価を与えてくれている人々は少なくありません。
例えば、日本は、東南アジア諸国のナショナリスト達を支援しました。
軍政下においてさえ、インフラが整備されたところもあり、そのことは感謝される。
さらに、元日本兵達が、戦後直後の独立運動に投じたという国もあります。
また、武装解除した日本軍の武器を使ったようなところさえある。
ビルマ、インドネシア、マレーシアなどで、好意的評価をしてくれる人は、それなりにいます。

しかしながら、ナショナリスト達を支援しながら、傀儡政権を立て、軍政を継続させた、
として、「裏切った」という評価をする人々もいます。
軍政下において憲兵達に抑圧された人達もいます。特に、抗日運動に投じた人々を中心に。
「おいこら」「きさま」のような憲兵の言葉が、他人をなじったり詰問したりする言葉として
定着してしまったというような地方もあります。
また、逮捕された抗日運動家や一般市民に対して、虐待的行為に及んだ批判の声も、
やはりあります。
戦闘に巻き込まれ、あるいは、掠奪にあったような人達もいるでしょう。
最初っから英米軍と組んでいて、日本を憎悪の対象とした人達もいます。

一様じゃないんです。
そうした感情的なないまぜは、いたるところで発見できるはずです。
(47:787)

現在でも爆心地付近は周辺地域に比べ放射線量が多いのか?

高い
(47:229)
  • 以下引用
現在の広島や長崎にある放射線は、地球上のどこにでもあるごく少ない放射線(自然放射線)と変わりなく、
人の体にも影響を与えることはありません。
爆心地での残留放射線を受ける量は、爆発直後とくらべると、その24時間後には千分の一になり、
一週間後には百万分の一になったという研究報告があります。
(名無し三等兵)

神奈川県の八景島の近くにある野島公園内の立ち入り禁止になっているトンネルは何?

うちの親父(金沢八景出身,現在55歳)によれば,
大戦中には戦闘機の格納庫があったとのこと.
(48:181)

何で、中島知久平はA級戦犯になったの?

軍人→軍用機の会社社長→国会議員

有力な政治家だったから
(48:811)
中島知久平は、小林一三、五島慶太、堤康二郎と並んで、政界の新興勢力
の一端に連なっていました。
商務大臣、鉄道大臣、軍需大臣を歴任しています。
戦争を遂行したものとして、戦後公職追放になっています。

ハインケルも同様にフランス軍に戦犯として捕らえられています。
ちなみに、ポルシェも同じくフランス軍に捕らえられていました。
クルト・タンクは戦犯に問われることなく、Argentinaに渡り、ペロン大統領の下で
世界最初に近い、後退翼国産ジェット戦闘機プルキIIを製作し、インドに渡って、
HF-24を製作指揮しています。
(48:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

太平洋戦争中、朝鮮人で中将がいたといいますが、戦歴は、戦後どーなった?

BC級戦犯として処刑されています。
(48:695)

シベリアに抑留された元日本兵がこれだけ賠償金にこだわるのは、軍人恩給を受けられない等の差別があったんでしょうか?

「軍人恩給」の受給資格は「12年以上兵役に就いていたこと(戦地に派遣された期間は
1年を3年として換算する)」で、シベリア抑留の抑留期間は「戦地派遣」とは認められ
なかったので、軍人恩給の受給対象者になれない抑留経験者が大量に発生した。

批判の声も強かったので1970年代中盤に「シベリア抑留者で軍人恩給の受給資格がない人」
には慰労金10万円と記念品が送られることになったが、それだけ。

更に、「障害恩給」の受給者は対象外、ということになり、一旦貰えた慰労金を返納させ
られる人が続出し、上述の「捕虜としての労働賃金が貰えない」事と合わせて抑留経験者の
怒りを買った。

シベリア抑留からの帰還者は「アカ(共産主義者の意)になって帰って来た」「あれはソビエト
(当時はもっと露骨な言い方がされてた)のスパイだ」と言われなき差別を受けた人も多い上、
かなりの人が公安警察の監視対象にされたり”レッドパージ”の余波で再就職先が見つからない
とか近所や親戚に縁切りされるとか辛い目にあった人も多く、
「国の都合で見捨てられて捕虜になり、強制労働させられた挙句国に帰ったらスパイ扱い。
 満州に派遣されてソビエトの捕虜になった、というだけで他の軍人とどうしてここまで
 扱いが違うのか」
と関係者の怒りは今も深い。
(636:150)

インドネシア独立戦争や、ベトナム独立戦争に参加した皇軍将兵は、なぜ逃亡兵とみなされているんですか?

降伏したあとの軍からの離脱も、敵前逃亡の対象なんですか?
降伏した後も軍籍が無くなるするわけではありません。
復員して軍籍から正式に外れるまでは軍人です。
その前に勝手に部隊から離れた兵士は逃亡兵扱いです。
(641:919)

アメリカは戦後、日本に対して本土に属する島々を返還したり、アメリカ人が先に発見したマーカス島を割譲するなどしましたが、何故このような気前の良いことをしたんですか?

残念ながら、元々米国(特に海軍)は、沖縄を含めた占領地域を信託統治領として
日本から永久的に切り離そうとしていましたが。

米海軍はグアムから台湾、フィリピンにかけての補給線を確保する為の重要な線
であり、それが日本の掌中に置かれ、いざ鎌倉になった場合、時の政権によっては、
その使用が制限されることを恐れたのが最も大きな理由です。
また、1853年のペリー来航時には、小笠原は独立地域扱いをしていましたし、欧米系
の島民がいたことから、日本人抜きでの独立は可能であると考えていた訳です。
(644:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

戦後、小笠原を米国庇護下の独立国として独立させよう、って話がありましたよね?

海軍はマリアナを信託統治領とする際、附属地域として扱うことになっていました。
本来は、元々「忘れられた米国人」である人々が居住していた地域なので、米国領として
扱いたかったのですが、それをしてしまうと、冷戦当時の事ですから、「新植民地主義」
とソ連は元より新たに独立したインドなどを刺激しかねない可能性があったので、日本から
独立させ、米国が援助を行うことで、影響力を行使しようと考えた訳です。

実際、米国太平洋艦隊司令長官のラドフォードなども父島を訪れた際、元からいた人々の
生活と態度に感動して、日本への島の返還に以後一貫して反対し、欧米系島民への米国籍
付与にも熱心に活動しています。
彼は最後まで、返還に反対しており、1968年の返還決定が自分に断りもなく行われたことに
非常に腹を立てていました。
何でその案は却下されたんですか?
国務省と国防総省の綱引きの結果です。
英国と国務省主流派、それに国防総省は、最低限小笠原や琉球を米国の信託
統治下に置く事に固執していました。

実際、平和条約の下交渉に来たダレスは、吉田首相に主流派の案を示しています。

しかし、当初ダレスと対峙した白洲次郎はその提案を拒絶し、あくまでも占領地域
全体の返還に拘りました。

また、日本の世論もそれを後押ししました。
ダレスが離日した後の日本の新聞での世論調査では、43%が琉球と小笠原の即時
返還、42%が一定期間後の返還を望んでおり、もし、米国が信託統治や独立に固執
した場合は、日本の国民感情を傷つけ、野党勢力による中華人民共和国やソ連寄りの
日本政府の誕生に帰結しかねないか、逆に領土回復主義を掲げた危険な方向を持つ
政府の誕生をしかねないとした条約局長を中心に巻き返しを図り、最終的に信託統治
に最後まで拘った海軍を説き伏せて、何とか返還に漕ぎ着けた訳です。
(644:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

「韓国が日本海軍の解体を要求したところ、アメリカは拒否した。大海軍国は長年かかって作れるもので、それをこわすなどもったいないと」という趣旨の文を見たのですが、事実でしょうか?

それ、意図して本来の意味をものすごく曲解してる。
元の話は韓国の白善燁将軍が軍事休戦使節団に参加してた米海軍のアーレイ・バーク提督と
交わした雑談。
バーク提督は創設期の海上自衛隊の育成を支援していたので、白将軍が
「どうしてあなたはいちど壊滅させた日本海軍の再建に手を貸すのですか?」と訊ねた所
提督がそのような趣旨の返答をしたまでのこと。

白将軍は満州国軍出身の知日派で、間違えても嫌日的な思想は持っていないお方。
(297:125)

田村劉吉海軍少将は戦犯として処刑されましたが、訴因は何でしょうか?

手元に資料が乏しいので何とも言えないのですが、第14海軍根拠地隊ですから、
ニューアイルランド島、アドミラリティ諸島が管轄地域になります。

この辺りの戦犯裁判のケースは、ラバウルがインド兵への殴打事件で突出して
いますが、大抵の場合は、捕虜になった豪州兵に対する虐待と殺害が主な事案
になっており、田村少将もそのケースに該当したものと考えられます。

但し、豪州軍による初期の戦犯裁判では、インド国民兵を捕虜として、鉄拳制裁を
した日本兵に対して、これを捕虜虐待だと決めつけて、死刑にしたケースもあるので、
本当に彼が死刑に値した罪を犯したのかは不明です。
(294:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本軍の将官クラスと下士官クラスの恩給と遺族年金ってどのくらい差があったのですか?

恩給は、在職年数とその間の俸給額によって支給額が決まる、現在の厚生年金に近いシステムになっています。
ですから、階級によらず個人の経歴によって額は違います、というのが建前ですが、
今日では軍人恩給については、在職年数と俸給額から算出される支給額が、最低保障額を下回るために、
最低保障額までゲタを履かせて支給されている例が大半のようです。
この最低保障額は階級によって決められているようで、最新のデータが手元にないのですが、
2004年度末では、大佐が年額300万程度、兵が60万程度のようです。将官はみんな死んでしまいました。
(294:491)

何故、アメリカは日本の軍事組織を潰してしまったのでしょうか?

日本の軍事力を利用して、冷戦で優位に立とうとする考えはなかったんですか?
なかった。
朝鮮戦争の勃発を見て大慌てで方向転換している。

 戦後、復員を担当する中央官庁の部局ができ、ここには
陸海軍の軍人が集められている。例えば、海上護衛戦の著者なども
復員作業に携わっていた。

 その後の自衛隊創設への動きの中では日本の政治家、GHQの部局、
日本の元軍人たちがそれぞれ案を作ったり、交渉したりして
組織を発足させ、装備、訓練を行い、重装備を手に入れ、組織を拡充して
いる。
(293:760-773)

日本って結局どれだけの賠償金を支払ったの?

日本の戦後賠償については、列記すると長くなるので
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%B3%A0%E5%84%9F%E3%81%A8%E6%88%A6%E5%BE%8C%E8%A3%9C%E5%84%9F
ここを読んでくれ。
(291:218)

基本的に在外資産放棄が一番の賠償。
1945年レート1ドル15円換算で、朝鮮52億ドル、樺太4億ドル、中国153億ドル、其の他6億ドル、陸海軍資産90億ドルで、
合計308億ドル。
そのうち、ソ連が朝鮮と樺太、中国東北部で機械接収を行っており、かつ、捕虜使役も賠償の一環という考え。
但し、1956年にソ連は賠償を放棄している。

個別賠償では、1950年代にBurmaが4億ドルの請求を2億ドル(円換算は720億円)に減額し、プロジェクト類で196億円、重機械
類284億円、資材216億円、役務24億円、ちなみに、この時期にダイハツやオリエントと言ったオート三輪が盛んに輸出され、
庶民の足として活躍しているし、マツダがトラック改造のバスを輸出したりしています。
その後、賠償増額の要請で、1963年に1億4000万ドル(504億円)で決着しました。
Philippinesは1956年に掛けて、当初80億ドルから始まって、4億ドルで一旦決着するのですが、Philippines上院の反対で流産し、
8億ドル(2880億円)で落ち着きました。
賠償は5億5000万ドルで、5億ドルは資本財、5000万ドルは役務、うち2000万ドルは加工役務としており、残りは経済開発借款と
しています。
Indonesiaは、1958年に決着、要求総額8億ドル、焦げ付き貿易債権1億7691万ドルを相殺して、賠償2億2308万ドル(803億880万
ドル)、経済協力4億ドル(1440億円)。
Vietnamについては、1955年に南と妥結し、ダニム発電所建設資金3900万ドル(140億4000万ドル)を賠償とし、政府借款750万ドル
(27億円)、経済開発借款910万ドル(32億7600万円)。

韓国は、1952年から65年まで交渉が行われ、無償経済協力3億ドル、低利借款2億ドル、民間信用供与交換公文で3億ドル。
Laosは賠償請求権を放棄し、これを奇貨として、10億円の無償援助を実施。

Thaiは、太平洋戦争中の円清算不足支払分の請求を行い、1955年に54億円相当の英ポンドの支払と、1962年に特別円改訂協定
にて、96億円の借款による技術協力(これまた、日本製三輪車を輸出)。
FranceもThai同様、円清算不足の問題で、15億円相当の英ポンドと48万ドルをFranceに支払。

MalaysiaとSingaporeは、血債問題で、支払要求が1962年に出され、29億4000万円相当の貨物船と同額の生産物と役務を提供します
が、1965年のSingapore独立で、別に29億4000万円相当の生産物と役務を提供。

Micronesiaに対しては、施政権者の米国に500万ドル相当の生産物と役務を提供。
Mongolに対しては、Nomonhan事件の道義的責任に基づき、賠償請求はないのですが、1977年に羊毛加工工場建設用に50億円を寄付。
英国は、別途降伏軍人による役務提供で、賠償を行っていますが、別途、1955年に捕虜補償として450万ポンド相当の資産を赤十字国際
委員会に引渡し、Hollandに対しては、1956年に私的請求権解決議定書で1000万ドル分の英ポンドの見舞金を支払っています。

このほかに、米国など占領軍に対する経費は総て日本が負担。
この役務提供は、当初は日本銀行立替払で、1946年から終戦処理費として一般会計支出となり、1946~53年まで5168億円、1946~47年
は特に一般会計歳出の30%以上となっています。
(291:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

終戦時、自決した将官、左官は何人くらいいますか?

また彼らは靖国神社に合祀されないと聞きましたが
いわゆる終戦時の「責任自決」者については、靖国神社は「昭和受難者」として合祀の対象としていると聞いています。
なお、「戦没者等」の「等」に含まれるものとして公務死としての恩給・遺族年金等の対象でもあります。
(289:864)
終戦後の自決者は568人という数字があります。
ただしこれは内外地まとめた下士官なども含む数字です。
また、資料によって誤差があるそうです。
(289:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

大東亜戦争で「公務死」とされた民間人は国家補償や遺族年金に相当するものは支給されたのでしょうか。

ひめゆり部隊や対馬丸学童、真岡郵便局交換手などは公務死ということで靖国神社に祭られていますが、
彼らのほか、従軍記者や消防団員・看護婦などはどうなんでしょう?
「戦傷病者戦没者遺族等援護法」に規定する軍属・準軍属と認定される者については、
軍人と同様に弔慰金・遺族年金の支給対象となります。

その他の戦没者等の三親等以内の親族に給付された、「戦没者等の遺族に対する特別弔慰金」。
ちなみに支給時期と額は、
S40 3万円(通称・特別弔慰金い号)
S50 20万円(通称・第2回特別弔慰金)
S60 30万円(通称・第4回特別弔慰金)
H7  40万円(通称・第6回特別弔慰金)
H17 40万円(通称・第8回特別弔慰金)
となっており、このほか各回の支給時点で年金権者がいたために対象とならなかったが
その後に死亡等で年金権者が失権した戦没者の遺族との均衡をはかるため、
S47 3万円(通称・特別弔慰金ろ号)
S54 12万円(通称・第3回特別弔慰金)
H1  18万円(通称・第5回特別弔慰金)
H11 24万円(通称・第7回特別弔慰金)
の特例給付がある。
本則の特別弔慰金(い号及び偶数回)は10年償還の国債をもって給付される。
特例給付のほうは、ろ号特弔は10年償還の国債、奇数回のは前回の本則の特弔の
償還期限とあわせた年数(6年償還)の国債をもって給付される。
(288:373)

戦後、陸自に配備されたM4A3E8の中には、太平洋や欧州で実戦使用された中古品も混じっていたのですか?

新品は1953年当時、もうありませんから、既にデポに置かれたものになります。
でもって、その中古品は、太平洋で実戦使用されたものも供与されています。
(281:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本海軍の潜水艦は終戦の後、海に沈められて処分されたと聞きましたが、どうして鉄をリサイクルしなかったんでしょうか?

おそらく連合軍の指示によって潜水艦を処分するために行なわれたものと思います。
ドイツでも同様に捕獲したU-boat100隻以上を「オペレーション・デッドライト」と呼ばれた
計画により北アイルランド沖で45年末~46年にかけて順次海没処分に付しています。
(101:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
スクラップの鉄を溶かすには強力な燃焼力を持ったコークスが必要です。
その産地は海外であり、日本には低質な常磐炭、北海道炭しかありません。
これらは火力が弱く、鉄を溶かすために必要な温度を得るのに多量の石炭が
必要です。

戦後は、その石炭の輸送さえ、機雷封鎖と空襲などによる輸送網の寸断でまま
なりませんでした。
加えて、鉄を生産する製鉄所にしても、最大手の日本製鐵(今の新日鐵)の釜石、
室蘭は敗戦直前の艦砲射撃により、壊滅的な打撃を受けており、八幡も空襲で
被災し、広畑は石炭が無くて、1946年までに二基の高炉を休転させており、事実上
大規模な製鉄が出来る状態にありませんでした。

加えて、占領軍の方針で、日本には工業関係の設備を残さないということになっており、
それらの設備は殆ど賠償対象になっていたりします。

沈没したり着底した鑑定が引揚げられ解体されるのは、世の中も落ち着いた1950年代に
入ってからです。
航行に支障がない限り放置されていますね。
(101:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

敗戦後に解体された旧軍に変わって設立された第一、第二復員省の旧軍人はどのような身分だったのでしょうか?

武官に関しては、例えば陸軍省が廃止される際には、全員を予備役編入扱いとして、
第一復員省に引き続き勤務する者は、1945年12月1日付で召集という形式を踏んで
います。
そして、第一復員省が廃止されると復員と言うことになっており、つまりは、軍人の
身分のままと言えます。

これは第二復員省でも同じです。
(278:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

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