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各種日本軍機 - (2011/04/22 (金) 22:04:53) の編集履歴(バックアップ)



「ゆりかもめ」に乗って、船の科学館をを通過する時、日本軍の水上飛行機らしきのがあるんですけど、なんて飛行機かしってる人います?

二式大艇でしょ
(くだらない質問はここに書け!:316)

日本の飛行機は燃料が悪くても結構飛べますよね?もしかして外国の飛行機に比べて燃費良かったりしますか?

第二次世界大戦時の飛行機です
オクタン価について余りご存知でないかもしれないので、一応解説させていただきます
オクタン価と言うのはガソリンの自然発火しにくい度合いを指す値です
この値が高いとシリンダー内の混合気が点火される前の圧縮段階で爆発する不正爆発するのを防ぐことができます=アンチノック
(オクタン価を手っ取り早く上げるには、鉛やベンゼンといった有害物質を混入することです)
ですから、オクタン価はよりエンジンから力を引き出す指標にはなり得ても、燃費とは直接の関係はありません
また、ディーゼル、ジェットエンジンには仕組み上オクタン価は関係ありません
{(6:19)

震電というエンテ型のレシプロ機についてなんですが、とにかくスペックがバラバラで、どのような飛行機なのかわかりません。実際、どうなのでしょう?

1945年に初飛行したものの、三回僅か45分の飛行で終戦となりました。
そんなわけで、計算値的には750キロですが、本当に其処まで出たか不明です。
ただ、高オクタンガソリンを用いたらかなりの速度は出たはずです。

機体は接収されて現在アメリカにあります。
(12:眠い人 ◆ikaJHtf2)

震電は終戦後米軍に接収されたと聞きましたが、その後どうされたのですか。

それと、中島製でしたか?
九州飛行機という小メーカー(渡辺鉄工所飛行機部から分離独立したもの)の製品です。
ちなみに、渡辺鉄工所は海上自衛隊の魚雷製造メーカーとして未だに存在しています。

米軍に接収された機体は、現在スミソニアン博物館で埃を被っているはずです。
(13:眠い人 ◆ikaJHtf2)

5式戦には、「隼」や「鐘馗」といったようなニックネームがありませんが、そういった名を付ける予定は無かったんですか?

一部では「空冷飛燕」と呼ばれたことも有ったらしいです。(そのまんまだな)
米軍も3式、5式共に「Tony」と呼んでいたことから当時誰もが3式≒5式と言う
認識だったので特にニックネームを考えてはいなかったという説もあります。
(33:874)

零式水上戦闘機って存在しますか?

二式水上戦闘機という名称で存在します。零戦一一型をベースにフローと
をつけたもので、1943年9月までに327機が生産されています。
アリューシャン方面で米軍機も撃墜しています。
(34:575)

エンジンの特性を考えると高空での性能に限ればひょっとすると三式戦の方が優秀なのでは?

三式戦の設計者は
「エンジンが本来のスペックで完調なら三式戦の方が上だ、
あの機体はそう造った。」
と言うのを読んだ記憶があります。
まぁ設計者は皆言いそうですが。>日本のエンジン
対B29体当たり部隊(震天特攻隊)も武装外した三式戦
が選択されてますし、性能は良いでしょう。
(36:634)

二式大艇の任務ってなんだったんですか?

長距離哨戒とか偵察とか攻撃隊誘導とか輸送とか。
(39:バッチ3)

百式司偵はナチスドイツもかなり本気でライセンス生産を考えたと外国の本で知ったのですが、信憑性の高いエピソードなんでしょうか?

う~ん、少なくとも日本の航空機関係の古い本を紐解いても、そういった
エピソードは出てきませんねぇ。
(古い本とかには、設計者自身が記事を書いているとか、現役軍人だった
人が書いていると言うのがあるので意外と面白いのですが。)

日独連絡で、資料くらいはあちらさんに逝ったかも知れませんけど。
(12:眠い人 ◆ikaJHtf2)

イ400に積んでる青嵐、フロート付きの写真みたけどデカイよ。3機も収納されてたとは、とても思えない。実際のところ離発着はどうしてたの?

発進訓練の際はフロート装着のままで発進。着水はフロートで。
作戦時にはフロート無しで発進。帰投後は海面に不時着。
機体は破棄でなかったか。
(12:233)
浮上してから2機を発進させるまでわずか4分。
格納庫内にある1機は時間がかかって2番機発進後15分。

意外とおもしろい潜水艦だと思うよ。後方撹乱にゃもってこいだね。
ただ収容するには3機で30分かかる。
だからフロート無しで乗員だけ回収、の方が現実的か。
潜水艦自体は大きすぎて隠密行動には不利だったと思うけど、勝ってる時期だったら面白いように戦闘できたとは思うが。
(12:236)

青嵐の性能て良かったの?

性能自体はこういう機種の中では抜群に良いんじゃない?
比較対象は零式小型水偵とかだし。
最高時速はフロート投棄時(302ノット)なら零戦より速かったよーだよ。

もちろん敵戦闘機にまともに捕捉されたら撃墜されるだろうけどな。
(12:238)

晴嵐の性能って当時の水準から言ってどうなの?

また日本が苦手な液冷エンジンを搭載してますが、故障頻度とははどうだったの?
少数生産機なので液冷の整備の難しさは特に問題視されてません。
1機1機丁寧に整備すればよいということで。
彗星も最初はそうだったんですよ。空母用だけの予定だったから。
陸上でも使うことになって大量産が図られたことから整備性が問題になったんです。

性能のほうは、はっきりいって同時代の他国機と比べて図抜けてます。
急降下爆撃や雷撃できる水上機ってのはものすごく特異ですよ。
単純に搭載量1トン近いってのも他に例がありません。
ただね、他国はこんな方向に水上機を進化させる意図そのものを持ってなかったわけで。

完成した晴嵐の場合、性能は悪い方に図抜けていたっつー説もある
直径3mしかないプロぺラで、要求性能を満足させられるわけがないので、こっちの説の方が
説得力はありそうだ

一応フロート外した陸上型の南山も配備され、ある程度試験実績もあるので。
少数生産機なので量産型も試作機並の丁寧な造りで、性能上もかなりいけたようです。
詳しくは秋本実氏の著作を。
(346:707-717)

富嶽についてご存知の方がいらっしゃいましたら、よろしくお願いします。

大戦終結直前、「日本には6発エンジンのすごい爆撃機がアメリカに本土爆撃をしかけるらしい」というデマが流れましたが…。

中島飛行機(今の富士重工)社長の中島知久平が妄想した機体で、5000馬力級のエンジン6発で、
日本から米国本土を爆撃してGermany(と言うか占領下のFrance)に着陸すると言う構想で計画されたものです。
陸海軍共同計画機として、設計が進められましたが、戦局の悪化により19年7月に開発中止となりました。
なお、当初5000馬力だったエンジンは、設計が難しく2500馬力案と3000馬力案に落ち着き、エンジンは試作が行われていました。

ま、敗戦を見越した中島知久平の技術者温存策という話もあります。

ちなみに、川西も同時期に軍需省の令により、東大航空研究所と協力して、
同じような性格の米本土爆撃機、TBと言うのも計画、開発していました。
(14:眠い人 ◆ikaJHtf2)

桜花の母機って何ですか?

一式陸上攻撃機だったかと。
(27:ちゃぎ)

三式戦2型改の総生産数は99機らしいのですが、その内水滴風防を装備したものは何機含まれているのでしょうか?

また、それが配備された戦隊も知りたいのですが・・・
三式戦2型改は全部、水滴風防じゃなかったけ?主に配備されたのは
第56戦隊。昭和19年4月26日、明野で編成。伊丹で終戦を向かえ解隊。
(37:65)

キ-10戦闘機は実戦参加したのでしょうか?

キ-10、即ち九五式戦闘機は、日華事変初期~中期に掛けて主力として
実戦参加して、I-15に対しては圧倒的な強さを誇っています。
また、ノモンハン事変でも初期~中期に掛けて陸軍航空の主力として活躍しました。
九七式戦闘機が充足した後は内地に引き上げられ、
練習戦闘機として敗戦近くまで使用されました。
もしかしたら敗戦に残った機体があったかも知れませんが、詳細は不明です。
(38:眠い人 ◆ikaJHtf2)

零戦の後継機烈風って開発間に合ったんですか?

8機しか完成しなかったのだから、間に合ったとは言えないね
(43:38)

97式乙型戦闘機の写真みてふと疑問に思ったのですがこの機体には7.7㎜×2が搭載されているようですが銃口らしきものがありませんでした。

何処に機銃つけていたのですか?
九七戦はエンジンのシリンダの間に銃口があり外見ではわかりにくい

真正面から見てプロペラ軸を中心とした時計の盤面を想定すると
だいたい4時と8時ぐらいの位置に銃口があったような
(43:155)

戦闘機隼の名称は何に由来しているのでしょうか?

戦闘機や爆撃機の愛称の場合は適当に開発者とか軍関係者がつけた。
(44:401)

「桜花」の戦果を教えてくれ。

確認されている撃沈戦果は駆逐艦マンナート・L・エープル1隻のみ。
それ以外に数隻が突入され、大破した模様。
(46:ゆうか ◆9a1boPv5wk)

旧日本軍機で一番巨大だったのは何ですか?

九二式重爆撃機。
ttp://military.sakura.ne.jp/ac/ki20.htm
ちなみに、サイズだけならB-29よりも大きかった。

飛燕がB-29に体当たりした瞬間を目撃したって話がありますが、例えば5000m上空で地上から飛燕だとわかるものなのでしょうか?

昼間空襲の場合は、有視界の場合、約3,900~5,000mでの作戦ですが、震天制空隊などの記事は、
1945年1~2月頃に人口に膾炙していますので、大抵の人々はあれは飛燕に違いない、となったみたいです。
因みに、新鋭機として、飛燕が国のメディアを通じて紹介されたのは、1945年1月の事です。
(496:458,眠い人)

マウザー砲を装備した飛燕は対B-29戦闘で重宝されたんですか?

重宝されたようですね。
マウザー砲を装備した一型丙は時期的にニューギニアへ送られた機体はあまり多くなく、
その多くは飛行56戦隊や244戦隊といった国内の防空戦闘機隊に回されたようです。
そして部隊ではマウザー砲は装填が電動式で故障も少なく高威力だったことが
高く評価されていました。
(540:43:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

ただし、空対空体当たりを目指した震天制空隊の装備した機体では軽量化のために
マウザー砲は外しています。

雷電の振動の原因は現在では解明されたんですか?

雷電を設計したときに、爆撃機用のエンジンを使う=直径が太い、では速度が
でないと三菱は考えた。時速600キロくらいから空気圧縮が大きな抵抗になる
であろう、と。そこでプロペラ軸を延長してエンジンからスピナーまでをなだらか
に絞っていくことで、抵抗を抑えようとした。そうすると延長したカウルで開口部
が狭くなるので、空冷エンジンの冷却用空気の取り入れ量も減ってしまう。それ
については強制冷却ファンをつけることで解決するとした。

が。

重いプロペラを無理矢理に軸を延長している上に軸に強制冷却ファンまでつけて
いるのだから振動の根本的解決は無理だし、プロペラの設計を変えるといっても
可変ピッチプロペラそのものがVDM、ハミルトン、ラチエとライセンスばかりで、ア
メリカが実用化していたフェザリング機能は「カムの化け物」と製造できなかった。

話がもどるが、そもそもプロペラ軸を延長する理由とした「時速600キロからの空
気圧縮」そのものが実は勘違いで、苦労して機首を伸ばした効果は無かった。
当時、それがわかっていたらごく普通の空冷エンジンとカウルとプロペラ配置の。
もう少し稼働率の高い戦闘機になっていたかと思われる。
(544:916)

陸軍は、零戦21型というものがありながら、なぜ隼を採用したのでしょうか?

隼は零戦より航続距離は短いし、武装も零戦が20ミリなのに対し隼は12.7ミリ、スピードも零戦の方が早いですよね?
単に陸軍と海軍が仲が悪かったからですか?それとも隼には零戦にはない何かがあるのでしょうか?
陸軍の要求仕様に、零戦並の航続距離や武装は盛り込まれてなかったから
ある程度の航続距離は求められたが、零戦に求めれたほどではなかった
武装も同様
変わりに上昇力や旋回性能といった運動性が陸軍から重要視されていた
そして、それらに付いては、零戦より軽量な隼の方が優れていた
(546:33)

流星が戦果を挙げれなかったのは機体の性能のせいではなく、乗りこなせるベテランパイロットの不足のせいだったからなんでしょうか?

登場した時期が遅すぎた上に、もはや航空攻撃で戦果を挙げうる状況になかったからです。
流星は生産機数も少なく(111機)、装備部隊も横須賀空と攻撃第5飛行隊くらいです。
しかも攻五が流星に改編を始めたのが昭和20年の3月に入ってからで、本土決戦のために
温存されたこともあって7月末まで出撃はしていません。
攻五は7月25日に英空母フォーミダブルに薄暮雷撃を敢行したのを皮切りに、
8月9・13・15日に敵機動部隊攻撃に出撃しました。
しかし、いずれも戦闘機の援護無しで出撃を行ったために、戦果もなく出撃機のほとんどが
未帰還に終わり、特攻攻撃として扱われています。
(558:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

雷電は迎撃機として火力と上昇力重視で空戦性能は二の次で設計されてますが

雷電を運用した航空隊は敵戦闘機とも積極的に戦ったんですか?
戦っています。
F6Fに比べると速度はほぼ同等だが、縦の運動性では優っており、使いこなせば互角、
あるいはやや優位に戦えるだけの実力を持っていた。
「日本軍用機航空戦全史」(秋本実)

P-51の撃墜記録もあります
(571:ゆうか ◆u8WC078ef5ch)
おいおい、「日本機は全て傑作でP-51より空戦性能が上」な秋本だぞ?
渡辺洋二の「雷電」では対戦闘機戦闘は極力避けろと命令されていたとある
(571:730)

深山は大戦中は輸送機として使われていたそうですが一体どの期間、どの地域で運用されていたのでしょうか?

1943年に6機中4機が輸送機として改造(LX)され、1021航空隊に配属、南方地域の航空艦隊へ兵器や部品の補給輸送に
使用されています。
ことに長大な爆弾倉には魚雷2本が格納出来たため、深山は魚雷運搬機の異名を付けられていたそうです。
しかし、1945年に入ると、敵機動部隊の跳梁で飛ぶに飛べず、入れる格納庫もないため、野ざらし状態で、囮として利用
されています。
(341:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

一式陸攻の機銃を多数装備した編隊擁護機は実践投入されたのでしょうか?

一式陸上攻撃機は最初、編隊擁護機の道を探って寄り道したために正式採用されるのが遅れたと聞いたのですが
実用化され30機ほどが使用されていますが、重量過大、鈍重で操縦性が悪く、防弾でタンク容量の25%が減っていたので、
戦果が挙がらず、結果的に練習機に改造され、最後は降下部隊用の輸送機に改造されてしまいました
(341:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

スペック上の紫電改はパワーの割りにやたら速度が遅い気がしますが

(出力が等しく明らかに空気抵抗の大きいF6Fと同程度)
「零戦」の中で堀越技師が誉の実馬力が1300馬力足らずなことを明らかにしている
(588:580)

ぶっちゃけ震電って戦力になりえたの?

  • 生産余力がない
  • 量産したエンジンがマトモな性能を発揮しない
これだけでも「戦力」と呼べるような稼働機数を揃えることは出来なかったと思われ。

更に、
  • 空冷星型エンジンをこの場所に配置して果たしてちゃんと冷えるのか?
  • プロペラ延長軸の振動問題は?
  • 30mmX4門の反動に機体は耐えられたのか?
といった事を考えると、実用性がどこまであったのかはけっこう疑問。
(592:253)

「飛燕」の液冷エンジンって、そんなに日本の手に余るものだったんですか?

そうです!
海軍も、別会社で、ダイムラーベンツ601の国産化に失敗しています。
技術者の佐貫佐貫亦男氏は、ユンカースのエンジンを導入すべきであったと、主張していました。
同じドイツの液冷エンジンの、ユンカースは構造が単純で、国産化しやすかったです。

「工作技術、材料共に問題を抱え、ドイツとの連絡が途絶えた当時の日本では、先進的な工業技術を要求されるDB601の生産は手に余るものとなった。」

下記、ウィキペディアのハ40 (エンジン)の国産化の特徴を参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F40_(%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%B3)
(601:霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk.)
技術者?の佐貫亦男氏がDB601について記述された書籍の名前を教えてください。
佐貫亦男先生の著書
発想の航空史(朝日文庫)のp206から207にかけて、その記述が有りますよ。 但し、カスミンが書いてるユンカース云々の記載は有りません。

佐貫先生の記述を要約するとクランク軸が製作困難でドイツから潜水艦で送れと駐独大使館付武官事務所に電報が入った事実があったというものです。
(601:不動産屋のオッチャン ◆UMCByHJxYk)

二式単戦ってビルマとかじゃ英軍から厄介な奴とか思われたりしたの?

本機を装備していた独立飛行47中隊はインドシナ、マレー、ビルマと転戦しました。
これらは侵攻作戦で有り本機の航続力では不向きで1942年5月には内地に帰還しています。 よって、敵に恐れられるほどの活躍をする期間は有りませんでした。
本機が真髄を発揮したのは日本本土での防空戦等の迎撃戦でした。
(602:不動産屋のオッチャン ◆UMCByHJxYk)

水冷エンジンを搭載した疾風の試作機は実在したの?

本日、碇義朗著作の決戦機疾風を入手し調べましたが、それに関する記述は有りませんでした。
数日間に渡り各資料を付き合わせ検討した結果の推定になりますが。
疾風の改良型として、俗に言う(キ)の陸軍式の仮称がつく機体を挙げます。
キ84一型から四型、キ106、キ113、キ116、キ117
となりますが、水冷エンジンの試作機は有りませんでした。

やはり幻の戦闘機での記述の通り「陸軍航空審査部での試験的に装備したものであろうか。」
以上が結論になります。 陸軍航空審査部では敗戦の為にほとんどの記録が焼却されましたから、資料が見つからなかったようです。
(602:不動産屋のオッチャン ◆UMCByHJxYk)

震電について、ぶっちゃけ当時の技術水準でモノになる機体だったのでしょうか?

この機体自体は2回の試験飛行しかしていません。

カウンタートルクについては、補助翼を自動的に操作して、最適な状態に持って行く機械的な
仕組みを導入してクリアする予定でした。
数回の試験飛行では、その辺りの調整はまだ出来ていないでしょうし、機械としての熟成は
未だ未だだったと言えるでしょう。

一応、空力的には縮小型のモータグライダーを製作して、検証をしているので、機体としての
方向性は問題ないはずです。

また、追加する2号機の投入で試験が進めば、より熟成が進んでいた事が考えられます。
これが進むか否かは、結局、燃料状況と制空権の状況次第でしょうがね。
(402:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

渡辺洋二著『局地戦闘機「雷電」』読んでて疑問に思ったのですが、あんな翼面加重の高い格闘戦闘の苦手な戦闘機に何故海軍は執着したのでしょうか?

雷電が「局地戦闘機」だから。
零戦に代表される艦上戦闘機などはあらかじめ戦闘空域に
滞空してることを設計に盛り込めるけど
局地戦闘機の場合は警戒命令がきてから
爆撃機の来る高空に駆け上がる性能がなければならない。
だからこその大出力であり航続距離の放棄と格闘性能でもある。
局地戦闘機のメインターゲットは爆撃機なので、
戦闘機相手には護衛をいなす程度の力が有ればいいのだから。
(631:177)

一式陸攻って、輸送機としての使用も一般的だったの?

よく、お偉方とか乗せて飛んでるようなイメージがあるんですが?
当時の海軍の輸送機事情を見てみると、ダグラスの旅客機を国産した零式輸送機と
1式陸攻を翼端護衛機したものの失敗が明らかになり、なおかつ40機も作ったものだ
からなんか使い道を探さなきゃならなかった1式輸送機、あとは96陸攻の改造型くら
いで、爆撃機…陸攻よりも輸送機の方が貴重品という状態でしたから、人員や爆弾
倉のせいで使い勝手が微妙な機体でも積み込める程度の荷物であれば、陸攻でも
運んでいました。戦闘機部隊の長距離移動なんかだと、航法士のせた陸攻が、整備
員とパーツを載せて先導、なんてのもあったようです。
つか、開戦当初だと輸送機の保有総数なんて30機に満たないくせに、これが空挺作
戦用の完全な「攻勢の戦力」として使われていたという…。
零式輸送機とか九七式輸送機を使えばよかったのでは、と思いますが・・・
どうせ戦闘機に襲われたら同じなんだし・・・
燃費にせよ整備にせよ荷物の縛りにせよラクになる輸送機が存在したにせよ、それを
選択できるだけの輸送機自体が圧倒的に不足していたというのが現実です。零式輸
送機で生産数が400機ちょっとですし。編制でみると、昭和18年ごろの1000番台の輸
送航空隊は、陸上輸送機を持たずに陸攻(と戦闘機や艦攻)を保有機としていたりし
ます。陸攻装備の輸送飛行隊が、トラックや硫黄島あたりの敵勢力圏に強行輸送し
たり、あるいは策敵なんかのために戦力を引き抜かれていましたから、輸送専門の
飛行隊に輸送専門の機材を与える余裕なんてなかったわけです。
(631:ふみ ◆Y.QUKJBduY)

「飛燕」は、空中でしばしばエンジンが止まったとのことですが、パイロットは一応滑空して落下傘で脱出できた例が多かったんですか?

飛燕の使用で最も有名な244戦隊の整備の人の記憶によれば、
飛燕のエンジントラブルは離昇時にほとんどが発生したとのこと。
一度上がってしまうとエンジン停止のトラブルは少なかった。
よって離陸時のトラブルだからほとんどが木や屋根に引っかかった死亡事故。
その高度では落下傘降下は無理だから、死亡しないまでも重傷は避けられない。

ちなみに三式戦は高アスペクトの主翼の為に滑空能力は高かったようで
B-29と衝突後、機体破損、エンジン停止状態で不時着した例もある。
(649:410)

五式戦闘機は機首に20mm、主翼に12.7mmとういう装備ですが、どうしてこうなったんでしょうか?

第二次世界大戦の日本の戦闘機だと主翼に20mm、機首に12.7mmとなりそうなものですが
五式戦闘機(キ100)というか、三式戦闘機一型丁(キ61-I丁)からの仕様ですな。
本来重量物は機体重心近くにおいたほうが旋回性能も向上するし、
機体の中心軸近くに機関砲があるほうが命中率も向上します。
Bf109のモーターカノンやP-39の機首機関砲もそういう理屈。

んで、キ61(キ100)の場合、20mm機関砲ホ-5を翼に搭載するには
厚みが少し足りなかった由。
翼搭載のためにキ61-IIで主翼の構造を改変しようとしたけれど、
結局従来型の主翼を使用したキ61-II改が生産に移ったために
ホ-5の主翼搭載はなされなかったわけです。
(654:375)

四式重爆撃機ですが、防弾や消化装置は従来の陸軍の爆撃機と比較して、どの程度向上していたのでしょうか?

当然、操縦士などに対する保護のため、防弾鋼鈑を装備していますし、防弾ガラスも装備
しています。

また、航続距離の要求性能に関しては、胴体内燃料槽だけで完結できる状況にあります。
(と言いつつも、翼内に左右各4個の燃料槽を設けていますが)

その翼内の燃料槽は、万が一ガソリンが漏れても、機内に溜まらない様に、翼内燃料槽は下面を主翼外板と
兼ねさせて、漏れた場合も機外に逃すようにしました。
また、胴体内燃料槽については、装甲板と分厚いゴム被覆で一気にガソリンが放出しない様になっています。

被弾時の修理に関しても、外翼燃料槽は、機外からビスを外せばそのまま下方に落ちる様になっており、胴体内
燃料槽も外板のビスを外せば、直ぐに抜き出せるようになっています。
また、発動機架も発動機を付けた状態で外すことが出来、機体各部についても、予備部品や他機のものと交換が
容易なよう、特殊結合金具を用いています。

他にも、従来の非対称な操縦席では密集編隊を組むのに不利なため、正副操縦士席の機器配置を完全に同一配置
とするなど、従来の爆撃機に対して、思想的に異なっており、敵の優勢下での爆撃任務が可能な様に設計仕様が組ま
れていた訳です。
(297:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

1式戦”隼”は戦後フランスに接収されて暫く使用されていたと聞いたことがあるが、詳しく教えて

1945年8月に日本が降伏した際、旧支配者のフランス軍には、まともな飛行機材がありませんでした。
英国や米国から機材が供与されるのも先ですし、フランス本国から戦闘機を運んでくるのも間に合わない、
しかし、1945年8月15日以降、ホーおじさんやNorodom Sihanoukが其所此所で独立宣言をするので、鎮圧用
の兵器や機材を調達する必要がありました。

そこで一時的に日本軍から引き渡された機材を流用しました。
インドシナ駐留の日本軍から引渡を受けた機材は直ちにFrance軍に編入され、一式戦闘機は8機が使用され
ました。
少なくとも、一式戦二型改の写真が残されています。
この機体は、Phnom Penh駐留のGC1/7に属していた機体で、
(296:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

エンジングライダーの「鴻」の評価はどんなもんでしょう?

搭載量がダグラスより少なめですが、エンジンの出力も小さい割にけっこうたくさんつめて、
貨物室へのアクセスも容易だし不整地でも使いやすいよい輸送機のような気がします。
飛行性能は良好で、陸軍自体の評価は、1944年10月29日の航空本部技術部発表
「航空兵器審査要領」に、
 「輸送機はキ105を最重点とする」
と記述されている様に、非常に高いものでした。

元々の計画は1941年のドイツ軍によるクレタ奇襲でグライダーが活躍したのに触発さ
れて陸軍が開発を指示した、大型グライダーのク7で、これを百式重爆三型か四式重
爆二型で曳航すると言うものでしたが、両機とも開発中止となり、実用化の道が絶たれ、
自動的に中止となってしまいました。
しかし、陸軍としては大型輸送機を欲していた為、その動力化が企図されたものです。
Payloadの減少については、多少の過加重での運用を可能にするというものでした。

なお、グライダーのク7についても、モックアップ審査の段階から軍の関心は高く、杉山参謀総長
が直接視察に来るとか、試作の便宜を色々図ると言った破格の扱いをされています。
製造者の日本国際航空は、比較的大型な双発輸送機の開発には経験不足なメーカーのような気がするのですが、
本格的な輸送機ではないにせよ、あれほどの機体を短期間に開発できたのにはなぜなのでしょうか
(ク7試作1号機:S19.7 キ105試作機:S19末)。
日本国際航空は、寺田航空研究所という本社を大阪に、工場を平塚に持つメーカーから興っています。
此処で開発した機体の中で、単発複座三車輪式のTK-1はモックアップ、単発単座高速試験機のTK-2は
設計のみに終わりましたが、1938年に逓信省航空局が企画したSuperUniversalとEnboy輸送機の代替
ローカル線用中型双発旅客機の開発資金として、補助金20万円を交付されます。
(この時代、大手航空機メーカーは戦時増産で手一杯だったので、こういった弱小メーカーを育成する為に、
 資金を渡すケースがあったようです。所長の寺田甚吉は、南海の社長と同姓同名ですが詳しくは不明)

こうして開発されたのが、TK-3旅客機でしたが、自重過大、搭載量不足で不採用となりました。
その後、1937年に社名を日本航空機工業に変更し、立川キ-54の空力性能を確認する為の滑空機兼
次期旅客機の試作機を製作します。
これ(D-1)はキ-54の製造には間に合いませんでしたが、これで陸軍との関係が生まれ、1939年にTK-3
を改造して一式輸送機として採用されました。
ただ、一式輸送機は少数生産に終わりましたが、これから発展したグライダー、ク8-IIが大量生産されて
います。

日本国際航空は、1941年に国際航空工業(1939年に、陸軍の要請で鐘淵紡績が出資して設立した会社
で、本社は東京、工場は京都、津田沼、尼崎にありました)と日本航空工業が合併して成立した会社です。

以上のように、グライダーと輸送機専門のメーカーとしてノウハウを蓄積し、尚かつ、陸軍の後ろ盾があった
ために、これだけの機体が作れたものと思います。
まぁ、一線級軍用機の生産をしていないところを持ってきて、そこそこ経験のあるメーカーだった ので…という
部分もあったかも知れませんが。

ちなみに、日本国際工業は、戦後日国工業となり、バス車体を製作、現在は日産傘下に入り、日産車体となって
います。
(108:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

陸軍で患者輸送機として使われた、DHプスモスについて教えてください。

民間では朝日新聞が4機、満州航空が10機、蜂須賀侯爵の自家用機として1機輸入しています。
このほか、陸軍が連絡機として5機(愛國64~68号)使用し、後に蜂須賀侯爵の機体も愛國114号
として献納されました。
ちなみに、満州航空と陸軍の蜂須賀家を除く献納機は、奉天航空工廠で製造されたもので、満州在
官民の献金で献納されたものです。

と言った訳で、一応、陸軍が連絡機に用いていますが、その機数は少ないです。
恐らく、軽飛行機関係には余り資金が回らなかったってことでしょうか。
それと、Puss-Mothは荒天に弱く、朝日新聞社機が1932年9月15日に遭難、2名死亡という事件があり
ましたし、キャビンの狭い2~3名乗りの機体は過小に過ぎたと言うことでもありましょう。

患者輸送機としては、Puss-Mothではなく、複葉のFox-Mothです。
この機体は室内にキャビンを持つもので、胴体内部に担架を搭載できると言う利点が買われ、輸入機
を大阪薬種製薬が2機(愛國95~96号)、陸軍軍医団が1機(愛國106号)を献納しています。
また、満州国警察で1機が使用され、残り1機は東京瓦斯電気工業(今のいすゞとか日野の前身)が、
購入し、これを研究した結果、国産のKR-1/KR-2小型旅客機を製造し、これらは海軍の連絡輸送機と
しても用いられています。

De Havillandの機体は、瓦斯電の機体にかなりの影響を与えたと見て良いでしょうね。
(108:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

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