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日本陸軍2 - (2010/12/25 (土) 22:22:36) の編集履歴(バックアップ)



旧陸軍は機械化の必要性を重々承知しながらも財政的な制約から断念したのでしょうか?

それとも決定的な破局を迎えるその時まで白兵主義の優位を確信していたのですか。
元々、日露戦争までの日本陸軍は、メッケルらドイツ陸軍の影響を受けて、ドイツ式火力主義、
つまり、迅速に機動する小銃・砲兵火力集中によって相手を圧倒する考えを持っており、歩兵の
白兵(銃剣)突撃に頼ることなく火力(銃砲弾の物量)で勝敗を決しようとする戦術思想が主流
でした。
その萌芽は、既に西南戦争後半の小銃火力の集中使用で見られています。

ちなみに、1891年版歩兵操典は1888年のドイツ帝国陸軍のそれをコピーしたもので、1898年に
日清戦争を受けて改訂されたものも、ほぼそれに沿っていました。

で、日露戦争で欧米列強陸軍が得た戦訓としては、
 1. 重機関銃を陣地防御の要とする。
 2. 敵陣突破の決め手は榴弾砲、とくに15cm以上の榴弾砲、10cm以上の加濃砲といった重砲の集中使用にある
 3. 有刺鉄線の防御効果は絶大である。
と言うもので、各国は重機関銃、重砲の開発、大量配備に躍起となり、陸戦力の主力兵科となりました。

ところが、当事者の日本陸軍が白兵主義、砲兵軽視になるのは、
 1. 砲弾、小銃弾の欠乏により火力主義が貫徹出来なかった。
   開戦前の1903年から東京・大阪の両砲兵工廠で銃弾、砲弾の大量生産・備蓄と、開戦後の民間工場の
   動員による銃砲弾の大量生産をしたが、それでも追いつかない状態(南山の戦闘では2日で3万発の砲弾
   を使用したが、これは開戦前の半年分の消費量、砲弾生産量の三ヶ月分であり、旅順第一次総攻撃、遼陽
   攻略で完全に欠乏、得利寺の戦闘では小銃弾が底を尽く状態)であったこと。
 2. 砲兵運用の根本的誤りで、平坦地の会戦でも要塞戦でも砲弾は榴散弾を多用したこと。
   消費された野山砲弾の弾種比率は、榴弾1に対し、榴散弾6であり、戦場からは榴弾補給を養成されていたが、
   陸軍中央はこれを黙殺し、前線は効果のない砲撃を行なわざるを得ず、結果として歩兵の大量犠牲を必要と
   したため、歩兵からの砲兵に対する不信感を決定的なものにした。
 3. ロシア陸軍は、フランスの影響を受けており、仏式白兵主義(強固な築城によって相手の火力をかわし、機を見て
   火力支援を得て相手に接近し、歩兵の白兵突撃で勝敗を決する)を用兵の基本理念としていて、屡々白兵戦を挑
   んできたこと、それに対する味方からの支援砲撃が、前述の通り効果が無く、ロシア兵の負傷率が比較的低い
   (ロシア側の砲弾による死傷率は14%程度だった)ことで、首脳部中に打撃力が予想外に低い砲兵への評価低下が
   植え付けられたこと。
以上の三点があり、火力主義への不信感が芽生え、加えて白兵突撃で日露戦争を「勝利」してしまったことで、「日本式
戦法」が模索され始めました。

そして、1909年の歩兵操典改訂、翌年の野砲兵操典、輜重兵操典、12年の騎兵操典へと進みます。
1898年の歩兵操典では、「歩兵戦闘は火力を以て結晶することを常とす」と書かれ、更に、「多くの場合
に於て、近距離より優勢なる射撃を決勝点に聚注する時は、突撃は敵兵既に去りたるか、若しくは僅に
防支する陣地に向て行ふに過ぎさるものとす」と規定しているのに対し、1909年の歩兵操典改正理由書
では、「歩兵の戦闘主義は白兵にして射撃は此の白兵を使用する為に敵に近接するの一手段なりとの
主義を改正操典にて明確に指示せられたり。我国古来の戦闘法は…白兵主義にして白兵使用は我国人
独特の妙技なり。
故に益々此の長所を発揮して白兵戦闘の熟達を図ることは我国民の性格に適し、将来の戦闘に対する
妙決なれは…此の点に大いに力を作ること肝要なり」
としています。

その後、第一次大戦の戦訓と軍縮の狭間で、一定の近代化を行ないますが、これは、日本固有の地理的条件により、
ロシア帝国崩壊後は、純軍事的に見て欧米の第一級陸軍部隊との大規模戦闘は生起し得ないこと。
従って、欧米軍と同質の火力重視の武装を行なう切迫性に乏しく、陸軍内で対立が起きています。

近代化路線派は、宇垣一成を頂点とする省部中枢の長州系軍政家と永田鉄山ら、日露戦争後に出てきた陸大出の
エリート幕僚、但し、これらは装備の更新を漠然としか考えていない層から、欧米流国家総力戦を志向する層まで
様々な層の寄せ集めで、平時の少数精鋭・戦時の大動員、ある程度の機械化のみ一致しているだけでした。

現状維持派は、歩兵中心・白兵主義を徹底的に突き詰めるもので、常時多兵、速戦即決、白兵突撃万能を説く保守派
でした。
彼らは上原勇作、福田雅太郎ら旧薩摩閥の作戦家を糾合しつつ、長州閥優先の派閥人事で左遷された大陸出先軍
の軍人、参謀本部第二部、隊付下級将校を中心に支持を集め、「貧乏所帯の日本が欧米流「長期消耗戦」を行なうこと
は出来ないと説き、近代化路線を「器械主義」、欧米模倣の「弊風」、「皇国の独自性の放棄」、「攻撃精神の衰退」、
「国軍を顛覆せむと企図する」ものと非難していました。

この路線・派閥対立の最中の1928年、統帥綱領が改定されます。
これには、「統帥の本旨は常に戦力を充実し巧に之を敵軍に指向して其の実勢就中其無形的威力を最高度に発揚
するにあり、蓋輓近の物質的進歩著大なるものあるか故に妄に其威力を軽視すへからずと雖「勝敗の主因は依然と
して精神的要素に存すること古来渝る所なけれはなり」況や帝国軍にありては、寡少の兵数不足資材を以て尚能く
叙上各般の要求を充足せしむへき場合尠少らさるに於いてをや」と有り、更に、1928年以降の歩兵操典などの改定
に於て、その改正理由書には、「我が将兵は陸軍の比類無き歴史と伝統とに思いを致し、益々忠君愛国の至誠を
磨き、訓練の実行を重ね、上下互いに信頼し合って一体となり、かくて生ずべき必勝の信念を常に確保して、如何なる
強敵に会しても恐るること無く勝利の一途に邁進しなければならぬ」

と段々、精神主義が強調されていくようになります。
(149:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

陸軍の士官学校の予科とは何なのでしょうか。

陸軍士官学校予科は大正九年(1920年)に設けられたもので、従来あった
陸軍中央幼年学校を改称したものです。
それ以前の士官への道は
  • 陸軍地方幼年学校(予科)→陸軍中央幼年学校(本科)→士官候補生→陸軍士官学校
  • 中学校(旧制)→士官候補生→陸軍士官学校
の二つがありました。
しかし、この二つは互いに派閥を形成して幼年学校出が中学校出を差別し、また
幼年学校出のほうが優遇される傾向が強くなりました。
このため、これら二つのコースを統合するために中央幼年学校本科を廃止して
陸軍士官学校予科として幼年学校・中学校出身双方を入校させました。
これにより
  • 陸軍幼年学校/中学校4年修了→陸軍士官学校予科→士官候補生→陸軍士官学校本科
というコースが出来上がりました。
残念ながら、幼年学校と中学校出身者の対立はその後も続いたようです。

なお、昭和十三年には入校者の増加に伴い陸軍士官学校予科を陸軍予科士官学校として
陸軍士官学校から分離させています。
(292:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

旧軍が6.5mmだった小銃弾を7.7mmにしたのはなぜでしょうか?

6.5mm弾は、他国の小銃と比較して、弱威力で有る事が目立った他は、
戦闘距離内での威力は必要にして充分、人馬への殺傷能力を保持していました。

7.7mm弾に移行した理由としては、上記の威力不足の他、自動火器への不適合から来る、
限定的な将来性しか無く、いずれにせよ新しい弾薬への移行が急がれたのです。
それについては賛否両論ありますが、理想的なのは、6、5mm弾の小銃、軽機関銃と、
7.7mm弾の中機関銃・汎用機関銃、13mm以上の重機関銃・車輌塔載機関銃と、
用途に拠って三種類程度に弾種を集約する事でした。

実際にはそれらの整備の最中に大東亜戦争の戦端が開いてしまい、結局何種類もの小銃弾薬、
機関銃弾薬をただでさえ乏しい兵站能力を酷使して補給せねばならず、
その混乱は、前線の火器が「補給を受けたのに不適合な弾薬が来たので」戦闘継続が不可能、
と言う、近代軍としては非常に恥ずかしい状況へと追い込まれたのです。
(676:三等自営業 ◆LiXVy0DO8s)

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