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日本陸軍2 - (2011/05/25 (水) 18:48:31) の編集履歴(バックアップ)



旧陸軍は機械化の必要性を重々承知しながらも財政的な制約から断念したのでしょうか?

それとも決定的な破局を迎えるその時まで白兵主義の優位を確信していたのですか。
元々、日露戦争までの日本陸軍は、メッケルらドイツ陸軍の影響を受けて、ドイツ式火力主義、
つまり、迅速に機動する小銃・砲兵火力集中によって相手を圧倒する考えを持っており、歩兵の
白兵(銃剣)突撃に頼ることなく火力(銃砲弾の物量)で勝敗を決しようとする戦術思想が主流
でした。
その萌芽は、既に西南戦争後半の小銃火力の集中使用で見られています。

ちなみに、1891年版歩兵操典は1888年のドイツ帝国陸軍のそれをコピーしたもので、1898年に
日清戦争を受けて改訂されたものも、ほぼそれに沿っていました。

で、日露戦争で欧米列強陸軍が得た戦訓としては、
 1. 重機関銃を陣地防御の要とする。
 2. 敵陣突破の決め手は榴弾砲、とくに15cm以上の榴弾砲、10cm以上の加濃砲といった重砲の集中使用にある
 3. 有刺鉄線の防御効果は絶大である。
と言うもので、各国は重機関銃、重砲の開発、大量配備に躍起となり、陸戦力の主力兵科となりました。

ところが、当事者の日本陸軍が白兵主義、砲兵軽視になるのは、
 1. 砲弾、小銃弾の欠乏により火力主義が貫徹出来なかった。
   開戦前の1903年から東京・大阪の両砲兵工廠で銃弾、砲弾の大量生産・備蓄と、開戦後の民間工場の
   動員による銃砲弾の大量生産をしたが、それでも追いつかない状態(南山の戦闘では2日で3万発の砲弾
   を使用したが、これは開戦前の半年分の消費量、砲弾生産量の三ヶ月分であり、旅順第一次総攻撃、遼陽
   攻略で完全に欠乏、得利寺の戦闘では小銃弾が底を尽く状態)であったこと。
 2. 砲兵運用の根本的誤りで、平坦地の会戦でも要塞戦でも砲弾は榴散弾を多用したこと。
   消費された野山砲弾の弾種比率は、榴弾1に対し、榴散弾6であり、戦場からは榴弾補給を養成されていたが、
   陸軍中央はこれを黙殺し、前線は効果のない砲撃を行なわざるを得ず、結果として歩兵の大量犠牲を必要と
   したため、歩兵からの砲兵に対する不信感を決定的なものにした。
 3. ロシア陸軍は、フランスの影響を受けており、仏式白兵主義(強固な築城によって相手の火力をかわし、機を見て
   火力支援を得て相手に接近し、歩兵の白兵突撃で勝敗を決する)を用兵の基本理念としていて、屡々白兵戦を挑
   んできたこと、それに対する味方からの支援砲撃が、前述の通り効果が無く、ロシア兵の負傷率が比較的低い
   (ロシア側の砲弾による死傷率は14%程度だった)ことで、首脳部中に打撃力が予想外に低い砲兵への評価低下が
   植え付けられたこと。
以上の三点があり、火力主義への不信感が芽生え、加えて白兵突撃で日露戦争を「勝利」してしまったことで、「日本式
戦法」が模索され始めました。

そして、1909年の歩兵操典改訂、翌年の野砲兵操典、輜重兵操典、12年の騎兵操典へと進みます。
1898年の歩兵操典では、「歩兵戦闘は火力を以て結晶することを常とす」と書かれ、更に、「多くの場合
に於て、近距離より優勢なる射撃を決勝点に聚注する時は、突撃は敵兵既に去りたるか、若しくは僅に
防支する陣地に向て行ふに過ぎさるものとす」と規定しているのに対し、1909年の歩兵操典改正理由書
では、「歩兵の戦闘主義は白兵にして射撃は此の白兵を使用する為に敵に近接するの一手段なりとの
主義を改正操典にて明確に指示せられたり。我国古来の戦闘法は…白兵主義にして白兵使用は我国人
独特の妙技なり。
故に益々此の長所を発揮して白兵戦闘の熟達を図ることは我国民の性格に適し、将来の戦闘に対する
妙決なれは…此の点に大いに力を作ること肝要なり」
としています。

その後、第一次大戦の戦訓と軍縮の狭間で、一定の近代化を行ないますが、これは、日本固有の地理的条件により、
ロシア帝国崩壊後は、純軍事的に見て欧米の第一級陸軍部隊との大規模戦闘は生起し得ないこと。
従って、欧米軍と同質の火力重視の武装を行なう切迫性に乏しく、陸軍内で対立が起きています。

近代化路線派は、宇垣一成を頂点とする省部中枢の長州系軍政家と永田鉄山ら、日露戦争後に出てきた陸大出の
エリート幕僚、但し、これらは装備の更新を漠然としか考えていない層から、欧米流国家総力戦を志向する層まで
様々な層の寄せ集めで、平時の少数精鋭・戦時の大動員、ある程度の機械化のみ一致しているだけでした。

現状維持派は、歩兵中心・白兵主義を徹底的に突き詰めるもので、常時多兵、速戦即決、白兵突撃万能を説く保守派
でした。
彼らは上原勇作、福田雅太郎ら旧薩摩閥の作戦家を糾合しつつ、長州閥優先の派閥人事で左遷された大陸出先軍
の軍人、参謀本部第二部、隊付下級将校を中心に支持を集め、「貧乏所帯の日本が欧米流「長期消耗戦」を行なうこと
は出来ないと説き、近代化路線を「器械主義」、欧米模倣の「弊風」、「皇国の独自性の放棄」、「攻撃精神の衰退」、
「国軍を顛覆せむと企図する」ものと非難していました。

この路線・派閥対立の最中の1928年、統帥綱領が改定されます。
これには、「統帥の本旨は常に戦力を充実し巧に之を敵軍に指向して其の実勢就中其無形的威力を最高度に発揚
するにあり、蓋輓近の物質的進歩著大なるものあるか故に妄に其威力を軽視すへからずと雖「勝敗の主因は依然と
して精神的要素に存すること古来渝る所なけれはなり」況や帝国軍にありては、寡少の兵数不足資材を以て尚能く
叙上各般の要求を充足せしむへき場合尠少らさるに於いてをや」と有り、更に、1928年以降の歩兵操典などの改定
に於て、その改正理由書には、「我が将兵は陸軍の比類無き歴史と伝統とに思いを致し、益々忠君愛国の至誠を
磨き、訓練の実行を重ね、上下互いに信頼し合って一体となり、かくて生ずべき必勝の信念を常に確保して、如何なる
強敵に会しても恐るること無く勝利の一途に邁進しなければならぬ」

と段々、精神主義が強調されていくようになります。
(149:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

陸軍の士官学校の予科とは何なのでしょうか。

陸軍士官学校予科は大正九年(1920年)に設けられたもので、従来あった
陸軍中央幼年学校を改称したものです。
それ以前の士官への道は
  • 陸軍地方幼年学校(予科)→陸軍中央幼年学校(本科)→士官候補生→陸軍士官学校
  • 中学校(旧制)→士官候補生→陸軍士官学校
の二つがありました。
しかし、この二つは互いに派閥を形成して幼年学校出が中学校出を差別し、また
幼年学校出のほうが優遇される傾向が強くなりました。
このため、これら二つのコースを統合するために中央幼年学校本科を廃止して
陸軍士官学校予科として幼年学校・中学校出身双方を入校させました。
これにより
  • 陸軍幼年学校/中学校4年修了→陸軍士官学校予科→士官候補生→陸軍士官学校本科
というコースが出来上がりました。
残念ながら、幼年学校と中学校出身者の対立はその後も続いたようです。

なお、昭和十三年には入校者の増加に伴い陸軍士官学校予科を陸軍予科士官学校として
陸軍士官学校から分離させています。
(292:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

旧軍が6.5mmだった小銃弾を7.7mmにしたのはなぜでしょうか?

6.5mm弾は、他国の小銃と比較して、弱威力で有る事が目立った他は、
戦闘距離内での威力は必要にして充分、人馬への殺傷能力を保持していました。

7.7mm弾に移行した理由としては、上記の威力不足の他、自動火器への不適合から来る、
限定的な将来性しか無く、いずれにせよ新しい弾薬への移行が急がれたのです。
それについては賛否両論ありますが、理想的なのは、6、5mm弾の小銃、軽機関銃と、
7.7mm弾の中機関銃・汎用機関銃、13mm以上の重機関銃・車輌塔載機関銃と、
用途に拠って三種類程度に弾種を集約する事でした。

実際にはそれらの整備の最中に大東亜戦争の戦端が開いてしまい、結局何種類もの小銃弾薬、
機関銃弾薬をただでさえ乏しい兵站能力を酷使して補給せねばならず、
その混乱は、前線の火器が「補給を受けたのに不適合な弾薬が来たので」戦闘継続が不可能、
と言う、近代軍としては非常に恥ずかしい状況へと追い込まれたのです。
(676:三等自営業 ◆LiXVy0DO8s)

陸軍が土決戦用に編制した迫撃砲の部隊について教えて下さい。

本土決戦師団に於ては、師団砲兵隊の代りに迫撃連隊が編成されています。
また、各歩兵連隊の編成中、歩兵砲中隊の装備に迫撃砲がありますし、各大隊の歩兵砲隊の
代りに迫撃砲中隊が配備されていました。

迫撃連隊は、連隊本部と段列、迫撃砲3個中隊と大隊本部、段列から成る大隊で編成されています。
これには、二式12糎迫撃砲が一個中隊8門充て装備されています。
これで合計24門となります。
また、歩兵砲中隊には同じく二式12糎迫撃砲が4門、迫撃砲中隊には4門それぞれ配備されていました。
(但し、末期になればなるほど、編成が様々なので、定数がこれであるとはっきりは言えません)

装備された迫撃砲は二式12糎迫撃砲のみです。
九六式中迫撃砲は1941年6月から翌年7月までに僅か90門しか生産されていませんし、九七式中迫撃砲
は1941年に40門、42年に40門、43年に30門しか生産されていませんから到底戦力になり得ませんでした。

配備部隊としては、201、202、206、205、214、209、212、216の各師団がそう言った編成を取っています。
他にも配備された部隊があったかも知れませんが、記録は定かではありません。
戦史叢書辺りに掲載されているかもしれませんので、調べられては如何でしょうか。

ちなみに、二式12糎迫撃砲については、1945年に必要数が5500門、九九式軽迫撃砲が600門という数字が
出ていますが、生産予定数ですから、実際に生産されたのかは不明です。
(284:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本陸軍師団に関して、四単位制から三単位制へ移行した後の歩兵団及び歩兵団長職ってどのくらい必要性があったんでしょうか?

歩兵団長は平時には閑職だが、戦時には必要。
歩兵団という結節があると、例えば2個連隊に砲兵大隊を付属させて歩兵団長の指揮下で
戦闘に投入し、残り1個連隊は師団長が把握して予備とするとか柔軟な編成が可能。
つうか、そのための三単位師団だし。
(276:60)

日本軍は機関銃の実弾をどれぐらい携帯していたのでしょう

例えば99式
九九式よりも古い十一年式の場合、歩兵で鉄板製の弾薬匣に小銃弾120発、
それが無い場合は、麻布製の弾薬嚢(本来は弾薬匣を包んで運搬するもの)に
小銃弾150発。
これらは弾薬手が運搬していました。

自分で携行する場合は麻布製の弾薬盒に小銃弾60発を入れます。

騎兵の場合は、木製の弾薬箱に360発の小銃弾を収容します。
馬一頭につき、これを4箱駄載します。

射撃に関しては、あくまでも突撃時の支援火器として使用するもので、歩兵に随伴して
火力支援を行ないます。
但し、ドイツのものとは考え方が異なり、面制圧ではなく、拠点制圧として使用していました。
目標手前400~500mで5発点射、300mなら3発点射が標準になっていました。
そんなに、少なくて、機関銃としての十分な威力が発揮できたんでしょうか。
何か弾をケチケチ使うような印象があるのですが。
上でも書いたように、MG34の様な機関銃とは使い方が違います。

日本に於いての軽機関銃の使用は、歩兵と共に機関銃手も突撃し、歩兵の突撃に
邪魔になる目標を狙い撃ちする為のものです。

従って、機関銃手が多量の弾薬を携行していたら、歩兵の突撃について行けず、
有効な支援が出来ません。(一応、手持ち弾薬は弾薬盒のうち、30発入り前盒を2個
ぶら下げ、背部に60発入後盒を持っているので、携帯弾薬定数は120発。これに、
軽機関銃弾薬手が金属製の弾薬箱(120~150発)を抱えると言う形ですが)

一回の突撃で、数回5発ずつ発砲するとしても半分くらいは手持ち弾薬が残るという
計算でしょうか。

実弾に関してはその生産量が急激に増えた訳でもなく、出来るだけ節約する方向に
ありました。
つまり同時期の米軍で言うところのBARのような物だった、と理解した方がいいのでしょうか?
う~ん、位置付けはBARも同じなんですけど、自動小銃と機関銃の二兎を追う
性格が災いして、重く、反動が大きくて命中率が悪く、銃に装備できる弾薬数が
さほどでもないという意味では、日本以上にあまり評価できないと思います。

結局はその穴埋めをしたのがM1Rifleだと思いますが。
(107:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

旧日本陸軍では上等兵から兵長になる為の条件はどんなものでしょうか?

また、兵長から伍曹になる為の条件はどんなものでしょうか?
平時に於いて下士官になるには、徴兵による現役兵期間満了時に志願する形が一般的です。
しかしながら、現役兵期間の成績が参考にされますので、余り悪いと選抜されません。
(とは言え、平時に於いては、軍で必要とする下士官の数と、志願者の数はほぼ同数だったりしますが)

1927~38年に掛けては、歩兵、砲兵科の下士官候補者は、各地の陸軍教導学校で一年間、更に軍教育隊で
教育しています。(それ以外の兵科は各種学校で教育)

もう一つ、徴収期間が満了して上等兵として除隊する時、下士官適任証を受けていますと、再招集された場合に
下士官として任官されます。

また、幹部候補生になって将校にならない場合は、予備役下士官に任ぜられます。
六週間現役制の場合、修了者は国民兵役に編入されますが、国民軍幹部適任証書が交付され、国民軍が編成
された場合は、彼らを以て幹部(下士官以上)に充当します。

下士官が足りなくなった1938年以降は、高等小学校卒業程度の者を陸軍航空学校、戦車学校生徒として二年間
教育し、一年で伍長にする少年飛行兵、少年戦車兵の制度が誕生しました。
この制度は、通信、砲兵、防空でも採用され、陸軍通信学校で教育する少年通信兵、陸軍野戦砲兵学校、陸軍
重砲兵学校、陸軍防空学校で教育する少年砲兵、少年防空兵がありました。

1943年より、特別幹部候補生制度が出来、15~20歳の者に一年半の教育を施して現役下士官とし、二年後に予備
役とすることになり、飛行、船舶、兵技、通信、航技について募集しています。
このほか、技術下士官は陸軍兵器学校生徒から、経理部下士官は経理部少年委託生徒から、憲兵下士官は憲兵
上等兵(後に兵長)から昇進させることで対応しています。

戦時には、在隊期間が長くなって、伍長が兵長の昇進先となり、志願に拠らない下士官も多数生まれ、1938年に召
集中の予備役軍曹、伍長で志願する者を現役とする措置が執られています。
なお、下士官の進級の実役停年は、曹長二年、軍曹三年、伍長半年でしたが、1941年以降、曹長四年、軍曹二年、
伍長一年となっています。
(110:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本陸軍の自動車化された歩兵部隊や捜索連隊の乗車中隊に配備された自動貨車と、部隊あたりの配備数などをどうか教えてください。

小隊や中隊を何両で運んだかとかが知りたいんです。
基本的に自動貨車の配備数は余り多くありません。
例えば、第23師団の捜索連隊には自動貨車30台という数字が残っていますが、中隊毎にどれくらいの
数を配分したかはよく判らない状況です。
輜重兵中隊の場合は、自動貨車40両基幹になっています。

自動貨車には完全武装の兵士15名、または荷物500貫を載せることが出来ましたので、例えば、歩兵
分隊を輸送する場合、単純計算では自動貨車1台があれば足ります。
1個小隊は4個分隊ですから、単純計算で、5台程度の自動貨車が必要になるでしょう。
1個中隊は4個小隊と指揮班、弾薬小隊が付きますから、大体輜重兵中隊の自動貨車分が必要になり
ますね。
(275:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

方面軍直轄の大隊の大隊長が野戦昇進か何かで連隊長になるようなケースはあったのでしょうか。

聯隊長には一般的に少将が親補されます。
一方、大隊長は一般的に佐官が任命されます。
但し、戦争末期の聯隊乱造状況では、少将が足りなくなり、大佐でもそれなりに軍歴のある人
であれば、聯隊長への昇進が可能でした。
(274:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

幼年学校、陸軍士官学校の入試科目、教育内容がどういうものだったか調べたいのですが

陸軍幼年学校は3年課程です。
入学資格は、13歳以上15歳未満という年齢上の制限だけで、学歴上の制限はありません。
但し、その試験は(当時の)中学校1年程度の学力試験、即ち、国語、漢文、外国語、歴史、地理、数学、
理科(地学・生物学)から出題されたみたいです。
外国語試験は英語、フランス語、ドイツ語から選択されます。
このため、高等小学校卒業程度の学力で幼年学校に入学するのは難しかった様です。
(辻ーんの様な例外は居ますが)

教育内容は、基礎素養教育(普通の中学校教育に相当)が主であり、これに外国語の習得が加わります。
外国語は、フランス語、ドイツ語、ロシア語のいずれかを選択するもので、英語はありませんでした。
(昭和期にやっと英語と中国語が加わりますが)
ちなみに、軍事知識の教育は、同年代の中学生が学校教練で学ぶものの方が豊富だったと言われています。

幼年学校卒業、または中学校卒業した者は、その後、陸軍予科士官学校にて2年間教育を受けます。

入学資格は幼年学校卒業生もしくは、中学校卒業程度の学力を有するもので、16~20歳の者です。
この試験内容は、中学校4年程度の学力試験で、国語、漢文、外国語、歴史、地理、数学、理科、公民から
出題されたようです。
ちなみに、東北の中学校の例では、200名中、1935年までは、成績上位30番以内が入学出来、1936年には
上位5、60番以内、1937年には更に増え、100番~120番でも合格出来たそうです。

陸軍予科士官学校では、国語及び漢文、外国語(英独仏露中のうちから一つ)、歴史、数学、理科(物理、
化学)、地理及び地質、心理及び論理、公民(法制及び経済)、図画の様な、高等学校高等科の科目と、
教練、陣中勤務、射撃、剣術体操、柔道馬術、訓話、内務班指導及び検査などがありました。

この過程を修了後、半年間の士官候補生勤務を経て、本科に進みます。
陸軍士官学校では、戦術学、戦史、軍制学、兵器学、射撃学、航空学、築城学、交通学、測図学、馬学、
衛生学、教育学、外国語、校内教練、校外教練、陣中勤務、射撃、剣術、体操、馬術、典範令、服務提要
などのカリキュラムがあります。

なお、教育学を履修するのは、軍隊教育の教育者として、彼等を養成する必要がある為であり、これは
必須科目として、陸士から、東大教育学科に派遣される場合もありました。
(122:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

東條を始めとする日本陸軍の対米開戦支持派ってアメリカに留学経験とか行った経験ないのでしょうか?

五十六のようにアメリカの強大な工業力を知っていれば対米開戦という愚考を犯すことはなかったのでは?
いわゆる「バーデンバーデンの密約」に代表されるように、当時の陸軍では
ドイツに留学したメンバーが派閥として非常に大きな勢力を持っていました。
当時の陸軍では、陸大を卒業した将校の多くが一度は専修語学の国を対照とした
外国出張の機会を与えられていました。
帰国後も彼らは派閥を形成し、陸軍内部で大きな勢力を形成していきます。

なお、英語専修の場合は英国が出張先に選ばれたようで、今村均大将と本間雅晴大将は
大正7年に英国に出張しています。
(267:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

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