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満州国 - (2011/07/17 (日) 22:41:35) の編集履歴(バックアップ)





「独立国」と称していた「満州国」への侵攻は 日ソ中立条約その他の国際法規に照らしてどうなるのでしょうか?

満州国といえど、枢軸国または一部中立国の承認を得ておりますので、
別に中華民国を始めとする連合国が承認していなくとも「国」あるいはそれに類するものと認められます。
ただ、連合国から見ると一種、"Authority Of De facto"と言えるでしょう。

但し、"Authority Of De facto"ですから、連合国にとっては統治主体であっても「国」ではないため、
「中華民国の一部である一地方政権の分離独立運動」に対し、
中華民国など連合国の要請でソ連がその反乱鎮圧に動いたと言うことが成り立つ訳です。
また、ソ連の満州侵攻は日本に侵攻したわけではありません。
故に日ソ中立条約違反にもならなければ、国際法規違反にもなりません。

これが明確に日本領土として各国が承認している朝鮮とか南樺太、千島列島なら、破棄されているとは言え、
その条約有効期限が切れていない日ソ中立条約違反ですし、一種の国際法違反にはなるはずですけどね。
(25:眠い人 ◆ikaJHtf2)

満洲と満州どっちが正しいですか?

満洲(マンジュ)はもともと女真族を統一したヌルハチが、
自身の傾倒していた文殊菩薩信仰から自らの民族を
「文殊の徒」であることを示す為に名乗り始めました。
また、満洲族では水を神聖なものとしていることから
正式には両方にサンズイをつけます。

私見ですが「満州」は恐らく省州県
(あるいは徐州、福州といった地名のようなもの)と混同して
日本人ないし漢民族が使い始めたのではないかと。
(46:929)

戦後,旧満州で石油が発見されたそうですが,戦前の日本の技術では発見できなかったのですか?

満州に石油が埋蔵されていること自体は当時もすでに知られていた
ただ常温ではアスファルト状になる超重質油なので,当時の精製技術では利用不可能だった.

満州事変は何の国際法違反ですか?

ワシントン会議の中での海軍軍縮条約が「ワシントン条約」であり,同じく,中国・ベルギー・ポルトガルを含めて締結したのが「9カ国条約」ですが,その9カ国条約はの主旨は

[1]中国の主権,独立,領土的・行政的保全を尊重すること
[2]中国が自ら有力かつ堅固な政府を確立するため,完全にして障害のなき機会を供与すること
[3]中国の領土をとおして,いっさいの国民の商工業に対する機会均等主義を有効に樹立維持するため,各国が尽力すること
[4]友好国の国民の権利を減殺すべき特別の権利または特権を求めるため中国における情勢を利用すること,・および,友好国の安寧に害ある行動を是認することをさしひかえること,

 明らかに,9カ国条約の主旨の「中国主権の尊重」「領土保全」「列強既存利権の確約」に反してますよ.
 9カ国条約は,「満州における日本の特殊利権」は保証していますが,「中国からの満州分離」は認めていません.
(軍事板暫定移転スレッド in コヴァ板)

日本が主張したように,満州は「化外の地」だったの?

1915年の日華条約で日本は,中華民国から満州権益租借期間の延長を取り付けている.つまりは満州の主権が中華民国にある事を認めている.
 ちなみにこの条約がなければ,満州の租借権は,満州事変の頃には租借期限切れになっている.
 それを後から家外の地だの言い出しても筋が通らない.

満州国の人口構成

康徳四年(一九三七年)一二月末

民 族   人  口 比率

漢民族    2,970.0万人     81.6% 
満洲族    435.0万人      12.0%
蒙古族    98.0万人       2.7%
内地人    42.0万人       1.2%
朝鮮人    93.0万人       2.6%
欧米人    1.1万人        0.0%

合 計    3,639.1万人      100%
(日立デジタル平凡社「百科で見る20世紀」より)

満州事変と日中戦争は、英語圏ではどのように呼称されているのでしょうか?

Japanese Invasion of China
(2:707)

1933年の国際連盟臨時総会での満州事変に関する調査報告書の採択でタイ王国が棄権したのはどうしてなのでしょうか?

タイの棄権は武力を背景にした日本の圧力によるものです
(36:934)

満州国軍って実際、どんな軍だったのでしょうか?

史実の満州国軍は、日本軍の
装備と旧張作霖軍の装備を有していました。
後には、日本軍装備が幅をきかせてきますが…。

任務は主に、国内の治安維持と国境警備であり、外征は考慮されていません。
成り立ちが各地にある軍閥を吸収したため、兵員の質は良くありませんでした。

小銃はモーゼルKar98bか38式、30式歩兵銃。
拳銃はモーゼルM1896でこれを一号拳銃として国産化。
戦車はルノーFTが装備されていた。

海上警察隊という海上部隊もあり、松花江、黒龍江警備(ソ連との国境警備)用に
桃級の旧式二等駆逐艦「樫」と哨戒艇、砲艦を数隻所有していた。
このほかに、シュレック飛行艇と94式艦爆、87式軽爆、90式水偵を保有。

陸軍飛行学校、陸軍飛行隊もあり、ポテ25「保貞号」を初期に使用していたが、
後に97式戦闘機を主力とし、後に隼が装備されました。
爆撃機には、日本が輸入したが、使い出が悪かったイ式重爆(B.R.20)を
満州の大豆と引き替えに購入しています。
このほか、屠龍、鍾馗も少数ながら使用されたらしいです。
練習機としては95式練習機、99式高練が用いられました。
また、97式戦闘機を改造した2式高練は満州飛行機によって国産化されています。
(39:眠い人 ◆ikaJHtf2)

終戦期の満州開拓団が関東軍に見捨てられたり、自棄になった関東軍や開拓団員らに降伏勧告にきたソ連兵が殺されたりしたのでしょうか?

結論からいうと、ありました。
当時、相当広範囲に日本人開拓民や移植者が入っていたことと、
関東軍のほとんどが南方や本土に移動しており、満州自体、
がら空きの状態だったため、多くの避難民が置き去りにされました。
当時の防衛方針としては、(ちょっと手元に資料がないので詳細は書けませんが)
ソ満国境からハルピン辺りまで後退して防衛線を張る予定でした。
その為、部隊が迅速に後退する必要があり、民間人まで手が回らなかったというのが実情です。
もちろん、そもそも民間人の保護をどれだけ考えていたかということもありますが。
ソ連軍や中国軍、そして現地民による殺害・略奪・暴行も頻発していました。
同時に、それらの人々に保護された例も多くあります。
また、軍によって「温情から」自決させられた(「ソ連軍の手にかかるよりはいい」ということ)、
或いは殺害された避難民もいたようです。

実をいうと既に亡き親戚が満州に出向中、危うい目にあったらしい。
(48:ばばぼん♪)

満州皇帝の護衛をする日本人軍人はなんという部隊・役職に所属していたのか教えてください

日本皇帝だったら、「近衛師団」がありますが、満州ではどうだったのでしょうか
満州国建国と同時に、執政身辺警護のために、蒙古人300名から為る「護軍」が編成され、
その後、1932年3月7日付で、吉林省警備軍より、精兵223名を以て「翊衛軍」が編成されて
います。

前者は、執政府直轄の親衛隊、後者は軍から派遣されている正規軍です。
この二重体制は、正規の警護を「翊衛軍」が、宮内府警衛処長の配下に儀仗隊として「護軍」
が担当することで、表面上の解決を見ています。

なお、「翊衛軍」は1934年4月1日に「禁衛歩兵団」となり、1936年には、歩兵四個連と、側衛警護の
騎兵一個連、儀仗用の砲兵一個連からなる「禁衛隊」に改組されました。
(139:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

満州事変は独断で行なわれたのなら、その資金はどこから調達されたのでしょうか?

中公新書だったかに当時の日本の植民地支配を支えた金融政策をうまくまとめた本があるよ
早い話、朝鮮銀行や中国に日本が開設した銀行に紙幣を乱発させて資金を得ていたのさ
でも軍はそれが日本に輸入インフレとして入ってきたうことまでは考えが及ばなかったようだ
これによる日本経済の破綻があの戦争の重要な要因だったりもする
中国でのアヘン経営資金は事実上、岸信介個人の活動資金の一部しか賄えなかったという説も
ある
で、岸は日本に帰る際にこの資金だけじゃ足りなくて、現地物資を大量に横領隠匿横流ししたり
して、戦後の政治活動資金を得たりしたわけだ
(319:348)

戦前「満蒙は日本の生命線」といわれてたそうですが、それほどまで重要だったのはなぜでしょうか?

その当時は、中国東北部で油田は発見されていませんし、農業をするとしても気候は厳しくそれほど楽にはできないと思うのですが、
その後ハルノートでアメリカから中国大陸からの撤退を求められて、アメリカと戦争するしかないとなり、太平洋戦争が始まりますが、
アメリカから石油を止められてまで、アメリカと戦争をしてまで、満州を手に入れたかった理由は何でしょうか?
日本の(つか、主に陸軍のだが)仮想敵はソビエトだったから、
ソビエトに満州を抑えられるようなことがあると日本は圧倒的に
ソビエトに対して不利になる。
日露戦争の再来的状況になるが、当時と違ってイギリスもアメリカも
味方になって助けてくれない-というか、むしろ敵-し、最悪の場合
米英ソで同盟なんて組まれた日には、太平洋と大陸から挟み撃ちに
されることになる。
実際、太平洋戦争の末期にはそうなって、
「誰がどう考えてもオワタ。もぅうちの国ダメぽorz」」
となったわけだし。
日露戦争当時と違って「長距離戦略爆撃機」というものがあるので、
満州全域がソビエトの勢力圏になったら、朝鮮と西日本は大陸からの
戦略爆撃の脅威にも晒される。

あと、当時の日本は国内経済が絶望的に行き詰ってたのを、失職者を
満州と内蒙古に「満蒙開拓団」として送り出す(体よく追い出した、
棄民した、とも言う)ことで国内経済をどうにか維持していたので、
欧米向けの輸出が減った分をカバーする(押し付けるとも言う)ためにも
植民地がどうしても必要だった。

結局それが大日本帝国が崩壊する直接的きっかけを作ったのは、歴史と
地政の皮肉というしかない。


アメリカの要求を呑めないのは単なる算盤勘定より
国家としての面子が保てないことと、
何十万も戦死させて手に入れているものを
外交一つで手放すのは国民感情的に受け入れられないというのが大きいだろ。

それとは別に満州確保の意味とは
まず軍事的にはソ連に対する緩衝地帯という面と
当時の日本の国家予算をこえる規模の経済投資を行なっていたから
元を取るまでは人手に渡せないという事情があった。

資源面では、
満州では鉄鉱石と石炭の産出が豊富で、日本の産業にとって貴重な資源だった。

また、日本の主要産業は綿産業で、
満州は綿製品の主な輸出先となっていたから商業面でも日本が確保しておけば有利。

それと食料問題もある。
当時の日本も急激な人口増加による食料自給率の低下が深刻な問題とされていて
特に国内で消費される大豆の大半を満州からの輸入に頼っていた。

あと、国内の余剰労働力の受入先としても期待されていた。
移民の数は当初の計画を大幅に下回りはしたものの
それでも30万くらいは送り込んでいるから
失業者がそれだけ減るというのは小さくはなかったはず。
(576:736,817)
その当時は、中国東北部で油田は発見されていませんし、
日本陸軍の存在意義に関わるから。
仮想敵としてソ連の存在を強調しないと、大正軍縮がさらに進められる恐れがあった。
だから、いわば直接の当事者である関東軍が、やたら積極的だった。

すでに日露戦争のときにも、大騒ぎして巨大な犠牲をすでに出していたから。
いまさら引き返すなんて、英霊に申し訳が立たない。
特に、日露戦争時に第一線の兵士だった年代が、
40歳代になって社会的に重要なポストを占め、有権者としても重視すべき対象になっていた。

また、国内の人口増加で、耕地確保と移民先が必要だった。
満州は、地権者がはっきりしてない「無主の地」で、切り取り放題の沃野と見た人が多かった。
体の良い棄民先ともいえる。

なお、満州が日本にとって真に生命線になったのは、太平洋戦争の最末期だな。
タイや仏印からの主食輸入が途絶え、肥料の輸入も滞る中、
満州の雑穀と岩塩が、国民生活維持のために不可欠の存在になっていた。
生命線だとぶちあげていた挙句、本当に国民の生死に直結するようになっていたわけだ。

「満蒙は生命線」というのは、一般的には1931年の国会の
松岡洋介の演説を元に流行した言葉だといわれているが。
(614:836,838)

満州事変後、満州と樺太から挟撃したら沿海州は取れたでしょうか?

3ヶ月以内に終わらせないと寒くて死にます。
あの機動力で沿海州を3ヶ月じゃ無理でしょう。だから不可能です。
(7:537)

政府や陸軍中枢が満州事変を事前に止められなかったのはなぜなのでしょうか?いくらなんでも,一個師団丸々が独断で動くとしたら,バレそうな気がするのですが…


 事変が起こる前としたら,バッチリばれていました.
 しかし,先の三月事件程度のクーデターごっこと舐めていたのか,あまり本気で止めるつもりがない,若しくはちょっときつく言えば止めれると思っていた模様.

 満鉄爆破は1931年9月28日に予定していたが,現地で金で買収した大陸浪人が酔って計画を喋った所為で,弾薬や軍需品を集めているという情報が漏れて,これが政府に伝わりました.
 政府は計画を止めるため,参謀本部第一作戦部長の建川美次少将を満州に派遣しまた.
 建川は18日午後に奉天に到着,その夜に招かれた料亭で
『君らの事は半分バレた.中央は止めよという.
 自分の意見は,うまくやるならやれ,駄目なら止めた方がよかろう,というものだ』
と話し,酔いつぶれて寝込んでしまいまた.

 中央が本気で止める気がないと察した石原たちは,昭和6年9月18日深夜,計画通りに鉄道爆破を実行.
 建川自身は
『まさか,その夜やるとは思っていなかった』
と後に回想していました.

 また,本来関東軍を真っ先に止めるべき筈の憲兵隊も事実上,関東軍に支配されており,その役割を果たしていませんでした.

 事変の最中に関して言うのなら,関東軍の進撃の速度が速過ぎて,国際連盟内で停戦や兵の引き上げを話し合っている間に戦果が既成事実として出来上がっていたのもあります.
 事変後ほぼ三日で関東軍は満州の中央部を抑え,朝鮮軍は東部を確保し,残るのは,満州北部と,長城線に近い西部だけとなっていました.
 また,石原は予てから意を通じていた朝日新聞を通してに戦況を流し,更には苦戦を演じて,国民からの熱烈な支持を得ることに成功しています.
 この世論が,中途半端に民主政治を行なっていた日本政府の不拡大方針を曲げてしまう事になります.
 元老の西園寺公望さえも
「幣原外交は正統派で間違いがないと支持してきたが,いかに正しいことでも,国論が挙げて,非なり悪なりとするに至っては,生きた外交をするうえでは考え直さねばならない」
と洩らす状態でした.

 そしてその後,板垣,石原の工作で,満州の軍閥各指導者らは,シナ本土からの分離独立を宣言しました.
 こうなると,早期撤退の問題もなくなり,また,
「満州の独立は満州人自身の意思だ」
という既成事実が作られました.

関東軍は民衆見捨てて逃げたの?

関東軍はソ連の侵攻開始の時点で民衆に退避勧告を出したが
民衆は自分の築いた財産をいきなり全部捨てて逃げろなんて言われてもイマイチピンと来なかった模様。
普通は天災や戦火を目の当たりにしないとでもそんな事はできないもの。事実、満州は今の今まで
空襲も戦闘もなかったから。で、先に軍人とその家族が逃げる結果になった訳。満州で塗炭の苦しみを
味わった人から見れば「関東軍は民衆見捨てて逃げた」と映る訳だ。機を見るのに敏な人は
ちゃんと逃げている。視点の違いも考慮に入れておいてくれ。
(157:119)

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