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日清戦争 - (2009/05/01 (金) 19:26:48) の編集履歴(バックアップ)




日清戦争の時に、清軍は辮髪をしていたために髪に火がついて悪戯に死者を増やしたためそれから辮髪を廃止したって本当ですか?

辯髪は清朝を築いた満州族(女真族)の風習で、清内の漢民族にも強制されました。
戦闘など激しく動く作業の時は、頭に巻いて邪魔にならない様にしていました。

辯髪が廃れたのは清朝が倒れて風習を強制していた満州族が力を失った為で、戦闘で火が点きやすかったからと言うワケではありません。
(475:593)

「西太后が清朝を滅ぼした」という言い方は正しいの?


 最近の中国史研究では,従来語られてきたような西太后の悪事とされてきたことの多くが,根拠の無い流言であったとこが明らかになってきており,むしろ西太后の存在が当時の清朝の安定装置となっていたことが注目されてきている.

 西太后の功罪としては,以下のことがあげられるだろう.
功績
 ・19世紀最大の内戦の1つである太平天国戦争(戦死者5000万人)を鎮圧し,アロー号戦争や打ち続いた内戦や経済危機で屋台骨の傾いだ清朝を再建することに成功
 ・国内勢力の調停者として内政を安定させつつ,近代化政策である洋務運動の推進者たちの後援者となった.
 ・従来,政権中央から排除されていた漢人官僚の勢力を取り入れることで,国内政治の活性化に成功.
 ・義和団戦争後,抜本的近代化政策である「新政」を実施,これは現代中国の各種制度の基本となる画期的なものであった.
 彼女の統治が40年清朝の寿命を延ばしたと,いう指摘もある.


 ・バランサーであるがゆえに,なかなか抜本的な改革が出来なかった.清朝の旧態依然とした構造が保持されることになる.
 これは,宮廷内で排外勢力が台頭した際に,八カ国に宣戦布告することを止めることが出来なかったことにも繋がる.
 ・皇太后が政治を取るという非常事態を恒常化させてしまったこと,
 そのため,政治系統が複雑化し,彼女自身は引退したかったにも関わらず,自身の存在が不可欠になってしまい,死後の混迷の原因をつくった.

 ただし抜本的な近代化は,清朝が清朝でなくなる危険性のあるものだった.
 結果として,20世紀初めに実施された「新政」は,ソ連のペレストロイカと同じく,政権の屋台骨を崩してしまった.
 すなわち,清朝の最後の10年間に行われた,明治維新をモデルとした改革運動である「新政」により,中央への権力回収はかなりのレベルまで進展していた.
 後に皇帝を称する袁世凱は,改革の最大の推進者であった.
 しかし皮肉なことに,地方政府の力を弱めるという改革の成功のため,地方で発生した革命を抑えることができなくなってしまった.
 それが辛亥革命による清朝政府の瓦解へとつながることになる.

(軍事板)

日清戦争における清国側の勝利条件は何だったのでしょうか?


 清は,朝鮮に於けるその宗主権を認めさせることが最大の目的でした.
 元々,数度の事変によって,日本軍は敗北とは言わないまでも,清国軍相手に撤退を繰り返していました.
 このため,清としては,この際はっきりと領有権を主張し,清による朝鮮半島の領有を実現するというのが最終目標でした(英国もロシアの南下を阻止するために,清国に期待していた節もありますし).

(眠い人◆gQikaJHtf2)

戊辰戦争で榎本武揚が艦隊を率いて脱走した際の旧幕府の海軍力について,よく「東洋一」と表現されているのですが,明治政府の海軍力は清より劣っていて,日清戦争当時でも劣勢だったとも言われています.清が1870~80年代にかけて急速に,海軍力で日本を凌駕したということですか?


 【回答】
 まったくその通り.
 清国には李鴻章という人物がいて,彼によって清国の海軍は建設されたといっていい.
 彼が1870年に直隷総督と北洋大臣(北の海の海軍大臣)に任命されてから,関税収入を利用して北洋海軍を急速に拡張している.
 特に1885年に購入して北洋艦隊に配備された戦艦「鎮遠」と「定遠」の2隻は,世界的にも大艦と呼んでもいい立派な戦艦で,日本海軍にとって脅威だった.

(軍事板)

日清戦争の時日本は遷都したとか?

明治27年、日清戦争の指揮のため一時的に大本営、帝国議会など首都機能が広島に移転、天皇陛下も広島入りしました。
翌年までの225日間、日本の首都が広島になっていたことになります。

(346:295)

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