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WW1海戦関係 - (2011/07/17 (日) 18:18:03) の編集履歴(バックアップ)




第一次大戦に航空母艦は投入されてたんでしょうか?


 第一次大戦ではイギリスの水上機母艦フューリアスが実戦に参加してますね.
 1918年に艦尾に着艦甲板を設置して着艦が出来るように改装されたフューリアスは,18年7月17日に7機のソッピース・キャメルでTondernトンデルンにあるドイツ飛行船基地を空襲し,二隻の飛行船を撃墜しています.
 これは空母艦載機による史上初の航空攻撃でした.

(名無し軍曹◆Sgt/Z4fqbE)

第1次大戦時の日本海軍の実力は?


 WW1の時点では日本海軍は帝政独海軍と比べ3位はおろか,2位独逸とは比べるべくも無い劣勢でした.
 当時,帝政独海軍に対抗できたのは英大艦隊だけです.
 実戦力3位どころか,質量とも圧倒的に帝政独海軍が上です.

 日本海軍は,ハンマーである遊撃戦力としては金剛型があり,コレはかなり有力です.
 が,お伴となるべき駆逐艦隊が皆無に等しく,総合戦力として多くは期待できません.
 因みに英独供かなり有力な水雷襲撃部隊を有していました.

 また金床たるド戦艦群の内,使い物になるド級以上は,大戦中竣工の扶桑型が最初で改正型の伊勢型まで含めても僅か4隻.
 ド級艦に分類されている河内型は.究極の準ド級というべき艦で,多くを期待できる艦ではありません.
 その扶桑型も,成功作と呼べるような艦ではありません.

 因みに英独は,1916年のジュトランドに参加したド級と超ド級戦艦だけでも英28隻(日本艦を上回る15in砲艦6隻含),独16隻に達します.

 基準戦艦(三笠と同等レベル)なら,日本も鹵獲ロシア艦も含めて前ドは腐るほど持っていましたが,その腐ってた基準戦艦~準ド級戦艦群が日本海軍の場合また曲者.
 66艦隊計画の残存4隻,香取,鹿島,薩摩,安芸,筑波,生駒,伊吹,鞍馬は多少の問題含み(2巨砲混載は運用が難しい,最有力の薩摩・安芸は同型艦なのに運動能力が違う等々)ではありますが,自国の要求仕様で造ってるからまだマシです.
 しかし,日露戦争で鹵獲・再整備した石見,肥前,丹後,相模,周防,壱岐は,相模と周防が同型(つってもドレッドノート・ショックの後では,基準戦艦はおろか装甲巡洋艦の価値しか事実上なくなっている)である以外,型も運動能力も速力も火力も全く別モノです.
 したがって,戦隊,艦隊といった戦術ユニットとしての一体性がまるで作れず,しかもそれらの整備再生にかけた労力予算は莫大でして,当然他に皺寄せが行きました.
 文字通り「腐っていた」と言えるでしょう.

 もちろん英独などは,そういう戦争によるアクシデント的なものがないので,それなりの斉一性を保ってます.

 唯一,日本海軍に後に繋がる利があったとすれば,「戦艦の定数」が増えたので,これらを廃艦にすると代艦を要求する名分が立つようになった位ですな.

 結論として,当時の海軍バランスは物凄く大雑把にあらわすと
英>>独>>>>>米仏日露墺伊(皆,脛に傷あり.どんぐりの背比べ)>>>>>その他.
といった感じ.

(世界史板)

帝政ドイツの「艦隊法」ってのはどんな内容だったのでしょう?

Kaiser Wilhelm IIが発した艦隊法は二次に渡って制定されています。
最初が、1898年で、19隻の戦艦、8隻の海防戦艦、12隻の大型巡洋艦と30隻の小型巡洋艦を、
1903年までに建造するというものでした。

第二次は、1900年で、その規模は倍増し、38隻の戦艦、14隻の大型巡洋艦、34隻の小型巡洋艦
と、96隻の駆逐艦を1920年までに建造するというものになりました。

1906年には弩級艦の誕生を受けて、第三次というか、第二次の第一次改訂案が作られ、更に6隻の
弩級艦で3個戦隊を、また、植民地用に6隻の装甲巡洋艦を追加しています。
更に、潜水艦、水雷艇の追加も為されました。

かてて加えて、1908年に第二次改訂が加えられ、旧式海防戦艦8隻と前弩級艦4隻の代わりに、4隻の
弩級艦の建造が計画され、1912年から1917年までに各二隻の戦艦が毎年就役するようになっています。

1912年には第三次改訂が加えられます。
これは3隻の大型巡洋艦の代わりに、3隻の弩級艦と2隻の軽巡洋艦が加えられました。

あれやこれやで最終的に、1隻の旗艦、3個戦隊を維持する24隻の弩級艦、8隻の巡洋戦艦、18隻の軽巡洋艦、
これが第一線戦力。
予備役として、2個戦隊16隻の戦艦、2隻の装甲巡洋艦、12隻の軽巡洋艦。
海外植民地警備用に、8隻の装甲巡洋艦、10隻の軽巡洋艦。
水雷戦隊用に、3隻の水雷戦隊旗艦、108隻の水雷艇、54隻の潜水艦。
水雷戦隊予備として、36隻の水雷艇、18隻の潜水艦、1隻の水雷戦隊旗艦。
これらを建造する予定でした。
(118:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日露戦争中に旅順艦隊でノーウィックの艦長をしていたエッセン中佐はWW1でも活躍しているということですが、どうだったのですか?

バルチック艦隊の司令官として活躍しています。
但し、準弩級艦2隻、旧式戦艦2隻を有していたとは言え、その戦艦は陸軍のSt. Petersburg軍管区の司令官の指揮下に
置かれた為、小型艦艇による機雷戦が主でした。
しかし、この機雷戦により、バルト海の制海権を或程度保持しています。
残念ながら、1915年半ばに彼は死去したため、その後、バルト海艦隊の活動は不活発となってしまいました。
(119:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

第一次大戦に航空母艦は投入されてたんでしょうか?

第一次大戦ではイギリスの水上機母艦フューリアスが実戦に参加してますね。
1918年に艦尾に着艦甲板を設置して着艦が出来るように改装されたフューリアスは、
18年7月17日に7機のソッピース・キャメルでTondernトンデルンにあるドイツ飛行船基地を
空襲し、二隻の飛行船を撃墜しています。
これは空母艦載機による史上初の航空攻撃でした。
(246:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
軍曹殿に蛇足。
英国のFuriousは、1917年7月に完成しますが、艦の前部のみに飛行甲板を設け、後ろは戦艦その
ままの状態でしたので、着艦が難しく、8月2日に2回の着艦に成功した操縦士は、8月7日に失敗して
死亡しました。
以後、後部砲塔を撤去して後部にも着艦用飛行甲板を設け、その改装が完了したのが、1918年2月
です。

同じような改造を商船のCampaniaに対して行っていましたが、これは前部に120ftの飛行甲板を設ける
もので、発艦した機体は、陸上に収用されるものになります。
但し、発艦距離が短すぎ、200ftに延長され、1915年8月6日に初めての発艦に成功します。
1916年当時の搭載機はSopwith 1 1/2StrutterのN9722、A6919-6922、N5333、5635、5638の各機でした。
ちなみに、この艦はJutland海戦にも参加(回敵はしませんでしたが)しています。

余談ですが、帝政ロシアも数隻の水上機母艦を黒海艦隊で運用していたりします。
(246:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

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