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連合国全般 - (2011/12/07 (水) 22:01:08) の編集履歴(バックアップ)




第二次大戦のヨーロッパ戦線において連合軍が独逸軍から鹵獲した銃器を恒常的に使用し続ける事は許可されていたのですか?

許可はされていないが員数外の兵器として使用されることはよくあった。
特に北アフリカでのイタリア軍装備を英軍が使ってたとか、
欧州戦線でドイツ軍が使っていた銃器類を米軍が使っていたなどの例は枚挙にいとまがない。
(24:眠い人 ◆ikaJHtf2)

destroyers-dealって何ですか?

1940年9月に米英間で結ばれた協定で、
アメリカがイギリスから8海軍基地を租借し、そのかわりイギリスに旧式駆逐艦
50隻供与を同意するものだったはず。

(41:111)

アルゼンチンは大戦中参戦したんでしょうか。

当時のArgentinaは枢軸国、連合国双方への羊毛、牛肉、小麦の輸出で、
多大な利益を上げ、現在では考えられないほど、有数の金持ち国でした。
で、飛行機、戦車、艦船などの国産化を行っています。
(大戦後はクルト・タンクとかエミール・ドヴォアチンを招いて、ジェット戦闘機まで
 試作してたりします)

Argentinaは1945.3.27に枢軸国への宣戦布告を行っています。
但し、幾分はアリバイ的な参戦ですから、ブラジルのように軍の派遣まで至っていません。
(44:眠い人 ◆ikaJHtf2)

連合軍はノルマンディーから上陸したわけですが、ベルギー・オランダあたりからの上陸は考えてなかったのでしょうか?

補給を考えてロッテルダムやアントワープとかの港湾設備がある地方からのほうが良いように見えるのですが……

まず、その辺に上陸するには海を長距離(っていっても対した距離じゃないけど)越えてく
必要がある。
それに、デンマーク海峡から北海南部までは引きこもり状態だとはいえまだまだ
ドイツ海軍の勢力圏内だから、完璧な制海権を必要とする大規模上陸には困難が
伴う。

なによりオランダは国全体が湿地と低地で、運河と沼だらけだから上陸したあと
大部隊が纏まって行動するのが困難だし、フランス北部からベルギーにかけては
ドイツが上陸を想定して警戒している。

奇襲上陸が可能で上陸後の部隊展開も容易、制海権がほぼ完璧に抑えられる場所、
というとノルマンディーが最適だった訳。

ちなみにドイツ軍がそう考えているであろうことを予測して、ノルマンディ上陸の
前にはカレー~ベルギー北海岸のどこかに上陸する計画である、っていう偽情報が
ありとあらゆる手段で流された。
パットン将軍はこの偽上陸計画の「総司令官」とされて実際にはありもしない作戦の
ために各地を奔走した(偽情報をらしく見せかけるため)。
(461:603)

英本土から離れすぎなので、たどり着くまでに見つかる可能性が高い。
港湾施設があるところは当然のことながら防備が厚く、道路網も発達しているので兵力を集中させやすい。
つまり自殺行為。
敵の最も手薄なところを狙うのは基本中の基本。
港湾を占領するのはその後でいい。

ノルマンディの場合は「港がなければ持ってくればいいじゃない」ということで、マルベリーという巨大な埠頭を持って行って海岸沖に設置した。
(461:604)

プライベートライアン見て思ったのですが、なぜノルマンディに上陸する前に空爆しなかったのですか?

ノルマンディの海岸地帯のうち、「プライベートライアン」の舞台になっている「オマハ海岸」
(オマハはコードネームで本来の地名ではない)だけは事前の防衛強化策でトーチカ等が整備されていたのに、
当日の朝爆撃した爆撃機部隊が先導機(爆撃する目標を後続の部隊全体に指示する役)が目標を取り違えて
海岸ではなく海岸から陸地に進んだところにある予備陣地(海岸が陥落したら撤退してそこで第2時防衛線を張る)を
爆撃目標に指示し、爆撃部隊はそこに爆弾を落とした。

そのため海岸陣地はほぼ無傷で、艦砲射撃も少し離れたところにある砲台を恐れて艦が海岸へあまり接近
出来なかったので大した効果がなかった。

なので、最も防備の堅い所に真正面から上陸作戦仕掛けたのであんなことに。
(488:773)

大戦中,日本やドイツは工場の熟練工を徴兵したため兵器の生産に支障がでましたが,ソビエトやイギリスなどではそのような事は無かったのでしょうか?

人口に対する兵役人員の割合から、第二次世界大戦におけるソ連とアメリカ、イギリスは軍需生産、
および市民生活に支障が出るギリギリの線まで動員を行っており、特にソ連では場合によっては深刻な状態に陥ったようです。
イギリスは動員した本国兵士が比較的少数であったため、これを補うために大量の植民地兵を投入していました。
それでも熟練を要しない単純労働では労働力が不足し、各国で、女性の登用が盛んに行われたようです。

つまり、動員力ぎりぎりまで兵を投入した連合国に対抗するため、
枢軸側は動員力を越えて兵を集めざるを得なかった、ということになるかと思います。
(214:641)

第二次世界大戦前後にポーランド人が大量のドイツ人を虐殺したのは事実ですか?

開戦後ならドイツ系住民の虐殺はあった。
詳しい数字は忘れたが、H・ヘーネの「髑髏の結社」にポーランド側の調査結果とポーランド
降伏後のドイツの調査結果からの被害者数があった。
(329:894)

第二次大戦時なぜフランスはドイツに敗れたのですか?

攻勢のポイントはわからなくとも、いつかドイツが東から攻めてくると言うのは可能性として十分検討すべき問題であった訳ですから。
前線に配置した主力が遊兵と化しても戦略予備と志願兵を活用して縦深陣を敷き出血を強いれば、勝てないにせよ負けはしなかったと思うのです

フランスはドイツとの国境地帯に要塞を築き(有名なマジノ線)、ここでドイツ軍を
食い止めているうちに戦略予備を集結させて一気に反撃する計画だったが、ドイツ軍は
マジノ線を無視して迂回して来た上、鉄道網と道路網を爆撃で破壊されまくって戦略予備の
移動も集結もままならなかった。

だからと言ってマジノ線に配置した主力を動かすこともできず(そんなことしたら空いた
国境線からドイツ軍の続陣がなだれ込んでくる)、結局北部配置の部隊でかろうじて集結に
成功した部隊だけがドイツと戦っていた。
縦深陣を敷くような兵力の余裕がなく、総司令部は戦況をよく把握できていない上に通信網が
潰されたので戦略規模での指示が出せず、戦略的戦闘は事実上不可能になっていた。
(479:582)

仮に志願兵が集められたとしても、使い物になる前に正規軍の主力がダンケルクで消滅してるのでどうしようもありません。
戦略予備がなかったから突破された後どうしようもなくなったし。
「俺ならこうした」は後知恵にすぎず、そうできなかったのにはそれなりの訳があるということをまず知ってください。
(479:581)

毎回薦めるが「電撃戦という幻」を読むといい
まぁドイツの現地指揮官が暴走するとは誰も予想できなかったし
フランスの将軍たちは想定外の事態にすばやく対応する訓練を受けてなくて
ただ呆然としている間に勝機を失った
(479:598)

フランスがドイツに負けた要因は単なるマジノ線を迂回されただけでしょうか?

ドイツは第一次世界大戦で失敗した作戦を第二次世界大戦またやったのになぜ第二次世界大戦では成功したのでしょうか?
そもそも、WW1のシュリーフェン・プラン(を変形した小モルトケの作戦計画)と
WW2の黄色の場合(元ネタはマンシュタイン計画)は別物
単純化すると、WW1で主攻だった北翼は陽動になり、
主力はアルデンヌからセダンへと突破して敵部隊を分断することを狙っていた
(旋回方向が逆になったと言えば分かりやすいかもしれない)
あとフランス軍が、ドイツ軍の進撃速度に対応できず、後方の総司令部に
情報がすばやく届かず、予備兵力の投入が遅れ兵力が各個撃破されたから。
(558:762)
総司令部とはどこの総司令部ですか?
総参謀長ガムランの司令部だろ。
情報が遅れるというか、フランス軍は総司令部に無線を置いておらず
指令もバイク便で行なっていたため、前線に伝わる頃には戦闘はとっくに終わって前線は数十キロ進んでいたということが普通だった。
電撃戦でなく、WW1のように塹壕戦主体ならそれでもやっていけたかもしれない。

もっともフランス軍はガムランに限らないが。
ウンチージェ将軍によれば、ジョルジュの北東方面軍司令部は
防衛の要であったムーズ川線が崩壊する際に前線に何の支援も指示もしなかったとのこと。
ウンチージェの方から指示を仰いでも忘れているのか全く返答が無く、
直接ジョルジュに会いにいって話せば、「君が最善と思う事をやりたまえ」とだけ言われたとのこと。
全く仕事をしてない。

そして英派遣軍司令部はスダン地区防衛のため、英本国から大規模な航空兵力の増援を出すと決定したが
ジョルジュは「現有兵力だけで十分守りきれる」という声明を発表して断った。
その声明を出したその日のうちにスダンが抜かれて仏軍が全面壊走に移っていくことになったわけで、
前線の状況なんて全くわかってなかったということ。
(558:771)

第二次世界大戦時ベネズエラは1945年の宣戦布告以前、国交断絶以外にアメリカとの軍事同盟、土地の貸し出しのようなことはやってましたか?

大西洋憲章への参加(1943.2.13)以外は何もしてません。
軍事同盟も締結していませんし、ましてや土地の貸与なんぞは全くしていません。
一応、宣戦布告自体は、1942年と可成り早いですけどね。
(342:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

フランスのシトロエン社は第二次世界大戦中、特に兵器を作ってないようなのですが、当時から大企業だったシトロエン社にフランスは戦車等の開発は委託しなかったのでしょうか?

シトロエンには戦車開発の技術などはありませんでした
しかし、など履帯など足回りに関してはフランス随一の能力を持っており
主にソミュア社に協力する形で戦車開発に協力しています
S35の足回りなどもシトロエンの技術協力の賜物です
(576:474)

第二次世界大戦時、ケビルやダカール、カサブランカで米英軍と交戦したフランス軍兵士は、戦後何かお咎めはあったのでしょうか?

ヴィシーらと同じように国家(=自由フランス)への裏切り行為として責められたりしたのでしょうか。
あくまでヴィシーフランス政府の命令で戦っただけだし、北アフリカのヴィシー政府軍は連合軍との講和後は自由フランスの貴重な戦力となったのでお咎めなし。
国内のヴィシー軍は、連合軍の北アフリカ上陸後に解体されてるし。
戦後裁判にかけられたのはヴィシー政府の要人やフランス人ファシストなどドイツに積極的に協力した連中。
(337:46)
積極的な対独協力をした訳ではありませんし、その後は自由フランス軍への参加をしていますので、
帳消しです。
ついでに、Vichyでも県知事レベルなんかはお咎めなしが殆どですし。
(337:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

1940年代のトルコの軍事力はどうだったんでしょうか?

陸軍は、第1次世界大戦からの流れで主にドイツ製の兵器を用いていました。
小銃はモーゼルKar98a/bを主体に、対空砲はFlak18/36/37系列の88mm砲と
Flak36/37の37mm砲、野砲は75mmのleFK18、105mmのleFH18、重砲は150mmの
K39、歩兵砲には150mmのslG33、山砲に75mmのGebK15、迫撃砲だけはストーク
ブランの81mm迫撃砲を用いています。
戦車は、ソ連から購入したBT2、英国のMk.VIB、フランスのルノーR35を主力としており、
1943年の駆け込み供与で、III号戦車とIV号戦車H型がドイツから供給されました。
戦後は、英国や米国から供与された兵器体系へと転換されていっていますが、1940年代
末までドイツ製兵器は利用されていました。

海軍は、弩級巡洋戦艦Yavuz Sultan Selim、巡洋艦Medijidieh、Hamidiehで、前者は機雷
敷設艦として用いられていました。
駆逐艦はイタリア製のKocatepe級2隻、Tinaztepe級2隻、英国H級のGayret級3隻、潜水艦
はBirindci Inonu級Uボートもどき(ドイツで設計されオランダで建造)2隻、フランス製Dumlupynar、
Sakarya、Uボートの試作艦であるGur、TypeIXAのUボートであるAy級3隻と英国U級のBurec Reis
が1隻あり、魚雷艇としてMASが2隻、機雷敷設艦2隻、掃海艇2隻、MTBんど英国製の高速艇7隻
などがあります。
他に潜水艦1隻はドイツに接収され、同じく潜水艦4隻が英国に接収されて3隻が戦没し、1隻だけが
引き渡されました。
1946年に英国からBathurst級哨戒艇4隻、1947年に米国からAuk級沿岸掃海艇が8隻、1948年以後、
米国からGleaves級駆逐艦が2隻、Balao級潜水艦3隻が引き渡され、旧来の艦艇を置き換えていきます。

空軍は、開戦前にPZL P.24Cを40機以上、He-111F-1が30機、G-5が5機、Martin139Wが20機、
BlenheimMk.Iが30機、Vultee V-11GB攻撃機40機、練習機がFocke-Wolf Fw-58、Gotha Go-145、
Curtis-Wright CW-22、Miles Hawk Mk.III、輸送機がDe Havilland DH84/89、General Aircraft ST-18、
飛行艇には、Super marine Southampton、Warlusなど総計370機を保有していました。
その後、フランスからMorane-Saulnier M.S.406を45機、英国からHawker Hurricane Mk.Iを15機、Mk.IIb/IIcを14機、
Supermarine SpitfireMk.Iaが3機とVbが100機、Curtiss TomahawkMk.IIB、Bristol BlenheimMk.IV/Vを18機、
Beaufort、Beaufighter、Fairy Battleが29機、Airspeed Oxford、米国からMartin Baltimore、Consolidated B-24Dが
供給されています。
ドイツからはFw-190Aが供給されただけで、He-111の部品は英国から撃墜機の部品を取って使用しています。
国産機は、Nuri-Demiragと言う会社が、NuD36練習機とNuD38輸送機を製作し、トルコ航空連盟が設立した
工場で、ドイツとソ連製Gliderがライセンス生産されました。
他に、Miles HawkIIIは100機がライセンス生産され、THK2練習機25機、THK5輸送機が10機生産されています。
戦後は、Fw-190とSpitfire、B-24、Beaufighterなどを主力機としていましたが、余剰となったP-47D-25などが
供与されたのを皮切りに、徐々に米国兵器体系になっていきました。
(601:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

ヨシップ・ブロズ・チトーは、第二次世界大戦前後、41年にパルチザンを始める前くらいは何をやってたのでしょうか??

ヨシップ・ブロズ氏は小学校卒業後錠前職人に奉公に出され、冶金工としてオーストリア=ハンガリー
国内を転々とする。

徴兵されて第1次世界大戦に参加したが反戦運動に参加して収監。
釈放後従軍した戦闘で部隊ごとロシアの捕虜になり、捕虜収容所で革命運動に参加して逮捕-脱走
を繰り返した後赤軍に参加。最終的にはソビエト共産党に加入が認められる。
終戦後帰国して1920年ユーゴスラビア共産党に入党し以後共産党員として活動。
1934年にはヒラの党員から政治局員に昇格。

ちなみに「チトー(Tito)」というのは党員時代の渾名。
人になにか頼むときよく
「そこのお前、アレを頼む」
「アレってなんですかアレって」
「アレだよ!」
「アレ で判る訳ないでしょ!」
という会話を繰り広げていたので、お前(Ti)と アレ(To)をくっつけて作られた。
(626:175)
チトーが政治局員になった時は調度スペイン内戦にコミンテルンが各国から積極的に
義勇兵を募集して送り込んでいたので、上層部はそれの支援に忙しく、チトーは
ユーゴ国内の共産党の組織化を主に担任した。

尚「ユーゴ共産党」だけど国内は官憲の弾圧が厳しすぎてマトモな活動ができない
ので、ユーゴ共産党の本部はウィーンにあった。
チトーはそんな中で珍しくウィーンとクロアチア、ユーゴを行き来して地元との連絡、
調整役として活躍している。
それで大きな功績を上げたチトーは中央に推薦されてモスクワのコミンテルンに派遣
されて活動することになった。
これは有能なチトーを遠ざける狙いもあったと思われる。

その後、ユーゴ共産党の幹部はスペインへの義勇兵派遣でドジを踏んだ(ずさんな移動
計画から当局に義勇兵が大量に逮捕される)り、スターリンに粛清された勢力と親しく
していたりしたためにまとめて粛清されてしまい、地味だが重要なポジションにいて
現場仕事を担当していたチトーが臨時のユーゴ共産党書記長の座についた。

チトーはその後密かに帰国してコミンテルンとユーゴ共産党国内各支部の間に当局の目を
避けた連絡網を構築することに尽力し、地下組織のネットワーク化に努力した。

帰国後はずっと地下活動をしていた・・・けれども何度も国内と国外を行き来しているし、
本人の回想にも「結構普通にま昼間から買い物に出歩いたりしてたけどね」なんて書いて
あったりする。

あと、チトーはクロアチア時代に何度も逮捕歴があるが、ユーゴの公安警察は
お役所仕事でよくありがちのことに地区ごとの横の繋がりが薄く、功を焦って
「自分の身内以外には情報を流さない」ので何度も逮捕されたクロアチア以外
では意外と顔を知られておらず、クロアチア以外、ベオグラードなどでは公安
警察の捜査官でも存在をよく知らないものが多かったという。

なのでユーゴ共産党の書記長になってからの方が活動はむしろ楽であったらしい。
(626:182,183)

1935年の仏ソ相互援助条約は、相互不可侵以外にも軍事的な面を含んでいるんでしょうか?

ドイツのフランス侵攻時にソ連がフランスを支援した形跡が無いのですが、1940年までにはこの条約は破棄されていたのでしょうか?
ググっても本調べてもラインラント進駐の名目的な理由、という程度しか書いていなくて詳細が全く判らないのです…
当然、軍事協力を行っています。

例えば、エンジンについては、MikulinがGnome-Rhone K.14 Mistral Major空冷星形エンジンを
1930年代初頭に輸入して、M-85エンジンを制作していますし、同じく、1934年にHispano-Suiza 12Yを
Licence生産した後、Klimovの手に因って改造され、LaGG-3やPe-2のエンジンに使用されています。
また、後者に搭載されていたHispanoの20mm機関砲は、ソ連の手によって改造され、ShVAK機関砲と
なって大量生産されました。
戦車の技術などでも協力していましたし(ただ、実質はItalyの方が大きかった)、ソ連の戦艦を稼働させ
るための部品を供給(旧ロシア帝国の戦艦は、白軍崩壊後、ビゼルタで解体されていた)しています。

逆に、ソ連からは原材料の供給を得ていたりする訳です。

で、そもそも、ソ連としては、西欧列強がロカルノ条約を締結したので、この締約国が協力してソ連に攻め込む
のではないか、と言う危惧があり、1929年にソ連の西部から南部に掛けての国境を確保すべく、モスクワ東方
協定と言うのを、バルト三国、Poland、Rumania、Turkey、Persiaとの間に締結します。
しかし、東方国境が不安定なために、そのモスクワ東方協定を強化するために西欧列強と不可侵条約を締結
する様に政策を転換します。

一方、Franceでは、1934年に右翼の扇動で、従来の左寄り政策を行っていた急進社会党内閣が倒れ、Daladierが
短命内閣を組閣した後、右翼寄りの挙国一致内閣が誕生しますが、今度は左翼の逆襲が始まり、社会党、共産党、
そして急進社会党が協定を結んで、1936年に人民戦線が誕生します。
Franceは1934~36年に掛けて一時的に右にぶれますが、その前にソ連と誼を結んでいた訳で。
しかも、隣に物騒な国が誕生したので、安全保障上ソ連との友好関係が重視された、と。

しかし、1936年の総選挙で誕生した人民戦線内閣は、国民を満足させる政策を行わなかったので、忽ち支持が低下し、
また、粛清の発覚、ソ連を批判した出版物がベストセラーになるなど、1年で瓦解し、後を次いだ急進社会党内閣も、
資本の流出が止まらないため、経済政策の破綻で、1938年に内閣を投げ出します。
で、結果的に、ソ連との縁が切れ、反共を明確化し、最終的に1939年の第二次大戦勃発によるポーランド分割、その後の
バルト諸国、Finlandへの恫喝で、Franceは、ソ連と断交寸前まで行き、ソ連との相互援助条約も破棄されました。
(301:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

第二次世界大戦のときに英仏がナチスに対抗できなかったのは、反戦主義的なムードでチェンバレンが宥和政策を続けていたからですか?

純軍事的に見ても、フランス軍の組織システムは明瞭性に欠けていた。
総司令官から戦闘部隊に至るまでの序列と命令系統は、混乱状態にあった。
しかも、上級指令部でさえ、無線通信機器やテレックスなどの現代的な
連絡用装備に欠く有様で、一部では高級将校が半日かけて、
自動車で行き来することで、ようやくと指揮系統が守られていた。
さらに、軍と軍との境界線の継ぎ目に2線級部隊が割り当てられていたり、
戦役の焦点とも言うべき戦闘が行なわれた、セダンの防御割り当ては、
『電撃戦という幻』の付録の地図を見る限り、
まるでジグソーパズルのように防戦区域の割り当てが複雑怪奇な様相を帯びていたり…。
とにかく、上から下まで、まったく合理性を欠く組織原理の中で、動いていたのがフランス軍。
国内の平和主義とか、反戦主義がなくとも、多少はマシという程度だっただろう。
(679:406)

英国について言えば、19世紀初頭からすでに英国経済は下り坂にさしかかっており、
ボーア戦争での醜態と負担に加えて、第一次大戦の戦費、軍の消耗で完全に勢力を失っていた。
このため、閉鎖主義的な方針を取らざるを得ず、スペイン戦争でも傍観者に留まることにした。

一方、共産主義革命は英国にも影響を及ぼしており、不況下、階級主義社会の英国では
労働者階級が共産主義に走ることを怖れていた。そこに、共産主義の輸出国、ソ連と
戦ってくれるというナチスドイツが登場したわけで、内心不安を抱きつつも、共産主義の抑止を
ある程度期待してもいた。そもそも、上記の事情で、積極的に動く余裕はなかった。

結局、第二次世界大戦で英国は破産してしまったから、英国に侵略の危険が及ぶことさえなければ、
傍観が正解だったのかも知れない。短期的には。
(679:system ◆systemVXQ2)

第二次大戦のときフランスは優秀な戦車を保有していたのになぜドイツ軍に負けたのでしょうか?

戦車を戦線に薄くばら撒いて盾として使おうとした。
ドイツは戦車部隊を集中させて槍として用い、戦線の一番薄いところを突破して後方に進出させ敵を無力化した。

「電撃戦という幻」に
「戦争前、ドイツもフランスも3000両の戦車を持っていた。
ドイツは1000両の戦車で3つの部隊を作ったが、フランスは3両の戦車を1000の部隊に配置した。」
というフランス軍の将校の言葉が紹介されている。
(282:722)

第2次大戦勃発時及び独占領期のノルウェー、デンマークの海軍編成をご存知の方がいらっしゃいましたら、教えて頂きたいのですが。

■Norway海軍

海防戦艦
 Norge級2隻(1940.4.9にZ21/22の雷撃で撃沈)
 Haarfagre級2隻(ドイツに接収され、防空艦となり、1945年3月擱座)
駆逐艦
 Draug級3隻(Draugは1940.4.10英国に脱出するも艦の状態が悪く除籍、
          Trollはドイツに引渡、1945年返還。Garmは1940年4月26日爆撃で焼失。)
 Aalesund級2隻(未成)
魚雷艇
 Snoegg級3隻(いずれもドイツ艦となり、Snoegg以外は沈没。なお、Steggは空爆で沈没したものを浮揚して再使用)
 Teist級3隻(2隻が自沈、座礁、Kjellのみドイツ艦となり、返還)
 Ravn級5隻(3隻が自沈、2隻が捕獲され、後に返還)
 Hval級5隻(1隻撃沈、3隻は事故、自沈、2隻が捕獲され、返還)
 Hvas級4隻(全艦捕獲、4隻とも返還)
 Varg級5隻(2隻自沈、3隻捕獲、返還)
 Sleipner級3隻(Aegerのみ1940.4.9に撃沈。2隻は1940年に英国に脱出)
 Odin級3隻(全艦捕獲後、ドイツ艦として使用。全艦返還)
潜水艦
 A級3隻(1隻座礁、2隻自沈)
 B級6隻(1隻英国に脱出、2隻自沈、3隻ドイツが鹵獲、うち1隻は1942年除籍)
旧式スループ(漁業保護艦)2隻(1940.4に相次いで撃沈)
 Fridtjof Nansen(1940.11.8座礁)
 Nordkap級2隻(未成)
機雷敷設艦
 Froeya(1940.4.13擱座)
 Gloman(降伏後、ドイツに引渡、1隻は1944年に撃沈)
 Olav Tryggvason(降伏後、ドイツに引渡、1945年に撃沈)
掃海艇
 Otra級2隻(建造中に捕獲)

■Denmark海軍

海防戦艦
 Niels Juel(1943.8.29座礁後、ドイツに引渡され、1945.5.3撃沈、1952解体)
 Peder Skram(1943.8.29自沈。ドイツにより浮揚後、1945.4撃沈、1949解体)
水雷艇
 Najaden級2隻(1943年竣工するも艤装を遅らせ、1947年まで完成せず。)
 Draken級3隻(1941.2.5ドイツに引渡、Drakenは1945.5.14触雷沈没、残りは全艦返還)
 Glenten級3隻(1941.1.21ドイツに引渡、全艦返還。)
魚雷艇
 Springeren級10隻(1940年除籍1隻、1943.8.29自沈3隻、座礁1隻、5隻鹵獲され、45年返還。)
 Hvalrossen(1943.8.29自沈)
潜水艦、潜水艇
 Rota級3隻(1943.8.29全艦自沈)
 Aegir級3隻(1940年除籍3隻)
 Daphne級2隻(1943.8.29全艦自沈)
 Havmanden級4隻(1943.8.29全艦自沈)
機雷敷設艦
 Sixtus、Kvintus、Lossen(1943.8.29全艦自沈後、浮揚され、ドイツにて使用)
 Lindormen(1943.8.29自沈後浮揚され、ドイツにて使用し、後に返還)
掃海艇
 Soebjornen級6隻(1943.8.29自沈後浮揚され、ドイツにて使用し、後に返還)
漁業保護艦
 Hvidbjornen(1943.8.29自沈後浮揚され、ドイツにて使用し、後に返還)
 Ingolf(1943.8.29自沈後浮揚され、ドイツにて使用し、不明)
 Hejmdal(1943.8.29自沈後浮揚され、ドイツにて使用し、後に返還)
 Freja(1943.8.29自沈後浮揚され、ドイツにて使用し、後に返還)
小型哨戒艇P1級38隻、K1級18隻のうち、後者の9隻はスウェーデンに逃走。
(103:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

ベルギーには他国のようにファシスト団体はあったのですか?

ベルギーについてはフラマン語圏(オランダ系)、ワロン語圏(フランス語圏)それぞれに、
「フランデレン国民同盟(VNV)」、「レックス党(王キリスト運動)」
というファシスト政党があった。
このうちレックス党はSS義勇突撃旅団「ワロニエン」(後に第28SS義勇擲弾兵師団「ワロニエン」が編成されている。
この部隊は青年部指導者レオン・デグレル(またはドグレル)のもとで東部戦線で終戦直前まで勇戦しており、
デグレルは騎士十字章を授与されている。
ドイツにはオランダとベルギーを統合したディーチェランドという傀儡国家を創設する計画があったらしい。
これによってワロン人が少数民族となることを阻止するため、発言力の強化を図ってデグレルは戦争に参加したという説がある。
デグレルは戦後スペインに亡命、その地で死亡した。
(105:21)

インドやニュージーランド、南アフリカの海軍ってどんなだったのかな?

たしかインドの掃海艇が日本の仮装巡洋艦と戦っていたよね。
Royal Indian Navyは、第二次大戦当時Sir Geoffrey Miles少将が司令官で、1000名の士官と10000名の兵員から成る。

Sloopが7隻。
 Cauvery/Kistna(Yarrow建造1943年竣工の1,470t級)、Godavari/Narbada(Thornycroft建造1942~43年竣工の1,340t級)、
 Jumna/Sutlej(Denny建造1940年竣工の1,300t級)、Hindustan(Swan Hunter建造1930年竣工の1,190t級)
Frigateが5隻
 Neza、Kukri、Tir(1942年竣工の1,460t級)Dhanush、Shamsher(1943年竣工の1,370t級)
Corvetteが2隻
 Assam、Mahratta(1943年竣工の980tで花級)
艦隊掃海艇が16隻
 Konkan、Orissa、Rajputana(1941~42年竣工656t)、Baluchistan、Kathiawar、Carnatic、
 Khyber、Kumaon、Rohilkhand(1942年竣工660t)、Bengal、Bombay、Madras(1942年竣工650t)、
 Bihar、Deccan、Malwa、Oudh(1942年竣工650t)
測量艦 Investigator(1924年竣工旧電纜敷設艦)
Trawlerは6隻。
 Amritsar、Calcutta、Cochin、Lucknow、Nasik、Rampur(1941~44年竣工545t)
小型掃海艇が6隻と哨戒艇(HDML)が8隻。

ついでに、Kenya & Zanzibarには、Rosalind(1941年竣工545t)という掃海艇と、
Ndovu、Alhathariと言う旧曳船改造の哨戒艇があった。


Royal New Zealand Navyは、第二次大戦当時Sir Bernard Fleyberg中将が司令官で、2200名の兵員から成る。

軽巡洋艦が2隻。
 Black PrinceとBellonaはいずれも1942年竣工で、5700t。
Corvetteは花級が2隻。
 ArabisとArbutusが1943~44年竣工。
Trawlerは数が多く10隻。
 Kiwi、Tui(1941年竣工600t)、Hautaru、Hinau、Manuka、Rimu(1941~43年竣工で625t)、
 Inchkeith、Killegray、Sanda、Scrba(1941年竣工560t)
哨戒艇(HDML)が6隻。


South Africa Naval Forcesは、J.Galgleish代将で863名。

Frigateは3隻。
いずれも旧英国のLoch級で1944年竣工のGood Hope、Transvaal、Natal(1400t)。
哨戒艇(HDML)は200隻。
機雷管制艇が1隻。
 これは、ドイツの拿捕トローラーPolarisを転用したSprindrift(926t)。
防材敷設艇2隻、英国のBar級に範を取っており、Barcross、Barbrake(1944年竣工)があった。
(WWIIのマイナーな軍について語るスレ:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

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