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戦中関連2 - (2011/04/28 (木) 23:08:05) のソース

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**ラバウル等の南方で、B-17は何しに来てたんでしょうか?
B-17については、航続力が大きく防御力の強固な爆撃機が太平洋戦線では、
B-17しかなかったので(後にはB-24、B-29も出現しますが)、
南洋諸島に築いた航空基地などの目標を破壊しに来たのが目的です。
別に重爆撃機=戦略爆撃専門というわけではないので。
#right(){(44:眠い人 ◆ikaJHtf2)}

**トラック諸島はなぜ陥落しなかったのですか?
いらなかったからです
サイパンがあれば良かったので、他の島は反撃する力を奪い
大きな被害の出る上陸戦をあえて行いませんでした
#right(){(44:785)}

**致死量の被爆は、投下後何日めぐらいまで続いたのか?
通過するだけなら、黒い雨がやんだらOK
被爆量は時間で累積されるので、生活するならその形態によってまちまち
#right(){(47:229)}

**本人は本土にしか戦争に行ってないって言うんですがそういうケースもあったんですか?
大戦末期の根こそぎ招集だと、乗る船もないので、本土決戦用の蛸壺掘って
終わったと言う人もありますよ。 
#right(){(47:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
みんながみんな外地に行ったわけじゃないんですよ。
「本土決戦」も考えていましたし、内地にもちゃんと部隊はいました。
たとえば、作家の池波正太郎は海軍に入り、横須賀の海兵団を経て
終戦まで美保にいました。
#right(){(47:327)}

**太平洋戦争のときに皇居が炎上したと聞いたのですがこれは爆撃が直接、皇居にあたったのですか?
確か飛び火だったはずです。
自衛消防隊が駆けつけて消し止めたと思ったのも束の間、実は天井裏で火が燃えていて、
それが一気に広がり、明治宮殿が燃え落ちたものと推察されます。
#right(){(48:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}

**映画「将軍と参謀と兵」 (1942年日活)は戦時中公開の映画?
中国戦線の独立混成旅団の戦いを描いた映画
陸軍省後援だけど戦意高揚的な匂いはあまりしなかったと記憶
#right(){(48:247)}

**戦時中、ヤクザ屋さんはどうやってしのいでたんでしょう?戦時中はヤクザも兵隊に取られてました。
活動はかなり低調化していたようです。
当時のヤクザは現在みられるように大規模なものでなく、街ごとのこじんまりとした集団でした。
あとは”仁義無き戦い”でも読んでください。復員後のヤクザについて書かれております。
#right(){(48:269)}

**大本営に関してですが、小磯内閣時の1944(昭和19)年8月5日に「最高戦争指導会議」と改称した際、どの様な権限拡充が行われたのでありましょうか?
>なぜ、わざわざ名称まで変えたのでしょうか?
1943年9月30日の御前会議で、戦争指導の大綱が決定しますが、軍政府と行政府との
齟齬で、その実現が余り上手くいっていないこと、また、大本営だけでは、殊軍事だけの
視点でものを見がちで、外交面はともすれば等閑にされてしまっていること、でもって、
外交面で言うと、大東亜共栄圏の諸国が今後独立を達成するに当たって、彼らの協力を
得るため、また、独ソ戦などでのドイツの勢いが落ちてきたことなどから、今後の戦争指導
には外務省(大東亜省)の助力が必要なこと、などが理由となり設置されました。

また、軍需生産が軍需省に一元管理されて、軍政と切り離されたことによって、調整の場が
必要になったこともあります。
#right(){(307:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**徴兵された人の奥さんや子供はどうやって生活してたんでしょうか 
一応、出征家族に対しては家族手当があります。
また、万一の時に備えて、徴兵保険(富国生命保険は昔これを一手に扱っていました)を
掛けている人も多かったようです。
更に、軍事扶助法によって、現役下士官の家族には扶助金が出ます。
#right(){(233:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**戦争中、戦死した兵士の遺族には、現代の貨幣価値に換算していくらぐらいの弔慰金が貰えたんでしょうか?
戦闘または戦闘に準じる公務で死亡した場合、その遺族には、普通恩給の金額、それ以外
の普通公務で死亡した場合は、普通恩給の10分の8、それ以外の要因で死亡した場合は、
普通恩給の10分の5が、それぞれ支払われますが、これは、軍在籍3年以上で恩給年限に
達しなかった人の場合です。
それに達しなかった人の場合は、当時の棒給月額に在職月数を乗じた額が一時的に支給
されます。

戦地に出た人のいる家族に対しては、隣組や婦人会、町内会で相互扶助を行っていました。
特に応召者のいる家庭の訪問、遺家族に対する慰問などが重要視されています。
#right(){(233:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}

蛇足
恩給法における公務扶助料は、軍人等が戦病死した場合に、その軍人等によって生計を維持し
または生計をともにしていた配偶者を先順位者として、続いて未成年の子、父母等の順序で
支給されることになっています 従って支給額は個々によって違います

その他には金杯と知事から労いの紙切れ一枚
#right(){(304:シチュー砲 ◆STEW.ibjrE)}
**大戦末期のフィリピンでは味方同士で人肉食い合ってたとか 
ニューギニアの第十八軍は人肉食の横行に苦慮し友軍の肉を食べたものは厳罰に処す旨の 
通達を出している。実際に処刑された日本兵もいる。 
逆に敵兵の肉は食べてもお咎めなしであった 
#right(){(658:226)}
**1944年、日本からソ連、東欧経由でベルリンへ行けますか?
ソ連は、ドイツに利益となる日本人のビザを発行したがりません。 
日本のドイツ駐在武官を、東欧の他の国の駐在武官として偽って報告したこともありました。 
日本は苦肉の策として、遭難したソ連人船員の帰国のビザと交換に、日本人のソ連通過ビザを得たこともありました。 

しかし、1942年に日本人外交団がソ連のビザを得て、ソ連領を通過してドイツへ行きました。 
中央アジアを経由しました。 
その際、観察したソ連の様子を、ヨーロッパから無線電信で日本へ報告しました。 
それは、暗号解読していた、アメリカやイギリスの関係者にも、有用なソ連情報でした。 

1944年1月は、独ソ戦でソ連が有利になっていました。 
ドイツへの日本人の通過ビザは、なかなか発行しません。
#right(){(672:霞ヶ浦の住人 ◆1qAMMeUK0I)}

多分、佐貫亦男さんのエッセイか何かを呼んで疑問に思ったのでしょうが、可能です。 
但し、1943年10月に日本近海で撃沈されたソ連貨物船乗組員50名を満州国経由で送還する交換条件ですが。 
この時は外国人3名、民間人3名、満州の民間人1名に査証が降りています。 

そして、1943年11月にベルリンから在ドイツ日本大使館一等書記官の牛場信彦、佐貫さん、古賀電工技師の松尾敏彦、 
川村知、満州国官吏の河野徳太郎、ブダ=ペシュトから、大久保利隆マジャール公使、 
ブカレストから在ブルガリア日本大使館二等通訳官が帰国しています。 
先ず、ベルリン組は二手に分かれて、寝台列車でブレスラウ、スロバキア領を通過し、ブダ=ペシュト着、それから 
ブカレスト経由で、ソフィア、イスタンブール、アンカラを経てソ連へ、クラスノボーツクからノボシビルスクを経由し、 
チタ、そしてアトポールで満洲里到着というコースです。 

また、1943年11月から1944年1月にはトルコに赴任する田辺宗夫三等書記官、スウェーデンに赴任する土屋準二二等 
書記官、スイスに赴任する武川基外交官補がソ連経由でドイツに向かっています。 
途中、伝書使としてベルリンに赴いています。 
このルートで最後に帰国したのは堀切善兵衛欧州遊撃大使になります。 

後、ブルガリアから帰国する日本外交官が、1944年11月にソフィアからイスタンブールに行き、アンカラ、バクー、コーカサス 
経由で、モスクワに行き、そこから満洲里に言った記録も残っています。 
#right(){(672:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**太平洋戦争中、毒ガスの大規模製造工場があった広島県の大久野島のことを米軍は把握していたのでしょうか?
>この島は機密保持の為、地図から消されていたといわれていますが
工場が設置されたのは、戦前の1929年で、東京第二陸軍造兵廠忠海兵器製造所
となっています。
この工場開設時は、昭和の大恐慌時だったので、工員の応募総数が6,000名で、
そのうち200名が採用されています。
従って、地域では、陸軍が工場を設置したことは判っていたでしょう。

また、1933年に秩父宮、1934年に高松宮が工場を訪れており、日中戦争勃発後
は生産拡張のために、男女従業員1000名が採用され、工員は忠海港から島に
通い、1940年には、工場内に技術者養成所が設置されて、広島、岡山の国民
学校高等科卒業の男子を集め、養成工として3年間の教育を始めました。
彼等は、20年の雇用契約を結んでいます。

1943年のRooseveltによる毒ガス報復宣言が出てからは、この島でのガス生産
は低下し、風船爆弾などの製造に転用されたりしています。

戦前からの動き、毒ガスの使用状況、砲弾の補給状況などを丹念に追っていけば、
何処で製造されているか、までは突き止められます。

但し、ホスゲン、サリンなどの新規開発の瓦斯はあるのかは、第二次大戦末期になる
まで判らなかったみたいですがね。
#right(){(289:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**戦争中に個人でジャガイモやサツマイモの栽培をしての食料の確保でも、国の配給制等の法律に違反したんでしょうか?
我が実家も有耶無耶の内に、隣の土地を市に没収されたっけ。
曾祖母が怒ること怒ること。

配給途絶に備えて、空き地の徹底的活用で食料を緊急増産する為に、地方自治体から
南瓜、韮、不断草などの種子を無料配布したり、作り方を教授するようにしています。
ただ、例えば、南瓜などの種子は、粉末化して食料にするため、回収していますね。

なお、こういった耕作地については、戦時農園としてきちんと登録する必要がありました。
更に、芋類に関しては、戦時農園推進員が巡回して、生育状況を確認しますが、統制外の
南瓜の様な作物は、お目こぼしされています。
但し、種芋についての配給は、入荷が遅れて、種付けに間に合わない場合が多かった様です。
#right(){(289:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**宮崎県宮崎市に住んでいた祖母が戦中、林で銀色のきらきらしたものを沢山見たそうです
>チャフでしょうか?
多分チャフ(日本では電探欺瞞紙と呼ぶ)。
アルミ箔(日本では紙に錫箔を貼った物)をレーダー電波の波長と同じ長さに細長く切ったもの。
空中で大量に散布して電波を撹乱して、敵の探知を妨害した。
レーダー画面上では白い雲のように映る。
おそらくは日本に侵攻してきたB-29が散布した物。
#right(){(286:48)}
**大正から昭和初期にかけての川崎造船所の倒産の危機や海軍による扶助、頻発する争議などについてわかる書籍を探しているのですが
>「川崎造船所40年史」以外で。
Tom Smith辺りの論文でそうしたものを扱う予定でしたが、残念なことに本人が病没しました。
とりあえず、新修神戸市史の産業経済編巻2と3が参考になるでしょう。
また、日本経済新聞に、日本財閥経営史という一連の本がありますが、このうちの「新興財閥」編、
「地方財閥」編もしくは、「阪神財閥」編に触れているものがあったかと。
#right(){(283:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**太平洋戦争中、日本統治下の朝鮮半島や、台湾の食糧事情はどうだったんでしょうか?
少なくとも邦人に関しては、それなりの生活が出来ています。
食料事情も内地よりは豊かでした。

例えば、台湾の場合、日本の内地では余り見かけなくなった砂糖がふんだんにあったりしますね。
朝鮮の米事情に関しては1939年の凶作の影響で、余り良くなかったと言う点はありましたが、それ
以外はまずまずと言えるかもしれません。
#right(){(280:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**戦争時召集された人たちを見送るために提灯行列とかやったのでしょうか?
提灯行列自体は、1941年までは何とか行われていましたが、太平洋戦争が
勃発した時点では、既に止めようと言うことになってしまっています。
見送りも最小限になっています。
#right(){(280:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**戦争中に日本の漁船も徴用されてたようですが、どのように使われていたのでしょうか?
>雷撃艇とか揚陸艇にでも使われてたんですか?
海軍は、レーダーの代りに海上を見張る監視艇、掃海艇として主に用いられていました。
陸軍は、海上トラックとして、また、現地調弁用の漁船として使用しています。
#right(){(277:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**ビハール号事件ですが、ドイツ海軍のUボートのように生存者には、陸地の方角だけ教えて立ち去ることはできなかったの?
参謀長口達覚書なるものに捕虜の扱いが書かれていたとされる。
元々、商船を捕獲するとは思っても見なかった。
海上通商破壊には情報漏洩を第一に考える。
Uボートの場合、大西洋上で撃沈することが多く、少々の食料を与えて陸地の方角を教えたところで、
その陸地に到達するまで長い時間が掛かり、更に、現地に着いてからも人跡未踏のジャングルだった
りするので、情報の伝達まで時間が掛かる。
インド洋では、陸地に到達する距離が短く、また人口も密集している為、情報伝達時間が短いことを
考慮したものかもしれない。
#right(){(275:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**駆逐艦秋風虐殺事件について教えて下さい。
「秋風艦上の虐殺事件」
1943.3. 東部New Guinea、カイリル島とマヌス島にいた海軍分遣隊長が、駆逐艦を使って両島にいる外国人抑留者を
全員ラバウルに移送するよう命令を受ける。
カイリル島には26名(ロークス司教ら12名の神父と修道士、11名の修道女、彼女たちが世話していた2~7歳の中国人3名。
3.16PM. 彼等は「秋風」に乗船、翌日午後、マヌス島の40名(3名の神父、3名の修道女、ドイツ人プロテスタント宣教師夫妻
2組と1人の子供、2名のドイツ人農園主、2名の中国人と3名の原住民。)が乗船。
なお、ドイツ人の他、少なくとも5名がオランダ人、1名がマジャール人、1名が米国人。
3.18.AM.10:00 秋風はカビエン沖に停泊、海岸と信号をかわした後、ラバウルに向けて航行を開始。

カビエン沖60マイルの地点で、艦長(佐部鶴吉少佐)が、士官全員に外国人の殺害を命ぜられたことを伝える。
外国人たちは、前方の乗員室に連れてこられ、目隠しをされ、船尾に特設された処刑台に連行。
両手首を縛られて吊され、小銃の一斉射撃にて銃殺され、そのまま、海中に放り込まれる。

処刑開始は正午、終了が午後3時半。
その後、秋風は午後10時にラバウルに帰港。

豪州側は、三川軍一中将と大西新蔵参謀長を1947年1月に逮捕したものの、管轄権の問題で
米国側に委譲され、不起訴に終わる。
これは、「秋風」の艦長、先任将校が戦死、秋風自体も米潜水艦によって撃沈され、乗組員は
全滅したため、三川長官との命令関係を立証できなかった為とされている。

詳細は、豪州国立公文書館 SeriesMP742/1 細目336/1/1444 「秋風虐殺事件調査ファイル」を
参照してください。

ちなみに、ビハール号事件の際にも、南西方面艦隊作戦命令の別冊「参謀長口達覚書」が根拠に
なったと言う話もありますが、その資料そのものが発見できていません。
#right(){(派生議論スレ4:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**戦中、日本国内で軍属またはそれに類する人たちが米国の陰謀によって破壊工作に誘導利用されたという事実はあるのでしょうか? 
戦略爆撃調査団の報告書では”本土に対する諜報工作は絶望的”という記述がある。 
陸奥爆沈事件などのきな臭い事件もあるが,破壊工作の可能性は低いという説が一般的。 
#right(){(112:13)}
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