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ヒトラー - (2010/10/12 (火) 01:44:54) のソース

#CONTENTS

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**アドルフ・ヒトラー伍長の戦歴を教えてください。
1914年 
オーストリア国籍のままドイツ帝国陸軍に志願、入隊。 
第1バイエルン歩兵連隊に配属。 
10月 
第16予備歩兵連隊に配属、ベルギー/イーブルで英軍、ベルギー軍と戦闘。 
砲撃で電話線が破断、伝令として塹壕を行き来する高危険度任務を遂行し、 
12月第2級鉄十字章を受賞。 

1916年10月 
フランス/ソンムにて、砲撃を受け負傷。 
1917年 3月 
復帰。 
1918年5月 
連隊賞状を受賞(連隊賞状の詳細は不明) 
6月 
マルヌで、仏軍伝令兵4人を捕虜とする。 
8月 
第1級鉄十字章を受賞。通常は将校のみ受賞する。当時、階級は伍長(勤務上等兵) 
10月 
英軍の毒ガスにより一時失明、入院。 
11月 
有名なキール軍港の水兵反乱。 
1919年 
退院。バイエルン第2歩兵連隊へ転属、その後ミュンヘン第7師団に転属。 

……専門書のご購入をお勧めします。 
#right{(12:877)}

**ヒトラーがロンメル死後、ロンメルが無実だと思い直したとかいう記録みたいなのは残っていますか?
当のヒトラーは、暗殺事件以降は体調が悪化の一途を辿り、おまけに侍医が怪しげな薬を乱用したせいか、
ロンメルはおろか国防軍の将軍(信じたのはシェルナー元帥位)を信用しなくなります。
45年3月以降はもう国防軍そのものが「裏切り者の集団だ」などどいった
ことを口走る位に信用していなかったので、可能性は皆無だと思います。
(最後にはSSもヒトラーを見限った位ですから、尚更でしょう)
#right(){(23:名無し四等陸士)}

**戦後ヒトラー総統の官邸や地下壕はどうなったんですか?
東ベルリン側にあった総統地下壕は長らく封鎖されて放置されていたが、ドイツ統一後埋め立てられ現状は何一つ残っていない。 
記念として残すべきという意見もあったが、ネオナチの聖地になる可能性が高いということで破壊された。 
#right(){(310:363)}

**ヒトラーがユダヤ人を迫害して優秀な学者や技術者がドイツから逃げ出したりしましたが、それで兵器開発に支障が出ることはなかったのでしょうか?
>ドイツの原爆開発はその典型?
ドイツが本格的に兵器を開発・生産した時期=ヒトラーが政権を取った時期
ですから兵器の開発・生産・研究に携わる人達の中にユダヤ人はいませんでした
勿論、迫害されたり亡命したユダヤ人の中にはその面で才能のある人もいたでしょうから、
影響が出ていたと言えば出ていたのかも知れません
そういう人達が兵器の生産・開発・研究に携わっていれば史実以上に優れた兵器を大量に
生産していた可能性も無くは無い
#right(){(309:259)}
**ヒトラーは何で主力水上艦は不要だって思想持ったの? 
主力水上艦が目に見える戦果をあげなくなったから。 
バレンツ海海戦なんかが典型で、 
その失敗後に水上部隊派のレーダーが首になって、大型水上艦の解体命令が出されてる。 

ただ、その背景には、大型水上艦の喪失を恐れたヒトラーが、 
大型水上艦の行動を抑制していたという事情もある。 
対等な敵にあったら逃げろといわれてては、逃げ腰にもなるわな。
#right{(547:580)}
**ヒトラーは兵器一つ一つにコメントしたと聞きましたがそれはどのようなモノだったのでしょうか?
戦車はもっと大きく!装甲厚く強力な主砲を!電動モーター?ナイスじゃないか博士! 
ジェットエンジンは爆撃機に!戦闘機!?レプシロで十分だそんなもの! 
さっき見せてもらったA4いいね!ただちに兵器として採用し月産二千発を目指すように!これは他の兵器より優先する! 
ついでに高圧ポンプ砲も開発を急げ!カレーに並べてロンドン砲撃だ! 
>やはり基本的に無茶苦茶で夢が先行したものだったんですね。どう転んでも画家は画家という事でしょうか
いや、それが意外と的を射た判断も多かった。 
特に戦車開発の前期とV2は電撃戦ドクトリンに並んでかなりの明断。 
普通の国なら硬直した思考や人事のしがらみに埋もれて終わりだったろうものに 
鋭く目をつけたのはヒトラーの英断だしそれを可能にしたのは独裁政治のフットワークの軽さ。 
ただし、それらがデメリットを生んだ事例も当然あるというだけで。 
#right(){(527:329,336)}
**ヒトラーと電撃戦の関連は? 
電撃戦という軍事教条は1940年の時点で存在していない。 
その辺の事情は、レン・デイトンの『電撃戦』で基礎的な情報を仕入れてから、 
カール=ハインツ・フリーザー『電撃戦という幻』を読めば、理解できる。 

ヒトラーは装甲部隊、自動車化部隊の設立に理解を示したのは確かなのだけど、 
それは政治宣伝効果という側面でしかみておらず、グデーリアンらの提唱する 
自動車化部隊を用いた新しい戦争の形態に理解と賛意を示したからではないぞ。 

グデーリアンら、自動車化推進の将校らが目指した、1940年の対仏戦以降の「電撃戦」は、 
1939年時点では、まだ彼ら将校の思念の中にしかなく、 
マンシュタインの鎌計画を得て、対仏戦が成功を収めたから、後付けで実体化されたに過ぎない。
#right(){(527:344)}

**ヒトラーは「日本の攻撃がなくてもアメリカとの開戦は時間の問題だった」と語ったというのは本当?
ヒトラーの発言のソースはマルティン・ボルマンがヒトラーの発言を 
口述筆記した記録にある。 

「日本の参戦は、ルーズヴェルトのために絶好の口実を与え、アメリカ軍を 
我々に対して動員するきっかけを作ったとは言え、我々にとっては何らの不 
利な結果も伴わなかった。しかしルーズヴェルトは、ユダヤ人にはっぱをか 
けられて、日本の参戦がなくても、国家社会主義を殲滅するための戦争を決 
意していた。」 
http://www.harashobo.co.jp/new/shinkan.cgi?mode=1&isbn=02246-9 

同書の中で最終的にアメリカの参戦は避ける方法はなかったことと 
日本の参戦はドイツにとって幸運だったことも述べられている。 
#right(){(615:261)}
>ヒトラーは米国の参戦が避けられないと判断してたわけね? 
>しかし対米宣戦すれば100%敗北って火を見るより明らかだと思うんだけど、 
開戦前から、アメリカからイギリスへの輸送船団の護衛をアメリカが、イギリスの領海ギリギリまで 
行うようになり、ドイツに対して見つけ次第沈めると警告してた。 
ドイツ側としては、WW1のこともあり、誤認での攻撃を避けるために攻撃禁止命令が出てたのだが、 
そのせいで、撃沈の戦果が上がらず、海軍側から、ヒットラーに対して、撃沈許可の要請がひっきりなしに 
上がってた状況なので、ドイツ側の忍耐も限界近かったという状況。 
ヒットラーとしてもイギリスへの物資の搬入阻止がイギリスに勝つ条件なので、回避という選択肢はなかった。 

ドイツ陸軍アメリカ駐在武官のベティカー中将が 
アメリカの戦力・戦争遂行能力について 
極めて過小評価した報告書をあげていて 
ヒトラーはその報告書に非常に感心をもっていたといわれている。 

100%敗北というのは、ようするに後知恵だな。 
#right(){(615:324-329)}

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