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ドイツ軍2 - (2011/10/28 (金) 00:39:52) のソース

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**WW2の独軍は1日休暇を取ってどこかに遊びに行くなんてこともないですよね?
えと、独空軍のエクスペルテン(撃墜王たちね)の自伝/伝記類が多量に翻訳、出版されておりますので
それをお読みになるとよいかと
半年に1回、1週間から2週間程度の休暇があるのが通例で実家に帰ったり友人を訪ねたり、いろんなことに
活用しています
陸軍とか海軍の軍人の伝記では、なぜか休暇に触れてあるものがなかったような(探せばあるかも) 
#right(){(52:23)}
部隊単位には違いないけど、師団ほど巨大な戦略単位を後方に下げる機会はそうそうあるものではないですね。
大損害を受けたり新兵器受領して再編される機会に後方に下がることはありますが。
マーケットガーデン作戦のとき、そういう休養部隊だった武装SSによって、
降下した英軍がひどい目にあったこともあります。
普通は小隊とか中隊とかのレベルで交替です。
#right(){(52:44)}

**騎士十字章は何をしたら貰えた物なのでしょうか
>あと鉄十字章とは違うものなのでしょうか
軍功をたてればいいのだが、判りやすいものはどうしても
戦闘機を何機、戦車を何両と言うことになりがち。
どこどこに支援砲撃した、と言うのは評価されにくい。
#right(){(54:864)}


**ドイツ海軍の編制を教えて下さい。 
国防軍総司令官 
  | 
  +→ 海軍総司令官(海軍司令長官) 
       | 
       +→ 海軍総司令部(総務局、防衛局、管理局、作戦局、装備局、艦船局) 
               | 
               +→ 東部管区 
               +→ 北海管区 
               +→ 東海管区 
               +→ 潜水艦部隊(Kiel) 
               +→ 偵察部隊(Kiel) 
               |     | 
               |     +→ 魚雷艇部隊(シュヴィーネミュンデ) 
               |     |      | 
               |     |      +→ 防備部隊 
               |     |      | 
               |     +→ 掃海艇部隊(クックスハーフェン) 
               +→艦隊(Kiel)   
               |   | 
               |   +→大海艦隊 
               |   | 
               +→装甲艦部隊(ヴィルヘルムスハーフェン) 
               +→ドナウ舟艇隊(ドナウ川) 


続き 

●大海艦隊 
  戦艦(個艦行動) 
  巡洋戦艦(個艦行動) 
  巡洋艦部隊(個艦行動) 
  駆逐艦部隊(第1~第8/うち、第1~3は1940年まで、4は1940年までと42年から、5以降は1940年から編成) 
  水雷艇部隊 
   (第1~第10/うち、第1は1941年まで、第3は1941年から、第4は43~44年、第6は41年までと43年~44年、第7は40年のみ、 
    第9は43~44年、第10は44~45年で第8は欠番) 
  魚雷艇部隊 
   (第1~11、21~24/うち、第1、3、7、21、22、24は1943年以降、23は欠番) 
  特設巡洋艦(個艦行動) 
  補給艦(個艦行動) 

●防備部隊(略歴は以下省略) 
  掃海艇部隊(第1~34、36、38、40、42、44、46、52、54、56、70掃海隊/うち20は戦後編成) 
  機動掃海艇部隊(第1~17、21、25、30艇隊/うち、25は戦後編成) 
  特設掃海艇部隊(第1~6、8艇隊) 
  沿岸防備艇部隊 
    哨戒艇部隊(第1~20、51、53、55、57、59、61、63~68艇隊) 
    監視艇部隊(第1~6、8~16艇隊) 
    駆潜艇部隊(第1~3、11、12、14、17、21~23艇隊) 
    護衛艇部隊(第1~5、第30~31護衛隊) 
●潜水艦部隊 
  潜水艦部隊(第1~14、18~27、29~33潜水隊/うち、19~27、31、32は練習潜水艦部隊) 
#right(){(133:眠い人 ◆gQikaJHtf2 )}
**ドイツ軍はマルタとかスターリングラードで大量に輸送機を失っていますが、簡単に補充が効いたんでしょうか? 
ルフトヴァッフェは、スターリングラードへの空輸作戦のために集められる 
あらゆる輸送機をかき集め、その総数は850機に達しました。 
不足する機体やパイロットを補うために、訓練学校から人員・機材を引き抜くことまで 
行っています。 

しかし、厳しい寒さや悪天候、未整備の滑走路やソ連側の対空砲火などに阻まれて損耗は激しくなり、 
1943年2月の第6軍の降伏までに488機が失われてしまいました。 
この損失を埋める生産をドイツでは終戦までついに行うことが出来ず、さらに教官や生徒を 
失ったことで輸送機乗員の養成が滞ることになってしまいました。 
#right(){(148:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)}
**ゲーリングが降下猟兵に固執していた理由はなんでしょうか
自らの権限の拡大と保持のため。
ナチスってのは、ヒトラーの独裁政権であると同時に、
非常に上層幹部の封建領主的な性格が強い。
ゲーリングの空軍&航空産業やヒムラーの親衛隊のように、
案外にヒトラーが執拗に介入してこずに、自らの「王国」のように
振舞える領域があったわけです。

彼らにしてみればその「王国」を拡張したい。
特に、ゲーリングは戦前は国防大臣になるのを渇望していたように、
国防軍(陸軍)もその傘下に収めたがってました。
(その当時の国防大臣ブロンベルクに陸軍関連の経験や知識を半可通呼ばわりされて、
一蹴されてしまいましたが)

そこで、新兵種たる落下傘降下兵(降下猟兵)が設立されたときに、
あの手この手で、自らの「王国」である空軍の管轄にしちゃったわけです。
で、一度、手に入れた権限は絶対に離そうとしない。
むしろ、そこから空軍管轄の陸上兵力を拡大するという行為におよび、
空軍野戦師団やら、ヘルマン・ゲーリング装甲師団やらも生まれてくるわけです。
#right(){(260:448)}
**ドイツの砲兵戦力はどの程度だったのでしょうか?
第二次世界大戦当時のドイツ軍の師団砲兵は、軽大隊三個と重大隊一個で、
それぞれ10.5cm軽榴弾砲と15cm重榴弾砲で編成されていました。
また、歩兵大隊に所属する二個砲兵中隊が7.5cm軽歩兵砲6門と15cm重歩兵砲2門を
装備していました。

ところが対ソ戦が始まってみると、主力野砲だった10.5cm leFH18と15cm sFH18は
ソ連砲兵の主力装備である107mmカノン/152mm重榴/152mmカノンに完全に
アウトレンジされてしまいました。
そこで改良型である10.5cm leFH18Mを投入したり、自走化によって射程の短さを補ったりしました。
後継砲の開発にも踏み切っていますが、終戦までに完成しませんでした。
さらに生産量の不足が拍車をかけ、多くの歩兵師団では鹵獲した野砲が支給されていたりしました。
>カノン砲(重砲類)と榴弾砲を一緒に師団レベルで運用していたのはドイツだけだったと聞いたのですが、
カノン砲と榴弾砲を一緒に師団レベルで運用していたのは帝政ドイツの時からです。
当時は野砲として7.5cmFk16カノンと10.5cm leFH16軽榴弾砲を運用していました。
再軍備後の国防軍では軽野砲の口径を10.5cmに定めたため、新型カノン砲として
10cm sK18重カノン砲(52口径10.5cm砲)を1933年から生産しました。
しかし、重榴とほぼ同じ重量(5.6t)や威力の低さから次第に第一線から退いて
沿岸警備用にまわされています。

諸外国でも威力が半端なのか10cmクラスのカノン砲はあまり用いられていないようです。
#right(){(242:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)}
**ドイツが何故空母を持とうとしたのか、どう使うつもりだったかなどが知りたいのですが
1933年のヒトラーによる政権奪取後、海軍は軍備拡張を考えますが、そのときに 
"Carrier Gap"について憂慮しており、その頃から空母に対する基礎研究を行って 
いました。 

1933~34年に掛けて最初のデザインが作られます。 
このときは22,000tで35Kts、50機の航空機を搭載するものでした。 
ただ、ドイツはVersailles Treatyによってこういった兵器の開発を制限されていました 
ので、基本設計というかスケッチ程度で終わっています。 

1935年に、英国との間で英独海軍条約が結ばれますが、このときに英国の空母の総トン数の 
35%である、19,250tを空母用に確保しました。 
これを元に、再び設計が行われます。 

このときの設計方針は、水上艦の支援として通商破壊戦に乗り出す関係上、水上戦も行える 
べく、重巡洋艦並の装甲を持ち、夜戦では駆逐艦に対抗可能なように、軽巡洋艦並の砲を持つ 
と言うものでした。 
ただ、この砲力重視という点は、航空機の運用が空軍に任さざるを得ない点があり、しかも、 
空母の運用をしたことがないため、仕方ない面もありました。 

Z計画全般については、色々な艦船系の雑誌などでしばしば取り上げられています。 
25年くらい前の世界の艦船にあったドイツ海軍特集には結構まとまった記事がありましたね。
#right(){(163:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**ドイツ軍は元帥がやたら目に付きます。ヒトラーの政策でたくさん任命されたんでしょうか
ドイツの陸海空元帥一覧 
http://www5e.biglobe.ne.jp/~reserch/Dienstgrade/generalfeldmarschall_chart.htm 

ドイツ陸軍は開戦前元帥は国防軍最高司令官だったブロンベルク一人だった。 
開戦後、ポーランド戦役における功労を讃えるということで一気に9人の上級大将を元帥に叙任。 
以後どんどん元帥を増やしていった。 
陸軍に対する懐柔と、元帥という地位を相対的に低下させようという目的があったとも言われている。 
なお元帥になると終身年金、副官と当番兵、個人事務所、地位の象徴である元帥杖が与えられた。 
どちらかというと名誉称号的な意味合いが強い。 

ゲーリングの国家元帥という称号は彼一人の為に作られた。
#right(){(229:423)}
**WW2時のドイツ海軍の艦名の命名基準ってどうなっていたのですか?
戦艦、空母、重巡洋艦は、政治家もしくは軍人の名前(例外はGraf Zeppelin)、 
軽巡洋艦は都市の名前、駆逐艦は、国家社会主義労働者党の関係者の名前が多かったのですが、 
途中で、Z+連番に変わりました。 
水雷艇は、猛禽類や猛獣の名前ですが、途中からT+連番に変わっています。 
残りのものは練習艦を除き、英数字+連番になっています。 
#right(){(229:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**ドイツ海軍の旗が鍵十字入りのものに変わった正確な年月日を教えて下さい。
1933年にHitlerが政権を掌握すると、黒赤金の組み合わせは廃止され、黒白赤の旧国旗が復活します。 
黒赤金の組み合わせは大統領旗に僅かに残りますが、それも、Hindenburgの死去により、1934年に廃止されます。 
1935年、国家社会主義労働者党の党旗を掲げたドイツ船が、米国内のユダヤ人圧迫政策に反対する集団に襲われ、 
党旗を毀損したことがきっかけで(この時、米国政府は、この旗は「党旗」であって「国旗」にあらず、と判定して、襲撃者 
を起訴しませんでした。 

このことも一つのきっかけとなって、1935年9月15日の党大会で、独裁権を手にしたHitlerは、その法令第一号で、国家 
社会主義労働者労働党旗をドイツ唯一の官用・公民旗となりました。 
#right(){(202:眠い人 ◆gQikaJHtf2)}
**ロンメルが兵站に対してまったくの無知であったと書かれているのですが、これは事実なのでしょうか? 
「ロンメルは最高の中隊長であったが、最低の師団長であった」とは戦後の証言でよく言われること。 

 ロンメル元帥が優秀な指揮官であった事は間違いない。 
 だが、それは最前線で部隊を率いる「前線指揮官」としての優秀さであって、高位の指揮官に要求 
される、「組織を運営する能力」がロンメルには不足していた。 

 なんというか、「この地形で敵部隊の後方に廻り込むにはどうすればよいのか?」といった事を発想 
するのは得意だったが、「一万人の兵士を一週間行動させるには最低でも21万食の食料が必要で、それ 
を輸送するには*台のトラックもしくは貨車が必要で・・・」といった事を考えたり想像したりする能 
力が乏しい人だったようだ>ロンメル元帥 

もっとも、その辺を司令官に替わって考えて計画を立てるのが参謀の仕事な訳で,ロンメルの幕僚だっ 
た人間が戦後その事でロンメルを批判するのは、ちょっと間違ってるような気はする。 

「補給戦」の中にそのものズバリ「ロンメルは名将だったか」という章がある。 
中身としては、北アフリカ軍団が補給不足で悩んだ原因として一般的に言われる 
イタリア海軍の努力不足や本国の支援不足といった問題は不当なものであり、 
補給不足の主要な原因は 
1.ヒトラーおよびOKHからの再三にわたる制止を振り切り 
  長距離進攻を行ったロンメル(OKHでは「あの基地外」呼ばわり) 
2.1の結果として生じた港湾不足および荷揚げ能力の不足 
3.1の結果として生じた余りにも長大な陸上輸送距離(主な輸送手段は燃料食いのトラック) 
であるということを具体的な事例と数値を出して示している。 
ざっくり要約しており、見逃してる点があるかもしれないので是非元の本を 
確認して欲しぃ。 
#right(){(206:881-891)}
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