2006年11月19日マルチ(ローマ視点)
はじめに
モンゴルさんとフランスさんがレポ書いてくれているので、私もレポを書いてみようかと思います。
記憶が曖昧なので発言内容とか実際と違ったりするかもしれませんので
間違いがあったら遠慮なく訂正してくださいな。
いろいろイメージで書かれてます、科学的、歴史的に間違ってると思われます。
では文才の無いつまらない文章ですが、よかったら読んでみてください。
もし感想や、あの時こうするべきだったのでは?というような意見が有ったら
最後のコメント欄書き込んでくれると、筆者の執筆意欲が高まりますのでお願いします。
その他あの時ここはどうなっていたんだろう?と言った質問もわかる範囲で答えます。
初期設定
【マップ】パンゲア
【サイズ】標準、海面低
【 速度 】迅速
【勝利条件】全て
【タイマー】超高速200
【オプション】全滅、技術交換なし
【参加人数】9名
【参加文明】ローマ、フランス、インド、中国、インカ、ペルシャ、スペイン、モンゴル、アステカ
ローマ建国
BC4000年我らローマ人は英雄カエサルの導きの下、都市国家ローマを建設することに成功する
建国式直前ローマ近辺
建国式典でのカエサル曰く
「見よ!この素晴らしい土地を! 東には牛が溢れ 西には川が流れ 南には森々が広がり 北には金山がある まさにこの世の楽園とも言うべき素晴らしい土地だ。」
だが建国式典に沸くローマ人達は
この大地に住まう民族は自分達だけではないという事も
そしてこの大地がどのような歴史を歩むかも、まだ知らないでいた。
大陸全土の様子
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歴史の始まり(BC4000年~BC2500年頃)
ローマの建国に成功した我々だったが、残念ながらこのローマの外にどのような世界が広がっているかは、まったく知らなかった。
悲観的な者達は口々に「危険だ!」と唱えていたが
我々は勇士達をローマ市外の探検に出すことにした。
ある勇士の日記 僕達はついに明日出発する。 生まれ育った土地を出ること もしかしたら生きて帰れないかもしれないこと 不安な事は挙げたらきりが無い だけどきっと僕達の探検によってローマはもっと発展できるだろうと信じてる。
壮行式典にてカエサル閣下は勇士達に一人づつ声をかけ、肩を叩き励ました。
その姿を見て勇士達の家族はもちろん、悲観的だった者たちも涙ながらに彼らを送り出したと伝えられている。
西へ向かった勇士達からの報告により西の砂漠を抜けた先には海があることがわかった。
さらに海沿いに西へと向かう勇士達より驚くべき報告がもたらされた。
そこにはペルシャと名乗る王国があった、ローマ史初の他国家との接触である
さらにはペルシャの北にはインカが、ローマから南に向かった勇士達からフランスとの接触を告げる報告がローマへ次々と舞い込んでくることになった。
これらの報告を受けローマ市民はまさに驚天動地の大騒ぎとなった。
しかしカエサル閣下は冷静に接触した国家に対し、挨拶をするため友好的な使節団を送ることにした。
何度かの使節団の往来とさらなる探索の結果
西にはペルシャ、インカ、スペイン、モンゴルがひしめき
さらに西にはまだみぬ国々がありこと
南にはフランスがそしてフランスの西つまり我が国の南西にインドがあることが判明した。
北と東には他の国家は無く、ローマは他国に比べて大きな版図を得ることが出来るであろうと報告された。
当時の外交官のメモ ペルシャ 我が国との最初に国交を開いた国 我が国とは互いに平和を確認した上 西に多くの国と国境を接して緊張しているとのことなので しばらく我が国と戦争になることは無いだろう。 インカ ペルシャのすぐ北に位置し直接我が国と直接国境を接してはいない かなり国土は狭い様子、しかも攻撃的志向を持つので遠からずどこかと戦うのではないか 注目する必要がある国家かもしれない フランス 南に向かった勇士達の報告によると我が国に匹敵する国土を有する。 この国も攻撃的志向を持つ、互いに国土の開拓が終わっていないので、まだ国境を接してはいない。 まだ戦争することはなさそうだが闘うことになるとしたら危険な存在。 平和条約の交渉が来た際、こちらの誠意としてローマ南のジャングル地帯に都市を建てる際の優先権を渡している。 インド 我が国の南西に位置する国、勇士達の探検隊は南西方向には向かわなかったため 国土の詳細は不明、仏教なる宗教を信仰している。 モンゴル ペルシャの南西に位置する国家、攻撃的志向を持つその他詳細は不明 スペイン ペルシャの北西に位置する国家詳細不明 そして西から流れている噂によるとまだみぬ国が二つ西の果てにあるそうだ
新たな都市(BC2500年~BC1000年頃)
BC2500年ごろローマ市民の間では、新たな都市を作るべしという気運が高まっていた。
元老院でも、ローマの版図を広げるためには、新たな都市を作る必要があるということで意見は一致していた。
第二都市の建設地点は、東の草原地帯に建設する案と、西の沿岸に建設する案の二つが挙がることになった。
双方の意見を聞いたカエサル閣下は、他国家のいない東よりも、遅れればペルシャに取られる可能性の高い西への拡張を決断された。
BC2440年、その結果にローマの西の砂漠を抜けた先に第二都市アンティウムが建設されることになった。
後にアンティウムには馬なる新たな家畜が発見され大いに栄えることになる。
その時、ローマ市民は皆カエサル閣下の英断を褒め称えたものだった。
近代に取られたアンティウム周辺の写真
BC3000年頃、ローマでは鍛冶屋が大繁盛していた。
なぜならその頃、鉄なる鉱物が発見されたのだ。
鉄は既存の金属よりも硬く、しかもローマの南西の丘で採掘出来るので
ローマの軍人達の武器はもちろん、農民達の農具にいたるまで
既存の道具を捨て新たに鉄製の道具を作るのが大流行した。
当時のローマの鍛冶屋の発言 「四六時中客はひっきりなし、鍛冶場や職人はいくらあっても足りねぇ 大繁盛だがこんなに忙しすぎるのも考えもんだな」
もちろんカエサル閣下も鉄には興味を示した。
選りすぐった勇士達の子弟や市民で身体強靭な者達を
鉄器で武装させて親衛隊を結成し、その者達をプラエトリアンと名付けた。
彼らは当時の世界中を見てもまれに見る精鋭部隊と言えた。
カエサル閣下は彼らを国防の中枢とし、ローマはもちろんアンティウムにも駐屯させ
国土の防衛に当たらせることにした。
プラエトリアンがある程度配備され、国防力に問題がなくなった頃
第三都市の建設計画が持ち上がった。
BC1000年、第三都市はローマの南東の海岸に建設し名をクーマイと名付けた。
近代に撮られたクーマイの写真
クーマイ建設直後の大陸全土の様子
宗教と闘争(BC900年~BC55年ごろ)
BC825年、我が国に初めて宗教というもの広まり始める。
その宗教の開祖となる人物は孔子という中国人であった。
孔子は祖国中国で海で船に乗っているいたところ、嵐に巻き込まれクーマイ付近に流れ着いたされる。
流れ着いた時は、衰弱していた孔子であったが、ローマ人による看護により回復することになるが
回復した孔子は、だんだんと祖国に対する、望郷の念に駆られていく
残念ながら当時のローマには、大洋を横断する航海術は無かったために、孔子は陸路にて中国に帰ろうと志す。
だが彼は、ローマペルシャ国境地帯にある、ジャングルの踏破に失敗し、アンティウムへと戻ってくることになる。
祖国への回帰を諦めた孔子は、アンティウムにてローマの知識人達に頼まれ、中国の学問を教えていくことになった。
言語や文化の壁を越え、優秀な弟子にも恵まれた孔子は最終的にこの地に没することになる。
故に、孔子の没したアンティウムは聖地となるのであった。
孔子の死後の弟子達の活躍により、孔子の考え方は儒教として纏められ
今まで宗教というものを知らなかったローマ人達の間で爆発的に広まっていき、ついにはローマの国教となるのであった。
BC500年頃、新たに第四都市建造計画が持ち上がりはじめた。
南方のジャングル地帯は、フランスが優先的使用してよいとの約束があったので
第四都市はローマ東部へ建設されることになった。
民兵戦士団に護衛された開拓団が東へ出発し、
BC475年開拓団は当初の予定通りの位置に第四都市ネアポリスを建設する。
だがネアポリスのさらに東に、奇妙な人間達がいた、その者達は木々や獣達を信仰の対象とし、皆黒い服を着ていた。
そして驚くべきことにその者達は、小さいながらも都市を持っているのであった。
その者達の都市フリはネアポリスの都市圏のすぐ隣にあった。
その近さがその者達の危機感を煽ったのか、なんとその者達はネアポリスに襲い掛かってきたのである。
民兵戦士団は懸命に防戦し、ほぼ同等の装備を持つその者達を撃退することに成功する。
とある戦記の台詞より 「逃げるな!戦え! 俺達の後ろにはネアポリスがあるんだぞ 俺達の都市だ、俺達の故郷だ、俺達の未来だ それを捨てて逃げ出すような臆病者は俺が許さん」
この戦いの報告を耳にした、ローマ市民は怒り狂うことになる
これがAD300年頃まで続く、蛮族との戦いの始まりである。
カエサル閣下もこの一件には怒りを隠しきれなかったようで
閣下はその者達を「蛮族」と命名し、蛮族を討滅するためにプラエトリアンのレギオンに出撃命令を下した。
ついにローマ軍の精鋭プラエトリアンが戦う時がきたのである。
情報収集の結果、蛮族にはフリの北にパルティアなる都市も有することがわかった。
ネアポリス市民に歓呼を受けながら入城したプラエトリアンレギオンは、まずフリを制圧することになった。
フリを守護する蛮族達は、精々我が国の民兵レベルの装備しか保有しておらず
精鋭たるプラエトリアンの敵ではなかった。
BC265年、プラエトリアンレギオンは怒りに任せてフリを瓦礫の山ことに成功する。
近代に撮られたネアポリスの写真、右の沿岸に見える瓦礫の山がフリ跡地
プラエトリアンレギオンがフリ制圧戦の疲れを癒すべくネアポリスに駐屯していた
BC55年、驚くべき報告が舞い込んできた。
ついにインカがペルシャに対し宣戦布告したのである
同BC55年、それに対抗するする形でスペインがインカに宣戦布告
この時、世界初の文明間の戦争がついに始まった。
我が国に対してもインカの使節から対ペルシャ参戦の要求が告げられた。
この事態に対して、市民達の間だけではなく、元老院の中でも議論は紛糾することになる。
主に軍部は、いつでも出来る北部の開拓や蛮族の討滅などは後回しにするべき それにプラエトリアンの優位性を活かせる時間は、もうそれほど長くは無い 国境のペルシャの都市に見えるのは弓兵や斧兵くらいなものだ 長弓兵、弩兵、鎚鉾兵などプラエトリアンで戦いづらい部隊は見えていない だからこの機に乗じて、プラエトリアンレギオンを用い、インカと協力しぺルシャを挟撃するべきだと主張した。 だがもちろんその意見に対して反論する者たちもいた。 すでにペルシャ、スペイン連合VSインカの構図となっている。 我が国とインカのエネルギーはペルシャ+スペインに勝っているが 我が国はまだ攻城兵器を実用化していないし、それに我が国が宣戦したところで2対2になるだけでは早期制圧は望めない。 早期制圧が望めないのであればフランス、インドの介入は避けられない。 我が国は他国に比べて広大な領土がある、まずは内治に全力を注ぐべきだ。
これらの議論を受けたカエサル閣下は内治派の意見を採用し
今回の戦争に対して直接的な介入をせず、ペルシャに馬と鉄を輸出して支援することに決めた。
しかしこの決断を惰弱と表現する者は非常に多い
ある学者はこう分析する
当時ローマの生産力は世界最高であり その生産能力とプラエトリアンを活かせばこの戦争時にさらなる広大な版図を得ることが出来たのではないか またなぜこのような事態を想定し攻城兵器の実用化を急がなかったのか この好機に対し消極的行動しか取らなかったのは失敗であったと私は確信している。
当時の軍事力のグラフ
当時の生産力のグラフ
当時のスコアのグラフ
パックスロマーナ(BC55年~AD740年頃)
直接的介入を避ける事を決めたローマは、内治に全力を注ぐ事になる。
BC20年、まず開拓団をローマ北西に派遣し、第五都市ピサを建設する。
またBC265年にフリを破壊して以来中断していた、蛮族討滅を再開する。
パルティアに篭る蛮族もフリの蛮族と大差は無く、プラエトリアンの敵ではなかった。
ハルティアは食料生産力は乏しいが、都市圏に金山*2、毛皮、石材などを産出するので
破壊せず占領せよとの命令がカエサル閣下より下された。
AD230年、パルティアはローマの第五都市へと生まれ変ることになる。
これにて蛮族との戦争は完全に終結したものだと思われていた。
近代に撮られたピサの写真
近代に撮られたパルティアの写真
第五都市まで建設し、都市建設計画が一段楽したので
AD290年、カエサル閣下は社会体制を改革なさることにした。
ちょうどその頃ローマで研究されていた、最新鋭の官僚制と古代より導入が検討されていた奴隷制を施行したのである。
この新たなる社会体制によって、官僚機構の集中するローマはもちろん、奴隷による安価な労働力の提供により全土の生産能力が大きく向上した。
その後数百年はローマは、地道な国力の増強に行うことになる。
まず創造的志向を持つペルシャの文化に負けぬよう、アンティウムには文化的な建造物が多数建てられた。
まだ全土に広まってなかった儒教が全土に広まったのもこの頃である。
だがこの平和な時代に悲劇は起こった
ネアポリス-パルティア間の街道を整備していた労働者二単位が、突如東から現れた蛮族の残党に惨殺されたのだ。
なぜこのようなことが起こってしまったのか?
当時の資料によればローマからのカエサル閣下からの指令に
現地に駐屯するプラエトリアンレギオンは都市を守護するよう命令されており
都市外の作業を従事していた労働団の護衛は命令違反に当たるのでは?との疑念を持った
現地の指揮官の判断が遅れたうえ、当時ネアポリス-パルティナ間移動経路が確立されおらず
慌てて出発した後労働者がいる場所とは別な場所へ移動してしまったプラエトリアンレギオンは、労働者達のそばまで来ていながら阻止することが出来なかったのだ。
この悲報を聞いたローマ市民たちは、蛮族に対する怒りもさることながら、この悲劇を阻止することを出来なかった、軍部やひいてはカエサル閣下に対する批判が溢れかえった。
ある被害者の家族の日記 どんだけ嘆こうとも、どれだけ金などを渡されても この悲しみは消えることはないだろう 何が!偉大なるカエサル閣下だ、 善良な労働者をたかが蛮族からすら守れないない無能者のくせに この国は偉大なローマなどと思っているようだが このような事が起きるようでは、絶対ろくなことが起こらない 何故こんなことが起こる国になってしまったのだろう
この一件に対してはカエサル閣下も
「今後二度とこのような事の起こらないよう、都市外にも蛮族を監視するレギオンを配置する」
このような苦しい弁明が精一杯だった。
詳しい年代の記録は無いのだが、AD700年頃にローマに蛮族討滅記念として英雄叙事詩が建てられたのは皮肉というしかない。
わざわざ文学とはいかなるものかを研究してまで作り上げた英雄叙事詩であったのに
あの悲劇を想起してしまい、誰もが完成を心から喜べなかった。
AD700年頃、約500年ぶりに都市新造計画が持ち上がった。
今まで都市を建てるには不向きだと思われていた北の大地だが、魚と鹿のおかげで十分な食料生産を確保出来る事が判明したのだ
AD740年、こうして第六都市ラヴェンナが建設された。
近代に撮られたラヴェンナの写真
同AD740年、インカ戦争はぺルシャ、スペイン連合の勝利によって幕を閉じることになった。
インカは滅亡し、その領土はペルシャとスペインに切り取られていた。
こうして世界に平和が訪れたのだとローマ市民の誰もが思った。
だがある日、擦り切れたボロボロの服を着た一団が、カエサル閣下に面会求めてきた。
側近の者がいかがわしく思いながら話を聞き始めると
その一団の長らしき者が開口一番こう言ったと伝えられる
「我々はモンゴルの使節団だ、我が国はアステカによる攻撃を受けている助けてほしい」
世界は平和などでは無かったのだ。
西の熱戦と東の冷戦(AD740年~AD1700年頃)
モンゴルの使節団は、すぐにカエサル閣下と面会し、モンゴルの窮状を訴えた。
カエサル閣下は、側近達を招集しこの事態に対して、如何に行動を起こすかを議論した。
だがこの時ローマ人達はアステカなる国家がモンゴルの西に位置することさえも知らなかったのだ
その為、カエサル閣下はモンゴルの使節に対し支援できないと伝え追い返した。
モンゴルの使節は悲嘆にくれながらローマを出て行くことになった。
この話を聞いたある将軍はこう漏らしている 「嗚呼、なんということだろう、祖国の危機に助けを求める者たちの願いを、ただ遠いからと断ってしまうとは 義を見てせざるは勇無きなりという、儒教の教えはいったいどこにいってしまったのだろう このようなことでは我が国の危機を救ってくれる国など、どこにも無くなるだろう」
だがこのような感想を抱いた者はまれであり
風聞によると西の戦争はスペインも参戦し熾烈を極めているとの事だったが
ほとんどのローマ人は西の果てでの戦乱には無関心であった。
当時はスコアの首位を各国が熾烈に争っていた、そこでローマではスコアと軍事力を伸ばし事のみを目標としていた。
ローマは国家遺産並びに世界遺産の建造と、人口の増加によってスコア伸ばす事を選んだ。
当時南方のローマ-インド-フランス三国の国境地帯に、未開拓の土地が残されていた。
カエサル閣下は当初この土地は昔に交わされた約定により
フランスに優先権があるとの認識をしておられたようだが
ここにいたるまで都市を建造されてない事は優先権を放棄したと見なし、フランスとインド何も言うことなく
AD950年、アレティウムをその地に建設された。
アレティウムでは、様々な文化的施設を建設され、少しでも国土を広げられるよう配慮された。
後にこの地で激動たる歴史が始まる事になる。
1720年頃のアレティウムの写真
AD1115年、まずは我が国初の世界遺産ロードス島の巨人像をアンティウムに建設した。
ピラミッドやアレクサンドリア図書館などの世界遺産の話を聞いたきたローマ人達は、初めて世界遺産を手にした喜びに満ちていたという。
AD1265年、モンゴルが滅亡する事になるがローマ人達は全てが終わった後、噂話を聞いた程度であった。
AD1395年、今まで宗教制度が整備されていなかったので、神権政治が採用された。
これによりローマ兵達よりいっそうの精強さを得る事になる。
この時、インドの使節が来訪しローマが神権政治を採用するとは恐ろしいとのこと言ってきたが
カエサル閣下は気にも留めずそのまま神権政治を採用し続けた。
AD1635年、さらなる人口増加のために北部沿岸にチェルチィ、アルピーヌムを建造する
この二都市は同じ年に建設されたためにローマ人の間では双子都市と親しまれた。
AD1660年、ローマでシスティナ礼拝堂が建設される。
グローブ座と紫禁城も建設されこの頃には、ローマはスコアのトップ争いをリードしていた。
多くのローマ人達はローマがスコアトップになったことをただ喜んでいた。
なかには、ローマこそが大陸の覇者たる理想の国家だなどと言うもの達もいた。
だが一部の者達はこの状況に対し不安を露にしていた 「何故カエサル閣下は、スコアトップになったしまったら 今以上に他の国狙われてしまうという事に気付かないんだろう アレティウム建設時には、一度は譲った土地を、欲しくなったら何も言わずに取ってしまった。 こんな約束を守らない国は誰も信用してくれないだろう 科学研究も目先のスコアに追われ大局を見失っている 今のローマはおそらくグラフほどの国力は有していないだろう カエサル閣下は、昔に比べて段々と独善的な人間になってしまった。 過剰と言えるまでの国力が閣下をこのようにしてしまったのかもしれない このままでは他国が攻めてくるのは時間の問題だろう。 私の目がローマの滅亡なんて光景を見ないといいのだが もしそのような事態となりそうならカエサル閣下を………」
AD1645年、アステカ戦争が始まり、スペイン、ペルシャ、中国がアステカへ立て続けに宣戦する事になる。
AD1695年、ついにアステカは我が国とはさしたる交流を何も持つことなく滅亡していた。
一時期は世界一の軍事力を誇ったアステカさえも滅んでしまう
さらにはペルシャからは注意を喚起する密書が送られて来たというのに
ローマはさしたる危機感を持たずにいた。
すでにスコアトップであるのに、オックスフォード大学を建てるため全土に大学を作り始めていた。
その間、軍事力の増強は完全にストップしグラフは横ばいとなった。
以下当時の資料を掲載する。
スコアの熾烈なデッドヒートからローマが頭ひとつ抜ける
強大な軍事力だが大学を配備中完全に上昇が止まっている
フランスの黄金期を上回る生産力
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AD1720年の大陸全土の様子
AD1725年、ついに大陸東部にも戦乱の火の手が上がることになる
**ローマの落日(AD1725年~AD1800年) [#w5fbd355]
その日は突然フランスの宣言から始まる事になる。
「我が国は首位を独走するローマに対し、宣戦を布告する」
フランスの同盟国インドもそれに続き、仏印連合軍はアレティウムへと進軍始めた。
ついにローマは有史以来初めての対外戦争へと突入することになる。
この頃のローマ軍は擲弾兵を主力レギオンとしようとしていた過渡期にあり
各地に駐屯する擲弾兵のレギオンは約20とまだまだ近代的レギオンは少なかった。
特にカノン砲と騎兵隊を実用化出来てないのはかなり致命的であったと言えよう
だがローマに古代、中世の頃からローマを支えてきた古強者達がいた。
プラエトリアン達すら集めアレティウムに集合するレギオンの総数約70
内訳は擲弾兵約15、長弓兵約10、鎚鉾兵約30、プラエトリアン約10、長槍兵約5となっている。
それに野戦で敵に打撃を与えるためのカタパルトレギオンが、約15ほどアレティウム-ローマ間に待機していた。
昔語りを始める老兵達、未来への希望を募らせる新兵達、アレティウムの市民達にいたるまで 皆がこの国難に向けて一致団結し立ち向かっている。 安寧に慣れ惰眠を貪ったローマが無くしてしまったものが蘇ってきたかのようだ 執筆者不明の日記
戦争はフランス軍の斥候騎兵がローマ領に進入した後、仏印連合軍の本隊が現れる
ついにアレティウム攻防が始まる事になる。
ローマ軍は残念ながら連合軍の砲撃により、アレティウムの防御施設を無効化することにを許してしまう。
しかしローマ軍は突撃してくる連合軍の攻撃を耐え抜くことに成功し、攻防戦の一日目を終えることになる
その晩敵味方の双方が疲弊している中夜襲計画が持ち上がる
夜襲に用いられたのは最新鋭の装備を持つ新兵の擲弾兵ではなく
古参兵の鎚鉾兵を中心に編成された。
彼らはこの困難な作戦を遂行することになっても
自分達の半分程度しか生きてない新兵やローマの市民達のために、恨み言一つ言わずに出撃していった。
彼らの中には戻ってこなかった者達も多かったが、包囲している連合軍に対し打撃を与えることに成功した。
こうした攻防戦も1745年頃にはほぼ終結し、ローマは侵略を打ち払い母国を守りきったのだと思われていた
アレティウム攻防戦の写真
AD1750年、アレティウムに駐屯する兵士達は攻防戦の傷を癒していたころであり
ローマの宮殿では仏印への進軍作戦を計画していた頃である。
西方からペルシャ、スペインの連合軍が宣戦布告と共に、アンティウムへと進軍してきたのだ
続いてAD1755年、中国も参戦するに至り、ついにローマは全ての国から宣戦布告されたのである。
ローマは国教である儒教を、ペルシャに布教していたので、ペルシャ領内の情報を入手可能であったが
対仏印戦争に力を注いでいた、ローマ軍はペルシャ領内に中国、スペイン軍がいたことに気付くことは無かった。
これが覇者の定めというものだろうか、ローマは有史以来他国を侵攻したことは無いというのに……
三ヶ国連合軍の総兵力は、カノン、擲弾兵、ライフル兵を合わせた数だけで100を超えた
ローマ軍からみてスペイン軍と同じ場所に駐屯する中国軍の存在へ気付かぬほどの大軍であった。
アレティウムに駐屯する擲弾兵達は傷も癒えぬまま、アンティウムへと入城したが
AD1760年、多勢に無勢、なすすべなくアンティウムは落城することになる。
アレティウム攻防戦を耐えぬいた、勇者達も皆戦死した……
これによりローマは覇者の地位から落ちることになり世界は混沌の時代へと突入する。
AD1770年、中国がインドへ宣戦布告。AD1775年、ペルシャがフランスに宣戦布告
AD1780年、スペインがペルシャへ宣戦布告。AD1785年、フランスがインドへ宣戦布告
AD1795年、スペインが中国へ宣戦布告。同AD1795年、中国がペルシャへ宣戦布告
このような目まぐるしい世界情勢の変化の中、ローマは防衛戦に手一杯であった。
フランスがインドに宣戦布告したので、アレティウムに駐屯する兵士達をローマへと帰還させ
彼らと新兵で構成された擲弾兵レギオンを中心に残った領土を防衛する戦力がローマへと集まることになった。
アンティウム落城後、主にローマと戦ったのはスペイン軍であった。
スペイン軍はローマを包囲しつつ西の海岸線沿い北上しピサとラヴェンナへと迫ってきた
AD1780年、ラヴェンナは防衛していたプラエトリアン部隊の奮戦もむなしく落城した
AD1785年、ピサも攻撃を受け一時落城するも同年奪還に成功する。
AD1800年、首都ローマでカエサル閣下の18世紀に入ってからのたびたびの失策に憤慨した
ブルートゥスら共和派によるカエサル閣下暗殺事件が起きてしまう。
ローマをここまで導いた偉大な指導者はここで命を落とす事となった
この事件でローマは大混乱に陥り、ローマの歴史が綴られるのはここで終わる
この後のローマがどのようになったか知る者はいない。
AD1800年の世界の様子
おわりに
まずはここまで拙作を読んでいただきありがとうございます。
どんなに恵まれた環境がっても、ちゃんと生かさないと勝てないという典型例だったのではないでしょうか
やっぱり盟友と呼べるような味方を作るって大事ですよね
おまけ
技術所得順
神秘主義(小屋)、青銅器、BC3160鉄器、車輪、農業、畜産、筆記、瞑想、聖職、BC825法律、数学、通貨、陶器、AD290官吏、君主政治、多神教、アルファベット、AD620文学、封建制、鋳金、狩猟、機械、石工術、ギルド、帆走、弓術、一神教、神学、建築学、AD1475工学、暦、演劇、銀行制度、AD1585火薬、AD1640化学、哲学、騎乗、音楽、羅針盤、紙、光学、教育、経済学、鋼鉄、活版印刷、神授王権
なんでこんな無駄の多い技術のとり方のしたのか自分でも覚えて無いw
軍事技術直行でよかったと思う
最終戦争直前の軍備、なんでこんなに鎚鉾兵と長弓兵がいるんだろう
AD1800年の軍備、悲しいくらいに減ってます
三ヶ国連合軍、こんなのに攻められてら無理ぽ
グラフはフランスさんのレポにあるのでそちらをご参照ください。
コメント欄
-
妄想で補間するのって予想以上に難しい -- 筆者
-続き期待してます、フランスさんとの絡みがまた楽しみです -- <早くフランスさんが書いてるところに追いつけるよう頑張ります
-更新乙! 閣下さすがだw -- <実はローマ史別に詳しくないのでカエサル像はすごい適当
-「2006年07月15日マルチ」のモンゴルさん程に書ける人は中々居ないでしょうねぇ。 -- <自分もあんな素晴しいレポを書いてみたいものです
-せっかくローマなので議会ではなく元老院に直してはどうでしょうか。 -- <その通りですね、直しておきます。
-地図改めて見るとずいぶん自分の記録が曖昧だったことが判明。にしてもローマとフランスはいい立地ですねえ。 -- モンゴル <面積も広いし、首都以外にも良い都市があってホント恵まれてました
-こっちも面白い~続き期待してます -- <楽しんでいただけてなりよりです。頑張って書いていきます。
-ようやくアステカ滅亡まで書けた、BCと明らかに妄想の量が違うなw
それとインカさんの参戦要請が戦争直前か直後だったか思い出せないんですが、もしこれを見てたらお教えください -- 筆者
-お~、 アレティウムの攻防の内実が見れた。 --
<なんで我が軍はあんなに火薬兵器少なかったのか俺にも謎です
-これにて完結、書くの遅れてすいませんでした -- 筆者
-面白かったです。お疲れ様でした。 --
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