だんのこまち@wiki
日中は猫である
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六日目の朝
初めての夜間任務から、六日が過ぎていた。
正確には。
ティーがクライアントユニットの日付を見ながら、そう数えているだけだった。
目覚める以前の日時はわからない。
現実で最後に何月何日を過ごしていたのかも。
自分が、どれほどの時間を失っているのかも知らない。
だから今のティーにとっては、だんのこまちで迎えた朝だけが、確かに数えられる時間だった。
住宅区N-07。
与えられた部屋の窓から、朝の光が差し込んでいる。
ティーはベッドから身体を起こすと、最初に窓ガラスへ映る自分の顔を見た。
銀色の髪。
猫の耳。
白い上着。
そして、青い瞳。
「今日も戻ってる」
夜間権限を稼働させた時だけ現れる、黄色い光は残っていない。
そのことを確認すると、少しだけ肩の力が抜けた。
最初の任務以降。
ミッションは二度、発行された。
一度は、商業区に作られた不正な転送経路の閉鎖。
もう一度は、警告を無視して他人の個人空間へ侵入し続けていた利用者へのタイムアウト処理。
どちらも、最初の夜ほど激しい戦闘にはならなかった。
ハンドガンを抜くことも。
ナイフを使うこともなかった。
クライアントユニットを展開し。
現場の記録を確認し。
表示された命令を入力する。
必要であれば、対象へ警告を送る。
それでも止まらない場合に限り、権限を実行する。
少しずつ。
仕事の流れだけは、わかり始めていた。
その一方で。
自分が何をしているのかという疑問は、何も解決していない。
クライアントユニットは、どのような組織が作ったものなのか。
黄色い瞳は、なぜ自分に与えられたのか。
通常の管理者では対処できない問題へ、なぜ記憶のない自分が送られるのか。
指示を伝える男へ尋ねても。
返ってくる答えは、いつも同じだった。
『現時点では回答できません』
ティーはベッドから下り、左手を前へ出した。
指を決められた形へ動かす。
青白い光が走り。
透き通った基部が、空中へ組み上がる。
その上へ、白い立体キーが一つずつ現れた。
<CLIENT UNIT>
両手を置き、STATUSを開く。
<NIGHT SHIFT:STANDBY>
<NEW MISSION:NONE>
現在、発行されている仕事はない。
いつ呼び出されるのかはわからない。
けれど。
呼び出されるまでは、何をしてもよい。
クライアントユニットの上空へ、自分で作った予定表を展開した。
<午前>
<中央市場>
<昼食>
<ブロックNo.1初心者案内>
<午後>
<未定>
まだ、予定と呼べるほどのものではない。
中央市場へ行き。
何かを食べ。
その後は、その時に考える。
けれど。
最初の日のティーには、その程度の予定さえなかった。
どこへ行けばよいのか。
何をすればよいのか。
誰に話しかけてよいのか。
何もわからず、噴水の前に座っていた。
今は。
少なくとも、自分で行き先を決められる。
ティーはクライアントユニットを収納した。
白いキーが光の粒へ変わり。
青い基部も輪郭を失う。
入口の横へ置いてある、小さな透明の容器を手に取った。
数日前。
市場で買った飲み物の容器だった。
捨てる必要はないと知り、今は小物入れとして使っている。
部屋に最初からあったものではない。
誰かから与えられたものでもない。
自分で選び。
自分で買った。
それだけの物だ。
けれど。
何もなかった部屋の中では、その容器だけがティー自身の選択で置かれていた。
「行ってきます」
返事をする人はいない。
それでも最近は、部屋を出る前にそう言うようになっていた。
正確には。
ティーがクライアントユニットの日付を見ながら、そう数えているだけだった。
目覚める以前の日時はわからない。
現実で最後に何月何日を過ごしていたのかも。
自分が、どれほどの時間を失っているのかも知らない。
だから今のティーにとっては、だんのこまちで迎えた朝だけが、確かに数えられる時間だった。
住宅区N-07。
与えられた部屋の窓から、朝の光が差し込んでいる。
ティーはベッドから身体を起こすと、最初に窓ガラスへ映る自分の顔を見た。
銀色の髪。
猫の耳。
白い上着。
そして、青い瞳。
「今日も戻ってる」
夜間権限を稼働させた時だけ現れる、黄色い光は残っていない。
そのことを確認すると、少しだけ肩の力が抜けた。
最初の任務以降。
ミッションは二度、発行された。
一度は、商業区に作られた不正な転送経路の閉鎖。
もう一度は、警告を無視して他人の個人空間へ侵入し続けていた利用者へのタイムアウト処理。
どちらも、最初の夜ほど激しい戦闘にはならなかった。
ハンドガンを抜くことも。
ナイフを使うこともなかった。
クライアントユニットを展開し。
現場の記録を確認し。
表示された命令を入力する。
必要であれば、対象へ警告を送る。
それでも止まらない場合に限り、権限を実行する。
少しずつ。
仕事の流れだけは、わかり始めていた。
その一方で。
自分が何をしているのかという疑問は、何も解決していない。
クライアントユニットは、どのような組織が作ったものなのか。
黄色い瞳は、なぜ自分に与えられたのか。
通常の管理者では対処できない問題へ、なぜ記憶のない自分が送られるのか。
指示を伝える男へ尋ねても。
返ってくる答えは、いつも同じだった。
『現時点では回答できません』
ティーはベッドから下り、左手を前へ出した。
指を決められた形へ動かす。
青白い光が走り。
透き通った基部が、空中へ組み上がる。
その上へ、白い立体キーが一つずつ現れた。
<CLIENT UNIT>
両手を置き、STATUSを開く。
<NIGHT SHIFT:STANDBY>
<NEW MISSION:NONE>
現在、発行されている仕事はない。
いつ呼び出されるのかはわからない。
けれど。
呼び出されるまでは、何をしてもよい。
クライアントユニットの上空へ、自分で作った予定表を展開した。
<午前>
<中央市場>
<昼食>
<ブロックNo.1初心者案内>
<午後>
<未定>
まだ、予定と呼べるほどのものではない。
中央市場へ行き。
何かを食べ。
その後は、その時に考える。
けれど。
最初の日のティーには、その程度の予定さえなかった。
どこへ行けばよいのか。
何をすればよいのか。
誰に話しかけてよいのか。
何もわからず、噴水の前に座っていた。
今は。
少なくとも、自分で行き先を決められる。
ティーはクライアントユニットを収納した。
白いキーが光の粒へ変わり。
青い基部も輪郭を失う。
入口の横へ置いてある、小さな透明の容器を手に取った。
数日前。
市場で買った飲み物の容器だった。
捨てる必要はないと知り、今は小物入れとして使っている。
部屋に最初からあったものではない。
誰かから与えられたものでもない。
自分で選び。
自分で買った。
それだけの物だ。
けれど。
何もなかった部屋の中では、その容器だけがティー自身の選択で置かれていた。
「行ってきます」
返事をする人はいない。
それでも最近は、部屋を出る前にそう言うようになっていた。
猫のティー
住宅区から中央区画へ向かう道は、もう地図を開かなくても歩ける。
角を二つ曲がり。
小さな水路を渡る。
朝だけ営業している屋台の前を通り。
交通ターミナルから、中央区画行きの車両へ乗る。
最初の日。
乗車認証の方法がわからず、後ろの利用者を長く待たせてしまった。
二日目。
降りる場所を一つ間違えた。
三日目には。
ようやく地図を閉じたまま、中央区画へ着けるようになった。
車両を降りると、ティーは中央市場へ向かった。
入口近くの通りには、食べ物を扱う屋台が並んでいる。
焼いた生地の香り。
甘い果実。
温かいスープ。
現実には存在しない色をした料理もあった。
ティーが近づいたのは、数日前にも利用した小さな飲料店だった。
店台の奥にいた、鹿の角を持つ女性が顔を上げる。
「あ、猫ちゃん」
「ティーです」
「そうだった。ティーちゃん」
「ちゃんは、なくても大丈夫です」
「猫ちゃんよりは近づいたでしょう?」
「それはそうですが」
店員は笑いながら、三つの容器を取り出した。
「今日はどれにする?」
淡い紫色。
薄い緑色。
透明に近い青色。
ティーは紫色を指した。
「前と同じものをお願いします」
「気に入ったんだ」
「はい」
答えた瞬間。
頭の上の猫耳が、わずかに前を向いた。
店員は、それを見逃さなかった。
「本当に好きなんだね」
「どうしてわかるんですか?」
「耳」
ティーは反射的に両耳を手で押さえた。
「動いていましたか」
「すごく」
「自分では見えないので、困ります」
「感情がわかりやすくて、かわいいじゃない」
「自分の感情を、知らない人へ表示する機能は必要ありません」
「機能って言い方するんだ」
店員は笑いながら、飲み物を用意した。
「でも、猫型のアバターを選んだのは自分でしょう?」
「それが、わからないんです」
「ああ。最近ここへ来たって言ってたね」
「はい」
細かな事情は話していない。
記憶がないことも。
ログアウトできないことも。
夜に何をしているのかも。
ただ。
最近だんのこまちで生活を始め、操作にも街にも詳しくない。
その程度に留めていた。
店員は、無理に聞こうとはしなかった。
「じゃあ今から、猫耳との付き合い方を覚えればいいよ」
「外すことはできないんですか」
「アバターの設定によるけど。見たところ、身体と一体化してるタイプじゃない?」
ティーは個人メニューから外見設定を開いた。
猫耳の項目はある。
だが、変更も解除も選べない。
<固定アバターパーツ>
「外せないようです」
「なら、もう猫でいいじゃない」
「私は人間です」
「中身はね」
店員は飲み物を渡した。
「昼間くらいは、ただの猫ちゃんでいいと思うよ」
ティーは容器を受け取った。
「夜は違うような言い方ですね」
「夜のことは知らないけど」
店員は軽く肩をすくめた。
「この辺り、夜になると雰囲気が変わるから。仕事の人も、遊ぶ人も、昼とは別の顔になるでしょう?」
ティーは少しだけ言葉に詰まった。
店員が知っているはずはない。
それでも。
昼と夜で別の姿になるという言葉は、今のティーへそのまま当てはまった。
「ティーちゃんは仕事?」
「夜に、少しだけ」
「配達?」
「近いような、遠いような」
「秘密なんだ」
「私にも、よくわかっていません」
店員は不思議そうにしたが、それ以上は聞かなかった。
「まあ、昼間は楽しんでいきなよ。ここは遊ぶ場所には困らないから」
「遊ぶ……」
ティーは、その言葉を繰り返した。
自分を調べる。
クライアントユニットを調べる。
夜間任務の正体を探す。
日中の時間も、ほとんどをそのために使ってきた。
遊ぶために街へ出たことはない。
「遊び方が、よくわかりません」
「それは重症だね」
店員は中央広場の方を指した。
「今日は初心者向けの街歩きイベントをやってるよ。まずは、誰かに決めてもらった遊び方を試してみたら?」
「誰かに決めてもらうんですか」
「最初だけね。合わなかったら、次からやらなければいい」
夜の指示とは違う。
従わなければならないものではない。
途中でやめても。
誰かが困るわけではない。
ティーは中央広場へ目を向けた。
「行ってみます」
「その方がいい」
店員が笑う。
「耳も、また前を向いてるし」
ティーは、もう一度両耳を押さえた。
角を二つ曲がり。
小さな水路を渡る。
朝だけ営業している屋台の前を通り。
交通ターミナルから、中央区画行きの車両へ乗る。
最初の日。
乗車認証の方法がわからず、後ろの利用者を長く待たせてしまった。
二日目。
降りる場所を一つ間違えた。
三日目には。
ようやく地図を閉じたまま、中央区画へ着けるようになった。
車両を降りると、ティーは中央市場へ向かった。
入口近くの通りには、食べ物を扱う屋台が並んでいる。
焼いた生地の香り。
甘い果実。
温かいスープ。
現実には存在しない色をした料理もあった。
ティーが近づいたのは、数日前にも利用した小さな飲料店だった。
店台の奥にいた、鹿の角を持つ女性が顔を上げる。
「あ、猫ちゃん」
「ティーです」
「そうだった。ティーちゃん」
「ちゃんは、なくても大丈夫です」
「猫ちゃんよりは近づいたでしょう?」
「それはそうですが」
店員は笑いながら、三つの容器を取り出した。
「今日はどれにする?」
淡い紫色。
薄い緑色。
透明に近い青色。
ティーは紫色を指した。
「前と同じものをお願いします」
「気に入ったんだ」
「はい」
答えた瞬間。
頭の上の猫耳が、わずかに前を向いた。
店員は、それを見逃さなかった。
「本当に好きなんだね」
「どうしてわかるんですか?」
「耳」
ティーは反射的に両耳を手で押さえた。
「動いていましたか」
「すごく」
「自分では見えないので、困ります」
「感情がわかりやすくて、かわいいじゃない」
「自分の感情を、知らない人へ表示する機能は必要ありません」
「機能って言い方するんだ」
店員は笑いながら、飲み物を用意した。
「でも、猫型のアバターを選んだのは自分でしょう?」
「それが、わからないんです」
「ああ。最近ここへ来たって言ってたね」
「はい」
細かな事情は話していない。
記憶がないことも。
ログアウトできないことも。
夜に何をしているのかも。
ただ。
最近だんのこまちで生活を始め、操作にも街にも詳しくない。
その程度に留めていた。
店員は、無理に聞こうとはしなかった。
「じゃあ今から、猫耳との付き合い方を覚えればいいよ」
「外すことはできないんですか」
「アバターの設定によるけど。見たところ、身体と一体化してるタイプじゃない?」
ティーは個人メニューから外見設定を開いた。
猫耳の項目はある。
だが、変更も解除も選べない。
<固定アバターパーツ>
「外せないようです」
「なら、もう猫でいいじゃない」
「私は人間です」
「中身はね」
店員は飲み物を渡した。
「昼間くらいは、ただの猫ちゃんでいいと思うよ」
ティーは容器を受け取った。
「夜は違うような言い方ですね」
「夜のことは知らないけど」
店員は軽く肩をすくめた。
「この辺り、夜になると雰囲気が変わるから。仕事の人も、遊ぶ人も、昼とは別の顔になるでしょう?」
ティーは少しだけ言葉に詰まった。
店員が知っているはずはない。
それでも。
昼と夜で別の姿になるという言葉は、今のティーへそのまま当てはまった。
「ティーちゃんは仕事?」
「夜に、少しだけ」
「配達?」
「近いような、遠いような」
「秘密なんだ」
「私にも、よくわかっていません」
店員は不思議そうにしたが、それ以上は聞かなかった。
「まあ、昼間は楽しんでいきなよ。ここは遊ぶ場所には困らないから」
「遊ぶ……」
ティーは、その言葉を繰り返した。
自分を調べる。
クライアントユニットを調べる。
夜間任務の正体を探す。
日中の時間も、ほとんどをそのために使ってきた。
遊ぶために街へ出たことはない。
「遊び方が、よくわかりません」
「それは重症だね」
店員は中央広場の方を指した。
「今日は初心者向けの街歩きイベントをやってるよ。まずは、誰かに決めてもらった遊び方を試してみたら?」
「誰かに決めてもらうんですか」
「最初だけね。合わなかったら、次からやらなければいい」
夜の指示とは違う。
従わなければならないものではない。
途中でやめても。
誰かが困るわけではない。
ティーは中央広場へ目を向けた。
「行ってみます」
「その方がいい」
店員が笑う。
「耳も、また前を向いてるし」
ティーは、もう一度両耳を押さえた。
遊び方を知らない
中央広場では、街歩きイベントの受付が行われていた。
<だんのこまち・はじめて散策>
<ブロックNo.1の施設を巡り、五つの記録を集めよう>
子ども向けにも見える。
だが、受付には大人の利用者も並んでいた。
長期間利用していても、普段行かない場所を知るために参加する人がいるらしい。
「お一人ですか?」
受付の男性が尋ねた。
「はい」
「初参加?」
「この街自体、ほとんど初めてです」
「なら、ちょうどいいですね」
ティーの個人メニューへ、簡単な記録表が送られる。
五つの場所を巡る。
順番は自由。
移動方法も自由。
途中で別の場所へ寄っても構わない。
すべて集めても、特別な報酬があるわけではない。
小さな記念印が残るだけだった。
「何のために集めるんですか」
ティーが尋ねると、受付の男性は少し考えた。
「集めるのが楽しい人もいます」
「それ以外の人は?」
「途中で見つけたものを楽しむんじゃないですか?」
「見つけたもの」
「店でも。景色でも。人でも」
曖昧な説明だった。
ミッションなら。
目的。
対象。
処理方法。
終了条件。
すべて明確に表示される。
このイベントには。
急ぐ理由も。
失敗する条件もない。
ティーは、自分の記録表を見た。
最初の場所は、中央区画の空中遊歩道。
歩いて向かうことにした。
空中遊歩道は、建物と建物の間をつなぐ透明な道だった。
足元の下には、街が小さく見える。
車両の光。
歩く人々。
広場の噴水。
高い場所へ慣れていない利用者のために、落下防止の保護がある。
危険はない。
それでも。
足元が透けているだけで、身体はわずかに緊張した。
「怖い?」
近くから声をかけられた。
小さな鳥の姿をした子どもだった。
隣には、同じイベント用の記録表が浮かんでいる。
「少しだけです」
「猫なのに?」
「猫は、高い場所が怖くないんですか?」
「知らない」
「では、関係ありません」
子どもは笑った。
「向こうの浮く床、やった?」
遊歩道の途中には、複数の四角い足場が浮いている。
足を乗せると少し沈み。
別の場所へ移動する。
順番に渡れば、遊歩道の反対側へ短く移動できる仕組みだった。
普通に歩けば済む。
使う必要はない。
「まだです」
「一緒にやろう」
「私は、こういうものに慣れていません」
「落ちても戻されるだけだよ」
夜の任務で床が崩れた時。
落下しながら銃を撃ったことを思い出した。
あの時とは違う。
落ちても。
誰かに撃たれることはない。
失敗しても、笑って戻ればよいだけだ。
「わかりました」
二人で最初の足場へ乗る。
足元が沈んだ。
次の瞬間。
身体が上へ持ち上げられる。
「っ……!」
ティーは反射的に姿勢を低くした。
二つ目の足場へ着地する。
足の裏が触れた瞬間。
身体が勝手に衝撃を逃がした。
膝を曲げ。
片手をつき。
揺れる足場の中央へ重心を戻す。
ほとんど考えていなかった。
「すごい!」
鳥の子どもが、隣の足場から声を上げる。
「初めてじゃないの?」
「初めてのはずです」
「猫だから?」
「先ほども言われましたが、猫だからできたのかはわかりません」
三つ目。
今度は、少し遠い。
ティーは足場が浮き上がる瞬間に合わせて跳んだ。
空中で身体をひねり。
次の足場へ向きを合わせる。
着地。
ほとんど揺れない。
その動きも。
身体が先に知っていた。
夜の戦闘ほど鋭くはない。
権限も稼働していない。
瞳も青いまま。
それでも。
身体の使い方の一部は、日中にも残っている。
最後の足場へ渡る。
鳥の子どもも、少し遅れて到着した。
「勝ったね」
「競争だったんですか?」
「今決めた」
「それでは、勝ったことにはならないと思います」
「でも、先に着いた」
「それは事実です」
子どもが笑う。
ティーも。
気づけば、少しだけ笑っていた。
何かを達成したからではない。
勝利条件を満たしたからでもない。
意味のない競争へ、意味のない言い合いをした。
それが。
思っていたよりも楽しかった。
最初の記録地点へ触れる。
<CHECKPOINT:1/5>
小さな音。
それだけだった。
「次はどこ?」
鳥の子どもが尋ねる。
「川辺へ行きます」
「僕は宇宙フィールド!」
「遠いですね」
「遊びだから!」
子どもは手を振り、別の転送口へ走っていった。
ティーも小さく手を振り返した。
名前は聞かなかった。
もう一度会うかもわからない。
それでも。
同じ時間を遊んだ相手だった。
<だんのこまち・はじめて散策>
<ブロックNo.1の施設を巡り、五つの記録を集めよう>
子ども向けにも見える。
だが、受付には大人の利用者も並んでいた。
長期間利用していても、普段行かない場所を知るために参加する人がいるらしい。
「お一人ですか?」
受付の男性が尋ねた。
「はい」
「初参加?」
「この街自体、ほとんど初めてです」
「なら、ちょうどいいですね」
ティーの個人メニューへ、簡単な記録表が送られる。
五つの場所を巡る。
順番は自由。
移動方法も自由。
途中で別の場所へ寄っても構わない。
すべて集めても、特別な報酬があるわけではない。
小さな記念印が残るだけだった。
「何のために集めるんですか」
ティーが尋ねると、受付の男性は少し考えた。
「集めるのが楽しい人もいます」
「それ以外の人は?」
「途中で見つけたものを楽しむんじゃないですか?」
「見つけたもの」
「店でも。景色でも。人でも」
曖昧な説明だった。
ミッションなら。
目的。
対象。
処理方法。
終了条件。
すべて明確に表示される。
このイベントには。
急ぐ理由も。
失敗する条件もない。
ティーは、自分の記録表を見た。
最初の場所は、中央区画の空中遊歩道。
歩いて向かうことにした。
空中遊歩道は、建物と建物の間をつなぐ透明な道だった。
足元の下には、街が小さく見える。
車両の光。
歩く人々。
広場の噴水。
高い場所へ慣れていない利用者のために、落下防止の保護がある。
危険はない。
それでも。
足元が透けているだけで、身体はわずかに緊張した。
「怖い?」
近くから声をかけられた。
小さな鳥の姿をした子どもだった。
隣には、同じイベント用の記録表が浮かんでいる。
「少しだけです」
「猫なのに?」
「猫は、高い場所が怖くないんですか?」
「知らない」
「では、関係ありません」
子どもは笑った。
「向こうの浮く床、やった?」
遊歩道の途中には、複数の四角い足場が浮いている。
足を乗せると少し沈み。
別の場所へ移動する。
順番に渡れば、遊歩道の反対側へ短く移動できる仕組みだった。
普通に歩けば済む。
使う必要はない。
「まだです」
「一緒にやろう」
「私は、こういうものに慣れていません」
「落ちても戻されるだけだよ」
夜の任務で床が崩れた時。
落下しながら銃を撃ったことを思い出した。
あの時とは違う。
落ちても。
誰かに撃たれることはない。
失敗しても、笑って戻ればよいだけだ。
「わかりました」
二人で最初の足場へ乗る。
足元が沈んだ。
次の瞬間。
身体が上へ持ち上げられる。
「っ……!」
ティーは反射的に姿勢を低くした。
二つ目の足場へ着地する。
足の裏が触れた瞬間。
身体が勝手に衝撃を逃がした。
膝を曲げ。
片手をつき。
揺れる足場の中央へ重心を戻す。
ほとんど考えていなかった。
「すごい!」
鳥の子どもが、隣の足場から声を上げる。
「初めてじゃないの?」
「初めてのはずです」
「猫だから?」
「先ほども言われましたが、猫だからできたのかはわかりません」
三つ目。
今度は、少し遠い。
ティーは足場が浮き上がる瞬間に合わせて跳んだ。
空中で身体をひねり。
次の足場へ向きを合わせる。
着地。
ほとんど揺れない。
その動きも。
身体が先に知っていた。
夜の戦闘ほど鋭くはない。
権限も稼働していない。
瞳も青いまま。
それでも。
身体の使い方の一部は、日中にも残っている。
最後の足場へ渡る。
鳥の子どもも、少し遅れて到着した。
「勝ったね」
「競争だったんですか?」
「今決めた」
「それでは、勝ったことにはならないと思います」
「でも、先に着いた」
「それは事実です」
子どもが笑う。
ティーも。
気づけば、少しだけ笑っていた。
何かを達成したからではない。
勝利条件を満たしたからでもない。
意味のない競争へ、意味のない言い合いをした。
それが。
思っていたよりも楽しかった。
最初の記録地点へ触れる。
<CHECKPOINT:1/5>
小さな音。
それだけだった。
「次はどこ?」
鳥の子どもが尋ねる。
「川辺へ行きます」
「僕は宇宙フィールド!」
「遠いですね」
「遊びだから!」
子どもは手を振り、別の転送口へ走っていった。
ティーも小さく手を振り返した。
名前は聞かなかった。
もう一度会うかもわからない。
それでも。
同じ時間を遊んだ相手だった。
川辺フィールド
記録地点の一つは、Gフィールドの川辺にあった。
中央区画の転送口から移動すると。
高い建物も。
立体広告も。
大勢の利用者も、視界から消えた。
代わりに広がっていたのは、緩やかに流れる川と、両側へ続く草地だった。
少し離れた場所には林がある。
水面の上を、小さな光の粒が流れている。
現実の自然を再現した場所なのか。
この世界だけの景色なのか。
ティーには判断できない。
けれど。
中央区画より、猫の耳へ入る音が少なかった。
川の流れ。
風。
葉の擦れる音。
遠くを歩く利用者の話し声。
それぞれを、別の音として聞き分けられる。
「静か」
その一言が。
自然に口から出た。
記録地点は、川沿いの小さな橋にある。
急ぐ必要はない。
ティーは地図を閉じた。
草地の道を歩く。
途中。
一匹の小さな猫が、道の端に座っていた。
利用者のアバターではない。
このフィールドで生活するよう設定された、小型の生物らしい。
灰色の毛。
丸い目。
ティーが近づくと。
猫も、頭の上の耳へ視線を向けた。
互いに。
しばらく見つめ合う。
「私は、あなたの仲間ではありません」
猫は返事をしない。
一歩、近づいてきた。
ティーはしゃがんだ。
手を伸ばす。
猫は逃げず。
指先の匂いを確かめるように鼻を近づけた。
そのまま、手のひらへ頭を擦りつける。
柔らかな毛。
小さな体温。
この世界で作られた感覚だ。
それでも。
手へ返ってくるものは、十分に本物らしかった。
「猫が猫を撫でてる」
散歩中の利用者が、少し離れたところから言った。
「私は猫ではありません」
「耳があるけど」
「アバターです」
「その子も、この世界の猫だよ」
「……それは、そうですね」
言い返せなかった。
利用者は笑いながら通り過ぎた。
ティーは、もう一度猫を見る。
猫は何も気にせず、手へ身体を寄せている。
「日中だけなら」
誰へ聞かせるでもなく呟いた。
「猫でも、困らないのかもしれません」
猫の耳が動く。
ティーの耳も。
同じ方向から聞こえた鳥の声へ、同時に向いた。
そのことが少し可笑しくて。
今度は、自分から笑った。
中央区画の転送口から移動すると。
高い建物も。
立体広告も。
大勢の利用者も、視界から消えた。
代わりに広がっていたのは、緩やかに流れる川と、両側へ続く草地だった。
少し離れた場所には林がある。
水面の上を、小さな光の粒が流れている。
現実の自然を再現した場所なのか。
この世界だけの景色なのか。
ティーには判断できない。
けれど。
中央区画より、猫の耳へ入る音が少なかった。
川の流れ。
風。
葉の擦れる音。
遠くを歩く利用者の話し声。
それぞれを、別の音として聞き分けられる。
「静か」
その一言が。
自然に口から出た。
記録地点は、川沿いの小さな橋にある。
急ぐ必要はない。
ティーは地図を閉じた。
草地の道を歩く。
途中。
一匹の小さな猫が、道の端に座っていた。
利用者のアバターではない。
このフィールドで生活するよう設定された、小型の生物らしい。
灰色の毛。
丸い目。
ティーが近づくと。
猫も、頭の上の耳へ視線を向けた。
互いに。
しばらく見つめ合う。
「私は、あなたの仲間ではありません」
猫は返事をしない。
一歩、近づいてきた。
ティーはしゃがんだ。
手を伸ばす。
猫は逃げず。
指先の匂いを確かめるように鼻を近づけた。
そのまま、手のひらへ頭を擦りつける。
柔らかな毛。
小さな体温。
この世界で作られた感覚だ。
それでも。
手へ返ってくるものは、十分に本物らしかった。
「猫が猫を撫でてる」
散歩中の利用者が、少し離れたところから言った。
「私は猫ではありません」
「耳があるけど」
「アバターです」
「その子も、この世界の猫だよ」
「……それは、そうですね」
言い返せなかった。
利用者は笑いながら通り過ぎた。
ティーは、もう一度猫を見る。
猫は何も気にせず、手へ身体を寄せている。
「日中だけなら」
誰へ聞かせるでもなく呟いた。
「猫でも、困らないのかもしれません」
猫の耳が動く。
ティーの耳も。
同じ方向から聞こえた鳥の声へ、同時に向いた。
そのことが少し可笑しくて。
今度は、自分から笑った。
何もない時間
川辺の記録地点へ触れる。
<CHECKPOINT:2/5>
そのあと。
ティーは次の場所へ向かわなかった。
川の近くへ座り。
市場で買った飲み物を開いた。
淡い紫色。
甘さのあとに、少しだけ酸味が残る。
今の自分が好きだと決めた味。
隣には、先ほどの猫が座っている。
何をするでもない。
水を見る。
飲み物を飲む。
猫が眠るのを眺める。
クライアントユニットを開けば。
任務の記録を読み返せる。
検索をすれば。
自分の正体につながる情報を探せる。
だが。
今は、開かなかった。
「自由時間」
指示を伝える男は、そう呼んだ。
初めは。
次の任務まで待たされるだけの時間だと思っていた。
何かをしてよいのではなく。
何もする必要がないだけの空白。
けれど。
空白へ何を置くのかは、自分で決められる。
川辺へ来たことも。
飲み物を選んだことも。
猫の隣へ座っていることも。
誰かから与えられた命令ではない。
目的がない時間は。
役に立たない時間ではなかった。
猫が立ち上がった。
一度だけティーの足へ身体を擦りつけ。
草地の向こうへ歩いていく。
呼び止める理由はない。
ティーは、その姿が見えなくなるまで見送った。
「また」
会う約束もない相手へ。
小さく声をかけた。
<CHECKPOINT:2/5>
そのあと。
ティーは次の場所へ向かわなかった。
川の近くへ座り。
市場で買った飲み物を開いた。
淡い紫色。
甘さのあとに、少しだけ酸味が残る。
今の自分が好きだと決めた味。
隣には、先ほどの猫が座っている。
何をするでもない。
水を見る。
飲み物を飲む。
猫が眠るのを眺める。
クライアントユニットを開けば。
任務の記録を読み返せる。
検索をすれば。
自分の正体につながる情報を探せる。
だが。
今は、開かなかった。
「自由時間」
指示を伝える男は、そう呼んだ。
初めは。
次の任務まで待たされるだけの時間だと思っていた。
何かをしてよいのではなく。
何もする必要がないだけの空白。
けれど。
空白へ何を置くのかは、自分で決められる。
川辺へ来たことも。
飲み物を選んだことも。
猫の隣へ座っていることも。
誰かから与えられた命令ではない。
目的がない時間は。
役に立たない時間ではなかった。
猫が立ち上がった。
一度だけティーの足へ身体を擦りつけ。
草地の向こうへ歩いていく。
呼び止める理由はない。
ティーは、その姿が見えなくなるまで見送った。
「また」
会う約束もない相手へ。
小さく声をかけた。
昼の記録
数日が過ぎた。
ティーは、毎日同じ場所へ行ったわけではない。
大森林フィールドの入口まで足を運び。
初心者向けの散策路だけを歩いた日。
海上フィールドの展望施設から、遠くの水面を眺めた日。
中央区画の小さなゲーム施設で、光る板を踏むだけの遊びに参加した日。
広場で行われていた演奏を、最後まで聞いた日。
何もせず。
住宅区の周りだけを歩いて戻った日もあった。
夜間任務は、その間に一度だけ発行された。
公共区画へ大量の偽装広告を流していた利用者のアクセス停止。
銃を使うことはなかった。
黄色い瞳で、不正な経路を探し。
クライアントユニットへ命令を入力する。
任務が終わると。
暗い装備は消え。
瞳は青へ戻った。
そして、朝になれば。
ティーは再び白い服で街を歩いた。
中央市場の店員は、姿を見つけると紫色の飲み物を用意するようになった。
「いつもの?」
「はい」
「耳を見なくても、わかるようになったよ」
「最初から、その方がよかったです」
散策イベントの記録は、まだ三つしか集まっていない。
五つすべてを急いで集める必要がないと気づいたからだ。
次の場所へ行きたくなった時に。
一つずつ増やせばよい。
街ですれ違う人々にとって。
ティーは、特別な存在ではなかった。
白い服を着た。
銀髪の猫耳の少女。
市場で飲み物を買い。
地図を見ながら、ときどき道を間違える。
遊び方に慣れていない。
ただの利用者。
夜の姿を知る人はいない。
黄色い瞳も。
ハンドガンも。
クライアントユニットも。
昼の街では、すべて隠れている。
日中のティーは。
猫である。
少なくとも。
周囲の人々からは、その程度にしか見えていなかった。
そしてティー自身も。
その程度の存在として過ごせる時間を、少しずつ気に入り始めていた。
ティーは、毎日同じ場所へ行ったわけではない。
大森林フィールドの入口まで足を運び。
初心者向けの散策路だけを歩いた日。
海上フィールドの展望施設から、遠くの水面を眺めた日。
中央区画の小さなゲーム施設で、光る板を踏むだけの遊びに参加した日。
広場で行われていた演奏を、最後まで聞いた日。
何もせず。
住宅区の周りだけを歩いて戻った日もあった。
夜間任務は、その間に一度だけ発行された。
公共区画へ大量の偽装広告を流していた利用者のアクセス停止。
銃を使うことはなかった。
黄色い瞳で、不正な経路を探し。
クライアントユニットへ命令を入力する。
任務が終わると。
暗い装備は消え。
瞳は青へ戻った。
そして、朝になれば。
ティーは再び白い服で街を歩いた。
中央市場の店員は、姿を見つけると紫色の飲み物を用意するようになった。
「いつもの?」
「はい」
「耳を見なくても、わかるようになったよ」
「最初から、その方がよかったです」
散策イベントの記録は、まだ三つしか集まっていない。
五つすべてを急いで集める必要がないと気づいたからだ。
次の場所へ行きたくなった時に。
一つずつ増やせばよい。
街ですれ違う人々にとって。
ティーは、特別な存在ではなかった。
白い服を着た。
銀髪の猫耳の少女。
市場で飲み物を買い。
地図を見ながら、ときどき道を間違える。
遊び方に慣れていない。
ただの利用者。
夜の姿を知る人はいない。
黄色い瞳も。
ハンドガンも。
クライアントユニットも。
昼の街では、すべて隠れている。
日中のティーは。
猫である。
少なくとも。
周囲の人々からは、その程度にしか見えていなかった。
そしてティー自身も。
その程度の存在として過ごせる時間を、少しずつ気に入り始めていた。
見つからないもの
遊ぶことを覚えても。
自分を調べることをやめたわけではない。
午後。
ティーは中央区画の公共資料館へ向かった。
高い天井。
宙に並ぶ無数の情報棚。
閲覧中の利用者がいるため、館内の音は小さく抑えられている。
検索台へ座る。
以前より、操作は速くなった。
<クライアントユニット>
検索。
<該当する公開情報はありません>
<CLIENT VISUAL LINK>
検索。
一般的な視覚補助装置。
ゲーム内スキル。
アバター演出。
どれも、黄色い瞳や夜間権限とは関係がない。
<利用者の強制退出>
運営会社。
サーバー管理者。
各施設の責任者。
公開されている権限の説明は見つかる。
けれど。
どれもティーが行った処理とは違う。
通常の管理者では対処できない対象。
標準処理を回避する違反者。
非公開の端末。
その存在を示す情報は、どこにもなかった。
次に。
<T>
検索結果は多すぎて意味を持たない。
一文字の名前。
頭文字。
チーム名。
アイテムの型番。
ティー自身へつながる情報はない。
検索画面を閉じる。
何度調べても。
同じ場所へ戻ってくる。
指示者は、自分について調べても構わないと言った。
止める必要がないほど。
公開された場所には、何も残されていないのかもしれない。
ティーは、近くの案内係へ声をかけた。
「少し、尋ねてもよいですか」
「どうぞ」
案内係は、古い司書のような姿をした女性だった。
「公開情報に存在しない仕事について、調べる方法はありますか」
「仕事の名前は?」
「わかりません」
「所属する会社や団体は?」
「それも、わかりません」
「仕事内容は?」
ティーは迷った。
違反者。
強制退出。
夜間任務。
クライアントユニット。
どこまで話してよいのかわからない。
「夜に行われる、街の問題への対処です」
「警備や管理ですか?」
「近いと思います」
「公式の業務なら、管理区画の資料が出るはずですね」
「出ませんでした」
案内係は少し考えた。
「公開されていない仕事については、ここで調べられることにも限界があります」
「では、どこなら?」
「その仕事を知っている人へ聞くしかないでしょうね」
「知っている人が誰なのかも、わかりません」
「夜の仕事なら、夜に働いている人たちへ聞くのが早いかもしれません」
「夜の街で、知らない人へ尋ねるんですか」
「いきなり仕事の秘密を聞いても、答えてはくれないでしょう」
女性は少し笑った。
「まず、話せる場所を見つけることです」
「話せる場所」
「夜の飲食店や酒場には、さまざまな業界の人が集まります。昼の案内所へ残らない話も、人の会話には残っていますから」
ティーは、案内係の言葉を考えた。
夜の街。
最初の任務で向かった東部商業区。
大通りには、多くの店があった。
音楽。
光。
人々の声。
あの時は、任務の経路しか見ていなかった。
目的地以外の店へ入ろうとも思わなかった。
「酒場は、お酒を飲む場所ではないんですか」
「もちろん、それが中心です」
案内係は答える。
「でも、話をするために通う人もいます」
「私は、何を飲めばよいのかわかりません」
「飲み物は、お酒だけではありませんよ」
それを聞き。
少しだけ安心した。
「夜の店について、案内資料はありますか」
「一般公開されている範囲なら」
夜間営業の店舗一覧が表示された。
飲食店。
音楽施設。
酒場。
ラウンジ。
数え切れないほど並んでいる。
どこへ行けばよいのかは、やはりわからない。
「夜に働く人が多い場所を探したいなら」
案内係が検索条件を追加した。
<静かな会話>
<深夜営業>
<東部商業区>
華やかな大型店が消え。
小さな店舗が残る。
その中の一つ。
暗い赤色の印がついた店があった。
<MIDRED>
説明は短い。
<夜間営業>
<バー・ラウンジ>
<一般利用可>
それだけだった。
口コミも。
店内の画像も、ほとんどない。
「情報が少ないですね」
「長く営業している店ほど、宣伝をあまり出さないこともあります」
「安全な店ですか」
「公開されている違反記録はありません」
最低限。
入ってはいけない場所ではないらしい。
ティーは店の位置を自分の地図へ保存した。
自分を調べることをやめたわけではない。
午後。
ティーは中央区画の公共資料館へ向かった。
高い天井。
宙に並ぶ無数の情報棚。
閲覧中の利用者がいるため、館内の音は小さく抑えられている。
検索台へ座る。
以前より、操作は速くなった。
<クライアントユニット>
検索。
<該当する公開情報はありません>
<CLIENT VISUAL LINK>
検索。
一般的な視覚補助装置。
ゲーム内スキル。
アバター演出。
どれも、黄色い瞳や夜間権限とは関係がない。
<利用者の強制退出>
運営会社。
サーバー管理者。
各施設の責任者。
公開されている権限の説明は見つかる。
けれど。
どれもティーが行った処理とは違う。
通常の管理者では対処できない対象。
標準処理を回避する違反者。
非公開の端末。
その存在を示す情報は、どこにもなかった。
次に。
<T>
検索結果は多すぎて意味を持たない。
一文字の名前。
頭文字。
チーム名。
アイテムの型番。
ティー自身へつながる情報はない。
検索画面を閉じる。
何度調べても。
同じ場所へ戻ってくる。
指示者は、自分について調べても構わないと言った。
止める必要がないほど。
公開された場所には、何も残されていないのかもしれない。
ティーは、近くの案内係へ声をかけた。
「少し、尋ねてもよいですか」
「どうぞ」
案内係は、古い司書のような姿をした女性だった。
「公開情報に存在しない仕事について、調べる方法はありますか」
「仕事の名前は?」
「わかりません」
「所属する会社や団体は?」
「それも、わかりません」
「仕事内容は?」
ティーは迷った。
違反者。
強制退出。
夜間任務。
クライアントユニット。
どこまで話してよいのかわからない。
「夜に行われる、街の問題への対処です」
「警備や管理ですか?」
「近いと思います」
「公式の業務なら、管理区画の資料が出るはずですね」
「出ませんでした」
案内係は少し考えた。
「公開されていない仕事については、ここで調べられることにも限界があります」
「では、どこなら?」
「その仕事を知っている人へ聞くしかないでしょうね」
「知っている人が誰なのかも、わかりません」
「夜の仕事なら、夜に働いている人たちへ聞くのが早いかもしれません」
「夜の街で、知らない人へ尋ねるんですか」
「いきなり仕事の秘密を聞いても、答えてはくれないでしょう」
女性は少し笑った。
「まず、話せる場所を見つけることです」
「話せる場所」
「夜の飲食店や酒場には、さまざまな業界の人が集まります。昼の案内所へ残らない話も、人の会話には残っていますから」
ティーは、案内係の言葉を考えた。
夜の街。
最初の任務で向かった東部商業区。
大通りには、多くの店があった。
音楽。
光。
人々の声。
あの時は、任務の経路しか見ていなかった。
目的地以外の店へ入ろうとも思わなかった。
「酒場は、お酒を飲む場所ではないんですか」
「もちろん、それが中心です」
案内係は答える。
「でも、話をするために通う人もいます」
「私は、何を飲めばよいのかわかりません」
「飲み物は、お酒だけではありませんよ」
それを聞き。
少しだけ安心した。
「夜の店について、案内資料はありますか」
「一般公開されている範囲なら」
夜間営業の店舗一覧が表示された。
飲食店。
音楽施設。
酒場。
ラウンジ。
数え切れないほど並んでいる。
どこへ行けばよいのかは、やはりわからない。
「夜に働く人が多い場所を探したいなら」
案内係が検索条件を追加した。
<静かな会話>
<深夜営業>
<東部商業区>
華やかな大型店が消え。
小さな店舗が残る。
その中の一つ。
暗い赤色の印がついた店があった。
<MIDRED>
説明は短い。
<夜間営業>
<バー・ラウンジ>
<一般利用可>
それだけだった。
口コミも。
店内の画像も、ほとんどない。
「情報が少ないですね」
「長く営業している店ほど、宣伝をあまり出さないこともあります」
「安全な店ですか」
「公開されている違反記録はありません」
最低限。
入ってはいけない場所ではないらしい。
ティーは店の位置を自分の地図へ保存した。
昼と夜の境目
資料館を出ると。
空は夕方の色へ変わり始めていた。
中央区画の建物へ、橙色の光が当たっている。
初めて目覚めた日の色と似ている。
あの日。
ティーは、自分の銀色の髪さえ正しく認識できなかった。
今は。
夕日で毛先が淡い桃色へ見えることも。
猫の耳が感情に合わせて動くことも。
紫色の飲み物が好きなことも知っている。
失った記憶は戻っていない。
本当の名前も。
現実の顔も。
帰る場所もわからない。
それでも。
目覚めた時より。
今の自分について知っていることは増えている。
ティーは中央市場を通った。
朝の店員が、片づけを始めている。
こちらへ気づき、手を上げた。
「今日は楽しめた?」
「はい」
ティーも足を止めた。
「浮く床を渡って。川辺で猫を撫でました」
「猫同士で?」
「私は人間です」
「まだ言ってる」
店員は笑った。
「夜の予定は?」
「少し、調べものをします」
「仕事?」
「今日は、自分で決めたことです」
答えると。
猫の耳が、わずかに前を向いた。
店員は、それを見て笑う。
「じゃあ、うまくいきそうだね」
「耳で判断しないでください」
「便利なのに」
「私には不便です」
手を振り、店を離れる。
住宅区へ帰る道とは、別の方向へ歩いた。
東部商業区。
夜が深くなるほど、人が増える場所。
一度部屋へ戻り、待つこともできた。
けれど。
今日はそのまま向かうことにした。
交通車両の窓から。
夕方の街が、夜へ変わっていく。
空の色が暗くなり。
広告の光が強くなる。
大通りへ人が集まり。
昼の店が閉まり。
夜の店が扉を開く。
ティーの目は青いままだ。
クライアントユニットから、任務の通知も届いていない。
今夜は。
誰かに指示されて、夜へ向かうのではない。
自分で選んだ場所へ行く。
東部商業区で車両を降りる。
地図に保存した印へ向かう。
大通りから一本外れた路地。
初夜の任務で進んだ暗い通りとは違う。
照明は少ないが。
閉鎖されているわけではない。
小さな店の明かりが、一定の間隔で並んでいる。
その奥に。
暗い赤色の看板が見えた。
<MIDRED>
目立つほど大きくはない。
入り口の横へ。
静かに赤い光を落としているだけだった。
ティーは店の前で足を止めた。
バー。
知らない人と話す場所。
夜に働く人が集まるかもしれない場所。
ここで何を尋ねるのか。
誰へ話しかけるのか。
何を注文するのか。
まだ何も決めていない。
それでも。
資料館で検索を続けているだけでは、何も見つからなかった。
ティーは扉へ手を伸ばした。
その時。
猫の耳が、店内から聞こえる微かな声を拾った。
女性の声。
一人ではない。
穏やかな声と。
少し明るい声。
何を話しているのかまでは聞き取れない。
ティーは一度、手を止めた。
夜間権限は稼働していない。
瞳は青い。
ハンドガンも。
ナイフもない。
白い服を着た。
銀髪の猫耳の少女。
今の彼女は。
誰かを追う者ではない。
ただ、自分のことを知りたい一人の利用者だった。
「入るだけです」
最初の夜にも。
同じような言葉を自分へ言い聞かせた。
けれど今度は。
誰かに与えられた装備を身につけるためではない。
自分で選んだ扉を開くための言葉だった。
ティーは、赤い光の下で取っ手へ手をかけた。
日中は、猫である。
夜に何者になるのかは。
まだ、彼女自身にもわからなかった。
空は夕方の色へ変わり始めていた。
中央区画の建物へ、橙色の光が当たっている。
初めて目覚めた日の色と似ている。
あの日。
ティーは、自分の銀色の髪さえ正しく認識できなかった。
今は。
夕日で毛先が淡い桃色へ見えることも。
猫の耳が感情に合わせて動くことも。
紫色の飲み物が好きなことも知っている。
失った記憶は戻っていない。
本当の名前も。
現実の顔も。
帰る場所もわからない。
それでも。
目覚めた時より。
今の自分について知っていることは増えている。
ティーは中央市場を通った。
朝の店員が、片づけを始めている。
こちらへ気づき、手を上げた。
「今日は楽しめた?」
「はい」
ティーも足を止めた。
「浮く床を渡って。川辺で猫を撫でました」
「猫同士で?」
「私は人間です」
「まだ言ってる」
店員は笑った。
「夜の予定は?」
「少し、調べものをします」
「仕事?」
「今日は、自分で決めたことです」
答えると。
猫の耳が、わずかに前を向いた。
店員は、それを見て笑う。
「じゃあ、うまくいきそうだね」
「耳で判断しないでください」
「便利なのに」
「私には不便です」
手を振り、店を離れる。
住宅区へ帰る道とは、別の方向へ歩いた。
東部商業区。
夜が深くなるほど、人が増える場所。
一度部屋へ戻り、待つこともできた。
けれど。
今日はそのまま向かうことにした。
交通車両の窓から。
夕方の街が、夜へ変わっていく。
空の色が暗くなり。
広告の光が強くなる。
大通りへ人が集まり。
昼の店が閉まり。
夜の店が扉を開く。
ティーの目は青いままだ。
クライアントユニットから、任務の通知も届いていない。
今夜は。
誰かに指示されて、夜へ向かうのではない。
自分で選んだ場所へ行く。
東部商業区で車両を降りる。
地図に保存した印へ向かう。
大通りから一本外れた路地。
初夜の任務で進んだ暗い通りとは違う。
照明は少ないが。
閉鎖されているわけではない。
小さな店の明かりが、一定の間隔で並んでいる。
その奥に。
暗い赤色の看板が見えた。
<MIDRED>
目立つほど大きくはない。
入り口の横へ。
静かに赤い光を落としているだけだった。
ティーは店の前で足を止めた。
バー。
知らない人と話す場所。
夜に働く人が集まるかもしれない場所。
ここで何を尋ねるのか。
誰へ話しかけるのか。
何を注文するのか。
まだ何も決めていない。
それでも。
資料館で検索を続けているだけでは、何も見つからなかった。
ティーは扉へ手を伸ばした。
その時。
猫の耳が、店内から聞こえる微かな声を拾った。
女性の声。
一人ではない。
穏やかな声と。
少し明るい声。
何を話しているのかまでは聞き取れない。
ティーは一度、手を止めた。
夜間権限は稼働していない。
瞳は青い。
ハンドガンも。
ナイフもない。
白い服を着た。
銀髪の猫耳の少女。
今の彼女は。
誰かを追う者ではない。
ただ、自分のことを知りたい一人の利用者だった。
「入るだけです」
最初の夜にも。
同じような言葉を自分へ言い聞かせた。
けれど今度は。
誰かに与えられた装備を身につけるためではない。
自分で選んだ扉を開くための言葉だった。
ティーは、赤い光の下で取っ手へ手をかけた。
日中は、猫である。
夜に何者になるのかは。
まだ、彼女自身にもわからなかった。