カードリスト > > 第5弾 > 黄023_立花宗茂

武将名 たちばなむねしげ 西国無双
立花宗茂 統一名称:立花宗茂
   生没年:1567~1643

「宗茂が武を信じよ!
      さすれば、活路は開かれる」

高橋紹運の子で、立花道雪の婿養子。豊臣秀吉に従って九州平定に貢献し、鎮西一の剛勇・忠義をと称された。
関ヶ原の戦いでは徳川方の誘いを固辞して西軍に属し、戦後改易されたが、大坂の陣で徳川秀忠に献じた策謀を評され、旧領に復帰した。
勢力
時代 戦国
レアリティ ER
コスト 2.0
兵種 槍兵
武力 7
知力 6
特技 槍術
計略 西国無双の陣(さいごくむそうのじん) 【陣形】(発動すると陣形が設置され、その中にいる間のみ効果が発生する。陣形は同時に複数発動できない)
黄の味方の武力が上がり、兵力が徐々に回復する。
さらに自身の槍撃ダメージが上がり、対象の味方の黄熾ゲージの減少量が下がる
必要士気
効果時間 知力依存
Illust. JUNNY
声優 江越彬紀

計略内容
カテゴリ   士気   武力   知力   速度   兵力   効果時間   備考  
黄熾陣形 7 +5 - - +3%/2秒 9.2c(知力依存0.2c) 黄限定
自身槍撃ダメージ+3
黄熾ゲージ減少量低下
(最新Ver.3.0.0E)

調整履歴
修正Ver.   変更点 内容   備考  
Ver.3.0.0E 効果時間 10.0c → 9.2c -


所感
黄の戦国所属2コスト槍兵。
数値は及第点ながら、特技「槍術」は距離感を見誤った相手の迎撃や追撃における槍撃での撃破を狙いやすく小回りが効く。
後述の計略とも噛み合っており、見た目以上に優秀なスペック。

計略「西国無双の陣」は黄勢力限定の強化陣形+単体強化。
武力上昇値は必要士気の割にはやや低いが、兵力が徐々に回復するために意外と固く、特技「黄熾」を発動状態の味方であれば実質的な武力上昇値はかなり高くなる。
さらに宗茂本人は槍撃ダメージ上昇が付与され、「槍術」の効果も相まって敵兵力をガリガリと削っていける。

計略の性質上攻め向きの効果で、耐久力の上がった味方を壁に槍撃で敵兵力を削る動きがシンプルに強力。
さらに黄熾ゲージの減少量が低下するため、攻めであればゲージを大きく確保することで守城時にゲージを維持しやすくなる。
覇道を前進させにくい守勢時でも、黄熾切れによる戦力低下を防ぎやすくなるため場面を選ばず活躍させやすい。

一方で課題となるのは宗茂のスペックと計略内容。
宗茂のスペック自体は2コスト槍兵で見ると悪くはないのだが、武力が標準値なうえに黄熾・大兵・疾駆といった白兵能力を上げる特技を持っていない。
兵力が徐々に回復する効果があるとはいえ、遠距離兵種の集中砲火や高武力部隊に乱戦されると消耗状況次第ではあっさりと落とされるリスクがある。
槍撃の火力は高いものの、他兵種との同時操作はそれだけ負担も大きい。

攻守万能なカードとはいえ、宗茂をどう扱うかの要所要所の判断が求められるテクニカルな1枚。

解説
豊臣秀吉から「忠義も武勇も九州随一」、「(武勇は)東の本多忠勝並ぶ東西無双」と称された人物。

猛将高橋紹運の子として産まれ、幼少期から冷静沈着且つ温厚ながら肝が太い人物だったようである。
宗茂が齢8の時に野犬に襲われたが刀の峰打ちで撃退し、「刀は敵を討つ物であって、悪戯に犬畜生を殺すものではない」と語ったとされる。
また芝居を見ていた際、喧嘩が原因で観客同士の殺し合いが始まった。家臣は離れようと進言したが「自分達は関係ないことで、巻き込まれることは無いだろう」といい、最後まで芝居を見届けて帰ったといった逸話が残る。

1581年に齢15にて秋月種実軍のとの合戦で初陣を飾った際には、後の養父である道雪と出陣。敵軍の側面を寡兵で奇襲し、敵将の首を上げる目覚しい戦果を上げる。
同年、男児の居なかった道雪から養嗣子として迎えたいと希望される。
父・紹運も当初は断ろうとしたが、大友家の重臣である道雪の頼みを断り切れす、道雪の娘・誾千代と結婚して婿養子として立花家を継ぐ。
厳格な養父・道雪からはスパルタ教育を受けるも、すぐに順応したようでより逞しく育った。

その後も大友家を若くしてよく支え、道雪亡きあとも島津家の北進を食い止める。
そして父の死を乗り越えて籠城戦で豊臣秀吉らが到着するまで持ち堪え、奪われた城全てを鮮やかな奇襲で奪い返す大活躍を見せた。

豊臣家に臣従後は肥後国衆一揆の鎮圧や小田原征伐などで武を奮う。
朝鮮出兵では加藤清正小西行長を救援し、島津義弘と協力して李舜臣を敗死させる。

関ヶ原の合戦では西軍に参加し京極高次が籠る大津城を攻めて降伏させるも、関ヶ原合戦には遅れてしまう。
何とか本国に帰還し、黒田官兵衛や鍋島直茂らと戦い局所的な勝利を収めるも加藤清正に諭されて、開城し降伏。
改易されると暫くは清正の元に身を寄せ、その後京で僅かな家臣共に浪人生活を送るが、その才を惜しんだ徳川家康・秀忠親子によって江戸に呼び出され、1605年には御書院番頭に命じられ5000石が与えられる。

翌年は秀忠の御伽衆に命じられたほか、棚倉藩1万石(現:福島県棚倉町)の大名として復帰。
大坂冬の陣・夏の陣においては徳川方として参陣し、夏の陣では秀忠の軍事参謀として的確な助言を行い、真田信繁(幸村)の影に隠れたチートこと毛利勝永を撃退するといった武功を上げた。

そうした甲斐あってか関ヶ原から20年後の1620年に柳河藩10万石の大名として本領復帰を果たす。
関ヶ原で西軍について改易され、その後に大名に返り咲いた人物の中でも、本領復帰を果たしたのは宗茂のみである。
後世にはこの功績から「復活の神」として妻の誾千代、岳父の道雪と共に柳川の三柱神社に祀られている。

晩年は歩行能力の低下が顕著になったせいか、徐々に国元に帰ることは減り江戸に留まることが増えていった。
国元は養子忠茂に任せ、自身は戦国の生き残りかつ将軍近くに侍る立場を利用して他の大名家の橋渡しを務めるようになる。
それでも1638年の島原の乱では松平信綱に的確な補佐助言を行い、有馬城攻城時には齢72にも関わらず一番乗りを果たした

そういった武ばかり注目されがちな人物であるが、連歌や茶道・蹴鞠・香道といった芸事にも優れた人物である。
中でも茶道に関しては利休七哲の1人であり細川忠興から「茶の湯のことなら宗茂に習うべし」との評価を受けており、両者で高価な茶器・茶道具の貸し借りをしたり、忠興がポケットマネーから宗茂が茶器を買うための金を貸したりといった記録か残っている。

その上性格は温厚で真面目で人当たりがよく、裏付けるかのように将軍や幕閣から信頼されただけでなく、前述の忠興だけでなく藤堂高虎や島津忠恒、伊達政宗といった友人も多かった。

また卑怯なことや筋を通さないことが大嫌いな性格の持ち主で、朝鮮出兵や関ヶ原戦後の退却時に義弘の見殺しや敵討ちを進めた家臣に対して、「そんな卑怯な真似ができるか!」と拒絶し、義弘と和解して協力して互いに窮地を脱している。
他にも、前田利長が家康に反抗的な態度していたが加賀征伐の噂であっさり自身の母親を人質として送ったことを腰抜と非難し、浪人時代に前田家から10万石で仕官の誘いを前述の話を持ち出して拒絶している。

余談だが、改名の回数が特に多い人物としても知られる。
時代背景から改名自体はよくあることながら、彼の場合は初名の「統虎」から晩年に名乗った「宗茂」に至るまで実に10回以上の改名をしている

大戦シリーズにおいて

台詞
台詞
開幕 宗茂が武を信じよ!さすれば、活路は開かれる
└自軍に黄022_立花道雪 雷神の戦、御傍で学ばせていただきます
└敵軍に碧034_本多忠勝 本多殿!どちらが(まこと)の無双か、手合わせ願います!
計略 勝利への道は、我が武で切り開く!
└絆武将 鎮西一の我が武勇、とくと見よ!
黄020_高橋紹運 対象時 我ら戦神(いくさがみ)と成りて、大友の未来を切り拓く!
黄021_立花誾千代 対象時 進め誾千代!お前の背中は俺が守る!
兵種アクション 貫く!
撤退 届かないか…
復活 立花の誇り、勇気を胸に
伏兵 我が武、今こそ開放するとき!
攻城 敵は臆している!一気に攻めるぞ!
落城 立花の武と誇り、天下に示すことができたようだ
贈り物① どんな世界だろうと、俺の生き様を変えるつもりはないさ。
贈り物② かたじけない。この礼は、戦働きで返すとしよう。
贈り物(お正月) -
贈り物(バレンタインデー) -
贈り物(ホワイトデー) -
贈り物(ハロウィン) -
友好度上昇 -
寵臣 -
絆武将獲得 -
軍飾 -

贈り物の特殊演出

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最終更新:2025年10月01日 20:24