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人間紛失
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人間紛失
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)吃驚《びっくり》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)十|糎《センチ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)や[#「や」に傍点]
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驚いたわ、全く吃驚《びっくり》しちゃったわよ啓子さん。貴女《あなた》今朝の新聞をお読みになって?「――奇怪なる事件。三千人の観客の眼の前で、大劇場の舞台から美しき少女が煙の如く消え失せた。未曾有の怪事件」という記事があったでしょう。驚いちゃ駄目よ、あの事件で私は中心人物になっているの、舞台から消え失せたというのは家の小間使《こまづかい》、貴女《あなた》も知っている混血児のジュリや[#「や」に傍点]だったの。――まだ事件が片付いたばかりでへとへとだけど、貴女《あなた》にだけはくわしくお知らせするわね
――どこから話したらよいかしら……そうそう、あの晩の事から始めるわ。
[#3字下げ]疵のある横顔[#「疵のある横顔」は中見出し]
五月はじめの蒸暑《むしあつ》い晩だった。――十時頃に寝台へあがったが妙に寝苦しいので、八千代《やちよ》は中々眠れなかった。そしてようやくうとうとし始めたと思った時、
カタン……。
と変な音を聞いて眼を覚《さま》した。
「――なんだろう」
家の中は森閑と鎮《しずま》って、塵の落ちる音まで聞えそうである。いつか月が昇ったとみえて、寝室の中へ水のように青白い光がいっぱいに射込《さしこ》んでいた。
「たしかに音がしたようだけど、夢かしら」
呟《つぶや》きながら窓の方へ寝返りをうった。
枕から七十|糎《センチ》位のところに窓がある。透織《レース》の窓帷《カーテン》が月光を吸って美しく綾に輝いている。八千代はそれを見ながら眠ろうとした、――と、その時、思わず、
「――あッ!」
と叫びそうになった。
窓から誰か覗いている。首をさし伸べて、窓帷《カーテン》越しにじっと寝室の中を覗いているのだ。
八千代は水を浴びたようにぞっとした、――誰だろう、何者だろう? この深夜に邸内へ忍び込んで何をしようというのだ。見ている……豹のような鋭い眼で覗き込んでいる、――然《しか》もその横顔には頬から顎へかけて、恐しい疵痕《きずあと》のあるのが見えているのだ。
八千代は助《たすけ》を呼ぼうとした。然《しか》し喉がひきつって声が出ない。
――入って来たらどうしよう。
そう思うと全身の血が凍るような恐怖に襲われた。――けれどすぐその後から、今友は隣の部屋に従兄《いとこ》が泊っていることを八千代は思い出した。
――そうだ、お従兄《にい》さまがいたわ。
八千代の従兄に当る沢木順吉《さわきじゅんいち》は、帝大の理科に席をおいている秀才で、またラグビーの選手としても腕利《うできき》の青年である。――それが今日この家へ遊びに来て、そのまま泊っているのだった。
それに気付いたから、やや心強くなって、八千代は怪漢の動作をそっと見守っていた。
然し窓の男は別に曼入して来る様子もなく、やがてすっと身を退《ひ》くと、そのまま影のように横庭の方へ去って行った。
「ああよかった」
そう思うと同時に、八千代は夢中で寝台をとび出し、隣の部屋の扉《ドア》を叩いて叫んだ。
「お従兄《にい》さま、お従兄《にい》さま」
「――なんだい」
「起きて頂戴、大変よ」
扉《ドア》が内側から開いて順吉が現れた。――骨組《ほねぐみ》のがっしりした、額の高い眼の澄んだ従兄《いとこ》の姿が、その時ほど頼もしく見えたことはなかった。
「どうしたのさ」
「――誰かお庭にいるのよ」
八千代は手短に事の次第を話した。――順吉は黙って聞いていたが、すぐにベランダの方へ出ようとした。
「よし、僕が見て来よう」
「いやよ、おいでになっちゃ危いわ」
「だって捨てちゃおけないよ」
順吉は強く八千代を押しやった。
八千代の父、金沢正三|博士《はかせ》は世界的な電気学者で、現在この屋敷の中にある研究室では、四五年まえから、「D……電波」という特殊な研究が進められ、既に殆《ほとん》ど完成しかかっている。これは一種の高周波電波で、五万メートルの距離から飛行機や軍艦を粉砕することの出来る、恐るべき能力をもった電波である。――怪しい男が侵入したと聞いたときすぐに順吉は、
――もしや何国《どこ》かの間諜《スパイ》が、その秘密を盗みに来たのではないか?
と、思ったのであった。
「でもお従兄《にい》さまひとりでは危ないわ」
「ばかな、僕はこれでも……」
そう言いかけた時、廊下のはずれにある小間使の部屋から、突然絹を裂くように、
「きゃーッ」
という悲鳴が聞えて来た。
「あッ、ジュリや[#「や」に傍点]の部屋だわ」
八千代が顔色を変えて振返《ふりかえ》る、順吉はそれより疾《はや》く脱兎のように走りだしていた。――咄嗟《とっさ》に、従兄だけでは危いと思ったから、八千代は書生部屋へ駈けつけて、扉《ドア》も破れよと叩きながら、
「孝平さん、起きて、泥棒よ」
と叫んだ。――書生の南郷孝平さんは柔道三段の豪傑である。泥棒と聞くなり、木刀を持って猛虎のように廊下へとび出して来た。
「ど、泥棒はどこです」
「ジュリや[#「や」に傍点]のお部屋よ。早く来て※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
言いながら八千代は走っていた。
[#3字下げ]小間使の身の上[#「小間使の身の上」は中見出し]
二人が駈けつけた時、そこでは沢木順吉が血の気を失ったジュリや[#「や」に傍点]に水を飲ませているところだった。――八千代は走り寄って、
「まあジュリや[#「や」に傍点]、怪我はなかった?」
「あ、お嬢さま」
「あいつなにか乱暴して?」
「――あいつって、誰でございますの」
ジュリや[#「や」に傍点]は眼を戦《おのの》かせながら訊返《ききかえ》した。八千代はじれったそうに、
「あいつよ、顔に疵のある男」
という、――するとジュリや[#「や」に傍点]は不意に烈しく頭《かぶり》を振りながら叫んだ。
「ち、違います、誰も来は致しません。私はただ、――ただ、……鼠に驚いただけです」
「ジュリや[#「や」に傍点]!」
「鼠です。鼠ですお嬢さま」
そう言いながら、ジュリや[#「や」に傍点]は八千代の差出《さしだ》す手の中へ泣伏《なきふ》してしまった。――疵のある男は来たのだ。そしてジュリや[#「や」に傍点]はなぜかそれを隠している。
――何か深い訳があるに相違ない。
八千代はそう気付いたから、
「お従兄《にい》さまも孝平さんもいいわ」
と、振返って言った。
「ジュリや[#「や」に傍点]は私が看《み》るから、もうお寝《やす》みになって頂戴」
「――そう、それじゃあ……」
沢木順吉も様子を察したらしく、まだ不審顔の孝平さんを促して出て行った。――八千代は二人の跫音《あしおと》が遠退《とおの》くのを聞きながら、ジュリや[#「や」に傍点]の泣き鎮《しずま》るのを待った。
ジュリや[#「や」に傍点]がこの家へ来て半年になる。――母を早く亡くした八千代は、この広い屋敷に父と二人、五人の召使を相手に暮していたが、父の金沢博士は、「D……電波」の研究に没頭しているので、殆ど父娘《おやこ》が楽しく語らう暇とてもなく、八千代はずいぶん寂しい日々を送っていた。……そこへジュリや[#「や」に傍点]が雇われて来た。彼女は欧羅巴《ヨーロッパ》人の父と日本人の母を持った孤児《みなしご》で、栗色の髪と黒い眸《ひとみ》を持った愛くるしい顔をもち、気質も明るく活々《いきいき》としていた。――八千代はその日からジュリや[#「や」に傍点]が好きになり、今では主従というより姉妹《きょうだい》のような仲よしになっていたのである
「さあ、もう誰もいないわ」
八千代が静かに言った。「――私には何も隠さずに話してね。あの男は誰なの、頬に疵のある男は来たのでしょう」
「――参りました」
ジュリや[#「や」に傍点]は涙を押拭《おしぬぐ》って答えた。
「何もかもお話し致しますわ。――お嬢さま、ジュリや[#「や」に傍点]はこのお屋敷へ来るまで、或|曲馬団《サーカス》にいたんですの」
「まあ、ジュリや[#「や」に傍点]が曲馬団《サーカス》に?」
「五つの年から十五まで、綱渡りや馬の曲乗《きょくのり》や、奇術や高|飛込《とびこみ》などをしながら、南洋から満州まで流れ歩きました。そのあいだのどんなに辛かったことか、――芸を仕損じでもすれば足蹴《あしげ》にされたり鞭打たれたり、二日も御飯が頂けなかったり、思ってもぞっとすはような酷いめに遭わされるのです。私はたまらなくなって去年の夏、とうとうその曲馬団《サーカス》から逃出しました。そしてこのお屋敷へ雇って頂いたのでございます」
ジュリや[#「や」に傍点]はひと息ついて、恐《おそろ》しそうに窓の方へ眼をやった。
「お屋敷へ来てから半年、私は本当に生まれ変ったように仕合せでございました。――けれど、その仕合せも、もう長くはございません」
「ジュリや[#「や」に傍点]、何をいうの」
「お嬢さま、あの疵のある男は、私の逃げてきた曲馬団《サーカス》の仲間ですの。私はみつけられてしまったのです」
八千代は体がぞっと寒くなった。頬に疵のあるあの恐しい男は、逃げたジュリや[#「や」に傍点]を連戻《つれもど》しに来たのだという。
「じゃあ警察へお願いしたら?」
「いいえ、駄目です。警察でも何でもあの男たちは怖れません。下手に騒いだりすると、彼等はこのお屋敷やお嬢さまにまで仇《あだ》をします。――順吉さまにお話ししなかったのもそのためですわ。どうか誰にも仰《おっ》しゃらないで下さいまし」
ジュリや[#「や」に傍点]は涙の溢れる眼で、哀願するような、詫びるような眼ざしで八千代を見上げるのだった。――八千代は頷いた。
「いいわ、そんなにいうなら黙っているわ。でも決してジュリや[#「や」に傍点]をあの男に渡しはしないから、安心していらっしゃい。ね?」
「有難《ありがと》う存じます」
ジュリや[#「や」に傍点]は堪え難そうにむせびあげた。
[#3字下げ]父の使[#「父の使」は中見出し]
相手は曲馬団《サーカス》の無頼漢である。いつどんなことをするかもわからないから、八千代は孝平さんによく頼んで、ジュリや[#「や」に傍点]の身辺を護って貰うことにした。孝平さんは心得て、
「ようごわす。僕が睨んでいるからには誰にも手出しをさせることじゃあごわせん」
と、自信たっぷりに引受《ひきう》けてくれた。
然しそれから後は別に怪しいこともなかった。ただ時々ジュリや[#「や」に傍点]の許へ脅迫の手紙が来る。ジュリや[#「や」に傍点]はそれをひた隠しに隠していたが、八千代は無理に見せて貰った。――脅迫状などというものは生まれて始めて見るのだが、それはそんなに恐しいものではなかった。
〔――早く戻って来い、さもないとひどいめに遭わせるぞ。支度はできているのだ〕
というのや、〔――まだ決心がつかないのか、早く曲馬団《サーカス》へ帰って来い、俺達はそう我慢強くはないぞ。もし警察へでも訴えたら、その時は金沢博士一家をみなごろし[#「みなごろし」に傍点]にするからそう思え〕
その外《ほか》に、四五通もあった。なんでも三日めに一度くらいずつそんな脅迫状か来るらしい。――けれども実際には、彼等は手出しをしなかった。恐らくこっちが油断をしないのでどうすることも出来なかったに違いない。こうして一月《ひとつき》ほどは何事もなく過ぎた。
六月の第一土曜日のことである。――その日八千代は帝国劇場へ行くつもりだったので、学校が退けると大急ぎで帰って来た。帝劇ではいま、「ブルスカヤ大奇術団」というロシヤ人の奇術師一行が興行していて、その日の昼興行《マチネー》を最後に大阪へ去るはずである。だから是非とも観に行くつもりで、父にも許《ゆるし》を得てあった。……ところが帰って来るとジュリや[#「や」に傍点]が、
「先生がお待ちでございます」
という。研究室にいて呼ぶなんて珍しいことだからすぐに行ってみた。
「お父さま唯今《ただいま》、何か御用――?」
「ああお帰り」
博士は振返って、「すまないが、また三年町の渡邊中将のお宅まで使いに行って来てれ。三時の約束だから」
「あらいやだわお父さま」
八千代は唇を尖らせて、「今日は帝劇へ行くってお話ししてあったでしょう。お忘れになったのねえお父さま」
「ああそうか、こいつはうっかりしていた」
「いやあねえ、今日の昼興行《マチネー》でおしまいなのよ」
「弱ったな、何時にはねるのかい」
「たしか六時半だわ」
「――仕方がない。それじゃあ帰りに寄って貰うとしよう。これを届けて貰うんだが」
と、博士は緑色の封筒に入った書類を取出《とりだ》して、「――今日のはいつもより大切な書類だからね。間違《まちがわ》のないように、中将に直接お渡しするんだよ」
麹町《こうじまち》三年町の渡邊中将の家へは、これまで何度も父の使いで書類を届けに行っている。八千代は元気よく挙手の礼をした。
「は、畏《かしこま》りました父上!」
「くれぐれも過ちのないように頼む、いいね」
「大丈夫です。では行って参ります」
そう答えて研究室を出た。――すると扉《ドア》の外にジュリや[#「や」に傍点]が来て立っていた。
「まあ、ジュリや[#「や」に傍点]そこにいたの?」
「は、はい、何か御用が、あるかと存じましたものですから……」
ジュリや[#「や」に傍点]はどぎまぎしていたが、八千代はそんなことに構わず、
「さあ早く支度してよ。これから帝劇へブルスカヤの奇術を観に連れて行ってあげるわ」
「まあ、――私もですか?」
「無論よ、早く、早く、大急ぎで支度よ」
八千代は浮き浮きとせきたてた。――支度はすぐに出来た。渡邊中将へ届ける書類は、赤革の手嚢《ハンド・バッグ》に大切に納め、車を呼ばせて出掛けようとしたが、……ふと思い出して、護衛のために孝平さんを連れて行くことにした。同じ護衛でも帝劇へ行くとなると有難い。
「ようごわす、引受けました」
と、孝平さんは大乗気でハリキッた。
孝平さんがついていれば、もし例の曲馬団《サーカス》の男が現れても大丈夫である。――三人は車で帝劇へ向かった。
帝劇へ着いたのは一時、殆ど満員の入《いり》であったが、三人は運よく舞台際から三列めに並んで席を取ることが出来た。場所としては観にくいが、それでも後に立っている人に比べると上等である。――かくて午後一時三十分、開幕の鈴《ベル》が鳴った時には、さしもの帝劇がぎっしり客で一杯になって、殆ど蟻の這出《はいで》る隙もないまでの盛況を呈した。
事件は実にこの三千人の観客を前にして突発したのである。
[#3字下げ]人間紛失[#「人間紛失」は中見出し]
軽い喜劇、空中の踊《おどり》、火や水を使った手品、新しい道具と珍しい技術、「ブルスカヤ奇術団」は正に評判以上の好演技を以《もっ》て、完全に観客を酔わせてしまった。八千代もジュリや[#「や」に傍点]も、
「――まあ凄いわねえ」
「本当に、なんてすてきでしょう」
と、何度も讃歎の声をあげる。滑稽なのは孝平さんで、さっきから鳩が豆鉄砲を食ったように、眼をぱちくりさせながら、ただ呻《うめ》き声をあげるばかりだった。
番組は進行して午後五時、いよいよ最後の奇術にかかるため十分の休憩になった。――それまでジュリや[#「や」に傍点]は二度も手洗いに行ったが、八千代はずっと席にいたので、この暇にと思ったから手嚢《ハンド・バッグ》をジュリや[#「や」に傍点]に預け、
「ちょっと化粧室へ行って来るわ」
と、言って廊下へ出た。
化粧室はひどく混雑していた。それで思わず時間をとられたため、戻って来た時には既に幕が明《あ》いて演技が始《はじま》っていた。――舞台では黒い背景の前に四人の男が立ち、その中央に大きな長方形の箱を置いて、主役女優のブルスカヤ嬢がにこにこしながら、
「――コノ通リ種モ仕掛《シカケ》モアリマセン、ケレドコノ箱ハ不思議ナ力ヲ持ッテイマス。コレカラソレヲ実験致シマスカラ、ドウゾ皆様ノ中カラドナタカ一人舞台ヘオ上リ下サイ」
と言った。――そう言われても何をされるのかわからないし、誰にしてもこの大勢の観客の前へ出て行く勇気はちょっとあるまい。
「私ノ座員デハ面白味ガ足リマセン、ドウカドナタデモ宜《ヨロ》シイ、オ客様ノ中カラー人オ出《イ》デ下サイ」
ブルスカヤ嬢が繰返《くりかえ》した時、不意に、――ジュリや[#「や」に傍点]が席を起《た》った「あ、ジュリや[#「や」に傍点]!」
「お嬢さま、――」
ジュリや[#「や」に傍点]は振返って、「大丈夫ですわ。私もと曲馬団《サーカス》にいた時、これと同じ奇術をしたことがあるんですの。だから行って種を見破って驚かしてやりますわ」
そういうと、尚《なお》も引止めようとする八千代の声を後に、羞じらいもせず舞台へ上って行った。わあっ[#「わあっ」に傍点]と割れるような拍手、ブルスカヤ嬢は愛想よく迎えてジュリや[#「や」に傍点]を舞台の中央へ導き、
「コノ美シイオ嬢サマガ、私ノ望《ノゾミ》ヲ叶エテ下サイマシタ。厚クオ礼ヲ申シマス。――サテコノオ嬢サマニ、コノ箱ノ中ヘ入ッテ頂キマス」
「――しっかりやれ」
三階で客の叫ぶ声がした。――人々はどんな珍しい奇術が始るかと、息を殺して見守っている。ブルスカヤ嬢は軽い音楽に合わせて、ジュリや[#「や」に傍点]を列の箱の中へ入れた。
箱は黒く塗ったもので、大きさは丁度《ちょうど》人が一人立って入れる程である。下に四本の脚があって、舞台の床々は離れている。――つまり大きな人形箱と思えば間違はない。ブルスカヤ嬢はその中へジュリや[#「や」に傍点]を入れ、もう一度箱の四方を検《あらた》めてから正面の蓋を閉めた。ジュリや[#「や」に傍点]の姿は箱の中に閉籠《とじこ》められたのである。
「――サテ皆様、御覧ノ通リ唯今ノオ嬢サマハコノ箱ノ中ヘ入リマシタ。不思議ナ箱ハドンナ魔力ヲ現シマショウカ、――ハイ!」
そういうと共に、ブルスカヤ嬢は一歩さがって突然|拳銃《ピストル》を射った。それまで一度も拳銃《ピストル》を使わなかったので、不意を食《くら》った観客はぎくりとする――刹那、ブルスカヤ嬢はさっ[#「さっ」に傍点]と箱の蓋を取払った。
「おお……」
観客は目を瞠《みは》った。箱の中にはジュリや[#「や」に傍点]の姿はなく、美しいひと籠の薔薇の花が、色もあざやかに咲いている。――どっ[#「どっ」に傍点]とあがる拍手のどよめきに、ブルスカヤ嬢はにこにこと会釈を返しながら、
「――不思議ノ箱ハオ嬢サマヲ薔薇ノ花ニ変エマシタ。デモコノ儘《ママ》デハオ家ヘオ帰リニナレマセン。今度ハ元ノオ嬢サマニ戻シテ御覧ニ入レマス」
そう言って手早く箱へ蓋をする。四人の助手の男がその介添《かいぞえ》をしてすぐ退《しさ》ると、――嬢は再び拳銃《ピストル》を一発。
「――ハイッ」
と、言って蓋を明けた。
ジュリや[#「や」に傍点]が現れたか? 否! そこには、薔薇の花もなく、ジュリや[#「や」に傍点]の姿もない。箱の中は空である。――三千人の観客は思わず、おや[#「おや」に傍点]……と呟いて身を乗出した。意外な失敗である。ブルスカヤ嬢はちょっとまごついたが、素早くもう一度蓋をして、
「ハイッ、オ嬢サマドウゾ」
そう言って、三度めの拳銃《ピストル》、そして蓋を明けたが、依然として箱は空であった。――八千代は恐しい予感に襲われて、
「孝平さん、ジュリや[#「や」に傍点]が、ジュリや[#「や」に傍点]が」
と絶叫しながら椅子《いす》から起つ、――同時に舞台の上では、
「幕! 早く幕を引けッ」
と喚く声がして、この失敗を隠すためにあわただしく幕が閉められた。観客は湧きたった。拍手する者、怒号する者、足を踏鳴《ふみなら》らす者、口笛を吹く者、――三千人の観衆は一時に、狂ったように非難の声をあげた。
[#3字下げ]従兄の活躍[#「従兄の活躍」は中見出し]
「ジュリや[#「や」に傍点]が攫《さら》われた、ジュリや[#「や」に傍点]が」
八千代は胸も潰れる思《おもい》で叫んだ。――あの頬に疵のある曲馬団《サーカス》の男が、この奇術師たちと共謀してジュリや[#「や」に傍点]を攫ったに違いない。
「孝平さん助けて、ジュリや[#「や」に傍点]を助けて」
「大丈夫です、僕が引受けました」
孝平さんは憤然と起上《たちあが》るや、八千代の手を曳《ひ》いて大股に舞台へ上った。――とその時、二人の後から走って来て、
「やっ[#「やっ」に傍点]ちゃん、どうしたんだ」
と、声をかける者があった。振返って見ると意外にも従兄《いとこ》の沢木順吉である。
「まあお従兄《にい》さま」
八千代はとびついた。
「よく来て下すったわ。いま大変なことが起ったのよ」
「知ってるよ、僕も偶然観に来ていたんだ。ジュリや[#「や」に傍点]が舞台へ上ったので驚いたんだが、なに大したことはないだろう」
「いいえ、いいえ、大変なことがあるのよ、――今まで誰にも言わなかったけれど、実はジュリや[#「や」に傍点]はある悪者に狙われていたんです」
八千代はそう言って、手短にジュリや[#「や」に傍点]の身の上を話した。
――沢木順吉はそれを聞くや、曾《かつ》ての夜のことも思い出されて、これは普通の失敗ではないぞと直感した。
「どうぞお願い、曲馬団《サーカス》の男に攫われたに違いないんですから、早くジュリや[#「や」に傍点]を助けてやって!」
「――そうか」
順吉は頷いて、「兎《と》に角《かく》すぐに検《しら》べてみよう。こっちは僕と孝平君がやるから、やっ[#「やっ」に傍点]ちゃんは表の休憩室で待っておいで」
「本当にきっと助けてね」
「大丈夫、すぐに片をつけて行くよ」
そう言って沢木順吉は、孝平さんと共に幕をくぐって舞台へ乗込んで行った。――お従兄《にい》さまが来れば大丈夫だわ。八千代はそう思ったので、言われた通り表の休憩室で待つことにした。
沢木順吉と孝平さんが入って行った時、舞台ではブルスカヤ嬢はじめ全座員が、例の箱を中心に顔色を変えて騒いでいた。――順吉はつかつかと側へ行って、
「一体どうしたのですか」
と、声をかけた。
「あの少女は我々の知人ですが、どうしたという訳ですか」
「下手なことをすると為にならんぞ」
孝平さんも側から喚きたてた。ブルスカヤ嬢はおろおろと手を揉絞《もみしぼ》りながら、
「オオ、私達ニモ訳ガワカリマセン、オ嬢サンハ消エテシマッタノデス、コノ箱ノ中カラ煙ノヨウニ消エテシマッタノデス」
「よく事情を話して下さい」
「コノ奇術ハ簡単デス、御覧下サイ」
そう言って嬢はしどろもどろに奇術の説明をした。――それは極めて単純な技巧《トリック》で、人を入れた箱は、四人の助手が集る刹那、舞台の穴から下へ脱《ぬ》けて、代りに花の入った箱がせり[#「せり」に傍点]上る、ただこれを素早くやるだけが技術で、どこにも怪しむべきところはなかった。
「そうすると、ジュリや[#「や」に傍点]の入った箱は、花とすり代る時舞台の下へぬけるのですね」
「ソウデス」
「では舞台の下を見せて下さい」
ブルスカヤ嬢を先に、みんなは舞台下へと降りて行った。――そこは電灯の光も暗い陰気な場所で、今しも大勢の人夫達が、奇術に用いる大道具をせっせと荷造《にづくり》しては、片端《かたっぱし》から外へ運び出しているところだった。
「この荷物はどうするのですか」
「……今日デ此処《ココ》ハ打止《ウチドメ》デスカラ、済ンダ道具カラ順ニ、次ノ興行地ヘ送ルタメ、東京駅ヘ運バセテイルノデス」
「ああ、それだ、畜生」
座員の説明を聞くなり、孝平さんは拳を振上げて喚いた。
「――これでわかった、こいつ等はジュリや[#「や」に傍点]の箱が舞台下へぬけた時、あの娘を攫って大道具の中へ押籠め、送り出す荷物と一緒に東京駅へ運んだに違いない。沢木さん、僕はすぐ東京駅へ行って荷物を押さえて来ます!」
「まあ待ち給え」
と、沢木順吉の止める暇もなく、孝平さんは尻尾に火のついた獅子《ライオン》のように、跳《おど》り上ってはせ去った。――それと殆ど入り違いに、休憩室から八千代が駈けつけて来た。
「お従兄《にい》さま大変だわ」
「え、どうしたの」
「私《あたし》お父さまから大事な御用を頼まれていたのよ。三年町の渡邊中将へ書類を届けるようにって……」
「それでどうしたのさ」
「私《あたし》その書類を手嚢《ハンド・バッグ》へ入れて持っていたんだけど、お化粧室へ立つ時ちょっとジュリや[#「や」に傍点]に預けたの。そしてそのまま返して貰うのを忘れてしまったのよ」
「じゃあその書類は――?」
「ジュリや[#「や」に傍点]が持っている筈《はず》だわ」
不意に沢木順吉の顔色が紙のように白くなった。彼は両手で頭を掴むと、どっかり側にあった椅子へ腰をおとし、低く呻き声をあげながら何事か考《かんがえ》を纏《まと》めようと焦りだした。――然しそれはそう長い時間ではなかった。やや暫《しばら》く頭を掻※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]《かきむし》っていたと思うと、
「そうだ、それに相違ない!」
と、叫んで起上り、「やっ[#「やっ」に傍点]ちゃん、すぐに家へ帰るんだ。早くしないと大変なことになる」
「でもジュリや[#「や」に傍点]は、――?」
「それは後でわかる、早く!」
というと、八千代を引摺るようにして劇場をとび出し、自動車を拾って青山の金沢家へ全速力で走らせた。――大変なことになるとはなんであろう。肝心のジュリや[#「や」に傍点]を抛《ほう》っておいて何のために家へ帰るのか? 八千代にはまるで見当がつかなかった。
やがて車が屋敷の門前へ着くと、
「すぐ戻って来るから待っておいで」
と、八千代を自動車の中に待たせておいて、沢木順吉は家へとび込んで行った。八千代は心も空《から》に待っていた。――ジュリや[#「や」に傍点]はどうなるか、大切な父の書類は?
「――ああどうしよう」
と身悶《みもだえ》をしながら呟く。――およそ二十分も経った時分、順吉は戻って来た。顔色は益々蒼い。身を投込むように車へ乗ると、
「横浜へ、全速力だ!」
と叫んだ。
[#3字下げ]意外な結果[#「意外な結果」は中見出し]
走った走った。自動車は交通係の眼を避けながら疾風のように走って、三十分足らずのうちに横浜へ入った。――沢木順吉はそれまで石のように黙っていたが、
「波止場の二号岩壁へ着けてくれ」
と命ずる。――自動車はいうがままに海岸通へ入ると、巧みに税関を突破して、黄昏《たそがれ》の迫る二号岩壁へ辷《すべ》り込み、上屋の角で危く急停車をした。……沢木青年は窓から身を乗出すようにして前方をすかし見ていたが、
「や、しめた、間に合ったぞ!」
言いさま車をとび出し、
「やっ[#「やっ」に傍点]ちゃん、車から出るんじゃないぜ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
と叫びながら駈けだして行った。
何事が起るのだろう。――八千代は半身を乗出して見た。従兄の順吉が走って行く前方に、四五人の人影が見える。その人達は岸壁に着いている外国の貨物船へ乗るところらしい。
「――ああッ」
八千代は思わず叫《さけび》をあげた。見よ――追いついた順吉は、今しも船橋《ブリッジ》へ登ろうとしている人影へ、猛然と襲いかかったのだ。
「お従兄《にい》さま、危いッ」
八千代は我を忘れて車からとび出した。
なんというすばらしさ、不意を衝《つ》かれて、一瞬人影が入乱れたと思うと、見る間に二人、三人、――順吉の鉄拳を食ってばたばたと倒れた。その隙に船へ逃込もうとする奴、順吉がつぶて[#「つぶて」に傍点]の如く追いすがると、相手は敵わぬと見たか、いきなり振返りざま拳銃《ピストル》を取出して、
がん!
と射った。
「ああ――ッ!」
八千代が絶望の叫をあげた。然しその刹那! 不意に小さな人影が現れ、順吉の面前へ盾のように大手を広げて立塞がった。拳銃《ピストル》から迸《ほとばし》り出た火花は、その人影の真正面で引裂けた。実に間髪を容《い》れぬ出来事である。半ば夢中で、八千代が自動車の運転手と共に駈けつけた時には、順吉は既に四名の怪漢を打倒し、自分の盾になって弾丸《たま》に倒れた一人を、抱起《だきおこ》しているところだった。
「――お従兄《にい》さま!」
駈寄《かけよ》った八千代が叫ぶと、順吉は振返って悲しげに眼をうるませ、
「やっ[#「やっ」に傍点]ちゃんか、――さあ見ておやり」
と抱いていた人を示した。
「おまえの、おまえのジュリや[#「や」に傍点]だよ」
「ええ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
八千代は仰天しながら覗き込んだ。従兄《あに》の手に抱かれているのは、正しく八千代の愛するジュリや[#「や」に傍点]であった。
「まあ、まあ、――ジュリや[#「や」に傍点]」
「お嬢さま……」
ジュリや[#「や」に傍点]は苦しげに言った。「――お赦《ゆる》し下さいませ、ジュリや[#「や」に傍点]は悪い人間でした。でも今は後悔しています。――後悔して、……」
そこまで言ってジュリや[#「や」に傍点]は、がくりと順吉の腕の中で気絶した。
これで事件は終ったのよ啓子さん。
ジュリや[#「や」に傍点]は攫われたんじゃなかったの。自分で劇場から逃出したんだわ。なぜってそれは、緑色の封筒に入ったお父様の書類が欲しかったからよ。
ジュリや[#「や」に傍点]は可哀そうな娘よ。悪者の手先に使われてお父さまの「D……電波」の秘密を盗み出すために家へ来たんですって、でも家で暮すうち悪事が恐しくなって止《よ》そうと決心したの。けれど悪者たちはお父さまや私《あたし》を殺すと言って脅かすので仕方なくあんなことをしてしまったのだというわ。
曲馬団《サーカス》にいたことは本当だし、そのために旨く奇術を利用して逃げたのだけれど、あの脅迫状は嘘だったの。嘘というよりあれは実は暗号通信だったのよ。お従兄《にい》さまが調べてみたら、最後の脅迫状には「横浜港二号岩壁、午後七時までに来れ」と暗号で書いてあったんですって、それで危く駈けつけた訳ね。むろん書類は無事だったわ。
私がお父さまのお使で、渡邊中将の家へ届けた書類は、みんな「D……電波」の機密図だったの。それを悪者たちが感付いてジュリや[#「や」に傍点]に狙わせたのね。でももう悪人達は捉《つかま》ったし、これですっかり安心よ。――ジュリや[#「や」に傍点]の傷は幸いと軽く、二週間もすれば起きられるでしょう。お従兄《にい》さまの身代りになったことで、十分罪の償いはついているし、本当に悪かったと後悔しているんですもの今まで通り私の仲よしでおくつもりよ。お父さまも許して下すったし、ジュリや[#「や」に傍点]は泣いて感謝したわ。
面白かったのは孝平さんで、あの豪傑は東京駅へ駈けつけると貨物室で奇術の大道具をひっ掻廻《かきまわ》しながら、三時間も虎のように喚きちらしていたんですって。ほほほほ今度いらしったらそう言って御覧なさい、あの豪傑きっと降参するわよ。――ではこれで失礼。
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第五巻 スパイ小説」作品社
2008(平成20)年2月15日第1刷発行
底本の親本:「少女倶楽部」
1937(昭和12)年6月増刊
初出:「少女倶楽部」
1937(昭和12)年6月増刊
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)吃驚《びっくり》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)十|糎《センチ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)や[#「や」に傍点]
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驚いたわ、全く吃驚《びっくり》しちゃったわよ啓子さん。貴女《あなた》今朝の新聞をお読みになって?「――奇怪なる事件。三千人の観客の眼の前で、大劇場の舞台から美しき少女が煙の如く消え失せた。未曾有の怪事件」という記事があったでしょう。驚いちゃ駄目よ、あの事件で私は中心人物になっているの、舞台から消え失せたというのは家の小間使《こまづかい》、貴女《あなた》も知っている混血児のジュリや[#「や」に傍点]だったの。――まだ事件が片付いたばかりでへとへとだけど、貴女《あなた》にだけはくわしくお知らせするわね
――どこから話したらよいかしら……そうそう、あの晩の事から始めるわ。
[#3字下げ]疵のある横顔[#「疵のある横顔」は中見出し]
五月はじめの蒸暑《むしあつ》い晩だった。――十時頃に寝台へあがったが妙に寝苦しいので、八千代《やちよ》は中々眠れなかった。そしてようやくうとうとし始めたと思った時、
カタン……。
と変な音を聞いて眼を覚《さま》した。
「――なんだろう」
家の中は森閑と鎮《しずま》って、塵の落ちる音まで聞えそうである。いつか月が昇ったとみえて、寝室の中へ水のように青白い光がいっぱいに射込《さしこ》んでいた。
「たしかに音がしたようだけど、夢かしら」
呟《つぶや》きながら窓の方へ寝返りをうった。
枕から七十|糎《センチ》位のところに窓がある。透織《レース》の窓帷《カーテン》が月光を吸って美しく綾に輝いている。八千代はそれを見ながら眠ろうとした、――と、その時、思わず、
「――あッ!」
と叫びそうになった。
窓から誰か覗いている。首をさし伸べて、窓帷《カーテン》越しにじっと寝室の中を覗いているのだ。
八千代は水を浴びたようにぞっとした、――誰だろう、何者だろう? この深夜に邸内へ忍び込んで何をしようというのだ。見ている……豹のような鋭い眼で覗き込んでいる、――然《しか》もその横顔には頬から顎へかけて、恐しい疵痕《きずあと》のあるのが見えているのだ。
八千代は助《たすけ》を呼ぼうとした。然《しか》し喉がひきつって声が出ない。
――入って来たらどうしよう。
そう思うと全身の血が凍るような恐怖に襲われた。――けれどすぐその後から、今友は隣の部屋に従兄《いとこ》が泊っていることを八千代は思い出した。
――そうだ、お従兄《にい》さまがいたわ。
八千代の従兄に当る沢木順吉《さわきじゅんいち》は、帝大の理科に席をおいている秀才で、またラグビーの選手としても腕利《うできき》の青年である。――それが今日この家へ遊びに来て、そのまま泊っているのだった。
それに気付いたから、やや心強くなって、八千代は怪漢の動作をそっと見守っていた。
然し窓の男は別に曼入して来る様子もなく、やがてすっと身を退《ひ》くと、そのまま影のように横庭の方へ去って行った。
「ああよかった」
そう思うと同時に、八千代は夢中で寝台をとび出し、隣の部屋の扉《ドア》を叩いて叫んだ。
「お従兄《にい》さま、お従兄《にい》さま」
「――なんだい」
「起きて頂戴、大変よ」
扉《ドア》が内側から開いて順吉が現れた。――骨組《ほねぐみ》のがっしりした、額の高い眼の澄んだ従兄《いとこ》の姿が、その時ほど頼もしく見えたことはなかった。
「どうしたのさ」
「――誰かお庭にいるのよ」
八千代は手短に事の次第を話した。――順吉は黙って聞いていたが、すぐにベランダの方へ出ようとした。
「よし、僕が見て来よう」
「いやよ、おいでになっちゃ危いわ」
「だって捨てちゃおけないよ」
順吉は強く八千代を押しやった。
八千代の父、金沢正三|博士《はかせ》は世界的な電気学者で、現在この屋敷の中にある研究室では、四五年まえから、「D……電波」という特殊な研究が進められ、既に殆《ほとん》ど完成しかかっている。これは一種の高周波電波で、五万メートルの距離から飛行機や軍艦を粉砕することの出来る、恐るべき能力をもった電波である。――怪しい男が侵入したと聞いたときすぐに順吉は、
――もしや何国《どこ》かの間諜《スパイ》が、その秘密を盗みに来たのではないか?
と、思ったのであった。
「でもお従兄《にい》さまひとりでは危ないわ」
「ばかな、僕はこれでも……」
そう言いかけた時、廊下のはずれにある小間使の部屋から、突然絹を裂くように、
「きゃーッ」
という悲鳴が聞えて来た。
「あッ、ジュリや[#「や」に傍点]の部屋だわ」
八千代が顔色を変えて振返《ふりかえ》る、順吉はそれより疾《はや》く脱兎のように走りだしていた。――咄嗟《とっさ》に、従兄だけでは危いと思ったから、八千代は書生部屋へ駈けつけて、扉《ドア》も破れよと叩きながら、
「孝平さん、起きて、泥棒よ」
と叫んだ。――書生の南郷孝平さんは柔道三段の豪傑である。泥棒と聞くなり、木刀を持って猛虎のように廊下へとび出して来た。
「ど、泥棒はどこです」
「ジュリや[#「や」に傍点]のお部屋よ。早く来て※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
言いながら八千代は走っていた。
[#3字下げ]小間使の身の上[#「小間使の身の上」は中見出し]
二人が駈けつけた時、そこでは沢木順吉が血の気を失ったジュリや[#「や」に傍点]に水を飲ませているところだった。――八千代は走り寄って、
「まあジュリや[#「や」に傍点]、怪我はなかった?」
「あ、お嬢さま」
「あいつなにか乱暴して?」
「――あいつって、誰でございますの」
ジュリや[#「や」に傍点]は眼を戦《おのの》かせながら訊返《ききかえ》した。八千代はじれったそうに、
「あいつよ、顔に疵のある男」
という、――するとジュリや[#「や」に傍点]は不意に烈しく頭《かぶり》を振りながら叫んだ。
「ち、違います、誰も来は致しません。私はただ、――ただ、……鼠に驚いただけです」
「ジュリや[#「や」に傍点]!」
「鼠です。鼠ですお嬢さま」
そう言いながら、ジュリや[#「や」に傍点]は八千代の差出《さしだ》す手の中へ泣伏《なきふ》してしまった。――疵のある男は来たのだ。そしてジュリや[#「や」に傍点]はなぜかそれを隠している。
――何か深い訳があるに相違ない。
八千代はそう気付いたから、
「お従兄《にい》さまも孝平さんもいいわ」
と、振返って言った。
「ジュリや[#「や」に傍点]は私が看《み》るから、もうお寝《やす》みになって頂戴」
「――そう、それじゃあ……」
沢木順吉も様子を察したらしく、まだ不審顔の孝平さんを促して出て行った。――八千代は二人の跫音《あしおと》が遠退《とおの》くのを聞きながら、ジュリや[#「や」に傍点]の泣き鎮《しずま》るのを待った。
ジュリや[#「や」に傍点]がこの家へ来て半年になる。――母を早く亡くした八千代は、この広い屋敷に父と二人、五人の召使を相手に暮していたが、父の金沢博士は、「D……電波」の研究に没頭しているので、殆ど父娘《おやこ》が楽しく語らう暇とてもなく、八千代はずいぶん寂しい日々を送っていた。……そこへジュリや[#「や」に傍点]が雇われて来た。彼女は欧羅巴《ヨーロッパ》人の父と日本人の母を持った孤児《みなしご》で、栗色の髪と黒い眸《ひとみ》を持った愛くるしい顔をもち、気質も明るく活々《いきいき》としていた。――八千代はその日からジュリや[#「や」に傍点]が好きになり、今では主従というより姉妹《きょうだい》のような仲よしになっていたのである
「さあ、もう誰もいないわ」
八千代が静かに言った。「――私には何も隠さずに話してね。あの男は誰なの、頬に疵のある男は来たのでしょう」
「――参りました」
ジュリや[#「や」に傍点]は涙を押拭《おしぬぐ》って答えた。
「何もかもお話し致しますわ。――お嬢さま、ジュリや[#「や」に傍点]はこのお屋敷へ来るまで、或|曲馬団《サーカス》にいたんですの」
「まあ、ジュリや[#「や」に傍点]が曲馬団《サーカス》に?」
「五つの年から十五まで、綱渡りや馬の曲乗《きょくのり》や、奇術や高|飛込《とびこみ》などをしながら、南洋から満州まで流れ歩きました。そのあいだのどんなに辛かったことか、――芸を仕損じでもすれば足蹴《あしげ》にされたり鞭打たれたり、二日も御飯が頂けなかったり、思ってもぞっとすはような酷いめに遭わされるのです。私はたまらなくなって去年の夏、とうとうその曲馬団《サーカス》から逃出しました。そしてこのお屋敷へ雇って頂いたのでございます」
ジュリや[#「や」に傍点]はひと息ついて、恐《おそろ》しそうに窓の方へ眼をやった。
「お屋敷へ来てから半年、私は本当に生まれ変ったように仕合せでございました。――けれど、その仕合せも、もう長くはございません」
「ジュリや[#「や」に傍点]、何をいうの」
「お嬢さま、あの疵のある男は、私の逃げてきた曲馬団《サーカス》の仲間ですの。私はみつけられてしまったのです」
八千代は体がぞっと寒くなった。頬に疵のあるあの恐しい男は、逃げたジュリや[#「や」に傍点]を連戻《つれもど》しに来たのだという。
「じゃあ警察へお願いしたら?」
「いいえ、駄目です。警察でも何でもあの男たちは怖れません。下手に騒いだりすると、彼等はこのお屋敷やお嬢さまにまで仇《あだ》をします。――順吉さまにお話ししなかったのもそのためですわ。どうか誰にも仰《おっ》しゃらないで下さいまし」
ジュリや[#「や」に傍点]は涙の溢れる眼で、哀願するような、詫びるような眼ざしで八千代を見上げるのだった。――八千代は頷いた。
「いいわ、そんなにいうなら黙っているわ。でも決してジュリや[#「や」に傍点]をあの男に渡しはしないから、安心していらっしゃい。ね?」
「有難《ありがと》う存じます」
ジュリや[#「や」に傍点]は堪え難そうにむせびあげた。
[#3字下げ]父の使[#「父の使」は中見出し]
相手は曲馬団《サーカス》の無頼漢である。いつどんなことをするかもわからないから、八千代は孝平さんによく頼んで、ジュリや[#「や」に傍点]の身辺を護って貰うことにした。孝平さんは心得て、
「ようごわす。僕が睨んでいるからには誰にも手出しをさせることじゃあごわせん」
と、自信たっぷりに引受《ひきう》けてくれた。
然しそれから後は別に怪しいこともなかった。ただ時々ジュリや[#「や」に傍点]の許へ脅迫の手紙が来る。ジュリや[#「や」に傍点]はそれをひた隠しに隠していたが、八千代は無理に見せて貰った。――脅迫状などというものは生まれて始めて見るのだが、それはそんなに恐しいものではなかった。
〔――早く戻って来い、さもないとひどいめに遭わせるぞ。支度はできているのだ〕
というのや、〔――まだ決心がつかないのか、早く曲馬団《サーカス》へ帰って来い、俺達はそう我慢強くはないぞ。もし警察へでも訴えたら、その時は金沢博士一家をみなごろし[#「みなごろし」に傍点]にするからそう思え〕
その外《ほか》に、四五通もあった。なんでも三日めに一度くらいずつそんな脅迫状か来るらしい。――けれども実際には、彼等は手出しをしなかった。恐らくこっちが油断をしないのでどうすることも出来なかったに違いない。こうして一月《ひとつき》ほどは何事もなく過ぎた。
六月の第一土曜日のことである。――その日八千代は帝国劇場へ行くつもりだったので、学校が退けると大急ぎで帰って来た。帝劇ではいま、「ブルスカヤ大奇術団」というロシヤ人の奇術師一行が興行していて、その日の昼興行《マチネー》を最後に大阪へ去るはずである。だから是非とも観に行くつもりで、父にも許《ゆるし》を得てあった。……ところが帰って来るとジュリや[#「や」に傍点]が、
「先生がお待ちでございます」
という。研究室にいて呼ぶなんて珍しいことだからすぐに行ってみた。
「お父さま唯今《ただいま》、何か御用――?」
「ああお帰り」
博士は振返って、「すまないが、また三年町の渡邊中将のお宅まで使いに行って来てれ。三時の約束だから」
「あらいやだわお父さま」
八千代は唇を尖らせて、「今日は帝劇へ行くってお話ししてあったでしょう。お忘れになったのねえお父さま」
「ああそうか、こいつはうっかりしていた」
「いやあねえ、今日の昼興行《マチネー》でおしまいなのよ」
「弱ったな、何時にはねるのかい」
「たしか六時半だわ」
「――仕方がない。それじゃあ帰りに寄って貰うとしよう。これを届けて貰うんだが」
と、博士は緑色の封筒に入った書類を取出《とりだ》して、「――今日のはいつもより大切な書類だからね。間違《まちがわ》のないように、中将に直接お渡しするんだよ」
麹町《こうじまち》三年町の渡邊中将の家へは、これまで何度も父の使いで書類を届けに行っている。八千代は元気よく挙手の礼をした。
「は、畏《かしこま》りました父上!」
「くれぐれも過ちのないように頼む、いいね」
「大丈夫です。では行って参ります」
そう答えて研究室を出た。――すると扉《ドア》の外にジュリや[#「や」に傍点]が来て立っていた。
「まあ、ジュリや[#「や」に傍点]そこにいたの?」
「は、はい、何か御用が、あるかと存じましたものですから……」
ジュリや[#「や」に傍点]はどぎまぎしていたが、八千代はそんなことに構わず、
「さあ早く支度してよ。これから帝劇へブルスカヤの奇術を観に連れて行ってあげるわ」
「まあ、――私もですか?」
「無論よ、早く、早く、大急ぎで支度よ」
八千代は浮き浮きとせきたてた。――支度はすぐに出来た。渡邊中将へ届ける書類は、赤革の手嚢《ハンド・バッグ》に大切に納め、車を呼ばせて出掛けようとしたが、……ふと思い出して、護衛のために孝平さんを連れて行くことにした。同じ護衛でも帝劇へ行くとなると有難い。
「ようごわす、引受けました」
と、孝平さんは大乗気でハリキッた。
孝平さんがついていれば、もし例の曲馬団《サーカス》の男が現れても大丈夫である。――三人は車で帝劇へ向かった。
帝劇へ着いたのは一時、殆ど満員の入《いり》であったが、三人は運よく舞台際から三列めに並んで席を取ることが出来た。場所としては観にくいが、それでも後に立っている人に比べると上等である。――かくて午後一時三十分、開幕の鈴《ベル》が鳴った時には、さしもの帝劇がぎっしり客で一杯になって、殆ど蟻の這出《はいで》る隙もないまでの盛況を呈した。
事件は実にこの三千人の観客を前にして突発したのである。
[#3字下げ]人間紛失[#「人間紛失」は中見出し]
軽い喜劇、空中の踊《おどり》、火や水を使った手品、新しい道具と珍しい技術、「ブルスカヤ奇術団」は正に評判以上の好演技を以《もっ》て、完全に観客を酔わせてしまった。八千代もジュリや[#「や」に傍点]も、
「――まあ凄いわねえ」
「本当に、なんてすてきでしょう」
と、何度も讃歎の声をあげる。滑稽なのは孝平さんで、さっきから鳩が豆鉄砲を食ったように、眼をぱちくりさせながら、ただ呻《うめ》き声をあげるばかりだった。
番組は進行して午後五時、いよいよ最後の奇術にかかるため十分の休憩になった。――それまでジュリや[#「や」に傍点]は二度も手洗いに行ったが、八千代はずっと席にいたので、この暇にと思ったから手嚢《ハンド・バッグ》をジュリや[#「や」に傍点]に預け、
「ちょっと化粧室へ行って来るわ」
と、言って廊下へ出た。
化粧室はひどく混雑していた。それで思わず時間をとられたため、戻って来た時には既に幕が明《あ》いて演技が始《はじま》っていた。――舞台では黒い背景の前に四人の男が立ち、その中央に大きな長方形の箱を置いて、主役女優のブルスカヤ嬢がにこにこしながら、
「――コノ通リ種モ仕掛《シカケ》モアリマセン、ケレドコノ箱ハ不思議ナ力ヲ持ッテイマス。コレカラソレヲ実験致シマスカラ、ドウゾ皆様ノ中カラドナタカ一人舞台ヘオ上リ下サイ」
と言った。――そう言われても何をされるのかわからないし、誰にしてもこの大勢の観客の前へ出て行く勇気はちょっとあるまい。
「私ノ座員デハ面白味ガ足リマセン、ドウカドナタデモ宜《ヨロ》シイ、オ客様ノ中カラー人オ出《イ》デ下サイ」
ブルスカヤ嬢が繰返《くりかえ》した時、不意に、――ジュリや[#「や」に傍点]が席を起《た》った「あ、ジュリや[#「や」に傍点]!」
「お嬢さま、――」
ジュリや[#「や」に傍点]は振返って、「大丈夫ですわ。私もと曲馬団《サーカス》にいた時、これと同じ奇術をしたことがあるんですの。だから行って種を見破って驚かしてやりますわ」
そういうと、尚《なお》も引止めようとする八千代の声を後に、羞じらいもせず舞台へ上って行った。わあっ[#「わあっ」に傍点]と割れるような拍手、ブルスカヤ嬢は愛想よく迎えてジュリや[#「や」に傍点]を舞台の中央へ導き、
「コノ美シイオ嬢サマガ、私ノ望《ノゾミ》ヲ叶エテ下サイマシタ。厚クオ礼ヲ申シマス。――サテコノオ嬢サマニ、コノ箱ノ中ヘ入ッテ頂キマス」
「――しっかりやれ」
三階で客の叫ぶ声がした。――人々はどんな珍しい奇術が始るかと、息を殺して見守っている。ブルスカヤ嬢は軽い音楽に合わせて、ジュリや[#「や」に傍点]を列の箱の中へ入れた。
箱は黒く塗ったもので、大きさは丁度《ちょうど》人が一人立って入れる程である。下に四本の脚があって、舞台の床々は離れている。――つまり大きな人形箱と思えば間違はない。ブルスカヤ嬢はその中へジュリや[#「や」に傍点]を入れ、もう一度箱の四方を検《あらた》めてから正面の蓋を閉めた。ジュリや[#「や」に傍点]の姿は箱の中に閉籠《とじこ》められたのである。
「――サテ皆様、御覧ノ通リ唯今ノオ嬢サマハコノ箱ノ中ヘ入リマシタ。不思議ナ箱ハドンナ魔力ヲ現シマショウカ、――ハイ!」
そういうと共に、ブルスカヤ嬢は一歩さがって突然|拳銃《ピストル》を射った。それまで一度も拳銃《ピストル》を使わなかったので、不意を食《くら》った観客はぎくりとする――刹那、ブルスカヤ嬢はさっ[#「さっ」に傍点]と箱の蓋を取払った。
「おお……」
観客は目を瞠《みは》った。箱の中にはジュリや[#「や」に傍点]の姿はなく、美しいひと籠の薔薇の花が、色もあざやかに咲いている。――どっ[#「どっ」に傍点]とあがる拍手のどよめきに、ブルスカヤ嬢はにこにこと会釈を返しながら、
「――不思議ノ箱ハオ嬢サマヲ薔薇ノ花ニ変エマシタ。デモコノ儘《ママ》デハオ家ヘオ帰リニナレマセン。今度ハ元ノオ嬢サマニ戻シテ御覧ニ入レマス」
そう言って手早く箱へ蓋をする。四人の助手の男がその介添《かいぞえ》をしてすぐ退《しさ》ると、――嬢は再び拳銃《ピストル》を一発。
「――ハイッ」
と、言って蓋を明けた。
ジュリや[#「や」に傍点]が現れたか? 否! そこには、薔薇の花もなく、ジュリや[#「や」に傍点]の姿もない。箱の中は空である。――三千人の観客は思わず、おや[#「おや」に傍点]……と呟いて身を乗出した。意外な失敗である。ブルスカヤ嬢はちょっとまごついたが、素早くもう一度蓋をして、
「ハイッ、オ嬢サマドウゾ」
そう言って、三度めの拳銃《ピストル》、そして蓋を明けたが、依然として箱は空であった。――八千代は恐しい予感に襲われて、
「孝平さん、ジュリや[#「や」に傍点]が、ジュリや[#「や」に傍点]が」
と絶叫しながら椅子《いす》から起つ、――同時に舞台の上では、
「幕! 早く幕を引けッ」
と喚く声がして、この失敗を隠すためにあわただしく幕が閉められた。観客は湧きたった。拍手する者、怒号する者、足を踏鳴《ふみなら》らす者、口笛を吹く者、――三千人の観衆は一時に、狂ったように非難の声をあげた。
[#3字下げ]従兄の活躍[#「従兄の活躍」は中見出し]
「ジュリや[#「や」に傍点]が攫《さら》われた、ジュリや[#「や」に傍点]が」
八千代は胸も潰れる思《おもい》で叫んだ。――あの頬に疵のある曲馬団《サーカス》の男が、この奇術師たちと共謀してジュリや[#「や」に傍点]を攫ったに違いない。
「孝平さん助けて、ジュリや[#「や」に傍点]を助けて」
「大丈夫です、僕が引受けました」
孝平さんは憤然と起上《たちあが》るや、八千代の手を曳《ひ》いて大股に舞台へ上った。――とその時、二人の後から走って来て、
「やっ[#「やっ」に傍点]ちゃん、どうしたんだ」
と、声をかける者があった。振返って見ると意外にも従兄《いとこ》の沢木順吉である。
「まあお従兄《にい》さま」
八千代はとびついた。
「よく来て下すったわ。いま大変なことが起ったのよ」
「知ってるよ、僕も偶然観に来ていたんだ。ジュリや[#「や」に傍点]が舞台へ上ったので驚いたんだが、なに大したことはないだろう」
「いいえ、いいえ、大変なことがあるのよ、――今まで誰にも言わなかったけれど、実はジュリや[#「や」に傍点]はある悪者に狙われていたんです」
八千代はそう言って、手短にジュリや[#「や」に傍点]の身の上を話した。
――沢木順吉はそれを聞くや、曾《かつ》ての夜のことも思い出されて、これは普通の失敗ではないぞと直感した。
「どうぞお願い、曲馬団《サーカス》の男に攫われたに違いないんですから、早くジュリや[#「や」に傍点]を助けてやって!」
「――そうか」
順吉は頷いて、「兎《と》に角《かく》すぐに検《しら》べてみよう。こっちは僕と孝平君がやるから、やっ[#「やっ」に傍点]ちゃんは表の休憩室で待っておいで」
「本当にきっと助けてね」
「大丈夫、すぐに片をつけて行くよ」
そう言って沢木順吉は、孝平さんと共に幕をくぐって舞台へ乗込んで行った。――お従兄《にい》さまが来れば大丈夫だわ。八千代はそう思ったので、言われた通り表の休憩室で待つことにした。
沢木順吉と孝平さんが入って行った時、舞台ではブルスカヤ嬢はじめ全座員が、例の箱を中心に顔色を変えて騒いでいた。――順吉はつかつかと側へ行って、
「一体どうしたのですか」
と、声をかけた。
「あの少女は我々の知人ですが、どうしたという訳ですか」
「下手なことをすると為にならんぞ」
孝平さんも側から喚きたてた。ブルスカヤ嬢はおろおろと手を揉絞《もみしぼ》りながら、
「オオ、私達ニモ訳ガワカリマセン、オ嬢サンハ消エテシマッタノデス、コノ箱ノ中カラ煙ノヨウニ消エテシマッタノデス」
「よく事情を話して下さい」
「コノ奇術ハ簡単デス、御覧下サイ」
そう言って嬢はしどろもどろに奇術の説明をした。――それは極めて単純な技巧《トリック》で、人を入れた箱は、四人の助手が集る刹那、舞台の穴から下へ脱《ぬ》けて、代りに花の入った箱がせり[#「せり」に傍点]上る、ただこれを素早くやるだけが技術で、どこにも怪しむべきところはなかった。
「そうすると、ジュリや[#「や」に傍点]の入った箱は、花とすり代る時舞台の下へぬけるのですね」
「ソウデス」
「では舞台の下を見せて下さい」
ブルスカヤ嬢を先に、みんなは舞台下へと降りて行った。――そこは電灯の光も暗い陰気な場所で、今しも大勢の人夫達が、奇術に用いる大道具をせっせと荷造《にづくり》しては、片端《かたっぱし》から外へ運び出しているところだった。
「この荷物はどうするのですか」
「……今日デ此処《ココ》ハ打止《ウチドメ》デスカラ、済ンダ道具カラ順ニ、次ノ興行地ヘ送ルタメ、東京駅ヘ運バセテイルノデス」
「ああ、それだ、畜生」
座員の説明を聞くなり、孝平さんは拳を振上げて喚いた。
「――これでわかった、こいつ等はジュリや[#「や」に傍点]の箱が舞台下へぬけた時、あの娘を攫って大道具の中へ押籠め、送り出す荷物と一緒に東京駅へ運んだに違いない。沢木さん、僕はすぐ東京駅へ行って荷物を押さえて来ます!」
「まあ待ち給え」
と、沢木順吉の止める暇もなく、孝平さんは尻尾に火のついた獅子《ライオン》のように、跳《おど》り上ってはせ去った。――それと殆ど入り違いに、休憩室から八千代が駈けつけて来た。
「お従兄《にい》さま大変だわ」
「え、どうしたの」
「私《あたし》お父さまから大事な御用を頼まれていたのよ。三年町の渡邊中将へ書類を届けるようにって……」
「それでどうしたのさ」
「私《あたし》その書類を手嚢《ハンド・バッグ》へ入れて持っていたんだけど、お化粧室へ立つ時ちょっとジュリや[#「や」に傍点]に預けたの。そしてそのまま返して貰うのを忘れてしまったのよ」
「じゃあその書類は――?」
「ジュリや[#「や」に傍点]が持っている筈《はず》だわ」
不意に沢木順吉の顔色が紙のように白くなった。彼は両手で頭を掴むと、どっかり側にあった椅子へ腰をおとし、低く呻き声をあげながら何事か考《かんがえ》を纏《まと》めようと焦りだした。――然しそれはそう長い時間ではなかった。やや暫《しばら》く頭を掻※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]《かきむし》っていたと思うと、
「そうだ、それに相違ない!」
と、叫んで起上り、「やっ[#「やっ」に傍点]ちゃん、すぐに家へ帰るんだ。早くしないと大変なことになる」
「でもジュリや[#「や」に傍点]は、――?」
「それは後でわかる、早く!」
というと、八千代を引摺るようにして劇場をとび出し、自動車を拾って青山の金沢家へ全速力で走らせた。――大変なことになるとはなんであろう。肝心のジュリや[#「や」に傍点]を抛《ほう》っておいて何のために家へ帰るのか? 八千代にはまるで見当がつかなかった。
やがて車が屋敷の門前へ着くと、
「すぐ戻って来るから待っておいで」
と、八千代を自動車の中に待たせておいて、沢木順吉は家へとび込んで行った。八千代は心も空《から》に待っていた。――ジュリや[#「や」に傍点]はどうなるか、大切な父の書類は?
「――ああどうしよう」
と身悶《みもだえ》をしながら呟く。――およそ二十分も経った時分、順吉は戻って来た。顔色は益々蒼い。身を投込むように車へ乗ると、
「横浜へ、全速力だ!」
と叫んだ。
[#3字下げ]意外な結果[#「意外な結果」は中見出し]
走った走った。自動車は交通係の眼を避けながら疾風のように走って、三十分足らずのうちに横浜へ入った。――沢木順吉はそれまで石のように黙っていたが、
「波止場の二号岩壁へ着けてくれ」
と命ずる。――自動車はいうがままに海岸通へ入ると、巧みに税関を突破して、黄昏《たそがれ》の迫る二号岩壁へ辷《すべ》り込み、上屋の角で危く急停車をした。……沢木青年は窓から身を乗出すようにして前方をすかし見ていたが、
「や、しめた、間に合ったぞ!」
言いさま車をとび出し、
「やっ[#「やっ」に傍点]ちゃん、車から出るんじゃないぜ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
と叫びながら駈けだして行った。
何事が起るのだろう。――八千代は半身を乗出して見た。従兄の順吉が走って行く前方に、四五人の人影が見える。その人達は岸壁に着いている外国の貨物船へ乗るところらしい。
「――ああッ」
八千代は思わず叫《さけび》をあげた。見よ――追いついた順吉は、今しも船橋《ブリッジ》へ登ろうとしている人影へ、猛然と襲いかかったのだ。
「お従兄《にい》さま、危いッ」
八千代は我を忘れて車からとび出した。
なんというすばらしさ、不意を衝《つ》かれて、一瞬人影が入乱れたと思うと、見る間に二人、三人、――順吉の鉄拳を食ってばたばたと倒れた。その隙に船へ逃込もうとする奴、順吉がつぶて[#「つぶて」に傍点]の如く追いすがると、相手は敵わぬと見たか、いきなり振返りざま拳銃《ピストル》を取出して、
がん!
と射った。
「ああ――ッ!」
八千代が絶望の叫をあげた。然しその刹那! 不意に小さな人影が現れ、順吉の面前へ盾のように大手を広げて立塞がった。拳銃《ピストル》から迸《ほとばし》り出た火花は、その人影の真正面で引裂けた。実に間髪を容《い》れぬ出来事である。半ば夢中で、八千代が自動車の運転手と共に駈けつけた時には、順吉は既に四名の怪漢を打倒し、自分の盾になって弾丸《たま》に倒れた一人を、抱起《だきおこ》しているところだった。
「――お従兄《にい》さま!」
駈寄《かけよ》った八千代が叫ぶと、順吉は振返って悲しげに眼をうるませ、
「やっ[#「やっ」に傍点]ちゃんか、――さあ見ておやり」
と抱いていた人を示した。
「おまえの、おまえのジュリや[#「や」に傍点]だよ」
「ええ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
八千代は仰天しながら覗き込んだ。従兄《あに》の手に抱かれているのは、正しく八千代の愛するジュリや[#「や」に傍点]であった。
「まあ、まあ、――ジュリや[#「や」に傍点]」
「お嬢さま……」
ジュリや[#「や」に傍点]は苦しげに言った。「――お赦《ゆる》し下さいませ、ジュリや[#「や」に傍点]は悪い人間でした。でも今は後悔しています。――後悔して、……」
そこまで言ってジュリや[#「や」に傍点]は、がくりと順吉の腕の中で気絶した。
これで事件は終ったのよ啓子さん。
ジュリや[#「や」に傍点]は攫われたんじゃなかったの。自分で劇場から逃出したんだわ。なぜってそれは、緑色の封筒に入ったお父様の書類が欲しかったからよ。
ジュリや[#「や」に傍点]は可哀そうな娘よ。悪者の手先に使われてお父さまの「D……電波」の秘密を盗み出すために家へ来たんですって、でも家で暮すうち悪事が恐しくなって止《よ》そうと決心したの。けれど悪者たちはお父さまや私《あたし》を殺すと言って脅かすので仕方なくあんなことをしてしまったのだというわ。
曲馬団《サーカス》にいたことは本当だし、そのために旨く奇術を利用して逃げたのだけれど、あの脅迫状は嘘だったの。嘘というよりあれは実は暗号通信だったのよ。お従兄《にい》さまが調べてみたら、最後の脅迫状には「横浜港二号岩壁、午後七時までに来れ」と暗号で書いてあったんですって、それで危く駈けつけた訳ね。むろん書類は無事だったわ。
私がお父さまのお使で、渡邊中将の家へ届けた書類は、みんな「D……電波」の機密図だったの。それを悪者たちが感付いてジュリや[#「や」に傍点]に狙わせたのね。でももう悪人達は捉《つかま》ったし、これですっかり安心よ。――ジュリや[#「や」に傍点]の傷は幸いと軽く、二週間もすれば起きられるでしょう。お従兄《にい》さまの身代りになったことで、十分罪の償いはついているし、本当に悪かったと後悔しているんですもの今まで通り私の仲よしでおくつもりよ。お父さまも許して下すったし、ジュリや[#「や」に傍点]は泣いて感謝したわ。
面白かったのは孝平さんで、あの豪傑は東京駅へ駈けつけると貨物室で奇術の大道具をひっ掻廻《かきまわ》しながら、三時間も虎のように喚きちらしていたんですって。ほほほほ今度いらしったらそう言って御覧なさい、あの豪傑きっと降参するわよ。――ではこれで失礼。
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第五巻 スパイ小説」作品社
2008(平成20)年2月15日第1刷発行
底本の親本:「少女倶楽部」
1937(昭和12)年6月増刊
初出:「少女倶楽部」
1937(昭和12)年6月増刊
入力:特定非営利活動法人はるかぜ