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西品寺鮪介
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西品寺鮪介
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)池田光政《いけだみつまさ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)藩|池田光政《いけだみつまさ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#8字下げ]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
鳥取藩|池田光政《いけだみつまさ》の家臣、佐分利猪十郎《ざぶりいじゅうろう》という侍が、ある日|千代《せんだい》川へ釣に出た帰り、西品治村というのを通りかかると、とある農家の生垣の中から不意に、
「えーっ」
という鋭い掛声が聞えてきた。
「はてな、こんな辺鄙な百姓家の内で、剣術の気合が聞えるとは不思議なことがあるものだ」
小首を傾げながら、近寄って覗くと、生垣の中に野良着姿の若者が一人、白刄を振り冠って立っている。何を斬ろうとするのか、眼前三尺ばかりの地上をはた[#「はた」に傍点]と睨んで、しばらく呼吸をはかっていたが、咄嗟に、
「かーっ」
喚くとともに斬下した。
「できる!」
と思わず呻いた猪十郎、しばらく若者の容子を見やっていたが、やがて足早に生垣を廻ってつかつかとその場へ入って行った。
「失礼ながら御意を得ます」
声をかけられて振返った若者、
「はあー何だかね」
「拙者は当藩佐分利猪十郎と申します。唯今通りがかりにて慮外ながら、垣の外より御手練拝見、近来になき勉強を仕りました、いささか御挨拶を申上げたく、かようにお邪魔をいたしてござります」
「はあ――」手持ぶさたな返辞だ。
「はばかりながら据物《すえもの》は何でござりますか」
「へえ?」
「いや、据物でござる、何を据物にお斬りなされますか」
据物という意味が分ったか、若者はつと身を跼《かが》めると、地面に突立ててあった一本の縫針を摘み取って猪十郎の鼻の先へぬっと差出した。
「これを斬るでがす」
「針!」
猪十郎眼を瞠《みは》った。
「針をお斬りなさるか」
「三年べえやっとるが、とんとはあ斬れましねえ、めど[#「めど」に傍点]を潰すが関の山で、なかなか真二つにゃなんねえ、まあー死ぬまでにゃ一本も割れべえかと思ってね」
「――」
「剣術はむずかしいだねえ」
平然と額の汗を押拭っている。
針の据物斬! 猪十郎は呆れて声をのむばかりだった。それも何か台にでも横《よこた》えて斬るならしらず、柔かい土に突立てて上から真二つにしようというのだ。振下す刄が強きに過ぐれば針はつぶり[#「つぶり」に傍点]と土の中へ刺埋まってしまうし、当ること弱ければ倒れるに違いない。緩急剛柔の真を得ても、縫針がすばと両断できるであろうか。
猪十郎かたちを改めて、
「気合と申し太刀筋と申し、まったく非凡のお腕前、いずれは隠れて御修業の名ある武芸者と拝察仕るが、お差支なくば御尊名をお聞かせくださいませぬか」
慇懃《いんぎん》に訊《き》くと、若者はにやり笑って、
「名かね、名は鮪介と云いやす」
「鮪介、ただ鮪介でござるか」
「はあ、西品治村の鮪介でごぜえやすよ」
そう答えると鮪介は白刄を担いで、へえ御免と云いすてざま、さっさと母屋のほうへ立去ってしまった。
「不思議だ、不思議な若者だ」
後姿を見送った猪十郎、
「体構え、気合、いずれも法外れの我流ではあるが、殺気の鋭さ、打込の早さは無類の神技だ、はて――何者であろう」
小首を傾ける猪十郎の耳へ母屋のほうから、
「鮪よう――」
「やあ――」
「馬草を乾さねえか」
「やあ――」
という受答えの声が聞えてきた。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
「馬草を乾したら西の畑へ来うよ」
「やあ――」
親爺|沢平《たくへい》と兄の六助《ろくへい》が畑へ出て行くと、鮪介は納屋の前に積上げてある馬草を、せっせと日向へ取ひろげはじめた。すると間もなくうしろで、
「鮪さあ」
と呼ぶ声がする、振返って見るといつかそこへ古市村のお民《たみ》が来ていた。
「お民さか、いつ来ただ」
「いんまの先」
「何か用があって来ただか」
「うん、汝《いし》に話すことがあったでな」
お民の声は暗かった。
「おらに話――また剣術をよせって云うつもりか、そんなら云っても無駄だぞ」
「そんじゃねえ、外のことだ」
お民は強く頭を振った。
お民は古市村の百姓|長左衛門《ちょうざえもん》の一人娘で今年二十一、美人というほどでもないがむっちりとした体つき、鹿のような優しい眸、しっとり湿った唇、漆のように黒く艶やかな髪が、こんな片田舎には珍しく今様であった。鮪介とは四年前からの許婚《いいなずけ》で、もうとっくに鮪介が婿入を済ませていなければならぬところだが、例の剣術狂いでこの針を一本うち割るまでは決して祝言をせぬ、無論外の女にも触れぬと云いだして何と諌めてもきかない、ついには長左衛門は腹を立てて、
「そんなら婿舅の約束も切ってくれ」
といいだした。ところでそうなると、今度はお民が承知しなかった。
「一度婿と定めたからは鮪さはわしが一生の良人、死ぬまで祝言の日を待っています」
これまたなんと云ってもきかなかった。すっかりもて余した長左衛門と沢平、どうともなれと投出したがそれからやがて三年近い間、お民はひたすら鮪介の本望の達せられる日を待暮してきたのである。
「外に話って何だか」
「こんなことをわしが口から云うのは、本当に辛くてなんねえだがなあ――」
お民は思切った調子だった。
「鮪さ、かた[#「かた」に傍点]ばかりでいいだが、わしと祝言してもらえめえか」
「祝言するって?」
鮪介はさも意外なといいたげに眼を瞠る、お民は急込《せきこ》んで、
「それには訳があるだよ鮪さ、じつは母様の病が思わしくなくってな、昨日も医者さまが来て、この冬は越されめえと云わっしゃるだ」
「そうか、そりゃ知らなんだ」
「それで母様もな――」
お民の眼にふっと涙が光った。
「自分がそれを感づいたかして、外に何の望みはねえが、ただお民の祝言だけ見て死にてえと――、口癖のように云うださ鮪さ」
危くこぼれ落ちそうになる涙をそっと指頭で押えながら、お民は救いを求めるように鮪介を見上げるのだった。
「汝が自分からわしがへ来るというまで、石に噛りついても辛棒してまっていべえ、わしはそう心に決めていただ。けれど、母様が頼むように云わっしゃるのを聞いていると、我慢も意地も無くなっただ鮪さ。ほんのかた[#「かた」に傍点]ばかりでいいだよ、母様への孝行仕舞に、わしと祝言をしてもらえめえか」
鮪介は唇を噛みしめながら黙って聞いていたが、やがてきっぱりと答えた。
「できねえ、おらにゃできねえ」
「えっ」
お民はぎくっとして顔をあげた。
「おらこの針を真二つに斬割るまでは、決して女には近寄らねえと願掛をしただ、かた[#「かた」に傍点]ばかりでも祝言は祝言、おらあ願を破ることはできねえ、一度こうと思立ったら遣遂げるまでは鬼になったつもりのおらだ、堪忍してくれろ――お民さ」
「――」
お民は涙にうるむ眸で、じっと鮪介を見上げていたが、何か心に決したとみえ、にっこり頬笑んで頷いた。
「分っただ、わしが悪かっただ鮪さ、わしはやっぱり待っているだ、いまの話を聞かせたら母様にもよく分るべえ。わしこそ堪忍してなあ」
そう云うと思切りよく踵をかえして、さっさと帰って行ってしまった。鮪介はその後姿を見送りながら、
「きっと、きっと斬割ってみせるぞ!」
と心の内に叫ぶのだった。
城下南寺町、佐分利猪十郎からといって、一人の若侍が鮪介のもとへ使者に来たのは、それから二三日後のことであった。
「到来の酒を一盞献じたいから、御都合よろしくば使者と御同道にて御|来駕《らいが》くだされたい」
という口上である。佐分利猪十郎という姓名に覚えがあるから、仕度を改めて鮪介は城下へ出向いて行った。
さて、この辺で鮪介の針割り発願について簡単にその由来を記しておくとしましょう。
時はちょうど大坂の役が終って十五年ばかり、世は泰平の緒についたが人気は未だすこぶる殺伐、百姓|商人《あきんど》の末にいたるまで何かといえば腕力沙汰、したがって体の達者な者は老若を問わず、撃剣の一と手ぐらいは心得ておこうという時世であった。
鮪介もその伝である、三年前の秋の収穫《とりいれ》前に、友達に誘われて剣術を習いに出掛けたのが、城下|外《はず》れの裏店に住む吉原不倒斎《よしわらふとうさい》という老剣客の道場であった。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
この吉原先生。不倒斎などとしかつめらしく名乗っているが、この老人が大したくわせ者、剣法指南どころかじつは木剣の持ちかたも知らぬという始末だ。それがなぜこんなことをしているかというと、老人かつて大坂の陣に人足となって出たことがある。玉造のほうで土運びなどをしているうち、馬鹿の一つ覚えに見たり聞いたりしたのを種に、腐れかけた店に手を入れて道場らしきものを揃え、流行《はやり》物の剣道教授をやってのけたのである。
そういう訳だから不倒斎先生は決して自分は道場へ下りない、入門者があるとまず、人間の体には急所というものが六所ある、そこを狙って打込むのがおよそ剣道の極意である、というような口伝をする、あとはただもう門弟同志勝手放題に殴合いをやらせて、口から出任せの講評をするばかりだった。鮪介はこの道場へ五日通った、五日めのこと――、どういう風の吹廻しか不倒斎先生が、
「今日は儂《わし》が剣法の道話を一つ二つ聞かせよう」
と云いだした。門弟どもが集まるとやおら高いところにのぼって、有ること無いことしゃべった末に、こんな話を始めた、
「昔さるところに弓術者がいた。どうかして極意を得たいものといろいろ考えた末、十八間離れた梁へ一本の縫針を垂らし、これを狙って矢を射ること三年三月、ついには百発百中するに至って日本《ひのもと》の弓取となった、さて剣術とても同じこと、一心凝って修業すれば――」
話がそこまできた時、鮪介はぬっと立上って振向きもせず家へ帰って来た。
「そんならおらも、縫針を斬割って剣術の極意を会得してみせよう!」
そう決心して今日まで、三年余り一日も欠かさぬ針割り修業であった。
話は元へかえります。
使者に連れられて城下へやって来た鮪介、やがて佐分利猪十郎邸の玄関から鄭重に座敷へと招ぜられた。
「ようこそ御入来、遠慮は御無用でござる、どうぞこちらへ」
「へえ、もうこれで充分でござります」
あまり扱いが慇懃なので鮪介ますます訳が分らない、もじもじしていると立派な器で茶と菓子が出た。遠慮をしては悪かろうとおっかなびっくり、菓子を摘み茶を啜っている、ほどなく、
「さて鮪介殿」
猪十郎が膝をすすめた。
「一盞献ずる前にちと所望がござる、押付がましい儀ではなはだ申訳ないが、後学のため拙者門人らに一手御教授くださるまいか、この儀たってお願いにござる」
「はあ?」
さてとそ難題と鮪介は菓子を放出した。猪十郎はそ知らぬ顔でつと立上りざま、
「早速の御承知かたじけのう存じます、道場にはすでに支度ができているとのことゆえ、どうぞこちらへお出ください」
「それでもおらあ、その」
「まず、まず」
慌てて逃げようとする手を掴んでむりやり三宝、鮪介を道場へ引摺って行った。猪十郎あくまで鮪介を隠れたる名剣士と思い込んでいるから、どうかして真の腕前を見ようと計ってしたことである。
「瀬川《せがわ》氏お相手を!」
道場の真中へ連出して鮪介の右手に木剣を握らせると、猪十郎は控えている門人の一人に素早く眼配せをした。
「はっ」
声に応じて立った一人、身軽な仕度に木剣を提《ひっさ》げてつつと進出た。
「そ、そ、そりゃあ駄目でがす、お、おらあへえ」
「御免、やっ!」
鮪介の悲鳴には構わず、瀬川|由良《よしなが》という門人、中段にとると同時に元気一杯の気合だ、
「だ、駄目でがす、駄目で――」
慄えながら木剣を持直した鮪介、心張棒のように前へ突張って立ったが、
「えやっ!」
相手が放った二度めの気合、ぴん! と五体にひびいたとたん、前へ突張っていた木剣がひょいと上段にあがった。同時に下腹へ、ふしぎな力が籠ってくるのを鮪介は感じた。
相手の瀬川は、猪十郎からくれぐれも、名を秘した剣客だからどんな法外れでも油断なくと云われていたのだが、立合ってみると法外れも何もまるで木偶《でく》だ、師匠も悪いいたずらをする、よしそれなら一撃の下にのし[#「のし」に傍点]てくれようと、呼吸をはかってつっと寄りざま、
「やっ!」
一気に呵《か》して上段から、打込もうと動きを起す刹那、間一髪を容れぬ神速だ、鮪介の上体が躍ったと見ると、
「かーっ」
鋭い叫び、同時に瀬川由良の体は木剣もろとも二三間、だだだとはね飛ばされたまま、うんとも云わず身動きもしない。駈寄った一人が急いで検めると左の肩押骨を砕かれて気絶している、驚いてかくと告げるとさすがの猪十郎顔色を変えて、
「うーむ」
呻るばかりだった。しかし、誰が驚くよりも、一番吃驚したのは鮪介自身である。
「次、国分《こくぶ》氏お相手を」
と云われて、上席の一人が眼前へ進出て来るまで、鮪介はことの意外に呆れかえって、何が何やら自分でも分らず、しばらくはぼんやりと立ちつくすばかりだった。
「未熟者でござる、お手柔かに」
「へえ――」
「いざ!」
さっと木剣を引いて二三歩さがる国分|利兵衛《りへえ》、鮪介もやおら木剣を取直した。
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
「やっ、えい!」
誘いの気合をかけながら国分は右足を退きぎみに出た、変化の機をつかんで一刀に突を取ろうという構えだ、鮪介は前と同じく上段にとって動かない。
「えい、おっ!」
しきりに探りを入れるがこれには眉ひとつ動かさぬ、藁人形でも造り付たように黙りきった八方外れの構えだ。焦れ気味の国分利兵衛、どこに隙をみつけたか咄嗟に上段へ振冠ると、
「おっ!」
喚いて打下す、その動きの始まる刹那、それはじつに一瞬の差だけ疾《はや》く、かっ! と鮪介の口を衝く叫び、空を切る木剣に、ばきんと利兵衛の木剣がへし折れて飛ぶ、同時に利兵衛の体はへたへたとその場へ崩落ちた。あっと云って二三人が走寄ってみると、真向を打たれて気絶、木剣を打折った余勢だったから幸い死ぬには至らなかったが、おびただしい鼻血だ。
「息はあるかね」
鮪介は平気な顔をしている。これを見て猪十郎さっと顔色を変え、
「拙者お相手を仕ろう!」
と立上った時、つかつかと道場へ入って来て、
「佐分利氏お待ちなさい」
と止めた者がある。猪十郎振返ると、
「あこれは戸田《とだ》氏――」
「お稽古中にて失礼ながら」
と同藩の士戸田|市郎太《いちろうた》というのが中へ割込んだ、
「急用ができたゆえお邪魔をいたす、佐分利氏はどうぞお居間へ」
「しかし試合を――」
猪十郎がためらうのを、
「いや試合は拙者がお預り申す、まずとにかくお居間へ!」
たって猪十郎を去らせてから、市郎太は慇懃に頭を下げ、
「鮪介殿とやら、お見事なるお手の内とくと拝見仕った、いずれ両三日内に改めて御挨拶申上ぐるでござろうから、今日はこれにてお引取りくださるよう」
「へえ――もういいだかね」
鮪介は拍子抜のかたち、不承不承に木剣をそれへ投出して、
「酒を馳走してくらっしゃるちゅう約束で来ただが、それはどうなるだか」
「急に余儀なき用事が出来致したゆえ、いずれまた後日、ともかく今日はこのままにて」
押出すようにして鮪介をかえした。一方居間へ引取っていた猪十郎は、市郎太の入って来るのを待兼ねて膝をすすめた。
「戸田氏、あの若者を御覧なさったか」
「見ました」
「拙者には合点が参らぬ、見たところはまるで木偶のごとく、木剣を持つ法さえろくに会得しておらぬのに、殺気の鋭さ打込の迅さ、勝負はといえばただ一刀、しかも急所にぴたりと入る金剛力、不思議でござる、ただ不思議と申す外はござらぬ」
「きゃついずれから来ました」
「実は拙者が――」
と猪十郎は、釣帰りに出会ったおりのことを具《つぶさ》に語った。黙って聞いていた市郎太、やがて呻くように、
「ともかくもこれは、一応城中へ申上るほうがよろしかろう、さもないときゃつ、必ず自ら名乗り出るに相違ござらぬ」
「拙者もそう存じます」
猪十郎の声は暗かった。
その頃鮪介は、躍上りたいような気持で城下街を歩いていた。
「おらは勝った、鮪介は侍に勝った!」
そう思うと、大声に喚きだしたかった。
自分がそんなに強かろうとは今日の今まで夢にも知らなかった、自分は西品治の百姓の体で、一生涯|蚯蚓《みみず》のように泥まみれになって働く外には、能も取得もない人間だと諦めていた。それがどうだ、自分は一刀の下に侍を二人まで倒すことができたではないか。おらは強かったのだ、鮪介は強かったのだ! 欣々と大手を振って西品治の家へ帰った。
それから十日ばかり後。
佐分利猪十郎、戸田市郎太の推挙によって鮪介は城中へ召されることになった。勿論破格のことで正式のお目通りではない。当日御馬場で競射が催される、その後で鮪介の技を御覧にいれようというのである。
当日になると、佐分利、戸田両名に伴われてお城へ上る、競射は四つに始まって九つ前に終る、それから簡単に茶菓があって間もなく、鮪介の剣法御覧ということになった。
御馬場の一隅に設けられた略式の座所、もうすっかり仕度ができていて、光政《みつまさ》が床几《しょうぎ》に就くとすぐに審判|岡田甚五兵衛《おかだじんごべえ》が進出た。
「さ、あれへ」
猪十郎に促されて、鮪介は恐る恐るそれへ出て行った。
[#8字下げ]五[#「五」は中見出し]
第一番の相手は旗本組番頭|池田下総《いけだしもうさ》の三男で、戸田流の駿足|平馬《へいま》という若者。挨拶が済むと二三歩さがって得意の上段、鮪介は例によって手前勝手の中段に構えた、が――臍の緒切って以来初めての晴れの場所で、さっきから胴顫いが出て止まらない。
相対すること三十拍子余り、
「えい!」
平馬の第一声だ。
「――」
鮪介は答えぬ。
「えい、おっ!」
第二声――平馬はじりっとわずかに右へ廻る、鮪介はまだ胴顫いがやまない。じっと相手の呼吸を窺っていた池田平馬、突然右足を寄せて、
「おっ!」
喚いて打込もうとする、その出端へ、鮪介の腕が躍って神速に直線を描く木剣、避けも交しもできぬ突だ、見ていた一同があっと声をあげた時、平馬は木剣を落してそれへ膝をついてしまった。
鮪介の勝を宣して平馬のほうへ近寄った甚五兵衛、慌てて控えの若侍に、
「早く医者へ!」
と囁いた。
続いて出た小林弥藤太《こばやしやとうた》という若者、これは左の肩を打砕かれて気絶。三番めは馬廻中小姓の桑島八十八《くわじまやそはち》という、家中きって荒技と名をとった男だ。
「八十八ならむざと負けはとるまい」
と見ている者も膝を乗出した。
桑島は青眼下段、鮪介は法も型もない上段大きく振冠った。人を喰った構えの面憎いこと、八十八は静かにこれを見るより、
「こいつひた押しに限る」
思うと同時に、陰の気合、つと腰をおとすや閃光のごとく、二尺八寸の木剣がのびをうって鮪介の脾腹を衝く、
「やった」
とみる、刹那、猛虎のように咆えた鮪介の木剣が、一瞬の差で早く、八十八の真向に鳴った。遅れて桑島の木剣も鮪介の脾腹へ入ったがこれは、麻幹《あさがら》で払ったほどの力さえなかった。倒れたまま身動きもせぬ八十八、甚五兵衛が検めてみると、頭蓋骨を砕かれて即死している。
「さても恐るべきやつ!」
と舌を巻く甚五兵衛、鮪介はけろりとして、
「次はどなた」
と呼吸も変らぬ有様、これを見て四番に控えていた平林左右助《ひらばやしそうすけ》というのが血相凄じく座を立つ、とたんに光政が手を挙げて、
「待て、試合それまで」
と制止しながら床几を立った。はっと一同が平伏する、光政はつかつかと鮪介の近くへ歩寄って、
「鮪介とやら、見事な手の内褒めとらすぞ」
声をかけられて鮪介ぴったり額を土につけたままだ、光政は続けて、
「聞けばそのほう農家の二男とか申すことだが、武術修業は武家を望んでのことであるか」
「は、はい」
「農は国の基といって大切な業だ、これを嫌って侍を志望いたすなどとは曲事であるが、たって望みとあらば光政取立てて遣わす、どうじゃ」
「は、さ左様でござります」
光政微笑しながら、
「よし、しかと聞届けたぞ、しかし――、そのほうには今後木剣真剣にかかわらず他人との試合を固く禁ずる、余の許しの出るまではこの儀固く相守るように!」
きっと云放つと、そのまま光政は侍臣をしたがえて立去った。
面目をほどこした鮪介、引出物を頂いて退って来たが、針割本願が妙なことから出世の緒口になって、われながら夢に夢見る心地《ここち》である、親爺の沢平も足が地につかぬ悦びよう、親類縁者から知合という知合を招いて、二日ふた晩の大盤振舞をやった。
さてふた晩めの酒も荒れはてて四つ、続く酔が頭へきたので少し風に当ろうと、鮪介は座を外して庭へ出た。すると物蔭の暗いところから誰か出て来た、
「誰だ?」
声をかけると、
「わしだよ、鮪さ」
代く云って近寄って来た。
「や、お民さてねえか、どうして汝こんな所にいただ」
「汝がお城へあがってお侍になるだと聞いたから、吃驚して飛んで来ただ、本当だか」
「本当だ、おらもうじき侍になるだ」
お民は闇の中で大きく息をついて云った。
「それはわしが不承知だぞ、鮪さ」
「不承知だって?」
「鮪さとわしとは嫁婿の約束が定《きま》っているはずだ、だから鮪さの一生の大事の場合には、わしがも云うだけのことを云わずにはいられねえだ」
お民は熱のある調子で続けた。
「鮪さ、女はお侍衆と剣術の試合をして勝ったというが、それは何かの間違だと思わっしゃらねえか――、鮪さは高だか二年三年、それも針を割るだとて独《ひと》り仕込の剣術だ、お侍衆はそれとそ立歩きのできるころから、体中傷だらけにして修業さっしゃるだ、どう考えても女の勝てるはずはねえだぞ」
「はずはねえかしれぬが、現におらあ五人まで勝抜いているだぞ」
「それは魔がさしたとでも云うだべ」
「――」
鮪介ぎくっとした。
「勝つはずのねえ鮪さが勝った、勝ったのは本当かも知れぬ、けれどそれには何か訳があるに違えねえだ。なあ鮪さよ、侍になるなんどという無法なことを止めて、どうか約束どおりおらがへ婿に来てくれろ、そうすれば、わしがはなんでも鮪さの思うままにするだ、針が割りたければ一生涯針を割っているがいい、汝の分までわしが野良を稼ぐだから、なあ――」
お民は鮪介の肩へ手をかけた。
[#8字下げ]六[#「六」は中見出し]
「分っただ、お民さ」
鮪介はきっと頷いて、
「だが、おらにはまたおらで考えがあるだ、勝つはずのねえおらが、どうして五人まで立派なお侍衆に勝っただか、それだけでもおらあ知りてえと思っているだ。侍になっても女との約束を反古《ほご》にはしねえ、何も云わずに黙って待っていてくれろ」
「それでも――」
「いや、もう何も云うな、一度思立ったら遣遂げねば済まねえ気性だ、お民さもそれを承知で今日まで待っていてくれたでねえか、どんなに諌めても今は無駄だ、おらを信じてもうしばらく見ていてくれろ」
お民は鮪介の肩から手を放した。
「分っただか」
「………」
お民はこっくりと頷いた、鮪介はちらと四辺《あたり》を見廻すと、逞しい腕を伸ばしてひしとお民を抱寄せた、
「お民」
「鮪さ……」
「お民の熱い息吹が、闇をかすかにふるわせて消えた。
かくて間もなく。
鮪介は五十石をもって士分に取立られ、村の名をとって姓を西品寺と称し名は鮪介、城下馬場下に家を貰って移り住んだ。
なにしろ光政からじきじきに試合止を申渡されたというので家中は大変な評判。どんな勇士か、一度会ってみようと、訪ねて来る者が日に三人五人とある、ところが会ってみると勇士どころか、挨拶もろくろくできぬ田舎者、剣法の話などをしかけても何一つ知らず、
「珍しき据物斬をなさると伺いましたが、本当に針をお割りなさるかな」
訊く者があっても、
「へえ、ほんの悪戯でねえ」
にやにや笑っていて要領を得ない。初めのうちは、家中に聞えた武士を三名まで打倒したという事実があるので、みんなとにかく一目おいていたがそれも長いことではなかった。
「御覧なさい、馬鹿天狗が通ります」
「馬鹿天狗とは何でござるな」
「あれあすこを通る勇士、鮪介とかいう百姓の伜でござる」
「あははは、いやこれはよく申された、正にそのとおり、あれは馬鹿天狗に相違ござらぬ、たしかに馬鹿天狗」
たちまち綽名《あだな》がひろまってしまった。
当の鮪介はそんな噂を聞くや聞かずや、好んで人とも往来せず、暇さえあれば庭へ出て針の据物斬だった。そんな時に生垣の外から、悪戯盛りの悪童どもが覗いて、
「やあーまた馬鹿天狗が針を割りよるぞ」
「針を割って薪にするんか」
「割れはせぬから薪にもなるまい」
「やあー馬鹿天狗、馬鹿天狗」
口を揃えて囃したてるが鮪介は石のように感じない、じっと針を睨下《ねめおろ》しながら、
「少しは見えてきたかな」
独り呟いている。
こうして年が暮れた。やがて春が来て栗谿《くりたに》の花もようやく盛りの頃――。ある日所用あってぶらっと家を出た鮪介、快い春日を浴びながら――大工町筋へさしかかると、向うにわいわい人集《ひとたか》りがしてい叫る、何だろうと近寄って見ると、道の真中に一人の土器商人《かわらけあきんど》が土下座をしている前で、二人の武士が肩をいからかして何やら罵りたてている。
「どうした訳か」
と訊くと見物の一人が、気の毒そうに声をひそめて、
「あの土器売が通りがかりに、荷物の端をお侍様の袖に突掛けたそうで、お侍様はえらく怒って荷を蹴かえした上、邸へ連れて行って斬棄てると、あのとおり呶鳴りたててござらっしゃるので」
なるほどそこには商人の荷がひっくりかえって、土器が粉微塵に砕け散っている、
「さあ立て、立てと申すに」
「死太《しぶと》いやつ、立てと云うに立たぬか」
一人の武士が商人の衿髪を掴んで引立てようとした時、それへ鮪介が出て来た、
「ま、ちょっくら待たっしゃれ」
「何だ」
振かえるとぬっと立っている鮪介、装《なり》は侍だが物腰恰好どことなく間の抜けた有様、
「何だ、何か用か」
「へえ、おらはへえ通りがかりの者でよくは知らねえだが、商人が無礼をしたとか、邸へ連れて行かっしゃると聞いたで及ばずながらはあ止めに入りやした、おらが商人になり代って詑びるだあ、どうか勘弁してやってくらっしゃれ」
「貴公がこやつになり代る? 面白い」
掴んでいた衿髪を放して一人が振返った、
「素町人を斬ったとて手柄にならぬ、みたところ大小を帯びておれば、貴公まさか黙って斬られもすまい、尋常に勝負をしよう」
「そうだ、この場において勝負しよう!」
別の武士も意気込んで刀の柄へ手をかけた。
「そりゃあせっかくだが駄目でがす」
「なに、何が駄目だ」
「勝負をしてえはやまやまだが、おらあお殿様から立合を禁じられているだ、お殿様のおおせつけに反くは恐多いこんだで勝負することはなんねえ、その代りお前様らの云うように詑びごとをするからそれで勘弁してくらっしゃれ」
殿から試合禁止と聞いて二人の侍が顔を見合せた。
「貴公、姓名は?」
「西品寺鮪介と申しやんす」
あ、馬鹿天狗と思わず一人が呟く、改めて顔を見合せた二人、何やら眼頭で頷き合っていたが、
「しからば西品寺殿、御上意で勝負がならぬとあれば是非もござらん、格別の我慢をもって我ら外に望みを致そう」
[#8字下げ]七[#「七」は中見出し]
「どうすればいいだか」
「我ら両名にて貴公の頭を五つずつ殴る。それにてこの町人を赦して遣わそう」
「おらの頭を殴るだけで済むかね、そりゃあありがてえこんだ、殴られますべえ」
にやっと笑った鮪介、大刀を脱って膝へ、ぴたりとその場へ座ってしまった。
「よいか」
と歩寄る一人、鮪介が、
「やあ」
と頷く、とたんに拳が空に躍ってはっしと横鬢へ来た。うん! と堪える鮪介、続けて一つ、また一つ、力任せに五つ殴りつけると、代って別のが同じ横面を、容赦もなく擲《なぐ》りとばした。鮪介はまるで石仏、眉も動かさず黙然と端座している、それを見るより、
「これはおまけだ!」
と喚きざま足をあげて肩を蹶《け》った、不意をくらってばったり横へ、倒れるところへもう一人がぺっと唾を吐掛けて、
「土百姓、分際を知れ」
と罵った。その刹那、かっと眼を瞠いた鮪介、空を睨んで一言、
「分った、これだ!」
呻くように叫ぶと、ぱっと起つなり駈けだした。度胆をぬかれた一同、
「や、馬鹿天狗の気が狂った」
「天狗の気違だ」
わあっと騒ぎたったが、鮪介はそんなことにお構いなく宙を飛んで家へ帰った。
家に帰るとくるり裸になる、井戸端へ出て頭から。水を、ざぶりざぶりと二三十杯ばかりかぶった、それが済むと手早く仕度を改めて庭先へ、例の据物斬の用意である。
用意ができると刀を握ってすすむ、そのまましばらく瞑目して神気を鎮め呼吸をととのえていたが、鮪介やおら刀を大上段に振冠った。ふしぎや、腹の底に満溢れてくる力、五体にみなぎる活発たる気魄、かつて覚えたことのない晴れきった気持だ。
「かーっ!」
地軸も裂けよと斬下す、刄の下に見事、縫針は二つに斬割られた。刀をひいた鮪介、ややしばらくじっとこれを見戍《みまも》っていたが、
「割った、とうとう針を割った」
呻くように呟く、すぐに用意の二の針を立てた。充分に呼吸をはかって斬下す、誤たずこれも真二つだ、続けて三の針――。
「これでよい!」
三の針を斬割ると同時に、鮪介はからり白刄を投出した。
「今日まで斬れなかったのは、針を割ろうという執念が邪魔をしていたのだ。さっき土器売の難儀を買って出て、乱暴者の拳に打たれた時、自分の心には利慾も名聞もなかった。力任せに擲られたが不思議にすこしも痛くない、はてな――と考えた刹那肩を蹶られて分際を知れと罵られた、あの声ではっと眼が明いたのだ。分際を知れ! これだ」
鮪介は幾度も独り頷いた。
「分際を知れば、心に執念も利慾もない、針を割るごときはすでに末の末である。もうこれで充分だ!」
鮪介はにっこり笑って座敷へあがった。
[#8字下げ]八[#「八」は中見出し]
「あれ鮪さでねえか」
ふいに眼前へ現れた鮪介を見て、お民は眼をいっぱいに瞠りながら叫んだ。
「おらだよ、これを見てくれろ」
鮪介はにこにこ笑いながら、泥まみれの野良着の袖を自慢そうに叩いて見せた。
「あれまあ、それで、汝ゃあどうするだか」
お民は訳が分らぬという顔だ。
「おらあ針を斬割っただ、それでお民さとの約束を果すべえとてやってきただ」
「え?」
「婚礼の式なんぞはいつでもやるがよい、おらあたった今から長左衛門殿がの婿だあ」
「ほ、本当だか、本当だか鮪さ」
「嘘か本当か見るがいい、それ、その鍬をこっちへ貸せよ、これからこの土地全部を因幡《いなば》きっての上地にして見せるだぞ、それがおらの婿引出よ、あははははは」
「まあ、嬉しいだ鮪さ、もうこれからは死んでも放さねえだぞ!」
わきあがる悦びを抑えかねて、お民は思わず鮪介に縋りついた。
「どりゃ、おらの仕事ぶりを見せべえか」
晴れあがった春日の下に、鮪介は大きく鍬を振上げるのだった。
鮪介退散と聞いた光政は、
「余が初めより考えていたとおりであった、よいよい捨おけ」
と云ったきり――、かくてそれから三年の月日が流れ去った。
野廻り(農事視察のこと)に出た光政、諸方を巡視して古市村へさしかかると、不意に百姓長左衛門の家へ立寄った。
お目通りを許されるとあって、長左衛門(妻は先年亡くなっていた)、娘お民、婿鮪介それに孫の五郎太[#「ごろうた」に傍点]と、この四名の者が御前へまかり出た。
四名が遙にさがって平伏するのを見て、
「鮪介、久方ぶりであったな」
と光政が声をかけた。
「はっ」
「あの節はそのほう何も申さずに立退いたが、かねての本願は達したであろうな」
「は」
鮪介はしずかに面をあげて答えた。
「お訊ねにより申上まする、私かたの田よりは反当り米十二俵を収穫《とりいれ》いたします。薯《いも》は近頃どうやら、御領内での粒揃いと名をとりましてござります、また大豆は年々五十石止りのところ、同じ畑面にて九十石まで穫《まき》上げました。――本願を達したとまでは申せませぬが、いま二三年もすれば、どうやら半人前の百姓にはなれようかと存じまする」
「あっぱれ! よくぞ申した」
光政は膝を打って、
「本願成就と訊けば、定めし針を割ったことを申すであろうと存じたが、収穫の自慢をいたすところ真の極意を会得した証拠だ、光政満足に思うぞ」
「恐入りまする」
「反当り十二俵とは、さすがにやるのう、据物に針を斬割った剣道の極意を、農事に移してかほどまでに役立てる――長左衛門とやら、よき婿を持って果報じゃな」
「へ、へい」
長左衛門の眼からはらはらと熱い涙が落ちた。光政は初めて後に控えている佐分利猪十郎、岡田甚五兵衛はじめ家臣一同に向って云った。
「今こそ話してもよかろう、初め鮪介が城中で試合に勝ったのは、技の優劣ではない針を割ろうという烈しい執念だ、勿論据物に針を斬るなどということは古今に聞かぬ例で、見事にこれをやってのけた鮪介は非凡な者である、しかし、針を割った刹那、執念の迷いから覚めて飜然と村へ帰ったことは、それにもまして非凡と云わなければなるまい。余は初めて馬場での試合を見た時から、今日の来るであろうことを推察していたのだ、余の未熟な推察が外れなかったことは、余にとっても領分にとってもじつに幸運であったと思う。――一人の百姓鮪介は百人の西品寺鮪介よりも尊い国の宝であろう」
云い終えた光政の眼には、いつか温いものが光っていた。
これ以上何も語るには及ぶまい、鮪介の一家は光政が封を移された後も、因幡に遺《のこ》っていて栄えたという。
底本:「強豪小説集」実業之日本社
1978(昭和53)年3月25日 初版発行
1979(昭和54)年8月15日 四刷発行
底本の親本:「キング」
1941(昭和7)年12月号
初出:「キング」
1941(昭和7)年12月号
※表題は底本では、「西品寺鮪介《にしほんじしびすけ》」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)池田光政《いけだみつまさ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)藩|池田光政《いけだみつまさ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#8字下げ]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
鳥取藩|池田光政《いけだみつまさ》の家臣、佐分利猪十郎《ざぶりいじゅうろう》という侍が、ある日|千代《せんだい》川へ釣に出た帰り、西品治村というのを通りかかると、とある農家の生垣の中から不意に、
「えーっ」
という鋭い掛声が聞えてきた。
「はてな、こんな辺鄙な百姓家の内で、剣術の気合が聞えるとは不思議なことがあるものだ」
小首を傾げながら、近寄って覗くと、生垣の中に野良着姿の若者が一人、白刄を振り冠って立っている。何を斬ろうとするのか、眼前三尺ばかりの地上をはた[#「はた」に傍点]と睨んで、しばらく呼吸をはかっていたが、咄嗟に、
「かーっ」
喚くとともに斬下した。
「できる!」
と思わず呻いた猪十郎、しばらく若者の容子を見やっていたが、やがて足早に生垣を廻ってつかつかとその場へ入って行った。
「失礼ながら御意を得ます」
声をかけられて振返った若者、
「はあー何だかね」
「拙者は当藩佐分利猪十郎と申します。唯今通りがかりにて慮外ながら、垣の外より御手練拝見、近来になき勉強を仕りました、いささか御挨拶を申上げたく、かようにお邪魔をいたしてござります」
「はあ――」手持ぶさたな返辞だ。
「はばかりながら据物《すえもの》は何でござりますか」
「へえ?」
「いや、据物でござる、何を据物にお斬りなされますか」
据物という意味が分ったか、若者はつと身を跼《かが》めると、地面に突立ててあった一本の縫針を摘み取って猪十郎の鼻の先へぬっと差出した。
「これを斬るでがす」
「針!」
猪十郎眼を瞠《みは》った。
「針をお斬りなさるか」
「三年べえやっとるが、とんとはあ斬れましねえ、めど[#「めど」に傍点]を潰すが関の山で、なかなか真二つにゃなんねえ、まあー死ぬまでにゃ一本も割れべえかと思ってね」
「――」
「剣術はむずかしいだねえ」
平然と額の汗を押拭っている。
針の据物斬! 猪十郎は呆れて声をのむばかりだった。それも何か台にでも横《よこた》えて斬るならしらず、柔かい土に突立てて上から真二つにしようというのだ。振下す刄が強きに過ぐれば針はつぶり[#「つぶり」に傍点]と土の中へ刺埋まってしまうし、当ること弱ければ倒れるに違いない。緩急剛柔の真を得ても、縫針がすばと両断できるであろうか。
猪十郎かたちを改めて、
「気合と申し太刀筋と申し、まったく非凡のお腕前、いずれは隠れて御修業の名ある武芸者と拝察仕るが、お差支なくば御尊名をお聞かせくださいませぬか」
慇懃《いんぎん》に訊《き》くと、若者はにやり笑って、
「名かね、名は鮪介と云いやす」
「鮪介、ただ鮪介でござるか」
「はあ、西品治村の鮪介でごぜえやすよ」
そう答えると鮪介は白刄を担いで、へえ御免と云いすてざま、さっさと母屋のほうへ立去ってしまった。
「不思議だ、不思議な若者だ」
後姿を見送った猪十郎、
「体構え、気合、いずれも法外れの我流ではあるが、殺気の鋭さ、打込の早さは無類の神技だ、はて――何者であろう」
小首を傾ける猪十郎の耳へ母屋のほうから、
「鮪よう――」
「やあ――」
「馬草を乾さねえか」
「やあ――」
という受答えの声が聞えてきた。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
「馬草を乾したら西の畑へ来うよ」
「やあ――」
親爺|沢平《たくへい》と兄の六助《ろくへい》が畑へ出て行くと、鮪介は納屋の前に積上げてある馬草を、せっせと日向へ取ひろげはじめた。すると間もなくうしろで、
「鮪さあ」
と呼ぶ声がする、振返って見るといつかそこへ古市村のお民《たみ》が来ていた。
「お民さか、いつ来ただ」
「いんまの先」
「何か用があって来ただか」
「うん、汝《いし》に話すことがあったでな」
お民の声は暗かった。
「おらに話――また剣術をよせって云うつもりか、そんなら云っても無駄だぞ」
「そんじゃねえ、外のことだ」
お民は強く頭を振った。
お民は古市村の百姓|長左衛門《ちょうざえもん》の一人娘で今年二十一、美人というほどでもないがむっちりとした体つき、鹿のような優しい眸、しっとり湿った唇、漆のように黒く艶やかな髪が、こんな片田舎には珍しく今様であった。鮪介とは四年前からの許婚《いいなずけ》で、もうとっくに鮪介が婿入を済ませていなければならぬところだが、例の剣術狂いでこの針を一本うち割るまでは決して祝言をせぬ、無論外の女にも触れぬと云いだして何と諌めてもきかない、ついには長左衛門は腹を立てて、
「そんなら婿舅の約束も切ってくれ」
といいだした。ところでそうなると、今度はお民が承知しなかった。
「一度婿と定めたからは鮪さはわしが一生の良人、死ぬまで祝言の日を待っています」
これまたなんと云ってもきかなかった。すっかりもて余した長左衛門と沢平、どうともなれと投出したがそれからやがて三年近い間、お民はひたすら鮪介の本望の達せられる日を待暮してきたのである。
「外に話って何だか」
「こんなことをわしが口から云うのは、本当に辛くてなんねえだがなあ――」
お民は思切った調子だった。
「鮪さ、かた[#「かた」に傍点]ばかりでいいだが、わしと祝言してもらえめえか」
「祝言するって?」
鮪介はさも意外なといいたげに眼を瞠る、お民は急込《せきこ》んで、
「それには訳があるだよ鮪さ、じつは母様の病が思わしくなくってな、昨日も医者さまが来て、この冬は越されめえと云わっしゃるだ」
「そうか、そりゃ知らなんだ」
「それで母様もな――」
お民の眼にふっと涙が光った。
「自分がそれを感づいたかして、外に何の望みはねえが、ただお民の祝言だけ見て死にてえと――、口癖のように云うださ鮪さ」
危くこぼれ落ちそうになる涙をそっと指頭で押えながら、お民は救いを求めるように鮪介を見上げるのだった。
「汝が自分からわしがへ来るというまで、石に噛りついても辛棒してまっていべえ、わしはそう心に決めていただ。けれど、母様が頼むように云わっしゃるのを聞いていると、我慢も意地も無くなっただ鮪さ。ほんのかた[#「かた」に傍点]ばかりでいいだよ、母様への孝行仕舞に、わしと祝言をしてもらえめえか」
鮪介は唇を噛みしめながら黙って聞いていたが、やがてきっぱりと答えた。
「できねえ、おらにゃできねえ」
「えっ」
お民はぎくっとして顔をあげた。
「おらこの針を真二つに斬割るまでは、決して女には近寄らねえと願掛をしただ、かた[#「かた」に傍点]ばかりでも祝言は祝言、おらあ願を破ることはできねえ、一度こうと思立ったら遣遂げるまでは鬼になったつもりのおらだ、堪忍してくれろ――お民さ」
「――」
お民は涙にうるむ眸で、じっと鮪介を見上げていたが、何か心に決したとみえ、にっこり頬笑んで頷いた。
「分っただ、わしが悪かっただ鮪さ、わしはやっぱり待っているだ、いまの話を聞かせたら母様にもよく分るべえ。わしこそ堪忍してなあ」
そう云うと思切りよく踵をかえして、さっさと帰って行ってしまった。鮪介はその後姿を見送りながら、
「きっと、きっと斬割ってみせるぞ!」
と心の内に叫ぶのだった。
城下南寺町、佐分利猪十郎からといって、一人の若侍が鮪介のもとへ使者に来たのは、それから二三日後のことであった。
「到来の酒を一盞献じたいから、御都合よろしくば使者と御同道にて御|来駕《らいが》くだされたい」
という口上である。佐分利猪十郎という姓名に覚えがあるから、仕度を改めて鮪介は城下へ出向いて行った。
さて、この辺で鮪介の針割り発願について簡単にその由来を記しておくとしましょう。
時はちょうど大坂の役が終って十五年ばかり、世は泰平の緒についたが人気は未だすこぶる殺伐、百姓|商人《あきんど》の末にいたるまで何かといえば腕力沙汰、したがって体の達者な者は老若を問わず、撃剣の一と手ぐらいは心得ておこうという時世であった。
鮪介もその伝である、三年前の秋の収穫《とりいれ》前に、友達に誘われて剣術を習いに出掛けたのが、城下|外《はず》れの裏店に住む吉原不倒斎《よしわらふとうさい》という老剣客の道場であった。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
この吉原先生。不倒斎などとしかつめらしく名乗っているが、この老人が大したくわせ者、剣法指南どころかじつは木剣の持ちかたも知らぬという始末だ。それがなぜこんなことをしているかというと、老人かつて大坂の陣に人足となって出たことがある。玉造のほうで土運びなどをしているうち、馬鹿の一つ覚えに見たり聞いたりしたのを種に、腐れかけた店に手を入れて道場らしきものを揃え、流行《はやり》物の剣道教授をやってのけたのである。
そういう訳だから不倒斎先生は決して自分は道場へ下りない、入門者があるとまず、人間の体には急所というものが六所ある、そこを狙って打込むのがおよそ剣道の極意である、というような口伝をする、あとはただもう門弟同志勝手放題に殴合いをやらせて、口から出任せの講評をするばかりだった。鮪介はこの道場へ五日通った、五日めのこと――、どういう風の吹廻しか不倒斎先生が、
「今日は儂《わし》が剣法の道話を一つ二つ聞かせよう」
と云いだした。門弟どもが集まるとやおら高いところにのぼって、有ること無いことしゃべった末に、こんな話を始めた、
「昔さるところに弓術者がいた。どうかして極意を得たいものといろいろ考えた末、十八間離れた梁へ一本の縫針を垂らし、これを狙って矢を射ること三年三月、ついには百発百中するに至って日本《ひのもと》の弓取となった、さて剣術とても同じこと、一心凝って修業すれば――」
話がそこまできた時、鮪介はぬっと立上って振向きもせず家へ帰って来た。
「そんならおらも、縫針を斬割って剣術の極意を会得してみせよう!」
そう決心して今日まで、三年余り一日も欠かさぬ針割り修業であった。
話は元へかえります。
使者に連れられて城下へやって来た鮪介、やがて佐分利猪十郎邸の玄関から鄭重に座敷へと招ぜられた。
「ようこそ御入来、遠慮は御無用でござる、どうぞこちらへ」
「へえ、もうこれで充分でござります」
あまり扱いが慇懃なので鮪介ますます訳が分らない、もじもじしていると立派な器で茶と菓子が出た。遠慮をしては悪かろうとおっかなびっくり、菓子を摘み茶を啜っている、ほどなく、
「さて鮪介殿」
猪十郎が膝をすすめた。
「一盞献ずる前にちと所望がござる、押付がましい儀ではなはだ申訳ないが、後学のため拙者門人らに一手御教授くださるまいか、この儀たってお願いにござる」
「はあ?」
さてとそ難題と鮪介は菓子を放出した。猪十郎はそ知らぬ顔でつと立上りざま、
「早速の御承知かたじけのう存じます、道場にはすでに支度ができているとのことゆえ、どうぞこちらへお出ください」
「それでもおらあ、その」
「まず、まず」
慌てて逃げようとする手を掴んでむりやり三宝、鮪介を道場へ引摺って行った。猪十郎あくまで鮪介を隠れたる名剣士と思い込んでいるから、どうかして真の腕前を見ようと計ってしたことである。
「瀬川《せがわ》氏お相手を!」
道場の真中へ連出して鮪介の右手に木剣を握らせると、猪十郎は控えている門人の一人に素早く眼配せをした。
「はっ」
声に応じて立った一人、身軽な仕度に木剣を提《ひっさ》げてつつと進出た。
「そ、そ、そりゃあ駄目でがす、お、おらあへえ」
「御免、やっ!」
鮪介の悲鳴には構わず、瀬川|由良《よしなが》という門人、中段にとると同時に元気一杯の気合だ、
「だ、駄目でがす、駄目で――」
慄えながら木剣を持直した鮪介、心張棒のように前へ突張って立ったが、
「えやっ!」
相手が放った二度めの気合、ぴん! と五体にひびいたとたん、前へ突張っていた木剣がひょいと上段にあがった。同時に下腹へ、ふしぎな力が籠ってくるのを鮪介は感じた。
相手の瀬川は、猪十郎からくれぐれも、名を秘した剣客だからどんな法外れでも油断なくと云われていたのだが、立合ってみると法外れも何もまるで木偶《でく》だ、師匠も悪いいたずらをする、よしそれなら一撃の下にのし[#「のし」に傍点]てくれようと、呼吸をはかってつっと寄りざま、
「やっ!」
一気に呵《か》して上段から、打込もうと動きを起す刹那、間一髪を容れぬ神速だ、鮪介の上体が躍ったと見ると、
「かーっ」
鋭い叫び、同時に瀬川由良の体は木剣もろとも二三間、だだだとはね飛ばされたまま、うんとも云わず身動きもしない。駈寄った一人が急いで検めると左の肩押骨を砕かれて気絶している、驚いてかくと告げるとさすがの猪十郎顔色を変えて、
「うーむ」
呻るばかりだった。しかし、誰が驚くよりも、一番吃驚したのは鮪介自身である。
「次、国分《こくぶ》氏お相手を」
と云われて、上席の一人が眼前へ進出て来るまで、鮪介はことの意外に呆れかえって、何が何やら自分でも分らず、しばらくはぼんやりと立ちつくすばかりだった。
「未熟者でござる、お手柔かに」
「へえ――」
「いざ!」
さっと木剣を引いて二三歩さがる国分|利兵衛《りへえ》、鮪介もやおら木剣を取直した。
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
「やっ、えい!」
誘いの気合をかけながら国分は右足を退きぎみに出た、変化の機をつかんで一刀に突を取ろうという構えだ、鮪介は前と同じく上段にとって動かない。
「えい、おっ!」
しきりに探りを入れるがこれには眉ひとつ動かさぬ、藁人形でも造り付たように黙りきった八方外れの構えだ。焦れ気味の国分利兵衛、どこに隙をみつけたか咄嗟に上段へ振冠ると、
「おっ!」
喚いて打下す、その動きの始まる刹那、それはじつに一瞬の差だけ疾《はや》く、かっ! と鮪介の口を衝く叫び、空を切る木剣に、ばきんと利兵衛の木剣がへし折れて飛ぶ、同時に利兵衛の体はへたへたとその場へ崩落ちた。あっと云って二三人が走寄ってみると、真向を打たれて気絶、木剣を打折った余勢だったから幸い死ぬには至らなかったが、おびただしい鼻血だ。
「息はあるかね」
鮪介は平気な顔をしている。これを見て猪十郎さっと顔色を変え、
「拙者お相手を仕ろう!」
と立上った時、つかつかと道場へ入って来て、
「佐分利氏お待ちなさい」
と止めた者がある。猪十郎振返ると、
「あこれは戸田《とだ》氏――」
「お稽古中にて失礼ながら」
と同藩の士戸田|市郎太《いちろうた》というのが中へ割込んだ、
「急用ができたゆえお邪魔をいたす、佐分利氏はどうぞお居間へ」
「しかし試合を――」
猪十郎がためらうのを、
「いや試合は拙者がお預り申す、まずとにかくお居間へ!」
たって猪十郎を去らせてから、市郎太は慇懃に頭を下げ、
「鮪介殿とやら、お見事なるお手の内とくと拝見仕った、いずれ両三日内に改めて御挨拶申上ぐるでござろうから、今日はこれにてお引取りくださるよう」
「へえ――もういいだかね」
鮪介は拍子抜のかたち、不承不承に木剣をそれへ投出して、
「酒を馳走してくらっしゃるちゅう約束で来ただが、それはどうなるだか」
「急に余儀なき用事が出来致したゆえ、いずれまた後日、ともかく今日はこのままにて」
押出すようにして鮪介をかえした。一方居間へ引取っていた猪十郎は、市郎太の入って来るのを待兼ねて膝をすすめた。
「戸田氏、あの若者を御覧なさったか」
「見ました」
「拙者には合点が参らぬ、見たところはまるで木偶のごとく、木剣を持つ法さえろくに会得しておらぬのに、殺気の鋭さ打込の迅さ、勝負はといえばただ一刀、しかも急所にぴたりと入る金剛力、不思議でござる、ただ不思議と申す外はござらぬ」
「きゃついずれから来ました」
「実は拙者が――」
と猪十郎は、釣帰りに出会ったおりのことを具《つぶさ》に語った。黙って聞いていた市郎太、やがて呻くように、
「ともかくもこれは、一応城中へ申上るほうがよろしかろう、さもないときゃつ、必ず自ら名乗り出るに相違ござらぬ」
「拙者もそう存じます」
猪十郎の声は暗かった。
その頃鮪介は、躍上りたいような気持で城下街を歩いていた。
「おらは勝った、鮪介は侍に勝った!」
そう思うと、大声に喚きだしたかった。
自分がそんなに強かろうとは今日の今まで夢にも知らなかった、自分は西品治の百姓の体で、一生涯|蚯蚓《みみず》のように泥まみれになって働く外には、能も取得もない人間だと諦めていた。それがどうだ、自分は一刀の下に侍を二人まで倒すことができたではないか。おらは強かったのだ、鮪介は強かったのだ! 欣々と大手を振って西品治の家へ帰った。
それから十日ばかり後。
佐分利猪十郎、戸田市郎太の推挙によって鮪介は城中へ召されることになった。勿論破格のことで正式のお目通りではない。当日御馬場で競射が催される、その後で鮪介の技を御覧にいれようというのである。
当日になると、佐分利、戸田両名に伴われてお城へ上る、競射は四つに始まって九つ前に終る、それから簡単に茶菓があって間もなく、鮪介の剣法御覧ということになった。
御馬場の一隅に設けられた略式の座所、もうすっかり仕度ができていて、光政《みつまさ》が床几《しょうぎ》に就くとすぐに審判|岡田甚五兵衛《おかだじんごべえ》が進出た。
「さ、あれへ」
猪十郎に促されて、鮪介は恐る恐るそれへ出て行った。
[#8字下げ]五[#「五」は中見出し]
第一番の相手は旗本組番頭|池田下総《いけだしもうさ》の三男で、戸田流の駿足|平馬《へいま》という若者。挨拶が済むと二三歩さがって得意の上段、鮪介は例によって手前勝手の中段に構えた、が――臍の緒切って以来初めての晴れの場所で、さっきから胴顫いが出て止まらない。
相対すること三十拍子余り、
「えい!」
平馬の第一声だ。
「――」
鮪介は答えぬ。
「えい、おっ!」
第二声――平馬はじりっとわずかに右へ廻る、鮪介はまだ胴顫いがやまない。じっと相手の呼吸を窺っていた池田平馬、突然右足を寄せて、
「おっ!」
喚いて打込もうとする、その出端へ、鮪介の腕が躍って神速に直線を描く木剣、避けも交しもできぬ突だ、見ていた一同があっと声をあげた時、平馬は木剣を落してそれへ膝をついてしまった。
鮪介の勝を宣して平馬のほうへ近寄った甚五兵衛、慌てて控えの若侍に、
「早く医者へ!」
と囁いた。
続いて出た小林弥藤太《こばやしやとうた》という若者、これは左の肩を打砕かれて気絶。三番めは馬廻中小姓の桑島八十八《くわじまやそはち》という、家中きって荒技と名をとった男だ。
「八十八ならむざと負けはとるまい」
と見ている者も膝を乗出した。
桑島は青眼下段、鮪介は法も型もない上段大きく振冠った。人を喰った構えの面憎いこと、八十八は静かにこれを見るより、
「こいつひた押しに限る」
思うと同時に、陰の気合、つと腰をおとすや閃光のごとく、二尺八寸の木剣がのびをうって鮪介の脾腹を衝く、
「やった」
とみる、刹那、猛虎のように咆えた鮪介の木剣が、一瞬の差で早く、八十八の真向に鳴った。遅れて桑島の木剣も鮪介の脾腹へ入ったがこれは、麻幹《あさがら》で払ったほどの力さえなかった。倒れたまま身動きもせぬ八十八、甚五兵衛が検めてみると、頭蓋骨を砕かれて即死している。
「さても恐るべきやつ!」
と舌を巻く甚五兵衛、鮪介はけろりとして、
「次はどなた」
と呼吸も変らぬ有様、これを見て四番に控えていた平林左右助《ひらばやしそうすけ》というのが血相凄じく座を立つ、とたんに光政が手を挙げて、
「待て、試合それまで」
と制止しながら床几を立った。はっと一同が平伏する、光政はつかつかと鮪介の近くへ歩寄って、
「鮪介とやら、見事な手の内褒めとらすぞ」
声をかけられて鮪介ぴったり額を土につけたままだ、光政は続けて、
「聞けばそのほう農家の二男とか申すことだが、武術修業は武家を望んでのことであるか」
「は、はい」
「農は国の基といって大切な業だ、これを嫌って侍を志望いたすなどとは曲事であるが、たって望みとあらば光政取立てて遣わす、どうじゃ」
「は、さ左様でござります」
光政微笑しながら、
「よし、しかと聞届けたぞ、しかし――、そのほうには今後木剣真剣にかかわらず他人との試合を固く禁ずる、余の許しの出るまではこの儀固く相守るように!」
きっと云放つと、そのまま光政は侍臣をしたがえて立去った。
面目をほどこした鮪介、引出物を頂いて退って来たが、針割本願が妙なことから出世の緒口になって、われながら夢に夢見る心地《ここち》である、親爺の沢平も足が地につかぬ悦びよう、親類縁者から知合という知合を招いて、二日ふた晩の大盤振舞をやった。
さてふた晩めの酒も荒れはてて四つ、続く酔が頭へきたので少し風に当ろうと、鮪介は座を外して庭へ出た。すると物蔭の暗いところから誰か出て来た、
「誰だ?」
声をかけると、
「わしだよ、鮪さ」
代く云って近寄って来た。
「や、お民さてねえか、どうして汝こんな所にいただ」
「汝がお城へあがってお侍になるだと聞いたから、吃驚して飛んで来ただ、本当だか」
「本当だ、おらもうじき侍になるだ」
お民は闇の中で大きく息をついて云った。
「それはわしが不承知だぞ、鮪さ」
「不承知だって?」
「鮪さとわしとは嫁婿の約束が定《きま》っているはずだ、だから鮪さの一生の大事の場合には、わしがも云うだけのことを云わずにはいられねえだ」
お民は熱のある調子で続けた。
「鮪さ、女はお侍衆と剣術の試合をして勝ったというが、それは何かの間違だと思わっしゃらねえか――、鮪さは高だか二年三年、それも針を割るだとて独《ひと》り仕込の剣術だ、お侍衆はそれとそ立歩きのできるころから、体中傷だらけにして修業さっしゃるだ、どう考えても女の勝てるはずはねえだぞ」
「はずはねえかしれぬが、現におらあ五人まで勝抜いているだぞ」
「それは魔がさしたとでも云うだべ」
「――」
鮪介ぎくっとした。
「勝つはずのねえ鮪さが勝った、勝ったのは本当かも知れぬ、けれどそれには何か訳があるに違えねえだ。なあ鮪さよ、侍になるなんどという無法なことを止めて、どうか約束どおりおらがへ婿に来てくれろ、そうすれば、わしがはなんでも鮪さの思うままにするだ、針が割りたければ一生涯針を割っているがいい、汝の分までわしが野良を稼ぐだから、なあ――」
お民は鮪介の肩へ手をかけた。
[#8字下げ]六[#「六」は中見出し]
「分っただ、お民さ」
鮪介はきっと頷いて、
「だが、おらにはまたおらで考えがあるだ、勝つはずのねえおらが、どうして五人まで立派なお侍衆に勝っただか、それだけでもおらあ知りてえと思っているだ。侍になっても女との約束を反古《ほご》にはしねえ、何も云わずに黙って待っていてくれろ」
「それでも――」
「いや、もう何も云うな、一度思立ったら遣遂げねば済まねえ気性だ、お民さもそれを承知で今日まで待っていてくれたでねえか、どんなに諌めても今は無駄だ、おらを信じてもうしばらく見ていてくれろ」
お民は鮪介の肩から手を放した。
「分っただか」
「………」
お民はこっくりと頷いた、鮪介はちらと四辺《あたり》を見廻すと、逞しい腕を伸ばしてひしとお民を抱寄せた、
「お民」
「鮪さ……」
「お民の熱い息吹が、闇をかすかにふるわせて消えた。
かくて間もなく。
鮪介は五十石をもって士分に取立られ、村の名をとって姓を西品寺と称し名は鮪介、城下馬場下に家を貰って移り住んだ。
なにしろ光政からじきじきに試合止を申渡されたというので家中は大変な評判。どんな勇士か、一度会ってみようと、訪ねて来る者が日に三人五人とある、ところが会ってみると勇士どころか、挨拶もろくろくできぬ田舎者、剣法の話などをしかけても何一つ知らず、
「珍しき据物斬をなさると伺いましたが、本当に針をお割りなさるかな」
訊く者があっても、
「へえ、ほんの悪戯でねえ」
にやにや笑っていて要領を得ない。初めのうちは、家中に聞えた武士を三名まで打倒したという事実があるので、みんなとにかく一目おいていたがそれも長いことではなかった。
「御覧なさい、馬鹿天狗が通ります」
「馬鹿天狗とは何でござるな」
「あれあすこを通る勇士、鮪介とかいう百姓の伜でござる」
「あははは、いやこれはよく申された、正にそのとおり、あれは馬鹿天狗に相違ござらぬ、たしかに馬鹿天狗」
たちまち綽名《あだな》がひろまってしまった。
当の鮪介はそんな噂を聞くや聞かずや、好んで人とも往来せず、暇さえあれば庭へ出て針の据物斬だった。そんな時に生垣の外から、悪戯盛りの悪童どもが覗いて、
「やあーまた馬鹿天狗が針を割りよるぞ」
「針を割って薪にするんか」
「割れはせぬから薪にもなるまい」
「やあー馬鹿天狗、馬鹿天狗」
口を揃えて囃したてるが鮪介は石のように感じない、じっと針を睨下《ねめおろ》しながら、
「少しは見えてきたかな」
独り呟いている。
こうして年が暮れた。やがて春が来て栗谿《くりたに》の花もようやく盛りの頃――。ある日所用あってぶらっと家を出た鮪介、快い春日を浴びながら――大工町筋へさしかかると、向うにわいわい人集《ひとたか》りがしてい叫る、何だろうと近寄って見ると、道の真中に一人の土器商人《かわらけあきんど》が土下座をしている前で、二人の武士が肩をいからかして何やら罵りたてている。
「どうした訳か」
と訊くと見物の一人が、気の毒そうに声をひそめて、
「あの土器売が通りがかりに、荷物の端をお侍様の袖に突掛けたそうで、お侍様はえらく怒って荷を蹴かえした上、邸へ連れて行って斬棄てると、あのとおり呶鳴りたててござらっしゃるので」
なるほどそこには商人の荷がひっくりかえって、土器が粉微塵に砕け散っている、
「さあ立て、立てと申すに」
「死太《しぶと》いやつ、立てと云うに立たぬか」
一人の武士が商人の衿髪を掴んで引立てようとした時、それへ鮪介が出て来た、
「ま、ちょっくら待たっしゃれ」
「何だ」
振かえるとぬっと立っている鮪介、装《なり》は侍だが物腰恰好どことなく間の抜けた有様、
「何だ、何か用か」
「へえ、おらはへえ通りがかりの者でよくは知らねえだが、商人が無礼をしたとか、邸へ連れて行かっしゃると聞いたで及ばずながらはあ止めに入りやした、おらが商人になり代って詑びるだあ、どうか勘弁してやってくらっしゃれ」
「貴公がこやつになり代る? 面白い」
掴んでいた衿髪を放して一人が振返った、
「素町人を斬ったとて手柄にならぬ、みたところ大小を帯びておれば、貴公まさか黙って斬られもすまい、尋常に勝負をしよう」
「そうだ、この場において勝負しよう!」
別の武士も意気込んで刀の柄へ手をかけた。
「そりゃあせっかくだが駄目でがす」
「なに、何が駄目だ」
「勝負をしてえはやまやまだが、おらあお殿様から立合を禁じられているだ、お殿様のおおせつけに反くは恐多いこんだで勝負することはなんねえ、その代りお前様らの云うように詑びごとをするからそれで勘弁してくらっしゃれ」
殿から試合禁止と聞いて二人の侍が顔を見合せた。
「貴公、姓名は?」
「西品寺鮪介と申しやんす」
あ、馬鹿天狗と思わず一人が呟く、改めて顔を見合せた二人、何やら眼頭で頷き合っていたが、
「しからば西品寺殿、御上意で勝負がならぬとあれば是非もござらん、格別の我慢をもって我ら外に望みを致そう」
[#8字下げ]七[#「七」は中見出し]
「どうすればいいだか」
「我ら両名にて貴公の頭を五つずつ殴る。それにてこの町人を赦して遣わそう」
「おらの頭を殴るだけで済むかね、そりゃあありがてえこんだ、殴られますべえ」
にやっと笑った鮪介、大刀を脱って膝へ、ぴたりとその場へ座ってしまった。
「よいか」
と歩寄る一人、鮪介が、
「やあ」
と頷く、とたんに拳が空に躍ってはっしと横鬢へ来た。うん! と堪える鮪介、続けて一つ、また一つ、力任せに五つ殴りつけると、代って別のが同じ横面を、容赦もなく擲《なぐ》りとばした。鮪介はまるで石仏、眉も動かさず黙然と端座している、それを見るより、
「これはおまけだ!」
と喚きざま足をあげて肩を蹶《け》った、不意をくらってばったり横へ、倒れるところへもう一人がぺっと唾を吐掛けて、
「土百姓、分際を知れ」
と罵った。その刹那、かっと眼を瞠いた鮪介、空を睨んで一言、
「分った、これだ!」
呻くように叫ぶと、ぱっと起つなり駈けだした。度胆をぬかれた一同、
「や、馬鹿天狗の気が狂った」
「天狗の気違だ」
わあっと騒ぎたったが、鮪介はそんなことにお構いなく宙を飛んで家へ帰った。
家に帰るとくるり裸になる、井戸端へ出て頭から。水を、ざぶりざぶりと二三十杯ばかりかぶった、それが済むと手早く仕度を改めて庭先へ、例の据物斬の用意である。
用意ができると刀を握ってすすむ、そのまましばらく瞑目して神気を鎮め呼吸をととのえていたが、鮪介やおら刀を大上段に振冠った。ふしぎや、腹の底に満溢れてくる力、五体にみなぎる活発たる気魄、かつて覚えたことのない晴れきった気持だ。
「かーっ!」
地軸も裂けよと斬下す、刄の下に見事、縫針は二つに斬割られた。刀をひいた鮪介、ややしばらくじっとこれを見戍《みまも》っていたが、
「割った、とうとう針を割った」
呻くように呟く、すぐに用意の二の針を立てた。充分に呼吸をはかって斬下す、誤たずこれも真二つだ、続けて三の針――。
「これでよい!」
三の針を斬割ると同時に、鮪介はからり白刄を投出した。
「今日まで斬れなかったのは、針を割ろうという執念が邪魔をしていたのだ。さっき土器売の難儀を買って出て、乱暴者の拳に打たれた時、自分の心には利慾も名聞もなかった。力任せに擲られたが不思議にすこしも痛くない、はてな――と考えた刹那肩を蹶られて分際を知れと罵られた、あの声ではっと眼が明いたのだ。分際を知れ! これだ」
鮪介は幾度も独り頷いた。
「分際を知れば、心に執念も利慾もない、針を割るごときはすでに末の末である。もうこれで充分だ!」
鮪介はにっこり笑って座敷へあがった。
[#8字下げ]八[#「八」は中見出し]
「あれ鮪さでねえか」
ふいに眼前へ現れた鮪介を見て、お民は眼をいっぱいに瞠りながら叫んだ。
「おらだよ、これを見てくれろ」
鮪介はにこにこ笑いながら、泥まみれの野良着の袖を自慢そうに叩いて見せた。
「あれまあ、それで、汝ゃあどうするだか」
お民は訳が分らぬという顔だ。
「おらあ針を斬割っただ、それでお民さとの約束を果すべえとてやってきただ」
「え?」
「婚礼の式なんぞはいつでもやるがよい、おらあたった今から長左衛門殿がの婿だあ」
「ほ、本当だか、本当だか鮪さ」
「嘘か本当か見るがいい、それ、その鍬をこっちへ貸せよ、これからこの土地全部を因幡《いなば》きっての上地にして見せるだぞ、それがおらの婿引出よ、あははははは」
「まあ、嬉しいだ鮪さ、もうこれからは死んでも放さねえだぞ!」
わきあがる悦びを抑えかねて、お民は思わず鮪介に縋りついた。
「どりゃ、おらの仕事ぶりを見せべえか」
晴れあがった春日の下に、鮪介は大きく鍬を振上げるのだった。
鮪介退散と聞いた光政は、
「余が初めより考えていたとおりであった、よいよい捨おけ」
と云ったきり――、かくてそれから三年の月日が流れ去った。
野廻り(農事視察のこと)に出た光政、諸方を巡視して古市村へさしかかると、不意に百姓長左衛門の家へ立寄った。
お目通りを許されるとあって、長左衛門(妻は先年亡くなっていた)、娘お民、婿鮪介それに孫の五郎太[#「ごろうた」に傍点]と、この四名の者が御前へまかり出た。
四名が遙にさがって平伏するのを見て、
「鮪介、久方ぶりであったな」
と光政が声をかけた。
「はっ」
「あの節はそのほう何も申さずに立退いたが、かねての本願は達したであろうな」
「は」
鮪介はしずかに面をあげて答えた。
「お訊ねにより申上まする、私かたの田よりは反当り米十二俵を収穫《とりいれ》いたします。薯《いも》は近頃どうやら、御領内での粒揃いと名をとりましてござります、また大豆は年々五十石止りのところ、同じ畑面にて九十石まで穫《まき》上げました。――本願を達したとまでは申せませぬが、いま二三年もすれば、どうやら半人前の百姓にはなれようかと存じまする」
「あっぱれ! よくぞ申した」
光政は膝を打って、
「本願成就と訊けば、定めし針を割ったことを申すであろうと存じたが、収穫の自慢をいたすところ真の極意を会得した証拠だ、光政満足に思うぞ」
「恐入りまする」
「反当り十二俵とは、さすがにやるのう、据物に針を斬割った剣道の極意を、農事に移してかほどまでに役立てる――長左衛門とやら、よき婿を持って果報じゃな」
「へ、へい」
長左衛門の眼からはらはらと熱い涙が落ちた。光政は初めて後に控えている佐分利猪十郎、岡田甚五兵衛はじめ家臣一同に向って云った。
「今こそ話してもよかろう、初め鮪介が城中で試合に勝ったのは、技の優劣ではない針を割ろうという烈しい執念だ、勿論据物に針を斬るなどということは古今に聞かぬ例で、見事にこれをやってのけた鮪介は非凡な者である、しかし、針を割った刹那、執念の迷いから覚めて飜然と村へ帰ったことは、それにもまして非凡と云わなければなるまい。余は初めて馬場での試合を見た時から、今日の来るであろうことを推察していたのだ、余の未熟な推察が外れなかったことは、余にとっても領分にとってもじつに幸運であったと思う。――一人の百姓鮪介は百人の西品寺鮪介よりも尊い国の宝であろう」
云い終えた光政の眼には、いつか温いものが光っていた。
これ以上何も語るには及ぶまい、鮪介の一家は光政が封を移された後も、因幡に遺《のこ》っていて栄えたという。
底本:「強豪小説集」実業之日本社
1978(昭和53)年3月25日 初版発行
1979(昭和54)年8月15日 四刷発行
底本の親本:「キング」
1941(昭和7)年12月号
初出:「キング」
1941(昭和7)年12月号
※表題は底本では、「西品寺鮪介《にしほんじしびすけ》」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ