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癇癪料二十四万石
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癇癪料二十四万石
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)遠侍《とおざむらい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)母|常光《じょうこう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#8字下げ]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
或日のこと本多忠勝が岡崎の城へのぼると、遠侍《とおざむらい》に旧知の京極高次が控えているのをみつけた。
「近江殿《おうみどの》ではないか」
「おお平八殿か、是は久々の対面じゃな」
「かけちがってとんと会わぬが、だいぶ小鬢《こびん》に霜がふえたのう」
笑いながら平八郎はそこへ坐ったが、高次の傍にちんまりかしこまっている少年をみつけて、
「是は誰じゃな」
「わしの伜《せがれ》じゃ、今日上様に初のお目見得を仕るで連れて来た。――これ御挨拶をせい、こちらは本多忠勝殿じゃ」
少年は鈴のように張った大きな眼で、眤《じっ》と忠勝を見上げながら、
「わたくしは京極熊若丸でござります」
力のある良い声だ。
平八郎は眼を細くして幾度も頷《うなず》き、
「おお、よい児じゃのう、何歳になる」
「七でござります」
「京極家の祖先は佐々木高綱公、名家に生れた仕合せには、高綱公に劣らぬ武勇の将になるのだぞ」
自分の子でも愛《いつくし》むように訓《おし》えてから、高次の方へ振返って、一別来の話をはじめた。
ところで、平八郎は話に興じながら、時々片手をあげて熊若丸の頭を撫《な》でた。もちろん悪気があってするのではないが、少年の方ではありがたくないらしい。二度三度までは我慢していたが、四度めの手が来ると、
「無礼でござろう」
吃驚《びっくり》するような声で叫びながら、いきなり平八郎の手をひっ払った。平八郎も驚いたが父の高次も驚いた。
「これ何をする、熊若」
「否《いい》え、勘弁できませぬ」
熊若丸は差添えの柄《つか》に手をかけた。
「我慢していれば良い気になって、さっきから何度もひとの頭へ手をかける、無礼至極な致し方です」
「や、これは失策」
忠勝は身をすくめて、
「子供好きの癖でつい撫でたのじゃ、頭へ手をやったと思われては困る、赦《ゆる》せ赦せ」
「厭《いや》です、常の日なら別、今日は上様へお目通りする大切な体、こんな辱《はずか》しめを受けたままで御前へ出られますか」
「そう云われては尚更困る、粗忽《そこつ》じゃ、どうか枉《ま》げて勘弁して呉れ」
平八郎気の毒な位縮まってしまった。
「それほど仰有《おっしゃ》るなら」
熊若丸はきっとして
「わたくしに貴方の頭を撫でさせて呉れますか」
「儂《わし》の頭を撫でる? ほう、それで勘弁して呉れるか」
「大まけ[#「まけ」に傍点]ですが勘弁致しましょう」
「やれやれ、ではそれ」
ぬっと苦笑しながら頭を差出す。熊若丸は拳骨《げんこつ》を固めると、力任せに忠勝の頭をがんと殴《なぐ》りつけた。
「む! 撫でる筈ではないか」
「是が京極流の撫で方でございます」
けろりとしている。
「はははは京極流か、遖《あっぱ》れ遖れ。よく殴った、平八郎の頭へ手をあげた者はお許《もと》唯一人であろうぞ。その度胸《どきょう》を忘れるなよ」
云いながら思わず熊若丸の頭へ手を伸ばしたが、慌《あわ》てて引込め、
「ほほ、また叱られるぞ」
明るく笑って立上った。
これが後に二十四万石を抛《ほう》って癇癪《かんしゃく》を破裂させた京極忠高の幼時のことで、言ってみれば彼が最初の癇癪玉だったのである。
二代将軍秀忠から諱字《いみなじ》を貰って忠高となったのが慶長八年、同じく十一年には従《じゅ》五|位下《いのげ》の侍従兼若狭守に任官したが、相も変らず癇癪が直らなかった。
忠高の母|常光《じょうこう》は賢母で、大阪の陣には寄手と城中を往来し、和議を成立させた程の女丈夫であるが、この忠高の癇癪にはほとほと手を焼いた。
それで将軍秀忠の第四女保子が忠高の妻として輿入れして来たとき、何よりも先に、
「ほかにお頼みはありませぬ、心懸りなのは忠高の癇癪、どうぞ御許様の力で撓《た》められるものなら撓めてやって下さいませ」
懇々と頼んだ。
保子はもとより利発の女であったから、常光夫人の言葉を胆に銘じ、よくよく忠高を抑えたので、その後大した過ちもなく過ぎた。
父高次の没後遺封を継いだ忠高は、大阪両陣に殊功を樹《た》て、逐年累進《ちくねんるいしん》して寛永二年には従四位下に叙し右近衛権少将《うこんえごんのしょうしょう》に陞《のぼ》り、やがて出雲、隠岐、石州で二十四万余石を領するに至った。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
寛永八年の夏のことである。
備中狭野《びっちゅうさの》の城主松平河内守信敏から使者が来て、一通の書状を呈出した。忠高が披《ひら》いてみると、
(近頃貴家へ仕官した梶井源左衛門《かじいげんざえもん》なる者は、当藩に於いて布目玄蕃《ぬのめげんば》と申すを討って立退いた不逞《ふてい》の男である。玄蕃の兄で主膳と申すが仇討を願い出ているので討たせてやり度く思うに就いて、源左衛門を当方へお引渡しが願い度い)
文面の大意はそういうことであった。
梶井源左衛門はその年の春、百石を以て忠高に抱えられた武士で、武芸に達し人品《じんぴん》骨柄《こつがら》秀で、遖《あっぱ》れものの役に立つべき奴と、新参ながら忠高に愛されていた。
忠高はすぐに源左衛門を呼び出した。
「源左、斯様《かよう》な書面が参って居る、読んでみい」
「は」
源左衛門は河内守の書状を読むと、静かに面をあげた。
忠高が、
「玄蕃というを討ったのは事実か」
「は、討ったと申せばそれに相違はござりませぬが、武道の論がもとで互いの雌雄《しゆう》を決すべく、河州侯《こうしゅうこう》の許しを得て立合いましたもの、討つも討たるるも後怨《こうえん》をのこさずと、固く約束を仕っての上でござります」
「狭野を立退いたは如何なる理由じゃ」
「元来玄蕃は河州侯出頭の者にて、同族も多いことにござりまする故、わたくしが居りまして万一にも騒動なんど起っては一藩の迷惑と存じ、退身致してござります」
「そうか」
忠高は頷《うなず》いて、
「それ丈聞けば充分じゃ、退って宜い」
「は」
源左衛門は平伏したが、
「併《しか》し、御意は如何にござりましょうや、相成るべくは狭野へ参り、主膳と勝負を致し度く存じまするが」
「宜い宜い、余に任せて置け」
源左衛門をさげて忠高は河内守へ書状を認《したた》めた。
(仔細《しさい》を糺《ただ》したところ、源左に非分ありとは認め難いし、また一旦家臣とした者をおいそれと他家へ引渡すような、情を知らぬ仕方は当家の風ではないから、御申出はかたくお断りをする。併し仇討のことであれば、つけ狙って討たるる分には一向差支えないことである)
書状を使者に持たせて帰すと、それなりいつか忠高はそのことを忘れて了《しま》った。
寛永十年江戸在府中のことである。
或日登城して詰《つめ》の間《ま》にいると、つかつかと一人の老人がやって来て、
「若狭殿でござるな」
と声をかけた。
「如何にも忠高でござるが」
「儂《わし》は河内じゃ」
老人は傲然《ごうぜん》と名乗った。
その頃江戸城中で、若い領主達から毛虫のように嫌われている老人がいた、「横車の河内」と呼ばれて、我意の強い横紙破り、気の弱い者はこの老人を見た許《だけ》で逃げだして了う位、したがって当人益々良い気持で、我物顔に押廻っている。
――忠高はすぐに、
――ははあ是が例の横車だな。
と思ったから、慇懃《いんぎん》に辞儀をして、
「お見外《みそ》れ仕った。御無礼」
「ふん」
河内は鼻で笑って、
「梶井源左衛門は健在かな」
と云った。
忠高は訝《いぶか》しそうに老人を見上げたが、はっと先年のことを思出した。
梶井源左を引渡せと言って来た、あの時の松平河内守、――あれがこの横車の河内と同一人であったのだ。改めて相手を見直した忠高、曽《かつ》ての我儘《わがまま》な申分と云い、また眼前に思上った様子を見せつけられて、むらむらと癇《かん》がたって来たから思わず荒い調子が出た。
「左様、至極壮健で居ります」
「ふふん、なる程」
老人は意地の悪い冷笑をくれて、
「ま、宜かろう。結構じゃ、結構じゃ、――布目主膳もな、武芸|出精《しゅっしょう》にて時の来るのを待兼ねて居るのじゃ、いずれ面白い勝負が見られることであろうよ、のう若狭殿」
人を喰った態度である。忠高はそれ以上老人の顔を見ていたら、自分の癇癪がどう破裂するか分らぬと思って、
「多用でござれば是にて、――」
と立上って其場を去った。
それ以来との老人は、忠高と顔を合せる毎にねちねちと絡《から》みかかって、小意地の悪い皮肉や憎まれ口を叩いては、忠高の癇をつつき廻すのであった。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
或時のこと、……
城中詰の間で、七八名集って軍陣の話をしていると、松平河内守が席へ割込んで来て、高声に言葉を挿んだ。
「戦陣の功名《こうみょう》もさることながら、人の運不運は知れぬものじゃ。如何に抜群の功名をたてたところで、運の薄い者は出世も出来ぬ。一例を申せば本多平八郎殿よ、大小の合戦五十余|度《たび》、大阪の陣で果てられる迄軍功は数知れぬ。勇の仁であったが、結局は二十万石足らずの扶持《ふち》じゃ、ところが運の良いのになると親の代まで廩米《りまい》三千|苞《ほう》ばかりの小身であったものがさしたる戦功もなくして易々《やすやす》二十四五万石に経昇《のぼ》る」
じろり忠高に一|瞥《べつ》をくれて、
「運じゃ、なに運が良ければ、その上にまたひき[#「ひき」に傍点]と云う奴もある。親のひき[#「ひき」に傍点]もあるし、また女房のひき[#「ひき」に傍点]もある」
明らかに忠高を諷《ふう》した言葉だ。
――うぬ! と思ったが堪えて、そ知らぬ顔でいると、
河内守は振返って、
「左様ではござらんか若狭殿」
「――――」
「蘆毛《ろもう》の駻馬《かんば》を乗る術《すべ》は知らずとも、女房を乗り当てることさえ上手なれば、出世立身は望み次第、のう若狭殿」
「なる程」
忠高はもりあがって来る癇癪を抑えながら、努めて、冷やかに答えた。
「世間にはそのような物の観方もござるよ、俗にねじけ者の僻《ひが》みと申してな」
「な、なに、ねじけ者の僻み?」
老人の面がさっと変った。
「僻みに相違ござるまい、それともまた論功行賞に当ってお上に依怙《えこ》の御沙汰《ごさた》があったと申されるか」
「儂《わし》はお上の事を引合に出しはせぬ」
「功を賞さるるのは将軍家の思召に依るところでござるぞ、是を非難するのは即ちお上に対して不平を懐かるることではござらぬか、――僻みと申したは拙者の遠慮でござる、それがお気に入らずば理非の程をきっと糺《ただ》し申そう」
「――――」
遉《さすが》の横車河内、是には半句の返す言葉もなかった。一座の面々良い気持そうに、赧黒《あかぐろ》くふくれあがった河内守を見やっていた。併し、忠高は必ずしも良い気持ではなかった。秀忠の娘を妻にしている自分を、快からず思っている者は松平河内守一人ではないのである。現にその一座の中にも、河内の諷刺を痛快そうに見ている者があった。
「何と云う量見の狭い人々だ」
そう思う一方――妻のひき[#「ひき」に傍点]立で、矢張自分は過分の立身をしているのかも知れぬ、という疑が起って、
「いっそ保を離別するか」
と考えるのであった。
併し、当時の大名達が、いずれも妾《しょう》を蓄えているに反して、忠高だけが妻一人を守って、在国中も女を近づけぬ程愛し合っている仲であったから、離別などとは思いもよらぬことであった。
「どうか遊ばしましたか、お顔の色が悪うござりまするが」
邸へさがると、保子が気遣わしげに忠高を見て、そっと笑いながら言った。
「癇をお立て遊ばしましたな」
「分るか」
忠高は苦笑した。
「大きな癇癪筋が二本、お額の両脇に見えて居ります、何か御不快がござりましたか」
「つまらぬ事じゃ、もう納まったから案ぜずとも宜い」
妻の顔を見ているうちに、忠高はもやもやとした胸のわだかまりが霧のように晴れてゆくのを感じた。
その翌年の春のことである。
国入りをする為に、江戸を発足した忠高の行列が、途中保土カ谷の宿をぬけ出て暫《しばら》くすると、供先に何か起ったとみえて停《とま》って了《しま》った。
「どうした」
「は」
駕籠《かご》脇の士が直に走って行った。
忠高の供先がだらだら登りの坂にかかった時である。松並木の陰から仰々《ぎょうぎょう》しい装束をした一人の武士が大剣を抜いて乱暴にも供先の中へ、
「弟の仇だ、源左衛門出合え!」
と喚《わめ》きながら暴れこんで来た。
顔色も変っているし、すっかりうわずって言葉もよく分らぬ有様である。供先の面々は驚いて抜刀しながら取囲んだ。
「狼藉者《ろうぜきもの》!」
先手頭の松木市郎右衛門が、馬を乗りつけて来て大音に、
「手に余らば討取れ」
と叫ぶ、乱暴者は金切声で、
「仇討、仇討でござる」
「なに仇討だ?」
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
「拙者は松平河内守の家臣、布目主膳と申す者でござる。弟玄蕃の敵梶井源左衛門、お供の中に在りとつき止めて推参仕った。尋常の勝負お許しが願い度い」
蒼白な顔で主膳は仇討免許状を差出した。
「手前主人河内守も、この先のところに行列を駐《と》めて居ります」
「暫《しばら》く待たれい」
市郎右衛門は馬をかえして、忠高に此始末を語った。
忠高は言下に、
「不埒《ふらち》な下郎、作法も弁《わきま》えず、斯様《かよう》な途上に抜刀して供先を乱すなど赦《ゆる》せぬ奴。構わぬからひっ括《くく》って了え」
「お言葉にはござりまするが、免許状を持って居り、また街道先十丁余のところに河内守殿が行列を駐めて居らるると――」
「なに河内守がいるとか」
忠高は嚇《かっ》となった。
「やり居ったな、――よし、馬|曳《ひ》け」
「は!」
乗馬が来ると忠高はとび乗って、
「源左を呼べ」
「は」
近習の者が走って行ったがすぐに蒼惶として源左衛門を連れ戻った。
「源左か」
「は」
「布目主膳という奴が、供先へ仇討と名乗って出た、ちと仔細《しさい》あって此場で立合せねばならぬ、余が後見を致す故存分にやれ」
「は、御途上の妨《さまた》げを仕り、何とも申訳ござりませぬ」
「勝てよ」
と云うと馬を進めた。
立合の事が定った。場所は坂を登りつめた右側の草原を撰み、河内守の行列は忠高の一行と相対して原の東西に居並んだ。
やがて仕度をして主膳と源左衛門が、両方から進出て来て向合った。主膳は漸く落着を取戻したとみえて顔色は良く進退も立派である。源左衛門が近寄ると大音に、
「弟玄蕃の仇梶非源左衛門、覚悟」
と名乗る、源左衛門は静かに頷いて、
「参れ」
と一言。
主膳は大剣を抜いて青眼《せいがん》につけ、鋩子尖《きっさき》をやや下げ気味にぐっと右足を寄せる。一刀に突を取ろうという構えである。――源左衛門はまだ抜かない、充分に体を浮かせて眤《じっ》と相手の眼をみている。
「えい!」
主膳は第一声を放った。
「――――」
「えい、おっ!」
第二声、源左衛門の右足が動きを起す、刹那《せつな》! 主膳の体が躍った。
「や――」
同時に源左衛門の足が弾んで、きらりと剣光が空を切った。主膳は踏止まろうとするように一瞬|蹈鞴《たたら》を踏んだが、突を入れた体勢のまま、だだだだ、二三間のめって、草の中へどうと倒れた。
「あっ」
「やった!」
東西一時に息を呑む。源左衛門は静かに懐紙を取出して剣に拭をかけていた。
河内守の家臣が、思出したように駈けて行って見ると、布目主膳は首を殆ど斬放されて即死していた。――それを聞くより、河内守は血相を変えて立上る。いま立去ろうとする源左衛門を、
「待て待て、逃げるか」
と呼止めた。忠高も床几《しょうぎ》を立った。
「此上にも何か御用か」
「無論のことじゃ」
河内守はつかつかと進出て、
「主膳が討たれた上は、布目の親族が居るで、これに仇討をさせねばならぬぞ」
まさに横車である。
「無法なことを云われな」
忠高は鋭く、
「子の仇は親は討たず、弟の仇を兄は討たずと申す、主膳との立合でさえ表沙汰《おもてざた》ならぬ儀であるのに此上親族の者との勝負など思いもよらぬことでござる」
「ははあ、ならんと申すか」
河内守は冷笑して、
「ならんとあれば儂《わし》も河内守じゃ、一度云い出して後へ引く訳にはゆかぬぞ、此上は腕ずくと致そうか」
「なに」
「家臣の仇は儂の仇も同様、これが河内のお国振りじゃ、用意さっしゃれ」
忠高の面上さっと血の気が去った。
――我慢ならぬ。
と思った時、
「や、梶井!」
と叫ぶ声。
振返ると、二三人の者が源左衛門の傍へ走寄っている。
[#8字下げ]五[#「五」は中見出し]
「どうした」
忠高が小走りに寄って見ると、源左衛門は草の上に端坐してみごとに切腹していた。
「や、源左!」
源左衛門は蒼白の面をあげる。
「殿――、御前を汚《けが》し奉り――」
「――――」
「申訳、ござりませぬ」
なつかしげに、眸子《ひとみ》をあげて忠高の顔を見守りながら、
「数々の御配慮、勿体なく、忝《かたじけ》のう、御情のほど七生まで、忘却は仕りませぬ」
「うむ」
忠高は顔を外向《そむ》けた。
「やあ腹をしたか」
のこのこやって来た河内守、
「笑止《しょうし》の者よな、それ程勝負が怖しければ、勘弁する法もあったにのう、流石《さすが》に若狭殿の御家風は違ったものじゃ、ははは」
「河州! まだ申すか」
忠高がたまらず出る。
「と、殿、暫《しばら》く」
源左衛門が苦痛を忍んで叫んだ。
「源左を、犬死に遊ばしまするか――」
「む――」
忠高は胸をしめつけられる思いで踏止まった。自分さえ亡ければ此場が無事に納まるとみて、敢然自刃した源左衛門の思切った、いじらしい覚悟がずんと心底にとたえたのである。
「源左、何も云わぬぞ、快く死ねよ」
「殿にも御武運、長々に」
「さらばだ」
馬を曳かせる忠高は其場を去った。
一年の在国が終った。冬から痛み始めた虫歯が、春になっても良くならず、参勤のために江戸へ発駕する頃は殊に痛みのひどい時期であった。
旅程順よく大井川の手前、金谷の宿へ着いたのが、三月十二日、二三日前から川上に豪雨が続いたので、忠高の行列が宿へ入る半刻《はんとき》ばかり前に渡は川止となっていた。運の悪い時には悪いもので、是より一刻ほど以前、例の横車の河内が川を越していたのである。
島田へあがった河内守、自分のあとに京極忠高が川止をくっていると知ったから、又しても悪戯《いたずら》がしたくなったらしい。
「ちとからかって呉れよう、筆を持て」
料紙硯《りょうしけん》を取寄せると、何やらさらさらと走り書きにする。弓術師範で側近に召使っている瀬沼百太郎というのを招いた。
「是をな、矢文《やぶみ》にして金谷宿へ射込んでみい、届くであろうが」
「は、仕りましょう」
「あいつ奴《め》、さぞ癇癪を起すことであろう、面の見えぬのが残念じゃ」
にやにや笑って、近習を従えて河原へ乗出し、床几を据えて頑張った。
川止に阻《はば》まれて金谷の旅館に入った忠高、折からまた痛み出した歯の療治にかかっていた。生来壮健で、それまで殆ど医薬の味というものを知らなかった忠高は、少しも験《ききめ》のみえぬ医療に些《いささ》か業《ごう》を煮やしていた。――その時も医師|竹島似斎《たけじまじさい》が調じて来た薬湯を一口含むや、
「えい智慧のない」
と言いざま、金椀ごと庭へ叩きつけ、
「毎《いつ》も毎も同じ薬湯、半年の余も用いて効のないものをいつ迄使う気だ」
「は――」
似斎が平伏するのへ、
「医を以って仕え乍《なが》ら、歯痛ひとつ、満足に療治が出来ぬのか」
「申訳ござりませぬ、早速――」
「ええもう宜い、退れ」
似斎は唾壷《だこ》を捧げて怱々《そうそう》に退った。――それと殆ど入違いに、供頭を勤める神崎武太夫が入って来た。
「申上げまする」
「不快だ、急用でなかったら後にせい」
「は」
と平伏したが、持って来た一通の書面を差出した。
「川向うより矢文として、射て参りましたそうで、宿役人よりの届出にござります」
「矢文? ――見せい」
忠高が受取ってみると、宛名《あてな》は正に自分、裏をかえすと松平河内守とあった。
「またか」
むらむらとこみあげて来る憎悪、痛みをこらえ乍ら封を切って読む。
(拝呈。貴、京極家の祖先は佐々木四郎高綱と承る。四郎殿はいみじき武勇の人にて宇治川の先陣に、遖《あっぱ》れ急流を乗り切って一番乗の功名をたてられし事、正に三歳の童児も知るところ、熟々《つらつら》惟《おもんぱか》れば泰平の世とそ有難けれ、斯許《かばかり》の出水に川を止められ、晏如《あんにょ》として惰眠《だみん》を貪《むさぼ》るを得るとは、借問す若狭守忠高侯、宇治川の戦にあって尚四郎高綱たるを得るや如何《いかん》。河内守)
[#8字下げ]六[#「六」は中見出し]
「む!」
読みも終らず、忠高は書面をびりびりと引裂いて投捨てながら、
「武太夫丹波を呼べ!」
「は、――」
蒼惶《そうこう》として京極丹波が来る、忠高は癇に顫える声で、
「丹波、忠高は京極の家を潰すぞ、家臣には済まぬが、武道の為だ何も云うな」
「殿――」
「聞かぬ、止めだて無用」
すっくと立った。
「鎧櫃《よろいびつ》を持て、馬の用意ある者はいずれも物具を着けて余に続け」
「どう遊ばしまするか」
「川を乗切るのだ、仕度を急げ」
そう云って奥へ入った。
癇癪が爆発した。長いこと抑えに抑えてきた癇癪が。川止は天下の法度で、これを犯すことは関所を破るに等しい罪科である。勿論それを承知の爆発だ。
四半刻と経たぬうちに、大鎧を着けた馬上の忠高を先に凡そ三十騎余り、いずれも鎧物具して駿馬《しゅんめ》にまたがり、礫《こいし》を蹴たてて河原へ乗出した。
遥《はるか》に見やれば、島田の川岸には松平河内守の一行が嘲るようにい並んで此方《こっち》を見戍《みまも》っている。忠高は水際へ来ると水勢を案ずる暇もなく、
「続け、一騎も後れるな!」
叫びざま、矢のように渦巻き流れる濁流の中へ、ざんぶとばかり馬を乗入れた。
続く三十余騎いずれも戦場往来の勇士、大阪両陣にめざましく働いて、旗本だけでも三百余級の首を挙げたという強者《つわもの》揃いだ。
「殿に後れる勿《なか》れ!」
「一代の水馬ぞ、眼に物見せてやれ」
わっとおめいて乗入れた。
金谷宿は勿論、島田宿の方でもそれを見るより、川止で宿泊中の諸侯、何事が起ったかと、それぞれ旅館を固め、河原へ人数を出して警戒に当った。
泰平の世に鎧武者三十余騎が、律を破って川を乗切るのだから、両岸の人々の驚きも一倍であったに相違ない。
――唯眼を瞠《みは》り手を振って、あれよあれよと騒ぐうち、さしもの急流を一人の欠くる者なく、みごとに乗切って対岸へあがった。
遉《さすが》に横車の河内、胆を消した。
「是はいかん」
慌てて床几を立って、後を振返り旅館の方へ逃げ出した。――と、見るより忠高、
大音あげて、
「河内殿見参仕ろう」
と叫んだ。
「四郎高綱の後裔《こうえい》、京極忠高の水馬、如何御覧じたか承り度い、河内守殿」
鼬鼠《いたち》のように、こけつまろびつ河内守は夢中で逃げて行く、背をまるめて、履物も脱ぎ捨てて、いやその早いこと、
「はははは」
忠高は馬を煽《あお》って追い詰めながら、思わず腹を揺《ゆす》って笑い出した。
「ははははは、あっははははは」
河内守は右へ左へ、恐怖に身を顫わせながらうろうろと逃げ廻る。
忠高はその後を容赦もなく追いつめた。
「ははははは、あの態《ざま》、ははははは」
癇癪消しとんだ。歯の痛みも忘れた、そして胸いっぱいに吐出す笑いが、晴れあがった大空に、明るく活々《いきいき》とひびき渡った。
法度を犯した律に依って、京極家は取潰し、二十四万石の領地を没収されたのは無論のことであった。
江戸邸へ入った忠高は、妻保子の顔を見ると流石《さすが》に悄然《しょうぜん》として、
「済まなかった、保――勘弁して呉れ」
「なんの」
夫人は静かに頭を振って、
「よう遊ばしました、憚《はばか》りながら御先祖の名を辱《はずかし》めぬお立派なお働きわたくしも嬉しゅう存じます」
「おお、赦して呉れるか」
「はい」
と云って、にっこり笑いながら、
「二十四万石を抛っての癇癪、さぞさっぱり遊ばしましたでございましょう」
「この通りじゃ」
忠高は胸を寛げると、大肌を手でぴしゃりと打ちながら声高く笑った。
松平河内守は、この事件では別にお咎《とが》めはなかったが、間もなく些細《ささい》な失策から国替えになり、十七万石から一遍に二万石ばかりの小身におとされてしまった。
忠高はその後半歳あまりして世を去ったが、特旨《とくしゅ》に依って弟の子高和に家督を命ぜられ、播磨《はりま》の竜野に六万石を賜って、京極家を再興した。
底本:「修道小説集」実業之日本社
1972(昭和47)年10月15日 初版発行
1979(昭和54)年2月15日 新装第七刷発行(通算11版)
底本の親本:「キング」
1935(昭和10)年5月号
初出:「キング」
1935(昭和10)年5月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)遠侍《とおざむらい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)母|常光《じょうこう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#8字下げ]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
或日のこと本多忠勝が岡崎の城へのぼると、遠侍《とおざむらい》に旧知の京極高次が控えているのをみつけた。
「近江殿《おうみどの》ではないか」
「おお平八殿か、是は久々の対面じゃな」
「かけちがってとんと会わぬが、だいぶ小鬢《こびん》に霜がふえたのう」
笑いながら平八郎はそこへ坐ったが、高次の傍にちんまりかしこまっている少年をみつけて、
「是は誰じゃな」
「わしの伜《せがれ》じゃ、今日上様に初のお目見得を仕るで連れて来た。――これ御挨拶をせい、こちらは本多忠勝殿じゃ」
少年は鈴のように張った大きな眼で、眤《じっ》と忠勝を見上げながら、
「わたくしは京極熊若丸でござります」
力のある良い声だ。
平八郎は眼を細くして幾度も頷《うなず》き、
「おお、よい児じゃのう、何歳になる」
「七でござります」
「京極家の祖先は佐々木高綱公、名家に生れた仕合せには、高綱公に劣らぬ武勇の将になるのだぞ」
自分の子でも愛《いつくし》むように訓《おし》えてから、高次の方へ振返って、一別来の話をはじめた。
ところで、平八郎は話に興じながら、時々片手をあげて熊若丸の頭を撫《な》でた。もちろん悪気があってするのではないが、少年の方ではありがたくないらしい。二度三度までは我慢していたが、四度めの手が来ると、
「無礼でござろう」
吃驚《びっくり》するような声で叫びながら、いきなり平八郎の手をひっ払った。平八郎も驚いたが父の高次も驚いた。
「これ何をする、熊若」
「否《いい》え、勘弁できませぬ」
熊若丸は差添えの柄《つか》に手をかけた。
「我慢していれば良い気になって、さっきから何度もひとの頭へ手をかける、無礼至極な致し方です」
「や、これは失策」
忠勝は身をすくめて、
「子供好きの癖でつい撫でたのじゃ、頭へ手をやったと思われては困る、赦《ゆる》せ赦せ」
「厭《いや》です、常の日なら別、今日は上様へお目通りする大切な体、こんな辱《はずか》しめを受けたままで御前へ出られますか」
「そう云われては尚更困る、粗忽《そこつ》じゃ、どうか枉《ま》げて勘弁して呉れ」
平八郎気の毒な位縮まってしまった。
「それほど仰有《おっしゃ》るなら」
熊若丸はきっとして
「わたくしに貴方の頭を撫でさせて呉れますか」
「儂《わし》の頭を撫でる? ほう、それで勘弁して呉れるか」
「大まけ[#「まけ」に傍点]ですが勘弁致しましょう」
「やれやれ、ではそれ」
ぬっと苦笑しながら頭を差出す。熊若丸は拳骨《げんこつ》を固めると、力任せに忠勝の頭をがんと殴《なぐ》りつけた。
「む! 撫でる筈ではないか」
「是が京極流の撫で方でございます」
けろりとしている。
「はははは京極流か、遖《あっぱ》れ遖れ。よく殴った、平八郎の頭へ手をあげた者はお許《もと》唯一人であろうぞ。その度胸《どきょう》を忘れるなよ」
云いながら思わず熊若丸の頭へ手を伸ばしたが、慌《あわ》てて引込め、
「ほほ、また叱られるぞ」
明るく笑って立上った。
これが後に二十四万石を抛《ほう》って癇癪《かんしゃく》を破裂させた京極忠高の幼時のことで、言ってみれば彼が最初の癇癪玉だったのである。
二代将軍秀忠から諱字《いみなじ》を貰って忠高となったのが慶長八年、同じく十一年には従《じゅ》五|位下《いのげ》の侍従兼若狭守に任官したが、相も変らず癇癪が直らなかった。
忠高の母|常光《じょうこう》は賢母で、大阪の陣には寄手と城中を往来し、和議を成立させた程の女丈夫であるが、この忠高の癇癪にはほとほと手を焼いた。
それで将軍秀忠の第四女保子が忠高の妻として輿入れして来たとき、何よりも先に、
「ほかにお頼みはありませぬ、心懸りなのは忠高の癇癪、どうぞ御許様の力で撓《た》められるものなら撓めてやって下さいませ」
懇々と頼んだ。
保子はもとより利発の女であったから、常光夫人の言葉を胆に銘じ、よくよく忠高を抑えたので、その後大した過ちもなく過ぎた。
父高次の没後遺封を継いだ忠高は、大阪両陣に殊功を樹《た》て、逐年累進《ちくねんるいしん》して寛永二年には従四位下に叙し右近衛権少将《うこんえごんのしょうしょう》に陞《のぼ》り、やがて出雲、隠岐、石州で二十四万余石を領するに至った。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
寛永八年の夏のことである。
備中狭野《びっちゅうさの》の城主松平河内守信敏から使者が来て、一通の書状を呈出した。忠高が披《ひら》いてみると、
(近頃貴家へ仕官した梶井源左衛門《かじいげんざえもん》なる者は、当藩に於いて布目玄蕃《ぬのめげんば》と申すを討って立退いた不逞《ふてい》の男である。玄蕃の兄で主膳と申すが仇討を願い出ているので討たせてやり度く思うに就いて、源左衛門を当方へお引渡しが願い度い)
文面の大意はそういうことであった。
梶井源左衛門はその年の春、百石を以て忠高に抱えられた武士で、武芸に達し人品《じんぴん》骨柄《こつがら》秀で、遖《あっぱ》れものの役に立つべき奴と、新参ながら忠高に愛されていた。
忠高はすぐに源左衛門を呼び出した。
「源左、斯様《かよう》な書面が参って居る、読んでみい」
「は」
源左衛門は河内守の書状を読むと、静かに面をあげた。
忠高が、
「玄蕃というを討ったのは事実か」
「は、討ったと申せばそれに相違はござりませぬが、武道の論がもとで互いの雌雄《しゆう》を決すべく、河州侯《こうしゅうこう》の許しを得て立合いましたもの、討つも討たるるも後怨《こうえん》をのこさずと、固く約束を仕っての上でござります」
「狭野を立退いたは如何なる理由じゃ」
「元来玄蕃は河州侯出頭の者にて、同族も多いことにござりまする故、わたくしが居りまして万一にも騒動なんど起っては一藩の迷惑と存じ、退身致してござります」
「そうか」
忠高は頷《うなず》いて、
「それ丈聞けば充分じゃ、退って宜い」
「は」
源左衛門は平伏したが、
「併《しか》し、御意は如何にござりましょうや、相成るべくは狭野へ参り、主膳と勝負を致し度く存じまするが」
「宜い宜い、余に任せて置け」
源左衛門をさげて忠高は河内守へ書状を認《したた》めた。
(仔細《しさい》を糺《ただ》したところ、源左に非分ありとは認め難いし、また一旦家臣とした者をおいそれと他家へ引渡すような、情を知らぬ仕方は当家の風ではないから、御申出はかたくお断りをする。併し仇討のことであれば、つけ狙って討たるる分には一向差支えないことである)
書状を使者に持たせて帰すと、それなりいつか忠高はそのことを忘れて了《しま》った。
寛永十年江戸在府中のことである。
或日登城して詰《つめ》の間《ま》にいると、つかつかと一人の老人がやって来て、
「若狭殿でござるな」
と声をかけた。
「如何にも忠高でござるが」
「儂《わし》は河内じゃ」
老人は傲然《ごうぜん》と名乗った。
その頃江戸城中で、若い領主達から毛虫のように嫌われている老人がいた、「横車の河内」と呼ばれて、我意の強い横紙破り、気の弱い者はこの老人を見た許《だけ》で逃げだして了う位、したがって当人益々良い気持で、我物顔に押廻っている。
――忠高はすぐに、
――ははあ是が例の横車だな。
と思ったから、慇懃《いんぎん》に辞儀をして、
「お見外《みそ》れ仕った。御無礼」
「ふん」
河内は鼻で笑って、
「梶井源左衛門は健在かな」
と云った。
忠高は訝《いぶか》しそうに老人を見上げたが、はっと先年のことを思出した。
梶井源左を引渡せと言って来た、あの時の松平河内守、――あれがこの横車の河内と同一人であったのだ。改めて相手を見直した忠高、曽《かつ》ての我儘《わがまま》な申分と云い、また眼前に思上った様子を見せつけられて、むらむらと癇《かん》がたって来たから思わず荒い調子が出た。
「左様、至極壮健で居ります」
「ふふん、なる程」
老人は意地の悪い冷笑をくれて、
「ま、宜かろう。結構じゃ、結構じゃ、――布目主膳もな、武芸|出精《しゅっしょう》にて時の来るのを待兼ねて居るのじゃ、いずれ面白い勝負が見られることであろうよ、のう若狭殿」
人を喰った態度である。忠高はそれ以上老人の顔を見ていたら、自分の癇癪がどう破裂するか分らぬと思って、
「多用でござれば是にて、――」
と立上って其場を去った。
それ以来との老人は、忠高と顔を合せる毎にねちねちと絡《から》みかかって、小意地の悪い皮肉や憎まれ口を叩いては、忠高の癇をつつき廻すのであった。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
或時のこと、……
城中詰の間で、七八名集って軍陣の話をしていると、松平河内守が席へ割込んで来て、高声に言葉を挿んだ。
「戦陣の功名《こうみょう》もさることながら、人の運不運は知れぬものじゃ。如何に抜群の功名をたてたところで、運の薄い者は出世も出来ぬ。一例を申せば本多平八郎殿よ、大小の合戦五十余|度《たび》、大阪の陣で果てられる迄軍功は数知れぬ。勇の仁であったが、結局は二十万石足らずの扶持《ふち》じゃ、ところが運の良いのになると親の代まで廩米《りまい》三千|苞《ほう》ばかりの小身であったものがさしたる戦功もなくして易々《やすやす》二十四五万石に経昇《のぼ》る」
じろり忠高に一|瞥《べつ》をくれて、
「運じゃ、なに運が良ければ、その上にまたひき[#「ひき」に傍点]と云う奴もある。親のひき[#「ひき」に傍点]もあるし、また女房のひき[#「ひき」に傍点]もある」
明らかに忠高を諷《ふう》した言葉だ。
――うぬ! と思ったが堪えて、そ知らぬ顔でいると、
河内守は振返って、
「左様ではござらんか若狭殿」
「――――」
「蘆毛《ろもう》の駻馬《かんば》を乗る術《すべ》は知らずとも、女房を乗り当てることさえ上手なれば、出世立身は望み次第、のう若狭殿」
「なる程」
忠高はもりあがって来る癇癪を抑えながら、努めて、冷やかに答えた。
「世間にはそのような物の観方もござるよ、俗にねじけ者の僻《ひが》みと申してな」
「な、なに、ねじけ者の僻み?」
老人の面がさっと変った。
「僻みに相違ござるまい、それともまた論功行賞に当ってお上に依怙《えこ》の御沙汰《ごさた》があったと申されるか」
「儂《わし》はお上の事を引合に出しはせぬ」
「功を賞さるるのは将軍家の思召に依るところでござるぞ、是を非難するのは即ちお上に対して不平を懐かるることではござらぬか、――僻みと申したは拙者の遠慮でござる、それがお気に入らずば理非の程をきっと糺《ただ》し申そう」
「――――」
遉《さすが》の横車河内、是には半句の返す言葉もなかった。一座の面々良い気持そうに、赧黒《あかぐろ》くふくれあがった河内守を見やっていた。併し、忠高は必ずしも良い気持ではなかった。秀忠の娘を妻にしている自分を、快からず思っている者は松平河内守一人ではないのである。現にその一座の中にも、河内の諷刺を痛快そうに見ている者があった。
「何と云う量見の狭い人々だ」
そう思う一方――妻のひき[#「ひき」に傍点]立で、矢張自分は過分の立身をしているのかも知れぬ、という疑が起って、
「いっそ保を離別するか」
と考えるのであった。
併し、当時の大名達が、いずれも妾《しょう》を蓄えているに反して、忠高だけが妻一人を守って、在国中も女を近づけぬ程愛し合っている仲であったから、離別などとは思いもよらぬことであった。
「どうか遊ばしましたか、お顔の色が悪うござりまするが」
邸へさがると、保子が気遣わしげに忠高を見て、そっと笑いながら言った。
「癇をお立て遊ばしましたな」
「分るか」
忠高は苦笑した。
「大きな癇癪筋が二本、お額の両脇に見えて居ります、何か御不快がござりましたか」
「つまらぬ事じゃ、もう納まったから案ぜずとも宜い」
妻の顔を見ているうちに、忠高はもやもやとした胸のわだかまりが霧のように晴れてゆくのを感じた。
その翌年の春のことである。
国入りをする為に、江戸を発足した忠高の行列が、途中保土カ谷の宿をぬけ出て暫《しばら》くすると、供先に何か起ったとみえて停《とま》って了《しま》った。
「どうした」
「は」
駕籠《かご》脇の士が直に走って行った。
忠高の供先がだらだら登りの坂にかかった時である。松並木の陰から仰々《ぎょうぎょう》しい装束をした一人の武士が大剣を抜いて乱暴にも供先の中へ、
「弟の仇だ、源左衛門出合え!」
と喚《わめ》きながら暴れこんで来た。
顔色も変っているし、すっかりうわずって言葉もよく分らぬ有様である。供先の面々は驚いて抜刀しながら取囲んだ。
「狼藉者《ろうぜきもの》!」
先手頭の松木市郎右衛門が、馬を乗りつけて来て大音に、
「手に余らば討取れ」
と叫ぶ、乱暴者は金切声で、
「仇討、仇討でござる」
「なに仇討だ?」
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
「拙者は松平河内守の家臣、布目主膳と申す者でござる。弟玄蕃の敵梶井源左衛門、お供の中に在りとつき止めて推参仕った。尋常の勝負お許しが願い度い」
蒼白な顔で主膳は仇討免許状を差出した。
「手前主人河内守も、この先のところに行列を駐《と》めて居ります」
「暫《しばら》く待たれい」
市郎右衛門は馬をかえして、忠高に此始末を語った。
忠高は言下に、
「不埒《ふらち》な下郎、作法も弁《わきま》えず、斯様《かよう》な途上に抜刀して供先を乱すなど赦《ゆる》せぬ奴。構わぬからひっ括《くく》って了え」
「お言葉にはござりまするが、免許状を持って居り、また街道先十丁余のところに河内守殿が行列を駐めて居らるると――」
「なに河内守がいるとか」
忠高は嚇《かっ》となった。
「やり居ったな、――よし、馬|曳《ひ》け」
「は!」
乗馬が来ると忠高はとび乗って、
「源左を呼べ」
「は」
近習の者が走って行ったがすぐに蒼惶として源左衛門を連れ戻った。
「源左か」
「は」
「布目主膳という奴が、供先へ仇討と名乗って出た、ちと仔細《しさい》あって此場で立合せねばならぬ、余が後見を致す故存分にやれ」
「は、御途上の妨《さまた》げを仕り、何とも申訳ござりませぬ」
「勝てよ」
と云うと馬を進めた。
立合の事が定った。場所は坂を登りつめた右側の草原を撰み、河内守の行列は忠高の一行と相対して原の東西に居並んだ。
やがて仕度をして主膳と源左衛門が、両方から進出て来て向合った。主膳は漸く落着を取戻したとみえて顔色は良く進退も立派である。源左衛門が近寄ると大音に、
「弟玄蕃の仇梶非源左衛門、覚悟」
と名乗る、源左衛門は静かに頷いて、
「参れ」
と一言。
主膳は大剣を抜いて青眼《せいがん》につけ、鋩子尖《きっさき》をやや下げ気味にぐっと右足を寄せる。一刀に突を取ろうという構えである。――源左衛門はまだ抜かない、充分に体を浮かせて眤《じっ》と相手の眼をみている。
「えい!」
主膳は第一声を放った。
「――――」
「えい、おっ!」
第二声、源左衛門の右足が動きを起す、刹那《せつな》! 主膳の体が躍った。
「や――」
同時に源左衛門の足が弾んで、きらりと剣光が空を切った。主膳は踏止まろうとするように一瞬|蹈鞴《たたら》を踏んだが、突を入れた体勢のまま、だだだだ、二三間のめって、草の中へどうと倒れた。
「あっ」
「やった!」
東西一時に息を呑む。源左衛門は静かに懐紙を取出して剣に拭をかけていた。
河内守の家臣が、思出したように駈けて行って見ると、布目主膳は首を殆ど斬放されて即死していた。――それを聞くより、河内守は血相を変えて立上る。いま立去ろうとする源左衛門を、
「待て待て、逃げるか」
と呼止めた。忠高も床几《しょうぎ》を立った。
「此上にも何か御用か」
「無論のことじゃ」
河内守はつかつかと進出て、
「主膳が討たれた上は、布目の親族が居るで、これに仇討をさせねばならぬぞ」
まさに横車である。
「無法なことを云われな」
忠高は鋭く、
「子の仇は親は討たず、弟の仇を兄は討たずと申す、主膳との立合でさえ表沙汰《おもてざた》ならぬ儀であるのに此上親族の者との勝負など思いもよらぬことでござる」
「ははあ、ならんと申すか」
河内守は冷笑して、
「ならんとあれば儂《わし》も河内守じゃ、一度云い出して後へ引く訳にはゆかぬぞ、此上は腕ずくと致そうか」
「なに」
「家臣の仇は儂の仇も同様、これが河内のお国振りじゃ、用意さっしゃれ」
忠高の面上さっと血の気が去った。
――我慢ならぬ。
と思った時、
「や、梶井!」
と叫ぶ声。
振返ると、二三人の者が源左衛門の傍へ走寄っている。
[#8字下げ]五[#「五」は中見出し]
「どうした」
忠高が小走りに寄って見ると、源左衛門は草の上に端坐してみごとに切腹していた。
「や、源左!」
源左衛門は蒼白の面をあげる。
「殿――、御前を汚《けが》し奉り――」
「――――」
「申訳、ござりませぬ」
なつかしげに、眸子《ひとみ》をあげて忠高の顔を見守りながら、
「数々の御配慮、勿体なく、忝《かたじけ》のう、御情のほど七生まで、忘却は仕りませぬ」
「うむ」
忠高は顔を外向《そむ》けた。
「やあ腹をしたか」
のこのこやって来た河内守、
「笑止《しょうし》の者よな、それ程勝負が怖しければ、勘弁する法もあったにのう、流石《さすが》に若狭殿の御家風は違ったものじゃ、ははは」
「河州! まだ申すか」
忠高がたまらず出る。
「と、殿、暫《しばら》く」
源左衛門が苦痛を忍んで叫んだ。
「源左を、犬死に遊ばしまするか――」
「む――」
忠高は胸をしめつけられる思いで踏止まった。自分さえ亡ければ此場が無事に納まるとみて、敢然自刃した源左衛門の思切った、いじらしい覚悟がずんと心底にとたえたのである。
「源左、何も云わぬぞ、快く死ねよ」
「殿にも御武運、長々に」
「さらばだ」
馬を曳かせる忠高は其場を去った。
一年の在国が終った。冬から痛み始めた虫歯が、春になっても良くならず、参勤のために江戸へ発駕する頃は殊に痛みのひどい時期であった。
旅程順よく大井川の手前、金谷の宿へ着いたのが、三月十二日、二三日前から川上に豪雨が続いたので、忠高の行列が宿へ入る半刻《はんとき》ばかり前に渡は川止となっていた。運の悪い時には悪いもので、是より一刻ほど以前、例の横車の河内が川を越していたのである。
島田へあがった河内守、自分のあとに京極忠高が川止をくっていると知ったから、又しても悪戯《いたずら》がしたくなったらしい。
「ちとからかって呉れよう、筆を持て」
料紙硯《りょうしけん》を取寄せると、何やらさらさらと走り書きにする。弓術師範で側近に召使っている瀬沼百太郎というのを招いた。
「是をな、矢文《やぶみ》にして金谷宿へ射込んでみい、届くであろうが」
「は、仕りましょう」
「あいつ奴《め》、さぞ癇癪を起すことであろう、面の見えぬのが残念じゃ」
にやにや笑って、近習を従えて河原へ乗出し、床几を据えて頑張った。
川止に阻《はば》まれて金谷の旅館に入った忠高、折からまた痛み出した歯の療治にかかっていた。生来壮健で、それまで殆ど医薬の味というものを知らなかった忠高は、少しも験《ききめ》のみえぬ医療に些《いささ》か業《ごう》を煮やしていた。――その時も医師|竹島似斎《たけじまじさい》が調じて来た薬湯を一口含むや、
「えい智慧のない」
と言いざま、金椀ごと庭へ叩きつけ、
「毎《いつ》も毎も同じ薬湯、半年の余も用いて効のないものをいつ迄使う気だ」
「は――」
似斎が平伏するのへ、
「医を以って仕え乍《なが》ら、歯痛ひとつ、満足に療治が出来ぬのか」
「申訳ござりませぬ、早速――」
「ええもう宜い、退れ」
似斎は唾壷《だこ》を捧げて怱々《そうそう》に退った。――それと殆ど入違いに、供頭を勤める神崎武太夫が入って来た。
「申上げまする」
「不快だ、急用でなかったら後にせい」
「は」
と平伏したが、持って来た一通の書面を差出した。
「川向うより矢文として、射て参りましたそうで、宿役人よりの届出にござります」
「矢文? ――見せい」
忠高が受取ってみると、宛名《あてな》は正に自分、裏をかえすと松平河内守とあった。
「またか」
むらむらとこみあげて来る憎悪、痛みをこらえ乍ら封を切って読む。
(拝呈。貴、京極家の祖先は佐々木四郎高綱と承る。四郎殿はいみじき武勇の人にて宇治川の先陣に、遖《あっぱ》れ急流を乗り切って一番乗の功名をたてられし事、正に三歳の童児も知るところ、熟々《つらつら》惟《おもんぱか》れば泰平の世とそ有難けれ、斯許《かばかり》の出水に川を止められ、晏如《あんにょ》として惰眠《だみん》を貪《むさぼ》るを得るとは、借問す若狭守忠高侯、宇治川の戦にあって尚四郎高綱たるを得るや如何《いかん》。河内守)
[#8字下げ]六[#「六」は中見出し]
「む!」
読みも終らず、忠高は書面をびりびりと引裂いて投捨てながら、
「武太夫丹波を呼べ!」
「は、――」
蒼惶《そうこう》として京極丹波が来る、忠高は癇に顫える声で、
「丹波、忠高は京極の家を潰すぞ、家臣には済まぬが、武道の為だ何も云うな」
「殿――」
「聞かぬ、止めだて無用」
すっくと立った。
「鎧櫃《よろいびつ》を持て、馬の用意ある者はいずれも物具を着けて余に続け」
「どう遊ばしまするか」
「川を乗切るのだ、仕度を急げ」
そう云って奥へ入った。
癇癪が爆発した。長いこと抑えに抑えてきた癇癪が。川止は天下の法度で、これを犯すことは関所を破るに等しい罪科である。勿論それを承知の爆発だ。
四半刻と経たぬうちに、大鎧を着けた馬上の忠高を先に凡そ三十騎余り、いずれも鎧物具して駿馬《しゅんめ》にまたがり、礫《こいし》を蹴たてて河原へ乗出した。
遥《はるか》に見やれば、島田の川岸には松平河内守の一行が嘲るようにい並んで此方《こっち》を見戍《みまも》っている。忠高は水際へ来ると水勢を案ずる暇もなく、
「続け、一騎も後れるな!」
叫びざま、矢のように渦巻き流れる濁流の中へ、ざんぶとばかり馬を乗入れた。
続く三十余騎いずれも戦場往来の勇士、大阪両陣にめざましく働いて、旗本だけでも三百余級の首を挙げたという強者《つわもの》揃いだ。
「殿に後れる勿《なか》れ!」
「一代の水馬ぞ、眼に物見せてやれ」
わっとおめいて乗入れた。
金谷宿は勿論、島田宿の方でもそれを見るより、川止で宿泊中の諸侯、何事が起ったかと、それぞれ旅館を固め、河原へ人数を出して警戒に当った。
泰平の世に鎧武者三十余騎が、律を破って川を乗切るのだから、両岸の人々の驚きも一倍であったに相違ない。
――唯眼を瞠《みは》り手を振って、あれよあれよと騒ぐうち、さしもの急流を一人の欠くる者なく、みごとに乗切って対岸へあがった。
遉《さすが》に横車の河内、胆を消した。
「是はいかん」
慌てて床几を立って、後を振返り旅館の方へ逃げ出した。――と、見るより忠高、
大音あげて、
「河内殿見参仕ろう」
と叫んだ。
「四郎高綱の後裔《こうえい》、京極忠高の水馬、如何御覧じたか承り度い、河内守殿」
鼬鼠《いたち》のように、こけつまろびつ河内守は夢中で逃げて行く、背をまるめて、履物も脱ぎ捨てて、いやその早いこと、
「はははは」
忠高は馬を煽《あお》って追い詰めながら、思わず腹を揺《ゆす》って笑い出した。
「ははははは、あっははははは」
河内守は右へ左へ、恐怖に身を顫わせながらうろうろと逃げ廻る。
忠高はその後を容赦もなく追いつめた。
「ははははは、あの態《ざま》、ははははは」
癇癪消しとんだ。歯の痛みも忘れた、そして胸いっぱいに吐出す笑いが、晴れあがった大空に、明るく活々《いきいき》とひびき渡った。
法度を犯した律に依って、京極家は取潰し、二十四万石の領地を没収されたのは無論のことであった。
江戸邸へ入った忠高は、妻保子の顔を見ると流石《さすが》に悄然《しょうぜん》として、
「済まなかった、保――勘弁して呉れ」
「なんの」
夫人は静かに頭を振って、
「よう遊ばしました、憚《はばか》りながら御先祖の名を辱《はずかし》めぬお立派なお働きわたくしも嬉しゅう存じます」
「おお、赦して呉れるか」
「はい」
と云って、にっこり笑いながら、
「二十四万石を抛っての癇癪、さぞさっぱり遊ばしましたでございましょう」
「この通りじゃ」
忠高は胸を寛げると、大肌を手でぴしゃりと打ちながら声高く笑った。
松平河内守は、この事件では別にお咎《とが》めはなかったが、間もなく些細《ささい》な失策から国替えになり、十七万石から一遍に二万石ばかりの小身におとされてしまった。
忠高はその後半歳あまりして世を去ったが、特旨《とくしゅ》に依って弟の子高和に家督を命ぜられ、播磨《はりま》の竜野に六万石を賜って、京極家を再興した。
底本:「修道小説集」実業之日本社
1972(昭和47)年10月15日 初版発行
1979(昭和54)年2月15日 新装第七刷発行(通算11版)
底本の親本:「キング」
1935(昭和10)年5月号
初出:「キング」
1935(昭和10)年5月号
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