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恋芙蓉
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恋芙蓉
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)小菊《こぎく》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)父|甚左衛門《じんざえもん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#8字下げ]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
「ああ――」
小菊《こぎく》は歓びに顫えながら、そっと樅の木にもたれかかった。
いつかしら月が昇って、森のこのま越しに淡い光が、小菊の肩から腰へのまるい線をなまめかしく照しだしていた。
「ゆるしてください」
鞆之助《とものすけ》は苦しげに、
「こんなことを申上げるつもりはなかったのですが、こんど戦場へ戻れば生きて帰らぬ体です。男が一生に一度の恋……ひと言あなたに打明ければ、私は満足して死ねます」
「いいえ、いいえ」
小菊はそっと頭を振った。
「あなたは死にはなさいませんわ、生きて帰っていらっしゃいますわ、もしあなたが討死なすったら、――小菊も生きてはおりませぬ」
「え、あなたは何を云うのです」
「わたくしも、とうからあなたを、お慕い申しておりました」
「おお!」
鞆之助はうたれたように立竦んだ。
もう言葉などはいらない、見交わした眼と眼が、互いの胸に高鳴る血と血が、百万の言葉よりも強くふたりを結びつけるのだ
「小菊!」
「鞆之助さま!」
よろめくようにふたりはすり寄った。草のいきれと土のむす匂の中に、顫え戦《おのの》く胸と胸がひしとからみ合った、――森の奥で、夜鳥の巣鳴きが唆るように聞えている。
「小菊――小菊はおらぬか」
地続きの庭のほうから、父親の呼ぶ声がひびいてきた。小菊ははっ[#「はっ」に傍点]として男の胸から離れ、羞いながら衣紋を正した。
「父が呼んでおります」
「お帰りなさい」
「はい」
鞆之助はもう一度小菊の体を引寄せた。
「もう私は死にません、必ず凱陣いたします、そうしたら御尊父に申上げて婚姻のお許しを受けましょう」
「きっと、きっと――ねえ」
「谷屋《たにや》鞆之助は今とそ伊達家中随一の勇者です、待っていてください、あなたの良人《おっと》として恥しからぬ功名手柄をたてて帰ります」
「うれしゅうございますわ」
小菊は火のような頬を鞆之助の胸へすりつけると、つとすりぬけて森の外へ、――鞆之助は躍りあがりたいような歓びを胸いっぱいにして、遠のいて行く娘の後姿を見送った。
谷屋鞆之助は伊達政宗《だてまさむね》の家臣、禄五十貫を喰む徒士組《かちぐみ》だった。天正十七年冬、政宗が黒川城(後の会津若松城)の蘆名盛重《あしなもりしげ》と戦を構えるや、先鋒として磐梯山下に転戦、――手傷を負って帰郷したのであるが、それもようやく癒《い》えたので、四五日うちにはふたたび戦場へ戻ることになっていた。
「小菊か――」
柴折戸から入る気配で、障子をいっぱいに明けた広間の内から、父|甚左衛門《じんざえもん》の大きく叫ぶ声がした。
「はい」
「早く来い、勘三郎《かんざぶろう》が戻っているぞ」
「まあ!」
小菊は急いで縁からあがる、――甚左衛門と向合って、従兄の杉森《すぎもり》勘三郎が寛いだ姿で坐っていた。
「まあお従兄《にい》さま」
「小菊か、達者でいるな」
「わたくしよりお従兄さまこそ、どうしてお戻りなされました、お怪我でございますか、そして戦争の様子は」
「これ、そう何もかも一緒に訊くやつがあるか、勘三郎はの、このたび思召しによって朱兜《しゅかぶと》隊に廻り、しかも隊長に任ぜられたのだぞ」
「朱兜隊の隊長――まあ」
小菊は眼を大きく瞠った。勘三郎は高額に謙遜の色をうかべながら、
「それほどの器量でもないが、二本松の合戦で先隊長|須藤鬼弥太《すどうおにやた》殿が討死をした、その後釜を頂戴したのだよ」
「お立派ですわ、ねえ父上さま。杉森の一族から朱兜隊長を出すなんて、こんな名誉なことはございませんわ」
「それから谷屋なあ」
勘三郎が言葉をついだ。
「あの鞆之助も朱兜隊に廻されたぞ」
「鞆之助さまも、まあ――」
小菊は思わず頬の熱くなるのを感じた。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
朱兜隊というのは百騎をもって組まれ、隊士はいずれも果敢豪勇の人物を選び、また隊の目印ともいうべき鉢金を朱色に塗った兜は、政宗からじきじきに下賜されるという名誉の遊撃部隊であった。
勘三郎の帰郷は、陣中の政宗から本城米沢への報知に兼ねて、留守役の親族に出世の喜びをわかってといと、五日の休暇をもらってきたのであった。
「幼な馴染の二人、幸いにして勘三がひと足さきに出世したが、鞆[#「鞆」に傍点]との仲に高下はない、これからは二人力を協《あわ》せて朱兜隊の威力を天下に示してやるのだ」
「勇ましい勇ましい」
甚左衛門は膝を打った。小菊は勘三郎の逞しい横顔をたのもしく見戍りながら、
「お従兄さまが隊長なら、谷屋さまもきっと眼覚しいお働きができましょう、どうぞお二人揃って立派な手柄をおたて遊ばせ」
「もうよいぞ小菊、おまえは行って酒の仕度をしてくれ、何は無くとも今宵は祝宴じゃ」
「はい、たんと御馳走を作りましょう」
いそいそと立って行く小菊の後姿を、勘三郎は熱い眸子《ひとみ》でじっと見送った。
往来に二日とられる中三日の休暇は瞬くうちに過ぎてしまった。明日は早く戦場へ発足という前夜のことである、――鞆之助も招いて袂別の酒宴を張ったが、それもようやく終って甚左衛門は寝間へ退き、鞆之助は帰って行った。
微酔の頬をさまそうと、庭へおりた勘三郎は、伯父の愛する春咲きの珍種、芙蓉畑の白い花が咲揃っているところへやって来た。
「月も佳し、花も良し、――」
宵のうすじめりした微風に鬢を吹かせながら足をとめる、と、うしろに足音がして、小菊が静かに近寄ってきた。
「いよいよ明日はお別れですのねえ」
「小菊か、伯父上は」
「いま臥床へおはいりなされました」
「今宵はだいぶ召されたなあ」
「嬉しいのですわ、お従兄さまを自分の子のように思っているのですもの、ゆうべもゆうべ、軍兵衛《ぐんべえ》が生きていたらどんなに悦ぼうぞ、そう云って悲しそうに」
「父が生きていたら」
勘三郎はそっと呟いた。早く母を失い、続いて父軍兵衛に先立たれた勘三郎は、甚左衛門を父とも母とも思って育った。軍兵衛と云われても、――眼にうかぶ俤《おもかげ》は濃霧のかなたにうすれていた。
「なあ小菊」
「はい」
「勘三は今宵、おまえに打明けて話したいことがあるのだ、聞いてくれるか」
勘三郎の声はかすかに顫えていたが、小菊はそれに気付くまでもなく、思わずこちらも急《せ》きこんで、
「あら、わたくしもよ、お従兄さま」
「おまえが――?」
「わたくしもお話がありますの」
そう云って、しかし小菊は思わず自分のうわついた調子に気付き、さっと頬を染めた。
「聞こう、話してごらん」
勘三郎の胸は騒いでいた。
「いいえ、でもお従兄さまが先ですわ」
「おまえ云ってごらん」
「いやですわ、どうぞお従兄さまから」
小菊は媚びるように身をもんだ。半年まえには見なかったなまめかしい身振、溢れるばかりの嬌態《しな》が若い勘三郎の心を烈しく唆るのだった。
「小菊、おまえ、――」
「あら」
小菊はふいに身をそらすと、そこに咲誇っている。芙蓉の一輪を摘取った。
「まあ、小菊の芙蓉が咲きましたわ、この一本だけはわたくしが丹精しましたの、――お従兄さまこれをもらってくださる?」
「有難う」
羞いながら差出す花を、勘三郎はしかと受取った。その時――小菊の髪があまく匂い、乙女の肌の香が勘三郎の心を掻紊《かきみだ》した。
「でも摘んだ花はすぐしぼんでしまいますわねえ」
「たとえ花は枯れても、これをくれたおまえの心は枯れはせぬ、勘三は大事に、――大事にしまっておく」
「お従兄さま!」
小菊は思切ったように振返ったが、やはりいざとなると勇気が挫けて、袂で顔をかくしてしまった。
「いいえだめ、申上げられませんわ」
「どうしたのだ、小菊」
「お願いがあるのですけれど、でも、でも恥かしいのですもの」
勘三郎は思わずひと足進み出た。と、――小菊は身をしさらせながら、
「お手紙を差上げますわ、後から、お手紙ですっかり申上げますわ、でもどうぞ小菊をお嗤《わら》いなさいますな、ねえ」
そう云うと、そのまま踵をかえして小菊は母屋のほうへ走り去った。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
明る朝早く。
馬上の若武者二騎、米沢から二本松へ向かって吾妻越を急いでいた。峠へかかると鞆之助はうしろを見返って、
「やあお城が見える」
「少し馬をやすめるとしようか」
二人は馬を繋いで草の上に腰をおろした。
「杉森、――」
鞆之助はひと汗拭くと、
「実は貴公に折入って頼んでおきたいことがあるのだ」
「なんだ、戦場に骨を拾う頼みなら互いのことだぞ」
「いいやそうではない」
鞆之助は少し顔を赧めて、
「こん度の戦にもし武運めでたく凱陣することができたなら、おれは嫁を娶ろうと思っている」
「仲人せいというのか」
「うん、相手は貴公も知っている人だ」
「誰だろう」
勘三郎は微笑しながら空を見上げた。ゆうべの胸躍るいっとき、小菊のなまめかしい姿が、幻のように思出されたのである。
「そう云えば分るはずだが」
「はてな」
「初めにこ[#「こ」に傍点]という字がつく」
「こ――、はて、村井《むらい》の小房《こふさ》か」
「違うよ、あんなおかめ[#「おかめ」に傍点]」
「では長谷部《はせべ》の」
「いや小袖《こそで》は忠太《ちゅうた》の許嫁《いいなずけ》だ」
「妹があるだろう」
「ばかな、あれは今年まだ十一歳だ」
二人は声を合せて笑った。
「とすると、こ[#「こ」に傍点]の字のつく娘は」
「今度は分るだろう」
勘三郎はぎくっとして眼を外らした。鞆之助は暫く待ったが返辞がないので、我慢できずにひと膝ゆり出し、
「貴公の従妹小菊どのだ」
「――」
「仲人たのむ、なあ」
勘三郎は大きく息をつきながら立った。
鞆之助とは幼友達、それも弟のように馴れ愛してきた男である、今日までは悲しみも歓びもわかち合い、互いに精励しつつ死すとも離れじと、固く友情で結ばれていた、――それがいま、自分と同じように一人の小菊を嫁にと望んでいるのだ。
「だめか勘三」
「鞆、――」
勘三郎は振向いた。
「外のことと違って一生の大事だから、おれは遠慮をせずに云うが小菊のことなら諦めてくれ」
「諦めろ、なぜ?」
鞆之助は訝しそうに見上げた。
「隠さずに云おう、実は小菊はおれが命に代えていとしく思う女だ、今度帰って来たのもひとつには小菊の気持をたしかめてみたかったからなのだ」
鞆之助の顔色がさっと変った。勘三郎は眼を伏せた、鞆之助は鋭く、
「それで、小菊は承知したか」
「承知した、――とおれは思う」
「嘘だ!」
「なに?」
「嘘だ、大嘘だ!」
鞆之助は立上って嘲るように、
「その証拠には、小菊はすでにおれと堅く約束を交わしているのだ、あのひとが二人も三人も心を許すひとか、嘘を云うな!」
「貴公が小菊と約束した?」
「そうよ、忘れもせぬ貴公が戦場から帰った晩、神戸の森で二人っきり、凱陣したら夫婦になろうと、――」
「黙れ鞆!」
勘三郎は大声に叫んだ。前夜の小菊の様子、芙蓉の花を摘取ってくれた姿が、まだありありと眼にある勘三郎は、一図に鞆之助の言葉を恋に眩んだ暴言と思った。
「貴様小菊を辱めるか」
「辱めるとはそのほうのことだ、心許さぬ者がなんでおれと忍び逢う、現に、――」
「やめろ」
「やめぬ、おれと小菊とは」
「うぬ飽くまで云うか」
かっとした勘三郎、いきなり拳をあげて鞆之助の高頬を殴りつけた。鞆之助はよろめいたが、手向いもせず冷やかに嘲笑った。
「殴れ殴れ、それでおれをやっつけたと思うなら幾らでも殴るがよい、貴公は朱兜隊の隊長だ、おれは手向いはせぬぞ」
「ばか者、恥を知れ」
「有難う、覚えておこう」
云いすてると、鞆之助は馬を曳出し、とび乗るとそのまま後をも見ずに峠を越えて駆《はし》り去ってしまった。
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
転戦、――また転戦。
四月本宮を陥れ、三春、守山と敵塁を抜いた伊達政宗は、さらに須賀川を占領して一気に本城黒川を攻め落とそうとしたが、長沼城によった蘆名の勇将|高田玄蕃盛高《たかだげんばもりたか》が頑強に攻口を塞いで動かぬ、ついに対陣月余に及んだ。
荏苒《じんぜん》時をすごせば、相模北条の北漸を怖れねばならぬ、淋雨降りつづく六月はじめ、政宗は奮然鞍をうって決戦すべきを令し、老臣|片倉景綱《かたくらかげつな》をして摺上原に進ましめ、別に遊撃として朱兜隊を勢至堂におき、秘策を授けて必死の陣を敷いた。
嶮路難行、勢至堂に到った朱兜隊は、身隠れの森に馬を駐め、地理を按じ剣を磨して軍令の至るのを待った。
「夜襲《よがけ》を決行すべし!」
第一の軍令は六月十四日に来た。
朱兜隊の任務は長沼城の搦手《からめて》へ奇襲をかけるにあった。片倉勢が大手へ攻めをかける前に、城兵の勢力を二分するため、――日頃『朱兜隊の先鋒するところ必ず伊達勢の主力あり』という定評を利用し、とくにこれを奇襲部隊にあてたのである。
杉森勘三郎は隊士を集め、その内十名を選んで先鋒とした。
「このたびの任務は、合戦を勝利に導くか敗亡せしめるか、二途を岐ける重大な責が懸っているのだ、一人も生きて帰ると思うな、髑髏《どくろ》を泥土に委して朱兜隊の名を万世に輝かすべき時だぞ、――出陣」
朱兜隊は身隠れの森を発した。
霧のような雨が、降っていたかと思うといつかやみ、雲間から皎々《こうこう》と月がさし出でた、しかしそれもながいことではなくて、すぐにまたじとじとと雨になる、――嶮路ところどころ土砂が崩れ、渓沢は水嵩《みずかさ》を増して行軍の困難は思いのほかにひどかった。
鞆之助はその四五日すっかり気力を失い、身も魂も憔悴していた。
「勘三郎は小菊を自分のものにしようとしている、おれはいつか勘三郎のために死地に陥れられるに違いない」
さういう危惧が、吾妻越の峠の日からこのかた、いつも頭から去らなかった。杉森は隊長で自分は部下である、隊長の命令とあればどんな危地にも踏込まねばなるまい、――
「あいつおれを殺す、きっと殺すぞ、だがおれはそうむざむざとは死なぬ、おれは生きるのだ、たとえ一日でも小菊と夫婦になるまでは、石に噛りついても生きてみせるぞ!」
かたく心に誓いながら、毎日来る日も来る日も勘三郎の眼を挑むように睨んでいた。
「殺すのは今日か、明日か」
張りきった弓弦のように、勘三郎の命令のあるのを待っていると、今日の軍令である、いよいよその時が来たなと思った。
「さあ来てみろ、鞆之助はそう易々とは死んでやらぬぞ!」
拳を握って軍に従った。
木幡へ来ると、一度そこへ停まって、馬に水をやり兵は戦装をととのえた。勘三郎は馬上に隊士を見廻しながら、
「これから夜襲にかかる、先鋒隊は隊長の側にいろ、号令があったらまっすぐに柵の中へ斬込むのだ、一人も退くことならぬぞ、――軍令に反く者は、刑殺だ、出発!」
一同粛然と進発した。
強行すること半刻、竹柴の柵ま近に迫った朱兜隊は、そこで兵をひらき、用意してきた仕掛けの大巻藁を十束、おのおの半丁の間隔をおいて並べ、一時に火を放って、
「わあっ!」
わっと鬨《とき》をつくった。
突忽として起った喚声、闇天を焦がして燃上る火の手を見て、すわこそ夜襲ぞと城中は色めき立った。篝の火に右往左往する人馬の姿、見るより勘三郎は鞍上高くばらりと采配を振った。
「かかれ――」
言下に朱兜隊の面々、どっとおめきつつ、柵へ向って殺到した。
城内の兵またこれに応じて、篝火炎々と焚きあげつつ、木戸をかため雨のどとく箭《や》、鉄砲を射かけて防戦したが、――瞬く暇にひしひしと詰寄せた敵兵、兜の鉢金朱に塗られたのを見るなり仰天して、
「やあ、あれを見ろ、朱色の兜だ」
「朱兜隊だ」
「さてこそ伊達の精鋭ぞ、加勢を呼べ」
「加勢を呼べ」
とにわかに強いどよめきが巻起った。
[#8字下げ]五[#「五」は中見出し]
果して政宗の策は的中した。
朱兜隊のあるところ必ず伊達の主力ありという今までの経験で、城兵は全く狼狽の渦に巻込まれた。馬上に機を見ていた勘三郎、時分は良しと、
「先鋒かかれ!」
命をくだした。
逸りたつ馬を制して、号令おそしと待構えていた先鋒の一団、声に応じてわっと鬨をつくるや、馬腹を蹴って雪崩のごとく、無二無三に木戸へ殺到する、――討って出ようとする、城兵の鼻先へ逆を衝いたからどどど[#「どどど」に傍点]とたじろぐ、見るまに木戸を破って先鋒十騎は柵内へ斬込んだ。
閃く剣、飛ぶ槍、狂奔する馬、叫喚、どよめき、瞬時にしてそこには無惨な血戦が展開された。一番組頭の瀬越十郎太《せごしじゅうろうた》が、馬を乗りつけてきて叫ぶ。
「隊長、二番手をかける時です」
「まだ!」
勘三郎は見向きもしない。
「城兵は混乱しています」
「知っている」
「後れては先鋒が鏖殺《おうさつ》です」
勘三郎は返辞をしない。――そこへ新井弥兵衛《あらいやへえ》と三番組頭|畑中忠之進《はたなかちゅうのしん》、依田権七《よだごんしち》の三名が馬を煽って来た。彼らの後には谷屋鞆之助の怯えたような顔がある。
「隊長、斬込む時です」
「先鋒は苦戦しています」
「我々をやってください」
「隊長!」
併し、その時勘三郎はすっくと馬上に伸上って、采配をうち振ると大音に叫んだ。
「退け――」
意外な号令。
「あ!」
四名は仰天して、しばらくは言葉もなかった。すると鞆之助がいきなり馬を寄せて来て、上ずった声で喚きだした。
「退けと云うのか、この名誉ある朱兜隊に退却しろと云うのか、かしこに苦戦している先鋒を見殺しにして!」
「隊長、それはできません」
瀬越十郎太も詰寄った。
「せっかく斬込んだ隊士をどうするのです、あれを見棄てて退くなど、我々には到底できぬことです、隊長!」
「退くのだ、兵を集めろ」
勘三郎は強く叫んだ。
「軍令に反く者は刑殺だぞ」
「――」
誰もかも、勘三郎の厳とした言葉に逆う者はなかった。勘三郎は馬首を回《かえ》した。
朱兜隊は槍を伏せ、声を収めて退却を始めた。誰一人として後を振返る者はない、――雨はまた音もなく降りだし、兵の兜に物具に滴を流した。勢至堂峠にかかった時、遙に長沼城のあたりで高く鬨声のあがるのが聞えた。斬込んで行った先鋒が全滅したのであろう。聞く者みな胸を刺される思いで、暗然と馬を駆って陣地へ帰った。
本陣からの軍令は次々と来た。
「今夜半、夜襲を決行すべし」
「明朝暁暗を衝いて強襲すべし」
そのたびに惨澹たる襲撃は繰返された。二回、――三回、――四回。そしてそのたびごとに先鋒として斬込んで行く者は全滅して、今や朱兜隊士はその数半分となってしまった。依田権七も死んだ、三番組頭畑中忠之進も死んだ、瀬越十郎太も帰らなかった。
黄昏の色が濃くなると、
「今夜こそおれの番だ」
鞆之助は骨を削られるような恐怖に襲われるのであった。
「ああ、小菊、おれは、――」
鞆之助は喘ぐように呟く、
「おれは死ねぬぞ、死ぬならひと眼せめてひと眼会いたい、ひと言別れを云ってから死にたい、小菊――」
二十五歳の今日まで、武家に人と成って後れをとったことのない彼、幾戦場に命を賭して奮戦し、若手の内にも果敢の者に数えられている鞆之助が、小菊あればこそ心を刺す苦痛未練であった。
苦悩は日となく夜となく続いた。一日ごとに同輩の姿は減ってゆく、罠にかかった獣が一寸ずつ縄をつめられるように、じりじりと迫ってくる死の手だ。
「駄目だ、いつかは来る」
鞆之助は絶望して叫んだ。
「いつかはおれの番が来るのだ、どう藻掻いても生きて帰れる術はない、それならばいっそ早く死のう、もう待っているのは沢山だ、小菊、――おれは死ぬぞ!」
鞆之助は勘三郎の前へ走って行った。
「隊長、お願いです」
「何か用か」
勘三郎はその時、小菊へ送る手紙を書いていたが、筆をおいて振返った。
「私はもう朋友の死んで行くのを見ているのに堪えません、今宵の夜襲には私を先鋒の内へ加えてもらいたいのです」
[#8字下げ]六[#「六」は中見出し]
勘三郎はしばらく鞆之助の顔を見戍っていたが、やがて静かに云った。
「鞆、――おまえまだあの時のことを根に持っているのか」
「私は先鋒に加えてもらいたいのだ」
「まあ聞け」
「許してもらえますか」
勘三郎は立上って大股に歩寄ると、鞆之助の肩をしっかり掴んだ。
「鞆、よい加減にするものだぞ、おれとおまえとは幼い頃から約束がしてあった筈ではないか、――生れた時こそ違え死ぬ時には必ず二人一緒と」
「そんな甘口は沢山だ、おれは自分がいつかは殺されるのを知っている」」
「止せ!」
「止さぬ、恋敵に命の綱を握られている鞆之助だ、死ぬと決って一日延ばしに生きることがどんなに辛いか貴公に分るか、もう沢山だ、ひと思いに殺されたい、やってくれ」
「貴様――!」
さすがに勘三郎が色をなして詰寄る、――とその時、馬を煽って本陣からの伝騎が来た。
「軍令でござる」
「御苦労」
勘三郎は踵をかえすと、大股に立って行って軍令を受取った。鞆之助のほうへは眼もくれず手早く披見すると、
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
一、明朝明け八つ刻、大手片倉勢は総攻撃を開始すべし。
一、これが牽制のため朱兜隊は最後の強襲を決行せよ。全士一人も生還あるべからず。
一、政宗が冥途の先駈は朱兜隊なるぞ。
[#地から2字上げ]右京太夫政宗 華押《かおう》
[#ここで字下げ終わり]
「委細承知仕った」
勘三郎はにっこと笑って、
「御前よろしゅう」
「御免!」
伝騎は一|揖《ゆう》すると馬を回した。勘三郎は力強く鞆之助の前へ戻ってきて云う。
「鞆、おまえの望みが恊ったぞ」
「――!」
「本陣からの軍令だ、いよいよ朱兜隊生残りの同士、全部轡をならべて討死する時が来た、つまらぬ意地などは捨てろ、潔く二人一緒に死のうぞ」
鞆之助は併し、鋭い憎悪の眸子《ひとみ》で勘三郎を睨みつけたまま、大股にそこを立去って行った。――ただちに兵が集められた。
最後の戦闘と聞いて、隊士の活気は頓《とみ》に燃えあがり、馬を洗い剣を検め、身を浄めて決戦の仕度を急いだ。その時、――一度帰って行った本陣からの伝騎が引返して来て、
「隊長杉森殿に」
と叫ぶ、勘三郎が出て行くと、
「至急の軍令で失念しました、本陣から別に一通書面をことづかって参ったのです」
「拙者か」
「はい、これです」
伝騎は書状を渡すと、再び馬を回らせて本陣へ駆り去った。
書面を手にした刹那、勘三郎はすぐに小菊からだと思い、われにもあらず戦く手に封を切ると、正しくそれは小菊の筆だった。
「おおやはりそうか」
あの夜、芙蓉畑の中で、――あとから手紙に書いて送ると云った、約束の文であろう。勘三郎は人眼を避けて森の茂みへ入ると、草の上に腰をおろして披いた。
――心急き候まま我ことのみ申上候。いつぞや従兄上さまにお願いのことありと申上候は、わたくしと鞆之助さまの儀にて――
「なに鞆と小菊?」
勘三郎は不安になって次を急ぐ。
――父上にはなかなか、従兄上さまにとそお打明け申候、まことこの春より鞆之助さまは小菊の良人にござ候。
「あ!」
勘三郎はぐさと胸を刺され、思わず苦痛の呻きをあげながら頭を垂れた。――鞆之助とそ小菊の良人……小菊の良人? なんと鋭い棘のある言葉だ。しかし勘三郎はきっと唇を噛みしめながら次を読む。
――淫ら者とのお叱りはもとより、しかるうえにまた一つお願いのござ候。聞き及び候ところとのたびの戦こそ皆々さま必死にて、一人も生きて還ること覚束《おぼつか》なしとのこと、良人を戦場に喪うは武家の習いなればかねて覚悟のことには候えど、生前にひと眼会って未来の約束交わしたく候、未練者とのお蔑み重々承知にて、小菊が七生を賭けてのお願い、従兄上さまにお縋り申候。――わたくし唯今須賀川の御本陣に参りおり候えば、何とぞひと眼だけお会わせくだされたく、お計いのほど待入り候。
「む、――ああ」
勘三郎は胸を掴んだ。
「知らなかった、知らなかったぞ小菊――、おまえが鞆と恋仲であろうとは」
[#8字下げ]七[#「七」は中見出し]
黄昏の霧が森を暗く包んだ。
一刻ばかりして、勘三郎は森の中から出て来たが、顔色蒼白め眼窪み、苦悩のあとが痛ましいまでに深く刻みつけられていた。陣所ではすでに炊飯を終って、最後の晩餐をするために隊士たちは円坐をつくって集った。
「谷屋!」
勘三郎は近寄って声をかけた。
「本陣への使だ、仕度をしてすぐに出立してくれ、急ぐぞ」
「使者、おれが行くのか」
黙って大股に自分の馬溜りのほうへ行く勘三郎のあとを、鞆之助は顔色を変えて追った。――この瀬戸際へきて自分一人だけは隊から切離される、さてはいよいよ勘三の奸計かと思った。
「何のためにおれを選ぶのだ」
「命令だ、説明する必要はない」
「いやだといったら、――?」
勘三郎は振返って一封の書状を差出した。鞆之助は挑戦するように勘三郎の顔を見上げたが、相手の眼は冷たく冴え、ひき結んだ唇には拒むことを許さぬ威厳があった。
「これが殿への御報告だ、夜襲は九つから始める、須賀川へ行って来たのでは間に合わぬから、ここへ帰って来るには及ばぬぞ」
「そうか」
鞆之助はしたり[#「したり」に傍点]と頷いて、
「そうだったのか、今はじめて分ったぞ、今日までおれを殺さなかった訳が、殺すよりもっと辛辣な復讐の方法だな、朱兜隊が全士最後の夜襲に、おれ一人が後れて生残るのだ、おれだけが残って生耻を――」
「行け! 急ぐのだ」
勘三郎の叫びは苦しそうだった。
「行こう、隊長の命令に反くことはできぬ、これで貴様も満足だろう、――だがひと言云っておくぞ、おれは貴様を呪ってやる、地獄の底までも呪ってやるぞ、下司《げす》め!」
鞆之助は身を慄わせながら、足早に自分の馬のほうへ去って行った。
勘三郎はしばらく眼を閉じたままそこに佇んでいたが、やがて内ぶところから小さな袱紗包を取出してひらいた。――中にはみじめに萎れた芙蓉の花が一輪。
「この花をくれた小菊の気持が、おれには今になって分ったような気がする、――摘取った花はしぼむ。小菊よ、この芙蓉のように勘三郎の恋も枯れてしまったぞ、残るものはおまえの清浄な心だ、おれはおまえの美しい俤をいだいて勇ましく討死するぞ」
勘三郎の頬に清らかな微笑が現われた。解脱《げだつ》した気持、今こそ彼は笑って討死ができるのだ。
一方、難路強行して鞆之助は四つ過ぎに須賀川の本陣へ着いた。
総攻め前の殺気だった陣中に、愛笛をしらべていた政宗は、勢至堂からの急使と聞いてすぐに、鞆之助を親しく招寄せた。
「夜中遠路の騎行、さぞ難儀であったろう、許す床几《しょうぎ》をやれ」
「は!」
政宗の言葉に近習の士が床几をとって鞆之助へ与えた。――政宗は書状を取って披く。
勘三郎の上書は、六月十四日以来の朱兜隊の行動、夜襲の仔細、討死した隊士の名を列記し、さらに今夜半の攻について精しく報告したもので、――末尾に筆を改め、
――使者として差立て候は、谷屋鞆之助とてあっぱれものの役に立つべき人物に御座候。今宵全士必死に候えば、朱兜隊の名誉を伝うべき者との一人に候。御側近く召使われ候よう奉懇願候。
[#地から2字上げ]朱兜隊長 勘三郎祐次
「うん」
政宗は頷いて書状を措いた。
「そち谷屋と申すか」
「は」
「よしよし、唯今より本陣に留るがよい、朱兜隊生残りとして側に召使うてやるぞ」
「お側に、――?」
「勘三から頼みもある、今宵の総攻に朱兜隊が全滅した場合には、名誉ある隊士として名を伝うべき一人、果報めでたき武功者であるぞ、心して働け」
鞆之助は無言で低頭した。
「使者の役大儀であった、下って休息するがよかろう、誰ぞ労わってやれ」
「は、――」
意外な名誉、鞆之助はなかば夢心地で、近習の士に伴われつつ御前をさがる、――仮屋の幕を外へ出た時、聞の中から、
「鞆之助さま」
と低く叫びながら出て来た者があった。
「誰だ」
ぎくりとして振返ると、足を乱して走寄った白い顔。小菊と知って鞆之助仰天した。
「おまえ小菊か」
「会いとうございました」
遠慮も忘れてすり寄るふたり、思わずひしと抱合う手と手だ。案内していた近習の士は、それと見るより暗がりへ立去った。
[#8字下げ]八[#「八」は中見出し]
「小菊――小菊」
「あなた」
「会いたかったぞ」
「会いとうござりました」
ふたりは弾んだ声で、狂おしく囁きながら、相手の肩を背を撫でひき緊め、憑かれたごとく烈しい愛撫を繰返した。
やがて鞆之助は身をはなし、
「それにしても無分別な、女の身で戦場へ来るなどとはどうした訳だ」
「叱らないで、ねえ」
小菊は甘えるように、
「今度はとても生きてお帰りはむつかしいと伺いましたので、生前いま一度お会いして未来の約束をしたいと存じ、恥を忍んでお従兄さまにお縋りしたのです」
「ちっと、――誰に縋ったって?」
「お従兄さまですわ、今日御本陣から使者がたつのへお頼みして、お手紙を差上げたのです、お聞きになりませんでしたか」
「――」
鞆之助は愕然とした。
小菊から勘三郎へ、ひと眼会わせてくれと手紙をやった。それでは勘三郎が今宵、自分を本陣へ使者に立てたのは、復讐する手段ではなかったのか、――?
「知らなかった」
鞆之助は低く呻いた。
今こそはっきりする。勘三郎は小菊の手紙を読んで、初めて小菊の心が分ったのだ、彼は自分の恋を諦めて、小菊の幸福を計るためにおれの生命を助けたのだ。――勘三は始めからおれを殺そうなどとはしていなかった、それをおれが一人で疑い、憎み、呪っていた。今宵のあの蒼白い顔は、何もかも諦め、おれたちふたりの仕合せを祈る顔だったのだ。――勘三郎は死ぬぞ!
「ああ過った!」
鞆之助はきっと面をあげる。
「小菊、さらばだ」
「あ、どうなさいます」
「勘三は死ぬ、おれは勘三を殺すことはできぬのだ、行くぞ」
ぐっと女の手を握ると、
「ま、待って」
取縋る小菊の手を振放して、鞆之助は繋いでおいた馬のほうへ脱兎のように走った。またしても霧のような雨が、――
「勘三、生きていてくれ」
鞆之助は馬首を勢至堂へ向け、鞭をあげながら心に叫んだ。
「このままでは死なせぬぞ、会ってひと言詫びが云いたい、生きていてくれ勘三!」
暗々たる道、飛沫をとばす蹄、泥濘の畑、林、丘の差別なく、鞆之助は狂気のように鞭を当て鞭を当て、馬を煽って塔本へ来ると、峠を左にみて右へとる、身隠れの森から長沼城へ、朱兜隊の攻口を逆に廻る道筋だ。
幾度か木根に躓《つまづ》いて顛倒する馬を、引立て引立て強行を続けるうち、ようやく木間越しに篝火の光がちらちらと見え始めた。潮騒のごとく軍馬の声も聞える、――合戦はすでに始まったらしい。
「待ってくれ勘三、鞆が行くぞ」
さらに挺進十余丁、主人を失った馬が、三頭五頭と狂奔して来る、もうすぐそこだ。
「わ――、わっ」
手に取るように近づく鬨声、ついに戦場が眼前に展開した。乱れとぶ剣光、叫喚、死の呻き、馬も人も揉みかえし揺りかえし、燃えさかる篝火に、眼を血走らせた軍兵の斬結ぶ姿が地獄絵のどとくうつし出された。
鞆之助は面もふらず死闘の群の中へ馬を乗入れる、隠見する朱色の兜をめがけて、剣を大きく振りながら叫んだ。
「勘三、鞆はここだぞ」
矢叫《やたけび》が彼の声を消した。
「勘三、どこにいる、鞆が来たぞ、勘三、鞆之助はここへ来ているぞ、――」
しかし、怒涛のような戦塵は、人も馬も覆いかくし、渦巻く殺気叫喚、乱軍の中に、何もかも渾沌と巻込んでしまった。
夜が明けた、合戦は終った。
伊達勢は大勝して黒川城を占領し、蘆名一族は戦場を脱して南へ遁走した。勝鬨の声天地をゆるがす輝かしい朝の晴れま、――谷屋鞆之助は搦手の戦跡を廻って、華々しく枕を並べて討死している朱兜隊士の中から、ようやくにして杉森勘三郎の屍を捜しだした。
「おお勘三!」
鞆之助は声を顫わせながら勘三郎の亡躯《なきがら》を抱上げ、冷たい胸へ力も失せて泣伏した。
「とうとう会えなかったなあ。ひと眼会いたかったのに、ひと眼。――残念だ、勘三、おれを赦してくれ、赦してくれ」
嗚咽《おえつ》が鞆之助の言葉を途切らせた。
またしても黒川城の塁壁をゆるがして、高々と勝鬨の声があがった。二度、三度、――長い淋雨があるのであろうか、東の空にくっきりと強く青空が描かれていた。
勘三郎の死顔は、晴れ晴れと笑っているかのように見える、そして冷たくなった左手に、しっかりと袱紗包を握っていた。芙蓉の花を秘めたあの――袱紗包を。
底本:「強豪小説集」実業之日本社
1978(昭和53)年3月25日 初版発行
1979(昭和54)年8月15日 四刷発行
底本の親本:「キング」
1935(昭和10)年3月号
初出:「キング」
1935(昭和10)年3月号
※表題は底本では、「恋芙蓉《こいふよう》」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)小菊《こぎく》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)父|甚左衛門《じんざえもん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#8字下げ]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
「ああ――」
小菊《こぎく》は歓びに顫えながら、そっと樅の木にもたれかかった。
いつかしら月が昇って、森のこのま越しに淡い光が、小菊の肩から腰へのまるい線をなまめかしく照しだしていた。
「ゆるしてください」
鞆之助《とものすけ》は苦しげに、
「こんなことを申上げるつもりはなかったのですが、こんど戦場へ戻れば生きて帰らぬ体です。男が一生に一度の恋……ひと言あなたに打明ければ、私は満足して死ねます」
「いいえ、いいえ」
小菊はそっと頭を振った。
「あなたは死にはなさいませんわ、生きて帰っていらっしゃいますわ、もしあなたが討死なすったら、――小菊も生きてはおりませぬ」
「え、あなたは何を云うのです」
「わたくしも、とうからあなたを、お慕い申しておりました」
「おお!」
鞆之助はうたれたように立竦んだ。
もう言葉などはいらない、見交わした眼と眼が、互いの胸に高鳴る血と血が、百万の言葉よりも強くふたりを結びつけるのだ
「小菊!」
「鞆之助さま!」
よろめくようにふたりはすり寄った。草のいきれと土のむす匂の中に、顫え戦《おのの》く胸と胸がひしとからみ合った、――森の奥で、夜鳥の巣鳴きが唆るように聞えている。
「小菊――小菊はおらぬか」
地続きの庭のほうから、父親の呼ぶ声がひびいてきた。小菊ははっ[#「はっ」に傍点]として男の胸から離れ、羞いながら衣紋を正した。
「父が呼んでおります」
「お帰りなさい」
「はい」
鞆之助はもう一度小菊の体を引寄せた。
「もう私は死にません、必ず凱陣いたします、そうしたら御尊父に申上げて婚姻のお許しを受けましょう」
「きっと、きっと――ねえ」
「谷屋《たにや》鞆之助は今とそ伊達家中随一の勇者です、待っていてください、あなたの良人《おっと》として恥しからぬ功名手柄をたてて帰ります」
「うれしゅうございますわ」
小菊は火のような頬を鞆之助の胸へすりつけると、つとすりぬけて森の外へ、――鞆之助は躍りあがりたいような歓びを胸いっぱいにして、遠のいて行く娘の後姿を見送った。
谷屋鞆之助は伊達政宗《だてまさむね》の家臣、禄五十貫を喰む徒士組《かちぐみ》だった。天正十七年冬、政宗が黒川城(後の会津若松城)の蘆名盛重《あしなもりしげ》と戦を構えるや、先鋒として磐梯山下に転戦、――手傷を負って帰郷したのであるが、それもようやく癒《い》えたので、四五日うちにはふたたび戦場へ戻ることになっていた。
「小菊か――」
柴折戸から入る気配で、障子をいっぱいに明けた広間の内から、父|甚左衛門《じんざえもん》の大きく叫ぶ声がした。
「はい」
「早く来い、勘三郎《かんざぶろう》が戻っているぞ」
「まあ!」
小菊は急いで縁からあがる、――甚左衛門と向合って、従兄の杉森《すぎもり》勘三郎が寛いだ姿で坐っていた。
「まあお従兄《にい》さま」
「小菊か、達者でいるな」
「わたくしよりお従兄さまこそ、どうしてお戻りなされました、お怪我でございますか、そして戦争の様子は」
「これ、そう何もかも一緒に訊くやつがあるか、勘三郎はの、このたび思召しによって朱兜《しゅかぶと》隊に廻り、しかも隊長に任ぜられたのだぞ」
「朱兜隊の隊長――まあ」
小菊は眼を大きく瞠った。勘三郎は高額に謙遜の色をうかべながら、
「それほどの器量でもないが、二本松の合戦で先隊長|須藤鬼弥太《すどうおにやた》殿が討死をした、その後釜を頂戴したのだよ」
「お立派ですわ、ねえ父上さま。杉森の一族から朱兜隊長を出すなんて、こんな名誉なことはございませんわ」
「それから谷屋なあ」
勘三郎が言葉をついだ。
「あの鞆之助も朱兜隊に廻されたぞ」
「鞆之助さまも、まあ――」
小菊は思わず頬の熱くなるのを感じた。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
朱兜隊というのは百騎をもって組まれ、隊士はいずれも果敢豪勇の人物を選び、また隊の目印ともいうべき鉢金を朱色に塗った兜は、政宗からじきじきに下賜されるという名誉の遊撃部隊であった。
勘三郎の帰郷は、陣中の政宗から本城米沢への報知に兼ねて、留守役の親族に出世の喜びをわかってといと、五日の休暇をもらってきたのであった。
「幼な馴染の二人、幸いにして勘三がひと足さきに出世したが、鞆[#「鞆」に傍点]との仲に高下はない、これからは二人力を協《あわ》せて朱兜隊の威力を天下に示してやるのだ」
「勇ましい勇ましい」
甚左衛門は膝を打った。小菊は勘三郎の逞しい横顔をたのもしく見戍りながら、
「お従兄さまが隊長なら、谷屋さまもきっと眼覚しいお働きができましょう、どうぞお二人揃って立派な手柄をおたて遊ばせ」
「もうよいぞ小菊、おまえは行って酒の仕度をしてくれ、何は無くとも今宵は祝宴じゃ」
「はい、たんと御馳走を作りましょう」
いそいそと立って行く小菊の後姿を、勘三郎は熱い眸子《ひとみ》でじっと見送った。
往来に二日とられる中三日の休暇は瞬くうちに過ぎてしまった。明日は早く戦場へ発足という前夜のことである、――鞆之助も招いて袂別の酒宴を張ったが、それもようやく終って甚左衛門は寝間へ退き、鞆之助は帰って行った。
微酔の頬をさまそうと、庭へおりた勘三郎は、伯父の愛する春咲きの珍種、芙蓉畑の白い花が咲揃っているところへやって来た。
「月も佳し、花も良し、――」
宵のうすじめりした微風に鬢を吹かせながら足をとめる、と、うしろに足音がして、小菊が静かに近寄ってきた。
「いよいよ明日はお別れですのねえ」
「小菊か、伯父上は」
「いま臥床へおはいりなされました」
「今宵はだいぶ召されたなあ」
「嬉しいのですわ、お従兄さまを自分の子のように思っているのですもの、ゆうべもゆうべ、軍兵衛《ぐんべえ》が生きていたらどんなに悦ぼうぞ、そう云って悲しそうに」
「父が生きていたら」
勘三郎はそっと呟いた。早く母を失い、続いて父軍兵衛に先立たれた勘三郎は、甚左衛門を父とも母とも思って育った。軍兵衛と云われても、――眼にうかぶ俤《おもかげ》は濃霧のかなたにうすれていた。
「なあ小菊」
「はい」
「勘三は今宵、おまえに打明けて話したいことがあるのだ、聞いてくれるか」
勘三郎の声はかすかに顫えていたが、小菊はそれに気付くまでもなく、思わずこちらも急《せ》きこんで、
「あら、わたくしもよ、お従兄さま」
「おまえが――?」
「わたくしもお話がありますの」
そう云って、しかし小菊は思わず自分のうわついた調子に気付き、さっと頬を染めた。
「聞こう、話してごらん」
勘三郎の胸は騒いでいた。
「いいえ、でもお従兄さまが先ですわ」
「おまえ云ってごらん」
「いやですわ、どうぞお従兄さまから」
小菊は媚びるように身をもんだ。半年まえには見なかったなまめかしい身振、溢れるばかりの嬌態《しな》が若い勘三郎の心を烈しく唆るのだった。
「小菊、おまえ、――」
「あら」
小菊はふいに身をそらすと、そこに咲誇っている。芙蓉の一輪を摘取った。
「まあ、小菊の芙蓉が咲きましたわ、この一本だけはわたくしが丹精しましたの、――お従兄さまこれをもらってくださる?」
「有難う」
羞いながら差出す花を、勘三郎はしかと受取った。その時――小菊の髪があまく匂い、乙女の肌の香が勘三郎の心を掻紊《かきみだ》した。
「でも摘んだ花はすぐしぼんでしまいますわねえ」
「たとえ花は枯れても、これをくれたおまえの心は枯れはせぬ、勘三は大事に、――大事にしまっておく」
「お従兄さま!」
小菊は思切ったように振返ったが、やはりいざとなると勇気が挫けて、袂で顔をかくしてしまった。
「いいえだめ、申上げられませんわ」
「どうしたのだ、小菊」
「お願いがあるのですけれど、でも、でも恥かしいのですもの」
勘三郎は思わずひと足進み出た。と、――小菊は身をしさらせながら、
「お手紙を差上げますわ、後から、お手紙ですっかり申上げますわ、でもどうぞ小菊をお嗤《わら》いなさいますな、ねえ」
そう云うと、そのまま踵をかえして小菊は母屋のほうへ走り去った。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
明る朝早く。
馬上の若武者二騎、米沢から二本松へ向かって吾妻越を急いでいた。峠へかかると鞆之助はうしろを見返って、
「やあお城が見える」
「少し馬をやすめるとしようか」
二人は馬を繋いで草の上に腰をおろした。
「杉森、――」
鞆之助はひと汗拭くと、
「実は貴公に折入って頼んでおきたいことがあるのだ」
「なんだ、戦場に骨を拾う頼みなら互いのことだぞ」
「いいやそうではない」
鞆之助は少し顔を赧めて、
「こん度の戦にもし武運めでたく凱陣することができたなら、おれは嫁を娶ろうと思っている」
「仲人せいというのか」
「うん、相手は貴公も知っている人だ」
「誰だろう」
勘三郎は微笑しながら空を見上げた。ゆうべの胸躍るいっとき、小菊のなまめかしい姿が、幻のように思出されたのである。
「そう云えば分るはずだが」
「はてな」
「初めにこ[#「こ」に傍点]という字がつく」
「こ――、はて、村井《むらい》の小房《こふさ》か」
「違うよ、あんなおかめ[#「おかめ」に傍点]」
「では長谷部《はせべ》の」
「いや小袖《こそで》は忠太《ちゅうた》の許嫁《いいなずけ》だ」
「妹があるだろう」
「ばかな、あれは今年まだ十一歳だ」
二人は声を合せて笑った。
「とすると、こ[#「こ」に傍点]の字のつく娘は」
「今度は分るだろう」
勘三郎はぎくっとして眼を外らした。鞆之助は暫く待ったが返辞がないので、我慢できずにひと膝ゆり出し、
「貴公の従妹小菊どのだ」
「――」
「仲人たのむ、なあ」
勘三郎は大きく息をつきながら立った。
鞆之助とは幼友達、それも弟のように馴れ愛してきた男である、今日までは悲しみも歓びもわかち合い、互いに精励しつつ死すとも離れじと、固く友情で結ばれていた、――それがいま、自分と同じように一人の小菊を嫁にと望んでいるのだ。
「だめか勘三」
「鞆、――」
勘三郎は振向いた。
「外のことと違って一生の大事だから、おれは遠慮をせずに云うが小菊のことなら諦めてくれ」
「諦めろ、なぜ?」
鞆之助は訝しそうに見上げた。
「隠さずに云おう、実は小菊はおれが命に代えていとしく思う女だ、今度帰って来たのもひとつには小菊の気持をたしかめてみたかったからなのだ」
鞆之助の顔色がさっと変った。勘三郎は眼を伏せた、鞆之助は鋭く、
「それで、小菊は承知したか」
「承知した、――とおれは思う」
「嘘だ!」
「なに?」
「嘘だ、大嘘だ!」
鞆之助は立上って嘲るように、
「その証拠には、小菊はすでにおれと堅く約束を交わしているのだ、あのひとが二人も三人も心を許すひとか、嘘を云うな!」
「貴公が小菊と約束した?」
「そうよ、忘れもせぬ貴公が戦場から帰った晩、神戸の森で二人っきり、凱陣したら夫婦になろうと、――」
「黙れ鞆!」
勘三郎は大声に叫んだ。前夜の小菊の様子、芙蓉の花を摘取ってくれた姿が、まだありありと眼にある勘三郎は、一図に鞆之助の言葉を恋に眩んだ暴言と思った。
「貴様小菊を辱めるか」
「辱めるとはそのほうのことだ、心許さぬ者がなんでおれと忍び逢う、現に、――」
「やめろ」
「やめぬ、おれと小菊とは」
「うぬ飽くまで云うか」
かっとした勘三郎、いきなり拳をあげて鞆之助の高頬を殴りつけた。鞆之助はよろめいたが、手向いもせず冷やかに嘲笑った。
「殴れ殴れ、それでおれをやっつけたと思うなら幾らでも殴るがよい、貴公は朱兜隊の隊長だ、おれは手向いはせぬぞ」
「ばか者、恥を知れ」
「有難う、覚えておこう」
云いすてると、鞆之助は馬を曳出し、とび乗るとそのまま後をも見ずに峠を越えて駆《はし》り去ってしまった。
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
転戦、――また転戦。
四月本宮を陥れ、三春、守山と敵塁を抜いた伊達政宗は、さらに須賀川を占領して一気に本城黒川を攻め落とそうとしたが、長沼城によった蘆名の勇将|高田玄蕃盛高《たかだげんばもりたか》が頑強に攻口を塞いで動かぬ、ついに対陣月余に及んだ。
荏苒《じんぜん》時をすごせば、相模北条の北漸を怖れねばならぬ、淋雨降りつづく六月はじめ、政宗は奮然鞍をうって決戦すべきを令し、老臣|片倉景綱《かたくらかげつな》をして摺上原に進ましめ、別に遊撃として朱兜隊を勢至堂におき、秘策を授けて必死の陣を敷いた。
嶮路難行、勢至堂に到った朱兜隊は、身隠れの森に馬を駐め、地理を按じ剣を磨して軍令の至るのを待った。
「夜襲《よがけ》を決行すべし!」
第一の軍令は六月十四日に来た。
朱兜隊の任務は長沼城の搦手《からめて》へ奇襲をかけるにあった。片倉勢が大手へ攻めをかける前に、城兵の勢力を二分するため、――日頃『朱兜隊の先鋒するところ必ず伊達勢の主力あり』という定評を利用し、とくにこれを奇襲部隊にあてたのである。
杉森勘三郎は隊士を集め、その内十名を選んで先鋒とした。
「このたびの任務は、合戦を勝利に導くか敗亡せしめるか、二途を岐ける重大な責が懸っているのだ、一人も生きて帰ると思うな、髑髏《どくろ》を泥土に委して朱兜隊の名を万世に輝かすべき時だぞ、――出陣」
朱兜隊は身隠れの森を発した。
霧のような雨が、降っていたかと思うといつかやみ、雲間から皎々《こうこう》と月がさし出でた、しかしそれもながいことではなくて、すぐにまたじとじとと雨になる、――嶮路ところどころ土砂が崩れ、渓沢は水嵩《みずかさ》を増して行軍の困難は思いのほかにひどかった。
鞆之助はその四五日すっかり気力を失い、身も魂も憔悴していた。
「勘三郎は小菊を自分のものにしようとしている、おれはいつか勘三郎のために死地に陥れられるに違いない」
さういう危惧が、吾妻越の峠の日からこのかた、いつも頭から去らなかった。杉森は隊長で自分は部下である、隊長の命令とあればどんな危地にも踏込まねばなるまい、――
「あいつおれを殺す、きっと殺すぞ、だがおれはそうむざむざとは死なぬ、おれは生きるのだ、たとえ一日でも小菊と夫婦になるまでは、石に噛りついても生きてみせるぞ!」
かたく心に誓いながら、毎日来る日も来る日も勘三郎の眼を挑むように睨んでいた。
「殺すのは今日か、明日か」
張りきった弓弦のように、勘三郎の命令のあるのを待っていると、今日の軍令である、いよいよその時が来たなと思った。
「さあ来てみろ、鞆之助はそう易々とは死んでやらぬぞ!」
拳を握って軍に従った。
木幡へ来ると、一度そこへ停まって、馬に水をやり兵は戦装をととのえた。勘三郎は馬上に隊士を見廻しながら、
「これから夜襲にかかる、先鋒隊は隊長の側にいろ、号令があったらまっすぐに柵の中へ斬込むのだ、一人も退くことならぬぞ、――軍令に反く者は、刑殺だ、出発!」
一同粛然と進発した。
強行すること半刻、竹柴の柵ま近に迫った朱兜隊は、そこで兵をひらき、用意してきた仕掛けの大巻藁を十束、おのおの半丁の間隔をおいて並べ、一時に火を放って、
「わあっ!」
わっと鬨《とき》をつくった。
突忽として起った喚声、闇天を焦がして燃上る火の手を見て、すわこそ夜襲ぞと城中は色めき立った。篝の火に右往左往する人馬の姿、見るより勘三郎は鞍上高くばらりと采配を振った。
「かかれ――」
言下に朱兜隊の面々、どっとおめきつつ、柵へ向って殺到した。
城内の兵またこれに応じて、篝火炎々と焚きあげつつ、木戸をかため雨のどとく箭《や》、鉄砲を射かけて防戦したが、――瞬く暇にひしひしと詰寄せた敵兵、兜の鉢金朱に塗られたのを見るなり仰天して、
「やあ、あれを見ろ、朱色の兜だ」
「朱兜隊だ」
「さてこそ伊達の精鋭ぞ、加勢を呼べ」
「加勢を呼べ」
とにわかに強いどよめきが巻起った。
[#8字下げ]五[#「五」は中見出し]
果して政宗の策は的中した。
朱兜隊のあるところ必ず伊達の主力ありという今までの経験で、城兵は全く狼狽の渦に巻込まれた。馬上に機を見ていた勘三郎、時分は良しと、
「先鋒かかれ!」
命をくだした。
逸りたつ馬を制して、号令おそしと待構えていた先鋒の一団、声に応じてわっと鬨をつくるや、馬腹を蹴って雪崩のごとく、無二無三に木戸へ殺到する、――討って出ようとする、城兵の鼻先へ逆を衝いたからどどど[#「どどど」に傍点]とたじろぐ、見るまに木戸を破って先鋒十騎は柵内へ斬込んだ。
閃く剣、飛ぶ槍、狂奔する馬、叫喚、どよめき、瞬時にしてそこには無惨な血戦が展開された。一番組頭の瀬越十郎太《せごしじゅうろうた》が、馬を乗りつけてきて叫ぶ。
「隊長、二番手をかける時です」
「まだ!」
勘三郎は見向きもしない。
「城兵は混乱しています」
「知っている」
「後れては先鋒が鏖殺《おうさつ》です」
勘三郎は返辞をしない。――そこへ新井弥兵衛《あらいやへえ》と三番組頭|畑中忠之進《はたなかちゅうのしん》、依田権七《よだごんしち》の三名が馬を煽って来た。彼らの後には谷屋鞆之助の怯えたような顔がある。
「隊長、斬込む時です」
「先鋒は苦戦しています」
「我々をやってください」
「隊長!」
併し、その時勘三郎はすっくと馬上に伸上って、采配をうち振ると大音に叫んだ。
「退け――」
意外な号令。
「あ!」
四名は仰天して、しばらくは言葉もなかった。すると鞆之助がいきなり馬を寄せて来て、上ずった声で喚きだした。
「退けと云うのか、この名誉ある朱兜隊に退却しろと云うのか、かしこに苦戦している先鋒を見殺しにして!」
「隊長、それはできません」
瀬越十郎太も詰寄った。
「せっかく斬込んだ隊士をどうするのです、あれを見棄てて退くなど、我々には到底できぬことです、隊長!」
「退くのだ、兵を集めろ」
勘三郎は強く叫んだ。
「軍令に反く者は刑殺だぞ」
「――」
誰もかも、勘三郎の厳とした言葉に逆う者はなかった。勘三郎は馬首を回《かえ》した。
朱兜隊は槍を伏せ、声を収めて退却を始めた。誰一人として後を振返る者はない、――雨はまた音もなく降りだし、兵の兜に物具に滴を流した。勢至堂峠にかかった時、遙に長沼城のあたりで高く鬨声のあがるのが聞えた。斬込んで行った先鋒が全滅したのであろう。聞く者みな胸を刺される思いで、暗然と馬を駆って陣地へ帰った。
本陣からの軍令は次々と来た。
「今夜半、夜襲を決行すべし」
「明朝暁暗を衝いて強襲すべし」
そのたびに惨澹たる襲撃は繰返された。二回、――三回、――四回。そしてそのたびごとに先鋒として斬込んで行く者は全滅して、今や朱兜隊士はその数半分となってしまった。依田権七も死んだ、三番組頭畑中忠之進も死んだ、瀬越十郎太も帰らなかった。
黄昏の色が濃くなると、
「今夜こそおれの番だ」
鞆之助は骨を削られるような恐怖に襲われるのであった。
「ああ、小菊、おれは、――」
鞆之助は喘ぐように呟く、
「おれは死ねぬぞ、死ぬならひと眼せめてひと眼会いたい、ひと言別れを云ってから死にたい、小菊――」
二十五歳の今日まで、武家に人と成って後れをとったことのない彼、幾戦場に命を賭して奮戦し、若手の内にも果敢の者に数えられている鞆之助が、小菊あればこそ心を刺す苦痛未練であった。
苦悩は日となく夜となく続いた。一日ごとに同輩の姿は減ってゆく、罠にかかった獣が一寸ずつ縄をつめられるように、じりじりと迫ってくる死の手だ。
「駄目だ、いつかは来る」
鞆之助は絶望して叫んだ。
「いつかはおれの番が来るのだ、どう藻掻いても生きて帰れる術はない、それならばいっそ早く死のう、もう待っているのは沢山だ、小菊、――おれは死ぬぞ!」
鞆之助は勘三郎の前へ走って行った。
「隊長、お願いです」
「何か用か」
勘三郎はその時、小菊へ送る手紙を書いていたが、筆をおいて振返った。
「私はもう朋友の死んで行くのを見ているのに堪えません、今宵の夜襲には私を先鋒の内へ加えてもらいたいのです」
[#8字下げ]六[#「六」は中見出し]
勘三郎はしばらく鞆之助の顔を見戍っていたが、やがて静かに云った。
「鞆、――おまえまだあの時のことを根に持っているのか」
「私は先鋒に加えてもらいたいのだ」
「まあ聞け」
「許してもらえますか」
勘三郎は立上って大股に歩寄ると、鞆之助の肩をしっかり掴んだ。
「鞆、よい加減にするものだぞ、おれとおまえとは幼い頃から約束がしてあった筈ではないか、――生れた時こそ違え死ぬ時には必ず二人一緒と」
「そんな甘口は沢山だ、おれは自分がいつかは殺されるのを知っている」」
「止せ!」
「止さぬ、恋敵に命の綱を握られている鞆之助だ、死ぬと決って一日延ばしに生きることがどんなに辛いか貴公に分るか、もう沢山だ、ひと思いに殺されたい、やってくれ」
「貴様――!」
さすがに勘三郎が色をなして詰寄る、――とその時、馬を煽って本陣からの伝騎が来た。
「軍令でござる」
「御苦労」
勘三郎は踵をかえすと、大股に立って行って軍令を受取った。鞆之助のほうへは眼もくれず手早く披見すると、
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
一、明朝明け八つ刻、大手片倉勢は総攻撃を開始すべし。
一、これが牽制のため朱兜隊は最後の強襲を決行せよ。全士一人も生還あるべからず。
一、政宗が冥途の先駈は朱兜隊なるぞ。
[#地から2字上げ]右京太夫政宗 華押《かおう》
[#ここで字下げ終わり]
「委細承知仕った」
勘三郎はにっこと笑って、
「御前よろしゅう」
「御免!」
伝騎は一|揖《ゆう》すると馬を回した。勘三郎は力強く鞆之助の前へ戻ってきて云う。
「鞆、おまえの望みが恊ったぞ」
「――!」
「本陣からの軍令だ、いよいよ朱兜隊生残りの同士、全部轡をならべて討死する時が来た、つまらぬ意地などは捨てろ、潔く二人一緒に死のうぞ」
鞆之助は併し、鋭い憎悪の眸子《ひとみ》で勘三郎を睨みつけたまま、大股にそこを立去って行った。――ただちに兵が集められた。
最後の戦闘と聞いて、隊士の活気は頓《とみ》に燃えあがり、馬を洗い剣を検め、身を浄めて決戦の仕度を急いだ。その時、――一度帰って行った本陣からの伝騎が引返して来て、
「隊長杉森殿に」
と叫ぶ、勘三郎が出て行くと、
「至急の軍令で失念しました、本陣から別に一通書面をことづかって参ったのです」
「拙者か」
「はい、これです」
伝騎は書状を渡すと、再び馬を回らせて本陣へ駆り去った。
書面を手にした刹那、勘三郎はすぐに小菊からだと思い、われにもあらず戦く手に封を切ると、正しくそれは小菊の筆だった。
「おおやはりそうか」
あの夜、芙蓉畑の中で、――あとから手紙に書いて送ると云った、約束の文であろう。勘三郎は人眼を避けて森の茂みへ入ると、草の上に腰をおろして披いた。
――心急き候まま我ことのみ申上候。いつぞや従兄上さまにお願いのことありと申上候は、わたくしと鞆之助さまの儀にて――
「なに鞆と小菊?」
勘三郎は不安になって次を急ぐ。
――父上にはなかなか、従兄上さまにとそお打明け申候、まことこの春より鞆之助さまは小菊の良人にござ候。
「あ!」
勘三郎はぐさと胸を刺され、思わず苦痛の呻きをあげながら頭を垂れた。――鞆之助とそ小菊の良人……小菊の良人? なんと鋭い棘のある言葉だ。しかし勘三郎はきっと唇を噛みしめながら次を読む。
――淫ら者とのお叱りはもとより、しかるうえにまた一つお願いのござ候。聞き及び候ところとのたびの戦こそ皆々さま必死にて、一人も生きて還ること覚束《おぼつか》なしとのこと、良人を戦場に喪うは武家の習いなればかねて覚悟のことには候えど、生前にひと眼会って未来の約束交わしたく候、未練者とのお蔑み重々承知にて、小菊が七生を賭けてのお願い、従兄上さまにお縋り申候。――わたくし唯今須賀川の御本陣に参りおり候えば、何とぞひと眼だけお会わせくだされたく、お計いのほど待入り候。
「む、――ああ」
勘三郎は胸を掴んだ。
「知らなかった、知らなかったぞ小菊――、おまえが鞆と恋仲であろうとは」
[#8字下げ]七[#「七」は中見出し]
黄昏の霧が森を暗く包んだ。
一刻ばかりして、勘三郎は森の中から出て来たが、顔色蒼白め眼窪み、苦悩のあとが痛ましいまでに深く刻みつけられていた。陣所ではすでに炊飯を終って、最後の晩餐をするために隊士たちは円坐をつくって集った。
「谷屋!」
勘三郎は近寄って声をかけた。
「本陣への使だ、仕度をしてすぐに出立してくれ、急ぐぞ」
「使者、おれが行くのか」
黙って大股に自分の馬溜りのほうへ行く勘三郎のあとを、鞆之助は顔色を変えて追った。――この瀬戸際へきて自分一人だけは隊から切離される、さてはいよいよ勘三の奸計かと思った。
「何のためにおれを選ぶのだ」
「命令だ、説明する必要はない」
「いやだといったら、――?」
勘三郎は振返って一封の書状を差出した。鞆之助は挑戦するように勘三郎の顔を見上げたが、相手の眼は冷たく冴え、ひき結んだ唇には拒むことを許さぬ威厳があった。
「これが殿への御報告だ、夜襲は九つから始める、須賀川へ行って来たのでは間に合わぬから、ここへ帰って来るには及ばぬぞ」
「そうか」
鞆之助はしたり[#「したり」に傍点]と頷いて、
「そうだったのか、今はじめて分ったぞ、今日までおれを殺さなかった訳が、殺すよりもっと辛辣な復讐の方法だな、朱兜隊が全士最後の夜襲に、おれ一人が後れて生残るのだ、おれだけが残って生耻を――」
「行け! 急ぐのだ」
勘三郎の叫びは苦しそうだった。
「行こう、隊長の命令に反くことはできぬ、これで貴様も満足だろう、――だがひと言云っておくぞ、おれは貴様を呪ってやる、地獄の底までも呪ってやるぞ、下司《げす》め!」
鞆之助は身を慄わせながら、足早に自分の馬のほうへ去って行った。
勘三郎はしばらく眼を閉じたままそこに佇んでいたが、やがて内ぶところから小さな袱紗包を取出してひらいた。――中にはみじめに萎れた芙蓉の花が一輪。
「この花をくれた小菊の気持が、おれには今になって分ったような気がする、――摘取った花はしぼむ。小菊よ、この芙蓉のように勘三郎の恋も枯れてしまったぞ、残るものはおまえの清浄な心だ、おれはおまえの美しい俤をいだいて勇ましく討死するぞ」
勘三郎の頬に清らかな微笑が現われた。解脱《げだつ》した気持、今こそ彼は笑って討死ができるのだ。
一方、難路強行して鞆之助は四つ過ぎに須賀川の本陣へ着いた。
総攻め前の殺気だった陣中に、愛笛をしらべていた政宗は、勢至堂からの急使と聞いてすぐに、鞆之助を親しく招寄せた。
「夜中遠路の騎行、さぞ難儀であったろう、許す床几《しょうぎ》をやれ」
「は!」
政宗の言葉に近習の士が床几をとって鞆之助へ与えた。――政宗は書状を取って披く。
勘三郎の上書は、六月十四日以来の朱兜隊の行動、夜襲の仔細、討死した隊士の名を列記し、さらに今夜半の攻について精しく報告したもので、――末尾に筆を改め、
――使者として差立て候は、谷屋鞆之助とてあっぱれものの役に立つべき人物に御座候。今宵全士必死に候えば、朱兜隊の名誉を伝うべき者との一人に候。御側近く召使われ候よう奉懇願候。
[#地から2字上げ]朱兜隊長 勘三郎祐次
「うん」
政宗は頷いて書状を措いた。
「そち谷屋と申すか」
「は」
「よしよし、唯今より本陣に留るがよい、朱兜隊生残りとして側に召使うてやるぞ」
「お側に、――?」
「勘三から頼みもある、今宵の総攻に朱兜隊が全滅した場合には、名誉ある隊士として名を伝うべき一人、果報めでたき武功者であるぞ、心して働け」
鞆之助は無言で低頭した。
「使者の役大儀であった、下って休息するがよかろう、誰ぞ労わってやれ」
「は、――」
意外な名誉、鞆之助はなかば夢心地で、近習の士に伴われつつ御前をさがる、――仮屋の幕を外へ出た時、聞の中から、
「鞆之助さま」
と低く叫びながら出て来た者があった。
「誰だ」
ぎくりとして振返ると、足を乱して走寄った白い顔。小菊と知って鞆之助仰天した。
「おまえ小菊か」
「会いとうございました」
遠慮も忘れてすり寄るふたり、思わずひしと抱合う手と手だ。案内していた近習の士は、それと見るより暗がりへ立去った。
[#8字下げ]八[#「八」は中見出し]
「小菊――小菊」
「あなた」
「会いたかったぞ」
「会いとうござりました」
ふたりは弾んだ声で、狂おしく囁きながら、相手の肩を背を撫でひき緊め、憑かれたごとく烈しい愛撫を繰返した。
やがて鞆之助は身をはなし、
「それにしても無分別な、女の身で戦場へ来るなどとはどうした訳だ」
「叱らないで、ねえ」
小菊は甘えるように、
「今度はとても生きてお帰りはむつかしいと伺いましたので、生前いま一度お会いして未来の約束をしたいと存じ、恥を忍んでお従兄さまにお縋りしたのです」
「ちっと、――誰に縋ったって?」
「お従兄さまですわ、今日御本陣から使者がたつのへお頼みして、お手紙を差上げたのです、お聞きになりませんでしたか」
「――」
鞆之助は愕然とした。
小菊から勘三郎へ、ひと眼会わせてくれと手紙をやった。それでは勘三郎が今宵、自分を本陣へ使者に立てたのは、復讐する手段ではなかったのか、――?
「知らなかった」
鞆之助は低く呻いた。
今こそはっきりする。勘三郎は小菊の手紙を読んで、初めて小菊の心が分ったのだ、彼は自分の恋を諦めて、小菊の幸福を計るためにおれの生命を助けたのだ。――勘三は始めからおれを殺そうなどとはしていなかった、それをおれが一人で疑い、憎み、呪っていた。今宵のあの蒼白い顔は、何もかも諦め、おれたちふたりの仕合せを祈る顔だったのだ。――勘三郎は死ぬぞ!
「ああ過った!」
鞆之助はきっと面をあげる。
「小菊、さらばだ」
「あ、どうなさいます」
「勘三は死ぬ、おれは勘三を殺すことはできぬのだ、行くぞ」
ぐっと女の手を握ると、
「ま、待って」
取縋る小菊の手を振放して、鞆之助は繋いでおいた馬のほうへ脱兎のように走った。またしても霧のような雨が、――
「勘三、生きていてくれ」
鞆之助は馬首を勢至堂へ向け、鞭をあげながら心に叫んだ。
「このままでは死なせぬぞ、会ってひと言詫びが云いたい、生きていてくれ勘三!」
暗々たる道、飛沫をとばす蹄、泥濘の畑、林、丘の差別なく、鞆之助は狂気のように鞭を当て鞭を当て、馬を煽って塔本へ来ると、峠を左にみて右へとる、身隠れの森から長沼城へ、朱兜隊の攻口を逆に廻る道筋だ。
幾度か木根に躓《つまづ》いて顛倒する馬を、引立て引立て強行を続けるうち、ようやく木間越しに篝火の光がちらちらと見え始めた。潮騒のごとく軍馬の声も聞える、――合戦はすでに始まったらしい。
「待ってくれ勘三、鞆が行くぞ」
さらに挺進十余丁、主人を失った馬が、三頭五頭と狂奔して来る、もうすぐそこだ。
「わ――、わっ」
手に取るように近づく鬨声、ついに戦場が眼前に展開した。乱れとぶ剣光、叫喚、死の呻き、馬も人も揉みかえし揺りかえし、燃えさかる篝火に、眼を血走らせた軍兵の斬結ぶ姿が地獄絵のどとくうつし出された。
鞆之助は面もふらず死闘の群の中へ馬を乗入れる、隠見する朱色の兜をめがけて、剣を大きく振りながら叫んだ。
「勘三、鞆はここだぞ」
矢叫《やたけび》が彼の声を消した。
「勘三、どこにいる、鞆が来たぞ、勘三、鞆之助はここへ来ているぞ、――」
しかし、怒涛のような戦塵は、人も馬も覆いかくし、渦巻く殺気叫喚、乱軍の中に、何もかも渾沌と巻込んでしまった。
夜が明けた、合戦は終った。
伊達勢は大勝して黒川城を占領し、蘆名一族は戦場を脱して南へ遁走した。勝鬨の声天地をゆるがす輝かしい朝の晴れま、――谷屋鞆之助は搦手の戦跡を廻って、華々しく枕を並べて討死している朱兜隊士の中から、ようやくにして杉森勘三郎の屍を捜しだした。
「おお勘三!」
鞆之助は声を顫わせながら勘三郎の亡躯《なきがら》を抱上げ、冷たい胸へ力も失せて泣伏した。
「とうとう会えなかったなあ。ひと眼会いたかったのに、ひと眼。――残念だ、勘三、おれを赦してくれ、赦してくれ」
嗚咽《おえつ》が鞆之助の言葉を途切らせた。
またしても黒川城の塁壁をゆるがして、高々と勝鬨の声があがった。二度、三度、――長い淋雨があるのであろうか、東の空にくっきりと強く青空が描かれていた。
勘三郎の死顔は、晴れ晴れと笑っているかのように見える、そして冷たくなった左手に、しっかりと袱紗包を握っていた。芙蓉の花を秘めたあの――袱紗包を。
底本:「強豪小説集」実業之日本社
1978(昭和53)年3月25日 初版発行
1979(昭和54)年8月15日 四刷発行
底本の親本:「キング」
1935(昭和10)年3月号
初出:「キング」
1935(昭和10)年3月号
※表題は底本では、「恋芙蓉《こいふよう》」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ