harukaze_lab @ ウィキ
家常茶飯
最終更新:
harukaze_lab
-
view
家常茶飯
山本周五郎
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)守屋《もりや》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]
-------------------------------------------------------
[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
守屋《もりや》君が酒場エトルリアの女給ひとみ[#「ひとみ」に傍点]に迷った動機については、かならずしも妻君が悪かったというのではない。守屋君は妻君を愛していたし、妻君の守屋君を愛することにも変りはないのだ。夫妻のあいだに生れた俊一《しゅんいち》という子供は、親類中での器量よしであり、お誕生前に犬と父とを呼び分けることができたほど頭も良く、一年四ヶ月になるきょうまで風邪ひとつひかぬ健康をもっているというぐあいでこれまた守屋君にとって不足であるはずがない。経済的方面からいえば守屋君は確実な二流銀行の貸付係を勤め、あるデリケエトな意味でみいり[#「みいり」に傍点]が多かったから、同期の卒業生中では上位の生活を張ってゆける安穏な身分であった。
安穏といえばふたりの結婚のなりたちからして安穏なものだった。二人いた競争者をはね除けてみごと彼女を許婚に獲得した守屋君は、六十日間一日も欠かさず、一輪五十銭の薔薇を一本ずつ持って訪問し、また許婚はそのたびに守屋君の手巾《ハンカチ》を洗濯したものと取換えてくれた。そしてふたりは結婚したのである。世に貞淑と云われる妻を見たい人は守屋君の妻君を見るがよろしい。怜悧で美貌で、しかもそれにも増して控目がちな妻を見たい人は守屋君の妻君を見るがよろしい。人一倍我儘で独善家で、喰意地が張っていて、癇癪持で、朝寝坊で、酒好きな良人と、五年もひとつ寝をしながらついぞ一度眉をしかめたこともないという妻を見たい人は――、やはり守屋君の妻君を見ていただくよりほかにしかたがないであろう。
守屋君は、同じ年ごろの男たちがそうであるように、ちょうど人生の浪漫的な時代から次の時代へ片足をかけているところで毎日の勤めがようやく面白くなり、社会機構の中に腕いっぱい働くことの愉快さが分りかけている。しかしそれと同時に反面まさに残った片足を踏離そうとしている青春にも多分の未練があって、ふたたび一輪五十銭ずつの薔薇を買い始めたのだが、妻君はやはり手帛を洗濯するよりほかにそれを受留める法をしなかったのであった。
――ちょうどそのころ、仕事の客筋とともにたびたび酒席で会う一人の妓《おんな》と、守屋君は結婚後初めて一夜の悪事をはたらいた。勤めの性質と五年という結婚期間とを考えるとき、それまでかつて妻君の貞淑を裏切らなかった守屋君の堅固な志操は賞するに足るものであるが、一夜の悪夢のあとで、守屋君がどんなに妻君に対する自責の念に悩んだかを知れば、五年間誘惑に、うち克ってきたことより、なお守屋君が良き青年であることを証してあまりあるものと思う。
そのときもし妻君が守屋君の悪事を見抜くか、すくなくともその呵責を読取るかしてやったとしたら、酒場エトルリアの出現はなかったかあるいはさらに数年延期されたに違いない。男というものは由来そのなした事実に対して報酬を要求するものである、これはもっぱら生活の習性のしからしむるところであって、守屋君が妻君への裏切について、惨憺たる呵責に虐まれたあとでも、その自ら呵責したという事実に対してやがて報酬を求むる気持になったことも、やむを得ない事情であると思う。いうまであるまいがこの場合の報酬とは良人の悪事を感付くことであり、良人が自責の念に悩んでいるということを理解することである。
――いけない人ねえ。
という一言でじゅうぶんであるし、
――今度またなすったら、私さとへ帰らせていただきます。
と云うだけでけっこうである。
しかるに貞淑な妻君は、守屋君を骨の髄まで信じ、にこやかな笑顔を向け、労わり、子供に与える馬鈴署をすり、手帛を洗い、良人の買って来た薇薔はすぐに花瓶に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]して良人の机を飾り、したがって守屋君のなした事実に対しては何の報酬も与えなかったのである。
――ちぇっ。
と守屋君は舌打をした。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
「ねえ浮気しない?」
酒場エルトリアのひとみ[#「ひとみ」に傍点]が初めてそう云ったとき、守屋君はそれをこの前のチップが多かったためだと思って聞き流した。二度めにはいくらかそれに誘われる気持で、
「うん、してもいいな」
と答えたが、むろん本気ではなかった。しかしだんだんそれが重なるにしたがって、いつか守屋君の気持も動き始めたことはいたしかたない次第であろう。
「本当に一度どこかへ行きましょうよ」
「行くさ、どこへだって」
「いやだわ、気のない返辞――」
「気のないのは君さ、僕のほうじゃいつだって用意はできてるぜ」
「本当――?」
「嘘を云うもんかい」
「嬉しい、じゃいい?」
「この日曜」
「でも奥さんに悪いんじゃない?」
守屋君はそのときふっと、貞淑な美しい妻君の姿を思浮べた。そしていずれにしてもこいつはおれ独りの罪じゃないぞと思った。
「ネスパ?」
ひとみが媚を含んだいたずらな調子で覗きこんでくるのを、守屋君は肩へ手を廻して抱寄せながら云った。
「黙れよ、女房に悪いかどうかは僕が心得ている、それよりプランをたてよう」
偶然それから二日めに、守屋君はあるデリケエトな意味をもった金を手にすることができた。
それはかねて守屋君が、妻君に贈ろうと望んでいた素晴しい天鵞絨のコオトを買うにじゅうぶんな額であったが、今や守屋君はひとみとの愉しい冒険を実現するためには、そのうちの一枚を減らす気持も起らないのであった。
「本当に浮気するか」
守屋君は改めてひとみ[#「ひとみ」に傍点]に慥めた。「日曜ってお約束じゃないの」
「よし、じゃあ今夜打合せをしとこう、君はどこへ行く気」
「熱海――湯ヶ原、平凡ねえ」
「箱根って柄でもないが。どうだい、鬼怒川へ行ってみないか」
「良いわ、良いわ」
「じゃ日曜の朝上野へ八時」
「ウイ」
ひとみは自信のある大きな眸子《ひとみ》で焼きつくように凝視しながら、脂じめりのした熱い指を守屋君のに絡んできた。
さてそれから三日間、守屋君が折畳んだ紙幣の束を妻君から隠すために、どんな苦心をしたかということは省いて、土曜の晩のことに話を移すとしよう。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
土曜日の午後。守屋君は庶務課へ行って月曜日の休暇を頼み、銀座へ出てジャアマン・ベエカリイで細君と子供への菓子を買い、ついでに新しいネクタイ(旅行用に)を一本求めて家へ帰った。
酒をつけた夕食をしまってから、子供を寝かしに行く妻君をふと気付いたように守屋君は呼止めた。
「ああ明日栃木県のほうへちょっと出張に行かなきゃならないからね、僕もすぐ寝るぜ」
「まあ、たいへんねえ、日曜に」
妻君はべつに意外に思うようすもなかった。
「朝七時にでかけるから」
「はい、お帰りは?」
「まあ月曜の晩になるだろうな」
「ではすぐお床をのべますわ」
なんという単純さだろう。妻君が寝間へ入るのを見送りながら、守屋君は口の内でそっと呟いた。
九時が過ると間もなく、守屋君は自分の部屋にのべてある床へ入った。しばらくうとうとしているうちにいつか眠入ってしまったが、誰か自分を呼びながら蒲団をゆするのに気がついてふと眼を醒ますと、妻君が寝巻のまま枕元に座っていた。
「どうしたの」
「ちょっとお起きんなって、坊やがひどく熱をだしているんです」
「よし」
守屋君は醒めきらない睡気の中で、反射的に頷きながら起上った。
子供は自分の床から母親のほうへ移され、夜着の衿から半分顔をだしていた。額へ唇を当てようとすると激しい呼吸とともにむっと生温い体熱のほてりが守屋君の顔をうった、子供の額は吃驚するほどあつかった。
「こりゃひどいや、何度あったの」
「九度八分ありましたの、べつに苦しそうでもないんですけど」
「マラリアなんかだと苦しまないんだろう、便はどうなんだ」
「いつものとおり良い便でしたわ」
「坊や」
守屋君が呼ぶと子供は顔をあげて、かつて見たことのない老人のような眼を動かし、苦しそうに急迫した呼吸の中から、――、多分父親に笑ってみせようとするのであろう、大きな努力で唇と眉を歪めてみせた。これは申分なく守屋君を悩乱させた、守屋君はいきなりぎゅっと心臓を緊つけられ、抑えるいとまもなくあついものを眼頭に溢れさせた。
狡猾な劇作家はしばしば笑いをもって悲劇を強調する手段を執るが、違った意味でこの場合もし子供が泣叫んでいたとしたら、守屋君の感ずる苦痛もそれほど深刻ではなかったに違いない。
――ああ、こんなに苦しそうなにおれに笑って見せようとする。
そう思うと同時に、守屋君は息詰るような動物的愛憐の激情にうちまかされた。
「医者へ行こう」
「もう二時ですけれど」
「そんなことにかまっていられるかい、すぐにしたくをしろよ」
ふたりとも寝巻の上に着物を重ね、妻君は子供を背負った。守屋君が外套と帽子を持って先に玄関へ出ると、妻君が後から追うようにして来て、
「あなた、お金いま五円ぐらいしきゃないのよ、明日は日曜で郵便局はお休みだし」
「金なんかどうだっていいよ」
本棚の隅に押隠してある紙幣の束を思出しながら、守屋君は強く答えて外套を着た。
ふたりは代る代る子供の名を呼びつつ、ほとんど駈けるようにして三丁ばかり行き、赤い軒燈の出ている樫田《かしだ》という小さな医院の表を叩いた。しかしなかなか起る気配がない、守屋君は癇癪をおこして硝子《ガラス》戸を破れんばかりに叩き続けた。
ややしばらくして玄関に電燈がついたと思うと、貧相な書生が落着はらって硝子戸を明け焦れきっている守屋君の顔を見るなり、
「何ですか?」
と訊いた。これは奇問である、さすがに意気ごんでいた守屋君もちょっと虚をつかれて、一瞬その書生のどろんと濁った眼を見上げたが、すぐに怒りを感じて、
「病人です、急病人です」
と叫ぶように云うなり妻君を促してずかずか玄関へあがって行った。ごほんごほん妙にかすれた咳をしながら、書生が扉の中へひっこんで行くと、守屋君はその後姿を忌々しそうに睨みつけながら、
「何ですだってやがら。この夜更に医者の家へ何をしに来るやつがあるかい」
「聞えますわ」
妻君もさすがに苦笑した。
しばらくすると寝巻の上へ白い仕事着をつけた四十がらみの、ひどく肥太って血色の良い女がでてきた。まだじゅうぶん睡気が醒めていないのであろう、肉の厚い瞼が垂れさがっているのと、好色らしい唇が弛んで涎の乾いた跡をはっきり残しているのが、いやらしいほど猥褻《わいせつ》に見える。
「先生ですか」
守屋君は女医の家とは知らなかったので、いちおうそう慥めてから、口早に子供の病状を語った。女医は痴呆のような無感動さで、守屋君の説明を傾聴していたが、やがて終るのを待ってからゆったりした調子で
「じゃあ、患者は子供さんですね」
と訊返した。これも書生に劣らぬ質問である。守屋君は今度もちょっといなされた[#「いなされた」に傍点]かたちで、醒めているのか眠っているのか判断に苦しむ女医の顔を腹立たしげに見成った。
「そう、この子供です」
「じゃあ桜井《さくらい》さんへいらっしゃるんだねえ、あっし[#「あっし」に傍点]のところは内科でっからねえ」
「内科ということは承知です、しかし急病のことですからいちおう何か手当をしていただきたいと思って伺ったのです」
「だめだねえ」
群馬あたりの出身らしい女医は、お国訛りまる出しで不愛相に頭を振った。
喰肥った血色の良いその頬桁を、思いきり一つ殴りとばしたらさぞ良い気持ちだろうと拳を握りながら守屋君は妻君を急ぎたてて外へ出た。
「坊や、坊や、苦しい?」
戸外の寒い風の中へ出ると、妻君はまったく頼りの綱を切られたという口調で、おろおろと背中の子に声をかけた。
「苦しかない苦しかない、苦しきゃ泣くよ、大丈夫だ大丈夫だ」
守屋君は怒りから一時に落ちこんでゆくどうしようもない悲しみのなかで、妻君の手を強く握り緊めた。
「すぐ岡の上だから桜井へ行こう」
「ええ」
「心配するなよ。坊やが死んだっておれたちふたりが丈夫ならいいんだ」
「ええ」
妻君も強く良人の手を握り返した。
「俊一が生れてっから、君は一度も街へ出なかったじゃないか、俊一がいなくなれば、どこへでもふたりで行けるぜ、シネマだって、温泉へだってさ」
「――」
「君のためには子供は枷なんだ」
「ええ」
「そう思えば気持が楽になる。そうじゃないか、俊一なんかいいよ」
「ええいいわよ」
妻君は堪り兼ねて啜りあげた。守屋君はいきなり足を止め烈しく妻君を引寄せた。そのときふたりは互いの心が湯のように溶け合うのを感じた。妻君がそんなにものっぴきならぬほど自分のものであったことを、子供を押除けてみて初めて守屋君は覚るととができたのだ。
耳の端に妻君の啜泣きの息吹を聞きながら、一瞬守屋君は酒場エトルリアの長椅子に凭れて、娼婦に等しいひとみと酔痴れている自分の姿を思出した。
――鬼怒川? 冗談じゃない、きさまなんぞと浮気をする金があれば。
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
桜井医学博士は小児科医特有のそつの無い態度で怖がって泣き叫ぶ子供を上手に綾し綾し、胸から腹背と聴打診を試み、さらに瞼をかえしてみたりしたのち、二三日前からの食物と便通を妻君に糺し、あらためて子供の表情に見入っていたが、やがて額から反射鏡を外しながら愛相よく微笑して
「二三日ようすをみないとはっきり云い切るわけにもいきませんが、多分御心配なさることはないでしよう、おそらく単純な智恵熱とでもいう程度のものだと思いますがね」
「はあ」
油然と守屋君の顔がほぐれた。振返ると妻君の安堵と悦びに輝き潤う眼があった。ふたりは絡み合うように熱い微笑を交した。
「お所を伺っておいて明朝にでももう一度拝見いたしましょう、なあにその時分にはすっかり元気になっておられますよ」
「では、べつに冷やすとか何とか――」
「ええいりません、水薬を少し差あげますから、お帰りになったらあげてください」
医者の家を出るときふたりの後で時計の三時を打つのが聞えた。
「よかったのねえ、坊や」
「良い医者じゃないか、気さくで――博士なんてもったいぶったやつと思ったら、まるであの女医者と逆だぜ」
「ほんと」
風も今は寒くなかった、守屋内はさっき自分の取乱していたことを恥じたが、それはかえって自分たち夫婦の感情に新しい段階を与えたものとして許されて良いと思った。道角へ来たとき、妻君はふいに足を止めて情熱的に良人へ唇をあたえた。
「先生が喉を診察なさるときねえ、あの靴箆《くつべら》のような物で舌を圧えるでしょう、あのときあたし息が詰まりそうで見ていられなかったわ」
「あいつは苦手だ」
守屋君は元気に頷いた。
「だけどあのとき坊やは素晴しかったぜ、やつ初めはいやがって身をもがいていたが、すぐ観念したとみえて泣きながらじっと我慢していたじゃないか」
「分ってるのねえ、もう」
妻君は自慢そうに頸を捻曲げて背中の子供へ頬ずりをした。守屋君は続けさまにあの気の毒な女医をときおろした。
家へ帰るとすぐ、水薬を与えて寝床へ入れると子供はじきに眠入ってしまった。妻君は良人の座っている長火鉢の向うへ廻って、火を掻きおとしながら、
「すみません、出張なさる前にお騒がせしてしまってお疲れになったでしょう」
「出張なんか止めだ」
守屋君は眩しそうに電燈から外向いて、しかしひどく明るい調子で云った。
「まあ――」
「冗談じゃない、日曜を出張なんかで潰されちゃ耐らねえや、子供が病気なんだからそう届けりゃ万事OKさ」
「でも、いいんですか」
「いいか悪いかは僕が心得てるよ、ああ――安心したら急に腹がへっちゃった」
「あら、あたしも」
妻君は若々しく手を拍った。感情の調子づいているときに人は些細なことにも酔えるものである、守屋君は妻君の子供らしい動作を見ると同時に心を揺られるような愛慾を感じた。
「残ってないかい、酒」
「ありますわ、ほんの一本くらいですけど」
「けっこう、そいつを頼むよ」
「お肴が何にもありませんのよ」
妻君はいそいそと厨へ立って行った。守屋君は不遠慮に大きな欠伸《あくび》をすると、立上って自分の部屋へ行き本棚の隅から折重ねた紙幣の束を持って戻ってきた。そして手早く長火鉢の側へ膳拵えをすると、妻君の飯茶碗を取出して膳の上へ紙幣を伏せた。
厨からは間もなくしゅんしゅんと湯のたぎる音がし始め、夕食の残肴を温めるのであろう、瓦斯焜爐《ガスこんろ》の上でかたかたとフライパンを揺る音が聞えてきた。
「何もいらないぜ君」
「ええほんの残物」
「早く来たまえ、君を吃驚させるものがあるんだから」
「もうすぐよ」
守屋君の唇へ、抑えても抑えても微笑がうかびあがってくる。その飯茶碗を取ったとき、妻君はどんな顔をするだろう。
さてこの庭訓《ていきん》ともいうべき※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]
話について、筆者はもはや何もいうべきではない、守屋君をして浮気心を出させた動機が、たとえどのような理由であったにせよ今は安穏な生活感情が動かしがたい力で守屋君を取戻した。これを嘲ると首肯するとはいずれも読者諸氏の自由である――気の毒なのは朝になって、上野駅の寒い待合室で待呆け役を受持たせられた酒場エトルリアのひとみ嬢であるが、嬢もまたその鬱憤を晴す手段をもっていないわけではない。やあ――厨から妻君が出て来たようである。それでは我々は引退るとしよう。
底本:「現代小説集」実業之日本社
1978(昭和53)年9月25日 初版発行
底本の親本:「アサヒグラフ」
1934(昭和9)年3月21日号
初出:「アサヒグラフ」
1934(昭和9)年3月21日号
※表題は底本では、「家常茶飯《かじょうさはん》」となっています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)守屋《もりや》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]
-------------------------------------------------------
[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
守屋《もりや》君が酒場エトルリアの女給ひとみ[#「ひとみ」に傍点]に迷った動機については、かならずしも妻君が悪かったというのではない。守屋君は妻君を愛していたし、妻君の守屋君を愛することにも変りはないのだ。夫妻のあいだに生れた俊一《しゅんいち》という子供は、親類中での器量よしであり、お誕生前に犬と父とを呼び分けることができたほど頭も良く、一年四ヶ月になるきょうまで風邪ひとつひかぬ健康をもっているというぐあいでこれまた守屋君にとって不足であるはずがない。経済的方面からいえば守屋君は確実な二流銀行の貸付係を勤め、あるデリケエトな意味でみいり[#「みいり」に傍点]が多かったから、同期の卒業生中では上位の生活を張ってゆける安穏な身分であった。
安穏といえばふたりの結婚のなりたちからして安穏なものだった。二人いた競争者をはね除けてみごと彼女を許婚に獲得した守屋君は、六十日間一日も欠かさず、一輪五十銭の薔薇を一本ずつ持って訪問し、また許婚はそのたびに守屋君の手巾《ハンカチ》を洗濯したものと取換えてくれた。そしてふたりは結婚したのである。世に貞淑と云われる妻を見たい人は守屋君の妻君を見るがよろしい。怜悧で美貌で、しかもそれにも増して控目がちな妻を見たい人は守屋君の妻君を見るがよろしい。人一倍我儘で独善家で、喰意地が張っていて、癇癪持で、朝寝坊で、酒好きな良人と、五年もひとつ寝をしながらついぞ一度眉をしかめたこともないという妻を見たい人は――、やはり守屋君の妻君を見ていただくよりほかにしかたがないであろう。
守屋君は、同じ年ごろの男たちがそうであるように、ちょうど人生の浪漫的な時代から次の時代へ片足をかけているところで毎日の勤めがようやく面白くなり、社会機構の中に腕いっぱい働くことの愉快さが分りかけている。しかしそれと同時に反面まさに残った片足を踏離そうとしている青春にも多分の未練があって、ふたたび一輪五十銭ずつの薔薇を買い始めたのだが、妻君はやはり手帛を洗濯するよりほかにそれを受留める法をしなかったのであった。
――ちょうどそのころ、仕事の客筋とともにたびたび酒席で会う一人の妓《おんな》と、守屋君は結婚後初めて一夜の悪事をはたらいた。勤めの性質と五年という結婚期間とを考えるとき、それまでかつて妻君の貞淑を裏切らなかった守屋君の堅固な志操は賞するに足るものであるが、一夜の悪夢のあとで、守屋君がどんなに妻君に対する自責の念に悩んだかを知れば、五年間誘惑に、うち克ってきたことより、なお守屋君が良き青年であることを証してあまりあるものと思う。
そのときもし妻君が守屋君の悪事を見抜くか、すくなくともその呵責を読取るかしてやったとしたら、酒場エトルリアの出現はなかったかあるいはさらに数年延期されたに違いない。男というものは由来そのなした事実に対して報酬を要求するものである、これはもっぱら生活の習性のしからしむるところであって、守屋君が妻君への裏切について、惨憺たる呵責に虐まれたあとでも、その自ら呵責したという事実に対してやがて報酬を求むる気持になったことも、やむを得ない事情であると思う。いうまであるまいがこの場合の報酬とは良人の悪事を感付くことであり、良人が自責の念に悩んでいるということを理解することである。
――いけない人ねえ。
という一言でじゅうぶんであるし、
――今度またなすったら、私さとへ帰らせていただきます。
と云うだけでけっこうである。
しかるに貞淑な妻君は、守屋君を骨の髄まで信じ、にこやかな笑顔を向け、労わり、子供に与える馬鈴署をすり、手帛を洗い、良人の買って来た薇薔はすぐに花瓶に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]して良人の机を飾り、したがって守屋君のなした事実に対しては何の報酬も与えなかったのである。
――ちぇっ。
と守屋君は舌打をした。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
「ねえ浮気しない?」
酒場エルトリアのひとみ[#「ひとみ」に傍点]が初めてそう云ったとき、守屋君はそれをこの前のチップが多かったためだと思って聞き流した。二度めにはいくらかそれに誘われる気持で、
「うん、してもいいな」
と答えたが、むろん本気ではなかった。しかしだんだんそれが重なるにしたがって、いつか守屋君の気持も動き始めたことはいたしかたない次第であろう。
「本当に一度どこかへ行きましょうよ」
「行くさ、どこへだって」
「いやだわ、気のない返辞――」
「気のないのは君さ、僕のほうじゃいつだって用意はできてるぜ」
「本当――?」
「嘘を云うもんかい」
「嬉しい、じゃいい?」
「この日曜」
「でも奥さんに悪いんじゃない?」
守屋君はそのときふっと、貞淑な美しい妻君の姿を思浮べた。そしていずれにしてもこいつはおれ独りの罪じゃないぞと思った。
「ネスパ?」
ひとみが媚を含んだいたずらな調子で覗きこんでくるのを、守屋君は肩へ手を廻して抱寄せながら云った。
「黙れよ、女房に悪いかどうかは僕が心得ている、それよりプランをたてよう」
偶然それから二日めに、守屋君はあるデリケエトな意味をもった金を手にすることができた。
それはかねて守屋君が、妻君に贈ろうと望んでいた素晴しい天鵞絨のコオトを買うにじゅうぶんな額であったが、今や守屋君はひとみとの愉しい冒険を実現するためには、そのうちの一枚を減らす気持も起らないのであった。
「本当に浮気するか」
守屋君は改めてひとみ[#「ひとみ」に傍点]に慥めた。「日曜ってお約束じゃないの」
「よし、じゃあ今夜打合せをしとこう、君はどこへ行く気」
「熱海――湯ヶ原、平凡ねえ」
「箱根って柄でもないが。どうだい、鬼怒川へ行ってみないか」
「良いわ、良いわ」
「じゃ日曜の朝上野へ八時」
「ウイ」
ひとみは自信のある大きな眸子《ひとみ》で焼きつくように凝視しながら、脂じめりのした熱い指を守屋君のに絡んできた。
さてそれから三日間、守屋君が折畳んだ紙幣の束を妻君から隠すために、どんな苦心をしたかということは省いて、土曜の晩のことに話を移すとしよう。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
土曜日の午後。守屋君は庶務課へ行って月曜日の休暇を頼み、銀座へ出てジャアマン・ベエカリイで細君と子供への菓子を買い、ついでに新しいネクタイ(旅行用に)を一本求めて家へ帰った。
酒をつけた夕食をしまってから、子供を寝かしに行く妻君をふと気付いたように守屋君は呼止めた。
「ああ明日栃木県のほうへちょっと出張に行かなきゃならないからね、僕もすぐ寝るぜ」
「まあ、たいへんねえ、日曜に」
妻君はべつに意外に思うようすもなかった。
「朝七時にでかけるから」
「はい、お帰りは?」
「まあ月曜の晩になるだろうな」
「ではすぐお床をのべますわ」
なんという単純さだろう。妻君が寝間へ入るのを見送りながら、守屋君は口の内でそっと呟いた。
九時が過ると間もなく、守屋君は自分の部屋にのべてある床へ入った。しばらくうとうとしているうちにいつか眠入ってしまったが、誰か自分を呼びながら蒲団をゆするのに気がついてふと眼を醒ますと、妻君が寝巻のまま枕元に座っていた。
「どうしたの」
「ちょっとお起きんなって、坊やがひどく熱をだしているんです」
「よし」
守屋君は醒めきらない睡気の中で、反射的に頷きながら起上った。
子供は自分の床から母親のほうへ移され、夜着の衿から半分顔をだしていた。額へ唇を当てようとすると激しい呼吸とともにむっと生温い体熱のほてりが守屋君の顔をうった、子供の額は吃驚するほどあつかった。
「こりゃひどいや、何度あったの」
「九度八分ありましたの、べつに苦しそうでもないんですけど」
「マラリアなんかだと苦しまないんだろう、便はどうなんだ」
「いつものとおり良い便でしたわ」
「坊や」
守屋君が呼ぶと子供は顔をあげて、かつて見たことのない老人のような眼を動かし、苦しそうに急迫した呼吸の中から、――、多分父親に笑ってみせようとするのであろう、大きな努力で唇と眉を歪めてみせた。これは申分なく守屋君を悩乱させた、守屋君はいきなりぎゅっと心臓を緊つけられ、抑えるいとまもなくあついものを眼頭に溢れさせた。
狡猾な劇作家はしばしば笑いをもって悲劇を強調する手段を執るが、違った意味でこの場合もし子供が泣叫んでいたとしたら、守屋君の感ずる苦痛もそれほど深刻ではなかったに違いない。
――ああ、こんなに苦しそうなにおれに笑って見せようとする。
そう思うと同時に、守屋君は息詰るような動物的愛憐の激情にうちまかされた。
「医者へ行こう」
「もう二時ですけれど」
「そんなことにかまっていられるかい、すぐにしたくをしろよ」
ふたりとも寝巻の上に着物を重ね、妻君は子供を背負った。守屋君が外套と帽子を持って先に玄関へ出ると、妻君が後から追うようにして来て、
「あなた、お金いま五円ぐらいしきゃないのよ、明日は日曜で郵便局はお休みだし」
「金なんかどうだっていいよ」
本棚の隅に押隠してある紙幣の束を思出しながら、守屋君は強く答えて外套を着た。
ふたりは代る代る子供の名を呼びつつ、ほとんど駈けるようにして三丁ばかり行き、赤い軒燈の出ている樫田《かしだ》という小さな医院の表を叩いた。しかしなかなか起る気配がない、守屋君は癇癪をおこして硝子《ガラス》戸を破れんばかりに叩き続けた。
ややしばらくして玄関に電燈がついたと思うと、貧相な書生が落着はらって硝子戸を明け焦れきっている守屋君の顔を見るなり、
「何ですか?」
と訊いた。これは奇問である、さすがに意気ごんでいた守屋君もちょっと虚をつかれて、一瞬その書生のどろんと濁った眼を見上げたが、すぐに怒りを感じて、
「病人です、急病人です」
と叫ぶように云うなり妻君を促してずかずか玄関へあがって行った。ごほんごほん妙にかすれた咳をしながら、書生が扉の中へひっこんで行くと、守屋君はその後姿を忌々しそうに睨みつけながら、
「何ですだってやがら。この夜更に医者の家へ何をしに来るやつがあるかい」
「聞えますわ」
妻君もさすがに苦笑した。
しばらくすると寝巻の上へ白い仕事着をつけた四十がらみの、ひどく肥太って血色の良い女がでてきた。まだじゅうぶん睡気が醒めていないのであろう、肉の厚い瞼が垂れさがっているのと、好色らしい唇が弛んで涎の乾いた跡をはっきり残しているのが、いやらしいほど猥褻《わいせつ》に見える。
「先生ですか」
守屋君は女医の家とは知らなかったので、いちおうそう慥めてから、口早に子供の病状を語った。女医は痴呆のような無感動さで、守屋君の説明を傾聴していたが、やがて終るのを待ってからゆったりした調子で
「じゃあ、患者は子供さんですね」
と訊返した。これも書生に劣らぬ質問である。守屋君は今度もちょっといなされた[#「いなされた」に傍点]かたちで、醒めているのか眠っているのか判断に苦しむ女医の顔を腹立たしげに見成った。
「そう、この子供です」
「じゃあ桜井《さくらい》さんへいらっしゃるんだねえ、あっし[#「あっし」に傍点]のところは内科でっからねえ」
「内科ということは承知です、しかし急病のことですからいちおう何か手当をしていただきたいと思って伺ったのです」
「だめだねえ」
群馬あたりの出身らしい女医は、お国訛りまる出しで不愛相に頭を振った。
喰肥った血色の良いその頬桁を、思いきり一つ殴りとばしたらさぞ良い気持ちだろうと拳を握りながら守屋君は妻君を急ぎたてて外へ出た。
「坊や、坊や、苦しい?」
戸外の寒い風の中へ出ると、妻君はまったく頼りの綱を切られたという口調で、おろおろと背中の子に声をかけた。
「苦しかない苦しかない、苦しきゃ泣くよ、大丈夫だ大丈夫だ」
守屋君は怒りから一時に落ちこんでゆくどうしようもない悲しみのなかで、妻君の手を強く握り緊めた。
「すぐ岡の上だから桜井へ行こう」
「ええ」
「心配するなよ。坊やが死んだっておれたちふたりが丈夫ならいいんだ」
「ええ」
妻君も強く良人の手を握り返した。
「俊一が生れてっから、君は一度も街へ出なかったじゃないか、俊一がいなくなれば、どこへでもふたりで行けるぜ、シネマだって、温泉へだってさ」
「――」
「君のためには子供は枷なんだ」
「ええ」
「そう思えば気持が楽になる。そうじゃないか、俊一なんかいいよ」
「ええいいわよ」
妻君は堪り兼ねて啜りあげた。守屋君はいきなり足を止め烈しく妻君を引寄せた。そのときふたりは互いの心が湯のように溶け合うのを感じた。妻君がそんなにものっぴきならぬほど自分のものであったことを、子供を押除けてみて初めて守屋君は覚るととができたのだ。
耳の端に妻君の啜泣きの息吹を聞きながら、一瞬守屋君は酒場エトルリアの長椅子に凭れて、娼婦に等しいひとみと酔痴れている自分の姿を思出した。
――鬼怒川? 冗談じゃない、きさまなんぞと浮気をする金があれば。
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
桜井医学博士は小児科医特有のそつの無い態度で怖がって泣き叫ぶ子供を上手に綾し綾し、胸から腹背と聴打診を試み、さらに瞼をかえしてみたりしたのち、二三日前からの食物と便通を妻君に糺し、あらためて子供の表情に見入っていたが、やがて額から反射鏡を外しながら愛相よく微笑して
「二三日ようすをみないとはっきり云い切るわけにもいきませんが、多分御心配なさることはないでしよう、おそらく単純な智恵熱とでもいう程度のものだと思いますがね」
「はあ」
油然と守屋君の顔がほぐれた。振返ると妻君の安堵と悦びに輝き潤う眼があった。ふたりは絡み合うように熱い微笑を交した。
「お所を伺っておいて明朝にでももう一度拝見いたしましょう、なあにその時分にはすっかり元気になっておられますよ」
「では、べつに冷やすとか何とか――」
「ええいりません、水薬を少し差あげますから、お帰りになったらあげてください」
医者の家を出るときふたりの後で時計の三時を打つのが聞えた。
「よかったのねえ、坊や」
「良い医者じゃないか、気さくで――博士なんてもったいぶったやつと思ったら、まるであの女医者と逆だぜ」
「ほんと」
風も今は寒くなかった、守屋内はさっき自分の取乱していたことを恥じたが、それはかえって自分たち夫婦の感情に新しい段階を与えたものとして許されて良いと思った。道角へ来たとき、妻君はふいに足を止めて情熱的に良人へ唇をあたえた。
「先生が喉を診察なさるときねえ、あの靴箆《くつべら》のような物で舌を圧えるでしょう、あのときあたし息が詰まりそうで見ていられなかったわ」
「あいつは苦手だ」
守屋君は元気に頷いた。
「だけどあのとき坊やは素晴しかったぜ、やつ初めはいやがって身をもがいていたが、すぐ観念したとみえて泣きながらじっと我慢していたじゃないか」
「分ってるのねえ、もう」
妻君は自慢そうに頸を捻曲げて背中の子供へ頬ずりをした。守屋君は続けさまにあの気の毒な女医をときおろした。
家へ帰るとすぐ、水薬を与えて寝床へ入れると子供はじきに眠入ってしまった。妻君は良人の座っている長火鉢の向うへ廻って、火を掻きおとしながら、
「すみません、出張なさる前にお騒がせしてしまってお疲れになったでしょう」
「出張なんか止めだ」
守屋君は眩しそうに電燈から外向いて、しかしひどく明るい調子で云った。
「まあ――」
「冗談じゃない、日曜を出張なんかで潰されちゃ耐らねえや、子供が病気なんだからそう届けりゃ万事OKさ」
「でも、いいんですか」
「いいか悪いかは僕が心得てるよ、ああ――安心したら急に腹がへっちゃった」
「あら、あたしも」
妻君は若々しく手を拍った。感情の調子づいているときに人は些細なことにも酔えるものである、守屋君は妻君の子供らしい動作を見ると同時に心を揺られるような愛慾を感じた。
「残ってないかい、酒」
「ありますわ、ほんの一本くらいですけど」
「けっこう、そいつを頼むよ」
「お肴が何にもありませんのよ」
妻君はいそいそと厨へ立って行った。守屋君は不遠慮に大きな欠伸《あくび》をすると、立上って自分の部屋へ行き本棚の隅から折重ねた紙幣の束を持って戻ってきた。そして手早く長火鉢の側へ膳拵えをすると、妻君の飯茶碗を取出して膳の上へ紙幣を伏せた。
厨からは間もなくしゅんしゅんと湯のたぎる音がし始め、夕食の残肴を温めるのであろう、瓦斯焜爐《ガスこんろ》の上でかたかたとフライパンを揺る音が聞えてきた。
「何もいらないぜ君」
「ええほんの残物」
「早く来たまえ、君を吃驚させるものがあるんだから」
「もうすぐよ」
守屋君の唇へ、抑えても抑えても微笑がうかびあがってくる。その飯茶碗を取ったとき、妻君はどんな顔をするだろう。
さてこの庭訓《ていきん》ともいうべき※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]
話について、筆者はもはや何もいうべきではない、守屋君をして浮気心を出させた動機が、たとえどのような理由であったにせよ今は安穏な生活感情が動かしがたい力で守屋君を取戻した。これを嘲ると首肯するとはいずれも読者諸氏の自由である――気の毒なのは朝になって、上野駅の寒い待合室で待呆け役を受持たせられた酒場エトルリアのひとみ嬢であるが、嬢もまたその鬱憤を晴す手段をもっていないわけではない。やあ――厨から妻君が出て来たようである。それでは我々は引退るとしよう。
底本:「現代小説集」実業之日本社
1978(昭和53)年9月25日 初版発行
底本の親本:「アサヒグラフ」
1934(昭和9)年3月21日号
初出:「アサヒグラフ」
1934(昭和9)年3月21日号
※表題は底本では、「家常茶飯《かじょうさはん》」となっています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ