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小婢
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小婢
徳田秋声
徳田秋声
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)片輪《かたわ》
(例)片輪《かたわ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|時《しきり》
(例)一|時《しきり》
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(例)[#地付き]
(例)[#地付き]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)あを/\
(例)あを/\
濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
「片輪《かたわ》でない限《かぎ》り、誰《だれ》でも女《をんな》はみんなさうなんですから、ちつとも恥《はづ》かしいことはないんですよ。ちやんと自分《じぶん》で始末《しまつ》をおしなさいよ。訳《わけ》のないことですからね。」
細君《さいくん》がさう言《い》つて、そんな事《こと》にはとかく感《かん》じの鈍《にぶ》いお清《きよ》を諭《さと》してゐる声《こゑ》が、ふとその時《とき》私《わたし》の耳《みゝ》に入《はい》つた。
それは或《あ》る日《ひ》の晩方《ばんがた》であつた。いつもの癖《くせ》で、私《わたし》はぼんやり晩春《ばんしゆん》の庭《には》の風情《ふぜい》を見《み》てゐた。松《まつ》の老木《おいき》の蔭《かげ》に八重《やへ》の椿《つばき》がまだ咲《さ》き残《のこ》つてゐた。近頃《ちかごろ》結《ゆは》へたばかりの青々《あを/\》した竹《たけ》の垣根《かきね》ぎわに、えにしだの細条《さいでう》が、鮮《あざ》やかな黄色《きいろ》い花《はな》を綴《つゞ》つて瓔絡《えうらく》のやうに、しと/\ふる小雨に撓《たわ》んでゐた。黄昏《たそがれ》ちかい空《そら》の色《いろ》が、一|時《しきり》木々《きゞ》の若葉《わかば》を美《うつく》しく見《み》せてゐた。
十二か三で、東北《とうほく》の山《やま》から出《で》て来《き》たお清《きよ》も、もう十五になつてゐた。節々《ふし/″\》がかつ詰《つま》つてゐるので、子供々々《こども/\》してゐたけれど、はち切《き》れさうに脹《ふく》れた頬《ほゝ》に熟《じゆく》した柘榴《ざくろ》の実《み》のやうな赤味《あかみ》をもつて、かた/\と堅《かた》ぶとりに肥《ふと》つた体《からだ》が、ぶつ切《き》つたやうな不恰好《ぶかつかう》さで、年《とし》は年《とし》なりに発育《はついく》してゐた。
お清《きよ》もこの頃《ごろ》女《をんな》になつたらしい、細君《さいくん》がそんなことを言《い》ひだしたのは、もう余程前《よつぽどまへ》からであつた。彼女《かのぢよ》はお清《きよ》がそれを何《ど》う仕末《しまつ》をするかゞ気《き》になつてならなかつた。そしてそんな形迹《けいせき》がある度《たび》ごとに、それを仕末《しまつ》することを教《をし》へたのであつたが、お清《きよ》はいつもその事実《じじつ》を否定《ひてい》するだけであつた。
「下盥《しもたらひ》があるんですからね、間違《まちが》ひなくあれで早速《さつそく》お洗《あら》ひなさいよ。そこいらにつくねておいては可《い》けませんよ。洗濯《せんたく》したら手《て》もよくお洗《あら》ひなさいよ。食物《たべもの》を弄《いぢ》るんですからね。」
細君《さいくん》は繰返《くりかへ》して言《い》つて聞《きか》してゐた。
「それにしても、少《すご》し早《はや》いわね。私《わたし》十八でしたよ。」
細君《さいくん》は縁《えん》にちかいところで、針仕事《はりしごと》をしてゐるお清《きよ》より年上《としうへ》のお松《まつ》に話《はなし》かけた。彼女《かのぢよ》はもうそれのあがるのを待《ま》つやうな年《とし》であつた。
「私《わたし》はあつても軽《かる》うございますの。大抵《たいてい》二|日《か》ぐらゐで済《す》みますから、」お松《まつ》は言《い》つてゐた。
お清《きよ》の棒立《ぼうだ》ちに立《た》つてゐる姿《すがた》が、私《わたし》の方《はう》からも見《み》えた、私《わたし》はまるで余所事《よそごと》のやうに無関心《むくわんしん》に聞《き》いてゐたのであつたが、女達《をんなたち》の間《あひだ》にはそれか大問題《だいもんだい》となつてゐるらしいのであつた。
暫《しばら》くすると、七つになる末《すゑ》の娘《むすめ》とふざけてゐるお清《きよ》の噪《はしや》いだ声《こゑ》が茶《ちや》の室《ま》の一《ひと》つ先《さ》きの部屋《へや》から聞《きこ》えて来《き》た。彼女《かのぢよ》が一|番《ばん》親《した》しい感情《かんじやう》をもちうるのは、十|人《にん》の家族《かぞく》のなかで一|番《ばん》小《ちひ》さい我儘《わがまゝ》なその娘《むすめ》だけであつた。
細君《さいくん》がさう言《い》つて、そんな事《こと》にはとかく感《かん》じの鈍《にぶ》いお清《きよ》を諭《さと》してゐる声《こゑ》が、ふとその時《とき》私《わたし》の耳《みゝ》に入《はい》つた。
それは或《あ》る日《ひ》の晩方《ばんがた》であつた。いつもの癖《くせ》で、私《わたし》はぼんやり晩春《ばんしゆん》の庭《には》の風情《ふぜい》を見《み》てゐた。松《まつ》の老木《おいき》の蔭《かげ》に八重《やへ》の椿《つばき》がまだ咲《さ》き残《のこ》つてゐた。近頃《ちかごろ》結《ゆは》へたばかりの青々《あを/\》した竹《たけ》の垣根《かきね》ぎわに、えにしだの細条《さいでう》が、鮮《あざ》やかな黄色《きいろ》い花《はな》を綴《つゞ》つて瓔絡《えうらく》のやうに、しと/\ふる小雨に撓《たわ》んでゐた。黄昏《たそがれ》ちかい空《そら》の色《いろ》が、一|時《しきり》木々《きゞ》の若葉《わかば》を美《うつく》しく見《み》せてゐた。
十二か三で、東北《とうほく》の山《やま》から出《で》て来《き》たお清《きよ》も、もう十五になつてゐた。節々《ふし/″\》がかつ詰《つま》つてゐるので、子供々々《こども/\》してゐたけれど、はち切《き》れさうに脹《ふく》れた頬《ほゝ》に熟《じゆく》した柘榴《ざくろ》の実《み》のやうな赤味《あかみ》をもつて、かた/\と堅《かた》ぶとりに肥《ふと》つた体《からだ》が、ぶつ切《き》つたやうな不恰好《ぶかつかう》さで、年《とし》は年《とし》なりに発育《はついく》してゐた。
お清《きよ》もこの頃《ごろ》女《をんな》になつたらしい、細君《さいくん》がそんなことを言《い》ひだしたのは、もう余程前《よつぽどまへ》からであつた。彼女《かのぢよ》はお清《きよ》がそれを何《ど》う仕末《しまつ》をするかゞ気《き》になつてならなかつた。そしてそんな形迹《けいせき》がある度《たび》ごとに、それを仕末《しまつ》することを教《をし》へたのであつたが、お清《きよ》はいつもその事実《じじつ》を否定《ひてい》するだけであつた。
「下盥《しもたらひ》があるんですからね、間違《まちが》ひなくあれで早速《さつそく》お洗《あら》ひなさいよ。そこいらにつくねておいては可《い》けませんよ。洗濯《せんたく》したら手《て》もよくお洗《あら》ひなさいよ。食物《たべもの》を弄《いぢ》るんですからね。」
細君《さいくん》は繰返《くりかへ》して言《い》つて聞《きか》してゐた。
「それにしても、少《すご》し早《はや》いわね。私《わたし》十八でしたよ。」
細君《さいくん》は縁《えん》にちかいところで、針仕事《はりしごと》をしてゐるお清《きよ》より年上《としうへ》のお松《まつ》に話《はなし》かけた。彼女《かのぢよ》はもうそれのあがるのを待《ま》つやうな年《とし》であつた。
「私《わたし》はあつても軽《かる》うございますの。大抵《たいてい》二|日《か》ぐらゐで済《す》みますから、」お松《まつ》は言《い》つてゐた。
お清《きよ》の棒立《ぼうだ》ちに立《た》つてゐる姿《すがた》が、私《わたし》の方《はう》からも見《み》えた、私《わたし》はまるで余所事《よそごと》のやうに無関心《むくわんしん》に聞《き》いてゐたのであつたが、女達《をんなたち》の間《あひだ》にはそれか大問題《だいもんだい》となつてゐるらしいのであつた。
暫《しばら》くすると、七つになる末《すゑ》の娘《むすめ》とふざけてゐるお清《きよ》の噪《はしや》いだ声《こゑ》が茶《ちや》の室《ま》の一《ひと》つ先《さ》きの部屋《へや》から聞《きこ》えて来《き》た。彼女《かのぢよ》が一|番《ばん》親《した》しい感情《かんじやう》をもちうるのは、十|人《にん》の家族《かぞく》のなかで一|番《ばん》小《ちひ》さい我儘《わがまゝ》なその娘《むすめ》だけであつた。
しかし吩咐《いひつ》けさへすれば、何事《なにごと》にもお清《きよ》はよく働《はたら》いた。小《ちひ》さい時《とき》から細君流《さいくんりう》に仕込《しこ》まれたので、どこか抜《ぬ》けたところがありながらに、大抵《たいてい》のことはきちんと始末《しまつ》ができるくらゐに躾《しつ》けられてゐた。台所《だいどころ》に入用《にふよう》なものの買入《かひい》れ方《かた》も一と通《とほり》腹《はら》へはいつてゐたし、煮物《にもの》の仕方《しかた》も少《すこ》しは覚《おぼ》えてゐた。私達夫婦《わたしたちふうふ》の着物《きもの》の仕末《しまつ》や、数《かず》の多《おほ》い子供《こども》たちの槻衣《しやつ》や猿股《さるまた》の出入《だしい》れも心得《こゝろえ》てゐた。新《あた》らしい毛《け》の薄《うす》い方《はう》のシヤツをと言《い》へば、彼女《かのぢよ》は「はい」と言《い》つて、それを持《も》つてきてくれるし、足袋《たび》をおくれと言《い》へば、声《こゑ》に応《おう》じてちやんと其《それ》をもつて来《き》てくれた。買《か》ひものを一時《いちどき》にいくつも吩咐《いひつ》けても、間違《まちが》へるやうなことはなかつた。お客《きやく》さまの下駄《げた》はいくら言《い》つても、その都度《つど》命《めい》じなければ、揃《そろ》へておくことを忘《わす》れがちで、指《ゆび》の詰《つ》つた其《そ》の手《て》からは瀬戸《せと》ものが屡《しば/\》すべりがちであつた。それに自身《じしん》の髪《かみ》の始末《しまつ》をしようと云《い》ふ気《き》が
なかつた。姿《なり》を調《とゝの》へるといふことにも、全《まつた》く感覚《かんかく》か働《はたら》かなかつた。で、着《き》ものや帯《おび》に気《き》をつけてやつても、それか少《すこ》しも体《からだ》につかないのが、細君《さいくん》には張合《はりあ》ひがなかつた。
お清《きよ》はどうかすると、機嫌《きげん》をわるくして、口《くち》も利《き》かずに脹《ふく》れてゐるやうなことがあつた。発作的《ほつさてき》に泣《な》くこともあつたが、不断《ふだん》はさう暗《くら》い感《かん》じのしない子供《こども》であつた。私《わたし》の家庭《かてい》から若《も》しお清《きよ》をなくしたら、日々《ひゞ》のこま/\した使《つか》ひ歩《ある》きや、家《うち》のなかの用事《ようじ》などに、何《ど》んな不自由《ふじいう》を感《かん》ずるかは誰《たれ》にもよく判《わか》つてゐた。
「みんなでさう一々《いち/\》お清《きよ》にばかり用事《ようじ》をいひつけては可《い》けないぢやないか。名々《めい/\》でできることは自分《じぶん》でしなさい。」私《わたし》は時々《とき/″\》子供《こども》たちに、さう言《い》はずにはゐられなかつたが、彼女《かのぢよ》にも少《すこ》しは智識《ちしき》の目《め》をあけてやらなければならないことや、針《はり》をもつこ
とを習《なら》はしておかなければならないことも、時々《とき/″\》口《くち》にしながら、その暇《ひま》を与《あた》へるのが困難《こんなん》であつた。勿論《もちろん》針《はり》をもつことなどは、全《まつた》く彼女《かのぢよ》の性《しやう》に合《あ》はなかつた。
「お清《きよ》ももう少《すこ》し何《ど》うにかなつてくれないぢや困《こま》りますね。切《せ》めてお君《きみ》ぐらゐに。」細君《さいくん》は何《なに》よりもそれを気《き》にかけてゐた。
お君《きみ》といふのは、お清《きよ》の姉《あね》であつたが、小《ちひ》さいながらにまだしもいくらか形《かたち》が調《とゝの》つてゐた。
お君《きみ》は鉱山《くわうざん》をやつてゐる私《わたし》の甥《をひ》のところに長年《ながねん》使《つか》はれてゐた。その親達《おやたち》も鉱山《くわうざん》の仕事《しごと》に働《はたら》いてゐた。そしてそんな因縁《いんねん》から、お清《きよ》は東京《とうきやう》へ送《おく》られて来《き》たのであつたが、親《おや》たちと甥《をひ》との経済関係《けいざいくわんけい》が複雑《ふくざつ》してゐるので、最初《さいしよ》お清《きよ》が来《き》たときには、着物《きもの》を着《き》せて、食《た》べさせておいてくれゝば、それで十|分《ぶん》だど言《い》ふのであつたけれど、体《からだ》の弱《よわ》い彼女達《かのぢよたち》の父親《ちゝおや》は、とかく二人《ふたり》の娘《むすめ》を当《あ》てにしがちであつた。時々《とき/″\》彼《かれ》から長《なが》い手紙《てがみ》が来《き》た。細君《さいくん》はお清《きよ》の給銀《きふぎん》の前貸《まへが》しのつもりで、適当《てきとう》に思《おも》ふ程度《ていど》で彼《かれ》の要求《えうきう》に応《おう》じてゐた。
「それはそれとして、お清《きよ》のために月々《つき/″\》貯金《ちよきん》はしておいてやらなければ。」
「それも思《おも》ふんですけれど、着物《きもの》も拵《こしら》へてやらなければなりませんし、大凡《おほよ》そのところでやつぱり決《き》めておいた方《はう》がいゝと思《おも》ひますね。」細君《さいくん》は言《い》つてゐた。
お清《きよ》の父方《ちゝかた》の祖母《そぼ》が、時々《とき/″\》勝手《かつて》へやつて来《き》た。彼女《かのぢよ》はもう七十であつたが、学生《がくせい》のために御飯焚《ごはんたき》などして、何《ど》うにか自分《じぶん》で食《た》べてゐた。弟子息《おとうとむすこ》が一人《ひとり》東京《とうきやう》にゐたけれど、傭《やと》はれ先《さ》きの金《かね》を使《つか》ひこんで、しばらく田舎《ゐなか》へ行《い》つてゐた。老婆《らうば》は不検束《ふしだら》な子息《むすこ》のために、その穴《あな》を月々《つき/″\》少《すこ》しづゝでも埋《う》めて行《ゆ》かなければならなかつた。鉱山《くわうざん》にゐる兄子息《あにむすこ》からの無心《むしん》も、お清《きよ》が来《き》た当座《たうざ》は、大抵《たいてい》その老婆《らうば》が取次《とりつ》ぎに立《た》つのであつた。細君《さいくん》は老婆《らうば》から、意気地《いくぢ》のない二人《ふたり》の子息《むすこ》や嫁《よめ》たちのことで、よく愚痴《ぐち》をこぼされた。そして時々《とき/″\》心附《こゝろづけ》なぞをもらつてゐるうちに、老婆《らうば》はすつかり細君《さいくん》に昵《なじ》んでゐた。
お清《きよ》は小面憎《こづらにく》いほど、ませてゐる姉《あね》のお君《きみ》に似《に》てゐたけれど、しかし全《まつた》く違《ちが》つてゐた。言葉《ことば》の綺麗《きれい》なことと、まめに働《はたら》くことは似《に》てゐたけれど、姉《あね》のやうな気働《きばたら》きはなかつた。そこに出《で》てゐる小銭《こぜに》を取《と》つたり、箪笥《たんす》のなかから、小片《こぎれ》や、細紐《ほそひも》のやうなものを偸《ぬす》んだりする悪《わる》い手癖《てくせ》も共通《きようつう》であつたけれど、お清《きよ》は姉《あね》のやうにそれを体《からだ》につけるやうなことはしなかつた。
「きつとお君《きみ》にやつたんでせうと思《おも》ひますよ。」
死《し》んだ娘《むすめ》が体《からだ》につけて、ひどく気《き》に入《い》つてゐた帯留《おびどめ》のなくなつたことに気《き》づいたときも、それが確《たし》かにお清《きよ》の所為《しよゐ》だと考《かんが》へられた。そして、さう言《い》つたこま/\した物《もの》が、時々《とき/″\》紛失《ふんしつ》した。細君《さいくん》はすかすやうにお清《きよ》にきいて見《み》た。
「いゝえ取《と》りません。」お清《きよ》はいつでも言張《いひは》つた。
細君《さいくん》は終《しま》ひに根《こん》まけをしてしまつた。
子供《こども》か本《ほん》のなかに挿《はさ》んでおいた五|円紙幣《ゑんしへい》がちよつとの間《ま》になくなつて、大騒《おほさわ》ぎをしたこともあつた。そして夕方《ゆふがた》になると、それが不思議《ふしぎ》に一|頁々々《ページ/\》繰返《くりかへ》しく捜《さが》しても見《み》つからなかつた本《ほん》のなかから、ひらりと落《お》ちた。お清《きよ》はそんな騒《さわ》ぎのあひだ、いつでも全《まつた》く剛情《がうじやう》な唖《おし》であつた。勿論《もちろん》それは今《いま》までの女中《ぢよちう》の二三|人《にん》にも共通《きようつう》の、或《あ》る時期《じき》に起《おこ》りがちな本能的《ほんのうてき》な発作《ほつさ》でもあつた。
しかしお清《きよ》が尤《もつと》も私《わたし》の家庭《かてい》に有難《ありがた》がられることは、小《ちひ》さい娘《むすめ》のお末《すゑ》の懐《なつ》いてゐることであつた。お末《すゑ》が折監《せつかん》される場合《ばあひ》、お清《きよ》はいつでも目《め》に一|杯《ぱい》涙《なみだ》をためてゐた。お末《すゑ》が一|生懸命《しやうけんめい》救《すく》ひを求《もと》めるのもお清《きよ》であつた。そこにお清《きよ》の素朴《そぼく》な感情《かんじやう》があつた。
お松《まつ》が来《き》てから、お松自身《まつじしん》の給銀《きふぎん》で、時々《とき/″\》帯《おび》や着物《きもの》を、細君《さいくん》に見《み》たてゝもらふことがあつた。お末《すゑ》にはそれが不思議《ふしぎ》に思《おも》へた。
「どうして母《かあ》さんはお松《まつ》だけにお衣《べゝ》を買《か》つてやるの。」お末《すゑ》は遠慮《ゑんりよ》なく母親《はゝおや》に質問《しつもん》して、細君《さいくん》を困《こま》らせた。お松《まつ》を嫌《きら》ひなことも、つけ/\口《くち》へ出《だ》して言《い》ふのであつた。
「清《きよ》さんにもお衣《べゝ》を買《か》つてあげて頂戴《ちやうだい》よ。」お末《すゑ》は母親《はゝおや》にねだつた。
細君《さいくん》はこんなものが見《み》つかつたと言《い》つて、赤味《あかみ》のかゝつた綿繻子《めんじゆす》の帯《おび》に着物《きもの》の地《ぢ》を一|反《たん》買《か》つて来《き》た。お末《すゑ》はそれを見遁《みのが》さなかつた。
「これ清《きよ》やのよ、いゝでせう。」お末《すゑ》はさう言《い》つて、それを抱《かゝ》えて飛《と》んで行《い》つたが、お清《きよ》のゐないのに失望《しつばう》しながら、そこに働《はたら》いてゐるお松《まつ》に見《み》せた。
お松《まつ》は「さうですか」と赤《あか》くなつて笑《わら》つてゐた。
なかつた。姿《なり》を調《とゝの》へるといふことにも、全《まつた》く感覚《かんかく》か働《はたら》かなかつた。で、着《き》ものや帯《おび》に気《き》をつけてやつても、それか少《すこ》しも体《からだ》につかないのが、細君《さいくん》には張合《はりあ》ひがなかつた。
お清《きよ》はどうかすると、機嫌《きげん》をわるくして、口《くち》も利《き》かずに脹《ふく》れてゐるやうなことがあつた。発作的《ほつさてき》に泣《な》くこともあつたが、不断《ふだん》はさう暗《くら》い感《かん》じのしない子供《こども》であつた。私《わたし》の家庭《かてい》から若《も》しお清《きよ》をなくしたら、日々《ひゞ》のこま/\した使《つか》ひ歩《ある》きや、家《うち》のなかの用事《ようじ》などに、何《ど》んな不自由《ふじいう》を感《かん》ずるかは誰《たれ》にもよく判《わか》つてゐた。
「みんなでさう一々《いち/\》お清《きよ》にばかり用事《ようじ》をいひつけては可《い》けないぢやないか。名々《めい/\》でできることは自分《じぶん》でしなさい。」私《わたし》は時々《とき/″\》子供《こども》たちに、さう言《い》はずにはゐられなかつたが、彼女《かのぢよ》にも少《すこ》しは智識《ちしき》の目《め》をあけてやらなければならないことや、針《はり》をもつこ
とを習《なら》はしておかなければならないことも、時々《とき/″\》口《くち》にしながら、その暇《ひま》を与《あた》へるのが困難《こんなん》であつた。勿論《もちろん》針《はり》をもつことなどは、全《まつた》く彼女《かのぢよ》の性《しやう》に合《あ》はなかつた。
「お清《きよ》ももう少《すこ》し何《ど》うにかなつてくれないぢや困《こま》りますね。切《せ》めてお君《きみ》ぐらゐに。」細君《さいくん》は何《なに》よりもそれを気《き》にかけてゐた。
お君《きみ》といふのは、お清《きよ》の姉《あね》であつたが、小《ちひ》さいながらにまだしもいくらか形《かたち》が調《とゝの》つてゐた。
お君《きみ》は鉱山《くわうざん》をやつてゐる私《わたし》の甥《をひ》のところに長年《ながねん》使《つか》はれてゐた。その親達《おやたち》も鉱山《くわうざん》の仕事《しごと》に働《はたら》いてゐた。そしてそんな因縁《いんねん》から、お清《きよ》は東京《とうきやう》へ送《おく》られて来《き》たのであつたが、親《おや》たちと甥《をひ》との経済関係《けいざいくわんけい》が複雑《ふくざつ》してゐるので、最初《さいしよ》お清《きよ》が来《き》たときには、着物《きもの》を着《き》せて、食《た》べさせておいてくれゝば、それで十|分《ぶん》だど言《い》ふのであつたけれど、体《からだ》の弱《よわ》い彼女達《かのぢよたち》の父親《ちゝおや》は、とかく二人《ふたり》の娘《むすめ》を当《あ》てにしがちであつた。時々《とき/″\》彼《かれ》から長《なが》い手紙《てがみ》が来《き》た。細君《さいくん》はお清《きよ》の給銀《きふぎん》の前貸《まへが》しのつもりで、適当《てきとう》に思《おも》ふ程度《ていど》で彼《かれ》の要求《えうきう》に応《おう》じてゐた。
「それはそれとして、お清《きよ》のために月々《つき/″\》貯金《ちよきん》はしておいてやらなければ。」
「それも思《おも》ふんですけれど、着物《きもの》も拵《こしら》へてやらなければなりませんし、大凡《おほよ》そのところでやつぱり決《き》めておいた方《はう》がいゝと思《おも》ひますね。」細君《さいくん》は言《い》つてゐた。
お清《きよ》の父方《ちゝかた》の祖母《そぼ》が、時々《とき/″\》勝手《かつて》へやつて来《き》た。彼女《かのぢよ》はもう七十であつたが、学生《がくせい》のために御飯焚《ごはんたき》などして、何《ど》うにか自分《じぶん》で食《た》べてゐた。弟子息《おとうとむすこ》が一人《ひとり》東京《とうきやう》にゐたけれど、傭《やと》はれ先《さ》きの金《かね》を使《つか》ひこんで、しばらく田舎《ゐなか》へ行《い》つてゐた。老婆《らうば》は不検束《ふしだら》な子息《むすこ》のために、その穴《あな》を月々《つき/″\》少《すこ》しづゝでも埋《う》めて行《ゆ》かなければならなかつた。鉱山《くわうざん》にゐる兄子息《あにむすこ》からの無心《むしん》も、お清《きよ》が来《き》た当座《たうざ》は、大抵《たいてい》その老婆《らうば》が取次《とりつ》ぎに立《た》つのであつた。細君《さいくん》は老婆《らうば》から、意気地《いくぢ》のない二人《ふたり》の子息《むすこ》や嫁《よめ》たちのことで、よく愚痴《ぐち》をこぼされた。そして時々《とき/″\》心附《こゝろづけ》なぞをもらつてゐるうちに、老婆《らうば》はすつかり細君《さいくん》に昵《なじ》んでゐた。
お清《きよ》は小面憎《こづらにく》いほど、ませてゐる姉《あね》のお君《きみ》に似《に》てゐたけれど、しかし全《まつた》く違《ちが》つてゐた。言葉《ことば》の綺麗《きれい》なことと、まめに働《はたら》くことは似《に》てゐたけれど、姉《あね》のやうな気働《きばたら》きはなかつた。そこに出《で》てゐる小銭《こぜに》を取《と》つたり、箪笥《たんす》のなかから、小片《こぎれ》や、細紐《ほそひも》のやうなものを偸《ぬす》んだりする悪《わる》い手癖《てくせ》も共通《きようつう》であつたけれど、お清《きよ》は姉《あね》のやうにそれを体《からだ》につけるやうなことはしなかつた。
「きつとお君《きみ》にやつたんでせうと思《おも》ひますよ。」
死《し》んだ娘《むすめ》が体《からだ》につけて、ひどく気《き》に入《い》つてゐた帯留《おびどめ》のなくなつたことに気《き》づいたときも、それが確《たし》かにお清《きよ》の所為《しよゐ》だと考《かんが》へられた。そして、さう言《い》つたこま/\した物《もの》が、時々《とき/″\》紛失《ふんしつ》した。細君《さいくん》はすかすやうにお清《きよ》にきいて見《み》た。
「いゝえ取《と》りません。」お清《きよ》はいつでも言張《いひは》つた。
細君《さいくん》は終《しま》ひに根《こん》まけをしてしまつた。
子供《こども》か本《ほん》のなかに挿《はさ》んでおいた五|円紙幣《ゑんしへい》がちよつとの間《ま》になくなつて、大騒《おほさわ》ぎをしたこともあつた。そして夕方《ゆふがた》になると、それが不思議《ふしぎ》に一|頁々々《ページ/\》繰返《くりかへ》しく捜《さが》しても見《み》つからなかつた本《ほん》のなかから、ひらりと落《お》ちた。お清《きよ》はそんな騒《さわ》ぎのあひだ、いつでも全《まつた》く剛情《がうじやう》な唖《おし》であつた。勿論《もちろん》それは今《いま》までの女中《ぢよちう》の二三|人《にん》にも共通《きようつう》の、或《あ》る時期《じき》に起《おこ》りがちな本能的《ほんのうてき》な発作《ほつさ》でもあつた。
しかしお清《きよ》が尤《もつと》も私《わたし》の家庭《かてい》に有難《ありがた》がられることは、小《ちひ》さい娘《むすめ》のお末《すゑ》の懐《なつ》いてゐることであつた。お末《すゑ》が折監《せつかん》される場合《ばあひ》、お清《きよ》はいつでも目《め》に一|杯《ぱい》涙《なみだ》をためてゐた。お末《すゑ》が一|生懸命《しやうけんめい》救《すく》ひを求《もと》めるのもお清《きよ》であつた。そこにお清《きよ》の素朴《そぼく》な感情《かんじやう》があつた。
お松《まつ》が来《き》てから、お松自身《まつじしん》の給銀《きふぎん》で、時々《とき/″\》帯《おび》や着物《きもの》を、細君《さいくん》に見《み》たてゝもらふことがあつた。お末《すゑ》にはそれが不思議《ふしぎ》に思《おも》へた。
「どうして母《かあ》さんはお松《まつ》だけにお衣《べゝ》を買《か》つてやるの。」お末《すゑ》は遠慮《ゑんりよ》なく母親《はゝおや》に質問《しつもん》して、細君《さいくん》を困《こま》らせた。お松《まつ》を嫌《きら》ひなことも、つけ/\口《くち》へ出《だ》して言《い》ふのであつた。
「清《きよ》さんにもお衣《べゝ》を買《か》つてあげて頂戴《ちやうだい》よ。」お末《すゑ》は母親《はゝおや》にねだつた。
細君《さいくん》はこんなものが見《み》つかつたと言《い》つて、赤味《あかみ》のかゝつた綿繻子《めんじゆす》の帯《おび》に着物《きもの》の地《ぢ》を一|反《たん》買《か》つて来《き》た。お末《すゑ》はそれを見遁《みのが》さなかつた。
「これ清《きよ》やのよ、いゝでせう。」お末《すゑ》はさう言《い》つて、それを抱《かゝ》えて飛《と》んで行《い》つたが、お清《きよ》のゐないのに失望《しつばう》しながら、そこに働《はたら》いてゐるお松《まつ》に見《み》せた。
お松《まつ》は「さうですか」と赤《あか》くなつて笑《わら》つてゐた。
震災後《しんさいご》また東京《とうきやう》へ舞《ま》ひ戻《もど》つてゐたお清《きよ》の叔父《をぢ》が、ある日《ひ》勝手口《かつてぐち》へ、その姉《あね》と一|緒《しよ》に姿《すがた》を現《あら》はした。お清《きよ》の唯《たつ》た一人《ひとり》の叔母《をば》である、その姉《あね》は京都《きやうと》に住《す》んでゐた。娘《むすめ》はカフエーの女給仕《をんなきふじ》をしてゐた。彼女《かのぢよ》は東京《とうきやう》へ来《き》たてに、老婆《らうば》とつれ立《だ》つて、一|度《ど》姪《めい》のお清《きよ》が、何《ど》んなになつたかを見《み》に来《き》た。
「小《ちひ》さいね。」
叔母《をば》は期待《きたい》を裏切《うらぎ》られて、お清《きよ》を見《み》て笑《わら》つてゐるより外《ほか》なかつた。でなかつたら、もつと有利《いうり》なところへ、例《たと》へば自分《じぶん》の娘《むすめ》のでてゐるカフエーのやうなところへでも住《す》みこませるために、私《わたし》のところを暇《ひま》をもらふつもりであつたかも知《し》れないのであつた。
その叔母《をば》が弟《おとうと》と二人《ふたり》で遣《や》つて来《き》たのである。
「何《なに》か訳《わけ》がある。」細君《さいくん》はその瞬間《しゆんかん》にさう思《おも》つた。
段々《だん/″\》生長《せいちやう》して来《き》たお清《きよ》一人《ひとり》を、皆《みん》なが何《ど》んなに注目《ちゆうもく》してゐるかゞ、この頃《ころ》細君《さいくん》にも感《かん》ぜられて来《き》てゐた。少《すご》し役《やく》に立《た》つやうになつたところで、抜《ぬ》いて行《ゆ》かれることは、何《なん》と言《い》つても家婦《かふ》としての彼女《かのぢよ》には苦痛《くつう》であつた。その上《うへ》お清《きよ》のためにも好《い》いことではなかつた。
ちやうど其《そ》の頃《ころ》、礦山《くわうざん》にゐるお清《きよ》の父《ちゝ》から、金《かね》の要求《えうきう》が来《き》てゐた。私《わたし》たちはそれを送《おく》る心組《こゝろぐみ》ではあつたけれど、わざと渋《しぶ》くつてゐた。震災後《しんさいご》彼《かれ》は東京《とうきやう》で一|稼《かせ》ぎするつもりで、山《やま》をおりて来《き》たことがあつた。そして其《そ》の時《とき》お清《きよ》を見《み》に私《わたし》のところへ遣《や》つて来《き》た。間《ま》もなく彼《かれ》は何《なに》かの労働《らうどう》に有《あ》りついたらしかつた。それが都合《つがふ》よく行《ゆ》きさへすれば、妻《つま》や幼《をさな》い子供《こども》たちを、山《やま》から呼《よ》びよせる積《つも》りであつた。彼《かれ》は体《からだ》も、余《あま》り丈夫《ちやうぶ》でないらしかつたが、怠《なま》けものでもあるらしい噂《うはさ》であつた。お清《きよ》たちが肖《に》てゐる、彼《かれ》の妻《つま》は、それでも能《よ》く子供《こども》を産《う》んだ。或《あ》るときは、亭主《ていしゆ》の留守《るす》に、他《ほか》の男《をとこ》が来《き》て寝《ね》てゐたことを見《み》たなぞと、礦山《くわうぎん》にゐる甥《をひ》の弟《おとうと》から聞《き》いたこともあつた。
細君《さいくん》は、水口《みづぐち》のところで、大分《だいぶん》長《なが》いあひだ叔父《をぢ》と叔母《をば》とに話《はなし》を交換《かうくわん》してゐたが、やがて二|人《り》が帰《かへ》つて行《い》つたところで、私《わたし》のところへ報告《はうこく》にやつて来《き》た。
「お清《きよ》を工場《こうば》へやらうと思《おも》ふから、今直《います》ぐ暇《ひま》をくれつて言《い》つて来《き》たんですよ。」細君《さいくん》は少《すこ》し憤《おこ》つたやうな不安《ふあん》の色《いろ》を浮《うか》べてゐた。
「親《おや》もそれを承知《しようち》だと言《い》ふんです。何分《なにぶん》お金《かね》がいるので、何《ど》うせ娘《むすめ》を、食《く》ふつもりだつて言草《いひぐさ》なんです。だつてそんな勝手《かつて》な話《はなし》つてないぢやありませんか。私《わたし》は今《いま》が今《いま》といふ訳《わけ》には行《ゆ》かないと言《い》つたんですの。第《だい》一|親達《おやたち》の方《はう》も聞《き》いて見《み》なくちや判《わか》りませんもの。実際《じつさい》親《おや》の方《はう》からさう言《い》つて来《き》たとすれば、金《かね》の無心《むしん》はをかしいですもの。お婆《ばあ》さんの話《はなし》でも聞《き》いてゐますけれど、あの叔父《をち》が好《よ》くないらしいんですよ。お清《きよ》を食《く》ひものにする積《つも》りかも知《し》れませんからね。多分《たぶん》もう幾許《いくら》かのお金《かね》を取《と》つて、約束《やくそく》したのでせうよ。」
「お清《きよ》が浮《うか》ばれないね。」
「えゝ、それも有《あ》りますし、私《わたし》敬《けい》さんのところへ行《ゆ》かうと思《おも》ひます。そして親達《おやたち》に逢《あ》つて話《はなし》をして来《き》た方《はう》がいゝでせう。」
敬《けい》ちやんは甥《をひ》の名《な》であつた。
「それで結局《けつきよく》……。」
「一|応《おう》親達《おやたち》へ照会《せうくわい》してからのことにしませうつて、帰《かへ》したんですが、また来《き》ますでせう。外《ほか》でお清《きよ》にも言葉《ことば》をかけてゐました。お清《きよ》が無愛相《ぶあいさう》にしてゐるものですから、叔父《をぢ》さんを忘《わす》れたかなんて。お清《きよ》は肯《き》かないんですの。いゝえ善《よ》く覚《おぼ》えてますつて、澄《すま》してゐるんです。お清《きよ》も莫迦《ばか》ぢやありませんよ。是《これ》までにもあの叔父《をぢ》には瞞《だま》されたことがあるから、何《ど》うしても行《ゆ》くのは厭《いや》だと言《い》つて、あすこで泣《な》いてゐますよ。それにお清《きよ》はお末《すゑ》をおいて行《ゆ》くのが辛《つら》いんですの。」
今《いま》ではお清《きよ》も親《した》しい家族《かぞく》の一|人《り》であつた。
「小《ちひ》さいね。」
叔母《をば》は期待《きたい》を裏切《うらぎ》られて、お清《きよ》を見《み》て笑《わら》つてゐるより外《ほか》なかつた。でなかつたら、もつと有利《いうり》なところへ、例《たと》へば自分《じぶん》の娘《むすめ》のでてゐるカフエーのやうなところへでも住《す》みこませるために、私《わたし》のところを暇《ひま》をもらふつもりであつたかも知《し》れないのであつた。
その叔母《をば》が弟《おとうと》と二人《ふたり》で遣《や》つて来《き》たのである。
「何《なに》か訳《わけ》がある。」細君《さいくん》はその瞬間《しゆんかん》にさう思《おも》つた。
段々《だん/″\》生長《せいちやう》して来《き》たお清《きよ》一人《ひとり》を、皆《みん》なが何《ど》んなに注目《ちゆうもく》してゐるかゞ、この頃《ころ》細君《さいくん》にも感《かん》ぜられて来《き》てゐた。少《すご》し役《やく》に立《た》つやうになつたところで、抜《ぬ》いて行《ゆ》かれることは、何《なん》と言《い》つても家婦《かふ》としての彼女《かのぢよ》には苦痛《くつう》であつた。その上《うへ》お清《きよ》のためにも好《い》いことではなかつた。
ちやうど其《そ》の頃《ころ》、礦山《くわうざん》にゐるお清《きよ》の父《ちゝ》から、金《かね》の要求《えうきう》が来《き》てゐた。私《わたし》たちはそれを送《おく》る心組《こゝろぐみ》ではあつたけれど、わざと渋《しぶ》くつてゐた。震災後《しんさいご》彼《かれ》は東京《とうきやう》で一|稼《かせ》ぎするつもりで、山《やま》をおりて来《き》たことがあつた。そして其《そ》の時《とき》お清《きよ》を見《み》に私《わたし》のところへ遣《や》つて来《き》た。間《ま》もなく彼《かれ》は何《なに》かの労働《らうどう》に有《あ》りついたらしかつた。それが都合《つがふ》よく行《ゆ》きさへすれば、妻《つま》や幼《をさな》い子供《こども》たちを、山《やま》から呼《よ》びよせる積《つも》りであつた。彼《かれ》は体《からだ》も、余《あま》り丈夫《ちやうぶ》でないらしかつたが、怠《なま》けものでもあるらしい噂《うはさ》であつた。お清《きよ》たちが肖《に》てゐる、彼《かれ》の妻《つま》は、それでも能《よ》く子供《こども》を産《う》んだ。或《あ》るときは、亭主《ていしゆ》の留守《るす》に、他《ほか》の男《をとこ》が来《き》て寝《ね》てゐたことを見《み》たなぞと、礦山《くわうぎん》にゐる甥《をひ》の弟《おとうと》から聞《き》いたこともあつた。
細君《さいくん》は、水口《みづぐち》のところで、大分《だいぶん》長《なが》いあひだ叔父《をぢ》と叔母《をば》とに話《はなし》を交換《かうくわん》してゐたが、やがて二|人《り》が帰《かへ》つて行《い》つたところで、私《わたし》のところへ報告《はうこく》にやつて来《き》た。
「お清《きよ》を工場《こうば》へやらうと思《おも》ふから、今直《います》ぐ暇《ひま》をくれつて言《い》つて来《き》たんですよ。」細君《さいくん》は少《すこ》し憤《おこ》つたやうな不安《ふあん》の色《いろ》を浮《うか》べてゐた。
「親《おや》もそれを承知《しようち》だと言《い》ふんです。何分《なにぶん》お金《かね》がいるので、何《ど》うせ娘《むすめ》を、食《く》ふつもりだつて言草《いひぐさ》なんです。だつてそんな勝手《かつて》な話《はなし》つてないぢやありませんか。私《わたし》は今《いま》が今《いま》といふ訳《わけ》には行《ゆ》かないと言《い》つたんですの。第《だい》一|親達《おやたち》の方《はう》も聞《き》いて見《み》なくちや判《わか》りませんもの。実際《じつさい》親《おや》の方《はう》からさう言《い》つて来《き》たとすれば、金《かね》の無心《むしん》はをかしいですもの。お婆《ばあ》さんの話《はなし》でも聞《き》いてゐますけれど、あの叔父《をち》が好《よ》くないらしいんですよ。お清《きよ》を食《く》ひものにする積《つも》りかも知《し》れませんからね。多分《たぶん》もう幾許《いくら》かのお金《かね》を取《と》つて、約束《やくそく》したのでせうよ。」
「お清《きよ》が浮《うか》ばれないね。」
「えゝ、それも有《あ》りますし、私《わたし》敬《けい》さんのところへ行《ゆ》かうと思《おも》ひます。そして親達《おやたち》に逢《あ》つて話《はなし》をして来《き》た方《はう》がいゝでせう。」
敬《けい》ちやんは甥《をひ》の名《な》であつた。
「それで結局《けつきよく》……。」
「一|応《おう》親達《おやたち》へ照会《せうくわい》してからのことにしませうつて、帰《かへ》したんですが、また来《き》ますでせう。外《ほか》でお清《きよ》にも言葉《ことば》をかけてゐました。お清《きよ》が無愛相《ぶあいさう》にしてゐるものですから、叔父《をぢ》さんを忘《わす》れたかなんて。お清《きよ》は肯《き》かないんですの。いゝえ善《よ》く覚《おぼ》えてますつて、澄《すま》してゐるんです。お清《きよ》も莫迦《ばか》ぢやありませんよ。是《これ》までにもあの叔父《をぢ》には瞞《だま》されたことがあるから、何《ど》うしても行《ゆ》くのは厭《いや》だと言《い》つて、あすこで泣《な》いてゐますよ。それにお清《きよ》はお末《すゑ》をおいて行《ゆ》くのが辛《つら》いんですの。」
今《いま》ではお清《きよ》も親《した》しい家族《かぞく》の一|人《り》であつた。
お清《きよ》の姉《あね》のお君《きみ》が、祖母《そぼ》につれられて、体《からだ》の振《ふ》り方《かた》を相談《さうだん》に来《き》たのは、それから大分《だいぶん》たつてからであつた。お君《きみ》は長《なが》く居《ゐ》なじんだ私《わたし》の甥《をひ》のところを暇《ひま》をもらつて、親元《おやもと》へ帰《かえ》つてゐた。そして今度《こんど》東京《とうきやう》へ出《で》て来《き》たのであつた。親《おや》たちと甥《をひ》のあひだに、何《なに》か葛藤《かつとう》があつたらしいのであつた。
お君《きみ》は敬《けい》ちやん達《たち》夫婦《ふうふ》が、東京《とうきやう》で暮《くら》してゐた成金時代《なりきんじだい》にも、ついて来《き》てゐたので、私《わたし》たちもよく知《し》つてゐた。敬《けい》ちやんの細君《さいくん》は、その時分《じぶん》からませたお君《きみ》を傍《そば》におくのを危険《きけん》がつてゐたが、今度《こんど》来《き》てみると、その頃《ころ》から見《み》ると、まるで様子《やうす》が変《かは》つてゐた。体《からだ》が厭《いや》に姿《なり》づくつてゐた。口《くち》の利《き》き方《かた》なぞにも素朴《そぼく》なところが、少《すこ》しもなかつた。
「並《なら》べてみると、容色《きりよう》はわるくても、自家《うち》のお清《きよ》の方《はう》が厭味《いやみ》がなくて、どんなに好いかしれやしない。」
細君《さいくん》は言《い》つてゐたが、お君《きみ》を何処《どこ》ぞ好《い》いところへ住《す》みこませてやらうと適当《てきたう》らしい場所《ばしよ》を探《さが》してゐた。
「わたし来《く》るときにも、お米《こめ》を一|俵《ぺう》借《か》りて入《い》れて来《き》ましたし、お父《とう》さんの薬代《くすりだい》も滞《とゞこほ》つてをりますから、何《ど》うしても四五十|円《ゑん》のお金《かね》を送《おく》つてやらなければなりません。」お君《きみ》は言《い》つてゐた。
口《くち》さへ見《み》つかれば、その位《くらゐ》の前借《ぜんしやく》は訳《わけ》のないことでもあつたが、親達《おやたち》の腑効《ふがひ》ないことが、一|層《そう》明《あきら》かになつた。つい四五|日前《にちまへ》に、私《わたし》も要求《えうきう》されたものを送《おく》つてやつたばかりであつた。少《すこ》し子供《こども》のことを考《かんが》へるやうにと、その時《とき》私《わたし》はいつになく彼《かれ》に手紙《てがみ》を書《か》いた。
するとちやうど好《い》い口《くち》が見《み》つかつた。是非《ぜひ》よこしてくれと言《い》ふのであつた。細君《さいくん》は間《あひだ》へ入《はい》つた入《ひと》のところまで、お君《きみ》を見《み》せに連《つ》れて行《い》つた。そして話《はなし》がすつかり取《と》り決《き》められたところで、お君《きみ》はお清《きよ》をつれて、一|日《にち》浅草《あさくさ》あたりで遊《あそ》ぶことになつてゐたが、その前《まへ》に叔母《をば》や叔父《をぢ》に其《そ》の話《はなし》をして来《く》ると言《い》つて、或日《あるひ》本所《ほんじよ》へ行《い》つた。
「今夜《こんや》帰《かへ》つておいでなさいよ。先方《せんぱう》の家《うち》でも待《ま》つてゐるんですから。」
「え、きつと帰《かへ》つてまゐります。」お君《きみ》はさう言《い》つて出《で》て行《い》つた。
しかしお君《きみ》は容易《ようい》に帰《かへ》つてこなかつた。その上《うへ》三|日目《かめ》に、叔父《をぢ》が更《さら》にお清《きよ》を迎《むか》ひに来《き》た。私《わたし》は来客《らいきやく》と後《うし》ろの家《うち》で話《はな》してゐた。細君《さいくん》も傍《そば》にゐたか、叔父《をぢ》が来《き》たときいて、何《なに》かまた事《こと》が起《おこ》つたのであらうと、不安《ふあん》な予覚《よかく》を感《かん》じながら、細君《さいくん》は立《た》つてゐた。
叔父《をぢ》はもうお清《きよ》の暇《ひま》を取《と》らうとは言《い》はなかつた。京都《きやうと》でカフヱに女給仕《をんなきふじ》をしてゐる、お清姉妹《きよきやうだい》の従妹《いとこ》が上京《じやうきやう》したので、お清《きよ》を逢《あ》はせたいと言《い》ふのであつた。
「話《はなし》はわかるんですの。叔父《をぢ》も思《おも》つたより人《ひと》がよささうです。」細君《さいくん》は安心《あんしん》したやうに言《い》つた。
とにかくお清《きよ》を遣《や》ることにしたが、全《まつた》く安心《あんしん》はできなかつた。
実際《じつさい》またお清《きよ》は二|日《か》も帰《かへ》つて来《こ》ないのであつた。
「もう帰《かへ》らないんぢやないか。」私《わたし》は言《い》つたが、細君《さいくん》は叔父《をぢ》たちを信《しん》じてゐた。
「そんな事《こと》はありませんよ。それにお清《きよ》かすつかり自家《うち》のものに成《な》り切《き》つてゐますから。」細君《さいくん》は言《い》つてゐた。
果《はた》して三|日目《かめ》にお清《きよ》が叔父《をぢ》につれられて帰《かへ》つて来《き》た。
私《わたし》は気忙《きぜは》しかつたので、詳《くは》しいことはわからなかつたけれど、細君《さいくん》の話《はなし》によると、口《くち》がきまつて、金《かね》を前借《ぜんしやく》するばかりになつてゐたお君《きみ》が、女給仕《をんなきふじ》の従姉《いとこ》に、すつかり唆《そゝのか》されてしまつたのであつた。
「何《なん》でもその従姉《いとこ》は、大変《たいへん》ものらしいんです。好《い》い着物《きもの》や指環《ゆびわ》も沢山《たくさん》もつてゐるやうですの。御馳走《ごちそう》をこしらへることも上手《じやうず》で、小説《せうせつ》の話《はなし》なんかもするさうです。月々《つき/″\》百五十|円《ゑん》からの収入《しうにふ》があるとか言《い》ふ話《はなし》をしてゐるんですつて、お君《きみ》にも来《こ》いと言《い》ふんですつて。今《いま》に自分《じぶん》でカフヱを出《だ》すから悪《わる》いやうにしないと言《い》ふのでね。それでお君《きみ》もすつかり其《そ》の気《き》になつたらしいんですわ。お清《きよ》の話《はなし》がなか/\面白《おもしろ》いんです。京都《きやうと》ものでも、なか/\気《き》の利《き》いた女《をんな》らしい様子《やうす》ですわ。女振《をんなぶ》りも好《い》いんでせうよ。」細君《さいくん》は私《わたし》に話《はな》した。
「お清《きよ》にも来《こ》いと言《い》はなかつたのか。」私《わたし》は笑《わら》ひながらきいた。
「言《い》つたさうですけれど、まさかお清《きよ》ではね。」
私《わたし》はお清《きよ》が可愛《かはい》さうであつた。
「お清《きよ》はなか/\強《つよ》いんですよ。そんな処《ところ》へ行《い》くものかと言《い》つた権幕《けんまく》で、叔父《をぢ》とさんざ遣《や》り合《あ》つたさうです。叔父《をぢ》は仕方《しかた》がないから、勝手《かつて》にしろと言《い》つたんですつて。お君《きみ》にも、奥《おく》さんにお世話《せわ》をやかせながら、違約《ゐやく》してそんなところへ行《ゆ》くやうな人《ひと》は、兄弟《きやうだい》とも思《おも》はないし、寄《よ》りついて来《き》てもくれるなつて、一つ端《ぱ》し啖呵《たんか》を切《き》つたやうな話《はなし》ですの。」妻《つま》は笑《わら》つた。
私《わたし》はまた少《すこ》しばかり責任《せきにん》か明《あきら》かにされるのを感《かん》じた。[#地付き](大正13[#「13」は縦中横]年6月「婦人公論」)
お君《きみ》は敬《けい》ちやん達《たち》夫婦《ふうふ》が、東京《とうきやう》で暮《くら》してゐた成金時代《なりきんじだい》にも、ついて来《き》てゐたので、私《わたし》たちもよく知《し》つてゐた。敬《けい》ちやんの細君《さいくん》は、その時分《じぶん》からませたお君《きみ》を傍《そば》におくのを危険《きけん》がつてゐたが、今度《こんど》来《き》てみると、その頃《ころ》から見《み》ると、まるで様子《やうす》が変《かは》つてゐた。体《からだ》が厭《いや》に姿《なり》づくつてゐた。口《くち》の利《き》き方《かた》なぞにも素朴《そぼく》なところが、少《すこ》しもなかつた。
「並《なら》べてみると、容色《きりよう》はわるくても、自家《うち》のお清《きよ》の方《はう》が厭味《いやみ》がなくて、どんなに好いかしれやしない。」
細君《さいくん》は言《い》つてゐたが、お君《きみ》を何処《どこ》ぞ好《い》いところへ住《す》みこませてやらうと適当《てきたう》らしい場所《ばしよ》を探《さが》してゐた。
「わたし来《く》るときにも、お米《こめ》を一|俵《ぺう》借《か》りて入《い》れて来《き》ましたし、お父《とう》さんの薬代《くすりだい》も滞《とゞこほ》つてをりますから、何《ど》うしても四五十|円《ゑん》のお金《かね》を送《おく》つてやらなければなりません。」お君《きみ》は言《い》つてゐた。
口《くち》さへ見《み》つかれば、その位《くらゐ》の前借《ぜんしやく》は訳《わけ》のないことでもあつたが、親達《おやたち》の腑効《ふがひ》ないことが、一|層《そう》明《あきら》かになつた。つい四五|日前《にちまへ》に、私《わたし》も要求《えうきう》されたものを送《おく》つてやつたばかりであつた。少《すこ》し子供《こども》のことを考《かんが》へるやうにと、その時《とき》私《わたし》はいつになく彼《かれ》に手紙《てがみ》を書《か》いた。
するとちやうど好《い》い口《くち》が見《み》つかつた。是非《ぜひ》よこしてくれと言《い》ふのであつた。細君《さいくん》は間《あひだ》へ入《はい》つた入《ひと》のところまで、お君《きみ》を見《み》せに連《つ》れて行《い》つた。そして話《はなし》がすつかり取《と》り決《き》められたところで、お君《きみ》はお清《きよ》をつれて、一|日《にち》浅草《あさくさ》あたりで遊《あそ》ぶことになつてゐたが、その前《まへ》に叔母《をば》や叔父《をぢ》に其《そ》の話《はなし》をして来《く》ると言《い》つて、或日《あるひ》本所《ほんじよ》へ行《い》つた。
「今夜《こんや》帰《かへ》つておいでなさいよ。先方《せんぱう》の家《うち》でも待《ま》つてゐるんですから。」
「え、きつと帰《かへ》つてまゐります。」お君《きみ》はさう言《い》つて出《で》て行《い》つた。
しかしお君《きみ》は容易《ようい》に帰《かへ》つてこなかつた。その上《うへ》三|日目《かめ》に、叔父《をぢ》が更《さら》にお清《きよ》を迎《むか》ひに来《き》た。私《わたし》は来客《らいきやく》と後《うし》ろの家《うち》で話《はな》してゐた。細君《さいくん》も傍《そば》にゐたか、叔父《をぢ》が来《き》たときいて、何《なに》かまた事《こと》が起《おこ》つたのであらうと、不安《ふあん》な予覚《よかく》を感《かん》じながら、細君《さいくん》は立《た》つてゐた。
叔父《をぢ》はもうお清《きよ》の暇《ひま》を取《と》らうとは言《い》はなかつた。京都《きやうと》でカフヱに女給仕《をんなきふじ》をしてゐる、お清姉妹《きよきやうだい》の従妹《いとこ》が上京《じやうきやう》したので、お清《きよ》を逢《あ》はせたいと言《い》ふのであつた。
「話《はなし》はわかるんですの。叔父《をぢ》も思《おも》つたより人《ひと》がよささうです。」細君《さいくん》は安心《あんしん》したやうに言《い》つた。
とにかくお清《きよ》を遣《や》ることにしたが、全《まつた》く安心《あんしん》はできなかつた。
実際《じつさい》またお清《きよ》は二|日《か》も帰《かへ》つて来《こ》ないのであつた。
「もう帰《かへ》らないんぢやないか。」私《わたし》は言《い》つたが、細君《さいくん》は叔父《をぢ》たちを信《しん》じてゐた。
「そんな事《こと》はありませんよ。それにお清《きよ》かすつかり自家《うち》のものに成《な》り切《き》つてゐますから。」細君《さいくん》は言《い》つてゐた。
果《はた》して三|日目《かめ》にお清《きよ》が叔父《をぢ》につれられて帰《かへ》つて来《き》た。
私《わたし》は気忙《きぜは》しかつたので、詳《くは》しいことはわからなかつたけれど、細君《さいくん》の話《はなし》によると、口《くち》がきまつて、金《かね》を前借《ぜんしやく》するばかりになつてゐたお君《きみ》が、女給仕《をんなきふじ》の従姉《いとこ》に、すつかり唆《そゝのか》されてしまつたのであつた。
「何《なん》でもその従姉《いとこ》は、大変《たいへん》ものらしいんです。好《い》い着物《きもの》や指環《ゆびわ》も沢山《たくさん》もつてゐるやうですの。御馳走《ごちそう》をこしらへることも上手《じやうず》で、小説《せうせつ》の話《はなし》なんかもするさうです。月々《つき/″\》百五十|円《ゑん》からの収入《しうにふ》があるとか言《い》ふ話《はなし》をしてゐるんですつて、お君《きみ》にも来《こ》いと言《い》ふんですつて。今《いま》に自分《じぶん》でカフヱを出《だ》すから悪《わる》いやうにしないと言《い》ふのでね。それでお君《きみ》もすつかり其《そ》の気《き》になつたらしいんですわ。お清《きよ》の話《はなし》がなか/\面白《おもしろ》いんです。京都《きやうと》ものでも、なか/\気《き》の利《き》いた女《をんな》らしい様子《やうす》ですわ。女振《をんなぶ》りも好《い》いんでせうよ。」細君《さいくん》は私《わたし》に話《はな》した。
「お清《きよ》にも来《こ》いと言《い》はなかつたのか。」私《わたし》は笑《わら》ひながらきいた。
「言《い》つたさうですけれど、まさかお清《きよ》ではね。」
私《わたし》はお清《きよ》が可愛《かはい》さうであつた。
「お清《きよ》はなか/\強《つよ》いんですよ。そんな処《ところ》へ行《い》くものかと言《い》つた権幕《けんまく》で、叔父《をぢ》とさんざ遣《や》り合《あ》つたさうです。叔父《をぢ》は仕方《しかた》がないから、勝手《かつて》にしろと言《い》つたんですつて。お君《きみ》にも、奥《おく》さんにお世話《せわ》をやかせながら、違約《ゐやく》してそんなところへ行《ゆ》くやうな人《ひと》は、兄弟《きやうだい》とも思《おも》はないし、寄《よ》りついて来《き》てもくれるなつて、一つ端《ぱ》し啖呵《たんか》を切《き》つたやうな話《はなし》ですの。」妻《つま》は笑《わら》つた。
私《わたし》はまた少《すこ》しばかり責任《せきにん》か明《あきら》かにされるのを感《かん》じた。[#地付き](大正13[#「13」は縦中横]年6月「婦人公論」)
底本:「徳田秋聲全集第14巻」八木書店
2000(平成12)年7月18日初版発行
底本の親本:「婦人公論」
1924(大正13)年6月
初出:「婦人公論」
1924(大正13)年6月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
2000(平成12)年7月18日初版発行
底本の親本:「婦人公論」
1924(大正13)年6月
初出:「婦人公論」
1924(大正13)年6月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ