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威嚇
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威嚇
徳田秋声
徳田秋声
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)夫《おつと》
(例)夫《おつと》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)四|人《にん》
(例)四|人《にん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1-92-55]
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1-92-55]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ぴちり/\
(例)ぴちり/\
濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
晩春の静かな或朝であつた。女髪結のおふきの第二の夫《おつと》浅吉が、つい近所の素人下宿で催された花の仲間入りをして、夜明《よあけ》まで血眼になつて働いた揚句に、宵《よひ》の口《くち》の損失を恢復した上に、いくらかの勝となつて帰つて来《く》ると、いきなり朝湯へ飛込んで、脂ぎつた体を流して、せいゝゝした気持で家の格子戸を開けた。
忙しい中を、おふきは急ぎの頭を結ふために、得意先へ出て行つたとみえて、店には下梳が一人、そこに三四|人《にん》待つてゐる
客の一人の髪《かみ》を梳いてゐた。おふきのゐないことは、彼に取つては此のうへない仕合せであつたが、然《しか》しまた毎時も彼女が外廻りをするときに感《かん》ずるやうな淡《あわ》い不安が起らないでもなかつた。浅吉が、年の割には、しつかりした腕だと云はれてゐる彼女と一|緒《しよ》になつてから、まだ一|年半《ねんはん》とは時が経つてゐなかつた。そして彼女が自分の有《もの》となつた動機が、何時かまた人のものとなる同じ動機でないとは言へなかつた。
同じ仲間の周旋屋の一人が、彼女の最初の持主であつた。そして浅吉が時々そこへ遊びに行つたり、一|緒《しよ》に花を引《ひ》いたりしてゐるうちに、上州産れの鉄化肌の彼女の心が、何時とはなし彼の方へ惹着けられると同時に、最初の持主から紙が剥《はが》れるやうに訳もなく離れて行つた。勿論浅吉は最初の持主に比べて、産れおちるとからの周旋屋ではなかつたゞけに、人品《じんぴん》が※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1-92-55]かに立優つてゐたのは事実であつた。彼は下町の可也な商人の子息《むすこ》であつた。そして株と道楽とのために、そんな社会へ落《お》ちては来たのであつたが、彼を見放したものゝ中には歴《れつき》々とした親類《しんるゐ》もあつた。
最初の持主が、彼女と浅吉とのなかを嗅《か》ぎつけたのは、遊びずきな彼女が彼と一|緒《しよ》に出歩《である》くのを厭ひはじめた頃からであつたが、それと同時に浅吉の足が、彼の家から遠ざかつたことが、一層彼の頭脳を不安に陥いれた。
或晩などは、彼が用事先きから帰つて来ると、締《し》めこめた二|階《かい》の一室で、ぴちり/\と札の音が洩れきこえて来て、小金貸しの某のお爺《ぢい》さんだの、若い大学生だの、芸者あがりの会社員の囲ひものだのが、四五人|寄《よ》つて、電気の下に円陣を作つてゐたが、その中には浅吉も交《まじ》つてゐた。暫らく彼は傍で見てゐたが、如何かすると会社員の囲ひものだといふ其の女の方へ、彼の力瘤《ちからこぶ》が入つて行つた。すると其に挑発されたやうなおふきの態度《たいど》が、不思議にまた浅吉の方へ加勢をするやうな風《ふう》に見えた。
「お嫁に行つた晩で、どうでも勝手になさいまし」などゝ、おふきは立膝をしながら、負《ま》けこんで来た腹立まぎれに、棄鉢な札の引き方をしてゐた。そして、夜なかに蕎麦が来たとき、おふきが浅吉ともあひ[#「もあひ」に傍点]で箸を取つたり、浅吉の丼のなかゝら、食べさしの天麩羅を摘みあげて食べたりしたことが、彼女の亭主の心を怒らせてしまつた。彼は一つ二つ言葉咎めをしてゐるうちに、一|層《そう》頭脳を興奮させられて、いきなり起ちあがつて、彼女を打つたり蹴たりした。髪《たぶさ》をきり/\手首に捲きつけて、凄じい勢ひで、段梯子の降口まで引摺つて行つたりした。衆《みんな》が総立ちになつて八方から彼を遮ぎ止めなかつたら、彼は或は彼女を下へ引ずりおろして、刃物を振廻したかも知れなかつた。
衆《みんな》のために、おふきはふるゝゝ厭になつた彼の前に手をついて謝罪させられることになつたが、それと同時に浅吉との情交《なか》が、次第に緊迫して来た。同じやうな事件が、時々寛容な良人を怒らせたが、打つたり擲《たゝ》いたりすることは、単に其の場きりの威かしに過ぎなかつた。彼女を悔悛させることの困難なことが、次第に明かになつて来た。そして其よりも幾層不謹慎な光景が、彼を驚かしてから、生創《なまきず》のたえなかつた彼女の体が、到頭自由になつた。
おふきが浅吉と一緒になつたのは、彼女が一年弱|《たらず》も姿を隠してゐた田舎から、再び東京へ帰つて来てからであつた。
おふきが浅吉に取つて、不安心な女であつたと同じやうに、浅吉は嫉妬ぶかいおふきに取つて、彼女の最初の良人ほど安心な良人ではなかつた。少なくとも彼女にはさう思はれてならなかつた。男の年が二つも下だと云ふことが彼女に不安を抱かせる一つの理由であつたが、それよりも彼が最近に別れたと云ふ若い一人の女のあることが、殊にも気《き》がゝりであつた。三年ばかり同棲してゐたその女は、生活が遣切れなかつたとき、話づくで幾許かの前借を彼に与へて、昔《むか》しゐたやうな客商売の家《うち》へ働きに行つた。
最近まで浅吉が時々《とき/″\》その女と逢つてゐたらしい形迹も、彼のをり/\の口吻によつて占はれたが、その後の彼女の行方は、かいくれ知れなかつた。薄い写真によつて想像される其の女の姿を、おふきは時々途中や人の集る場所などで物色したが、彼女と一緒に暮《くら》してゐたと云ふ下谷の方の家の前を、わざと通《とほ》つてみたこともあつた。それは電燈の器具や煽風器などを商つてゐる店の二階であつた。浅吉はそこへ色々の世帯道具を預けたまゝであつたが、一緒になつてから二人でその荷を受取りに行つた。そして其がまた怠けものゝ浅吉の以前の貧《まづ》しい生活を想像させると同時に、不検束な女の日常をも考へさせた。彼女の締めてゐたといふ帯や下帯などが、彼の単衣物や襦袢と一つに押入の隅に束《つく》ねられてあつたり、破れた鏡や使《つか》ひさしの化粧品がそこらに零《こぼ》れてゐたりした。部屋も天井が低くて陰気であるうへに、煤け黝んでゐた。よくこんな処にゐられたものだと惘《あき》れるほどであつた。
「お前さんの神さんは、余程だらしのない人だつたと見えるね。」
おふきはそんな埃々した物を撮《つま》みあげながら突つてゐたが、色つぽい目が嫉妬に燃えてゐた。おふきは直に顔まで赫とするやうな質であつた。
浅吉は表へ向いた出窓《でまど》に腰かけて、にや/\笑つてゐたが、「それでも好いこともあつたのさ」と、其の目が笑つてゐるやうに見えた。
「こんな中から拾ひあげて、一人前の男にしやうと云ふのだもの、なか/\容易ぢやないよ。」おふきは恩に被せるやうに言つた。
「だからお前さんだつて、性根をつけてしつかりしてくれなくちや困るよ。私の別れた人や、口《くち》を利《き》いてくれた人の前へ対しても……。」おふきはそんなことも言つた。
始終うか/\してゐるやうな浅吉であつたが、年が若くて苦労をさせられた前の女を可憐《いぢら》しく思つた。肉の荒んでゐる割に、心持の美しい――といふよりは悪智慧や猜疑心のない、働きもなかつた代りに摺れてもゐなかつた彼女が、まだ紅い色の入つた帯などを締《し》めながら、悪い病気に悩んでゐたことが、不憫に思はれた。
働きに行つた客商売屋の家《うち》の神さんにでも智慧をつけられたものらしく、最後に彼が小使をせびりに行つた時分には、彼女
はもう姿を隠してゐた。そして自分と一緒に暮すよりは、とにかく好い状態に在《あ》るものと想像された。浅吉はそれに何の異存もなかつた。一緒にゐるときには、よく無理《むり》を言ひかけて泣《な》かせて窘しめたり、肉体を虐《しひた》げたりしたが、それは小柄《こがら》の彼女のいたいけな体を、抱擁しても為切《しき》れないやうな感覚からであつた。単に生活の点から言つても、この先き自分と一緒にゐたら、どんな事になつたかも知れないと思はれた。
浅吉のそんな気持が、嫉妬ぶかいおふきに能く感《かん》づけた。
忙しい中を、おふきは急ぎの頭を結ふために、得意先へ出て行つたとみえて、店には下梳が一人、そこに三四|人《にん》待つてゐる
客の一人の髪《かみ》を梳いてゐた。おふきのゐないことは、彼に取つては此のうへない仕合せであつたが、然《しか》しまた毎時も彼女が外廻りをするときに感《かん》ずるやうな淡《あわ》い不安が起らないでもなかつた。浅吉が、年の割には、しつかりした腕だと云はれてゐる彼女と一|緒《しよ》になつてから、まだ一|年半《ねんはん》とは時が経つてゐなかつた。そして彼女が自分の有《もの》となつた動機が、何時かまた人のものとなる同じ動機でないとは言へなかつた。
同じ仲間の周旋屋の一人が、彼女の最初の持主であつた。そして浅吉が時々そこへ遊びに行つたり、一|緒《しよ》に花を引《ひ》いたりしてゐるうちに、上州産れの鉄化肌の彼女の心が、何時とはなし彼の方へ惹着けられると同時に、最初の持主から紙が剥《はが》れるやうに訳もなく離れて行つた。勿論浅吉は最初の持主に比べて、産れおちるとからの周旋屋ではなかつたゞけに、人品《じんぴん》が※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1-92-55]かに立優つてゐたのは事実であつた。彼は下町の可也な商人の子息《むすこ》であつた。そして株と道楽とのために、そんな社会へ落《お》ちては来たのであつたが、彼を見放したものゝ中には歴《れつき》々とした親類《しんるゐ》もあつた。
最初の持主が、彼女と浅吉とのなかを嗅《か》ぎつけたのは、遊びずきな彼女が彼と一|緒《しよ》に出歩《である》くのを厭ひはじめた頃からであつたが、それと同時に浅吉の足が、彼の家から遠ざかつたことが、一層彼の頭脳を不安に陥いれた。
或晩などは、彼が用事先きから帰つて来ると、締《し》めこめた二|階《かい》の一室で、ぴちり/\と札の音が洩れきこえて来て、小金貸しの某のお爺《ぢい》さんだの、若い大学生だの、芸者あがりの会社員の囲ひものだのが、四五人|寄《よ》つて、電気の下に円陣を作つてゐたが、その中には浅吉も交《まじ》つてゐた。暫らく彼は傍で見てゐたが、如何かすると会社員の囲ひものだといふ其の女の方へ、彼の力瘤《ちからこぶ》が入つて行つた。すると其に挑発されたやうなおふきの態度《たいど》が、不思議にまた浅吉の方へ加勢をするやうな風《ふう》に見えた。
「お嫁に行つた晩で、どうでも勝手になさいまし」などゝ、おふきは立膝をしながら、負《ま》けこんで来た腹立まぎれに、棄鉢な札の引き方をしてゐた。そして、夜なかに蕎麦が来たとき、おふきが浅吉ともあひ[#「もあひ」に傍点]で箸を取つたり、浅吉の丼のなかゝら、食べさしの天麩羅を摘みあげて食べたりしたことが、彼女の亭主の心を怒らせてしまつた。彼は一つ二つ言葉咎めをしてゐるうちに、一|層《そう》頭脳を興奮させられて、いきなり起ちあがつて、彼女を打つたり蹴たりした。髪《たぶさ》をきり/\手首に捲きつけて、凄じい勢ひで、段梯子の降口まで引摺つて行つたりした。衆《みんな》が総立ちになつて八方から彼を遮ぎ止めなかつたら、彼は或は彼女を下へ引ずりおろして、刃物を振廻したかも知れなかつた。
衆《みんな》のために、おふきはふるゝゝ厭になつた彼の前に手をついて謝罪させられることになつたが、それと同時に浅吉との情交《なか》が、次第に緊迫して来た。同じやうな事件が、時々寛容な良人を怒らせたが、打つたり擲《たゝ》いたりすることは、単に其の場きりの威かしに過ぎなかつた。彼女を悔悛させることの困難なことが、次第に明かになつて来た。そして其よりも幾層不謹慎な光景が、彼を驚かしてから、生創《なまきず》のたえなかつた彼女の体が、到頭自由になつた。
おふきが浅吉と一緒になつたのは、彼女が一年弱|《たらず》も姿を隠してゐた田舎から、再び東京へ帰つて来てからであつた。
おふきが浅吉に取つて、不安心な女であつたと同じやうに、浅吉は嫉妬ぶかいおふきに取つて、彼女の最初の良人ほど安心な良人ではなかつた。少なくとも彼女にはさう思はれてならなかつた。男の年が二つも下だと云ふことが彼女に不安を抱かせる一つの理由であつたが、それよりも彼が最近に別れたと云ふ若い一人の女のあることが、殊にも気《き》がゝりであつた。三年ばかり同棲してゐたその女は、生活が遣切れなかつたとき、話づくで幾許かの前借を彼に与へて、昔《むか》しゐたやうな客商売の家《うち》へ働きに行つた。
最近まで浅吉が時々《とき/″\》その女と逢つてゐたらしい形迹も、彼のをり/\の口吻によつて占はれたが、その後の彼女の行方は、かいくれ知れなかつた。薄い写真によつて想像される其の女の姿を、おふきは時々途中や人の集る場所などで物色したが、彼女と一緒に暮《くら》してゐたと云ふ下谷の方の家の前を、わざと通《とほ》つてみたこともあつた。それは電燈の器具や煽風器などを商つてゐる店の二階であつた。浅吉はそこへ色々の世帯道具を預けたまゝであつたが、一緒になつてから二人でその荷を受取りに行つた。そして其がまた怠けものゝ浅吉の以前の貧《まづ》しい生活を想像させると同時に、不検束な女の日常をも考へさせた。彼女の締めてゐたといふ帯や下帯などが、彼の単衣物や襦袢と一つに押入の隅に束《つく》ねられてあつたり、破れた鏡や使《つか》ひさしの化粧品がそこらに零《こぼ》れてゐたりした。部屋も天井が低くて陰気であるうへに、煤け黝んでゐた。よくこんな処にゐられたものだと惘《あき》れるほどであつた。
「お前さんの神さんは、余程だらしのない人だつたと見えるね。」
おふきはそんな埃々した物を撮《つま》みあげながら突つてゐたが、色つぽい目が嫉妬に燃えてゐた。おふきは直に顔まで赫とするやうな質であつた。
浅吉は表へ向いた出窓《でまど》に腰かけて、にや/\笑つてゐたが、「それでも好いこともあつたのさ」と、其の目が笑つてゐるやうに見えた。
「こんな中から拾ひあげて、一人前の男にしやうと云ふのだもの、なか/\容易ぢやないよ。」おふきは恩に被せるやうに言つた。
「だからお前さんだつて、性根をつけてしつかりしてくれなくちや困るよ。私の別れた人や、口《くち》を利《き》いてくれた人の前へ対しても……。」おふきはそんなことも言つた。
始終うか/\してゐるやうな浅吉であつたが、年が若くて苦労をさせられた前の女を可憐《いぢら》しく思つた。肉の荒んでゐる割に、心持の美しい――といふよりは悪智慧や猜疑心のない、働きもなかつた代りに摺れてもゐなかつた彼女が、まだ紅い色の入つた帯などを締《し》めながら、悪い病気に悩んでゐたことが、不憫に思はれた。
働きに行つた客商売屋の家《うち》の神さんにでも智慧をつけられたものらしく、最後に彼が小使をせびりに行つた時分には、彼女
はもう姿を隠してゐた。そして自分と一緒に暮すよりは、とにかく好い状態に在《あ》るものと想像された。浅吉はそれに何の異存もなかつた。一緒にゐるときには、よく無理《むり》を言ひかけて泣《な》かせて窘しめたり、肉体を虐《しひた》げたりしたが、それは小柄《こがら》の彼女のいたいけな体を、抱擁しても為切《しき》れないやうな感覚からであつた。単に生活の点から言つても、この先き自分と一緒にゐたら、どんな事になつたかも知れないと思はれた。
浅吉のそんな気持が、嫉妬ぶかいおふきに能く感《かん》づけた。
朝湯から帰つて来た浅吉は、まだ二十坊主や桜の慢幕などのちらつくやうな充血した目をして、瓦斯で自身味膾汁を温めたり、湯を沸したりしてゐたが、咽喉が渇《かわ》くので、酒も一本つけて、茶の間で飲食をすると、そのまゝ新聞をもつて二階へあがつて行つた。
二階《かい》の部屋には四月の温い光線が一杯に差してゐたが、窓《まど》から出張つたところにやくざ[#「やくざ」に傍点]な盆栽がごちや/\並《なら》んでゐて、それが皆んな吹出物でもしたやうに、枝といふ枝に若かい葉が暢びだしてゐた。彼はその下に寝そべつて新聞を読みはじめたが、するうちうと/\と好《い》い気持に甘い眠に誘はれた。人家の立込んだなかなので、周囲の屋根の下から何か絶えず物音がしてゐたが、その中におふきの尖《とん》がつた声が聞えるやうな気がして、眠りかけた彼の神経か、頭脳のなかで時々悸えてゐた。
其《それ》といふのも、おふきが浅吉と一|緒《しよ》になつてから、彼女の事件を知つてゐる人達への反抗心から、何か急に発心したやうな気持で、花札などを自身余り手にしたくなくなつたのと同時に、誘惑の多いやうな浮いた空気のなかへ、彼の浸つて行くのを好まなかつたからであつた。夜更《よふ》かしや夜明しをすることが、殊にも不安であつた。女の多いやうな集りには、如何《どう》かすると、自身出て行つて彼の動作を見張つてゐることもあつたが、自分で手を出せば夫婦のうち孰《どつち》かゞ極つて負がこんで来るのも、彼女には不快であつた。
さうでなくてさへ、おふきは浅吉を一人で外へ出すことを甚しく嫌つた。自身家に在るときもさうであつたが、得意廻りなどをして帰つて来たときに、のらくら其処らを遊び歩《ある》いてゐる、彼の姿が見えないと、そのままに棄《すて》てはおけないといふ風であつた。梳手《すきて》に当りちらして、近所を捜させるか、自身に行つた先を突留《つきと》めなければ気がすまなかつた。若い梳手とふざけた口《くち》などを利くときの不真面目な男の調子などが、殊にも彼女の神経をいら/\させた。そんな場合のおふきは、全く手のつけやうのないほどヒステレー性の兇暴な女であつた。不用意な――時には揶揄ひ半分の彼の些細な言葉や様子が、彼女の荒い神経に可恐しく誇張されて響いた。浅吉はふる/\其を怕れた。
不断は口数の少ない尋常な女であつたが、そんな場合のおふきは、その目の色と共に口の利き方が驚くほど荒かつた。関東育ちの女性らしい野性が、下町育ちの浅吉を悸えさせずにはおかなかつた。
「今頃どこを彷徨いてるんだ.この意気地なしの薄野呂。」おふきは然う言つて口汚く彼を罵つた。大きい目から涙がぽろぽろ流れた。
一時落ちた得意が段々恢復されて来て、彼女の腕がめきめき上つた。寝室《ねま》になつてゐる二階に新しい箪笥などが据えられ、一緒に出るときは、浅吉もぞろりとした身装《みなり》をさせられた。そして揃つて芝居などへ行くときの二人は、真実幸福に充満ちて見えたが、腕を鼻にかけて、附けあがられるときの浅吉は真箇惨であつた。
「私なんざね、下谷のおふきさんで通つてゐるんです。」
それが丸みをもつた、とぼけた彼女の愛《あい》らしい鼻に始終ぶら下つてゐたが、浅吉もへこら/\してばかりも居なかつた。彼の思ひつきで、大きな姿見をすえたり、ハイカラな化粧品を備付けたりして、店を高等に飾つたとほりに、飼はれた羊のやうな浅吉も、生きる必要上可也に彼女を操縦することを知つてゐた。
「気障なことを言ふなよ。」彼はさう言つて、おふきを凹ませた。
けれど大抵の場合がさつ[#「がさつ」に傍点]な響をもつたおふきの声は彼には余り気持のいゝものではなかつた。
二階に寝てゐる彼の耳元へ、おふきの代りに聞《きゝ》なれぬ男の声が不意に聞えた。そして暫くすると下梳が二階へ上つて来て、彼を呼起した。
「ちよつと旦那にお目にかゝりたいつて、誰方かいらつしやいましたよ。」
降りて行つて見ると、商人とも書生ともつかないやうな風体の、見知らぬ顔の男が二人まで、入口に立つてゐた。浅吉はそれを見ると、何といふことなし厭な気持になつた。彼はあんな事情でおふきと一緒になつてから、始終暗い陰を背負つてあるいてゐるやうな罪人じみた不安を感じてゐた。
「何ですか。」彼はそこへ出て行つて無気味さうに訊いた。
二人はにこにこした顔をして浅吉の顔を見てゐたが、「やあ」とお辞義をした。
「あんたが浅吉さんといふんですか。」
「然《さ》いです。」浅吉はおど/\した声で応へた。
「私たちは××署の刑事ですがね。」彼等の一人はさう言つて、少し前へ出て来た。
浅吉はぎよつとした。そして其の瞬間、可恐《おそろ》しい鋭敏さで自分の過去をつらりと振顧つて見た。別にぎよつとするやうな悪事を犯したとも思へなかつた。しかしこんな人達の眼鏡に照してみたら、何かあるかも知れないと云ふ気がした。
「な、何んです。」浅吉は襟を無闇と掻合せながら、狼狽の色を浮べた。
「いや別に何でもないですがね。」刑事はそこに腰かけて、親指で鼻頭をこすりながら、「あんたは是れやるでせう」とにや/\して言つた。
「これつて何ですか。」浅吉は※[#「りっしんべん+兄」、第3水準1-84-45]《とぼ》けた善良さうな目をしばたゝきながら言つた。
「いや………花を引くでせう。」刑事は重ねて訊いた。
「じよ、じよう談でせう。私は花なんか引いたことはないんですがな。いや真箇。」浅吉は頭をかきながら言つた。
「いや、別に何でもないですよ」と、刑事は二人とも、上り口に腰かけて、袂から莨を取出した、浅吉は急いで莨盆を持つて来た。
同時に蒲団も持つて来て、「お布きなさつて」と勧めた。刑事は「どうも済みません」と言つて、莨をふかしはじめたが、それ以上訊くやうな様子もなく、にや/\しながら奥の方を眺めてゐた。
浅吉は自分の方から何か言はなければならなかつた。そして自分にも莨を喫しながら、
「誰かさう云ふことを言つて行つたものでもあるんでございますか。」
「いや、さう云ふ訳ぢやないんです。」甲の方が言つて笑つた。
「誰か言はなくても、我々には何もかも判つてゐるんですからな。」少し年上かと思はれる、商人風の扮装《つくり》をした乙の方が、口を利いた。
浅吉は窘渋の色を浮べたが「いや然し、世間にはよく然う云ふ人があるものですから。」
そして、「けれどあれは、金銭を賭けさへしなければ、別に罪にはならないんでござんせう。それでなくて、札の販売を公然許してある気遣はないんでござんすからな。」
「それあ然うですがね、賭《か》けないから必ずしも好いといふ訳ぢやないんですよ。それにまた花を引く以上、賭けないと云ふ場合は、殆んどないんですからな」
「さいですかな。」
「それは此方の手加減にあるんですよ。たとへば署長が風紀上の問題をやかましく云ふんだと、自然賭場の手入れも頻繁になる訳ですが、それも無闇に処分するといふ訳ぢやないんです。まあ余り目に立つのは一度説諭して、それでも止めなければ科料と云つた風でせう。だけど、本職《くろうと》とやるのは危険だからお止しなさい。」
「さいですか。」
「本職《くらうと》が一人でも入つてゐると、我々は見遁すわけに行きませんから、場合によると手を入れるかも知れません。」
「この界隈にも、よく遣つてゐますな。」乙が言つた。
「然うですか。」
「あんたは昨晩××と云ふ、素人下宿でやつてゐましたね。」乙がまた言つた。
浅吉は笑つてゐた。
「それから貴方のよく行くのは、××町の歯医者、あすこも些と注目されてゐますから、余り行かない方がいゝでせう。」
そして其の刑事は、何時幾日頃に、何処にどんな連中が集つてゐたかといふことを、一々詳しく話した。
「その人の不断の品行や地位にもありますが、しかし余まり行《や》らん方《はう》がいゝですね。屡《しばし》ば目にたつと、勢ひ抛つちやおけなくなりますから。」甲が附加へた。
「然いすか。」浅吉は漸と安心したと云つた風《ふう》で「いや、これから慎《つゝし》みます。つい引張出されて行くんですけれど……初めれば必ず夜明かしになると云つた風で、実は余り感心したもんぢやないんでござんすから。それにこの頃は、大分風紀問題がやかましいやうで………」などゝ浅吉は話した。
刑事たちは、自分の職業上から見た、色々の面白い世間話や、警察部内の噂《うはさ》などをしはじめた。泥棒狩や淫売狩の話も出た。
そこへおふきが、仕事姿で帰つて来た。顔の広いおふきは、その刑事の顔をよく知つてゐた。そして其から又しばらく異《かは》つた話が続いてゐた。
「旦那方の商売も随分面白い商売ですね」などゝ、おふきは長火鉢の傍からさう言つて、三人の話を聞いてゐた。
「何でもよく知つてやがる。」
角袖が帰つて行つてから、浅吉は悄《しを》れた風で又二階へ上つて行つた。そして前の若い妻を虐げたことなどが、不思議に彼の心を曇らしたゞけで、総てが幸福であつた。
二階《かい》の部屋には四月の温い光線が一杯に差してゐたが、窓《まど》から出張つたところにやくざ[#「やくざ」に傍点]な盆栽がごちや/\並《なら》んでゐて、それが皆んな吹出物でもしたやうに、枝といふ枝に若かい葉が暢びだしてゐた。彼はその下に寝そべつて新聞を読みはじめたが、するうちうと/\と好《い》い気持に甘い眠に誘はれた。人家の立込んだなかなので、周囲の屋根の下から何か絶えず物音がしてゐたが、その中におふきの尖《とん》がつた声が聞えるやうな気がして、眠りかけた彼の神経か、頭脳のなかで時々悸えてゐた。
其《それ》といふのも、おふきが浅吉と一|緒《しよ》になつてから、彼女の事件を知つてゐる人達への反抗心から、何か急に発心したやうな気持で、花札などを自身余り手にしたくなくなつたのと同時に、誘惑の多いやうな浮いた空気のなかへ、彼の浸つて行くのを好まなかつたからであつた。夜更《よふ》かしや夜明しをすることが、殊にも不安であつた。女の多いやうな集りには、如何《どう》かすると、自身出て行つて彼の動作を見張つてゐることもあつたが、自分で手を出せば夫婦のうち孰《どつち》かゞ極つて負がこんで来るのも、彼女には不快であつた。
さうでなくてさへ、おふきは浅吉を一人で外へ出すことを甚しく嫌つた。自身家に在るときもさうであつたが、得意廻りなどをして帰つて来たときに、のらくら其処らを遊び歩《ある》いてゐる、彼の姿が見えないと、そのままに棄《すて》てはおけないといふ風であつた。梳手《すきて》に当りちらして、近所を捜させるか、自身に行つた先を突留《つきと》めなければ気がすまなかつた。若い梳手とふざけた口《くち》などを利くときの不真面目な男の調子などが、殊にも彼女の神経をいら/\させた。そんな場合のおふきは、全く手のつけやうのないほどヒステレー性の兇暴な女であつた。不用意な――時には揶揄ひ半分の彼の些細な言葉や様子が、彼女の荒い神経に可恐しく誇張されて響いた。浅吉はふる/\其を怕れた。
不断は口数の少ない尋常な女であつたが、そんな場合のおふきは、その目の色と共に口の利き方が驚くほど荒かつた。関東育ちの女性らしい野性が、下町育ちの浅吉を悸えさせずにはおかなかつた。
「今頃どこを彷徨いてるんだ.この意気地なしの薄野呂。」おふきは然う言つて口汚く彼を罵つた。大きい目から涙がぽろぽろ流れた。
一時落ちた得意が段々恢復されて来て、彼女の腕がめきめき上つた。寝室《ねま》になつてゐる二階に新しい箪笥などが据えられ、一緒に出るときは、浅吉もぞろりとした身装《みなり》をさせられた。そして揃つて芝居などへ行くときの二人は、真実幸福に充満ちて見えたが、腕を鼻にかけて、附けあがられるときの浅吉は真箇惨であつた。
「私なんざね、下谷のおふきさんで通つてゐるんです。」
それが丸みをもつた、とぼけた彼女の愛《あい》らしい鼻に始終ぶら下つてゐたが、浅吉もへこら/\してばかりも居なかつた。彼の思ひつきで、大きな姿見をすえたり、ハイカラな化粧品を備付けたりして、店を高等に飾つたとほりに、飼はれた羊のやうな浅吉も、生きる必要上可也に彼女を操縦することを知つてゐた。
「気障なことを言ふなよ。」彼はさう言つて、おふきを凹ませた。
けれど大抵の場合がさつ[#「がさつ」に傍点]な響をもつたおふきの声は彼には余り気持のいゝものではなかつた。
二階に寝てゐる彼の耳元へ、おふきの代りに聞《きゝ》なれぬ男の声が不意に聞えた。そして暫くすると下梳が二階へ上つて来て、彼を呼起した。
「ちよつと旦那にお目にかゝりたいつて、誰方かいらつしやいましたよ。」
降りて行つて見ると、商人とも書生ともつかないやうな風体の、見知らぬ顔の男が二人まで、入口に立つてゐた。浅吉はそれを見ると、何といふことなし厭な気持になつた。彼はあんな事情でおふきと一緒になつてから、始終暗い陰を背負つてあるいてゐるやうな罪人じみた不安を感じてゐた。
「何ですか。」彼はそこへ出て行つて無気味さうに訊いた。
二人はにこにこした顔をして浅吉の顔を見てゐたが、「やあ」とお辞義をした。
「あんたが浅吉さんといふんですか。」
「然《さ》いです。」浅吉はおど/\した声で応へた。
「私たちは××署の刑事ですがね。」彼等の一人はさう言つて、少し前へ出て来た。
浅吉はぎよつとした。そして其の瞬間、可恐《おそろ》しい鋭敏さで自分の過去をつらりと振顧つて見た。別にぎよつとするやうな悪事を犯したとも思へなかつた。しかしこんな人達の眼鏡に照してみたら、何かあるかも知れないと云ふ気がした。
「な、何んです。」浅吉は襟を無闇と掻合せながら、狼狽の色を浮べた。
「いや別に何でもないですがね。」刑事はそこに腰かけて、親指で鼻頭をこすりながら、「あんたは是れやるでせう」とにや/\して言つた。
「これつて何ですか。」浅吉は※[#「りっしんべん+兄」、第3水準1-84-45]《とぼ》けた善良さうな目をしばたゝきながら言つた。
「いや………花を引くでせう。」刑事は重ねて訊いた。
「じよ、じよう談でせう。私は花なんか引いたことはないんですがな。いや真箇。」浅吉は頭をかきながら言つた。
「いや、別に何でもないですよ」と、刑事は二人とも、上り口に腰かけて、袂から莨を取出した、浅吉は急いで莨盆を持つて来た。
同時に蒲団も持つて来て、「お布きなさつて」と勧めた。刑事は「どうも済みません」と言つて、莨をふかしはじめたが、それ以上訊くやうな様子もなく、にや/\しながら奥の方を眺めてゐた。
浅吉は自分の方から何か言はなければならなかつた。そして自分にも莨を喫しながら、
「誰かさう云ふことを言つて行つたものでもあるんでございますか。」
「いや、さう云ふ訳ぢやないんです。」甲の方が言つて笑つた。
「誰か言はなくても、我々には何もかも判つてゐるんですからな。」少し年上かと思はれる、商人風の扮装《つくり》をした乙の方が、口を利いた。
浅吉は窘渋の色を浮べたが「いや然し、世間にはよく然う云ふ人があるものですから。」
そして、「けれどあれは、金銭を賭けさへしなければ、別に罪にはならないんでござんせう。それでなくて、札の販売を公然許してある気遣はないんでござんすからな。」
「それあ然うですがね、賭《か》けないから必ずしも好いといふ訳ぢやないんですよ。それにまた花を引く以上、賭けないと云ふ場合は、殆んどないんですからな」
「さいですかな。」
「それは此方の手加減にあるんですよ。たとへば署長が風紀上の問題をやかましく云ふんだと、自然賭場の手入れも頻繁になる訳ですが、それも無闇に処分するといふ訳ぢやないんです。まあ余り目に立つのは一度説諭して、それでも止めなければ科料と云つた風でせう。だけど、本職《くろうと》とやるのは危険だからお止しなさい。」
「さいですか。」
「本職《くらうと》が一人でも入つてゐると、我々は見遁すわけに行きませんから、場合によると手を入れるかも知れません。」
「この界隈にも、よく遣つてゐますな。」乙が言つた。
「然うですか。」
「あんたは昨晩××と云ふ、素人下宿でやつてゐましたね。」乙がまた言つた。
浅吉は笑つてゐた。
「それから貴方のよく行くのは、××町の歯医者、あすこも些と注目されてゐますから、余り行かない方がいゝでせう。」
そして其の刑事は、何時幾日頃に、何処にどんな連中が集つてゐたかといふことを、一々詳しく話した。
「その人の不断の品行や地位にもありますが、しかし余まり行《や》らん方《はう》がいゝですね。屡《しばし》ば目にたつと、勢ひ抛つちやおけなくなりますから。」甲が附加へた。
「然いすか。」浅吉は漸と安心したと云つた風《ふう》で「いや、これから慎《つゝし》みます。つい引張出されて行くんですけれど……初めれば必ず夜明かしになると云つた風で、実は余り感心したもんぢやないんでござんすから。それにこの頃は、大分風紀問題がやかましいやうで………」などゝ浅吉は話した。
刑事たちは、自分の職業上から見た、色々の面白い世間話や、警察部内の噂《うはさ》などをしはじめた。泥棒狩や淫売狩の話も出た。
そこへおふきが、仕事姿で帰つて来た。顔の広いおふきは、その刑事の顔をよく知つてゐた。そして其から又しばらく異《かは》つた話が続いてゐた。
「旦那方の商売も随分面白い商売ですね」などゝ、おふきは長火鉢の傍からさう言つて、三人の話を聞いてゐた。
「何でもよく知つてやがる。」
角袖が帰つて行つてから、浅吉は悄《しを》れた風で又二階へ上つて行つた。そして前の若い妻を虐げたことなどが、不思議に彼の心を曇らしたゞけで、総てが幸福であつた。
二三日たつと、その話が其の晩の連中の評判になつた。そして其は多分|嫉妬《やきもち》やきのおふきの仕業だらうといふことに一定した。[#地付き](大正7年6月「中央公論」)
底本:「徳田秋聲全集第12巻」八木書店
2000(平成12)年5月18日初版発行
底本の親本:「中央公論」
1918(大正7)年6月
初出:「中央公論」
1918(大正7)年6月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
2000(平成12)年5月18日初版発行
底本の親本:「中央公論」
1918(大正7)年6月
初出:「中央公論」
1918(大正7)年6月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ