harukaze_lab @ ウィキ
つゆのひぬま
最終更新:
harukaze_lab
-
view
つゆのひぬま
山本周五郎
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)佃町《つくだまち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|刻《とき》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#6字下げ]
-------------------------------------------------------
[#6字下げ]一[#「一」は中見出し]
その土地の本来の名は佃町《つくだまち》というのだが、たいていの者が「あひる」と呼んでいた。そこは深川の南の端で、海とのあいだに広く、芦原《あしはら》や湿地がひろがっており、晴れた日には海の向うに上総《かずさ》から安房《あわ》へかけての、山や丘を眺めることができた。――北側は堀で、蓬莱《ほうらい》橋というのを渡ると永代門前町になり、びっしりと建てこんだ家並のかなたに、深川八幡の高い屋根や、境内の森の梢《こずえ》が見える。その界隈《かいわい》には仲町、櫓下《やぐらした》、松本町など、料理茶屋や岡場所が多く、また、川向うとは違った意気で知られた、「羽折芸妓」などもいて、深川ではもっとも繁華な町であった。
通称「あひる」と呼ばれる佃町は、その繁華な町と堀ひとつ隔てているだけだが、いかにも地はずれの感じで、芦や雑草の生えた中に、三四十棟の家が不規則に建っており、空気にはいつも潮の香が強く匂っていた。「あひる」は土地の通称であると同時に、そこにある娼家の呼び名でもあった。仲町や松本町からあふれ出たものが、いつかそこへ根をおろしたのであろう。家数は絶えず増減しているが、多くても二十軒にはならなかったし、少ないときには六七軒になってしまうこともあった。――これらの中で、「蔦家《つたや》」だけが動かなかった。主人は女で、名はお富といい、年は三十二になる。もと新吉原で稼《かせ》いでいたという噂《うわさ》もあるが、真偽のほどはわからない。躯《からだ》の肥えた、まる顔の、おっとりとした性分で、ちょっと見たところでは娼家の女主人などとは思えないような、おちつきとおうようさが感じられた。みかけばかりでなく、ぜんたいとして彼女はおうような性分であったが、芯《しん》にはびっくりするほど打算的で冷静な、きついところがあり、一例をあげると、決して男をよせつけなかった。
「蔦家」を始めたころ、お富のとこへ一人の老人がかよって来た。せいぜい月に一度か二度、必ずなにかしら手土産を持って来て、一|刻《とき》ばかり静かに酒を飲むと、帰っていった。その老人がお富を廓《くるわ》からひかせ、「蔦家」の店を出させたのだといわれていたが、これも事実かどうか不明だったし、その老人が死んでからは、もう五年以上にもなるのに、一人の男も近よせなかった。親類もあるのかないのか、それらしい人間の出入りもない。ただ、去年あたりから月に一度ぐらいの割で、どこかへでかけてゆき、ときには泊って来るようになった。どこへゆくのかわからない。女たちは初め、よそに男がいるのだろうと思い、次には男を買いにゆくのだ、ということにきめていた。それは、その外出がいつも毎月のこと[#「こと」に傍点]の前後に当っていたからであるが、これもまた女たちの想像であって、慥《たし》かなことはわからなかった。
「あたしは浮気者やだらしのない女は置かないよ」とお富は云っていた、「少しぐらい縹緻《きりょう》が悪くっても、頭のいい、しまりのある女でなければだめさ、これはしょうばいなんだからね、客を気持よく遊ばせて、深入りをさせず、ながつづきのする馴染をつくるには、頭がよくて機転がきかなければいけない、それには銭金《ぜにかね》にしまりのあることが第一さ」
浮気者やだらしのない女は、自分の好き嫌いで客をふったり、こっちから惚《ほ》れこんだりするし、すぐひも[#「ひも」に傍点]付きになったりして、結局いい馴染客ができない、というのであった。「蔦家」にはいま女が四人いる。二十五になるおひろ[#「ひろ」に傍点]、二十一歳のお吉、二十歳のおぶん[#「ぶん」に傍点]、同じ年のおけい[#「けい」に傍点]、という顔ぶれであるが、四人とも女主人とどこか共通点があって、「蔦家」は他のどの店よりもうまいしょうばいをしていた。
おひろ[#「ひろ」に傍点]はいちばん年長で、また最古参でもあり、つねに五人か六人の、いい馴染客をもっていて、年が老けているのに、誰よりもよく稼いだ。店へはいって一年ほど経ったとき、おひろ[#「ひろ」に傍点]が「武家」の出であり、「病身の良人《おっと》と子供が一人ある」ということを知って、お富はちょっと首をかしげた。そういう素姓の女はお富には好ましくなかったのであるが、しかし、よく稼ぐのは「仕送り」をする必要があるからで、そのために客も大事にするし、始末もいいとなれば、文句はなく、やがてすっかりおひろ[#「ひろ」に傍点]を信用するようになった。
他の三人はさして特徴はない。お吉は肥えていて陽気なほうだし、おぶん[#「ぶん」に傍点]は少しばかり陰気で、温和《おとな》しい一方だった。おけい[#「けい」に傍点]は利巧で軽口がうまく、いつも巧みに客の評をしては、みんなを笑わせるというふうであった。――お富は彼女たちにほぼ満足していた。よその店ではしばしば女に逃げられたり、ひも[#「ひも」に傍点]付きの女を置いて辛きめにあったりしたが、「蔦家」ではそんなことはなかった。お富は女たちを大事にした。どの部屋もきれいに道具を揃《そろ》えてやり、食事も滋養のある美味《うま》い物を喰《た》べさせ、また病気の予防にはうるさいほど気をくばって、つねに注意することを怠らなかった。
その洪水のあった甲申《きのえさる》の年には、さすがの「蔦家」にもいやなことが重なった。まずお富が腸を病んで、春さきから夏いっぱい、寝たり起きたりしていたし、ようやく彼女が床ばらいをすると、おぶん[#「ぶん」に傍点]の家に間違いが起こり、そのためにこんどはおぶん[#「ぶん」に傍点]が、二十日ばかり寝るようなことになった。おぶん[#「ぶん」に傍点]の兄の増次が、病気の父親を殺し、自分も大川へ身を投げて死んだのである。――屋根屋の職人だった父は、三年まえに卒中で倒れ、半身不随のまま療養してい、増次は生れつき片足が不具であった。右の足が萎《な》えてしまって、十二三まで独りで歩くことができず、杖《つえ》を使うようになってからも、隣り町まで往復するのが精いっぱいであった。また彼は神経質なわりに不器用なたちで、自分は版木職人になるつもりだったし、ずいぶん熱心にやっていたが、思うように腕が進まず、癇癪《かんしゃく》を起こしてよく版木を叩き割ったり、道具を投げて泣くようなことがあった。
こういう事情は誰も知らなかった。女主人のお富でさえ殆んど知らず、おひろ[#「ひろ」に傍点]だけが女主人の留守に、おぶん[#「ぶん」に傍点]からうちあけられた。
「今年は年まわりが悪いらしい」とお富が床ばらいをしたときにいった、「おまけに来年は厄だから、店がひまなうちに、厄除け参りにいって来ようかね」
それからすぐにおぶん[#「ぶん」に傍点]が倒れたのだが、二十日ばかり経ち、おぶん[#「ぶん」に傍点]のおちついたようすを認めると、同じ土地の女主人たち三人とさそいあわせて、呑竜《どんりゅう》様で知られた上野《こうずけ》のくに太田の、大光院へ参詣《さんけい》にでかけた。
「頼むわよ」とお富はお金と帳面をおひろ[#「ひろ」に傍点]に預けて云った、「往き帰り七日か八日、おそくも十日めには帰るつもりよ、いいわね」
こんなときにはおひろ[#「ひろ」に傍点]の「武家出」ということが頼みになるらしい。おひろ[#「ひろ」に傍点]は女主人の眼をみつめて、はっきりと頷《うなず》いた。
[#6字下げ]二[#「二」は中見出し]
良助が来たのは、お富がでかけた日の、夜の十時すぎのことであった。
七月中旬で、暦のうえでは秋だが、まだ夏枯れが続いていて、客もあまりなく、おぶん[#「ぶん」に傍点]は共部屋でおひろ[#「ひろ」に傍点]と話しながら、肌着の繕いをしていた。そこは縦に長い六|帖《じょう》で、女たちが食事をしたり休んだり、また泊り客の付かないときに寝たりなどする、共同の部屋であった。
客を送りだしたおけい[#「けい」に傍点]が、薬湯をつかい、着替えた浴衣の帯をしめながら、共部屋へはいって来たとき、うしろからお吉が追って来て、「縁日へゆかないか」とさそった。おけい[#「けい」に傍点]は構わず鏡の前へ坐り、お吉も不決断にはいって来て、窓のところへ横坐りになった。
「いま帰ったお客ったら」とおけい[#「けい」に傍点]は鏡の蓋をとりながら云った、「もっとい(元結)を切って髪の根までさぐってみなければ、機嫌がいいのか悪いのか見当もつかないような人よ」
「へえー」とお吉が云った、「そうすると、つまりどういう人なの」
おけい[#「けい」に傍点]は返事をせずに、眼の隅でおぶん[#「ぶん」に傍点]のほうを見た。おひろ[#「ひろ」に傍点]は櫛の手入れをしており、おぶん[#「ぶん」に傍点]は針を動かしていた。
「あんたそんなことしていていいの、おぶん[#「ぶん」に傍点]ちゃん」とおけい[#「けい」に傍点]が云った、「まだ顔色だってほんとじゃないのに、寝ていらっしゃいよ」
「だいじょぶよ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は微笑しながらおけい[#「けい」に傍点]を見た、「病気じゃないんですもの、もう寝くたびれちゃったのよ」
お吉がふいに思いだし笑いをした。
「ねえ、このまえの人、なんだっけ」とお吉がおけい[#「けい」に傍点]に云った、「袋の中へぎっちり砂利《じゃり》を詰めたような人だったっけかしら、そうだったわね、あの人ほんとにそんなふうな人だったわ、あたし笑っちゃったわ」
おけい[#「けい」に傍点]は白けた顔をした。おひろ[#「ひろ」に傍点]はおぶん[#「ぶん」に傍点]となにかないしょ話をしていて、自分が来たのでやめたこと、自分たちがいなくなるのを待っているのだということが、おひろ[#「ひろ」に傍点]のようすでわかったからである。おけい[#「けい」に傍点]はざっと白粉《おしろい》をはたくと、「縁日へいこうか」とお吉に云った。お吉はすぐに立ちあがり、おひろ[#「ひろ」に傍点]に向って「不動様までいって来ていいか」と訊《き》いた。おひろ[#「ひろ」に傍点]は、あまりおそくならないようにと、二人のほうは見ずに答えた。おけい[#「けい」に傍点]は横眼でおひろ[#「ひろ」に傍点]を見、お吉といっしょに、黙って出ていったが、土間へおりてから、「ねえさん、お店がからになりますよ」とこわ高に云った。
おぶん[#「ぶん」に傍点]は暫くして、そっとおひろ[#「ひろ」に傍点]を見た。
「おけい[#「けい」に傍点]ちゃんどうかしたのかしら」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は興もないという顔で、「おっ母さんは早く亡くなったの」と訊いた。
「あたしが七つのとき」
「それからお父さん、ずっと独りだったの」
「いちど貰ったのよ、いい人だったように思うんだけれど」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は針を動かしながら、ゆっくりと云った、「兄さんがそんなふうだし、お父っさんてひどい子煩悩だったから、あたしたちのことでうまくいかなかったんでしょう、それに、貧乏だったしね」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は櫛を片づけて、それから独り言のように、「いいことないわね」と呟《つぶや》いた。
「いいことないね」とおぶん[#「ぶん」に傍点]が云った、「お父っさんも兄さんも、ほんとにいいことってなかった、まるで苦しいおもいをするために、生れて来たようなものだったわ」
油で汚れた手を拭きながら、おひろ[#「ひろ」に傍点]は「あたしなんか罰が当るわね」と云った、「そういう話を聞くと、あたしなんか罰が当ると思うわ」
「あらどうして」
「親の云うとおりになっていれば、いまごろは武家の奥さまでいられたし、うちの人だって八百石の旗本よ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が云った、「それを、お互いが好きだったからしようがないけれど、世間知らずのお坊ちゃんだったうちの人を、あたしがそそのかしたようなもんでしょ」
「まあ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は眼をみはった、「あたしその話初めて聞いたわ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は眼を伏せ、櫛箱をしまいながら、「あたしも話すのは初めてよ」と云った。武家の出だということだけは云ってあるけれど、「詳しいことはかあさんにも話してないのよ」だって、侍の家に育ったのに、自分から男をそそのかしたなんてこと、恥ずかしくって云えやしないじゃないの。今夜はあんたの話につまされて、つい口がすべっちゃったのよ、「聞かないつもりでいてちょうだいね」と云って、おひろ[#「ひろ」に傍点]はさびしげに微笑した。
おぶん[#「ぶん」に傍点]は「ええ」と頷き、それから思いいったように溜息《ためいき》をついて、「その話をいつかもっと詳しく聞きたいわ」と云った。
「いつかね」とおひろ[#「ひろ」に傍点]がいった、「もうしぼんじまった花だけれど、あんたにはいつか聞いてもらうわ」
おぶん[#「ぶん」に傍点]が「はい」と高い声で返辞した。おひろ[#「ひろ」に傍点]がびっくりして振向くと、おぶん[#「ぶん」に傍点]は膝《ひざ》の上の物をおろし、「お客らしいわ」と云って立ちあがろうとした。しかしおひろ[#「ひろ」に傍点]はそれより早く、自分が出るからいいと云い、おぶん[#「ぶん」に傍点]を制して出ていった。――すぐに、おひろ[#「ひろ」に傍点]と客の問答が、おぶん[#「ぶん」に傍点]のところまで聞えて来た。いま女たちが二人とも留守で、休んでいるこ[#「こ」に傍点]が一人しかいないから、とおひろ[#「ひろ」に傍点]が断わり、客はあげてくれとねばった。女の帰るまで待ってもいいし、「本当は女なんかどっちでもいい」という意味のことを、酔っているらしいが、むきな口ぶりで云っていた。その声を聞いて、おぶん[#「ぶん」に傍点]が立ちあがり、部屋から顔だけ出して、「ねえさん」と呼びかけた。そしておひろ[#「ひろ」に傍点]が振向くと、その眼に頷いてみせた。おひろ[#「ひろ」に傍点]は首を振ったが、おぶん[#「ぶん」に傍点]は大きく頷いてみせ、おひろ[#「ひろ」に傍点]は不承ぶしょうに客をあげた。
おぶん[#「ぶん」に傍点]は客を自分の部屋へ案内し、戻って来て茶を淹《い》れた。
「いいの、おぶん[#「ぶん」に傍点]ちゃん」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が不安そうに訊いた、「あんたまだむりよ、二人が帰るまで待たしとくほうがいいわ」
「だいじょうぶよ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は微笑し、「それに」と口ごもって、また「だいじょぶよ」と、はずんだ声で云った。
その客が良助であった。
良助という名も、年が二十六だということも、それから三日めの晩、つまり二度めに来たとき、聞いたのであるが、こんなところには馴れていないらしく、自分でてれているようすや、口の重い、温和しそうな人柄がおぶん[#「ぶん」に傍点]の心に残った。――彼は痩《や》せているというより、疲れきった人のようにみえた。頬がこけて、皺《しわ》がより、油けのない髪がぱさぱさしていた。幾たびも洗濯した木綿縮《もめんちぢみ》の単衣《ひとえ》に、よれよれの三尺をしめ、草履もはき古して、鼻緒のあぶなくなっている麻裏であった。
その夜、彼が固くなって寝ているので、おぶん[#「ぶん」に傍点]があそばないのかと囁《ささや》くと、彼は首を振って、
「この次だ」と乱暴に云った。
「こんど来たときだ」と彼は云った、「もし来てもよければだがね」
[#6字下げ]三[#「三」は中見出し]
明くる日とその次の日、二日続けて雨が降った。そして三日めの夜、――もう店を閉めようとしていると、良助がはいって来た。
「うれしい」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は彼に囁いた、「来て下さらないかと思ってたわ」
彼の息はひどく酒臭かった。黙って、無表情な顔で、ずいぶん飲んでいるらしいのに、酔っているようにはみえなかった。
「横になりたいんだ」と部屋へとおるなり彼は云った、「済まないが先に床をとってくれ」
おぶん[#「ぶん」に傍点]は夜具を延べて、茶を淹れに戻った。内所にはお吉だけがいて、「ねえさんはお客よ」と云った。古い馴染の材木屋の番頭だそうで、「いまあがったとこよ、おつとめ(花代)はあとで勘定するんですってよ」とお吉はねむそうな声で云った。
茶を持っておぶん[#「ぶん」に傍点]が部屋へゆくと、彼は着たまま、夜具の上へ横になっていた。
「あがりを持って来たわ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は枕許《まくらもと》へ膝をついて云った、「寝衣になっておやすみなさいな、それでは風邪をひいてよ」
彼はあいまいに「うん」と唸《うな》り、それから急に立ちあがった。手洗いにゆきたいのだと云い、おぶん[#「ぶん」に傍点]が教えると、着物の前を直しながら出ていった。――おぶん[#「ぶん」に傍点]は浴衣とひらぐけを出し、夜具を直した。枕が転げているので、置き直したとき、夜具の下になにかあるのに気がついた。手でさぐってみると、長さ一尺三寸ばかりの風呂敷包だったが、触った感じで、おぶん[#「ぶん」に傍点]は眉をひそめた。
「あれだわ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は包を指で触りながら呟いた、「これがあれ、これは匕首《あいくち》、そうよ、これは匕首よ、慥かにそうだわ」
おぶん[#「ぶん」に傍点]は包を取出した。
色の褪《さ》めた紺木綿の風呂敷包は、重たく、ごつごつしていて、中になにが包んであるかよくわかった。おぶん[#「ぶん」に傍点]は立ちあがり、箪笥《たんす》の下の抽出《ひきだし》をあけた。そこには着古した浴衣や端切などが入っている、おぶん[#「ぶん」に傍点]はその包を端切の下へ隠し、その上へ古浴衣を重ねて、抽出をきっちり閉めた。――彼は嘔《は》いたらしい、戻って来た顔は白く、額には汗がふき出ていた。おぶん[#「ぶん」に傍点]は置いてあった茶を取ってやり、「なみの花を持って来ようか」と訊いた。彼は黙って首を振り、窓をあけて、その茶でうがいをした。
「水を貰えるか」
「ええ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は頷いた、「着替えてちょうだい」
「休んでからだ」
彼は夜具の上へ横になったが、すぐに、ぱっとはね起きた。はじかれたような動作ではね起き、夜具の下へ手を入れて、おぶん[#「ぶん」に傍点]のほうを睨《にら》んだ。白く硬ばった顔には、殆んど恐怖に似た表情があらわれ、その眼は怯《おび》えたようにゆらいだ。
「大丈夫、あたしが預かったわ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]がなだめるように云った、「ときどき見廻りが来るのよ、そこではあぶないと思ったから、この箪笥へしまっておいたわ」
彼の肩がゆっくりとおちた。緊張のほぐれてゆくのが見えるようで、彼は「友達のものなんだ」と呟くように云い、財布を出して、定りの花代をおぶん[#「ぶん」に傍点]に渡した。おぶん[#「ぶん」に傍点]が彼に着替えをさせてから、水を取りにゆくと、おけい[#「けい」に傍点]が客を送りだしたところで、お吉が店を閉めていた。
雨のあとのせいか、ひんやりとする夜であった。
彼は仰向けに寝ていたが、おぶん[#「ぶん」に傍点]が横になって暫くすると、「まえにもこんなことがあったのか」と訊いた。
「まえにって、――」
「ああいう物を預かったことが、まえにもあったのか」
「ええ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は頷いた、「あったわ」
「馴染だったのか」
「三度か四たびくらい」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は陰気に答えた、「四たびくらいね、もう四十ちかい年の人だったわ」
彼は口をつぐんだ。やがて、眠ってしまったかと思い、おぶん[#「ぶん」に傍点]がそっと、掛け夜具を直してやると、眼をつむったままで、「そんな客に出るのはいやだろうな」と云った。おぶん[#「ぶん」に傍点]は「そうね」と暫く考えていた。
「そうね」と少し経っておぶん[#「ぶん」に傍点]が云った、「いやっていうより、身につまされるようよ」
「怖くはないのか」
「わからないわ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は答えた、「べつにほかの人と変ったようには思わないわね」
「怖くはないんだな」
「おんなしようよ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は云った、「こういうところへ来る人って、みんな同じような感じよ、云うことやすることは違っていても、みんなどこかしら独りぼっちで、頼りなさそうな、さびしそうな感じがするわ、だからこんな、あたしたちみたいな者のところへ来るんじゃないかと思うの」
「おれは、――あんなような道具を持っている人間のことを、訊いてるんだ」
おぶん[#「ぶん」に傍点]は黙った。
「よくわからないけれど」とやや暫くしておぶん[#「ぶん」に傍点]が云った、「世の中には運のいい人とわるい人があるでしょ、運のいい人のことは知らないけれど、運のわるいほうなら叺《かます》十杯にも詰めきれないほどたくさん知っているわ、そして、男の人がやぶれかぶれになるのも、自分の罪じゃなくって、ほかにどうしようもないからだってことを知ってるわ、だから、そうね、――そんな人に逢うと、怖いっていうよりも泣きたいような気持になってしまうわ」
彼はしんと黙った。おぶん[#「ぶん」に傍点]はきまり悪そうに、「こんなお饒舌《しゃべ》りをしたの初めてよ」と口の中で呟いた。彼はかなりながいこと息をひそめていて、それから、おぶん[#「ぶん」に傍点]というのは本名かと訊いた。
「ええ、このうちではみんな本名よ」
「おれは良助っていうんだ」と彼は云った。おぶん[#「ぶん」に傍点]は「そう」と呟いた。
朝になって帰るとき、彼は「済まないがあれを預かっといてくれ」と云い、顔をそむけるようにして去った。いつもはそれからひと眠りするのだが、その朝はもう横になる気にならず、自分の部屋を片づけたあと、勝手へいって、つくねてあるゆうべの汚れ物を洗ったり、それから、かよいで来る飯炊きのおかね婆さんの来るまえに、釜《かま》へ米をしかけたりした。午後になって、おけい[#「けい」に傍点]に銭湯へさそわれたとき、おひろ[#「ひろ」に傍点]に呼びとめられた、「ちょっと話したいことがある」というので、おけい[#「けい」に傍点]とお吉の二人は出てゆき、おぶん[#「ぶん」に傍点]は残った。
「今日も涼しいわね、このまま秋になっちまうのかしら」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は共部屋へはいってゆきながら、心ぼそいというような口ぶりで云った。そして、火鉢にかかっている湯釜のかげんをみ、茶道具を出して、二人分の茶を淹れながら、おぶん[#「ぶん」に傍点]のほうは見ずに「ゆうべのお客のことなんだけど」と口ごもり、ふいと眼をあげて「あんた好きになったんじゃないの」と訊いた。
「さあ、――」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は首をかしげた。
「あの人しょうばいはなんなの」
おぶん[#「ぶん」に傍点]はまた「さあ」と云った。
[#6字下げ]四[#「四」は中見出し]
彼とは二度しか逢わない。良助という名もゆうべ初めて聞いたのだし、どんな職を持っていたのかも知らない。したがって「好きになった」かどうか、自分でも判断ができなかった。――おひろ[#「ひろ」に傍点]は、それが危ないのだと云った。これまでそんなことはなかっただろうし、こんどだって好きでなければ「好きではない」とすぐに伝える筈である。どちらとも判断がつかないというのは、心の奥で好きになりかかっている証拠なのだ、とおひろ[#「ひろ」に傍点]は云った。
「そうかしら」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は陰気に云った、「あたしぼんやりだからわからないけれど」
「おぶん[#「ぶん」に傍点]ちゃん」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が云った、「ここのうちでは客に惚れることは法度になってるわね、それはしょうばいのためでしょ」
おぶん[#「ぶん」に傍点]は頷いた。
「あたしはしょうばいをはなれて云いたいことがあるの」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は云った、「こういうところへ来る客にはしんじつがないってこと、あんたも知ってるでしょ、あの人たちにしんじつがないとは云わなくってよ、けれどもこういところへ来るときは普通じゃないわ、仕事がだめになったとか、家にごたごたがあるとか、仲のいい友達と喧嘩《けんか》わかれをしたとか、ゆくさきに望みがなくなったとか、それわけがあって、やけなような気持になっていることが多いわ、だから、あそぶことは二の次で、むやみにいばるとか、あまえるとか、だだをこねるとかするでしょ、いつかあたしの出た客で、子守り唄をうたってくれっていう人がいて、あたしひと晩じゅう、知ってる限りの子守り唄をうたったことがあるわ」
「ええ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]が頷いた、「あたしそのときのこと、覚えてるわ」
「その人、――あたしの腕枕で、泣きねいりに眠ったわ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は続けた、「みんながみんなとはいわないけれど、たいていの人が、躯か心かどっちか、傷つくか病むかしていて、ほかでは気もまぎれず慰められもしないのね、こういうところのあたしたちみたいな女、いってみればどんづまりのせかいへ来て、はじめて息がつけるらしい、ちょうど、暴風雨《あらし》に遭って毀《こわ》れかかった船が、風よけの港へよろけこんで来るようなものよ、そう、ちょうどそんなふうなんだと思うわ」
おぶん[#「ぶん」に傍点]はゆっくり頷いた。
――あの人も毀れかかった船のようだ。
良助というあの男も、やっぱり暴風雨に遭って毀れかかっている船に似ている、とおぶん[#「ぶん」に傍点]は心の中で思った。
「港にいるうちは、船は港を頼りにするわ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]はまた続けた、「けれども、暴風雨がしずまり、毀れたところが直れば出ていってしまう、そうして、港のことなんかすぐに忘れてしまうものよ、ほんと、あたしよく知ってるわ、しんじつだと思うのも、ほんのいっときのことよ、露のあるうちの朝顔で、露が乾くと花はしぼんでしまう、――あたしとうちの人の仲だって同じことだわ」
おぶん[#「ぶん」に傍点]は眼をあげた。おひろ[#「ひろ」に傍点]は茶を啜《すす》り、どこか遠くを見るような表情で、「そうよ」と低く云った。
おひろ[#「ひろ」に傍点]は話した。彼女の良人は八百石の旗本の跡取であった。彼女も歴とした武家の娘で、親たちのきめた許婚者がいた。彼女は許婚者を嫌い、良人といっしょになれないなら、死ぬほうがいいと思った。こんなことはありきたりで、決して珍しくはない、しかし彼女はしんけんであった。想う人といっしょになれないくらいなら、「本当に死んでしまおう」と覚悟をきめ、そのことを相手に告げた。相手も同じ気持で、「それならいっしょに逃げよう」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が云い、二人は家を出奔した。それから二年たらず、二人は江戸の隅を転々しながら、夜も昼も酔ったような気持ですごした。
「まる二年とは続かなかったわね」とおひろ[#「ひろ」に傍点]はおもいいったように溜息をついた、「そう、酔っているような楽しいくらしは、一年半とちょっとだったわ、持って出たお金がなくなり、あたしに子供が生れると、たちまち明日の米をどうするか、ということになったの」
町人なら実家へ詫《わ》びをいれることもできる。だが武家では断じて許されない、居どころがみつかれば、伴《つ》れ戻されて尼になるか、わるくすれば自害させられるかもしれない。
――良人も自分も世間を知らず、金がなくなったあとは、売れるだけの物を売ってくらした。自分の髪道具はもちろん、良人の刀まで売ってしまった。そして、良人が病気になった。癆咳《ろうがい》という診断で、高価な薬と、滋養のあるものを喰べさせなければならない。どうしたらそんなことができるか、どうしたら。……良人は「死のう」と云った。自分も死ぬほうがいいと思い、けれども子供が不憫《ふびん》で死ぬ気にはなれなかった。
「死ぬつもりならなんでもできる、そう思ってここへはいったのよ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は、まるでうたうような口ぶりで云った、「それからもうあしかけ五年、月づきの仕送りだけはしているけれど、初めの、二人で家出をしたころのような気持は残ってはいないわ、いまあたしとうちの人をつないでいるのは、月づきの仕送りだけといってもいいくらいよ――、おぶん[#「ぶん」に傍点]ちゃん、どんなにしんじつ想いあう仲でも、きれいで楽しいのはほんの僅かなあいだよ、露の干ぬまの朝顔、ほんのいっときのことなのよ」
おぶん[#「ぶん」に傍点]は黙ってうなだれ、それから、そっとこっくりをした。おひろ[#「ひろ」に傍点]はどこを見るともないような眼で、ぼんやりと向うをみつめた。
まもなくおけい[#「けい」に傍点]とお吉が帰って来たので、おひろ[#「ひろ」に傍点]は「またこの次にしましょ」と、話をやめたが、おかしなことには、話を聞いてから却《かえ》って、良助のことが深く自分の心に残っているのを、おぶん[#「ぶん」に傍点]は感じはじめた。「毀れかかった船」というおひろ[#「ひろ」に傍点]の言葉が、そのままに当嵌《あては》まるように思えた。預かっているあの道具が眼のさきにちらつき、あの道具を渡せば彼は沈んでしまう、「それであの人は沈んでしまう」と心の中で繰り返し呟いた。
――こんど来て、あれを持ってゆくと云ったらどうしよう。
おぶん[#「ぶん」に傍点]は胸が塞《ふさ》がるように感じた。良助の来るのが待ち遠しく、同時に「来なければいい」とも思った。彼のことはなにも知らないが、道具を預けていったのはいちおう思い直したからであろう。思い直して、まじめな職につけたとすれば、当分は来ないに相違ない。暫く来なければまじめな職についた証拠だ、「どうぞ来ないように」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は心で願った。
良助は中二日おいて来たが、その日、彼の来るまえにいやなことがあった。
なにからそんなことになったか知らない、おぶん[#「ぶん」に傍点]が一人おくれて銭湯から帰ると、共部屋でおけい[#「けい」に傍点]とおひろ[#「ひろ」に傍点]がやりあっている声がし、廊下にお吉が立っていて、おぶん[#「ぶん」に傍点]に「はいるな」という眼くばせをした。
「笑わせないでよ」とおけい[#「けい」に傍点]の云うのが聞えた、「あたしちゃんと知ってるんだから」
[#6字下げ]五[#「五」は中見出し]
「云ったらいいじゃないの」とおひろ[#「ひろ」に傍点]がやり返した、「なにを知ってるんだか知らないけれど、云いたかったらさっさと云うがいいわ」
「云ってもいいの、云われて困るようなことはないの」そしてちょっとまをおいて、意地わるく誇張した声で云った、「ねえさん」
おひろ[#「ひろ」に傍点]の嚇《かっ》となるのが見えるようであった。
「云ってごらんよ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が叫んだ、「こんなしょうばいをしていれば、人にうしろ指を差されるようなことの三つや五つ、誰にだってある筈だ、おまえさんそうじゃないのかい」
「お武家育ちにしてはいい啖呵《たんか》じゃないの」とおけい[#「けい」に傍点]が皮肉に云った、「おぶけさまのそだちにしてはね」
「なんだって、――」
「お武家育ちだなんて、ちゃんちゃら可笑《おか》しいっていうのよ」とおけい[#「けい」に傍点]が云った、「自分はれっきとした侍の娘、うちの人は八百石の旗本の跡取だって、ばかばかしい、笑わせないでよ」
「それがどうしたの」おひろ[#「ひろ」に傍点]の声はふるえた、「それがあんたにどんな関係があるの」
「人をばかにしないでっていうのよ」おけい[#「けい」に傍点]は辛辣《しんらつ》に云った、「あんたが武家育ちかどうかぐらい、あたしにはちゃんとわかっているんだから、本当に武家で育ったとしたらね、いくらおちぶれたって立ち居や言葉つきが違いますよ、おじぎ一つ見たってわかるものなのよ、ねえさんはご存じないだろうけれどね」
「そう、そんなことが云いたかったの」
「うちの人が癆咳で、子供があって」と、おけい[#「けい」に傍点]はなお続けた、「月づきずっと仕送っているって、みんな嘘じゃないの、お武家育ちも八百石の旗本も、癆咳の良人や子供のあることも嘘、みんな嘘っぱちよ。月づき仕送りをするなんて云って、稼いだおたからはみんな溜《た》めてるじゃないの。そうじゃないの、――ねえさん」
「いいわ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]がふるえ声で云った、「あんたがそう思いたければそう思ってるがいいわ、ここであんたを云い負かしたって、べつに三文の得がいくわけでもないんだから」
「そうよ、そのほうが利巧よ、口をきくだけぼろが出ますからね」
そこまで聞いて、おぶん[#「ぶん」に傍点]はそっと廊下を通り、自分の部屋へはいった。すると、お吉があとからついて来て、「おけい[#「けい」に傍点]ちゃんて凄《すご》いわね」と云った。おぶん[#「ぶん」に傍点]は鏡に向いながら、「どうしてあんな喧嘩になったの」と訊いた。お吉は肥えた躯を重たそうに、そこへ横坐りになって囁いた。きっかけはつまらないことであった。お吉とおけい[#「けい」に傍点]が銭湯から帰り、共部屋で茶を啜りながら、おけい[#「けい」に傍点]がいつものように客の評をしていた。「ゆうべの二人めのお客ったら可笑しいの」おけい[#「けい」に傍点]がくすくす笑い、「子供のくせにお粥《かゆ》の炊きかたをお婆さんに教えるようなことをするのよ」と云った。するとなにが気に障ったものか、おひろ[#「ひろ」に傍点]が険のある声で、「でたらめもいいかげんにしなさい」と云い、おけい[#「けい」に傍点]が「なにがでたらめよ」とくってかかり、それからやりあいになったということであった。
「どうしたのかしら」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は鏡を眺めながら訊いた、「二人ともいい人だし、これまでずっと仲がよかったのに」
「わけはあるのよ」とお吉が囁いた、「このまえあんたが二十日ばかり寝たでしょ、そのあいだにおひろ[#「ひろ」に傍点]ねえさんが、おけい[#「けい」に傍点]ちゃんの客を取ったことがあるの、おけい[#「けい」に傍点]ちゃんには客があったし、ねえさんは知らなかったっていうんだけれど、それからおけい[#「けい」に傍点]ちゃんすっかりおかんむりなのよ」
「そう、そんなことがあったの」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は太息《といき》をついた、「かなしいわね」
お吉はなおなにか云いたそうだったが、おぶん[#「ぶん」に傍点]はそれを避けるように、「灯をいれるわ」と云いながら立ちあがった。
その夜はおけい[#「けい」に傍点]に一人、馴染の客があがり、お吉にふりの客が一人ついただけで、十時ごろになると、ひやかしの客の姿もなくなり、両隣りと向うの店とは、女たちがぐちを云いあいながら、表を閉めてしまった。――そのとき良助が来た。客を送りだしたお吉が、彼の来たことを知らせたとき、おぶん[#「ぶん」に傍点]ははっとしておひろ[#「ひろ」に傍点]を見た。おひろ[#「ひろ」に傍点]は気づかないようすで、知らん顔をしていた。
「ここでは酒は飲めないのか」と、部屋へはいるなり良助が云った。彼はその晩も酒臭い息をしており、痩せた蒼白《あおじろ》い顔をそむけたまま、「できたら飲みたいんだが」とせがむように云い、握って持っていた金を渡した。おぶん[#「ぶん」に傍点]は「少し待っててね」と云って共部屋へゆき、おひろ[#「ひろ」に傍点]に相談した。渡された金はこまかいのを合わせて、一分二朱あった。
「あんた飲ませてあげたいの」とおひろ[#「ひろ」に傍点]はおぶん[#「ぶん」に傍点]を見た。
おぶん[#「ぶん」に傍点]はためらうように、「わからないわ」と呟き、それから「でも、もしよければ」と口ごもった。
「酒屋はもう閉ってるわよ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が云った、「橋の袂《たもと》に出ているうどん屋へいってごらんなさい、少しぐらいなら分けてくれる筈よ」
おぶん[#「ぶん」に傍点]は「済みません」と云った。
岡場所では原則として、酒を出さないのがきまりだった。ことに「蔦家」はお富が嫌いで、ごく稀《まれ》にしか酒を出したことがない。したがって肴《さかな》の用意などはなかったから、おぶん[#「ぶん」に傍点]は酒といっしょに、そのうどん屋で、卵を二つ買って帰った。そして一つを煎《い》り卵にし、一つを汁にして、燗《かん》をした酒といっしょに、部屋へ持っていった。
「うちでは酒は出さないしきたりなの」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は膳《ぜん》を置きながら云った、「だからお肴がなんにもないのよ、あたしのいたずらで美味くはないでしょうけれど、ごめんなさい」
「済まない」と良助が云った、「肴なんか要らなかったんだ、有難う」
おぶん[#「ぶん」に傍点]は燗徳利を持った。
彼は黙って飲んだ。おぶん[#「ぶん」に傍点]のほうはいちども見ず、ときどき荒い息をしたり、なにか荷物でも背負っていて、それを振り落そうとでもするかのように、骨ばった肩を幾たびも振った。
「あんた、――」とおぶん[#「ぶん」に傍点]がせつなくなって呼びかけた。「あんた、泊っていくんでしょ」
彼は吃驚《びっくり》したように「えっ」といって眼をあげた。突然おどかされたような表情で、しかしすぐに、「いや」と首を振った。
「いや」と彼は云った、「飲んじまったら、帰るよ」
「こんな時刻に、もうすぐ四つ半(十一時)になってよ」
「今夜は帰る、またいつか来るよ」
おぶん[#「ぶん」に傍点]は息を詰めた。彼をじっと見まもりながら、暫く息を詰めていて、それから思いきったように云った。
「あんた、あの道具を持ってゆくのね」
[#6字下げ]六[#「六」は中見出し]
良助の躯がぴくっとひきつった。彼は動かなくなり、持っている盃《さかずき》をみつめて、やがて荒く息をしながら、「やってみたんだ」と低い、呻《うめ》くような声で云った。
「このあいだの晩、おまえの話を聞いて、なんとかならねえものかと思って、あれから三日、とびまわってみたんだ」と彼は一と言ずつ噛みしめるように云った、「けれども、だめだった、おまえの云ったように、おれには運がないんだ、これまでずっとそうだった、いまさらとびまわることはなかったんだ」
「ねえ、お願いよ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]が云った、「あたしに話してみて、膝ともなんとかってことがあるじゃないの、ねえ、話してみて」
彼はそっとおぶん[#「ぶん」に傍点]を見た。
「怒らないでね」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は云った、「あたしあんたが、自分の兄さんのように思えるの、初めての晩あたし休んでいたのよ、ねえさんがそう云ったでしょ、あたしぐあいを悪くして二十日ばかり休んでいたの、だけれども、あんたとねえさんの話すのを聞いていて、あんたの声があたしの兄の声にそっくりなので、ねえさんに出るって云ったのよ」
「そのことは覚えてる」
「こんなしょうばいをしているのに、兄のような気がするなんて云ってはわるいけれど」
良助は強く首を振って、「ばかな」とおぶん[#「ぶん」に傍点]を遮《さえぎ》った、「そんなことがあるか、おれは、おれは押込強盗をやろうとしている人間だ」と彼はしゃがれた声で云った、「こないだの晩あんなに親切にされなければ、もうとっくにやっていたんだ」
「あたし親切になんかしなかったわ」
「あの道具を隠してくれて、それから運のわるい人間のことを話してくれた、押込強盗のような人間でも怖くはない、身につまされて泣きたいような気持になるって、――あんなふうに、しんみに云われたのは、初めてだ、ほんとうに初めてなんだ、ほんとなんだ」
良助は持っている盃のふちを、片ほうの手の指でこすりながら、ぶきような口ぶりで話しだした。いかにもぶきようで、自分でももどかしそうな話しぶりであった。
良助は品川の漁師の子に生れた。彼が四歳のとき、父親が沖で死に、母は彼を伴れて再婚した。義理の父は軽子《かるこ》で、十歳をかしらに五人の子があり、半年ほどすると、母は彼を置いて出奔した。極端な貧乏と、六人の子の面倒をみるのとで、精が尽きたものらしい。近所にいた若い人足と、駆落ちをしたということであった。義理の父はすぐに彼を追いだし、彼は母を捜して街をうろついた。
「おれは五つだった、僅か五つだったんだ」と良助は頭を垂れた、「ちょうど夏のことで、五月ごろだったろう、そんな季節だからまだよかったが、冬だったらこごえ死んでいたろうと思う」
彼は拾い食いをし、よその物置や軒下に寝ながら、秋にかかるまで市中を彷徨《ほうこう》した。そのあいだに覚えたことは、拾い食いや物乞《ものご》いをするのは裏店《うらだな》のほうがいいこと、犬を抱いて寝ると温かいことなどで、そういう犬の一|疋《ぴき》が彼になつき、――それは彼の倍くらいもある、黒斑《くろぶち》の大きなのら犬だったが、五つの彼にずっと付いて歩いたという。まもなく、彼は麻布四の橋で、町木戸の番太にひろわれ、七つになるまでそこの番小屋でくらした。番太は久兵衛といい、頸《くび》に瘤《こぶ》のある老人だったが、彼が七歳になると、赤坂|榎《えのき》町の酒屋へ奉公に出した。もちろん年季奉公で、久兵衛は向う八年分の給銀を先取りしていた。そこの奉公があまり辛いため、耐えかねていちど逃げだしたが、すぐに捉《つか》まり、捉まってから初めて、彼はその事実を知った。
「おれは八つだったが」と云って、良助は言葉を切り、眼をつむった。盃を持っている手に力がはいり、指の節のところが白くなった、「たった八つの子供だったが」と彼は眼をあいてゆっくりと続けた、「その子供の頭でも、おれは売られたのだ、と思った、売られたのだ、ってな」
人別《にんべつ》のことがあるから、年季のあけるまで辛抱したが、そのときすでに人間も世の中も信じられなくなっていた。生みの母親に捨てられ、ひろってくれた老人に売られ、そして、酒屋では年季いっぱい、容赦なくびしびしと働かされた。――十六の年に酒屋を出て、桂庵《けいあん》の世話で青物市場に雇われ、ついで車力になった。人も世も信じられなくなっていた彼は、どこでも折合いがわるく、次つぎと職を変え、二十歳のとき神田大工町の「よし川」という小体《こてい》な料理屋へはいり、そこでおちつくことになった。「よし川」の主人は万吉といい、彼が青物市場にいたとき、買出しに来て知りあったのである。店は小体だが、客筋がよく、かなり繁昌していて、主人の万吉も、お芳という妻も親切にしてくれた。夫婦には子供がなく、万吉が板場をやり、お芳が二人の小女と店を受持っていた。良助は主人と買出しにいったり、材料を洗ったり、あと片づけや掃除や、また下足番、客の送り迎えなど、下廻りをせっせと働いた。
――庖丁《ほうちょう》を持つようになったら給銀をきめよう。
という約束だった。それまでは食い扶持《ぶち》。ぜひ必要な小遣はやるから「遠慮なく云え」とも云われた。彼はここでおちつこうと思った。何年かかってもいい、板前の仕事を覚えて、できたらいつか小さな店を持ちたい。そう思って働き続けた。主人夫婦は親切にしてくれたが、仕事はいつまでも下廻りで、三年経ち、五年経ち、彼は二十六歳になった。そうして彼はふと疑問をもった。夫婦が親切にしてくれるのは、彼を食い扶持だけで使うためではないか、という疑いである。まさかそんなことが、と思い直してみても、どうにも気持がおちつかなくなり、彼は思いきって万吉に当ってみた。万吉はとりあわなかったが、彼はねばった。すると万吉は穏やかな口ぶりで、彼には板前になる素質がないと云った。
――この仕事は勘のものだ、いくら教えても勘のない者はいちにんまえの職人にはなれない、そいつは諦めたほうがいい。
彼は頭がぼうとなり、「それはまえからわかっていたのか」と訊いた。万吉は「おまえわからなかったのか」と意外そうに反問した。そして彼はとびだした。
「その晩、ここへ来たんだ」と良助は暗いほうへ眼をやりながら云った、「一日じゅう街をうろついた、永代橋を渡ると、潮の匂いがし、品川じぶんのことがなつかしくなった、それで、こっちへ来て、門前町で夜になるまで飲んだ」
自分で酒を飲むのは初めてであった。ひどく酔って出ると、また潮の匂いにひかれ、ふらふらと蓬莱橋を渡り、海ばたへ出て、蘆の中へ坐りこんだ。
[#6字下げ]七[#「七」は中見出し]
この「蔦家」へ来るまで、彼は蘆の中に坐って、ぼんやりと暗い海を眺めながら、自分というものに絶望し、すっかりやけな気持になった。
「初めて泊った明くる日、おれはよし川へ帰って給銀を呉《く》れと云った」と良助は続けた、「主人もおかみさんも態度が変っていて、払うようすがなかった、それでおれは組合へ願って出ると云った、すると主人は明日まで待てと云い、明くる日、一両二分よこしたうえ、これで文句をつけるなら、こんどはこっちから強請《ゆすり》で訴えると云った、強請で訴える……、六年も働いて一両二分、それを手でつかんで、店を出ると、おかみさんがうしろから塩を撒《ま》いたっけ」
彼はそこで黙り、片手の甲で眼を拭いた。
塩を撒かれたことで、彼は肚《はら》をきめた。そっちがそうならこっちもと思い、素人考えで押込の道具を買った。それでも二度めに「蔦家」で泊った晩、おぶん[#「ぶん」に傍点]の親切で気持がにぶり、もういちどやってみようと、「よし川」にいたときの客を訪ねたり、桂庵へ当ってみたりした。
「けれどもだめだった、二十六にもなり、手に職のない人間には、しょせん堅気な勤め口はありゃしない、わかるか」と良助はおぶん[#「ぶん」に傍点]を見た、「おれは五つの年から、人に踏みつけられ、ぺてんをくわされて来た、こんどはおれの番だ、この気持がわかるか」
「わかるわ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は頷いた、「よくわかってよ、良さん」
「こんどこそおれの番だ」と彼は呻くように、低く押しころした声で云った、「こんな世間にみれんはありゃあしねえ、取られただけを取返して、あっさりおさらばするつもりだ」
「むりはないわ、むりはないわよ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は指で眼を拭いた、「これまでよくがまんしたほうだと思うわ」
「おぶん[#「ぶん」に傍点]ちゃん、――っていったけな」と彼はおぶん[#「ぶん」に傍点]をみつめた、「おまえ、おれがこんな人間でも、あいそをつかしゃあしねえのか」
「ええ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は頷いた、「あいそをつかしたりなんかしゃあしないわ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は云った、「あたしの身の上だって、あんたよりよくはなかったのよ、もしも兄が満足な躯をしていたら、兄だって良さんのような気持になったかもしれないと思うわ」
「兄さんの躯って、――どこかぐあいでも悪かったのか」
「生れつき片足が蹇《な》えていて、満足に歩くことができなかったんです、でも、こんな話よしましょう」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は頭を振った、「あたしお酒をつけて来るわ」
そして燗徳利を持って立ち上った。
酒の燗をして戻ったとき、おぶん[#「ぶん」に傍点]は眼を泣き腫《は》らしていた。彼女はそれを隠すようにしたが、眼をひどく泣き腫らしていることは、良助にはすぐわかった。彼にはそれがこたえたらしく、衝動的になにか云いかけて、しかし言葉がみつからなかったのだろう、唇をふるわせながら、黙って二つ三つ飲んだ。
「その、――」とやがて彼は訊いた、「兄さんていう人は、いまどうしているんだ」
「死んでしまいました」
「死んだって、――どうして」
「お父っさんを殺して、自分は大川へ身を投げたんです」
彼は「あ」という眼をした。
「お父っさんは卒中で寝たっきり、兄は版木彫りをしていたんです」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は呟くように云った、「足の不自由な者は手がきようだっていうけれど、兄はぶきようなたちで、六七年もやっているのに腕があがらず、よく癇癪《かんしゃく》を起こしてくやし泣きに泣いていました、お父っさんは治るみこみがないし、自分のゆくさきにも望みがない、生きている限り、妹のあたしに苦労させるばかりだと思ったんでしょう、書置もなにもなかったけれど、あたしには兄の気はよくわかりましたわ」
「だって、それじゃあ」と彼は吃《ども》った、「それじゃあおぶん[#「ぶん」に傍点]ちゃんをどうするんだ、それじゃあおまえのこれまでの苦労を、無にするようなもんじゃないか」
「あたしはそうは思わないわ」
「いや違う」と彼は強く首を振った、「妹のおまえにこんな苦労をさせているんだ、版木彫りがだめだとしてもほかになにか職があるだろう、たとえば草鞋《わらじ》を作り、紙袋を貼《は》ったって生きてゆける筈だ」
「あんたはそう思うのね」
「そうでなければ、おぶん[#「ぶん」に傍点]ちゃんの苦労がまるで無になってしまうじゃないか、あんまりそれじゃあ勝手すぎるよ」
「あんたほんとにそう思って、――」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は良助の眼をみつめ、それから、「あたし」と口ごもった、「あたし、わからないけれど、意地わるなこと云って、いいかしら」
良助は黙っていた。おぶん[#「ぶん」に傍点]が喉《のど》で笑いだした。にわかに感情が昂《たか》ぶり、気持が混乱して、自分で自分が制しきれなくなったらしい。く、く、と喉へこみあげた笑いが、そのまま泣き声になるようで、なおおろおろと、言葉を捜し搜し云った。
「あたしじゃない、あんたよ、あたしはこんなこと考えもしなかった、あんたが云ったのよ、いまあんたに云われて、気がついたのよ、良さん」そこでおぶん[#「ぶん」に傍点]の声ははっきり鳴咽《おえつ》に変った、「あんたがもしも、本当にいまのように思うんなら、あたしも同じことをあんたに云いたいわ」
「おれがなにを云った」
「草鞋を作っても、紙袋を貼っても、生きてゆける筈だって、――良さん」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は泣きながら彼の膝をつかんだ、「兄が生きてゆける筈なら、あんたこそ生きてゆける筈よ、あんたには厄介な親もいないし、躯も満足じゃないの、年もまだ若いし、丈夫だし、しようと思えばなんだってできるわ、いいえ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は、なにか云おうとする彼を遮った、「いいえ待って、なにも云わないで、いまはなんにも云わないで、あたしにも本当はよくわからないの、本当はこんな、意地わるなこと云いたくないのよ、でもお願いだから、二人でもういちど考えてみましょう、当分のお金ならあたしがなんとかするわ、お父っさんや兄さんにする代りに、あんたにするわ」
「ばかな、そんなことを」
「ばかなことじゃないわ、あんたいま云ったじゃないの、兄があたしの苦労を無にしたって」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は首を振った、「そんならあんたがな[#「な」に傍点]してちょうだい、あんたならあたしの苦労がな[#「な」に傍点]せる筈よ、ねえ、考えてみると云って、それがいけなければ、もういちどだけ、あの道具を預けておいてちょうだい」
彼は黙ったまま、自分の膝をつかんでいるおぶん[#「ぶん」に傍点]の手を、上から押えた。おぶん[#「ぶん」に傍点]は声をころして嗚咽し、「お願いよ」と囁いた。ごしょう一生のお願いよと囁き、崩れるように彼の膝の上へ俯伏《うつぶ》した。良助は放心したような眼で、上からおぶん[#「ぶん」に傍点]を見おろしていた。
[#6字下げ]八[#「八」は中見出し]
明くる日の午後になって、おぶん[#「ぶん」に傍点]は彼のことをおひろ[#「ひろ」に傍点]に話した。話したくなかったが、前借の相談をするためにうちあけて話すよりしかたがなかったのである。おひろ[#「ひろ」に傍点]は明らかに不承知だった。云わないことではない、という顔つきで、なんども溜息をし、「よしたほうがいい、とんだめにあうよ」と繰り返した。
「そういうのがたいていしまいにはひも[#「ひも」に傍点]になるのよ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は云った、「そんな金はかあさんは貸しゃあしないし、あんただってせっかく身軽になったばかりじゃないの、ここはしっかりして自分のことを考えるときよ」
おぶん[#「ぶん」に傍点]は息をひそめていて、「ねえさんはお武家育ちだから、わからないかもしれないけれど」と、いつものゆっくりした口ぶりで、低く、独り言のように云った。
「たった五つくらいで、おっ母さんを捜しながら、拾い食いをして街を歩いたって、――犬を抱いて寝ると、野宿をしても温かいっていうのよ」おぶん[#「ぶん」に傍点]は畳を指で撫《な》でながら、べそをかくように微笑した、「あの人の倍くらいもある犬が、なついちゃって、ずっといっしょに歩いたっていうわ、五つばかしの小ちゃな子のあとから、黒斑の大きな犬が、この人が頼みだって顔をしてついて歩くの、そのようすがあたしには眼に見えたわ、こんな小ちゃな子が、なにか喰べ物を貰うか拾うかして、それを自分の倍くらいもある犬に分けてやるのよ、いっぱし飼い主らしい、まじめくさった顔つきで、――いまこうしていても、あたしにはそれが眼に見えるようよ、ねえさん」
「いくら武家育ちだって、そのくらいのことはあたしにもわからないことはないわ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が云った、「あたしが云いたいのは、女というものがすぐそういう話に負けて、自分から苦労を背負いこむってことなの、いまあんたはその人にうちこんでいる、その人のためなら、どんな苦労をしてもいいっていう気持だろうけれど、それは長くは続かないのよ、ほんのいっときのことなのよ、おぶん[#「ぶん」に傍点]ちゃん」
「あの人に大事なのはいまなの、いまの、このいっときなのよ、ねえさん」とおぶん[#「ぶん」に傍点]が云った、「たったいま、その横丁を曲るか曲らないかで、あの人が死ぬか生きるかがきまるの、そしてあたしは、ただ、その横丁を曲らせたくないだけなの、それだけなのよ、ねえさん」おひろ[#「ひろ」に傍点]は溜息をつき、「しようがないわね」と呟いた。
二人はお内所で話していた。お吉とおけい[#「けい」に傍点]は共部屋にいたが、少しまえに店へ誰かはいって来、おけい[#「けい」に傍点]が出て、その人と話しているようすだった。こっちの二人は気にもとめなかったが、そのときおけい[#「けい」に傍点]がいそぎ足にやって来て、障子をあけながら、「みの家のかあさんよ」と云った。「みの家」というのは、この土地で同じしょうばいをやっており、女主人はお富といっしょに、呑竜様へいった筈である。おひろ[#「ひろ」に傍点]は振返った。
「うちのかあさん、向うで寝こんでるんですって」とおけい[#「けい」に傍点]は云った、「呑竜様までいかないうちに病みだして、がまんしてたんだけれど、帰りに館林っていう処《ところ》へまわったら、そこで倒れてしまったんですって」
「それで、――いいわ、あたしが出るわ」
「みの家のかあさんはもう帰ったわ」とおけい[#「けい」に傍点]が云った、「花の家のかあさんがあとに残ってるそうだけれど、誰かすぐにお金を届けてもらいたいっていったわ」
「お金を、その館林までかい」
「もちろんよ、館林の武蔵屋っていう宿屋ですって」
医者の診断では、まえの腸の病気がぶり返したので、「少し長くかかりそうだ」と云ったそうである。おぶん[#「ぶん」に傍点]はその話を脇で聞きながら、いまこのときに、と思って絶望した。
――こんなときにかあさんが病気になるなんて。これで良助の話もおしまいだ。おぶん[#「ぶん」に傍点]はそう思い、気のぬけたような顔で、二人の話すのをぼんやり眺めていた。
「済まないけれどあんたいってちょうだい」とおひろ[#「ひろ」に傍点]がおけい[#「けい」に傍点]に云った、「あたしは店を頼まれたから出られないわ、館林といっても、駕籠《かご》でゆくんだからそう苦労じゃないでしょ」
「あたしが、ねえさん」とおけい[#「けい」に傍点]は驚いたように訊き返した、「あたしがゆくの、あたしでいいの」
「あんたよ、ほかにいないじゃないの」
「だって、――」とおけい[#「けい」に傍点]は妙な声で口ごもった、「だってねえさん、あたしをやって、もしもそのお金を、持ったまま逃げるってこと、心配しなくって」
「しないわ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が云った、「あたしあんたの性分を知ってるもの」
おけい[#「けい」に傍点]は微笑し、「いいわ」と頷いて、顔をそむけた。微笑した唇が歪《ゆが》んで、いまにも泣きだしそうにみえた。
「いそぐほうがいいわ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]がせきたてた、「お吉ちゃんに駕籠を呼んでもらって、あんたはすぐに支度してちょうだい、あたしお金を包んどくわ」
そしておひろ[#「ひろ」に傍点]は立ちあがった。
――おけい[#「けい」に傍点]ちゃんどうしたのかしら。
どうして泣きそうな顔なんかしたのかしら。そう思いながら、おぶん[#「ぶん」に傍点]は自分の部屋へ戻った。そこにいても用はなさそうだし、役に立とうという気持も起こらなかった。部屋へはいって窓をあけ、坐って窓框《まどがまち》に凭《もた》れながら、「そろそろお湯へゆくじぶんね」と呟いた。なま温かい風がかなり強く吹いており、空は重たく曇っていた。
「たか[#「たか」に傍点]ちゃん干し物をしまいな」と隣りの松葉家の女が云っていた、「風が強くって飛んじゃいそうだし、降ってくるかもしれないよ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]が覗《のぞ》きに来るまで、おぶん[#「ぶん」に傍点]はそのままぼんやり坐っていた。小半刻《こはんとき》も経ったであろうか、肩を叩かれて振向くと、おひろ[#「ひろ」に傍点]が来ていた。風の音がひどいので、呼ばれたのが聞えなかったらしい。おひろ[#「ひろ」に傍点]は、「お湯へゆきましょう」と云った。空もようがおかしいから降りださないうちにいって来よう、というのである。おぶん[#「ぶん」に傍点]は「そうね」と気のない返辞をした。おひろ[#「ひろ」に傍点]は窓を閉めて坐った。
「あんたかあさんのこと、いま聞いたでしょ」
「ええ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は頷いた、「わかったわ」
「あたしいまみの家さんへいって、ようすを聞いて来たの」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が云った、「その話によると、途中で水にあたったらしいのよ、それをむりしたもんだから、すっかりこじらしちゃったんですって、ことによると二三十日かかるんじゃないかっていうのよ」
「わかったわ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は頷いて、おひろ[#「ひろ」に傍点]を見た、「もうおけい[#「けい」に傍点]ちゃんはでかけたの」
「わかってくれるわね、お金が出せないってこと」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が云った、「二三十日もかかるとすると、また届けなければならないかもしれないし」
「わかったわ、いいのよねえさん」
「その――良さんて人、あんたのお金をあてにしていたの」
おぶん[#「ぶん」に傍点]は「いいえ」と首を振った。
[#6字下げ]九[#「九」は中見出し]
「いいえ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は云った、「まだ少し持っているし、桂庵を廻ってみるって、あたしにはお金の心配なんかするなって云ってたわ」
「お湯へゆきましょう」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は立ちあがった、「早くしないと降ってきそうよ」
おぶん[#「ぶん」に傍点]は疲れたように立ちあがった。
雨が降りだしたのは、夜の八時ごろであった。夕方からしけもようのせいか、この町へはいって来る客もなく、九時すぎると、あたりの店は次つぎと表を閉めだした。お吉はおちつかないようすで、立ったり坐ったりしながら、「おけい[#「けい」に傍点]ちゃん途中で降られてるわね」とか、「知らない宿屋で心ぼそいでしょうね」などと、しきりにおけい[#「けい」に傍点]のことを心配していた。
――あの人どうしたかしら。
おぶん[#「ぶん」に傍点]は良助のことを考えていた。
自分がおけい[#「けい」に傍点]なら、あの金を持って逃げたかもしれない。そして良助と二人で、どこか遠くへいって、二人だけで世帯を持ったかもしれない。そうかしら、「ばかね」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は心の中で苦笑した。だってどうして良さんと逢うの、いま良さんがどこにいるか、わかりゃしないじゃないの。それに、あたしにそんな度胸がある筈がないわ。そうよ、「そんな度胸があるもんですか」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は思った。
「おけい[#「けい」に傍点]ちゃん面白いこと云ってたわ」とお吉がおひつに云った、「着物を着替えながらよ、ねえさん、ねえさんにあんたの性分を知ってるって云われたときね、――ちょうどなにか喰べちゃったあとで、その中に毒がはいってたって、云われたみたいな気持がしたって」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は黙って、帯の繕いをしていた。
十時になると、店を閉めて寝ることにした。風は弱くなったが、雨はどしゃ降りで、お吉の部屋で雨漏りがするらしく、手桶《ておけ》だとか金盥《かなだらい》だとかいって、騒ぐのが聞えた。――おぶん[#「ぶん」に傍点]は良助のことが気になり、ことによると来るのではないかと思って、十二時の鐘を聞いてからも、かなり長いこと眠れなかった。
夜の明けがたから、暴風雨になった。
凄いような烈風と豪雨で、それが夕方になってもやまず、佃町の端にある漁師の家が倒れたとか、不動様の大屋根の瓦が飛ばされたとか、どこそこの橋が流された、などという噂《うわさ》が伝わって来た――お吉は「これじゃあお湯屋さんへもいけないわねえ」と暢気《のんき》なことを云っていたが、日が昏《く》れてしまい、ますます激しくなる雨風の音を聞いていると、しだいに不安になったようで、「あたしちょっとようすを見てくるわ」と云いだした。
「危ないからおよしなさい」とおひろ[#「ひろ」に傍点]がとめた、「この風ではなにが飛んで来るかわからないじゃないの、少しおちついて坐ってらっしゃいな」
だがお吉は出ていった。尻端折をし、頭から雨合羽《あまがっぱ》をかぶり、はだしでとびだしていった。まもなく飯炊きの婆さんが、「帰ってもいいでしょうか」と訊きに来て、風はもうまもなくやむだろうと云った。おひろ[#「ひろ」に傍点]が「水は大丈夫かしら」と訊くと、婆さんは「ここは大丈夫だ」とうけあうように云った。竪川《たてかわ》のまわりや八間堀あたりはすぐに水が浸《つ》くけれども、このくらいのしけ[#「しけ」に傍点]でここが水に浸かったことはない、二十年ぐらいまえにいちどあったが、「それも床下まででしたよ」と云って、帰っていった。
――それからかなり経って、お吉がずぶ濡れになって戻った。風で合羽を吹き飛ばされたそうで、頭からぐっしょり濡れ、土間へはいって来るなり、泣き声をあげて、「大変よ、ねえさん、逃げなくちゃだめよ」と叫びたてた。
「黒江橋も八幡橋も落ちちゃって、永代のほうへはいけないのよ」とお吉が云った、「近所でもみんな逃げ始めてるわ、早く逃げないと大変よねえさん」
そして、おひろ[#「ひろ」に傍点]のおちついたようすを見ると、「あたし先に逃げるわ」と云い、濡れた躯で、はだしのまま自分の部屋へとびこんでいった。おぶん[#「ぶん」に傍点]はおひろ[#「ひろ」に傍点]を見た。おひろ[#「ひろ」に傍点]は舌打ちをし、「大きななりをして、――」と呟いたが、ふとおぶん[#「ぶん」に傍点]の眼に気がつき、「あんたもいっしょにいったらどう」と云った。
「ねえさんは」とおぶん[#「ぶん」に傍点]が訊いた。
「あたしはだめよ、あたしは店を預かってるんだもの」とおひろ[#「ひろ」に傍点]はおちついていた、「こんな雨風ではもう荷物だって出せやしないし、店をあけて出るわけにはいかないわ」
「あたしもいるわ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は云った、「水は大丈夫だって、いま婆やさんが云ってたし、婆やさんはこの土地の人ですもの、大丈夫だと思うわ」
「そりゃあ、あたしだって大丈夫だとは思うけれど、でも――」とおひろ[#「ひろ」に傍点]はおぶん[#「ぶん」に傍点]の眼を見まもった、「あんたもしかしたら、良さんという人が来るとでも思ってるんじゃないの」
「わからないわ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は眼を伏せた。
「もしもそうなら逃げるほうがいいわよ」
「どうして、――」
おひろ[#「ひろ」に傍点]が「あたしは来ないと思う」と云いかけると、お吉が大きな風呂敷包を背負って出て来た。おひろ[#「ひろ」に傍点]は吃驚したように、「まあ」と声をあげた。あんたそんな大きな物をどうするの。だって、とお吉は泣き声で云った。だって大水になれば流されちゃうじゃないの。ばかねえ、そんなに背負い出したって、この雨では堀を渡るまでに濡れちまうわ、同じことだから置いてゆきなさいな。だって、おけい[#「けい」に傍点]ちゃんの物もあるのよ。いいから置いてゆきなさい、どっちみち水浸しになるのなら、わざわざ重いおもいをすることないじゃないの、ばかな人ねえ、とおひろ[#「ひろ」に傍点]が云った。しかしお吉は背負って出た。流されてしまえばおしまいだけれど、濡れるだけなら「しみだし[#「だし」に傍点]にやればいい」と云い、頭から手拭をかぶって、肥えた躯をよろよろさせながら、出ていった。「ばかな人ねえ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が云った、「どこへ逃げるつもりかしら」
それが七時ごろのことであった。
向うの甲子家から女が来、みの家から人が来た。いずれも「逃げよう」というさそいだったが、おひろ[#「ひろ」に傍点]は「もう少しようすをみる」と断わった。九時ごろに二人で食事をし、「寝るわけにもいかないわね」などと云っているうちに、夜番の金さんという老人が来て「畳をあげるほうがいい」と云った。十二時ごろが満潮だから、ことによると高潮が来るかもしれない。大川の上《かみ》のほうから来る水なら、却ってここは大丈夫だが、海から高潮が来ると危ない。自分が手伝うから、念のために畳をあげておこう、そう云って二人を立たせた。
それから約半刻、共部屋へ箪笥《たんす》を二|棹《さお》移し、その上へ畳を積み、さらにその上へ、箪笥から抜いた抽出や、衣類の包や、飯櫃《めしびつ》や食器などをあげた。金さんは満足そうに、もしも水が浸いたら、その畳の上へあがっていればいい、「まさかそこまで浸く水もないだろう」と云って、吹降りの中を去っていった。――そして午前一時ごろ、金さんの心配した高潮が来た。
それは普通の出水とは違っていた。
お内所に一帖だけ残した畳の上で、二人が茶を啜っていると、急に風がやみ、雨の音がまばらになった。おぶん[#「ぶん」に傍点]が「あら、風がやんだわ」と云い、おひろ[#「ひろ」に傍点]が「雨も小降りになったじゃないの」と云った。風は吹き返して来たが、まもなく本当におさまり、雨もすっかり小降りになった、「やれやれ、人騒がせなことをするわ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が欠伸《あくび》をし、「まるでばかにされたみたいじゃないの」と云いかけて、はっと口をつぐんだ。
風がやんで、急にしんとなった戸外の、かなり遠いところで、早鐘の鳴る音が聞えたのである。ほかの音ではない、慥かに早鐘である。おひろ[#「ひろ」に傍点]は立って廊下へ出た。おぶん[#「ぶん」に傍点]は坐っていたが、すぐ裏手で人の声がし、ざぶざぶと、水の中を歩くような音が聞えた。
「そうだ、八幡様だ」と裏で云っていた、「いそいでな、――八幡様だぞ」
そこへおひろ[#「ひろ」に傍点]が戻って来た。
「土間が水よ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が云った、「土間が水でいっぱいよ、高潮らしいわ」
[#6字下げ]十[#「十」は中見出し]
おひろ[#「ひろ」に傍点]とおぶん[#「ぶん」に傍点]は屋根の上にいた。
まだ午前二時ごろであろう、押して来た水は静かだったが、信じられないほどの早さで嵩《かさ》を増し、二人が引窓から屋根へぬけだすまでに、半刻とは経っていなかった。――おひろ[#「ひろ」に傍点]はあがってしまい、おぶん[#「ぶん」に傍点]はおちついていた。暴風雨はきれいに去って、空には星がきらめいていた。おそらく、ほかにも屋根に登っている者があり、それを拾ってまわるのだろう、門前町の向うのほうで、櫓《ろ》の音や人の呼び交わす声が聞えた。おひろ[#「ひろ」に傍点]はそのたびに立ちあがって、声いっぱいになんども叫んだ。声のかれるほど叫んだが、こっちへ舟の来るようすはなかった。
水は軒まで浸いていて、ときどき家ぜんたいが身ぶるいをし、ぎしぎしときしんだ。
「いいわよ、ねえさん」とおぶん[#「ぶん」に傍点]が云った、「呼んだって聞えやしないわ、水だってこれ以上あがりゃしないわよ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は腰をおろし、あたりを眺めながら「みんな逃げたのね」と呟いた。前も、左右も、軒まで水に浸かった屋根ばかりで、星明りに見えるその、ひっそりとした無人の屋根が、(見馴れないためだろうが)ひどくぶきみに思えた。
「おぶん[#「ぶん」に傍点]ちゃん」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が調子の変った声で呼びかけた、「あんたこのあいだ、おけい[#「けい」に傍点]ちゃんの云ったこと聞いたでしょ」
おぶん[#「ぶん」に傍点]は振向いて、おひろ[#「ひろ」に傍点]を見た。
「あたしが嘘をついてるって、武家育ちだっていうのは嘘だってこと」とおひろ[#「ひろ」に傍点]はしゃがれた声で云った、「旗本の跡取と駆落ちしたことも嘘だって、あたしには良人も子供もないし、仕送りをしているっていうのも嘘だって、おけい[#「けい」に傍点]ちゃんの云うの聞いたわね」
「聞いたわ」おぶん[#「ぶん」に傍点]は頷いた、「おけい[#「けい」に傍点]ちゃんどうかしていたのよ」
「いいえほんとなの、ほんとだったのよ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が遮った、「おけい[#「けい」に傍点]ちゃんの云うとおり、あたしは武家育ちでもなんでもないし、病気の良人も子供もありゃあしないの、仕送りするなんていって、稼いだものをみんな溜めている。っていうことも本当なのよ」
「だって、ねえさん」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は不審そうにおひろ[#「ひろ」に傍点]を見まもった、「だってそんなこと、あたしそんなこと本気にできやしないわ」
「恥ずかしいけれど本当だったのよ」
「わからないわ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]が云った、「もしそうだとして、それがねえさんの得になるわけじゃないでしょ」
「生きる頼りよ、生きる頼りだったの」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が云った、「初めは人からばかにされないために、拵《こしら》えた嘘だったけれど、しまいには自分でも本当のように思えてきたの、おけい[#「けい」に傍点]ちゃんにああ云われるまでは、自分が本当に武家育ちで、病気の良人と子供に、仕送りをしているんだっていう気持がしていたの、それがあたしの、たった一つの生きる頼りだったのよ」
おぶん[#「ぶん」に傍点]は黙っていて、それから、「でも」とおひろ[#「ひろ」に傍点]に訊いた。
「でもどうして、いまあたしにそんなことを云うの」
「云いたくなったの、嘘をついたままで死にたくなかったからよ」
「死ぬって、――ねえさん」
「たとえばの話よ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は水面を見やった、「もしかしてこの水で、もちろんそんなことはないだろうけれど、でももしかということがあるから」
おぶん[#「ぶん」に傍点]が「黙って」と手をあげた。
暗がりの向うに「おーい」という声がし、ぱしゃぱしゃと水を掻《か》く響が聞えた。おーい、とその声は叫んだ。「蔦家の人いるか」と叫ぶのが聞えた。おぶん[#「ぶん」に傍点]はあっと声をあげ、「良さんだわ」と云って立ちあがった。
「良さん」とおぶん[#「ぶん」に傍点]が絶叫した、「こっちよ、良さん、あたしいるわよ」
おぶん[#「ぶん」に傍点]はふるえだした。足が滑りそうになり、片手で棟を支えた。
「あの人来たわ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]はふるえながら夢中のように呟いた、「あの人来てくれたわ、やっぱり来てくれたわ」
そして繰り返し、良助に叫びかけ、水音はこっちへ近よって来た。それはじれったいほどのろく、ぱしゃぱしゃと水音をさせながらようやく近くなり、やがてそこへ来た。
「待ってたのよ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]が云った、「良さんが来るだろうと思って、あたし待ってたのよ」
舟が軒にどしんと着いた。それは海苔採《のりと》りに使う小さな平底舟で、彼は棹でも櫓でもなく、櫂《かい》を持っていた。良助は、「こんな物で漕《こ》いで来たんだよ、櫓が使えないからね」と云った、「まさかいようとは思わなかったけれど、それでも念のためにと思ってね」
「うれしいわ、うれしいわ良さん」おぶん[#「ぶん」に傍点]は手を伸ばしながら泣き笑いをした、「あたしもう逢えないかと思ってたのよ」
良助は片手で屋根につかまり、足で舟を支えながらおぶん[#「ぶん」に傍点]の手を握って、「お」といった、「おまえだけじゃないんだな」
「おひろ[#「ひろ」に傍点]ねえさんよ」
「そいつは――」と彼は口ごもった、「おれは舟が漕げねえし、この小さな舟で三人となると」
「あたしはいいのよ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が首を振り、「いいえいいの」と、おぶん[#「ぶん」に傍点]がなにか云いかけるのを強く遮った、「あたしは店を預かった責任があるもの、いいからおぶん[#「ぶん」に傍点]ちゃんいってちょうだい」
おぶん[#「ぶん」に傍点]は「だってそんなこと」と泣き声をあげ、おひろ[#「ひろ」に傍点]は寄って来て、片手でおさんの肩をつかみ、「よく聞いて」とその耳へ口をよせていた。
「この水の中を来てくれたこと、忘れちゃあだめよ、これが、しんじつっていうものよ、おぶん[#「ぶん」に傍点]ちゃん、あたしいつか、なにもかも露の干ぬまのことだなんて、きいたふうなこと云ったわね、あれは取消してよ」おひろ[#「ひろ」に傍点]の喉が詰り、くっといって、なお続けた、「あたしにはそうだったけれど、そうでない場合だってある、あんたはきっとそうじゃないわ、――二人でやってみるのよ、二人で、わかるわね」
おぶん[#「ぶん」に傍点]が「ねえさん」と云い、おひろ[#「ひろ」に傍点]は持っていた財布を、おぶん[#「ぶん」に傍点]のふところへ押込んだ。その財布はかなり重く、おひろ[#「ひろ」に傍点]は「あたしの溜めたものよ」と囁いた。「二人の役に立ててね」と囁き、それから良助に向って、おぶん[#「ぶん」に傍点]を乗せるようにと云った。
「すぐほかの舟をよこします」と良助はおひろ[#「ひろ」に傍点]に云った、「すぐによこしますから待っていて下さい、さあ、――おぶん[#「ぶん」に傍点]ちゃん」
おぶん[#「ぶん」に傍点]はさからったが、おひろ[#「ひろ」に傍点]に押され、良助にどなられて、半ばむりやりに舟へ乗せられた。
「頼んだわよ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が叫んだ、「良さん、おぶん[#「ぶん」に傍点]ちゃんを頼んだわよ」
良助の答える声より、おぶん[#「ぶん」に傍点]の泣き声のほうが高かった。その泣き声と、ぱしゃぱしゃという、やかましい水音が、しだいに遠のいてゆき、おひろ[#「ひろ」に傍点]はまた、屋根の上へ腰をおろした。
「一人ぼっちね」とおひろ[#「ひろ」に傍点]はゆっくりあたりを眺めまわし、それから空を見あげて呟いた、「――お星さまがきれいだこと」
底本:「山本周五郎全集第二十七巻 将監さまの細みち・並木河岸」新潮社
1982(昭和57)年8月25日 発行
底本の親本:「オール読物」
1956(昭和31)年12月号
初出:「オール読物」
1956(昭和31)年12月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)佃町《つくだまち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|刻《とき》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#6字下げ]
-------------------------------------------------------
[#6字下げ]一[#「一」は中見出し]
その土地の本来の名は佃町《つくだまち》というのだが、たいていの者が「あひる」と呼んでいた。そこは深川の南の端で、海とのあいだに広く、芦原《あしはら》や湿地がひろがっており、晴れた日には海の向うに上総《かずさ》から安房《あわ》へかけての、山や丘を眺めることができた。――北側は堀で、蓬莱《ほうらい》橋というのを渡ると永代門前町になり、びっしりと建てこんだ家並のかなたに、深川八幡の高い屋根や、境内の森の梢《こずえ》が見える。その界隈《かいわい》には仲町、櫓下《やぐらした》、松本町など、料理茶屋や岡場所が多く、また、川向うとは違った意気で知られた、「羽折芸妓」などもいて、深川ではもっとも繁華な町であった。
通称「あひる」と呼ばれる佃町は、その繁華な町と堀ひとつ隔てているだけだが、いかにも地はずれの感じで、芦や雑草の生えた中に、三四十棟の家が不規則に建っており、空気にはいつも潮の香が強く匂っていた。「あひる」は土地の通称であると同時に、そこにある娼家の呼び名でもあった。仲町や松本町からあふれ出たものが、いつかそこへ根をおろしたのであろう。家数は絶えず増減しているが、多くても二十軒にはならなかったし、少ないときには六七軒になってしまうこともあった。――これらの中で、「蔦家《つたや》」だけが動かなかった。主人は女で、名はお富といい、年は三十二になる。もと新吉原で稼《かせ》いでいたという噂《うわさ》もあるが、真偽のほどはわからない。躯《からだ》の肥えた、まる顔の、おっとりとした性分で、ちょっと見たところでは娼家の女主人などとは思えないような、おちつきとおうようさが感じられた。みかけばかりでなく、ぜんたいとして彼女はおうような性分であったが、芯《しん》にはびっくりするほど打算的で冷静な、きついところがあり、一例をあげると、決して男をよせつけなかった。
「蔦家」を始めたころ、お富のとこへ一人の老人がかよって来た。せいぜい月に一度か二度、必ずなにかしら手土産を持って来て、一|刻《とき》ばかり静かに酒を飲むと、帰っていった。その老人がお富を廓《くるわ》からひかせ、「蔦家」の店を出させたのだといわれていたが、これも事実かどうか不明だったし、その老人が死んでからは、もう五年以上にもなるのに、一人の男も近よせなかった。親類もあるのかないのか、それらしい人間の出入りもない。ただ、去年あたりから月に一度ぐらいの割で、どこかへでかけてゆき、ときには泊って来るようになった。どこへゆくのかわからない。女たちは初め、よそに男がいるのだろうと思い、次には男を買いにゆくのだ、ということにきめていた。それは、その外出がいつも毎月のこと[#「こと」に傍点]の前後に当っていたからであるが、これもまた女たちの想像であって、慥《たし》かなことはわからなかった。
「あたしは浮気者やだらしのない女は置かないよ」とお富は云っていた、「少しぐらい縹緻《きりょう》が悪くっても、頭のいい、しまりのある女でなければだめさ、これはしょうばいなんだからね、客を気持よく遊ばせて、深入りをさせず、ながつづきのする馴染をつくるには、頭がよくて機転がきかなければいけない、それには銭金《ぜにかね》にしまりのあることが第一さ」
浮気者やだらしのない女は、自分の好き嫌いで客をふったり、こっちから惚《ほ》れこんだりするし、すぐひも[#「ひも」に傍点]付きになったりして、結局いい馴染客ができない、というのであった。「蔦家」にはいま女が四人いる。二十五になるおひろ[#「ひろ」に傍点]、二十一歳のお吉、二十歳のおぶん[#「ぶん」に傍点]、同じ年のおけい[#「けい」に傍点]、という顔ぶれであるが、四人とも女主人とどこか共通点があって、「蔦家」は他のどの店よりもうまいしょうばいをしていた。
おひろ[#「ひろ」に傍点]はいちばん年長で、また最古参でもあり、つねに五人か六人の、いい馴染客をもっていて、年が老けているのに、誰よりもよく稼いだ。店へはいって一年ほど経ったとき、おひろ[#「ひろ」に傍点]が「武家」の出であり、「病身の良人《おっと》と子供が一人ある」ということを知って、お富はちょっと首をかしげた。そういう素姓の女はお富には好ましくなかったのであるが、しかし、よく稼ぐのは「仕送り」をする必要があるからで、そのために客も大事にするし、始末もいいとなれば、文句はなく、やがてすっかりおひろ[#「ひろ」に傍点]を信用するようになった。
他の三人はさして特徴はない。お吉は肥えていて陽気なほうだし、おぶん[#「ぶん」に傍点]は少しばかり陰気で、温和《おとな》しい一方だった。おけい[#「けい」に傍点]は利巧で軽口がうまく、いつも巧みに客の評をしては、みんなを笑わせるというふうであった。――お富は彼女たちにほぼ満足していた。よその店ではしばしば女に逃げられたり、ひも[#「ひも」に傍点]付きの女を置いて辛きめにあったりしたが、「蔦家」ではそんなことはなかった。お富は女たちを大事にした。どの部屋もきれいに道具を揃《そろ》えてやり、食事も滋養のある美味《うま》い物を喰《た》べさせ、また病気の予防にはうるさいほど気をくばって、つねに注意することを怠らなかった。
その洪水のあった甲申《きのえさる》の年には、さすがの「蔦家」にもいやなことが重なった。まずお富が腸を病んで、春さきから夏いっぱい、寝たり起きたりしていたし、ようやく彼女が床ばらいをすると、おぶん[#「ぶん」に傍点]の家に間違いが起こり、そのためにこんどはおぶん[#「ぶん」に傍点]が、二十日ばかり寝るようなことになった。おぶん[#「ぶん」に傍点]の兄の増次が、病気の父親を殺し、自分も大川へ身を投げて死んだのである。――屋根屋の職人だった父は、三年まえに卒中で倒れ、半身不随のまま療養してい、増次は生れつき片足が不具であった。右の足が萎《な》えてしまって、十二三まで独りで歩くことができず、杖《つえ》を使うようになってからも、隣り町まで往復するのが精いっぱいであった。また彼は神経質なわりに不器用なたちで、自分は版木職人になるつもりだったし、ずいぶん熱心にやっていたが、思うように腕が進まず、癇癪《かんしゃく》を起こしてよく版木を叩き割ったり、道具を投げて泣くようなことがあった。
こういう事情は誰も知らなかった。女主人のお富でさえ殆んど知らず、おひろ[#「ひろ」に傍点]だけが女主人の留守に、おぶん[#「ぶん」に傍点]からうちあけられた。
「今年は年まわりが悪いらしい」とお富が床ばらいをしたときにいった、「おまけに来年は厄だから、店がひまなうちに、厄除け参りにいって来ようかね」
それからすぐにおぶん[#「ぶん」に傍点]が倒れたのだが、二十日ばかり経ち、おぶん[#「ぶん」に傍点]のおちついたようすを認めると、同じ土地の女主人たち三人とさそいあわせて、呑竜《どんりゅう》様で知られた上野《こうずけ》のくに太田の、大光院へ参詣《さんけい》にでかけた。
「頼むわよ」とお富はお金と帳面をおひろ[#「ひろ」に傍点]に預けて云った、「往き帰り七日か八日、おそくも十日めには帰るつもりよ、いいわね」
こんなときにはおひろ[#「ひろ」に傍点]の「武家出」ということが頼みになるらしい。おひろ[#「ひろ」に傍点]は女主人の眼をみつめて、はっきりと頷《うなず》いた。
[#6字下げ]二[#「二」は中見出し]
良助が来たのは、お富がでかけた日の、夜の十時すぎのことであった。
七月中旬で、暦のうえでは秋だが、まだ夏枯れが続いていて、客もあまりなく、おぶん[#「ぶん」に傍点]は共部屋でおひろ[#「ひろ」に傍点]と話しながら、肌着の繕いをしていた。そこは縦に長い六|帖《じょう》で、女たちが食事をしたり休んだり、また泊り客の付かないときに寝たりなどする、共同の部屋であった。
客を送りだしたおけい[#「けい」に傍点]が、薬湯をつかい、着替えた浴衣の帯をしめながら、共部屋へはいって来たとき、うしろからお吉が追って来て、「縁日へゆかないか」とさそった。おけい[#「けい」に傍点]は構わず鏡の前へ坐り、お吉も不決断にはいって来て、窓のところへ横坐りになった。
「いま帰ったお客ったら」とおけい[#「けい」に傍点]は鏡の蓋をとりながら云った、「もっとい(元結)を切って髪の根までさぐってみなければ、機嫌がいいのか悪いのか見当もつかないような人よ」
「へえー」とお吉が云った、「そうすると、つまりどういう人なの」
おけい[#「けい」に傍点]は返事をせずに、眼の隅でおぶん[#「ぶん」に傍点]のほうを見た。おひろ[#「ひろ」に傍点]は櫛の手入れをしており、おぶん[#「ぶん」に傍点]は針を動かしていた。
「あんたそんなことしていていいの、おぶん[#「ぶん」に傍点]ちゃん」とおけい[#「けい」に傍点]が云った、「まだ顔色だってほんとじゃないのに、寝ていらっしゃいよ」
「だいじょぶよ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は微笑しながらおけい[#「けい」に傍点]を見た、「病気じゃないんですもの、もう寝くたびれちゃったのよ」
お吉がふいに思いだし笑いをした。
「ねえ、このまえの人、なんだっけ」とお吉がおけい[#「けい」に傍点]に云った、「袋の中へぎっちり砂利《じゃり》を詰めたような人だったっけかしら、そうだったわね、あの人ほんとにそんなふうな人だったわ、あたし笑っちゃったわ」
おけい[#「けい」に傍点]は白けた顔をした。おひろ[#「ひろ」に傍点]はおぶん[#「ぶん」に傍点]となにかないしょ話をしていて、自分が来たのでやめたこと、自分たちがいなくなるのを待っているのだということが、おひろ[#「ひろ」に傍点]のようすでわかったからである。おけい[#「けい」に傍点]はざっと白粉《おしろい》をはたくと、「縁日へいこうか」とお吉に云った。お吉はすぐに立ちあがり、おひろ[#「ひろ」に傍点]に向って「不動様までいって来ていいか」と訊《き》いた。おひろ[#「ひろ」に傍点]は、あまりおそくならないようにと、二人のほうは見ずに答えた。おけい[#「けい」に傍点]は横眼でおひろ[#「ひろ」に傍点]を見、お吉といっしょに、黙って出ていったが、土間へおりてから、「ねえさん、お店がからになりますよ」とこわ高に云った。
おぶん[#「ぶん」に傍点]は暫くして、そっとおひろ[#「ひろ」に傍点]を見た。
「おけい[#「けい」に傍点]ちゃんどうかしたのかしら」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は興もないという顔で、「おっ母さんは早く亡くなったの」と訊いた。
「あたしが七つのとき」
「それからお父さん、ずっと独りだったの」
「いちど貰ったのよ、いい人だったように思うんだけれど」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は針を動かしながら、ゆっくりと云った、「兄さんがそんなふうだし、お父っさんてひどい子煩悩だったから、あたしたちのことでうまくいかなかったんでしょう、それに、貧乏だったしね」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は櫛を片づけて、それから独り言のように、「いいことないわね」と呟《つぶや》いた。
「いいことないね」とおぶん[#「ぶん」に傍点]が云った、「お父っさんも兄さんも、ほんとにいいことってなかった、まるで苦しいおもいをするために、生れて来たようなものだったわ」
油で汚れた手を拭きながら、おひろ[#「ひろ」に傍点]は「あたしなんか罰が当るわね」と云った、「そういう話を聞くと、あたしなんか罰が当ると思うわ」
「あらどうして」
「親の云うとおりになっていれば、いまごろは武家の奥さまでいられたし、うちの人だって八百石の旗本よ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が云った、「それを、お互いが好きだったからしようがないけれど、世間知らずのお坊ちゃんだったうちの人を、あたしがそそのかしたようなもんでしょ」
「まあ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は眼をみはった、「あたしその話初めて聞いたわ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は眼を伏せ、櫛箱をしまいながら、「あたしも話すのは初めてよ」と云った。武家の出だということだけは云ってあるけれど、「詳しいことはかあさんにも話してないのよ」だって、侍の家に育ったのに、自分から男をそそのかしたなんてこと、恥ずかしくって云えやしないじゃないの。今夜はあんたの話につまされて、つい口がすべっちゃったのよ、「聞かないつもりでいてちょうだいね」と云って、おひろ[#「ひろ」に傍点]はさびしげに微笑した。
おぶん[#「ぶん」に傍点]は「ええ」と頷き、それから思いいったように溜息《ためいき》をついて、「その話をいつかもっと詳しく聞きたいわ」と云った。
「いつかね」とおひろ[#「ひろ」に傍点]がいった、「もうしぼんじまった花だけれど、あんたにはいつか聞いてもらうわ」
おぶん[#「ぶん」に傍点]が「はい」と高い声で返辞した。おひろ[#「ひろ」に傍点]がびっくりして振向くと、おぶん[#「ぶん」に傍点]は膝《ひざ》の上の物をおろし、「お客らしいわ」と云って立ちあがろうとした。しかしおひろ[#「ひろ」に傍点]はそれより早く、自分が出るからいいと云い、おぶん[#「ぶん」に傍点]を制して出ていった。――すぐに、おひろ[#「ひろ」に傍点]と客の問答が、おぶん[#「ぶん」に傍点]のところまで聞えて来た。いま女たちが二人とも留守で、休んでいるこ[#「こ」に傍点]が一人しかいないから、とおひろ[#「ひろ」に傍点]が断わり、客はあげてくれとねばった。女の帰るまで待ってもいいし、「本当は女なんかどっちでもいい」という意味のことを、酔っているらしいが、むきな口ぶりで云っていた。その声を聞いて、おぶん[#「ぶん」に傍点]が立ちあがり、部屋から顔だけ出して、「ねえさん」と呼びかけた。そしておひろ[#「ひろ」に傍点]が振向くと、その眼に頷いてみせた。おひろ[#「ひろ」に傍点]は首を振ったが、おぶん[#「ぶん」に傍点]は大きく頷いてみせ、おひろ[#「ひろ」に傍点]は不承ぶしょうに客をあげた。
おぶん[#「ぶん」に傍点]は客を自分の部屋へ案内し、戻って来て茶を淹《い》れた。
「いいの、おぶん[#「ぶん」に傍点]ちゃん」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が不安そうに訊いた、「あんたまだむりよ、二人が帰るまで待たしとくほうがいいわ」
「だいじょうぶよ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は微笑し、「それに」と口ごもって、また「だいじょぶよ」と、はずんだ声で云った。
その客が良助であった。
良助という名も、年が二十六だということも、それから三日めの晩、つまり二度めに来たとき、聞いたのであるが、こんなところには馴れていないらしく、自分でてれているようすや、口の重い、温和しそうな人柄がおぶん[#「ぶん」に傍点]の心に残った。――彼は痩《や》せているというより、疲れきった人のようにみえた。頬がこけて、皺《しわ》がより、油けのない髪がぱさぱさしていた。幾たびも洗濯した木綿縮《もめんちぢみ》の単衣《ひとえ》に、よれよれの三尺をしめ、草履もはき古して、鼻緒のあぶなくなっている麻裏であった。
その夜、彼が固くなって寝ているので、おぶん[#「ぶん」に傍点]があそばないのかと囁《ささや》くと、彼は首を振って、
「この次だ」と乱暴に云った。
「こんど来たときだ」と彼は云った、「もし来てもよければだがね」
[#6字下げ]三[#「三」は中見出し]
明くる日とその次の日、二日続けて雨が降った。そして三日めの夜、――もう店を閉めようとしていると、良助がはいって来た。
「うれしい」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は彼に囁いた、「来て下さらないかと思ってたわ」
彼の息はひどく酒臭かった。黙って、無表情な顔で、ずいぶん飲んでいるらしいのに、酔っているようにはみえなかった。
「横になりたいんだ」と部屋へとおるなり彼は云った、「済まないが先に床をとってくれ」
おぶん[#「ぶん」に傍点]は夜具を延べて、茶を淹れに戻った。内所にはお吉だけがいて、「ねえさんはお客よ」と云った。古い馴染の材木屋の番頭だそうで、「いまあがったとこよ、おつとめ(花代)はあとで勘定するんですってよ」とお吉はねむそうな声で云った。
茶を持っておぶん[#「ぶん」に傍点]が部屋へゆくと、彼は着たまま、夜具の上へ横になっていた。
「あがりを持って来たわ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は枕許《まくらもと》へ膝をついて云った、「寝衣になっておやすみなさいな、それでは風邪をひいてよ」
彼はあいまいに「うん」と唸《うな》り、それから急に立ちあがった。手洗いにゆきたいのだと云い、おぶん[#「ぶん」に傍点]が教えると、着物の前を直しながら出ていった。――おぶん[#「ぶん」に傍点]は浴衣とひらぐけを出し、夜具を直した。枕が転げているので、置き直したとき、夜具の下になにかあるのに気がついた。手でさぐってみると、長さ一尺三寸ばかりの風呂敷包だったが、触った感じで、おぶん[#「ぶん」に傍点]は眉をひそめた。
「あれだわ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は包を指で触りながら呟いた、「これがあれ、これは匕首《あいくち》、そうよ、これは匕首よ、慥かにそうだわ」
おぶん[#「ぶん」に傍点]は包を取出した。
色の褪《さ》めた紺木綿の風呂敷包は、重たく、ごつごつしていて、中になにが包んであるかよくわかった。おぶん[#「ぶん」に傍点]は立ちあがり、箪笥《たんす》の下の抽出《ひきだし》をあけた。そこには着古した浴衣や端切などが入っている、おぶん[#「ぶん」に傍点]はその包を端切の下へ隠し、その上へ古浴衣を重ねて、抽出をきっちり閉めた。――彼は嘔《は》いたらしい、戻って来た顔は白く、額には汗がふき出ていた。おぶん[#「ぶん」に傍点]は置いてあった茶を取ってやり、「なみの花を持って来ようか」と訊いた。彼は黙って首を振り、窓をあけて、その茶でうがいをした。
「水を貰えるか」
「ええ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は頷いた、「着替えてちょうだい」
「休んでからだ」
彼は夜具の上へ横になったが、すぐに、ぱっとはね起きた。はじかれたような動作ではね起き、夜具の下へ手を入れて、おぶん[#「ぶん」に傍点]のほうを睨《にら》んだ。白く硬ばった顔には、殆んど恐怖に似た表情があらわれ、その眼は怯《おび》えたようにゆらいだ。
「大丈夫、あたしが預かったわ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]がなだめるように云った、「ときどき見廻りが来るのよ、そこではあぶないと思ったから、この箪笥へしまっておいたわ」
彼の肩がゆっくりとおちた。緊張のほぐれてゆくのが見えるようで、彼は「友達のものなんだ」と呟くように云い、財布を出して、定りの花代をおぶん[#「ぶん」に傍点]に渡した。おぶん[#「ぶん」に傍点]が彼に着替えをさせてから、水を取りにゆくと、おけい[#「けい」に傍点]が客を送りだしたところで、お吉が店を閉めていた。
雨のあとのせいか、ひんやりとする夜であった。
彼は仰向けに寝ていたが、おぶん[#「ぶん」に傍点]が横になって暫くすると、「まえにもこんなことがあったのか」と訊いた。
「まえにって、――」
「ああいう物を預かったことが、まえにもあったのか」
「ええ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は頷いた、「あったわ」
「馴染だったのか」
「三度か四たびくらい」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は陰気に答えた、「四たびくらいね、もう四十ちかい年の人だったわ」
彼は口をつぐんだ。やがて、眠ってしまったかと思い、おぶん[#「ぶん」に傍点]がそっと、掛け夜具を直してやると、眼をつむったままで、「そんな客に出るのはいやだろうな」と云った。おぶん[#「ぶん」に傍点]は「そうね」と暫く考えていた。
「そうね」と少し経っておぶん[#「ぶん」に傍点]が云った、「いやっていうより、身につまされるようよ」
「怖くはないのか」
「わからないわ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は答えた、「べつにほかの人と変ったようには思わないわね」
「怖くはないんだな」
「おんなしようよ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は云った、「こういうところへ来る人って、みんな同じような感じよ、云うことやすることは違っていても、みんなどこかしら独りぼっちで、頼りなさそうな、さびしそうな感じがするわ、だからこんな、あたしたちみたいな者のところへ来るんじゃないかと思うの」
「おれは、――あんなような道具を持っている人間のことを、訊いてるんだ」
おぶん[#「ぶん」に傍点]は黙った。
「よくわからないけれど」とやや暫くしておぶん[#「ぶん」に傍点]が云った、「世の中には運のいい人とわるい人があるでしょ、運のいい人のことは知らないけれど、運のわるいほうなら叺《かます》十杯にも詰めきれないほどたくさん知っているわ、そして、男の人がやぶれかぶれになるのも、自分の罪じゃなくって、ほかにどうしようもないからだってことを知ってるわ、だから、そうね、――そんな人に逢うと、怖いっていうよりも泣きたいような気持になってしまうわ」
彼はしんと黙った。おぶん[#「ぶん」に傍点]はきまり悪そうに、「こんなお饒舌《しゃべ》りをしたの初めてよ」と口の中で呟いた。彼はかなりながいこと息をひそめていて、それから、おぶん[#「ぶん」に傍点]というのは本名かと訊いた。
「ええ、このうちではみんな本名よ」
「おれは良助っていうんだ」と彼は云った。おぶん[#「ぶん」に傍点]は「そう」と呟いた。
朝になって帰るとき、彼は「済まないがあれを預かっといてくれ」と云い、顔をそむけるようにして去った。いつもはそれからひと眠りするのだが、その朝はもう横になる気にならず、自分の部屋を片づけたあと、勝手へいって、つくねてあるゆうべの汚れ物を洗ったり、それから、かよいで来る飯炊きのおかね婆さんの来るまえに、釜《かま》へ米をしかけたりした。午後になって、おけい[#「けい」に傍点]に銭湯へさそわれたとき、おひろ[#「ひろ」に傍点]に呼びとめられた、「ちょっと話したいことがある」というので、おけい[#「けい」に傍点]とお吉の二人は出てゆき、おぶん[#「ぶん」に傍点]は残った。
「今日も涼しいわね、このまま秋になっちまうのかしら」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は共部屋へはいってゆきながら、心ぼそいというような口ぶりで云った。そして、火鉢にかかっている湯釜のかげんをみ、茶道具を出して、二人分の茶を淹れながら、おぶん[#「ぶん」に傍点]のほうは見ずに「ゆうべのお客のことなんだけど」と口ごもり、ふいと眼をあげて「あんた好きになったんじゃないの」と訊いた。
「さあ、――」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は首をかしげた。
「あの人しょうばいはなんなの」
おぶん[#「ぶん」に傍点]はまた「さあ」と云った。
[#6字下げ]四[#「四」は中見出し]
彼とは二度しか逢わない。良助という名もゆうべ初めて聞いたのだし、どんな職を持っていたのかも知らない。したがって「好きになった」かどうか、自分でも判断ができなかった。――おひろ[#「ひろ」に傍点]は、それが危ないのだと云った。これまでそんなことはなかっただろうし、こんどだって好きでなければ「好きではない」とすぐに伝える筈である。どちらとも判断がつかないというのは、心の奥で好きになりかかっている証拠なのだ、とおひろ[#「ひろ」に傍点]は云った。
「そうかしら」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は陰気に云った、「あたしぼんやりだからわからないけれど」
「おぶん[#「ぶん」に傍点]ちゃん」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が云った、「ここのうちでは客に惚れることは法度になってるわね、それはしょうばいのためでしょ」
おぶん[#「ぶん」に傍点]は頷いた。
「あたしはしょうばいをはなれて云いたいことがあるの」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は云った、「こういうところへ来る客にはしんじつがないってこと、あんたも知ってるでしょ、あの人たちにしんじつがないとは云わなくってよ、けれどもこういところへ来るときは普通じゃないわ、仕事がだめになったとか、家にごたごたがあるとか、仲のいい友達と喧嘩《けんか》わかれをしたとか、ゆくさきに望みがなくなったとか、それわけがあって、やけなような気持になっていることが多いわ、だから、あそぶことは二の次で、むやみにいばるとか、あまえるとか、だだをこねるとかするでしょ、いつかあたしの出た客で、子守り唄をうたってくれっていう人がいて、あたしひと晩じゅう、知ってる限りの子守り唄をうたったことがあるわ」
「ええ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]が頷いた、「あたしそのときのこと、覚えてるわ」
「その人、――あたしの腕枕で、泣きねいりに眠ったわ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は続けた、「みんながみんなとはいわないけれど、たいていの人が、躯か心かどっちか、傷つくか病むかしていて、ほかでは気もまぎれず慰められもしないのね、こういうところのあたしたちみたいな女、いってみればどんづまりのせかいへ来て、はじめて息がつけるらしい、ちょうど、暴風雨《あらし》に遭って毀《こわ》れかかった船が、風よけの港へよろけこんで来るようなものよ、そう、ちょうどそんなふうなんだと思うわ」
おぶん[#「ぶん」に傍点]はゆっくり頷いた。
――あの人も毀れかかった船のようだ。
良助というあの男も、やっぱり暴風雨に遭って毀れかかっている船に似ている、とおぶん[#「ぶん」に傍点]は心の中で思った。
「港にいるうちは、船は港を頼りにするわ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]はまた続けた、「けれども、暴風雨がしずまり、毀れたところが直れば出ていってしまう、そうして、港のことなんかすぐに忘れてしまうものよ、ほんと、あたしよく知ってるわ、しんじつだと思うのも、ほんのいっときのことよ、露のあるうちの朝顔で、露が乾くと花はしぼんでしまう、――あたしとうちの人の仲だって同じことだわ」
おぶん[#「ぶん」に傍点]は眼をあげた。おひろ[#「ひろ」に傍点]は茶を啜《すす》り、どこか遠くを見るような表情で、「そうよ」と低く云った。
おひろ[#「ひろ」に傍点]は話した。彼女の良人は八百石の旗本の跡取であった。彼女も歴とした武家の娘で、親たちのきめた許婚者がいた。彼女は許婚者を嫌い、良人といっしょになれないなら、死ぬほうがいいと思った。こんなことはありきたりで、決して珍しくはない、しかし彼女はしんけんであった。想う人といっしょになれないくらいなら、「本当に死んでしまおう」と覚悟をきめ、そのことを相手に告げた。相手も同じ気持で、「それならいっしょに逃げよう」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が云い、二人は家を出奔した。それから二年たらず、二人は江戸の隅を転々しながら、夜も昼も酔ったような気持ですごした。
「まる二年とは続かなかったわね」とおひろ[#「ひろ」に傍点]はおもいいったように溜息をついた、「そう、酔っているような楽しいくらしは、一年半とちょっとだったわ、持って出たお金がなくなり、あたしに子供が生れると、たちまち明日の米をどうするか、ということになったの」
町人なら実家へ詫《わ》びをいれることもできる。だが武家では断じて許されない、居どころがみつかれば、伴《つ》れ戻されて尼になるか、わるくすれば自害させられるかもしれない。
――良人も自分も世間を知らず、金がなくなったあとは、売れるだけの物を売ってくらした。自分の髪道具はもちろん、良人の刀まで売ってしまった。そして、良人が病気になった。癆咳《ろうがい》という診断で、高価な薬と、滋養のあるものを喰べさせなければならない。どうしたらそんなことができるか、どうしたら。……良人は「死のう」と云った。自分も死ぬほうがいいと思い、けれども子供が不憫《ふびん》で死ぬ気にはなれなかった。
「死ぬつもりならなんでもできる、そう思ってここへはいったのよ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は、まるでうたうような口ぶりで云った、「それからもうあしかけ五年、月づきの仕送りだけはしているけれど、初めの、二人で家出をしたころのような気持は残ってはいないわ、いまあたしとうちの人をつないでいるのは、月づきの仕送りだけといってもいいくらいよ――、おぶん[#「ぶん」に傍点]ちゃん、どんなにしんじつ想いあう仲でも、きれいで楽しいのはほんの僅かなあいだよ、露の干ぬまの朝顔、ほんのいっときのことなのよ」
おぶん[#「ぶん」に傍点]は黙ってうなだれ、それから、そっとこっくりをした。おひろ[#「ひろ」に傍点]はどこを見るともないような眼で、ぼんやりと向うをみつめた。
まもなくおけい[#「けい」に傍点]とお吉が帰って来たので、おひろ[#「ひろ」に傍点]は「またこの次にしましょ」と、話をやめたが、おかしなことには、話を聞いてから却《かえ》って、良助のことが深く自分の心に残っているのを、おぶん[#「ぶん」に傍点]は感じはじめた。「毀れかかった船」というおひろ[#「ひろ」に傍点]の言葉が、そのままに当嵌《あては》まるように思えた。預かっているあの道具が眼のさきにちらつき、あの道具を渡せば彼は沈んでしまう、「それであの人は沈んでしまう」と心の中で繰り返し呟いた。
――こんど来て、あれを持ってゆくと云ったらどうしよう。
おぶん[#「ぶん」に傍点]は胸が塞《ふさ》がるように感じた。良助の来るのが待ち遠しく、同時に「来なければいい」とも思った。彼のことはなにも知らないが、道具を預けていったのはいちおう思い直したからであろう。思い直して、まじめな職につけたとすれば、当分は来ないに相違ない。暫く来なければまじめな職についた証拠だ、「どうぞ来ないように」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は心で願った。
良助は中二日おいて来たが、その日、彼の来るまえにいやなことがあった。
なにからそんなことになったか知らない、おぶん[#「ぶん」に傍点]が一人おくれて銭湯から帰ると、共部屋でおけい[#「けい」に傍点]とおひろ[#「ひろ」に傍点]がやりあっている声がし、廊下にお吉が立っていて、おぶん[#「ぶん」に傍点]に「はいるな」という眼くばせをした。
「笑わせないでよ」とおけい[#「けい」に傍点]の云うのが聞えた、「あたしちゃんと知ってるんだから」
[#6字下げ]五[#「五」は中見出し]
「云ったらいいじゃないの」とおひろ[#「ひろ」に傍点]がやり返した、「なにを知ってるんだか知らないけれど、云いたかったらさっさと云うがいいわ」
「云ってもいいの、云われて困るようなことはないの」そしてちょっとまをおいて、意地わるく誇張した声で云った、「ねえさん」
おひろ[#「ひろ」に傍点]の嚇《かっ》となるのが見えるようであった。
「云ってごらんよ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が叫んだ、「こんなしょうばいをしていれば、人にうしろ指を差されるようなことの三つや五つ、誰にだってある筈だ、おまえさんそうじゃないのかい」
「お武家育ちにしてはいい啖呵《たんか》じゃないの」とおけい[#「けい」に傍点]が皮肉に云った、「おぶけさまのそだちにしてはね」
「なんだって、――」
「お武家育ちだなんて、ちゃんちゃら可笑《おか》しいっていうのよ」とおけい[#「けい」に傍点]が云った、「自分はれっきとした侍の娘、うちの人は八百石の旗本の跡取だって、ばかばかしい、笑わせないでよ」
「それがどうしたの」おひろ[#「ひろ」に傍点]の声はふるえた、「それがあんたにどんな関係があるの」
「人をばかにしないでっていうのよ」おけい[#「けい」に傍点]は辛辣《しんらつ》に云った、「あんたが武家育ちかどうかぐらい、あたしにはちゃんとわかっているんだから、本当に武家で育ったとしたらね、いくらおちぶれたって立ち居や言葉つきが違いますよ、おじぎ一つ見たってわかるものなのよ、ねえさんはご存じないだろうけれどね」
「そう、そんなことが云いたかったの」
「うちの人が癆咳で、子供があって」と、おけい[#「けい」に傍点]はなお続けた、「月づきずっと仕送っているって、みんな嘘じゃないの、お武家育ちも八百石の旗本も、癆咳の良人や子供のあることも嘘、みんな嘘っぱちよ。月づき仕送りをするなんて云って、稼いだおたからはみんな溜《た》めてるじゃないの。そうじゃないの、――ねえさん」
「いいわ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]がふるえ声で云った、「あんたがそう思いたければそう思ってるがいいわ、ここであんたを云い負かしたって、べつに三文の得がいくわけでもないんだから」
「そうよ、そのほうが利巧よ、口をきくだけぼろが出ますからね」
そこまで聞いて、おぶん[#「ぶん」に傍点]はそっと廊下を通り、自分の部屋へはいった。すると、お吉があとからついて来て、「おけい[#「けい」に傍点]ちゃんて凄《すご》いわね」と云った。おぶん[#「ぶん」に傍点]は鏡に向いながら、「どうしてあんな喧嘩になったの」と訊いた。お吉は肥えた躯を重たそうに、そこへ横坐りになって囁いた。きっかけはつまらないことであった。お吉とおけい[#「けい」に傍点]が銭湯から帰り、共部屋で茶を啜りながら、おけい[#「けい」に傍点]がいつものように客の評をしていた。「ゆうべの二人めのお客ったら可笑しいの」おけい[#「けい」に傍点]がくすくす笑い、「子供のくせにお粥《かゆ》の炊きかたをお婆さんに教えるようなことをするのよ」と云った。するとなにが気に障ったものか、おひろ[#「ひろ」に傍点]が険のある声で、「でたらめもいいかげんにしなさい」と云い、おけい[#「けい」に傍点]が「なにがでたらめよ」とくってかかり、それからやりあいになったということであった。
「どうしたのかしら」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は鏡を眺めながら訊いた、「二人ともいい人だし、これまでずっと仲がよかったのに」
「わけはあるのよ」とお吉が囁いた、「このまえあんたが二十日ばかり寝たでしょ、そのあいだにおひろ[#「ひろ」に傍点]ねえさんが、おけい[#「けい」に傍点]ちゃんの客を取ったことがあるの、おけい[#「けい」に傍点]ちゃんには客があったし、ねえさんは知らなかったっていうんだけれど、それからおけい[#「けい」に傍点]ちゃんすっかりおかんむりなのよ」
「そう、そんなことがあったの」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は太息《といき》をついた、「かなしいわね」
お吉はなおなにか云いたそうだったが、おぶん[#「ぶん」に傍点]はそれを避けるように、「灯をいれるわ」と云いながら立ちあがった。
その夜はおけい[#「けい」に傍点]に一人、馴染の客があがり、お吉にふりの客が一人ついただけで、十時ごろになると、ひやかしの客の姿もなくなり、両隣りと向うの店とは、女たちがぐちを云いあいながら、表を閉めてしまった。――そのとき良助が来た。客を送りだしたお吉が、彼の来たことを知らせたとき、おぶん[#「ぶん」に傍点]ははっとしておひろ[#「ひろ」に傍点]を見た。おひろ[#「ひろ」に傍点]は気づかないようすで、知らん顔をしていた。
「ここでは酒は飲めないのか」と、部屋へはいるなり良助が云った。彼はその晩も酒臭い息をしており、痩せた蒼白《あおじろ》い顔をそむけたまま、「できたら飲みたいんだが」とせがむように云い、握って持っていた金を渡した。おぶん[#「ぶん」に傍点]は「少し待っててね」と云って共部屋へゆき、おひろ[#「ひろ」に傍点]に相談した。渡された金はこまかいのを合わせて、一分二朱あった。
「あんた飲ませてあげたいの」とおひろ[#「ひろ」に傍点]はおぶん[#「ぶん」に傍点]を見た。
おぶん[#「ぶん」に傍点]はためらうように、「わからないわ」と呟き、それから「でも、もしよければ」と口ごもった。
「酒屋はもう閉ってるわよ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が云った、「橋の袂《たもと》に出ているうどん屋へいってごらんなさい、少しぐらいなら分けてくれる筈よ」
おぶん[#「ぶん」に傍点]は「済みません」と云った。
岡場所では原則として、酒を出さないのがきまりだった。ことに「蔦家」はお富が嫌いで、ごく稀《まれ》にしか酒を出したことがない。したがって肴《さかな》の用意などはなかったから、おぶん[#「ぶん」に傍点]は酒といっしょに、そのうどん屋で、卵を二つ買って帰った。そして一つを煎《い》り卵にし、一つを汁にして、燗《かん》をした酒といっしょに、部屋へ持っていった。
「うちでは酒は出さないしきたりなの」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は膳《ぜん》を置きながら云った、「だからお肴がなんにもないのよ、あたしのいたずらで美味くはないでしょうけれど、ごめんなさい」
「済まない」と良助が云った、「肴なんか要らなかったんだ、有難う」
おぶん[#「ぶん」に傍点]は燗徳利を持った。
彼は黙って飲んだ。おぶん[#「ぶん」に傍点]のほうはいちども見ず、ときどき荒い息をしたり、なにか荷物でも背負っていて、それを振り落そうとでもするかのように、骨ばった肩を幾たびも振った。
「あんた、――」とおぶん[#「ぶん」に傍点]がせつなくなって呼びかけた。「あんた、泊っていくんでしょ」
彼は吃驚《びっくり》したように「えっ」といって眼をあげた。突然おどかされたような表情で、しかしすぐに、「いや」と首を振った。
「いや」と彼は云った、「飲んじまったら、帰るよ」
「こんな時刻に、もうすぐ四つ半(十一時)になってよ」
「今夜は帰る、またいつか来るよ」
おぶん[#「ぶん」に傍点]は息を詰めた。彼をじっと見まもりながら、暫く息を詰めていて、それから思いきったように云った。
「あんた、あの道具を持ってゆくのね」
[#6字下げ]六[#「六」は中見出し]
良助の躯がぴくっとひきつった。彼は動かなくなり、持っている盃《さかずき》をみつめて、やがて荒く息をしながら、「やってみたんだ」と低い、呻《うめ》くような声で云った。
「このあいだの晩、おまえの話を聞いて、なんとかならねえものかと思って、あれから三日、とびまわってみたんだ」と彼は一と言ずつ噛みしめるように云った、「けれども、だめだった、おまえの云ったように、おれには運がないんだ、これまでずっとそうだった、いまさらとびまわることはなかったんだ」
「ねえ、お願いよ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]が云った、「あたしに話してみて、膝ともなんとかってことがあるじゃないの、ねえ、話してみて」
彼はそっとおぶん[#「ぶん」に傍点]を見た。
「怒らないでね」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は云った、「あたしあんたが、自分の兄さんのように思えるの、初めての晩あたし休んでいたのよ、ねえさんがそう云ったでしょ、あたしぐあいを悪くして二十日ばかり休んでいたの、だけれども、あんたとねえさんの話すのを聞いていて、あんたの声があたしの兄の声にそっくりなので、ねえさんに出るって云ったのよ」
「そのことは覚えてる」
「こんなしょうばいをしているのに、兄のような気がするなんて云ってはわるいけれど」
良助は強く首を振って、「ばかな」とおぶん[#「ぶん」に傍点]を遮《さえぎ》った、「そんなことがあるか、おれは、おれは押込強盗をやろうとしている人間だ」と彼はしゃがれた声で云った、「こないだの晩あんなに親切にされなければ、もうとっくにやっていたんだ」
「あたし親切になんかしなかったわ」
「あの道具を隠してくれて、それから運のわるい人間のことを話してくれた、押込強盗のような人間でも怖くはない、身につまされて泣きたいような気持になるって、――あんなふうに、しんみに云われたのは、初めてだ、ほんとうに初めてなんだ、ほんとなんだ」
良助は持っている盃のふちを、片ほうの手の指でこすりながら、ぶきような口ぶりで話しだした。いかにもぶきようで、自分でももどかしそうな話しぶりであった。
良助は品川の漁師の子に生れた。彼が四歳のとき、父親が沖で死に、母は彼を伴れて再婚した。義理の父は軽子《かるこ》で、十歳をかしらに五人の子があり、半年ほどすると、母は彼を置いて出奔した。極端な貧乏と、六人の子の面倒をみるのとで、精が尽きたものらしい。近所にいた若い人足と、駆落ちをしたということであった。義理の父はすぐに彼を追いだし、彼は母を捜して街をうろついた。
「おれは五つだった、僅か五つだったんだ」と良助は頭を垂れた、「ちょうど夏のことで、五月ごろだったろう、そんな季節だからまだよかったが、冬だったらこごえ死んでいたろうと思う」
彼は拾い食いをし、よその物置や軒下に寝ながら、秋にかかるまで市中を彷徨《ほうこう》した。そのあいだに覚えたことは、拾い食いや物乞《ものご》いをするのは裏店《うらだな》のほうがいいこと、犬を抱いて寝ると温かいことなどで、そういう犬の一|疋《ぴき》が彼になつき、――それは彼の倍くらいもある、黒斑《くろぶち》の大きなのら犬だったが、五つの彼にずっと付いて歩いたという。まもなく、彼は麻布四の橋で、町木戸の番太にひろわれ、七つになるまでそこの番小屋でくらした。番太は久兵衛といい、頸《くび》に瘤《こぶ》のある老人だったが、彼が七歳になると、赤坂|榎《えのき》町の酒屋へ奉公に出した。もちろん年季奉公で、久兵衛は向う八年分の給銀を先取りしていた。そこの奉公があまり辛いため、耐えかねていちど逃げだしたが、すぐに捉《つか》まり、捉まってから初めて、彼はその事実を知った。
「おれは八つだったが」と云って、良助は言葉を切り、眼をつむった。盃を持っている手に力がはいり、指の節のところが白くなった、「たった八つの子供だったが」と彼は眼をあいてゆっくりと続けた、「その子供の頭でも、おれは売られたのだ、と思った、売られたのだ、ってな」
人別《にんべつ》のことがあるから、年季のあけるまで辛抱したが、そのときすでに人間も世の中も信じられなくなっていた。生みの母親に捨てられ、ひろってくれた老人に売られ、そして、酒屋では年季いっぱい、容赦なくびしびしと働かされた。――十六の年に酒屋を出て、桂庵《けいあん》の世話で青物市場に雇われ、ついで車力になった。人も世も信じられなくなっていた彼は、どこでも折合いがわるく、次つぎと職を変え、二十歳のとき神田大工町の「よし川」という小体《こてい》な料理屋へはいり、そこでおちつくことになった。「よし川」の主人は万吉といい、彼が青物市場にいたとき、買出しに来て知りあったのである。店は小体だが、客筋がよく、かなり繁昌していて、主人の万吉も、お芳という妻も親切にしてくれた。夫婦には子供がなく、万吉が板場をやり、お芳が二人の小女と店を受持っていた。良助は主人と買出しにいったり、材料を洗ったり、あと片づけや掃除や、また下足番、客の送り迎えなど、下廻りをせっせと働いた。
――庖丁《ほうちょう》を持つようになったら給銀をきめよう。
という約束だった。それまでは食い扶持《ぶち》。ぜひ必要な小遣はやるから「遠慮なく云え」とも云われた。彼はここでおちつこうと思った。何年かかってもいい、板前の仕事を覚えて、できたらいつか小さな店を持ちたい。そう思って働き続けた。主人夫婦は親切にしてくれたが、仕事はいつまでも下廻りで、三年経ち、五年経ち、彼は二十六歳になった。そうして彼はふと疑問をもった。夫婦が親切にしてくれるのは、彼を食い扶持だけで使うためではないか、という疑いである。まさかそんなことが、と思い直してみても、どうにも気持がおちつかなくなり、彼は思いきって万吉に当ってみた。万吉はとりあわなかったが、彼はねばった。すると万吉は穏やかな口ぶりで、彼には板前になる素質がないと云った。
――この仕事は勘のものだ、いくら教えても勘のない者はいちにんまえの職人にはなれない、そいつは諦めたほうがいい。
彼は頭がぼうとなり、「それはまえからわかっていたのか」と訊いた。万吉は「おまえわからなかったのか」と意外そうに反問した。そして彼はとびだした。
「その晩、ここへ来たんだ」と良助は暗いほうへ眼をやりながら云った、「一日じゅう街をうろついた、永代橋を渡ると、潮の匂いがし、品川じぶんのことがなつかしくなった、それで、こっちへ来て、門前町で夜になるまで飲んだ」
自分で酒を飲むのは初めてであった。ひどく酔って出ると、また潮の匂いにひかれ、ふらふらと蓬莱橋を渡り、海ばたへ出て、蘆の中へ坐りこんだ。
[#6字下げ]七[#「七」は中見出し]
この「蔦家」へ来るまで、彼は蘆の中に坐って、ぼんやりと暗い海を眺めながら、自分というものに絶望し、すっかりやけな気持になった。
「初めて泊った明くる日、おれはよし川へ帰って給銀を呉《く》れと云った」と良助は続けた、「主人もおかみさんも態度が変っていて、払うようすがなかった、それでおれは組合へ願って出ると云った、すると主人は明日まで待てと云い、明くる日、一両二分よこしたうえ、これで文句をつけるなら、こんどはこっちから強請《ゆすり》で訴えると云った、強請で訴える……、六年も働いて一両二分、それを手でつかんで、店を出ると、おかみさんがうしろから塩を撒《ま》いたっけ」
彼はそこで黙り、片手の甲で眼を拭いた。
塩を撒かれたことで、彼は肚《はら》をきめた。そっちがそうならこっちもと思い、素人考えで押込の道具を買った。それでも二度めに「蔦家」で泊った晩、おぶん[#「ぶん」に傍点]の親切で気持がにぶり、もういちどやってみようと、「よし川」にいたときの客を訪ねたり、桂庵へ当ってみたりした。
「けれどもだめだった、二十六にもなり、手に職のない人間には、しょせん堅気な勤め口はありゃしない、わかるか」と良助はおぶん[#「ぶん」に傍点]を見た、「おれは五つの年から、人に踏みつけられ、ぺてんをくわされて来た、こんどはおれの番だ、この気持がわかるか」
「わかるわ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は頷いた、「よくわかってよ、良さん」
「こんどこそおれの番だ」と彼は呻くように、低く押しころした声で云った、「こんな世間にみれんはありゃあしねえ、取られただけを取返して、あっさりおさらばするつもりだ」
「むりはないわ、むりはないわよ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は指で眼を拭いた、「これまでよくがまんしたほうだと思うわ」
「おぶん[#「ぶん」に傍点]ちゃん、――っていったけな」と彼はおぶん[#「ぶん」に傍点]をみつめた、「おまえ、おれがこんな人間でも、あいそをつかしゃあしねえのか」
「ええ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は頷いた、「あいそをつかしたりなんかしゃあしないわ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は云った、「あたしの身の上だって、あんたよりよくはなかったのよ、もしも兄が満足な躯をしていたら、兄だって良さんのような気持になったかもしれないと思うわ」
「兄さんの躯って、――どこかぐあいでも悪かったのか」
「生れつき片足が蹇《な》えていて、満足に歩くことができなかったんです、でも、こんな話よしましょう」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は頭を振った、「あたしお酒をつけて来るわ」
そして燗徳利を持って立ち上った。
酒の燗をして戻ったとき、おぶん[#「ぶん」に傍点]は眼を泣き腫《は》らしていた。彼女はそれを隠すようにしたが、眼をひどく泣き腫らしていることは、良助にはすぐわかった。彼にはそれがこたえたらしく、衝動的になにか云いかけて、しかし言葉がみつからなかったのだろう、唇をふるわせながら、黙って二つ三つ飲んだ。
「その、――」とやがて彼は訊いた、「兄さんていう人は、いまどうしているんだ」
「死んでしまいました」
「死んだって、――どうして」
「お父っさんを殺して、自分は大川へ身を投げたんです」
彼は「あ」という眼をした。
「お父っさんは卒中で寝たっきり、兄は版木彫りをしていたんです」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は呟くように云った、「足の不自由な者は手がきようだっていうけれど、兄はぶきようなたちで、六七年もやっているのに腕があがらず、よく癇癪《かんしゃく》を起こしてくやし泣きに泣いていました、お父っさんは治るみこみがないし、自分のゆくさきにも望みがない、生きている限り、妹のあたしに苦労させるばかりだと思ったんでしょう、書置もなにもなかったけれど、あたしには兄の気はよくわかりましたわ」
「だって、それじゃあ」と彼は吃《ども》った、「それじゃあおぶん[#「ぶん」に傍点]ちゃんをどうするんだ、それじゃあおまえのこれまでの苦労を、無にするようなもんじゃないか」
「あたしはそうは思わないわ」
「いや違う」と彼は強く首を振った、「妹のおまえにこんな苦労をさせているんだ、版木彫りがだめだとしてもほかになにか職があるだろう、たとえば草鞋《わらじ》を作り、紙袋を貼《は》ったって生きてゆける筈だ」
「あんたはそう思うのね」
「そうでなければ、おぶん[#「ぶん」に傍点]ちゃんの苦労がまるで無になってしまうじゃないか、あんまりそれじゃあ勝手すぎるよ」
「あんたほんとにそう思って、――」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は良助の眼をみつめ、それから、「あたし」と口ごもった、「あたし、わからないけれど、意地わるなこと云って、いいかしら」
良助は黙っていた。おぶん[#「ぶん」に傍点]が喉《のど》で笑いだした。にわかに感情が昂《たか》ぶり、気持が混乱して、自分で自分が制しきれなくなったらしい。く、く、と喉へこみあげた笑いが、そのまま泣き声になるようで、なおおろおろと、言葉を捜し搜し云った。
「あたしじゃない、あんたよ、あたしはこんなこと考えもしなかった、あんたが云ったのよ、いまあんたに云われて、気がついたのよ、良さん」そこでおぶん[#「ぶん」に傍点]の声ははっきり鳴咽《おえつ》に変った、「あんたがもしも、本当にいまのように思うんなら、あたしも同じことをあんたに云いたいわ」
「おれがなにを云った」
「草鞋を作っても、紙袋を貼っても、生きてゆける筈だって、――良さん」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は泣きながら彼の膝をつかんだ、「兄が生きてゆける筈なら、あんたこそ生きてゆける筈よ、あんたには厄介な親もいないし、躯も満足じゃないの、年もまだ若いし、丈夫だし、しようと思えばなんだってできるわ、いいえ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は、なにか云おうとする彼を遮った、「いいえ待って、なにも云わないで、いまはなんにも云わないで、あたしにも本当はよくわからないの、本当はこんな、意地わるなこと云いたくないのよ、でもお願いだから、二人でもういちど考えてみましょう、当分のお金ならあたしがなんとかするわ、お父っさんや兄さんにする代りに、あんたにするわ」
「ばかな、そんなことを」
「ばかなことじゃないわ、あんたいま云ったじゃないの、兄があたしの苦労を無にしたって」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は首を振った、「そんならあんたがな[#「な」に傍点]してちょうだい、あんたならあたしの苦労がな[#「な」に傍点]せる筈よ、ねえ、考えてみると云って、それがいけなければ、もういちどだけ、あの道具を預けておいてちょうだい」
彼は黙ったまま、自分の膝をつかんでいるおぶん[#「ぶん」に傍点]の手を、上から押えた。おぶん[#「ぶん」に傍点]は声をころして嗚咽し、「お願いよ」と囁いた。ごしょう一生のお願いよと囁き、崩れるように彼の膝の上へ俯伏《うつぶ》した。良助は放心したような眼で、上からおぶん[#「ぶん」に傍点]を見おろしていた。
[#6字下げ]八[#「八」は中見出し]
明くる日の午後になって、おぶん[#「ぶん」に傍点]は彼のことをおひろ[#「ひろ」に傍点]に話した。話したくなかったが、前借の相談をするためにうちあけて話すよりしかたがなかったのである。おひろ[#「ひろ」に傍点]は明らかに不承知だった。云わないことではない、という顔つきで、なんども溜息をし、「よしたほうがいい、とんだめにあうよ」と繰り返した。
「そういうのがたいていしまいにはひも[#「ひも」に傍点]になるのよ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は云った、「そんな金はかあさんは貸しゃあしないし、あんただってせっかく身軽になったばかりじゃないの、ここはしっかりして自分のことを考えるときよ」
おぶん[#「ぶん」に傍点]は息をひそめていて、「ねえさんはお武家育ちだから、わからないかもしれないけれど」と、いつものゆっくりした口ぶりで、低く、独り言のように云った。
「たった五つくらいで、おっ母さんを捜しながら、拾い食いをして街を歩いたって、――犬を抱いて寝ると、野宿をしても温かいっていうのよ」おぶん[#「ぶん」に傍点]は畳を指で撫《な》でながら、べそをかくように微笑した、「あの人の倍くらいもある犬が、なついちゃって、ずっといっしょに歩いたっていうわ、五つばかしの小ちゃな子のあとから、黒斑の大きな犬が、この人が頼みだって顔をしてついて歩くの、そのようすがあたしには眼に見えたわ、こんな小ちゃな子が、なにか喰べ物を貰うか拾うかして、それを自分の倍くらいもある犬に分けてやるのよ、いっぱし飼い主らしい、まじめくさった顔つきで、――いまこうしていても、あたしにはそれが眼に見えるようよ、ねえさん」
「いくら武家育ちだって、そのくらいのことはあたしにもわからないことはないわ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が云った、「あたしが云いたいのは、女というものがすぐそういう話に負けて、自分から苦労を背負いこむってことなの、いまあんたはその人にうちこんでいる、その人のためなら、どんな苦労をしてもいいっていう気持だろうけれど、それは長くは続かないのよ、ほんのいっときのことなのよ、おぶん[#「ぶん」に傍点]ちゃん」
「あの人に大事なのはいまなの、いまの、このいっときなのよ、ねえさん」とおぶん[#「ぶん」に傍点]が云った、「たったいま、その横丁を曲るか曲らないかで、あの人が死ぬか生きるかがきまるの、そしてあたしは、ただ、その横丁を曲らせたくないだけなの、それだけなのよ、ねえさん」おひろ[#「ひろ」に傍点]は溜息をつき、「しようがないわね」と呟いた。
二人はお内所で話していた。お吉とおけい[#「けい」に傍点]は共部屋にいたが、少しまえに店へ誰かはいって来、おけい[#「けい」に傍点]が出て、その人と話しているようすだった。こっちの二人は気にもとめなかったが、そのときおけい[#「けい」に傍点]がいそぎ足にやって来て、障子をあけながら、「みの家のかあさんよ」と云った。「みの家」というのは、この土地で同じしょうばいをやっており、女主人はお富といっしょに、呑竜様へいった筈である。おひろ[#「ひろ」に傍点]は振返った。
「うちのかあさん、向うで寝こんでるんですって」とおけい[#「けい」に傍点]は云った、「呑竜様までいかないうちに病みだして、がまんしてたんだけれど、帰りに館林っていう処《ところ》へまわったら、そこで倒れてしまったんですって」
「それで、――いいわ、あたしが出るわ」
「みの家のかあさんはもう帰ったわ」とおけい[#「けい」に傍点]が云った、「花の家のかあさんがあとに残ってるそうだけれど、誰かすぐにお金を届けてもらいたいっていったわ」
「お金を、その館林までかい」
「もちろんよ、館林の武蔵屋っていう宿屋ですって」
医者の診断では、まえの腸の病気がぶり返したので、「少し長くかかりそうだ」と云ったそうである。おぶん[#「ぶん」に傍点]はその話を脇で聞きながら、いまこのときに、と思って絶望した。
――こんなときにかあさんが病気になるなんて。これで良助の話もおしまいだ。おぶん[#「ぶん」に傍点]はそう思い、気のぬけたような顔で、二人の話すのをぼんやり眺めていた。
「済まないけれどあんたいってちょうだい」とおひろ[#「ひろ」に傍点]がおけい[#「けい」に傍点]に云った、「あたしは店を頼まれたから出られないわ、館林といっても、駕籠《かご》でゆくんだからそう苦労じゃないでしょ」
「あたしが、ねえさん」とおけい[#「けい」に傍点]は驚いたように訊き返した、「あたしがゆくの、あたしでいいの」
「あんたよ、ほかにいないじゃないの」
「だって、――」とおけい[#「けい」に傍点]は妙な声で口ごもった、「だってねえさん、あたしをやって、もしもそのお金を、持ったまま逃げるってこと、心配しなくって」
「しないわ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が云った、「あたしあんたの性分を知ってるもの」
おけい[#「けい」に傍点]は微笑し、「いいわ」と頷いて、顔をそむけた。微笑した唇が歪《ゆが》んで、いまにも泣きだしそうにみえた。
「いそぐほうがいいわ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]がせきたてた、「お吉ちゃんに駕籠を呼んでもらって、あんたはすぐに支度してちょうだい、あたしお金を包んどくわ」
そしておひろ[#「ひろ」に傍点]は立ちあがった。
――おけい[#「けい」に傍点]ちゃんどうしたのかしら。
どうして泣きそうな顔なんかしたのかしら。そう思いながら、おぶん[#「ぶん」に傍点]は自分の部屋へ戻った。そこにいても用はなさそうだし、役に立とうという気持も起こらなかった。部屋へはいって窓をあけ、坐って窓框《まどがまち》に凭《もた》れながら、「そろそろお湯へゆくじぶんね」と呟いた。なま温かい風がかなり強く吹いており、空は重たく曇っていた。
「たか[#「たか」に傍点]ちゃん干し物をしまいな」と隣りの松葉家の女が云っていた、「風が強くって飛んじゃいそうだし、降ってくるかもしれないよ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]が覗《のぞ》きに来るまで、おぶん[#「ぶん」に傍点]はそのままぼんやり坐っていた。小半刻《こはんとき》も経ったであろうか、肩を叩かれて振向くと、おひろ[#「ひろ」に傍点]が来ていた。風の音がひどいので、呼ばれたのが聞えなかったらしい。おひろ[#「ひろ」に傍点]は、「お湯へゆきましょう」と云った。空もようがおかしいから降りださないうちにいって来よう、というのである。おぶん[#「ぶん」に傍点]は「そうね」と気のない返辞をした。おひろ[#「ひろ」に傍点]は窓を閉めて坐った。
「あんたかあさんのこと、いま聞いたでしょ」
「ええ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は頷いた、「わかったわ」
「あたしいまみの家さんへいって、ようすを聞いて来たの」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が云った、「その話によると、途中で水にあたったらしいのよ、それをむりしたもんだから、すっかりこじらしちゃったんですって、ことによると二三十日かかるんじゃないかっていうのよ」
「わかったわ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は頷いて、おひろ[#「ひろ」に傍点]を見た、「もうおけい[#「けい」に傍点]ちゃんはでかけたの」
「わかってくれるわね、お金が出せないってこと」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が云った、「二三十日もかかるとすると、また届けなければならないかもしれないし」
「わかったわ、いいのよねえさん」
「その――良さんて人、あんたのお金をあてにしていたの」
おぶん[#「ぶん」に傍点]は「いいえ」と首を振った。
[#6字下げ]九[#「九」は中見出し]
「いいえ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は云った、「まだ少し持っているし、桂庵を廻ってみるって、あたしにはお金の心配なんかするなって云ってたわ」
「お湯へゆきましょう」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は立ちあがった、「早くしないと降ってきそうよ」
おぶん[#「ぶん」に傍点]は疲れたように立ちあがった。
雨が降りだしたのは、夜の八時ごろであった。夕方からしけもようのせいか、この町へはいって来る客もなく、九時すぎると、あたりの店は次つぎと表を閉めだした。お吉はおちつかないようすで、立ったり坐ったりしながら、「おけい[#「けい」に傍点]ちゃん途中で降られてるわね」とか、「知らない宿屋で心ぼそいでしょうね」などと、しきりにおけい[#「けい」に傍点]のことを心配していた。
――あの人どうしたかしら。
おぶん[#「ぶん」に傍点]は良助のことを考えていた。
自分がおけい[#「けい」に傍点]なら、あの金を持って逃げたかもしれない。そして良助と二人で、どこか遠くへいって、二人だけで世帯を持ったかもしれない。そうかしら、「ばかね」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は心の中で苦笑した。だってどうして良さんと逢うの、いま良さんがどこにいるか、わかりゃしないじゃないの。それに、あたしにそんな度胸がある筈がないわ。そうよ、「そんな度胸があるもんですか」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は思った。
「おけい[#「けい」に傍点]ちゃん面白いこと云ってたわ」とお吉がおひつに云った、「着物を着替えながらよ、ねえさん、ねえさんにあんたの性分を知ってるって云われたときね、――ちょうどなにか喰べちゃったあとで、その中に毒がはいってたって、云われたみたいな気持がしたって」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は黙って、帯の繕いをしていた。
十時になると、店を閉めて寝ることにした。風は弱くなったが、雨はどしゃ降りで、お吉の部屋で雨漏りがするらしく、手桶《ておけ》だとか金盥《かなだらい》だとかいって、騒ぐのが聞えた。――おぶん[#「ぶん」に傍点]は良助のことが気になり、ことによると来るのではないかと思って、十二時の鐘を聞いてからも、かなり長いこと眠れなかった。
夜の明けがたから、暴風雨になった。
凄いような烈風と豪雨で、それが夕方になってもやまず、佃町の端にある漁師の家が倒れたとか、不動様の大屋根の瓦が飛ばされたとか、どこそこの橋が流された、などという噂《うわさ》が伝わって来た――お吉は「これじゃあお湯屋さんへもいけないわねえ」と暢気《のんき》なことを云っていたが、日が昏《く》れてしまい、ますます激しくなる雨風の音を聞いていると、しだいに不安になったようで、「あたしちょっとようすを見てくるわ」と云いだした。
「危ないからおよしなさい」とおひろ[#「ひろ」に傍点]がとめた、「この風ではなにが飛んで来るかわからないじゃないの、少しおちついて坐ってらっしゃいな」
だがお吉は出ていった。尻端折をし、頭から雨合羽《あまがっぱ》をかぶり、はだしでとびだしていった。まもなく飯炊きの婆さんが、「帰ってもいいでしょうか」と訊きに来て、風はもうまもなくやむだろうと云った。おひろ[#「ひろ」に傍点]が「水は大丈夫かしら」と訊くと、婆さんは「ここは大丈夫だ」とうけあうように云った。竪川《たてかわ》のまわりや八間堀あたりはすぐに水が浸《つ》くけれども、このくらいのしけ[#「しけ」に傍点]でここが水に浸かったことはない、二十年ぐらいまえにいちどあったが、「それも床下まででしたよ」と云って、帰っていった。
――それからかなり経って、お吉がずぶ濡れになって戻った。風で合羽を吹き飛ばされたそうで、頭からぐっしょり濡れ、土間へはいって来るなり、泣き声をあげて、「大変よ、ねえさん、逃げなくちゃだめよ」と叫びたてた。
「黒江橋も八幡橋も落ちちゃって、永代のほうへはいけないのよ」とお吉が云った、「近所でもみんな逃げ始めてるわ、早く逃げないと大変よねえさん」
そして、おひろ[#「ひろ」に傍点]のおちついたようすを見ると、「あたし先に逃げるわ」と云い、濡れた躯で、はだしのまま自分の部屋へとびこんでいった。おぶん[#「ぶん」に傍点]はおひろ[#「ひろ」に傍点]を見た。おひろ[#「ひろ」に傍点]は舌打ちをし、「大きななりをして、――」と呟いたが、ふとおぶん[#「ぶん」に傍点]の眼に気がつき、「あんたもいっしょにいったらどう」と云った。
「ねえさんは」とおぶん[#「ぶん」に傍点]が訊いた。
「あたしはだめよ、あたしは店を預かってるんだもの」とおひろ[#「ひろ」に傍点]はおちついていた、「こんな雨風ではもう荷物だって出せやしないし、店をあけて出るわけにはいかないわ」
「あたしもいるわ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は云った、「水は大丈夫だって、いま婆やさんが云ってたし、婆やさんはこの土地の人ですもの、大丈夫だと思うわ」
「そりゃあ、あたしだって大丈夫だとは思うけれど、でも――」とおひろ[#「ひろ」に傍点]はおぶん[#「ぶん」に傍点]の眼を見まもった、「あんたもしかしたら、良さんという人が来るとでも思ってるんじゃないの」
「わからないわ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は眼を伏せた。
「もしもそうなら逃げるほうがいいわよ」
「どうして、――」
おひろ[#「ひろ」に傍点]が「あたしは来ないと思う」と云いかけると、お吉が大きな風呂敷包を背負って出て来た。おひろ[#「ひろ」に傍点]は吃驚したように、「まあ」と声をあげた。あんたそんな大きな物をどうするの。だって、とお吉は泣き声で云った。だって大水になれば流されちゃうじゃないの。ばかねえ、そんなに背負い出したって、この雨では堀を渡るまでに濡れちまうわ、同じことだから置いてゆきなさいな。だって、おけい[#「けい」に傍点]ちゃんの物もあるのよ。いいから置いてゆきなさい、どっちみち水浸しになるのなら、わざわざ重いおもいをすることないじゃないの、ばかな人ねえ、とおひろ[#「ひろ」に傍点]が云った。しかしお吉は背負って出た。流されてしまえばおしまいだけれど、濡れるだけなら「しみだし[#「だし」に傍点]にやればいい」と云い、頭から手拭をかぶって、肥えた躯をよろよろさせながら、出ていった。「ばかな人ねえ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が云った、「どこへ逃げるつもりかしら」
それが七時ごろのことであった。
向うの甲子家から女が来、みの家から人が来た。いずれも「逃げよう」というさそいだったが、おひろ[#「ひろ」に傍点]は「もう少しようすをみる」と断わった。九時ごろに二人で食事をし、「寝るわけにもいかないわね」などと云っているうちに、夜番の金さんという老人が来て「畳をあげるほうがいい」と云った。十二時ごろが満潮だから、ことによると高潮が来るかもしれない。大川の上《かみ》のほうから来る水なら、却ってここは大丈夫だが、海から高潮が来ると危ない。自分が手伝うから、念のために畳をあげておこう、そう云って二人を立たせた。
それから約半刻、共部屋へ箪笥《たんす》を二|棹《さお》移し、その上へ畳を積み、さらにその上へ、箪笥から抜いた抽出や、衣類の包や、飯櫃《めしびつ》や食器などをあげた。金さんは満足そうに、もしも水が浸いたら、その畳の上へあがっていればいい、「まさかそこまで浸く水もないだろう」と云って、吹降りの中を去っていった。――そして午前一時ごろ、金さんの心配した高潮が来た。
それは普通の出水とは違っていた。
お内所に一帖だけ残した畳の上で、二人が茶を啜っていると、急に風がやみ、雨の音がまばらになった。おぶん[#「ぶん」に傍点]が「あら、風がやんだわ」と云い、おひろ[#「ひろ」に傍点]が「雨も小降りになったじゃないの」と云った。風は吹き返して来たが、まもなく本当におさまり、雨もすっかり小降りになった、「やれやれ、人騒がせなことをするわ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が欠伸《あくび》をし、「まるでばかにされたみたいじゃないの」と云いかけて、はっと口をつぐんだ。
風がやんで、急にしんとなった戸外の、かなり遠いところで、早鐘の鳴る音が聞えたのである。ほかの音ではない、慥かに早鐘である。おひろ[#「ひろ」に傍点]は立って廊下へ出た。おぶん[#「ぶん」に傍点]は坐っていたが、すぐ裏手で人の声がし、ざぶざぶと、水の中を歩くような音が聞えた。
「そうだ、八幡様だ」と裏で云っていた、「いそいでな、――八幡様だぞ」
そこへおひろ[#「ひろ」に傍点]が戻って来た。
「土間が水よ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が云った、「土間が水でいっぱいよ、高潮らしいわ」
[#6字下げ]十[#「十」は中見出し]
おひろ[#「ひろ」に傍点]とおぶん[#「ぶん」に傍点]は屋根の上にいた。
まだ午前二時ごろであろう、押して来た水は静かだったが、信じられないほどの早さで嵩《かさ》を増し、二人が引窓から屋根へぬけだすまでに、半刻とは経っていなかった。――おひろ[#「ひろ」に傍点]はあがってしまい、おぶん[#「ぶん」に傍点]はおちついていた。暴風雨はきれいに去って、空には星がきらめいていた。おそらく、ほかにも屋根に登っている者があり、それを拾ってまわるのだろう、門前町の向うのほうで、櫓《ろ》の音や人の呼び交わす声が聞えた。おひろ[#「ひろ」に傍点]はそのたびに立ちあがって、声いっぱいになんども叫んだ。声のかれるほど叫んだが、こっちへ舟の来るようすはなかった。
水は軒まで浸いていて、ときどき家ぜんたいが身ぶるいをし、ぎしぎしときしんだ。
「いいわよ、ねえさん」とおぶん[#「ぶん」に傍点]が云った、「呼んだって聞えやしないわ、水だってこれ以上あがりゃしないわよ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は腰をおろし、あたりを眺めながら「みんな逃げたのね」と呟いた。前も、左右も、軒まで水に浸かった屋根ばかりで、星明りに見えるその、ひっそりとした無人の屋根が、(見馴れないためだろうが)ひどくぶきみに思えた。
「おぶん[#「ぶん」に傍点]ちゃん」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が調子の変った声で呼びかけた、「あんたこのあいだ、おけい[#「けい」に傍点]ちゃんの云ったこと聞いたでしょ」
おぶん[#「ぶん」に傍点]は振向いて、おひろ[#「ひろ」に傍点]を見た。
「あたしが嘘をついてるって、武家育ちだっていうのは嘘だってこと」とおひろ[#「ひろ」に傍点]はしゃがれた声で云った、「旗本の跡取と駆落ちしたことも嘘だって、あたしには良人も子供もないし、仕送りをしているっていうのも嘘だって、おけい[#「けい」に傍点]ちゃんの云うの聞いたわね」
「聞いたわ」おぶん[#「ぶん」に傍点]は頷いた、「おけい[#「けい」に傍点]ちゃんどうかしていたのよ」
「いいえほんとなの、ほんとだったのよ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が遮った、「おけい[#「けい」に傍点]ちゃんの云うとおり、あたしは武家育ちでもなんでもないし、病気の良人も子供もありゃあしないの、仕送りするなんていって、稼いだものをみんな溜めている。っていうことも本当なのよ」
「だって、ねえさん」とおぶん[#「ぶん」に傍点]は不審そうにおひろ[#「ひろ」に傍点]を見まもった、「だってそんなこと、あたしそんなこと本気にできやしないわ」
「恥ずかしいけれど本当だったのよ」
「わからないわ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]が云った、「もしそうだとして、それがねえさんの得になるわけじゃないでしょ」
「生きる頼りよ、生きる頼りだったの」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が云った、「初めは人からばかにされないために、拵《こしら》えた嘘だったけれど、しまいには自分でも本当のように思えてきたの、おけい[#「けい」に傍点]ちゃんにああ云われるまでは、自分が本当に武家育ちで、病気の良人と子供に、仕送りをしているんだっていう気持がしていたの、それがあたしの、たった一つの生きる頼りだったのよ」
おぶん[#「ぶん」に傍点]は黙っていて、それから、「でも」とおひろ[#「ひろ」に傍点]に訊いた。
「でもどうして、いまあたしにそんなことを云うの」
「云いたくなったの、嘘をついたままで死にたくなかったからよ」
「死ぬって、――ねえさん」
「たとえばの話よ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は水面を見やった、「もしかしてこの水で、もちろんそんなことはないだろうけれど、でももしかということがあるから」
おぶん[#「ぶん」に傍点]が「黙って」と手をあげた。
暗がりの向うに「おーい」という声がし、ぱしゃぱしゃと水を掻《か》く響が聞えた。おーい、とその声は叫んだ。「蔦家の人いるか」と叫ぶのが聞えた。おぶん[#「ぶん」に傍点]はあっと声をあげ、「良さんだわ」と云って立ちあがった。
「良さん」とおぶん[#「ぶん」に傍点]が絶叫した、「こっちよ、良さん、あたしいるわよ」
おぶん[#「ぶん」に傍点]はふるえだした。足が滑りそうになり、片手で棟を支えた。
「あの人来たわ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]はふるえながら夢中のように呟いた、「あの人来てくれたわ、やっぱり来てくれたわ」
そして繰り返し、良助に叫びかけ、水音はこっちへ近よって来た。それはじれったいほどのろく、ぱしゃぱしゃと水音をさせながらようやく近くなり、やがてそこへ来た。
「待ってたのよ」とおぶん[#「ぶん」に傍点]が云った、「良さんが来るだろうと思って、あたし待ってたのよ」
舟が軒にどしんと着いた。それは海苔採《のりと》りに使う小さな平底舟で、彼は棹でも櫓でもなく、櫂《かい》を持っていた。良助は、「こんな物で漕《こ》いで来たんだよ、櫓が使えないからね」と云った、「まさかいようとは思わなかったけれど、それでも念のためにと思ってね」
「うれしいわ、うれしいわ良さん」おぶん[#「ぶん」に傍点]は手を伸ばしながら泣き笑いをした、「あたしもう逢えないかと思ってたのよ」
良助は片手で屋根につかまり、足で舟を支えながらおぶん[#「ぶん」に傍点]の手を握って、「お」といった、「おまえだけじゃないんだな」
「おひろ[#「ひろ」に傍点]ねえさんよ」
「そいつは――」と彼は口ごもった、「おれは舟が漕げねえし、この小さな舟で三人となると」
「あたしはいいのよ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が首を振り、「いいえいいの」と、おぶん[#「ぶん」に傍点]がなにか云いかけるのを強く遮った、「あたしは店を預かった責任があるもの、いいからおぶん[#「ぶん」に傍点]ちゃんいってちょうだい」
おぶん[#「ぶん」に傍点]は「だってそんなこと」と泣き声をあげ、おひろ[#「ひろ」に傍点]は寄って来て、片手でおさんの肩をつかみ、「よく聞いて」とその耳へ口をよせていた。
「この水の中を来てくれたこと、忘れちゃあだめよ、これが、しんじつっていうものよ、おぶん[#「ぶん」に傍点]ちゃん、あたしいつか、なにもかも露の干ぬまのことだなんて、きいたふうなこと云ったわね、あれは取消してよ」おひろ[#「ひろ」に傍点]の喉が詰り、くっといって、なお続けた、「あたしにはそうだったけれど、そうでない場合だってある、あんたはきっとそうじゃないわ、――二人でやってみるのよ、二人で、わかるわね」
おぶん[#「ぶん」に傍点]が「ねえさん」と云い、おひろ[#「ひろ」に傍点]は持っていた財布を、おぶん[#「ぶん」に傍点]のふところへ押込んだ。その財布はかなり重く、おひろ[#「ひろ」に傍点]は「あたしの溜めたものよ」と囁いた。「二人の役に立ててね」と囁き、それから良助に向って、おぶん[#「ぶん」に傍点]を乗せるようにと云った。
「すぐほかの舟をよこします」と良助はおひろ[#「ひろ」に傍点]に云った、「すぐによこしますから待っていて下さい、さあ、――おぶん[#「ぶん」に傍点]ちゃん」
おぶん[#「ぶん」に傍点]はさからったが、おひろ[#「ひろ」に傍点]に押され、良助にどなられて、半ばむりやりに舟へ乗せられた。
「頼んだわよ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が叫んだ、「良さん、おぶん[#「ぶん」に傍点]ちゃんを頼んだわよ」
良助の答える声より、おぶん[#「ぶん」に傍点]の泣き声のほうが高かった。その泣き声と、ぱしゃぱしゃという、やかましい水音が、しだいに遠のいてゆき、おひろ[#「ひろ」に傍点]はまた、屋根の上へ腰をおろした。
「一人ぼっちね」とおひろ[#「ひろ」に傍点]はゆっくりあたりを眺めまわし、それから空を見あげて呟いた、「――お星さまがきれいだこと」
底本:「山本周五郎全集第二十七巻 将監さまの細みち・並木河岸」新潮社
1982(昭和57)年8月25日 発行
底本の親本:「オール読物」
1956(昭和31)年12月号
初出:「オール読物」
1956(昭和31)年12月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ