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しづやしづ
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しづやしづ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)苧環《おだまき》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#6字下げ]
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[#6字下げ]一[#「一」は中見出し]
「――しづの苧環《おだまき》くり返しか」と貞吉は頭をゆらゆらさせた、「むかしをいまに、だろう、むかしをいまに、なすよしもがな、てんだろう、違うか」
「ひどく酔っちまったな」と小村屋のいうのが聞えた、「これはもう歩けそうもねえぞ」
「泊らせちまうさ」とだれかがいった、「たまにはそのくらいのこともさせなければ、いくら四丁目が辛抱づよくっても可哀そうだ」
「しかし、場所が場所だからな」
「深川の網打場じゃあ、小村屋さんの御人体にかかわるか、いいさ、私がいっしょに泊っていくよ」
そら始まった、とだれかがいった。だれの声だかよくわからないが、「八官町のおきまりだ」と笑い、「四丁目はかこつけで、本当は八官町が泊りたいのさ」といった。
するともう一人が、四丁目のかみさんは家付きで、おそろしく気が強いという評判じゃないか、といった。
それは桜橋の松田屋の声らしい。続いて小村屋がなにかいい、だれともわからない声が、また、八官町をやりこめた。
「私は帰らないぜ」と貞吉がいった、舌のもつれるのが自分でもおぼろげにわかった、「――しづの苧環、むかしのことをいったって始まりゃあしない、私は泊るよ」
[#6字下げ]二[#「二」は中見出し]
「お呼びですか」という声がした、「どうなさいました、苦しいんですか」
貞吉は眼をあいた。こちらをのぞいている女の顔が、すぐ眼の前に見えた。
「なにかいったか」
「あたしをお呼びになったって、――」と女が微笑した。女は手拭で、濡れた髪の毛を拭きながら、貞吉に微笑しかけた、「お芳さんがいま知らせに来たんですよ」
「いまなん刻《どき》だ」
「九つ半(午前一時)ころでしょ」
「みんな泊ってるのか」
「八官町さんていう方だけよ、ほかの方たちはお帰りになったわ」
貞吉は「新兵衛か――」とつぶやいて、頭を振りながら起きあがり、枕もとにある水を飲もうとした。
女は「おひやなら新しいのを汲《く》んで来ますよ」といい、髪の毛の先を、手拭で巻いて束ねながら、水差を持って立ちあがった。
貞吉は手をあげて、「ちょっと――」と呼びとめ、ここでは酒は飲めないのか、ときいた。
お飲みになりたいの。うん、少し醒《さ》めたらしいんでね、無理でなければ飲みたいんだ。表むきはいけないことになってるのよ、でもあがりたいんなら持って来ますわ。じゃあ、そうしてもらおう。でもお肴《さかな》がないかもしれませんよ、といって、女は出ていった。
貞吉は立って、帯をしめ直した。
「堅いばかりが能じゃないよか、ふん」と彼は呟《つぶや》いて、夜具の脇へ片よって坐り、こぼれてくる髪の毛を掻《か》きあげた、「そういうことか、いいとも、好きなようにおだをあげるさ、ふん、おれだって――」
貞吉は耳たぶを引張った。
――たまにはやきもちのひとつもやかせてごらんな。
そういったときの、おひで[#「ひで」に傍点]の顔が、また眼のさきに見えるようであった。
「家付きの女房で、おそろしく気が強いっていう評判じゃないか」と彼はまた呟いた、「あれは桜橋の声だった。たしかに松田屋の文さんの声だった。……おそろしく気が強いって評判か、ふん、知ってやがるくせに」
女が戻って来た、「ごめんなさい」と声をかけて唐紙をあけ、貞吉を見て微笑した。
「おそかったでしょ、ごめんなさい」
女は背丈が高かった。痩《や》せがたで、三寸五分ちかくあるだろう。貞吉は女の背丈の高いのに初めて気がつき、「のっぽだな」といった。
そうなのよ、と女ははにかみ「ばかだから、ごはんを縦にたべたんですって」といい、坐って、酒肴をのせた盆をそこへ置いた。坐るときにふんわりと留木が匂った。
「刻はずれに済まなかった」と彼は一つ飲んでいった、「つきあってくれるだろう」
貞吉が盃《さかずき》を出すと、女は「どうしようかな」と首をかしげた。
「飲めるんだろう」
「あたしだめなの」と女はいった、「もう五年くらいも飲んだことがないのよ」
「五年くらいだって」
「でも頂くわ」と女は手を出した、「まねだけ注いでね」
貞吉が酌をすると、女は左手で盃を持ち、右手を盃の下へ当てて、「見ないでね」といいながら、危なっかしくすすった。あまりにうぶらしい手つきなので、貞吉は、こぼれてくる髪の毛を掻きあげながら、われ知らず微笑した。
女はそれに気がついたのだろう、肩をすくめてくすっと笑い、「いやだ――」といいながら盃を返した。
「いやだ――見ないでっていったのに」
「よかったよ」と彼はいった、「花嫁が祝言の盃を飲むようだった」
女ははにかんだ眼でにらみ、「気持が悪いかもしれないけれど」と頭へ手をやりながら、立ちあがった。
一杯で気持が悪くなったのか。いいえ、おぐしがうるさいようだから、といって、女は貞吉のうしろへまわった。あたしの櫛《くし》では気持が悪いでしょうけれど、ちょっと撫《な》でつけさせて下さいな。いいんだ、汚れてるからよしてくれ。でもちょっと撫でつけるだけ、この櫛きれいなのよ、「ほんと」といい、女は貞吉の乱れた髪を撫でつけた。
「名前は聞いただろうね」と彼は低い声でいった、「酔ってたもので忘れちゃったが」
「ほんとの名前はおしづ[#「しづ」に傍点]、へんでしょ」
「へんじゃないさ」と彼はいった、「――私の番になってくれたんだね」
「番って」
「よく知らないんだが、あいかた、とでもいうのかね」
「いいえ」とおしづ[#「しづ」に傍点]は含み笑いをした、「そうじゃないの、あたし手伝いなのよ」
女は櫛を自分の髪へさしながら元のところへ坐って、燗徳利《かんどくり》を取りあげた。あたしはここの女主人の友達で、女主人はおしげ[#「しげ」に傍点]というのだが、病気になったので、手伝いに来ていたの。ゆうべは客がたて混んだから、酒の酌にだけ出たのよ、と女は話した。
「そりゃあ悪いな」と彼がいった、「そういう人にこんな面倒をかけるなんて悪かった」
「あら嘘、あたしこそ悪いわ」と女は微笑した。「こんなのっぽのおばあさんで、あたしこそきまりが悪いわ」
「のっぽだけはたしかだ」と貞吉はいった。おしづ[#「しづ」に傍点]はにらんで、酌をしながら、「今夜は客が多くて、うさぎ[#「うさぎ」に傍点]さんがあなたのお相手に出られなかったのよ」またこんどいらっしゃいな、若くて可愛くていいひとよ、といった。
まるでとりとめのないことを、次から次と話しながら、かなり飲んで気がつくと、窓の障子が白んでいた。
「あら、雨戸を閉めなかったのね」とおしづ[#「しづ」に傍点]が立ちあがった、「ごめんなさい、もう明るくなってるわ」
「少し障子をあけようか」
「そうね、ちょっと息抜きをしましょう」
そういって障子をあけ、「あらひどい霧」とつぶやいた。五月の明けがたの、冷えた空気がながれこんで来、貞吉の酔った頬をひんやりとなでた。
「山か川か海でもあるといいんだけれど」と窓際に立ったままおしづ[#「しづ」に傍点]がいった、「ここは家が建て混んでいて、なんにも見えないわね」
「山や海が好きなのか」
「山の見えるところにもいたし、海の見えるところにもいたの」とおしづ[#「しづ」に傍点]がいった、「あたしいろんなことをして来たのよ、あなたなんか聞いたら、それこそびっくりするような、いろんなこと」
貞吉はふと眼をつぶった。おしづ[#「しづ」に傍点]のいいかたに、胸にしみるような調子があり、その声がかなりしゃがれ声だということに気づいた。
――悲しい、辛いことがあったんだね。
そうきこうとして、貞吉は頭を振った。
「生きていれば」と彼はいった、「だれだっていろいろなことにぶっつかるさ、私だって、――私なんかいまだって」
おしづ[#「しづ」に傍点]が障子を閉めた。少し荒っぽい閉めかたで、ぱたっと音がし、彼女は振向いてこっちへ来ながら、「よしましょう、こんな話」といった。貞吉が見ると、おしづ[#「しづ」に傍点]の頬がこまかくひきつっていた。
どこかの部屋で、客の起きる物音がしはじめた。
[#6字下げ]三[#「三」は中見出し]
三日目に、貞吉はまたその家へいった。
梅雨にはいったらしく、湿っぽい小雨の降る晩で、まだ宵のくちだったが、路地はひやかしの客も少なく、店もひっそりしていた。おしづ[#「しづ」に傍点]はすぐに出て来て、はにかんだ微笑をうかべ、「濡れたでしょ」といいながら、手拭で彼の袖や裾まわりを拭いた。そして、傘や履物を片づけておくようにと、店にいた若い女に頼んでから、このまえとはベつの、いちばん奥にある四帖半へ彼を案内した。
「汚ないけれど、いいかしら、ここ、あたしの部屋なのよ」
「おちついていいよ」
「いいわね」とおしづ[#「しづ」に傍点]がいった、「どうせ、うさぎ[#「うさぎ」に傍点]さんのところへいくんですもの、飲むうちだけの辛抱だから」
「うさぎ[#「うさぎ」に傍点]さんだって」と彼は訊き返した、「おしづ[#「しづ」に傍点]さんはだめなのか」
「あたしはだめよ」とおしづ[#「しづ」に傍点]は眼をそらした、「あたしは手伝いに来ているだけで、しょうばいに出てるんじゃないんですもの」
貞吉は「そうか」と溜息《ためいき》をついた。
「じゃあ、――」と彼はいった、「ここで飲むだけ飲んで帰る、ってわけにはいかないかな」
「さあ、どうかしら」
「いかないだろうな」と彼はいった、「料理茶屋じゃあないんだからな」
「そうね」とおしづ[#「しづ」に傍点]がいった、「でもちょっと待っててちょうだい、あたしおしげ[#「しげ」に傍点]ちゃんにきいて来てみるわ」
そして、すらっと立って、出ていった。
戻って来るまでに、ちょっと暇どった。「だめなんだな」と貞吉はつぶやいた。二十八にもなるのに、場所のしきたりにも気がつかない、なにかいい方法があるかもしれないのに、その思案もつかないだらしなさ、ちぇ、と貞吉は舌打ちをし、「だから、てめえの女房にまで軽く扱われるんだ」と自分にいった。
おしづ[#「しづ」に傍点]は酒の支度をして戻って来た。
「いいんですって」とおしづ[#「しづ」に傍点]は舌を出し、蝶足の膳《ぜん》をそこへ置いた、「あたしの好きなようにしていいんですってよ」
貞吉は「そいつは」といって、てれたように眼をそらした。
おしづ[#「しづ」に傍点]は一つ酌をしてから、いまおいしい物を拵《こしら》えて来るから、「もう少しひとりで飲んでいてちょうだい」といい、ぱっと上気したような眼で、貞吉を見て、出ていった。――貞吉はゆっくりと、なめるように飲みながら待っていた。それは楽しい時間であった。そんなに安らかな、包まれるように温かな、おちついた気分を味わったことはない。結婚して五年になるが、こんなにくつろいだ、安らかな気持を感じたことは、貞吉にはいちども覚えがなかった。
「あそこはうちじゃあない」と彼は口の中でつぶやいた、「おれのうちじゃない、これからも、いつまで経っても、決してこのおれのうちにはならないだろう」
おしづ[#「しづ」に傍点]が戻って来た。くすっと笑いながら「できそくなっちゃった」といって、皿と鉢を膳の上へ置き、新しい燗徳利を持って、的をした。鉢のほうは卵の黄身と味噌とを火で煉《ね》ったもの、皿のほうは干鱈《ひだら》を焙《あぶ》って裂いたのへ、甘酢をかけたものであった。
「気取ったことをするね、美味《うま》いよ」
「上手にやればもっとおいしいんだけれど」とおしづ[#「しづ」に傍点]は恥ずかしそうに笑った、「いそいだもんだから、それはできそくないよ」
貞吉は「これで充分だ、美味いよ」といい、一杯つきあわないか、と盃をさしだした。
おしづ[#「しづ」に傍点]はこんども「どうしようかな」とためらい、それから受取って、用心ぶかく、すするように飲んだ。
「あなたはお堅いんですってね」と盃を返しながら、おしづ[#「しづ」に傍点]がいった、「このあいだ八官町さんて方からうかがったわ」
貞吉は自嘲《じちょう》するように「新兵衛か」とつぶやいた。
「めったに茶屋あそびなんかなさらないんだって、だからあたし、もう来ては下さらないだろうって、思ってたのよ」
「いくじがないから」と彼がいった、「だれかさそって来ようと思ったんだけれどね、ずいぶん勇気をだしたんだけれど――迷惑じゃないかとも思ったしね」
「迷惑な筈がないじゃありませんか」とおしづ[#「しづ」に傍点]はそっとにらみ、低い、つぶやくような声でいった、「あたし、うれしかったわ」
それは(また)胸にしみるような調子であった。貞吉は眼をそらしながら、だれかさそって来れば二人きりで話ができないし、逢いたいことは逢いたいし、「ずいぶん迷った」のだといった。おしづ[#「しづ」に傍点]は急に、はずんだ声で、「あたし、頂くわ」といい、もう一つ盃を持って来るから、と立ちあがって出ていった。
貞吉は眉をしかめた。あやされるような楽しさで、胸がときめき、あまりに気持がうきたってきて、われながら「だらしがねえぞ」と思ったようであった。――おしづ[#「しづ」に傍点]は戻って来たが、盃を膳の上に置くと、客があがったので花帳をつけなければならない、「すぐに済むから」と引返していった。
貞吉は立って窓をあけ、独りで飲みながら、部屋の中を眺めまわした。
壁に掛けてある(包んだ)三味線。小さな茶箪笥《ちゃだんす》と鏡台。古びた長火鉢と、それを囲うように隅に立ててある枕屏風《まくらびょうぶ》。道具らしい物はそれだけであるが、それらがみな、あるべき場所にきちんと片づいていて、おちついた気分をつくっていた。
――ふしぎだ、この部屋はまえから知っているようだ。
まえに幾たびも来て、飲み食いもし、寝起きもしたような気がする、と貞吉は思った。そうだ、露月町のうちの、おふくろの部屋がこんなだった。もっと道具はそろっていたし、唐紙の模様も違う。窓はなくなって、廊下のほうが障子になっていた。よく見るとみんな違っているが、どことなく同じ感じがする。こうしていると、あのおふくろの部屋にいるようだ、と貞吉は心のなかでうなずいた。
おしづ[#「しづ」に傍点]が硯箱《すずりばこ》と小さな帳面を持ってはいって来た。客がたてこみそうなので、ここで帳面をつけることにして来た。「うるさいでしょうけれどごめんなさい」と貞吉をみつめ、はにかみ笑いをして、「だって向うにいるとお顔が見られないんだもの」とささやいた。
貞吉は眩《まぶ》しそうに眼をそらして、「私は構わない、うるさくなんかないよ」といい、その芸のない受けかたに(自分で)肚《はら》を立てたのだろう、盃を取って乱暴におしづ[#「しづ」に傍点]へさした。
「だいじょうぶかな」とおしづ[#「しづ」に傍点]がいった、「酔って帳面がつけられなくなりゃしないかな」
「そうしたら、私がつけるよ」
「あらまさか、こんなものをつけて頂いたら、それこそばちが当るわ」そういっておしづ[#「しづ」に傍点]は顔をそむけながらささやいた、「――今夜、泊ってって下さいね」
[#6字下げ]四[#「四」は中見出し]
貞吉はその夜おそく帰った。
おしづ[#「しづ」に傍点]は泊ってゆけとすすめたが、客の多い晩でおちつけなかったし、泊ることがおしづ[#「しづ」に傍点]にとって無理かもしれないと思い、九時ごろに立ちあがって、雨の中を帰った。
「またいらっして」とおしづ[#「しづ」に傍点]が店の外まで送って来て、いった、「おうちのほうに悪かったら、お顔だけでも見せにいらっしてね」
貞吉はおしづ[#「しづ」に傍点]の眼をみて、うなずいた。黒江町の通りへ出ようとして振返ると、おしづ[#「しづ」に傍点]はまだ軒下に立って、じっとこちらを見送っていた。
明くる日の夕方、貞吉はまた網打場へいった。まえの日からの雨が、まだ降り続いていて、灯ともしころだったが、その一画は昨日よりひっそりしていた。貞吉を見ると、おしづ[#「しづ」に傍点]は「あッ」というように口をあき、顔がべそをかくようにゆがんだ。
「不動様の近くまで来たんでね」と彼は口ごもった、「すぐに帰るよ」
おしづ[#「しづ」に傍点]は黙ったまま貞吉をあげ、ゆうべの部屋へとおした。部屋へはいるとすぐ、長火鉢の抽出《ひきだし》から、小さな紙包を出して、「いやだ、こんなことして――」といいながら、貞吉の手へ渡そうとした。
「お帰りになったあとでみたらこんなものがあるんですもの、いやだわ、あたし」
「だって」彼はどもった、「―――じゃあどうすればいいんだ」
「お金なんて、いや」とおしづ[#「しづ」に傍点]がいった。
貞吉はわけがわからず、「じゃあ、来られないぜ」といった。ただで飲み食いをするわけにはいかないからね、少なくって悪いが、それを取ってくれないんなら、もう来ないよ。困ったな、とおしづ[#「しづ」に傍点]は紙包を持っている自分の手を見た。あたし、いやなんだけれど、困ったな。困るほど、ありゃあしない、たぶん不足だろうけれど取っておいてくれ、さもなければ本当に来られやしないよ、と貞吉がいった。
「そんならいいわ」とおしづ[#「しづ」に傍点]がいった、「悪いけれどおあずかりしておくわ、その代り今夜はひまらしいから、ゆっくりしていらしってね」
「いや、今夜は用達しの帰りなんだ」と彼は首を振った、「この次にゆっくりしよう、今夜は早くひきあげるよ」
「つまらない」とおしづ[#「しづ」に傍点]はいった、「つまらないわ、あたし、そんなら、いっそ来て下さらなければいいのに」
そういってすぐに「うそ、うそ」と強くかぶりを振り、貞吉にとびついて、「うそよ、ごめんなさい、来て下さるだけでいいの」と両手で抱きしめ、「お顔を見るだけでいいの、ごめんなさい」といいながら、そのままのどで泣きだした。
貞吉はおしづ[#「しづ」に傍点]の肩を抱き、激しく頬ずりをしながら「おしづ[#「しづ」に傍点]」とささやいた。すると胸がいっぱいになり、息が詰って、あえいだ。おしづ[#「しづ」に傍点]は顔をまわして、唇をよせたが、貞吉はぶきように避けた。
「あたし、悪い女ね」とおしづ[#「しづ」に傍点]がすすりあげながら、ささやいた。「あたし、悪い女よ、あたしがどんな女だかっていうことがわかったら、あなたきっと嫌ってしまうし、もう来ては下さらなくなるわ」そして声を詰らせ、まるで苦痛を訴えるようにいった、「あたしにはいろいろなことがあったのよ」
「生きていれば、だれだっていろいろなことにぶっつかるよ」
「このまえもそう仰《おっ》しゃったわね」
「おしづ[#「しづ」に傍点]は悪くはありゃあしない」と彼はいった、「生きてゆくっていうことは、男にだってなまやさしいものじゃないんだ、まして女の身となれば、どんなに苦しい辛いことがあるか、どんなに生きにくいかっていうことは察しがつくよ、もし悪いとすれば、それはおしづ[#「しづ」に傍点]じゃあない、世間のほうが悪いんだ」
「そうじゃないの、あたしはそうじゃないの」とおしづ[#「しづ」に傍点]はしゃがれた声でいった、「あたしは自分が悪かったの、世間の罪じゃなく、みんな自分が悪かったのよ、ほんと、あたしって悪い女なのよ」
そして急に貞吉からはなれ、酒の支度をして来る、と立ちあがった。袖口で眼を拭きながら、部屋を出ようとして振返り、にっとはにかみ笑いをして「いやだ――」と低い声でいった。
貞吉は半刻ほどして帰った。用達しというのは嘘だったが、いってしまったてまえ、おちつくわけにはいかなかったのである。
おしづ[#「しづ」に傍点]はやはり送って出て、また来てくれるようにといった、「またいらしってね、きっとよ」と繰り返し、手を伸ばして、そっと貞吉の腕にさわった。
明くる日、――貞吉は午《ひる》すぎに八官町の新兵衛を訪ねた。新兵衛は「井ノ伊」という足袋屋で、父親は亡くなったが、継母のたよ[#「たよ」に傍点]がまだ(四十二歳で)元気だったし、しょうばいのほうも職人を七人ほど使ってかなり繁昌していた。新兵衛にはおもと[#「もと」に傍点]という妻と、二人の子があるが、継母はよくできた人で、家内のおりあいも、うまくいっていた。貞吉が「井ノ伊」の店を訪ねるのは久しぶりで、新兵衛はすぐに酒の支度を命じたが、貞吉は「ちょっと出られないか」とさそった。
「出てもいいが」と新兵衛はさぐるような表情で彼を見た。「――なにか、あったのか」
貞吉はあいまいに首を振り、「ちょっとつきあってもらいたいんだ」といった。
新兵衛はなにかあるなと感じたらしい、手早く着替えをして、いっしょに外へ出た。「さきに一軒よってくれ」といって、新兵衛は三十間堀の「金八」という料理屋へさそった。小体《こてい》な店だったが、近ごろ店開きをしたのだそうで、家もしゃれた造りだし、凝った物を食わせるので評判だ、ということであった。そこで一刻ばかり飲んでいるうちに、また雨が降りだした。
貞吉はおしづ[#「しづ」に傍点]の話をするつもりだったが、いざ二人で向きあってみると、なにも話すことはなかった。話せば笑われるか、意見をされそうだし、相談してどうしようということもない。これはなにもいわないほうがいい、と貞吉は思い直した。
新兵衛はやがて「なにか話でもあるのか」と訊《き》いた。貞吉は首を振った。べつにそんなことはない、ただ一杯つきあってもらおうと思ったんだ。珍しいな、四丁目へいってから初めてだぜ、と新兵衛がいった。
「うちでなにかあったのか」
貞吉は「いや」と頭を振った。
「しっかりしてくれよ」と新兵衛がいった、「おまえ、露月町にいたじぶんとは人が変ったぜ、まるでしょっちゅう重荷でも背負ってるようじゃないか、婿ってものはそんなに小さくなってなくちゃならないのか」
貞吉はびっくりしたように新兵衛を見た。新兵衛はもう酔っていて、その表情も、口ぶりにも、酔っているときの辛辣《しんらつ》な色があらわれていた。
「四丁目へ婿にゆくまえ、みんなで飲んだことがある」と新兵衛はいった、「桜橋の松田屋へいった文ちゃん、――小村屋と、おれ、――寺子屋じぶんからの友達四人だった、覚えてるか」
[#6字下げ]五[#「五」は中見出し]
そのときおれたちが、婿になんかゆくなといったら、おまえはいばって、「河内屋のしんしょうを飲み潰《つぶ》してみせる」といった筈だ。そういばった筈だが、覚えてるかと、新兵衛はいった。
あのじぶんは、四人のなかでおまえがいちばん活きがよかった。おれたちに酒の味を教えたのもおまえだ。露月町の「越前屋」といえば、糸綿問屋では知られた老舗だし、しち堅いので評判の家族だった。おやじさんは堅人だったし、兄貴の仲次郎さん、平吉さん、みんな堅かった。
おまえだけは向っ気が強くって、十六七から酒も飲むし、芝居小屋だの寄席だのへ出入りはするし、ぐれたような仲間ともつきあってた。まさか河内屋を「飲み潰す」とは思わなかったが、おまえなら、婿にいってもしぼんじまうようなことはなかろう、さぞ活きのいい婿になるだろうっておれたちは話しあったものだ。
それがどうだ、いったとたんからしゅんとしちまって、ろくすっぽおれたちとのつきあいさえしなくなった。どうしてだ、河内屋にはもうしゅうともしゅうとめもいない、だれに気兼ねしてそんなに小さくなってるんだ。家付き娘のおひで[#「ひで」に傍点]さんが、そんなに怖いのか、そうなのか、と新兵衛はいった。
「このまえ松田屋のじいさんの、米の字の祝いで宴会があった」と新兵衛は続けた、「そのとき、おれたち三人で話したんだ、四丁目があれじゃあ、ひどすぎる、ひとつ活を入れてやろうって、それでむりに酔わせて、網打場へつれていったんだ、新吉原《なか》なんぞじゃあ、薬が効くまい、岡場所にしようといったのはおれだ、わかるか」
「わかるさ、よくわかるよ」と貞吉は力のない声でいった、「おれだって、われながらだらしがねえと思っているんだ、しょっちゅう思ってるんだ、けれども――」
「飲めよ」と新兵衛がいった、「おひで[#「ひで」に傍点]さんがいくら男まさりだって、まさか取って食うわけじゃあないだろう、しっかりしてくれ」
あの晩、おまえは酔って「昔を今になすよしもがな」ってしきりにいってた。気取るなよ、越前屋の貞の字がなんだ、いまはれっきとした河内屋貞吉、自分のかみさんと自分のしんしょうじゃねえか、びくびくするない、と新兵衛がいった。
だが、少しいいすぎたと思ったのだろう、貞吉の浮かない顔に気がつくと、「おい」と声をひそめた。
「本当になにかあったんじゃないのか」
「なにかって、――」
「このあいだうちをあけたことでよ」と新兵衛がきいた、「おひで[#「ひで」に傍点]さんと喧嘩《けんか》でもしたんじゃあないのか」
「そのくらいの情があればな」と貞吉は顔をそむけ、それから急に「いきなりだが」と新兵衛を見た、「少し都合してもらえるか」
「金か」と新兵衛がいった、「少しぐらいなら持ってるが、いくらだ」
「いや、いまじゃないんだ、近いうちに頼むかもしれないんだ」と貞吉はいった、「三十両ばかりあればいいと思うんだが、露月町の兄貴には頼めないんでね」
「仲次郎さんも相当だからな」と新兵衛は手酌で飲んだ、「婿入りの晩だろう、聞いたよ、河内屋の婿になった以上、もう私と兄弟の縁は切れた、これからはどんなに困ったからといって、一銭の補助もしないからって、みんなの前ではっきりいったそうじゃないか」
「おれの行状も悪かったんだろうが」
「いいにくいことをいう人だ、仲次郎さんという人は」と新兵衛がいった、「貞の字もおふくろさんの生きていたうちが華だったな」
そして「金のことは引受けた」といった。
貞吉はそこで新兵衛と別れた。新兵衛はなにもきかなかったが、「なにかある」とは察したらしく、貞吉がひと足さきに帰るというと、いいだろうとうなずき、「おれはもう少し飲んでゆく」といって、あとに残った。――貞吉は駕籠を呼んでもらって、「金八」からまっすぐに網打場へいった。雨になったためだろう、時刻はまだ四時くらいなのに、あたりはたそがれのように暗く、空気も冷えてきて、駕籠の中にいても肌寒いくらいだった。
「そうだ、ぶっつかってみよう」と彼は駕籠の中でつぶやいた、「金のことをいいだしたのがきっかけだ、自分でも思いがけなかった、いうつもりはなかったのに、ふいと口に出ちまった、こういうのが、いいきっかけというやつかもしれない、そうだ、ひとつぶっつかってみよう」
黒江町から曲るところで駕籠をおり、手拭を頭からかぶって、その横丁へ走りこんだ。店は人のけはいもなく、狭い土間は暗くひっそりしていて、お芳という女が出て来るまで、幾たびも呼ばなければならなかった。――ねぼけまなこで出て来たお芳は「あらッ」と眼をみはり、どうぞといって、おしづ[#「しづ」に傍点]の部屋へ案内した。
「おしづ[#「しづ」に傍点]ねえさんは、うさぎ[#「うさぎ」に傍点]さんたちとお湯へいってますの」とお芳はいった、「もう帰るじぶんですから、待って下さいな、あ、それから――、いつもどうも済みません」
貞吉は「なんだ」と訊いた。お芳は「うさぎ[#「うさぎ」に傍点]さんや自分がいつも花をつけてもらって済まない」といい、座蒲団を出したり、茶を淹《い》れて来たりした。
――おしづ[#「しづ」に傍点]のしたことだな、と貞吉は思った。そうだ、二度めのときからだ、おしづ[#「しづ」に傍点]はしょうばいに出ているのではないから、ほかの女に花をつけなければ、おれをあげるわけには、いかなかったんだろう。自分で花をつけて、しかも、おれが金を置いていったら返そうとした。
「おい」と彼は自分にいった。「この田舎者、しっかりしろ、みっともねえぞ」
おしづ[#「しづ」に傍点]はまもなく帰って来た。廊下の向うが賑《にぎ》やかになったとおもうと「あら、ほんと」という、おしづ[#「しづ」に傍点]のはずんだしゃがれ声が聞え、つぎに女たちのはやしたてる声が聞え、続いて、女たちのはやしたてる笑い声と、「ええ、いいわ、おごるわよ」といいながら、廊下をいそいで来る足音が聞えた。
貞吉は耳たぶをつまんで引張った。唐紙をあけて、おしづ[#「しづ」に傍点]が貞吉を見、「ほんとだ、ああうれしい」といいながら、はいって来た。いらっしゃい、あたし、だまかされるんだと思ったわ、まさか今日いらっしゃるとは思わなかったものだから。いまお湯へいって来たところなの、こんな恰好でごめんなさいね。
おしづ[#「しづ」に傍点]はそういいながら、湯道具を鏡台の脇へ置き、貞吉をじっと見て、微笑した。――湯あがりの頬がつやつやとして、衿《えり》あしから頬まで、ぱっと血の色がさしていた。貞吉はまた耳たぶを引張り、おしづ[#「しづ」に傍点]はもういちど微笑してから、「ちょっと待ってね」といって鏡台に向った。
ざっと髪を撫でつけ、白粉《おしろい》をはいてから、おしづ[#「しづ」に傍点]は貞吉のそばへ来て、改めて、「いらっしゃい」と神妙におじぎをし、それから低い声で「うれしいわ」といった。
「八官町と飲んで来たんだ」と貞吉はまぶしそうな眼つきをしていった、「今夜はゆっくりするよ」
[#6字下げ]六[#「六」は中見出し]
夜なかの二時すぎ、――貞吉は寝衣《ねまき》の上に半纒《はんてん》を重ねて、夜具の上に坐って飲んでいた。枕許《まくらもと》の膳には、喰べ残した皿小鉢と、徳利が二本。おしづ[#「しづ」に傍点]が十能を持ってはいって来て、長火鉢に火をいれ、それから出ていって、こんどは燗徳利を三本と、小鍋《こなべ》を持って戻って来、小鍋を火にかけてから、こっちへ向いて貞吉に酌をした。
このあいだずっと、おしづ[#「しづ」に傍点]は(ほとんど)休みなしに話していた。
彼女は芝の金杉に生れた。家は建具屋で、兄が二人あり、かなり豊かに育てられた。小さいじぶんから読み書きを習うかたわら、長唄や踊の稽古にかよい、十六の年までに、どちらも名取りになった。そこで謀叛心《むほんしん》が起こり、親たちに無断で芸妓になった。
「どうしてそんな気持になったのか、いまになってみると、自分でもわからないの」とおしづ[#「しづ」に傍点]はいった、「お父っさんはやかましい人だったけれど、おっ母さんや兄さんたちには可愛がられていたし、これがいやだ、っていうことはなに一つなかったんですもの」
彼女は柳橋で芸妓になった。
芸妓になった手順は話さなかったが、長唄か踊の関係でそうなったのだろう。そこにいまこのうちの主婦になっているおしげ[#「しげ」に傍点]がいて、必要なことをしんみに教えてくれた。好きでなった芸妓だから、自分でも面白かったし、客もよく付いて、二年ばかりは天下を取ったような気持だった。親や兄たち、――ことに父親は怒って、「戻って来い」と幾たびもどなりこんで来たが、おしづ[#「しづ」に傍点]はそのたびに逃げだして、いちども会わずにしまった。母は来なかったが、兄たちは三度ばかり来て、おしづ[#「しづ」に傍点]の気持が動かないとわかったのであろう、「いやになったら、すぐに知らせろ」といい、それから暫くのあいだは縁が切れたようになった。
これらの話は順序立ったものではなく、あとさきになったり、脇へそれたり、記憶ちがいに気づいていい直したりするし、またその言葉つきはぎこちなく、いいたいことの半分もいいあらわせないというぐあいで、そのために却《かえ》って、話すことにしんじつさが感じられた。
「それからね、あたし、――いってしまうけど、人のおかみさんになったの」
「好きだったのか」
「ええ、正直にいうけれど好きだったわ」とおしづ[#「しづ」に傍点]はいった、「あたしのほうからおかみさんにしてくれっていって、いっしょになったの、ばかね、よしたほうがいいって、みんなに意見されたのよ、そのひと堅気じゃなかったもんですからね」
「堅気じゃないって」
「恥ずかし、きかないで、――」とおしづ[#「しづ」に傍点]は手を振り、貞吉に的をしながらいった、「その人とは七年いっしょにいて、三年まえに別れちゃったの、これでおしまい」
貞吉はちょっと黙っていたが、やがておしづ[#「しづ」に傍点]を見て、「苦労したんだな」ときいた。ええ、苦労したわとおしづ[#「しづ」に傍点]はうなずいた。お話にならないような苦労のし続けで、京、大阪から、九州の長崎というところまで、ながれていったこともあるのよ。長崎だって、と貞吉が眼をそばめた。いやだ、訊かないで、とおしづ[#「しづ」に傍点]はまた手を振った。あたし、苦労するのは平気だったわ、ときには二日くらい喰べないでいたことがなんどもあるけれど、そんなことはなんでもなかったの。そしてその人が立ち直って、景気がよくなると女でいりが始まった。お定りね、あたしはばかだけれど、それだけはがまんできなかった。ほかのことならどんな辛抱でもするわ、でもそれだけはいや、それだけはがまんできなかった。すぐにとびだして、こっちから離縁状を送ってやったわ、とおしづ[#「しづ」に傍点]はいった。
貞吉はおしづ[#「しづ」に傍点]に盃をさし、酌をした。
「酔ってるのね、あたし」とおしづ[#「しづ」に傍点]は盃をひと口にすすった、「ばかな話ばかりで、ごめんなさい」
「うちの人たちはどうしている」
「ふた親と下の兄さんは死んじゃったわ」とおしづ[#「しづ」に傍点]はいった、「上の兄さんは麻布で世帯を持って建具屋をやっているけど、ふた親と下の兄さんは一昨年の流行《はや》り病いで、いっぺんにとられてしまったわ」
「その――」と貞吉がきいた、「ご亭主になった人とは、すっかり縁が切れたのか」
「向うでは戻って来てもらいたいらしいの、でもあいだに人を立てて、はっきり離縁状も取ってあるし、それよりも、あたしの気持が変っちゃって、戻ろうなんて気はこれっぽっちも起こらないの、自分でもふしぎなくらいよ、きれいさっぱり、二度と顔も見たくないわ」
「それなら」と貞吉がいった、「私とうちを持っても、さしつかえることはないじゃないか」
おしづ[#「しづ」に傍点]は頭を振り、「うれしいけれど、とても――」としゃがれた低い声でいった。
「よく聞いてくれ」と貞吉がいった、「さっき話したとおり、私は河内屋を出るつもりだ、どうしても女房とうまくゆかない、たぶん性が合わないんだろう、ほかにどういいようもない、女房は私が不満らしいし、私は女房に歯が立たない、本当に歯が立たないという感じで、このままいっしょにいると、腑抜《ふぬ》けになってしまいそうなんだ」
「あたしお針もうまいのよ」とおしづ[#「しづ」に傍点]がいった、「縫い張りもできるし、御飯も炊けるの、ほんとよ、嘘つかない、自分でいうのはおかしいけれど、なろうと思えば、あたしいいおかみさんになれると思うわ、でも、――そういって下さるのはうれしいけど、とてもなれないわけがあるのよ」
「まえの人のことか」
「ちがう」とおしづ[#「しづ」に傍点]はかぶりを振った、「それはあいだに人を立てて、はっきり縁を切ったっていったでしょ、そんなことじゃないの」
「じゃあどういうわけなんだ」
おしづ[#「しづ」に傍点]はうつむいて、「いえないわ」とつぶやくようにいった。だれにもいえないことなの、どうかきかないで、これだけはどうしてもいえないことなんだから。それなら一つだけきくが、おしづ[#「しづ」に傍点]は私が嫌いじゃあないのか、と貞吉がいった。するとおしづ[#「しづ」に傍点]は「ひどい」と小さく叫び、とびかかるように貞吉へしがみついた。
「ひどいわ、知っているくせに」とおしづ[#「しづ」に傍点]は彼を抱き緊め、激しく頬ずりをしながら、ふるえ声でささやいた、「知っていてそんなことをいうなんて、意地わるよ、ごしょうだからいじめないで」
[#6字下げ]七[#「七」は中見出し]
私はあきらめない、どうしてもおまえとうちを持ちたいんだ。河内屋を出て、おまえとうちを持って、自分で糸綿の商売を始めたいんだ、どうしてもだ、と貞吉は繰り返した。おしづ[#「しづ」に傍点]はかなしそうに、それだけはできない、「それだけは堪忍してちょうだい」とかぶりを振るばかりであった。
「おまえが承知するまで来る」と貞吉はいった、「なん十たびでも、かよって来る、私は本気なんだ」
おしづ[#「しづ」に傍点]は長火鉢の前へ戻り、銅壺《どうこ》の中へ燗徳利の一本を入れ、煮えている小鍋を、膳の上へおろした。貞吉が見ていると、おしづ[#「しづ」に傍点]の口から鳴咽《おえつ》がもれ、頬が涙で濡れていた。おしづ[#「しづ」に傍点]はそれをふこうともせずに、小鍋の蓋を取りながら「召上ってみて」といった。
「煮詰っちゃったけれど、薩摩汁《さつまじる》っていうの、長崎で覚えて来たのよ、ほんと、わりかたおいしいのよ」
明くる日、貞吉は午ちかいじぶんに帰った。
「またいらしってね」とおしづ[#「しづ」に傍点]が弱よわしく笑いかけながらいった、「怒らないで、またいらしって、ごしょうよ」
それから貞吉は足繁く網打場へかよった。長くて二日おき、たいていは一日おきで、毎日かよう日も続いた。彼の顔を見るたびに、おしづ[#「しづ」に傍点]は可哀そうなほどよろこび、そのたびごとに済まながった。
「あたしが出られるといいんだけど」とおしづ[#「しづ」に傍点]はいう、「おしげ[#「しげ」に傍点]ちゃんが病気だから、夜は出られないし、まさか昼ひなかよそでお逢いするわけにもいかないし、わがままばかりいってごめんなさい」
おしづ[#「しづ」に傍点]はすぐにあやまる。なにかいってはいそいであやまり、小娘のようにはにかみ、そしていつも隙だらけなことを、貞吉は知った。芸妓になるために無断で家を出奔したり、堅気でない男に惚《ほ》れて、七年ものあいだ(九州くんだりまで放浪するほど)苦労したというような、激しい気性はどこにも感じられない。少なくとも貞吉には感じられなかったし、あまりにすなおで隙だらけなところが、むしろ不憫《ふびん》に思われるくらいだった。
「気をつけたほうがいいよ」とあるとき貞吉がいった、「おしづ[#「しづ」に傍点]は火傷をしても火の熱さがわからないらしい、そんなふうだと人に騙《だま》されるよ」
「あたしばかだからね」とおしづ[#「しづ」に傍点]は微笑し、そして、まじめな顔でいった、「――でも、あたしみたいな女をだますとすれば、よっぽどの悪人だと思うわ」
貞吉は眼をみはった。みはった眼でおしづ[#「しづ」に傍点]を見まもり、それから「うん」とうなずいた。
こうして網打場へかようあいだに、貞吉は一方で自分の計画を進めていた。八官町の新兵衛が相談に乗ってくれた。河内屋を出ることも、自分で商売を始めることも、新兵衛はよろこんで同意し、松田屋と小村屋を呼んで、資金を集めたり、手分けをして借家を捜したりしてくれた。これらのことは、露月町へも河内屋へも内密のままはこんだ。話せば事が面倒になる。さきに事実をこしらえてしまうほうが、「話は早い」という意見だった。
河内屋では妻のおひで[#「ひで」に傍点]が、うすうす勘づいていたらしい。貞吉が、にわかにおちつかなくなり、絶えず外出したり、泊って来たりするのだから、まるで気づかないというほうが不自然である。たしかに「なにかある」と思っているらしいが、態度にも口にも、それらしいことは決してあらわさなかった。以吉はふと「おひで[#「ひで」に傍点]の思う壺にはまっているのではないか」と思い、妙なことにひどく不愉快になった。しかし、そのほうがうるさい手数が省けるし、こっちも気が楽だと肚をすえた。
その年は梅雨が長く、六月中旬になっても、晴れるかとみるとまた降りだす、という日が続いた。
神田横大工町の、柳原地に面した通りに家を借りて、造作を置し、水を入れた。間口九尺、奥行二間半の小さな家だが、「夫婦で商売にとりつくには十分だ」と思った。――家の支度が出来あがったとき、貞吉は三人におしづ[#「しづ」に傍点]のことをうちあけた。網打場の女だというと、三人はあっけにとられたが、新兵衛だけはすぐに「あの女か」とうなずいた。初めての晩、貞吉が酔いつぶれて寝たあと、新兵衛はながいことおしづ[#「しづ」に傍点]と話した。彼が貞吉のことをいろいろ出したということは、おしづ[#「しづ」に傍点]の口から貞吉も聞いていた。新兵衛はその晩のことを覚えていたらしい。小村屋や松田屋が、不服そうな、がっかりしたような顔をすると、あの女なら自分も知っている、「いいじゃないか」と、少しためらいがちにいい、それからはっきり、「いいよ、あれなら大丈夫だ」といった。
「会ってくれればわかる」と貞吉がいった、「あさっての二十二日がいいんだ。こころ祝いをしたいから、三人で来てくれ、そのときおしづ[#「しづ」に傍点]にも会ってもらうよ」
「ふしぎだな」と松田屋がいった、「こうしてみると、貞の字はすっかり昔に返ったようじゃないか、こんどのことが始まってから、顔つきまで変ってきたようだぜ」
「あんまり昔に返られても困るよ」と小村屋がいった、「なにしろ、相当な三男坊だったからな、うっかりすると手綱を切りかねないんだから」
「こんどのかみさんに頼むんだね」と新兵衛がいった、「つれ添う相手によって、性分まで変る者がある、どうやら貞の字はその口らしいや、こんどのかみさんに会ったら、よく三人で頼むことにしよう」
貞吉は苦笑しながら、黙って聞いていた。
その夜、――貞吉はいちど河内屋へ帰り、店の者に、「四、五日留守にするから」と断わって、すぐにとびだすと、駕籠をひろって深川へ向った。
おしづ[#「しづ」に傍点]は浮かない顔で彼を迎えた。「どうしたんだ」と部屋へはいるなり、彼がきいた。「機嫌が悪いようじゃないか、どうかしたのか」
おしづ[#「しづ」に傍点]は首を振り、「なんでもないわ」少し頭が重いだけよ、といった。貞吉はぐったりとそこへ坐った。はずんでいた気持が挫《くじ》かれ、これまで奔走していた疲れが、いっぺんに出てくるようであった。お酒の支度をしましょうか、とおしづ[#「しづ」に傍点]がきいた。うん、と貞吉は陰気そうにうなずいた。今夜はここのおかみさんに話があるんだが、飲んでからでもいいだろう。おかみさんって、おしげ[#「しげ」に傍点]ちゃんのこと。そうだよ。おしげ[#「しげ」に傍点]ちゃんになんの用があるの、おしづ[#「しづ」に傍点]はちょっと色を変えた。
「おしづ[#「しづ」に傍点]はこのうちを出るんだ」と貞吉がいった、「だから、代りにだれか人を頼んでもらうんだよ」
「あたしが、どうするんですって」
「このうちを出るんだ」
「からかわないでちょうだい」
「じゃあ、おかみさんの部屋へゆこう」と貞吉は立ちあがった、「さきに話をつけよう、そのほうがいい、そうすればからかってるかどうかわかるよ」
[#6字下げ]八[#「八」は中見出し]
おしげ[#「しげ」に傍点]は承知した。
寝床の中で横になったまま、「あなたのことは、うかがっていました」いちどおめにかかりたいと思ってたんです、といい、貞吉の話を聞き終ると、おしづ[#「しづ」に傍点]に向って、「それごらんなさい」といった。
「あたしのいったとおりじゃないの、ちゃんといらっしゃったし、そんな苦労をなすってたんじゃないの」とおしげ[#「しげ」に傍点]はいった、「それなのにあんたときたら、もう棄てられたんだなんて」
「あ、いわないで」とおしづ[#「しづ」に傍点]はあわてて遮《さえぎ》った、「ごしょうだから、いわないで」
「なにがどうしたんだ」
「あなたが四日おみえにならなかったら、もうきっといらっしゃらない、棄てられたんだなんていって、今日は朝から泣いたりしていたんですよ」
おしづ[#「しづ」に傍点]は袖で顔を隠し、「ひどい」とからだを振り、「ひどいわ、おしげ[#「しげ」に傍点]ちゃん」と袖の中からいった。ああそれでか、と貞吉は思った。それであんな浮かない顔をしていたのか、と思い、おしげ[#「しげ」に傍点]と眼を見あわせながら、苦笑した。
「このひと弱虫なんですよ」とおしげ[#「しげ」に傍点]はいった、「気が強いくせに、弱虫なんです、でもおめにかかって安心しました。あなたならこのひとを仕合せにして下さるでしょう、どうか末ながく可愛がってやって下さい」
「いやだ、待ってよ」とおしづ[#「しづ」に傍点]は遮り、抑えていた袖をとって、まじめな顔つきでいった、「そんなふうにいわないで、おしげ[#「しげ」に傍点]ちゃん、まだきまったわけじゃないんだから」
「きまったわけじゃないって」と貞吉がおしづ[#「しづ」に傍点]を見た、「それはどういうことだ」
「あっちへいきましょう、あたし聞いて頂きたいことがあるの」
「いや、ここで聞こう」
おかみさんの前で聞こう、と貞吉はいい、おしづ[#「しづ」に傍点]は、「向うへいきましょう」と首を振った。
おしげ[#「しげ」に傍点]はとりなすように「あっちへいってあげて下さい、二人っきりで話したいんでしょ」と笑い、おしづ[#「しづ」に傍点]に向って、「今夜は帳面は構わないから、ゆっくり話すほうがいいわ」といった。おしづ[#「しづ」に傍点]は貞吉を促して立ち、自分の部屋へ戻ると、いま酒の支度をするから、といって引返していった。
このあいだに、外はまた雨になったとみえ、降る音は聞えないが、窓の外のどこかで、間遠にあまだれの落ちる音が聞えた。
その夜は気温があがって、かなり、むしむししたが、おしづ[#「しづ」に傍点]は長火鉢に火を入れ、角樽《つのだる》を持ちこんで来て、「今夜はあたしも頂くわ」などといい、膳拵えにかなり手間がかかった。すっかり支度ができて、飲みはじめてからも、肝心なことはなかなかきりださず、「おしげ[#「しげ」に傍点]ちゃんていいひとでしょ」とか、「このごろ旦那の足が遠のいているのよ」などと、ひとのことをとりとめもなく話した。――客のたてこむ時刻になり、このうちへもあがったし、裏隣りのほうも賑やかになった。
「話さないのか」と貞吉がいった、「いつまで待たせるんだ」
「もう少し待って」とおしづ[#「しづ」に傍点]はまた盃を取った、「もう少し酔わなければだめ、これじゃあまだ話せないのよ」
「断わっておくが、私のほうはきまってるんだぜ」と貞吉は酌をしてやった。
「家もはいるばかりになってろ、河内屋と縁を切る手筈もついてる、商売の元手も友達三人で出してくれる、みんなすっかりきまってるし、いまこのうちのおかみさんも、あんなによろこんでくれていたんだから」
「おしげ[#「しげ」に傍点]ちゃんは知らないのよ」とおしづ[#「しづ」に傍点]は遮った、「だれも知らないことでわけがあるの、ごめんなさい、もう少し飲まして」
貞吉は酌をしてやった。
自分でも飲みながら、貞吉は待った。おしづ[#「しづ」に傍点]は話しださなかった。肴《さかな》を替えに立ち、酒の燗をし、ふと雨の音に聞きいるかと思うと、またおしゃべりをはじめるというぐあいであった。貞吉も酔ってはくるし、そのとりとめのないおしゃべりが面白いので、つい時間の経つのを忘れてしまった。――そんなふうにして、二刻ばかりも過したらしい。やがてうさぎ[#「うさぎ」に傍点]さんという女の「もう店を閉めよう」という声が聞え、気がついてみると、あたりはいつかひっそりしていて、やや強くなった雨の音が聞えて来た。
「もういいだろう」と貞吉は坐り直した、「話を聞こう」
「困ったなあ」とおしづ[#「しづ」に傍点]は声をひそめた、「困ったな、いやだなあ」
「私は聞かなくってもいいんだぜ」
「だめなのよ」とおしづ[#「しづ」に傍点]は首を振った、「あなたといっしょになるとしたら、どうしたって聞いて頂かなくちゃならないし、お聞きになったら、きっとあたしがいやになるにきまってるんですもの」
隠した子でもあるのか、と貞吉がきいた。おしづ[#「しづ」に傍点]はかぶりを振った。子供は産んだことがない。「七年いっしょにいた人とも子供はできなかった」とおしづ[#「しづ」に傍点]はいった。それなら遠慮ぬきにきくが、牢へはいったことでもあるのか。まさか、牢屋へはいるほど悪いことはしないわ。じゃあなんだ、ほかになにがある、牢でもなく、子供でもなく、またまえのひととはきれいに縁が切れていて、ほかになにがそんなに「困ること」があるんだ、なんだ、と貞吉がたたみかけた。
「いいわ、いってしまうわ」とおしづ[#「しづ」に傍点]は顔をあげた。酔っていた顔が、急に硬ばって白くなり、唇がふるえた。よほど話すのがいやらしい、「困ったなあ――」と、もういちど呟いてから、盃を取って冷えた酒を飲み、それからうつむいていった。「あたしね、あたし、背中に刺青《ほりもの》があるの」
そして両方の袖でぱっと顔をおおった。
貞吉は茫然と彼女を見まもった。おしづ[#「しづ」に傍点]は袖で顔をおおったまま語った。まえのひとが堅気でないということは話したと思う、自分は正直にいってそのひとが好きだった。いまは塵《ちり》ほどのみれんもないし、どうしてあんなひとを好きになったかもわからない。けれどもそのときはのぼせあがり、そのひとと同じようになろうと思って、「そのひとがよせというのに」自分からすすんで刺青をした。三年まえ、そのひとと別れてから、急にその刺青がこわくなり、消そうと思っていろいろと手を尽した。けれども、消すことができない。いいといわれる薬も、名のある灸《きゅう》もためしてみたが、消すことはできなかった。
「そのために辛いおもいをして来たわ」とおしづ[#「しづ」に傍点]は袖の中からいった、「これが火傷か、けがでもしたんならいいわ、それなら人に見られてもいいんだけれど、女のくせに刺青ですものね、みつかったら、どうしようかと思って、一日も気の休まることがなかったのよ」
貞吉は黙ってうなずいた。
[#6字下げ]九[#「九」は中見出し]
「わかったでしょ」とおしづ[#「しづ」に傍点]がいった、「こんなからだではとても、堅気なお店のおかみさんになんかなれやしないわ」
「なれるとも、立派になれるよ」
「いいえだめ、あたしがだめなの」
「まあ、おちつこう」と貞吉がいった、「おちついて話そう、――私はそれを刺青じゃなく、けがだと思う、つまずいて転んだけがだ、おしづ[#「しづ」に傍点]はまだ若くって、夢中にのぼせあがっていた、だれだって若いときには、間違いをするし、だれだってからだか心に傷のない者はいやあしない、みんなそれぞれ、人に見られたくない傷を持っているよ、それよりも」
と貞吉はまた、坐り直した。自分が刺青をした経験がないから、おしづ[#「しづ」に傍点]がそれほど思い詰めている気持を、ばかげているなどと笑いはしない。だが、それよりもっと大事なことがある、と貞吉はおしづ[#「しづ」に傍点]を見た。
「初めて会ったときから、私はおしづ[#「しづ」に傍点]がいつもひかえめで、すぐにはにかむのに気がついた」と貞吉は続けた、「そんな年になり、世間の苦労もしているだろうのに、まるで娘のようにうぶですなおだ、それがいまの話でわかった、もちろん生れついた性分もあるだろう、けれども、そんなにいつもはにかんだり、なにかするたびにすぐあやまったり、絶えず人のために気を使ったりするのは、刺青のせいだ」
おしづ[#「しづ」に傍点]は袖をおろして、信じかねるように貞吉を見た。
「おしづ[#「しづ」に傍点]はその刺青に礼をいってもいい」と貞吉はおしづ[#「しづ」に傍点]の手を取った、「それがおしづ[#「しづ」に傍点]をこんなにもいい気性にしたんだ、おしづ[#「しづ」に傍点]は人に好かれる、だれにでも好かれるだろう、背中に刺青があるからという、その謙遜な気持が続いている限り、おしづ[#「しづ」に傍点]はきっと仕合せになれる、きっとだ」
「じゃあ、――」おしづ[#「しづ」に傍点]がどもった、「あなたも、あたしのこと、嫌わなくって」
「おれたちのうちへゆこう」と貞吉はおしづ[#「しづ」に傍点]を抱きよせた、「明日いっしょにここを出よう、おれはもう一生おしづ[#「しづ」に傍点]を放しゃしないよ」
「こわいな、いいのかな」とおしづ[#「しづ」に傍点]は抱かれたままふるえた。「ねえ、あたし、こわいから、もっとしっかり抱いて」
貞吉は強く抱きしめて、唇を合わせた。
明くる日、おしづ[#「しづ」に傍点]は荷物をまとめ、貞吉といっしょに網打場の家を出た。おしげ[#「しげ」に傍点]は「もう会わないわよ」といって涙をこぼした。あんたは堅気になるんだから、二度とこんなところへ来てはだめよ、といい、「どうぞ、このひとを大事にしてやって下さい」と貞吉に繰り返し頼んだ。三人いる女たちも、名残りを惜しんで、お芳は黒江町の角まで送って来、そこで涙をふきながら、「ねえさんお達者で」といった。おしづ[#「しづ」に傍点]は泣かなかった。おしげ[#「しげ」に傍点]と別れるときも、女たちに別れるときも、きりっとしていた。
二人は駕籠で神田へ向った。
その翌日。――二十二日の夕方から、横大工町の家で祝いをした。おしづ[#「しづ」に傍点]は丸髷《まるまげ》に結い、縞にとび飛絣《かすり》のあるじみな単衣《ひとえ》と、黒繻子《くろじゅす》の帯という、やぼったい恰好で、化粧も殆んどしなかった。酒や肴は近所の仕出し屋から取った。膳や食器も仕出し屋に頼んだし、「おしづ[#「しづ」に傍点]さんは花嫁だから」といって、酒の燗なども(あまり飲めない)松田屋が受持った。新兵衛はいうまでもなく、松田屋も小村屋も、明らかにおしづ[#「しづ」に傍点]に好感をもち、好感をもったことを少しも隠そうとはしなかった。みんないかにも気持よさそうに飲み、話も賑やかにはずんだ。
三人は一刻半ばかりでひきあげた。
「有難うよ、おしづ[#「しづ」に傍点]さん」と小村屋が帰りがけにいった、「よく貞の字の嫁になってくれた、これで私たちも安心できるよ」
「くどいぞ、小村屋」と酔った新兵衛が遮った。「おまえ、同じことをなんどいうんだ、さあ、いいからもう帰るんだよ」
「頼んだぜ、おしづ[#「しづ」に傍点]さん」とまた小村屋がいった。「貞の字はおれたちの大事な友達だからな、頼んだぜ」
おしづ[#「しづ」に傍点]は微笑しながら送りだし、一人ひとりに「有難うございました」と礼を述べた。三人が帰っていったあと、ざっと片づけてから、貞吉とおしづ[#「しづ」に傍点]は、べつに用意してあった膳を出し、向きあって坐った。
「さあ、きざなようだが、祝言のまねごとをしよう」貞吉はおしづ[#「しづ」に傍点]に盃を持たせ、自分は燗徳利を取った。「いずれ時が来たら、改めて式をあげ披露もする、今夜は仲人もなしだけれど、これでがまんしてもらうよ」
「うれしいわ、このほうがいいわ」とおしづ[#「しづ」に傍点]がいった、「でも見ないで、初めてで、恥ずかしいから」
初めてという言葉が、貞吉の心につよくひびいた。交互に三度ずつ飲むあいだ、おしづ[#「しづ」に傍点]はふるえて、酒をこぼし、あわてて手で拭いては、「ごめんなさい」笑わないで、といった。
「みろ――」と貞吉がいった、「おしづ[#「しづ」に傍点]はみんなに好かれた、三人ともすっかり気にいったのが、わかったろう」
「いい方たちね」とおしづ[#「しづ」に傍点]がいった、「みんないい方よ、あなたが羨《うらや》ましいわ」
「おしづ[#「しづ」に傍点]が気にいったからさ」
「いい方たちだわ」とおしづ[#「しづ」に傍点]は溜息をついた、「殿がたの友達同志って、なんともいえないほどいいものね、あたし羨ましくってやきもちがやけたわ」
「もうこわくはないね」
「ええ」とおしづ[#「しづ」に傍点]はうなずいた、「もう、こわくはないようよ」
そして、べそをかくように微笑した。貞吉は「おいで」と手を出した。おしづ[#「しづ」に傍点]は恥ずかしそうにうつむいた。それで、貞吉が立っていって抱くと、おしづ[#「しづ」に傍点]はぶるぶると震えていて、とつぜんむせびあげ、「あなた」と低く叫びながらしがみついた。
「おしづ[#「しづ」に傍点]」と彼は激しく抱きしめた、「ああ、おしづ[#「しづ」に傍点]」
おしづ[#「しづ」に傍点]は声をころして泣き、まるで狂ったように、彼を力いっぱい緊めつけたり、顔を振りながら唇を合わせたりした。
それからの幾時間をどう過したか、貞吉にははっきりした記憶がない。消えてゆくような陶酔のなかで、眼をさましかけては眠り、ふと眼ざめかけては、またうとうとと眠った。――同じ夜具の中にいたおしづ[#「しづ」に傍点]が、起きだしたけはいは知っていて、「まだいい」今日は朝寝をしよう、といった覚えはある。おしづ[#「しづ」に傍点]がなにか答え、貞吉はまた眠った。
こうして、やがて彼が眼をさましたとき、おしづ[#「しづ」に傍点]はそこにいなかった。
「おしづ[#「しづ」に傍点]」と彼は呼んだ、「なん刻ごろだ」
だが返辞はなくて、しんとした家の中に、隣りで米を搗《つ》いているのだろう、杵《きね》を踏む音が重おもしく聞え、雨戸の隙間からさしこむ外の光りが、斜めにしまを描いていた。貞吉は夜具をはねてとび起き、「おしづ[#「しづ」に傍点]」と高いかすれた声で呼んだ。米を搗く、単調な、だるいような音が聞えるばかりで、返辞はなく、人のいるけはいもなかった。
貞吉はとんでいって、戸納《とだな》をあけた。そこにはおしづ[#「しづ」に傍点]の荷物はなかった。彼はふるえながら、表の雨戸をあけて戻り、茶箪笥や長火鉢のそこ此処《ここ》を、うろたえたようすで捜しまわった。――おしづ[#「しづ」に傍点]は置き手紙をしていった。それは貞吉の枕許に、結び文にしてあり、彼は立ったままでそれを披《ひら》いた。
――堪忍して下さい、あたし、やっぱり出てゆきます。
という意味で、その手紙は始まっていた。
いちどは心をきめた。あなたの仰しゃるとおりにしようと決心したが、三人のお友達に会い、みんなの楽しそうな話しぶりを聞いていたら、あなたばかりではなく、お友達にも済まなくなってきた。みなさんのお情けがうれしければうれしいほど、からだに「あんなもの」のある自分がいとわしくなり、このままではとても、あなたのおかみさんにはなれない、なっては申し訳がないと思った。
――初めてあなたに会った晩、あなたの眼をひとめ見たときから、あたしはあなたが好きになった。逢えなくなるなら死ぬほうがいいと思ったし、お別れするいまも、死ぬほど辛い。けれど、どうしてもこのままでは気が済まない。どんなにお別れするのが辛いか、この済まない気持がどんなか、あなたにはわかって頂けると思う。
あたし、帰って来ます。
とその手紙はむすんであった。
たとえ、背中の「もの」が消えなくとも、自分でもういいと思うときが来たら帰ります。待っていて下さるわね、待たないでくれなんていえません。あたしばかだけれど、待たないで下さいなんていったら、あなたが怒るっていうことはわかります。外が白みはじめたようだから、まだ書きたいことがたくさんあるけれど、これでやめます。あなたの寝顔を忘れないように、ようく見ておいてから、出てゆきます。わがままばかりいってごめんなさい。 しづ[#「しづ」に傍点]。
「ばか」と叫び、手紙を茶箪笥の上へ置くと、着替えをするのももどかしそうに、家を出て雨戸を閉め、「まず網打場だ」とつぶやきながら、あたらし橋のほうへと、駆けだしていった。
[#6字下げ]十[#「十」は中見出し]
「――しづの苧環《おだまき》くりかえしか」と貞吉がいった、「おめえもう帰ってくれ、わかったよ」
「おまえ、酔っちまったぜ、貞の字」と新兵衛がいっていた、「もう一軒のあるじなんだ、小さくたって店を持ってるんだから、商売にさしつかえるほど飲んじゃあだめだ」
「わかったよ、今夜だけだ」と貞吉は頭をぐらぐらさせた、「明日は飲まねえ、飲むかもしれねえが、商売を忘れるほど飲みゃあしねえ、ほんとだぜ、嘘じゃあねえ、ほんとだ、――ほんと、嘘つかない……か」
貞吉はぐたっと頭を垂れ、「ばかだからね」と口の中でささやいた。
「今夜は新の字か来たから飲んだんだ」と貞吉はいった、「来なくっても飲むけれど、いつもはこんなに酔やあしねえさ、大丈夫だから、安心して帰ってくれ」
新兵衛は溜息をつき「こう酔っちゃあ、しょうがねえな」とつぶやいた。貞吉は泥酔していて、新兵衛の言葉は聞えなかったらしい。「おめえばかだぞ、おしづ[#「しづ」に傍点]」と頭を垂れたまま、もつれる舌でいった。
「底ぬけのばかだぞ、おしづ[#「しづ」に傍点]、いまどこにいるんだ、どこでなにをしているんだ」と貞吉は耳たぶを引張った、「――いつ帰るんだ、いつになったら帰って来るんだ、おしづ[#「しづ」に傍点]、いってくれ、いつだ……」
貞吉の口から嗚咽がもれ、新兵衛は顔をそむけた。貞吉はみじめに嗚咽しながら、かすれた声で、また女の名を呼んだ。
底本:「山本周五郎全集第二十七巻 将監さまの細みち・並木河岸」新潮社
1982(昭和57)年8月25日 発行
底本の親本:「週刊朝日別冊初夏特別読物号」
1956(昭和31)年6月
初出:「週刊朝日別冊初夏特別読物号」
1956(昭和31)年6月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)苧環《おだまき》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#6字下げ]
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[#6字下げ]一[#「一」は中見出し]
「――しづの苧環《おだまき》くり返しか」と貞吉は頭をゆらゆらさせた、「むかしをいまに、だろう、むかしをいまに、なすよしもがな、てんだろう、違うか」
「ひどく酔っちまったな」と小村屋のいうのが聞えた、「これはもう歩けそうもねえぞ」
「泊らせちまうさ」とだれかがいった、「たまにはそのくらいのこともさせなければ、いくら四丁目が辛抱づよくっても可哀そうだ」
「しかし、場所が場所だからな」
「深川の網打場じゃあ、小村屋さんの御人体にかかわるか、いいさ、私がいっしょに泊っていくよ」
そら始まった、とだれかがいった。だれの声だかよくわからないが、「八官町のおきまりだ」と笑い、「四丁目はかこつけで、本当は八官町が泊りたいのさ」といった。
するともう一人が、四丁目のかみさんは家付きで、おそろしく気が強いという評判じゃないか、といった。
それは桜橋の松田屋の声らしい。続いて小村屋がなにかいい、だれともわからない声が、また、八官町をやりこめた。
「私は帰らないぜ」と貞吉がいった、舌のもつれるのが自分でもおぼろげにわかった、「――しづの苧環、むかしのことをいったって始まりゃあしない、私は泊るよ」
[#6字下げ]二[#「二」は中見出し]
「お呼びですか」という声がした、「どうなさいました、苦しいんですか」
貞吉は眼をあいた。こちらをのぞいている女の顔が、すぐ眼の前に見えた。
「なにかいったか」
「あたしをお呼びになったって、――」と女が微笑した。女は手拭で、濡れた髪の毛を拭きながら、貞吉に微笑しかけた、「お芳さんがいま知らせに来たんですよ」
「いまなん刻《どき》だ」
「九つ半(午前一時)ころでしょ」
「みんな泊ってるのか」
「八官町さんていう方だけよ、ほかの方たちはお帰りになったわ」
貞吉は「新兵衛か――」とつぶやいて、頭を振りながら起きあがり、枕もとにある水を飲もうとした。
女は「おひやなら新しいのを汲《く》んで来ますよ」といい、髪の毛の先を、手拭で巻いて束ねながら、水差を持って立ちあがった。
貞吉は手をあげて、「ちょっと――」と呼びとめ、ここでは酒は飲めないのか、ときいた。
お飲みになりたいの。うん、少し醒《さ》めたらしいんでね、無理でなければ飲みたいんだ。表むきはいけないことになってるのよ、でもあがりたいんなら持って来ますわ。じゃあ、そうしてもらおう。でもお肴《さかな》がないかもしれませんよ、といって、女は出ていった。
貞吉は立って、帯をしめ直した。
「堅いばかりが能じゃないよか、ふん」と彼は呟《つぶや》いて、夜具の脇へ片よって坐り、こぼれてくる髪の毛を掻《か》きあげた、「そういうことか、いいとも、好きなようにおだをあげるさ、ふん、おれだって――」
貞吉は耳たぶを引張った。
――たまにはやきもちのひとつもやかせてごらんな。
そういったときの、おひで[#「ひで」に傍点]の顔が、また眼のさきに見えるようであった。
「家付きの女房で、おそろしく気が強いっていう評判じゃないか」と彼はまた呟いた、「あれは桜橋の声だった。たしかに松田屋の文さんの声だった。……おそろしく気が強いって評判か、ふん、知ってやがるくせに」
女が戻って来た、「ごめんなさい」と声をかけて唐紙をあけ、貞吉を見て微笑した。
「おそかったでしょ、ごめんなさい」
女は背丈が高かった。痩《や》せがたで、三寸五分ちかくあるだろう。貞吉は女の背丈の高いのに初めて気がつき、「のっぽだな」といった。
そうなのよ、と女ははにかみ「ばかだから、ごはんを縦にたべたんですって」といい、坐って、酒肴をのせた盆をそこへ置いた。坐るときにふんわりと留木が匂った。
「刻はずれに済まなかった」と彼は一つ飲んでいった、「つきあってくれるだろう」
貞吉が盃《さかずき》を出すと、女は「どうしようかな」と首をかしげた。
「飲めるんだろう」
「あたしだめなの」と女はいった、「もう五年くらいも飲んだことがないのよ」
「五年くらいだって」
「でも頂くわ」と女は手を出した、「まねだけ注いでね」
貞吉が酌をすると、女は左手で盃を持ち、右手を盃の下へ当てて、「見ないでね」といいながら、危なっかしくすすった。あまりにうぶらしい手つきなので、貞吉は、こぼれてくる髪の毛を掻きあげながら、われ知らず微笑した。
女はそれに気がついたのだろう、肩をすくめてくすっと笑い、「いやだ――」といいながら盃を返した。
「いやだ――見ないでっていったのに」
「よかったよ」と彼はいった、「花嫁が祝言の盃を飲むようだった」
女ははにかんだ眼でにらみ、「気持が悪いかもしれないけれど」と頭へ手をやりながら、立ちあがった。
一杯で気持が悪くなったのか。いいえ、おぐしがうるさいようだから、といって、女は貞吉のうしろへまわった。あたしの櫛《くし》では気持が悪いでしょうけれど、ちょっと撫《な》でつけさせて下さいな。いいんだ、汚れてるからよしてくれ。でもちょっと撫でつけるだけ、この櫛きれいなのよ、「ほんと」といい、女は貞吉の乱れた髪を撫でつけた。
「名前は聞いただろうね」と彼は低い声でいった、「酔ってたもので忘れちゃったが」
「ほんとの名前はおしづ[#「しづ」に傍点]、へんでしょ」
「へんじゃないさ」と彼はいった、「――私の番になってくれたんだね」
「番って」
「よく知らないんだが、あいかた、とでもいうのかね」
「いいえ」とおしづ[#「しづ」に傍点]は含み笑いをした、「そうじゃないの、あたし手伝いなのよ」
女は櫛を自分の髪へさしながら元のところへ坐って、燗徳利《かんどくり》を取りあげた。あたしはここの女主人の友達で、女主人はおしげ[#「しげ」に傍点]というのだが、病気になったので、手伝いに来ていたの。ゆうべは客がたて混んだから、酒の酌にだけ出たのよ、と女は話した。
「そりゃあ悪いな」と彼がいった、「そういう人にこんな面倒をかけるなんて悪かった」
「あら嘘、あたしこそ悪いわ」と女は微笑した。「こんなのっぽのおばあさんで、あたしこそきまりが悪いわ」
「のっぽだけはたしかだ」と貞吉はいった。おしづ[#「しづ」に傍点]はにらんで、酌をしながら、「今夜は客が多くて、うさぎ[#「うさぎ」に傍点]さんがあなたのお相手に出られなかったのよ」またこんどいらっしゃいな、若くて可愛くていいひとよ、といった。
まるでとりとめのないことを、次から次と話しながら、かなり飲んで気がつくと、窓の障子が白んでいた。
「あら、雨戸を閉めなかったのね」とおしづ[#「しづ」に傍点]が立ちあがった、「ごめんなさい、もう明るくなってるわ」
「少し障子をあけようか」
「そうね、ちょっと息抜きをしましょう」
そういって障子をあけ、「あらひどい霧」とつぶやいた。五月の明けがたの、冷えた空気がながれこんで来、貞吉の酔った頬をひんやりとなでた。
「山か川か海でもあるといいんだけれど」と窓際に立ったままおしづ[#「しづ」に傍点]がいった、「ここは家が建て混んでいて、なんにも見えないわね」
「山や海が好きなのか」
「山の見えるところにもいたし、海の見えるところにもいたの」とおしづ[#「しづ」に傍点]がいった、「あたしいろんなことをして来たのよ、あなたなんか聞いたら、それこそびっくりするような、いろんなこと」
貞吉はふと眼をつぶった。おしづ[#「しづ」に傍点]のいいかたに、胸にしみるような調子があり、その声がかなりしゃがれ声だということに気づいた。
――悲しい、辛いことがあったんだね。
そうきこうとして、貞吉は頭を振った。
「生きていれば」と彼はいった、「だれだっていろいろなことにぶっつかるさ、私だって、――私なんかいまだって」
おしづ[#「しづ」に傍点]が障子を閉めた。少し荒っぽい閉めかたで、ぱたっと音がし、彼女は振向いてこっちへ来ながら、「よしましょう、こんな話」といった。貞吉が見ると、おしづ[#「しづ」に傍点]の頬がこまかくひきつっていた。
どこかの部屋で、客の起きる物音がしはじめた。
[#6字下げ]三[#「三」は中見出し]
三日目に、貞吉はまたその家へいった。
梅雨にはいったらしく、湿っぽい小雨の降る晩で、まだ宵のくちだったが、路地はひやかしの客も少なく、店もひっそりしていた。おしづ[#「しづ」に傍点]はすぐに出て来て、はにかんだ微笑をうかべ、「濡れたでしょ」といいながら、手拭で彼の袖や裾まわりを拭いた。そして、傘や履物を片づけておくようにと、店にいた若い女に頼んでから、このまえとはベつの、いちばん奥にある四帖半へ彼を案内した。
「汚ないけれど、いいかしら、ここ、あたしの部屋なのよ」
「おちついていいよ」
「いいわね」とおしづ[#「しづ」に傍点]がいった、「どうせ、うさぎ[#「うさぎ」に傍点]さんのところへいくんですもの、飲むうちだけの辛抱だから」
「うさぎ[#「うさぎ」に傍点]さんだって」と彼は訊き返した、「おしづ[#「しづ」に傍点]さんはだめなのか」
「あたしはだめよ」とおしづ[#「しづ」に傍点]は眼をそらした、「あたしは手伝いに来ているだけで、しょうばいに出てるんじゃないんですもの」
貞吉は「そうか」と溜息《ためいき》をついた。
「じゃあ、――」と彼はいった、「ここで飲むだけ飲んで帰る、ってわけにはいかないかな」
「さあ、どうかしら」
「いかないだろうな」と彼はいった、「料理茶屋じゃあないんだからな」
「そうね」とおしづ[#「しづ」に傍点]がいった、「でもちょっと待っててちょうだい、あたしおしげ[#「しげ」に傍点]ちゃんにきいて来てみるわ」
そして、すらっと立って、出ていった。
戻って来るまでに、ちょっと暇どった。「だめなんだな」と貞吉はつぶやいた。二十八にもなるのに、場所のしきたりにも気がつかない、なにかいい方法があるかもしれないのに、その思案もつかないだらしなさ、ちぇ、と貞吉は舌打ちをし、「だから、てめえの女房にまで軽く扱われるんだ」と自分にいった。
おしづ[#「しづ」に傍点]は酒の支度をして戻って来た。
「いいんですって」とおしづ[#「しづ」に傍点]は舌を出し、蝶足の膳《ぜん》をそこへ置いた、「あたしの好きなようにしていいんですってよ」
貞吉は「そいつは」といって、てれたように眼をそらした。
おしづ[#「しづ」に傍点]は一つ酌をしてから、いまおいしい物を拵《こしら》えて来るから、「もう少しひとりで飲んでいてちょうだい」といい、ぱっと上気したような眼で、貞吉を見て、出ていった。――貞吉はゆっくりと、なめるように飲みながら待っていた。それは楽しい時間であった。そんなに安らかな、包まれるように温かな、おちついた気分を味わったことはない。結婚して五年になるが、こんなにくつろいだ、安らかな気持を感じたことは、貞吉にはいちども覚えがなかった。
「あそこはうちじゃあない」と彼は口の中でつぶやいた、「おれのうちじゃない、これからも、いつまで経っても、決してこのおれのうちにはならないだろう」
おしづ[#「しづ」に傍点]が戻って来た。くすっと笑いながら「できそくなっちゃった」といって、皿と鉢を膳の上へ置き、新しい燗徳利を持って、的をした。鉢のほうは卵の黄身と味噌とを火で煉《ね》ったもの、皿のほうは干鱈《ひだら》を焙《あぶ》って裂いたのへ、甘酢をかけたものであった。
「気取ったことをするね、美味《うま》いよ」
「上手にやればもっとおいしいんだけれど」とおしづ[#「しづ」に傍点]は恥ずかしそうに笑った、「いそいだもんだから、それはできそくないよ」
貞吉は「これで充分だ、美味いよ」といい、一杯つきあわないか、と盃をさしだした。
おしづ[#「しづ」に傍点]はこんども「どうしようかな」とためらい、それから受取って、用心ぶかく、すするように飲んだ。
「あなたはお堅いんですってね」と盃を返しながら、おしづ[#「しづ」に傍点]がいった、「このあいだ八官町さんて方からうかがったわ」
貞吉は自嘲《じちょう》するように「新兵衛か」とつぶやいた。
「めったに茶屋あそびなんかなさらないんだって、だからあたし、もう来ては下さらないだろうって、思ってたのよ」
「いくじがないから」と彼がいった、「だれかさそって来ようと思ったんだけれどね、ずいぶん勇気をだしたんだけれど――迷惑じゃないかとも思ったしね」
「迷惑な筈がないじゃありませんか」とおしづ[#「しづ」に傍点]はそっとにらみ、低い、つぶやくような声でいった、「あたし、うれしかったわ」
それは(また)胸にしみるような調子であった。貞吉は眼をそらしながら、だれかさそって来れば二人きりで話ができないし、逢いたいことは逢いたいし、「ずいぶん迷った」のだといった。おしづ[#「しづ」に傍点]は急に、はずんだ声で、「あたし、頂くわ」といい、もう一つ盃を持って来るから、と立ちあがって出ていった。
貞吉は眉をしかめた。あやされるような楽しさで、胸がときめき、あまりに気持がうきたってきて、われながら「だらしがねえぞ」と思ったようであった。――おしづ[#「しづ」に傍点]は戻って来たが、盃を膳の上に置くと、客があがったので花帳をつけなければならない、「すぐに済むから」と引返していった。
貞吉は立って窓をあけ、独りで飲みながら、部屋の中を眺めまわした。
壁に掛けてある(包んだ)三味線。小さな茶箪笥《ちゃだんす》と鏡台。古びた長火鉢と、それを囲うように隅に立ててある枕屏風《まくらびょうぶ》。道具らしい物はそれだけであるが、それらがみな、あるべき場所にきちんと片づいていて、おちついた気分をつくっていた。
――ふしぎだ、この部屋はまえから知っているようだ。
まえに幾たびも来て、飲み食いもし、寝起きもしたような気がする、と貞吉は思った。そうだ、露月町のうちの、おふくろの部屋がこんなだった。もっと道具はそろっていたし、唐紙の模様も違う。窓はなくなって、廊下のほうが障子になっていた。よく見るとみんな違っているが、どことなく同じ感じがする。こうしていると、あのおふくろの部屋にいるようだ、と貞吉は心のなかでうなずいた。
おしづ[#「しづ」に傍点]が硯箱《すずりばこ》と小さな帳面を持ってはいって来た。客がたてこみそうなので、ここで帳面をつけることにして来た。「うるさいでしょうけれどごめんなさい」と貞吉をみつめ、はにかみ笑いをして、「だって向うにいるとお顔が見られないんだもの」とささやいた。
貞吉は眩《まぶ》しそうに眼をそらして、「私は構わない、うるさくなんかないよ」といい、その芸のない受けかたに(自分で)肚《はら》を立てたのだろう、盃を取って乱暴におしづ[#「しづ」に傍点]へさした。
「だいじょうぶかな」とおしづ[#「しづ」に傍点]がいった、「酔って帳面がつけられなくなりゃしないかな」
「そうしたら、私がつけるよ」
「あらまさか、こんなものをつけて頂いたら、それこそばちが当るわ」そういっておしづ[#「しづ」に傍点]は顔をそむけながらささやいた、「――今夜、泊ってって下さいね」
[#6字下げ]四[#「四」は中見出し]
貞吉はその夜おそく帰った。
おしづ[#「しづ」に傍点]は泊ってゆけとすすめたが、客の多い晩でおちつけなかったし、泊ることがおしづ[#「しづ」に傍点]にとって無理かもしれないと思い、九時ごろに立ちあがって、雨の中を帰った。
「またいらっして」とおしづ[#「しづ」に傍点]が店の外まで送って来て、いった、「おうちのほうに悪かったら、お顔だけでも見せにいらっしてね」
貞吉はおしづ[#「しづ」に傍点]の眼をみて、うなずいた。黒江町の通りへ出ようとして振返ると、おしづ[#「しづ」に傍点]はまだ軒下に立って、じっとこちらを見送っていた。
明くる日の夕方、貞吉はまた網打場へいった。まえの日からの雨が、まだ降り続いていて、灯ともしころだったが、その一画は昨日よりひっそりしていた。貞吉を見ると、おしづ[#「しづ」に傍点]は「あッ」というように口をあき、顔がべそをかくようにゆがんだ。
「不動様の近くまで来たんでね」と彼は口ごもった、「すぐに帰るよ」
おしづ[#「しづ」に傍点]は黙ったまま貞吉をあげ、ゆうべの部屋へとおした。部屋へはいるとすぐ、長火鉢の抽出《ひきだし》から、小さな紙包を出して、「いやだ、こんなことして――」といいながら、貞吉の手へ渡そうとした。
「お帰りになったあとでみたらこんなものがあるんですもの、いやだわ、あたし」
「だって」彼はどもった、「―――じゃあどうすればいいんだ」
「お金なんて、いや」とおしづ[#「しづ」に傍点]がいった。
貞吉はわけがわからず、「じゃあ、来られないぜ」といった。ただで飲み食いをするわけにはいかないからね、少なくって悪いが、それを取ってくれないんなら、もう来ないよ。困ったな、とおしづ[#「しづ」に傍点]は紙包を持っている自分の手を見た。あたし、いやなんだけれど、困ったな。困るほど、ありゃあしない、たぶん不足だろうけれど取っておいてくれ、さもなければ本当に来られやしないよ、と貞吉がいった。
「そんならいいわ」とおしづ[#「しづ」に傍点]がいった、「悪いけれどおあずかりしておくわ、その代り今夜はひまらしいから、ゆっくりしていらしってね」
「いや、今夜は用達しの帰りなんだ」と彼は首を振った、「この次にゆっくりしよう、今夜は早くひきあげるよ」
「つまらない」とおしづ[#「しづ」に傍点]はいった、「つまらないわ、あたし、そんなら、いっそ来て下さらなければいいのに」
そういってすぐに「うそ、うそ」と強くかぶりを振り、貞吉にとびついて、「うそよ、ごめんなさい、来て下さるだけでいいの」と両手で抱きしめ、「お顔を見るだけでいいの、ごめんなさい」といいながら、そのままのどで泣きだした。
貞吉はおしづ[#「しづ」に傍点]の肩を抱き、激しく頬ずりをしながら「おしづ[#「しづ」に傍点]」とささやいた。すると胸がいっぱいになり、息が詰って、あえいだ。おしづ[#「しづ」に傍点]は顔をまわして、唇をよせたが、貞吉はぶきように避けた。
「あたし、悪い女ね」とおしづ[#「しづ」に傍点]がすすりあげながら、ささやいた。「あたし、悪い女よ、あたしがどんな女だかっていうことがわかったら、あなたきっと嫌ってしまうし、もう来ては下さらなくなるわ」そして声を詰らせ、まるで苦痛を訴えるようにいった、「あたしにはいろいろなことがあったのよ」
「生きていれば、だれだっていろいろなことにぶっつかるよ」
「このまえもそう仰《おっ》しゃったわね」
「おしづ[#「しづ」に傍点]は悪くはありゃあしない」と彼はいった、「生きてゆくっていうことは、男にだってなまやさしいものじゃないんだ、まして女の身となれば、どんなに苦しい辛いことがあるか、どんなに生きにくいかっていうことは察しがつくよ、もし悪いとすれば、それはおしづ[#「しづ」に傍点]じゃあない、世間のほうが悪いんだ」
「そうじゃないの、あたしはそうじゃないの」とおしづ[#「しづ」に傍点]はしゃがれた声でいった、「あたしは自分が悪かったの、世間の罪じゃなく、みんな自分が悪かったのよ、ほんと、あたしって悪い女なのよ」
そして急に貞吉からはなれ、酒の支度をして来る、と立ちあがった。袖口で眼を拭きながら、部屋を出ようとして振返り、にっとはにかみ笑いをして「いやだ――」と低い声でいった。
貞吉は半刻ほどして帰った。用達しというのは嘘だったが、いってしまったてまえ、おちつくわけにはいかなかったのである。
おしづ[#「しづ」に傍点]はやはり送って出て、また来てくれるようにといった、「またいらしってね、きっとよ」と繰り返し、手を伸ばして、そっと貞吉の腕にさわった。
明くる日、――貞吉は午《ひる》すぎに八官町の新兵衛を訪ねた。新兵衛は「井ノ伊」という足袋屋で、父親は亡くなったが、継母のたよ[#「たよ」に傍点]がまだ(四十二歳で)元気だったし、しょうばいのほうも職人を七人ほど使ってかなり繁昌していた。新兵衛にはおもと[#「もと」に傍点]という妻と、二人の子があるが、継母はよくできた人で、家内のおりあいも、うまくいっていた。貞吉が「井ノ伊」の店を訪ねるのは久しぶりで、新兵衛はすぐに酒の支度を命じたが、貞吉は「ちょっと出られないか」とさそった。
「出てもいいが」と新兵衛はさぐるような表情で彼を見た。「――なにか、あったのか」
貞吉はあいまいに首を振り、「ちょっとつきあってもらいたいんだ」といった。
新兵衛はなにかあるなと感じたらしい、手早く着替えをして、いっしょに外へ出た。「さきに一軒よってくれ」といって、新兵衛は三十間堀の「金八」という料理屋へさそった。小体《こてい》な店だったが、近ごろ店開きをしたのだそうで、家もしゃれた造りだし、凝った物を食わせるので評判だ、ということであった。そこで一刻ばかり飲んでいるうちに、また雨が降りだした。
貞吉はおしづ[#「しづ」に傍点]の話をするつもりだったが、いざ二人で向きあってみると、なにも話すことはなかった。話せば笑われるか、意見をされそうだし、相談してどうしようということもない。これはなにもいわないほうがいい、と貞吉は思い直した。
新兵衛はやがて「なにか話でもあるのか」と訊《き》いた。貞吉は首を振った。べつにそんなことはない、ただ一杯つきあってもらおうと思ったんだ。珍しいな、四丁目へいってから初めてだぜ、と新兵衛がいった。
「うちでなにかあったのか」
貞吉は「いや」と頭を振った。
「しっかりしてくれよ」と新兵衛がいった、「おまえ、露月町にいたじぶんとは人が変ったぜ、まるでしょっちゅう重荷でも背負ってるようじゃないか、婿ってものはそんなに小さくなってなくちゃならないのか」
貞吉はびっくりしたように新兵衛を見た。新兵衛はもう酔っていて、その表情も、口ぶりにも、酔っているときの辛辣《しんらつ》な色があらわれていた。
「四丁目へ婿にゆくまえ、みんなで飲んだことがある」と新兵衛はいった、「桜橋の松田屋へいった文ちゃん、――小村屋と、おれ、――寺子屋じぶんからの友達四人だった、覚えてるか」
[#6字下げ]五[#「五」は中見出し]
そのときおれたちが、婿になんかゆくなといったら、おまえはいばって、「河内屋のしんしょうを飲み潰《つぶ》してみせる」といった筈だ。そういばった筈だが、覚えてるかと、新兵衛はいった。
あのじぶんは、四人のなかでおまえがいちばん活きがよかった。おれたちに酒の味を教えたのもおまえだ。露月町の「越前屋」といえば、糸綿問屋では知られた老舗だし、しち堅いので評判の家族だった。おやじさんは堅人だったし、兄貴の仲次郎さん、平吉さん、みんな堅かった。
おまえだけは向っ気が強くって、十六七から酒も飲むし、芝居小屋だの寄席だのへ出入りはするし、ぐれたような仲間ともつきあってた。まさか河内屋を「飲み潰す」とは思わなかったが、おまえなら、婿にいってもしぼんじまうようなことはなかろう、さぞ活きのいい婿になるだろうっておれたちは話しあったものだ。
それがどうだ、いったとたんからしゅんとしちまって、ろくすっぽおれたちとのつきあいさえしなくなった。どうしてだ、河内屋にはもうしゅうともしゅうとめもいない、だれに気兼ねしてそんなに小さくなってるんだ。家付き娘のおひで[#「ひで」に傍点]さんが、そんなに怖いのか、そうなのか、と新兵衛はいった。
「このまえ松田屋のじいさんの、米の字の祝いで宴会があった」と新兵衛は続けた、「そのとき、おれたち三人で話したんだ、四丁目があれじゃあ、ひどすぎる、ひとつ活を入れてやろうって、それでむりに酔わせて、網打場へつれていったんだ、新吉原《なか》なんぞじゃあ、薬が効くまい、岡場所にしようといったのはおれだ、わかるか」
「わかるさ、よくわかるよ」と貞吉は力のない声でいった、「おれだって、われながらだらしがねえと思っているんだ、しょっちゅう思ってるんだ、けれども――」
「飲めよ」と新兵衛がいった、「おひで[#「ひで」に傍点]さんがいくら男まさりだって、まさか取って食うわけじゃあないだろう、しっかりしてくれ」
あの晩、おまえは酔って「昔を今になすよしもがな」ってしきりにいってた。気取るなよ、越前屋の貞の字がなんだ、いまはれっきとした河内屋貞吉、自分のかみさんと自分のしんしょうじゃねえか、びくびくするない、と新兵衛がいった。
だが、少しいいすぎたと思ったのだろう、貞吉の浮かない顔に気がつくと、「おい」と声をひそめた。
「本当になにかあったんじゃないのか」
「なにかって、――」
「このあいだうちをあけたことでよ」と新兵衛がきいた、「おひで[#「ひで」に傍点]さんと喧嘩《けんか》でもしたんじゃあないのか」
「そのくらいの情があればな」と貞吉は顔をそむけ、それから急に「いきなりだが」と新兵衛を見た、「少し都合してもらえるか」
「金か」と新兵衛がいった、「少しぐらいなら持ってるが、いくらだ」
「いや、いまじゃないんだ、近いうちに頼むかもしれないんだ」と貞吉はいった、「三十両ばかりあればいいと思うんだが、露月町の兄貴には頼めないんでね」
「仲次郎さんも相当だからな」と新兵衛は手酌で飲んだ、「婿入りの晩だろう、聞いたよ、河内屋の婿になった以上、もう私と兄弟の縁は切れた、これからはどんなに困ったからといって、一銭の補助もしないからって、みんなの前ではっきりいったそうじゃないか」
「おれの行状も悪かったんだろうが」
「いいにくいことをいう人だ、仲次郎さんという人は」と新兵衛がいった、「貞の字もおふくろさんの生きていたうちが華だったな」
そして「金のことは引受けた」といった。
貞吉はそこで新兵衛と別れた。新兵衛はなにもきかなかったが、「なにかある」とは察したらしく、貞吉がひと足さきに帰るというと、いいだろうとうなずき、「おれはもう少し飲んでゆく」といって、あとに残った。――貞吉は駕籠を呼んでもらって、「金八」からまっすぐに網打場へいった。雨になったためだろう、時刻はまだ四時くらいなのに、あたりはたそがれのように暗く、空気も冷えてきて、駕籠の中にいても肌寒いくらいだった。
「そうだ、ぶっつかってみよう」と彼は駕籠の中でつぶやいた、「金のことをいいだしたのがきっかけだ、自分でも思いがけなかった、いうつもりはなかったのに、ふいと口に出ちまった、こういうのが、いいきっかけというやつかもしれない、そうだ、ひとつぶっつかってみよう」
黒江町から曲るところで駕籠をおり、手拭を頭からかぶって、その横丁へ走りこんだ。店は人のけはいもなく、狭い土間は暗くひっそりしていて、お芳という女が出て来るまで、幾たびも呼ばなければならなかった。――ねぼけまなこで出て来たお芳は「あらッ」と眼をみはり、どうぞといって、おしづ[#「しづ」に傍点]の部屋へ案内した。
「おしづ[#「しづ」に傍点]ねえさんは、うさぎ[#「うさぎ」に傍点]さんたちとお湯へいってますの」とお芳はいった、「もう帰るじぶんですから、待って下さいな、あ、それから――、いつもどうも済みません」
貞吉は「なんだ」と訊いた。お芳は「うさぎ[#「うさぎ」に傍点]さんや自分がいつも花をつけてもらって済まない」といい、座蒲団を出したり、茶を淹《い》れて来たりした。
――おしづ[#「しづ」に傍点]のしたことだな、と貞吉は思った。そうだ、二度めのときからだ、おしづ[#「しづ」に傍点]はしょうばいに出ているのではないから、ほかの女に花をつけなければ、おれをあげるわけには、いかなかったんだろう。自分で花をつけて、しかも、おれが金を置いていったら返そうとした。
「おい」と彼は自分にいった。「この田舎者、しっかりしろ、みっともねえぞ」
おしづ[#「しづ」に傍点]はまもなく帰って来た。廊下の向うが賑《にぎ》やかになったとおもうと「あら、ほんと」という、おしづ[#「しづ」に傍点]のはずんだしゃがれ声が聞え、つぎに女たちのはやしたてる声が聞え、続いて、女たちのはやしたてる笑い声と、「ええ、いいわ、おごるわよ」といいながら、廊下をいそいで来る足音が聞えた。
貞吉は耳たぶをつまんで引張った。唐紙をあけて、おしづ[#「しづ」に傍点]が貞吉を見、「ほんとだ、ああうれしい」といいながら、はいって来た。いらっしゃい、あたし、だまかされるんだと思ったわ、まさか今日いらっしゃるとは思わなかったものだから。いまお湯へいって来たところなの、こんな恰好でごめんなさいね。
おしづ[#「しづ」に傍点]はそういいながら、湯道具を鏡台の脇へ置き、貞吉をじっと見て、微笑した。――湯あがりの頬がつやつやとして、衿《えり》あしから頬まで、ぱっと血の色がさしていた。貞吉はまた耳たぶを引張り、おしづ[#「しづ」に傍点]はもういちど微笑してから、「ちょっと待ってね」といって鏡台に向った。
ざっと髪を撫でつけ、白粉《おしろい》をはいてから、おしづ[#「しづ」に傍点]は貞吉のそばへ来て、改めて、「いらっしゃい」と神妙におじぎをし、それから低い声で「うれしいわ」といった。
「八官町と飲んで来たんだ」と貞吉はまぶしそうな眼つきをしていった、「今夜はゆっくりするよ」
[#6字下げ]六[#「六」は中見出し]
夜なかの二時すぎ、――貞吉は寝衣《ねまき》の上に半纒《はんてん》を重ねて、夜具の上に坐って飲んでいた。枕許《まくらもと》の膳には、喰べ残した皿小鉢と、徳利が二本。おしづ[#「しづ」に傍点]が十能を持ってはいって来て、長火鉢に火をいれ、それから出ていって、こんどは燗徳利を三本と、小鍋《こなべ》を持って戻って来、小鍋を火にかけてから、こっちへ向いて貞吉に酌をした。
このあいだずっと、おしづ[#「しづ」に傍点]は(ほとんど)休みなしに話していた。
彼女は芝の金杉に生れた。家は建具屋で、兄が二人あり、かなり豊かに育てられた。小さいじぶんから読み書きを習うかたわら、長唄や踊の稽古にかよい、十六の年までに、どちらも名取りになった。そこで謀叛心《むほんしん》が起こり、親たちに無断で芸妓になった。
「どうしてそんな気持になったのか、いまになってみると、自分でもわからないの」とおしづ[#「しづ」に傍点]はいった、「お父っさんはやかましい人だったけれど、おっ母さんや兄さんたちには可愛がられていたし、これがいやだ、っていうことはなに一つなかったんですもの」
彼女は柳橋で芸妓になった。
芸妓になった手順は話さなかったが、長唄か踊の関係でそうなったのだろう。そこにいまこのうちの主婦になっているおしげ[#「しげ」に傍点]がいて、必要なことをしんみに教えてくれた。好きでなった芸妓だから、自分でも面白かったし、客もよく付いて、二年ばかりは天下を取ったような気持だった。親や兄たち、――ことに父親は怒って、「戻って来い」と幾たびもどなりこんで来たが、おしづ[#「しづ」に傍点]はそのたびに逃げだして、いちども会わずにしまった。母は来なかったが、兄たちは三度ばかり来て、おしづ[#「しづ」に傍点]の気持が動かないとわかったのであろう、「いやになったら、すぐに知らせろ」といい、それから暫くのあいだは縁が切れたようになった。
これらの話は順序立ったものではなく、あとさきになったり、脇へそれたり、記憶ちがいに気づいていい直したりするし、またその言葉つきはぎこちなく、いいたいことの半分もいいあらわせないというぐあいで、そのために却《かえ》って、話すことにしんじつさが感じられた。
「それからね、あたし、――いってしまうけど、人のおかみさんになったの」
「好きだったのか」
「ええ、正直にいうけれど好きだったわ」とおしづ[#「しづ」に傍点]はいった、「あたしのほうからおかみさんにしてくれっていって、いっしょになったの、ばかね、よしたほうがいいって、みんなに意見されたのよ、そのひと堅気じゃなかったもんですからね」
「堅気じゃないって」
「恥ずかし、きかないで、――」とおしづ[#「しづ」に傍点]は手を振り、貞吉に的をしながらいった、「その人とは七年いっしょにいて、三年まえに別れちゃったの、これでおしまい」
貞吉はちょっと黙っていたが、やがておしづ[#「しづ」に傍点]を見て、「苦労したんだな」ときいた。ええ、苦労したわとおしづ[#「しづ」に傍点]はうなずいた。お話にならないような苦労のし続けで、京、大阪から、九州の長崎というところまで、ながれていったこともあるのよ。長崎だって、と貞吉が眼をそばめた。いやだ、訊かないで、とおしづ[#「しづ」に傍点]はまた手を振った。あたし、苦労するのは平気だったわ、ときには二日くらい喰べないでいたことがなんどもあるけれど、そんなことはなんでもなかったの。そしてその人が立ち直って、景気がよくなると女でいりが始まった。お定りね、あたしはばかだけれど、それだけはがまんできなかった。ほかのことならどんな辛抱でもするわ、でもそれだけはいや、それだけはがまんできなかった。すぐにとびだして、こっちから離縁状を送ってやったわ、とおしづ[#「しづ」に傍点]はいった。
貞吉はおしづ[#「しづ」に傍点]に盃をさし、酌をした。
「酔ってるのね、あたし」とおしづ[#「しづ」に傍点]は盃をひと口にすすった、「ばかな話ばかりで、ごめんなさい」
「うちの人たちはどうしている」
「ふた親と下の兄さんは死んじゃったわ」とおしづ[#「しづ」に傍点]はいった、「上の兄さんは麻布で世帯を持って建具屋をやっているけど、ふた親と下の兄さんは一昨年の流行《はや》り病いで、いっぺんにとられてしまったわ」
「その――」と貞吉がきいた、「ご亭主になった人とは、すっかり縁が切れたのか」
「向うでは戻って来てもらいたいらしいの、でもあいだに人を立てて、はっきり離縁状も取ってあるし、それよりも、あたしの気持が変っちゃって、戻ろうなんて気はこれっぽっちも起こらないの、自分でもふしぎなくらいよ、きれいさっぱり、二度と顔も見たくないわ」
「それなら」と貞吉がいった、「私とうちを持っても、さしつかえることはないじゃないか」
おしづ[#「しづ」に傍点]は頭を振り、「うれしいけれど、とても――」としゃがれた低い声でいった。
「よく聞いてくれ」と貞吉がいった、「さっき話したとおり、私は河内屋を出るつもりだ、どうしても女房とうまくゆかない、たぶん性が合わないんだろう、ほかにどういいようもない、女房は私が不満らしいし、私は女房に歯が立たない、本当に歯が立たないという感じで、このままいっしょにいると、腑抜《ふぬ》けになってしまいそうなんだ」
「あたしお針もうまいのよ」とおしづ[#「しづ」に傍点]がいった、「縫い張りもできるし、御飯も炊けるの、ほんとよ、嘘つかない、自分でいうのはおかしいけれど、なろうと思えば、あたしいいおかみさんになれると思うわ、でも、――そういって下さるのはうれしいけど、とてもなれないわけがあるのよ」
「まえの人のことか」
「ちがう」とおしづ[#「しづ」に傍点]はかぶりを振った、「それはあいだに人を立てて、はっきり縁を切ったっていったでしょ、そんなことじゃないの」
「じゃあどういうわけなんだ」
おしづ[#「しづ」に傍点]はうつむいて、「いえないわ」とつぶやくようにいった。だれにもいえないことなの、どうかきかないで、これだけはどうしてもいえないことなんだから。それなら一つだけきくが、おしづ[#「しづ」に傍点]は私が嫌いじゃあないのか、と貞吉がいった。するとおしづ[#「しづ」に傍点]は「ひどい」と小さく叫び、とびかかるように貞吉へしがみついた。
「ひどいわ、知っているくせに」とおしづ[#「しづ」に傍点]は彼を抱き緊め、激しく頬ずりをしながら、ふるえ声でささやいた、「知っていてそんなことをいうなんて、意地わるよ、ごしょうだからいじめないで」
[#6字下げ]七[#「七」は中見出し]
私はあきらめない、どうしてもおまえとうちを持ちたいんだ。河内屋を出て、おまえとうちを持って、自分で糸綿の商売を始めたいんだ、どうしてもだ、と貞吉は繰り返した。おしづ[#「しづ」に傍点]はかなしそうに、それだけはできない、「それだけは堪忍してちょうだい」とかぶりを振るばかりであった。
「おまえが承知するまで来る」と貞吉はいった、「なん十たびでも、かよって来る、私は本気なんだ」
おしづ[#「しづ」に傍点]は長火鉢の前へ戻り、銅壺《どうこ》の中へ燗徳利の一本を入れ、煮えている小鍋を、膳の上へおろした。貞吉が見ていると、おしづ[#「しづ」に傍点]の口から鳴咽《おえつ》がもれ、頬が涙で濡れていた。おしづ[#「しづ」に傍点]はそれをふこうともせずに、小鍋の蓋を取りながら「召上ってみて」といった。
「煮詰っちゃったけれど、薩摩汁《さつまじる》っていうの、長崎で覚えて来たのよ、ほんと、わりかたおいしいのよ」
明くる日、貞吉は午ちかいじぶんに帰った。
「またいらしってね」とおしづ[#「しづ」に傍点]が弱よわしく笑いかけながらいった、「怒らないで、またいらしって、ごしょうよ」
それから貞吉は足繁く網打場へかよった。長くて二日おき、たいていは一日おきで、毎日かよう日も続いた。彼の顔を見るたびに、おしづ[#「しづ」に傍点]は可哀そうなほどよろこび、そのたびごとに済まながった。
「あたしが出られるといいんだけど」とおしづ[#「しづ」に傍点]はいう、「おしげ[#「しげ」に傍点]ちゃんが病気だから、夜は出られないし、まさか昼ひなかよそでお逢いするわけにもいかないし、わがままばかりいってごめんなさい」
おしづ[#「しづ」に傍点]はすぐにあやまる。なにかいってはいそいであやまり、小娘のようにはにかみ、そしていつも隙だらけなことを、貞吉は知った。芸妓になるために無断で家を出奔したり、堅気でない男に惚《ほ》れて、七年ものあいだ(九州くんだりまで放浪するほど)苦労したというような、激しい気性はどこにも感じられない。少なくとも貞吉には感じられなかったし、あまりにすなおで隙だらけなところが、むしろ不憫《ふびん》に思われるくらいだった。
「気をつけたほうがいいよ」とあるとき貞吉がいった、「おしづ[#「しづ」に傍点]は火傷をしても火の熱さがわからないらしい、そんなふうだと人に騙《だま》されるよ」
「あたしばかだからね」とおしづ[#「しづ」に傍点]は微笑し、そして、まじめな顔でいった、「――でも、あたしみたいな女をだますとすれば、よっぽどの悪人だと思うわ」
貞吉は眼をみはった。みはった眼でおしづ[#「しづ」に傍点]を見まもり、それから「うん」とうなずいた。
こうして網打場へかようあいだに、貞吉は一方で自分の計画を進めていた。八官町の新兵衛が相談に乗ってくれた。河内屋を出ることも、自分で商売を始めることも、新兵衛はよろこんで同意し、松田屋と小村屋を呼んで、資金を集めたり、手分けをして借家を捜したりしてくれた。これらのことは、露月町へも河内屋へも内密のままはこんだ。話せば事が面倒になる。さきに事実をこしらえてしまうほうが、「話は早い」という意見だった。
河内屋では妻のおひで[#「ひで」に傍点]が、うすうす勘づいていたらしい。貞吉が、にわかにおちつかなくなり、絶えず外出したり、泊って来たりするのだから、まるで気づかないというほうが不自然である。たしかに「なにかある」と思っているらしいが、態度にも口にも、それらしいことは決してあらわさなかった。以吉はふと「おひで[#「ひで」に傍点]の思う壺にはまっているのではないか」と思い、妙なことにひどく不愉快になった。しかし、そのほうがうるさい手数が省けるし、こっちも気が楽だと肚をすえた。
その年は梅雨が長く、六月中旬になっても、晴れるかとみるとまた降りだす、という日が続いた。
神田横大工町の、柳原地に面した通りに家を借りて、造作を置し、水を入れた。間口九尺、奥行二間半の小さな家だが、「夫婦で商売にとりつくには十分だ」と思った。――家の支度が出来あがったとき、貞吉は三人におしづ[#「しづ」に傍点]のことをうちあけた。網打場の女だというと、三人はあっけにとられたが、新兵衛だけはすぐに「あの女か」とうなずいた。初めての晩、貞吉が酔いつぶれて寝たあと、新兵衛はながいことおしづ[#「しづ」に傍点]と話した。彼が貞吉のことをいろいろ出したということは、おしづ[#「しづ」に傍点]の口から貞吉も聞いていた。新兵衛はその晩のことを覚えていたらしい。小村屋や松田屋が、不服そうな、がっかりしたような顔をすると、あの女なら自分も知っている、「いいじゃないか」と、少しためらいがちにいい、それからはっきり、「いいよ、あれなら大丈夫だ」といった。
「会ってくれればわかる」と貞吉がいった、「あさっての二十二日がいいんだ。こころ祝いをしたいから、三人で来てくれ、そのときおしづ[#「しづ」に傍点]にも会ってもらうよ」
「ふしぎだな」と松田屋がいった、「こうしてみると、貞の字はすっかり昔に返ったようじゃないか、こんどのことが始まってから、顔つきまで変ってきたようだぜ」
「あんまり昔に返られても困るよ」と小村屋がいった、「なにしろ、相当な三男坊だったからな、うっかりすると手綱を切りかねないんだから」
「こんどのかみさんに頼むんだね」と新兵衛がいった、「つれ添う相手によって、性分まで変る者がある、どうやら貞の字はその口らしいや、こんどのかみさんに会ったら、よく三人で頼むことにしよう」
貞吉は苦笑しながら、黙って聞いていた。
その夜、――貞吉はいちど河内屋へ帰り、店の者に、「四、五日留守にするから」と断わって、すぐにとびだすと、駕籠をひろって深川へ向った。
おしづ[#「しづ」に傍点]は浮かない顔で彼を迎えた。「どうしたんだ」と部屋へはいるなり、彼がきいた。「機嫌が悪いようじゃないか、どうかしたのか」
おしづ[#「しづ」に傍点]は首を振り、「なんでもないわ」少し頭が重いだけよ、といった。貞吉はぐったりとそこへ坐った。はずんでいた気持が挫《くじ》かれ、これまで奔走していた疲れが、いっぺんに出てくるようであった。お酒の支度をしましょうか、とおしづ[#「しづ」に傍点]がきいた。うん、と貞吉は陰気そうにうなずいた。今夜はここのおかみさんに話があるんだが、飲んでからでもいいだろう。おかみさんって、おしげ[#「しげ」に傍点]ちゃんのこと。そうだよ。おしげ[#「しげ」に傍点]ちゃんになんの用があるの、おしづ[#「しづ」に傍点]はちょっと色を変えた。
「おしづ[#「しづ」に傍点]はこのうちを出るんだ」と貞吉がいった、「だから、代りにだれか人を頼んでもらうんだよ」
「あたしが、どうするんですって」
「このうちを出るんだ」
「からかわないでちょうだい」
「じゃあ、おかみさんの部屋へゆこう」と貞吉は立ちあがった、「さきに話をつけよう、そのほうがいい、そうすればからかってるかどうかわかるよ」
[#6字下げ]八[#「八」は中見出し]
おしげ[#「しげ」に傍点]は承知した。
寝床の中で横になったまま、「あなたのことは、うかがっていました」いちどおめにかかりたいと思ってたんです、といい、貞吉の話を聞き終ると、おしづ[#「しづ」に傍点]に向って、「それごらんなさい」といった。
「あたしのいったとおりじゃないの、ちゃんといらっしゃったし、そんな苦労をなすってたんじゃないの」とおしげ[#「しげ」に傍点]はいった、「それなのにあんたときたら、もう棄てられたんだなんて」
「あ、いわないで」とおしづ[#「しづ」に傍点]はあわてて遮《さえぎ》った、「ごしょうだから、いわないで」
「なにがどうしたんだ」
「あなたが四日おみえにならなかったら、もうきっといらっしゃらない、棄てられたんだなんていって、今日は朝から泣いたりしていたんですよ」
おしづ[#「しづ」に傍点]は袖で顔を隠し、「ひどい」とからだを振り、「ひどいわ、おしげ[#「しげ」に傍点]ちゃん」と袖の中からいった。ああそれでか、と貞吉は思った。それであんな浮かない顔をしていたのか、と思い、おしげ[#「しげ」に傍点]と眼を見あわせながら、苦笑した。
「このひと弱虫なんですよ」とおしげ[#「しげ」に傍点]はいった、「気が強いくせに、弱虫なんです、でもおめにかかって安心しました。あなたならこのひとを仕合せにして下さるでしょう、どうか末ながく可愛がってやって下さい」
「いやだ、待ってよ」とおしづ[#「しづ」に傍点]は遮り、抑えていた袖をとって、まじめな顔つきでいった、「そんなふうにいわないで、おしげ[#「しげ」に傍点]ちゃん、まだきまったわけじゃないんだから」
「きまったわけじゃないって」と貞吉がおしづ[#「しづ」に傍点]を見た、「それはどういうことだ」
「あっちへいきましょう、あたし聞いて頂きたいことがあるの」
「いや、ここで聞こう」
おかみさんの前で聞こう、と貞吉はいい、おしづ[#「しづ」に傍点]は、「向うへいきましょう」と首を振った。
おしげ[#「しげ」に傍点]はとりなすように「あっちへいってあげて下さい、二人っきりで話したいんでしょ」と笑い、おしづ[#「しづ」に傍点]に向って、「今夜は帳面は構わないから、ゆっくり話すほうがいいわ」といった。おしづ[#「しづ」に傍点]は貞吉を促して立ち、自分の部屋へ戻ると、いま酒の支度をするから、といって引返していった。
このあいだに、外はまた雨になったとみえ、降る音は聞えないが、窓の外のどこかで、間遠にあまだれの落ちる音が聞えた。
その夜は気温があがって、かなり、むしむししたが、おしづ[#「しづ」に傍点]は長火鉢に火を入れ、角樽《つのだる》を持ちこんで来て、「今夜はあたしも頂くわ」などといい、膳拵えにかなり手間がかかった。すっかり支度ができて、飲みはじめてからも、肝心なことはなかなかきりださず、「おしげ[#「しげ」に傍点]ちゃんていいひとでしょ」とか、「このごろ旦那の足が遠のいているのよ」などと、ひとのことをとりとめもなく話した。――客のたてこむ時刻になり、このうちへもあがったし、裏隣りのほうも賑やかになった。
「話さないのか」と貞吉がいった、「いつまで待たせるんだ」
「もう少し待って」とおしづ[#「しづ」に傍点]はまた盃を取った、「もう少し酔わなければだめ、これじゃあまだ話せないのよ」
「断わっておくが、私のほうはきまってるんだぜ」と貞吉は酌をしてやった。
「家もはいるばかりになってろ、河内屋と縁を切る手筈もついてる、商売の元手も友達三人で出してくれる、みんなすっかりきまってるし、いまこのうちのおかみさんも、あんなによろこんでくれていたんだから」
「おしげ[#「しげ」に傍点]ちゃんは知らないのよ」とおしづ[#「しづ」に傍点]は遮った、「だれも知らないことでわけがあるの、ごめんなさい、もう少し飲まして」
貞吉は酌をしてやった。
自分でも飲みながら、貞吉は待った。おしづ[#「しづ」に傍点]は話しださなかった。肴《さかな》を替えに立ち、酒の燗をし、ふと雨の音に聞きいるかと思うと、またおしゃべりをはじめるというぐあいであった。貞吉も酔ってはくるし、そのとりとめのないおしゃべりが面白いので、つい時間の経つのを忘れてしまった。――そんなふうにして、二刻ばかりも過したらしい。やがてうさぎ[#「うさぎ」に傍点]さんという女の「もう店を閉めよう」という声が聞え、気がついてみると、あたりはいつかひっそりしていて、やや強くなった雨の音が聞えて来た。
「もういいだろう」と貞吉は坐り直した、「話を聞こう」
「困ったなあ」とおしづ[#「しづ」に傍点]は声をひそめた、「困ったな、いやだなあ」
「私は聞かなくってもいいんだぜ」
「だめなのよ」とおしづ[#「しづ」に傍点]は首を振った、「あなたといっしょになるとしたら、どうしたって聞いて頂かなくちゃならないし、お聞きになったら、きっとあたしがいやになるにきまってるんですもの」
隠した子でもあるのか、と貞吉がきいた。おしづ[#「しづ」に傍点]はかぶりを振った。子供は産んだことがない。「七年いっしょにいた人とも子供はできなかった」とおしづ[#「しづ」に傍点]はいった。それなら遠慮ぬきにきくが、牢へはいったことでもあるのか。まさか、牢屋へはいるほど悪いことはしないわ。じゃあなんだ、ほかになにがある、牢でもなく、子供でもなく、またまえのひととはきれいに縁が切れていて、ほかになにがそんなに「困ること」があるんだ、なんだ、と貞吉がたたみかけた。
「いいわ、いってしまうわ」とおしづ[#「しづ」に傍点]は顔をあげた。酔っていた顔が、急に硬ばって白くなり、唇がふるえた。よほど話すのがいやらしい、「困ったなあ――」と、もういちど呟いてから、盃を取って冷えた酒を飲み、それからうつむいていった。「あたしね、あたし、背中に刺青《ほりもの》があるの」
そして両方の袖でぱっと顔をおおった。
貞吉は茫然と彼女を見まもった。おしづ[#「しづ」に傍点]は袖で顔をおおったまま語った。まえのひとが堅気でないということは話したと思う、自分は正直にいってそのひとが好きだった。いまは塵《ちり》ほどのみれんもないし、どうしてあんなひとを好きになったかもわからない。けれどもそのときはのぼせあがり、そのひとと同じようになろうと思って、「そのひとがよせというのに」自分からすすんで刺青をした。三年まえ、そのひとと別れてから、急にその刺青がこわくなり、消そうと思っていろいろと手を尽した。けれども、消すことができない。いいといわれる薬も、名のある灸《きゅう》もためしてみたが、消すことはできなかった。
「そのために辛いおもいをして来たわ」とおしづ[#「しづ」に傍点]は袖の中からいった、「これが火傷か、けがでもしたんならいいわ、それなら人に見られてもいいんだけれど、女のくせに刺青ですものね、みつかったら、どうしようかと思って、一日も気の休まることがなかったのよ」
貞吉は黙ってうなずいた。
[#6字下げ]九[#「九」は中見出し]
「わかったでしょ」とおしづ[#「しづ」に傍点]がいった、「こんなからだではとても、堅気なお店のおかみさんになんかなれやしないわ」
「なれるとも、立派になれるよ」
「いいえだめ、あたしがだめなの」
「まあ、おちつこう」と貞吉がいった、「おちついて話そう、――私はそれを刺青じゃなく、けがだと思う、つまずいて転んだけがだ、おしづ[#「しづ」に傍点]はまだ若くって、夢中にのぼせあがっていた、だれだって若いときには、間違いをするし、だれだってからだか心に傷のない者はいやあしない、みんなそれぞれ、人に見られたくない傷を持っているよ、それよりも」
と貞吉はまた、坐り直した。自分が刺青をした経験がないから、おしづ[#「しづ」に傍点]がそれほど思い詰めている気持を、ばかげているなどと笑いはしない。だが、それよりもっと大事なことがある、と貞吉はおしづ[#「しづ」に傍点]を見た。
「初めて会ったときから、私はおしづ[#「しづ」に傍点]がいつもひかえめで、すぐにはにかむのに気がついた」と貞吉は続けた、「そんな年になり、世間の苦労もしているだろうのに、まるで娘のようにうぶですなおだ、それがいまの話でわかった、もちろん生れついた性分もあるだろう、けれども、そんなにいつもはにかんだり、なにかするたびにすぐあやまったり、絶えず人のために気を使ったりするのは、刺青のせいだ」
おしづ[#「しづ」に傍点]は袖をおろして、信じかねるように貞吉を見た。
「おしづ[#「しづ」に傍点]はその刺青に礼をいってもいい」と貞吉はおしづ[#「しづ」に傍点]の手を取った、「それがおしづ[#「しづ」に傍点]をこんなにもいい気性にしたんだ、おしづ[#「しづ」に傍点]は人に好かれる、だれにでも好かれるだろう、背中に刺青があるからという、その謙遜な気持が続いている限り、おしづ[#「しづ」に傍点]はきっと仕合せになれる、きっとだ」
「じゃあ、――」おしづ[#「しづ」に傍点]がどもった、「あなたも、あたしのこと、嫌わなくって」
「おれたちのうちへゆこう」と貞吉はおしづ[#「しづ」に傍点]を抱きよせた、「明日いっしょにここを出よう、おれはもう一生おしづ[#「しづ」に傍点]を放しゃしないよ」
「こわいな、いいのかな」とおしづ[#「しづ」に傍点]は抱かれたままふるえた。「ねえ、あたし、こわいから、もっとしっかり抱いて」
貞吉は強く抱きしめて、唇を合わせた。
明くる日、おしづ[#「しづ」に傍点]は荷物をまとめ、貞吉といっしょに網打場の家を出た。おしげ[#「しげ」に傍点]は「もう会わないわよ」といって涙をこぼした。あんたは堅気になるんだから、二度とこんなところへ来てはだめよ、といい、「どうぞ、このひとを大事にしてやって下さい」と貞吉に繰り返し頼んだ。三人いる女たちも、名残りを惜しんで、お芳は黒江町の角まで送って来、そこで涙をふきながら、「ねえさんお達者で」といった。おしづ[#「しづ」に傍点]は泣かなかった。おしげ[#「しげ」に傍点]と別れるときも、女たちに別れるときも、きりっとしていた。
二人は駕籠で神田へ向った。
その翌日。――二十二日の夕方から、横大工町の家で祝いをした。おしづ[#「しづ」に傍点]は丸髷《まるまげ》に結い、縞にとび飛絣《かすり》のあるじみな単衣《ひとえ》と、黒繻子《くろじゅす》の帯という、やぼったい恰好で、化粧も殆んどしなかった。酒や肴は近所の仕出し屋から取った。膳や食器も仕出し屋に頼んだし、「おしづ[#「しづ」に傍点]さんは花嫁だから」といって、酒の燗なども(あまり飲めない)松田屋が受持った。新兵衛はいうまでもなく、松田屋も小村屋も、明らかにおしづ[#「しづ」に傍点]に好感をもち、好感をもったことを少しも隠そうとはしなかった。みんないかにも気持よさそうに飲み、話も賑やかにはずんだ。
三人は一刻半ばかりでひきあげた。
「有難うよ、おしづ[#「しづ」に傍点]さん」と小村屋が帰りがけにいった、「よく貞の字の嫁になってくれた、これで私たちも安心できるよ」
「くどいぞ、小村屋」と酔った新兵衛が遮った。「おまえ、同じことをなんどいうんだ、さあ、いいからもう帰るんだよ」
「頼んだぜ、おしづ[#「しづ」に傍点]さん」とまた小村屋がいった。「貞の字はおれたちの大事な友達だからな、頼んだぜ」
おしづ[#「しづ」に傍点]は微笑しながら送りだし、一人ひとりに「有難うございました」と礼を述べた。三人が帰っていったあと、ざっと片づけてから、貞吉とおしづ[#「しづ」に傍点]は、べつに用意してあった膳を出し、向きあって坐った。
「さあ、きざなようだが、祝言のまねごとをしよう」貞吉はおしづ[#「しづ」に傍点]に盃を持たせ、自分は燗徳利を取った。「いずれ時が来たら、改めて式をあげ披露もする、今夜は仲人もなしだけれど、これでがまんしてもらうよ」
「うれしいわ、このほうがいいわ」とおしづ[#「しづ」に傍点]がいった、「でも見ないで、初めてで、恥ずかしいから」
初めてという言葉が、貞吉の心につよくひびいた。交互に三度ずつ飲むあいだ、おしづ[#「しづ」に傍点]はふるえて、酒をこぼし、あわてて手で拭いては、「ごめんなさい」笑わないで、といった。
「みろ――」と貞吉がいった、「おしづ[#「しづ」に傍点]はみんなに好かれた、三人ともすっかり気にいったのが、わかったろう」
「いい方たちね」とおしづ[#「しづ」に傍点]がいった、「みんないい方よ、あなたが羨《うらや》ましいわ」
「おしづ[#「しづ」に傍点]が気にいったからさ」
「いい方たちだわ」とおしづ[#「しづ」に傍点]は溜息をついた、「殿がたの友達同志って、なんともいえないほどいいものね、あたし羨ましくってやきもちがやけたわ」
「もうこわくはないね」
「ええ」とおしづ[#「しづ」に傍点]はうなずいた、「もう、こわくはないようよ」
そして、べそをかくように微笑した。貞吉は「おいで」と手を出した。おしづ[#「しづ」に傍点]は恥ずかしそうにうつむいた。それで、貞吉が立っていって抱くと、おしづ[#「しづ」に傍点]はぶるぶると震えていて、とつぜんむせびあげ、「あなた」と低く叫びながらしがみついた。
「おしづ[#「しづ」に傍点]」と彼は激しく抱きしめた、「ああ、おしづ[#「しづ」に傍点]」
おしづ[#「しづ」に傍点]は声をころして泣き、まるで狂ったように、彼を力いっぱい緊めつけたり、顔を振りながら唇を合わせたりした。
それからの幾時間をどう過したか、貞吉にははっきりした記憶がない。消えてゆくような陶酔のなかで、眼をさましかけては眠り、ふと眼ざめかけては、またうとうとと眠った。――同じ夜具の中にいたおしづ[#「しづ」に傍点]が、起きだしたけはいは知っていて、「まだいい」今日は朝寝をしよう、といった覚えはある。おしづ[#「しづ」に傍点]がなにか答え、貞吉はまた眠った。
こうして、やがて彼が眼をさましたとき、おしづ[#「しづ」に傍点]はそこにいなかった。
「おしづ[#「しづ」に傍点]」と彼は呼んだ、「なん刻ごろだ」
だが返辞はなくて、しんとした家の中に、隣りで米を搗《つ》いているのだろう、杵《きね》を踏む音が重おもしく聞え、雨戸の隙間からさしこむ外の光りが、斜めにしまを描いていた。貞吉は夜具をはねてとび起き、「おしづ[#「しづ」に傍点]」と高いかすれた声で呼んだ。米を搗く、単調な、だるいような音が聞えるばかりで、返辞はなく、人のいるけはいもなかった。
貞吉はとんでいって、戸納《とだな》をあけた。そこにはおしづ[#「しづ」に傍点]の荷物はなかった。彼はふるえながら、表の雨戸をあけて戻り、茶箪笥や長火鉢のそこ此処《ここ》を、うろたえたようすで捜しまわった。――おしづ[#「しづ」に傍点]は置き手紙をしていった。それは貞吉の枕許に、結び文にしてあり、彼は立ったままでそれを披《ひら》いた。
――堪忍して下さい、あたし、やっぱり出てゆきます。
という意味で、その手紙は始まっていた。
いちどは心をきめた。あなたの仰しゃるとおりにしようと決心したが、三人のお友達に会い、みんなの楽しそうな話しぶりを聞いていたら、あなたばかりではなく、お友達にも済まなくなってきた。みなさんのお情けがうれしければうれしいほど、からだに「あんなもの」のある自分がいとわしくなり、このままではとても、あなたのおかみさんにはなれない、なっては申し訳がないと思った。
――初めてあなたに会った晩、あなたの眼をひとめ見たときから、あたしはあなたが好きになった。逢えなくなるなら死ぬほうがいいと思ったし、お別れするいまも、死ぬほど辛い。けれど、どうしてもこのままでは気が済まない。どんなにお別れするのが辛いか、この済まない気持がどんなか、あなたにはわかって頂けると思う。
あたし、帰って来ます。
とその手紙はむすんであった。
たとえ、背中の「もの」が消えなくとも、自分でもういいと思うときが来たら帰ります。待っていて下さるわね、待たないでくれなんていえません。あたしばかだけれど、待たないで下さいなんていったら、あなたが怒るっていうことはわかります。外が白みはじめたようだから、まだ書きたいことがたくさんあるけれど、これでやめます。あなたの寝顔を忘れないように、ようく見ておいてから、出てゆきます。わがままばかりいってごめんなさい。 しづ[#「しづ」に傍点]。
「ばか」と叫び、手紙を茶箪笥の上へ置くと、着替えをするのももどかしそうに、家を出て雨戸を閉め、「まず網打場だ」とつぶやきながら、あたらし橋のほうへと、駆けだしていった。
[#6字下げ]十[#「十」は中見出し]
「――しづの苧環《おだまき》くりかえしか」と貞吉がいった、「おめえもう帰ってくれ、わかったよ」
「おまえ、酔っちまったぜ、貞の字」と新兵衛がいっていた、「もう一軒のあるじなんだ、小さくたって店を持ってるんだから、商売にさしつかえるほど飲んじゃあだめだ」
「わかったよ、今夜だけだ」と貞吉は頭をぐらぐらさせた、「明日は飲まねえ、飲むかもしれねえが、商売を忘れるほど飲みゃあしねえ、ほんとだぜ、嘘じゃあねえ、ほんとだ、――ほんと、嘘つかない……か」
貞吉はぐたっと頭を垂れ、「ばかだからね」と口の中でささやいた。
「今夜は新の字か来たから飲んだんだ」と貞吉はいった、「来なくっても飲むけれど、いつもはこんなに酔やあしねえさ、大丈夫だから、安心して帰ってくれ」
新兵衛は溜息をつき「こう酔っちゃあ、しょうがねえな」とつぶやいた。貞吉は泥酔していて、新兵衛の言葉は聞えなかったらしい。「おめえばかだぞ、おしづ[#「しづ」に傍点]」と頭を垂れたまま、もつれる舌でいった。
「底ぬけのばかだぞ、おしづ[#「しづ」に傍点]、いまどこにいるんだ、どこでなにをしているんだ」と貞吉は耳たぶを引張った、「――いつ帰るんだ、いつになったら帰って来るんだ、おしづ[#「しづ」に傍点]、いってくれ、いつだ……」
貞吉の口から嗚咽がもれ、新兵衛は顔をそむけた。貞吉はみじめに嗚咽しながら、かすれた声で、また女の名を呼んだ。
底本:「山本周五郎全集第二十七巻 将監さまの細みち・並木河岸」新潮社
1982(昭和57)年8月25日 発行
底本の親本:「週刊朝日別冊初夏特別読物号」
1956(昭和31)年6月
初出:「週刊朝日別冊初夏特別読物号」
1956(昭和31)年6月
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