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千代紙行灯
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千代紙行灯
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)緋牡丹《ひぼたん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)百|石《こく》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#歌記号、1-3-28]
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[#2字下げ]江ノ島道[#「江ノ島道」は大見出し]
[#3字下げ]病める緋牡丹《ひぼたん》[#「病める緋牡丹」は中見出し]
町家《ちょうか》の者であろう、十八九になる娘とその乳母とも思える老女の二人が、白々とした秋風の道を藤沢の宿《しゅく》から江ノ島へ向って歩いていた。
老女も大家《たいけ》の奥に仕えるらしく品のある人柄だが娘はまたとびぬけて美しい、艶々《つやつや》と黒い髪と、同じように黒い大きな眸子《ひとみ》だけでも見る者の心を惹《ひき》つけずにはおかないだろう。どこか弱々しさがあるだけ、透通《すきとお》るほど白い肌に、鮮かなの朱《あか》がどうかすると病める緋牡丹の花といった感じを与えている。
「お疲れではございませんか」
老女が気遣わしげに振返った。
「無理を遊ばしては、あとでまたお躰《からだ》に障《さわ》りますよ。弥助《やすけ》の追いつくまで少しお休み遊ばしては……」
「大丈夫よばあや[#「ばあや」に傍点]、今日はなんだかとてもいい気持なの、……松の匂《におい》が風といっしょに躰のなかへ滲込《しみこ》んで来るようだわ」
「空の色なども江戸とは違いますね」
「まるで春のような緑色をしているわ」
片瀬川に添った明るい道が松林に入ると、松の香を含んだ爽《さわや》かな風がひんやりと肌に沁《し》みる。……ふとすると風の音にまじって、遠くから微《かす》かに潮騒《しおざい》が聞えるほどの静けさだった。
「まて、その女共、待て」
突然うしろから、そう呼びかける声がした。
「待てと云うに、おのれ待たぬか」
「…………」
老女と娘はなにごとが起ったのかと振返った。
一人の若侍が走って来る。……四辺《あたり》を見廻したが他には誰もいない。自分たちを呼ぶのかと不審げに立止っていると、走寄《はせよ》って来た若侍はいきなり二人の前へ、
「ふとい奴だ、もう遁《の》がさぬぞ」
と叫びながら立塞《たちふさ》がった。
老女は本能的に主人を脊《せ》に庇《かば》った。辻斬《つじぎ》りとか追剥《おいは》ぎの類《たぐい》だと思ったのである。然《しか》し相手の様子を見るとすぐ、そういう徒類とは余りに違っている人品なので、もう一度不審を起した。
若侍は二十四五でもあろうか、色の白い眉《まゆ》の秀《ひい》でたすばらしい美男である。頬の線こそ少しきついが、高い額から鼻筋へかけての唆《そそ》るような気品は、海道の馬子《まご》や駕舁夫《かごかき》などがひと口に、「歌舞伎者《かぶきもの》だな」と値をふみそうな色めいたものをさえ感じさせる。……そのうえ身姿《みなり》もよく、安く見ても四五百|石《こく》取りの若様という恰幅《かっぷく》だ。
老女は然し油断のない身構えで云った。
「わたくし共になにか御用でございますか」
「白々しいことを申すな」
若侍は烈《はげ》しく遮《さえぎ》って、
「如何《いか》にも見かけは良家の者のように作っているが、もうその手は食わぬぞ、さ、……ゆうべの品を返せ」
「なにを仰有《おっしゃ》いますやらとんと解《げ》し兼ねまするが、若《も》しやお人違いではございませぬか、わたくし共は」
「ええ止《や》めい、ゆうべの宿で拙者の旅嚢《りょのう》より金子《きんす》を盗去《ぬすみさ》ったのは其方《そのほう》共に相違ない。それとも人違いと申すなら藤沢まで戻れ、番所へ参って理非を明白にしよう、どうだ」
「失礼ながら貴方《あなた》さまは、人違いをなすっておいででございます」
老女は初めて微笑しながら云った。
「わたくし共は江戸表《えどおもて》日本橋|小伝馬町《こでんまちょう》の呉服商、松田屋茂兵衛の家《うち》の者。こちらにいますのは主人の奈美、わたくしに召使のそで[#「そで」に傍点]と申しまして、主人気晴しの保養旅で江ノ島へ参詣《さんけい》の途中でございます。……うろんと思召《おぼしめ》しますなら旅切手《たびぎって》を御覧に入れましょうから暫《しばら》くお待ち下さいまし、もう下男が追いついて来る頃と存じます」
「いや、……然し、……どうも拙者は……」
若侍は明かに狼狽《ろうばい》し始めた、……老女の態度を見、その言葉を聴き、更に娘の姿を見ているうちに、ようやくこれは人違いだということが分って来たらしい。……色白《いろじろ》の頬がみるみる赤く染ったと思うとひどく恥かしそうに、
「やあ、……これは、正に、正に人違いをしたようです。旅馴《たびな》れぬものですから、それに、のっぴきならぬ金子で。どうもゆうべ宿で泊合せた女が余りお二人に似ているものですからつい、……どうぞお赦《ゆる》し下さい」
「ばあや[#「ばあや」に傍点]、ちょっと……」
娘が老女を眼で招いた。そして耳許《みみもと》でなにか囁《ささや》くと、老女は微笑しながら向直って、
「人違いとお分り下されば、わたくし共も安心でございます。それで……あの、甚《はなは》だ失礼なことを申上げますが、お旅先で賊にお会い遊ばしてはさぞ御不自由でございましょう、若《も》しなんでございましたらわたくし共が御用立てを」
「いや、いやとんでもない」
若侍は慌《あわ》てて手を振りながら、
「御厚志はまことにかたじけないが、そんなことは決して、まことに、……どうか只今《ただいま》のことはお忘れ下さい、御免」
そう云うと呼止める隙《すき》もなく、まるで逃げるように走去《はしりさ》って行った。
[#3字下げ]つきぬ縁《えにし》[#「つきぬ縁」は中見出し]
「……本当にお気の毒な、まだ世馴れない御様子なのに、……道中は怖《こお》うございますこと」
老女が呟《つぶや》くように云った。
娘の眸子《ひとみ》は吸われるようにいつまでも、若侍の後姿を見送っていた。透通るような白い頬にはいつか活々《いきいき》とした血色《ちのいろ》が動き、潤《しめ》った朱い唇のあいだから洩《も》れる息吹は隠しきれぬ感動に震えていた。
老女はすぐその様子に気づいた。
そしてその娘の感動を、壊れ易いギヤマンでも手にしたかのように、そっと身を遠退《とおの》きながら、あらぬ方へ眼をやった。
間もなく下男の弥助が追いついて来たので、主従はそのまま江ノ島へ向ったが娘の奈美はもうそれまでの晴れやかさを失くし、美しい海島《うみしま》の風景にも心楽まず、ともすればうるみを帯びた眼で恍惚《うっとり》と遠く俤《おもかげ》を追う様子だった。
ひと眼の恋……。
そうかも知れない。躰が弱く、日頃から籠《こも》りがちで世間にも人にも触れることの少い娘の心は、清らかに乾いた砂地のようなものだ。露が落ちればそのまま浸入《しみい》るに違いない、……殊《こと》にあの見知らぬ若侍の美貌《びぼう》は、奈美の美しさと如何《いか》にも似合わしかった。いちど相見たうえはどちらもその他に似合わしい相手をみつけることは出来ないだろう。
――運命《まわりあわせ》なのだ。
老女そで[#「そで」に傍点]はそう思った。
鎌倉へ廻っても娘の様子は同じだった。そして四五日そこで滞在する筈《はず》だったのが、一夜泊っただけで奈美は江戸へ帰ろうと云いだした。
「ずっと旅続きですから、二三日お休みになってからになさいましたら、……でないときっと、お疲れになりますですよ」
「でも……帰りたいの」
奈美は淋《さみ》し気に云った。
「やはり家《うち》の方がいいわ。……空の色も、虫の声も、お江戸とは違ってなんだか身にしみるようなのだもの、帰りましょう」
そで[#「そで」に傍点]はふっと眼を外らせた。
宿から駕《かご》で出た。
乗りづめでは駕も疲れる、保土《ほど》ヶ|谷《や》で午食《ひる》をとって少し歩き、川崎の宿へかかると黄昏《たそがれ》になった。
――ここで泊ろう。
と云うのを、それがめぐりあわせなのであろう、刻限すれすれに川を越して道を続けた。
主従は気付かなかったが、神奈川の宿あたりからずっと跟《つ》けていた人相のよくない三人|伴《づ》れがあった。……なかの一人は高頬に刀痕のある、剃刀《かみそり》のような眼をした男だったが、娘たちが川を越すのを見ると、得たりといった様子で伴れの二人に眼配せをした。
奈美とそで[#「そで」に傍点]の駕を先に、夕闇《ゆうやみ》の道を庚申塚《こうしんづか》の松並木へかかった時である。
「おい、その駕、ちょいと待って呉れ」
そう云いながら、例の三人がばらばらと行手へ立ち塞がった。
ぎらりと、棒鼻《ぼうはな》の提燈《ちょうちん》に光るものを見て、駕舁夫たちはあっ[#「あっ」に傍点]と叫んだが、駕をそこへ下ろすなり横っ飛びに逃げ出した。
「な、なんだ、なんだおまえたちは」
下男の弥助はそれでも震えながら主人の駕を護《まも》ろうとしたが、うしろへ廻った一人がつ[#「つ」に傍点]と寄ったと見ると、道傍《みちばた》の叢《くさむら》にしたたかに叩伏《たたきふ》せられて了《しま》った。
「おい、出て来ねえ」
痕の男は光る物を奈美の駕の垂《たれ》へ突込みながら云った。静かだが凄《すご》みの利《き》いた声だった。
「婆《ばば》あを出すなよ」
「合点《がってん》です」
「……さあ出るんだ娘さん、温和《おとな》しくすりゃあ痛い目をみずに済む。なにもおめえをどうしようと云うのじゃあねえ、小伝馬町の店から金の届くまで大事にお守《も》りをしてやるだけだ、出て来ねえのか」
「はい、……」
奈美が垂をあげて出ようとした。
その刹那《せつな》である。そで[#「そで」に傍点]の駕を押えていた仲間の一人がわっ[#「わっ」に傍点]と云ってのめり、もう一人が当身《あてみ》でも食《くら》ったか声もなく顛倒《てんとう》したと思うと、
「おのれら、一人も遁《の》がさんぞ!」
と叫びながら現われた者があった。
痕の男は咄嗟《とっさ》に向直《むきなお》る、その面上へ、間髪《かんぱつ》を入れずさっ[#「さっ」に傍点]と大剣が伸びてきた。……気合の鋭さ、危《あや》く躱《かわ》したが、受けきれぬとみたか痕の男は、鼬《いたち》のように素早く、松並木のなかへとび込んで逃去った。
「待て、うぬ……待て曲者《くせもの》!」
叫びながら、追おうとしたがすぐ、駕の方に気付いて振返った。
駕から転げ出て、しっかりと主人を抱緊《だきし》めていたそで[#「そで」に傍点]は、戻って来た相手を見るなり。思わずあっ[#「あっ」に傍点]と声をあげた。
「まあ、……貴方《あなた》さまは」
[#2字下げ]千鳥の曲[#「千鳥の曲」は大見出し]
[#3字下げ]虹《にじ》のよろこび[#「虹のよろこび」は中見出し]
「本当にふしぎな御縁でございますこと」
「全く奇縁です」
盃《さかずき》に二つ三つの酒でもう眼のふちがほんのり染まっていた。
「江ノ島道の時は拙者の方が賊に遭い、今宵《こよい》は貴女《あなた》がたがこのような御災難、再びお眼にかかるのもふしぎだし、災難が似ているのもふしぎです。……ああ、忘れていましたが、拙者は播州《ばんしゅう》浪人で佐伯《さえき》助次郎と申します」
「まあ、御浪々でいらっしゃいますか」
「身寄の者が江戸に居るので、それを尋ねて参る途中ですが、……其処《そこ》へ届ける金子《きんす》を盗まれたので、あのような取乱した様《さま》を御覧に入れて了いました」
「御大金でございましたか」
「いや、お話し申すほどの高《たか》ではないが、浪人の身上《みのうえ》ではすぐ調達も出来ず、と云ってその金を持たずには志す先を訪ねる訳にも参らぬ事情があるものだから、……なんとかして取戻してやろうと先廻りをしていたのです。それが思わぬところでお役に立ったのは仕合せでした」
佐伯助次郎と名乗る若侍は、そう云って明るく笑った。
奈美はまだひと言も口を利かなかった。
庚申塚で救われた相手が彼だと分ったときから、大森|宿《じゅく》のこの宿《やど》のひと間で、食膳《しょくぜん》を前に相対してもう半刻《はんとき》以上も経《た》ったが……余りに意外な再会の歓《よろこ》びが躰中に火と燃えるようで、眼をあげて相手を見ることさえ出来ないのだ。
「本当にこれは江ノ島の弁天様の御加護でございましょう、さ……どうぞお重ね遊ばして」
「いやもう駄目です」
助次郎は盃を伏せた。
「酒は嗜《たしな》まぬ方で、それに腹が減っているものですから、すっかり酔って了いました。お恥しい話だが朝からなにも口にしないのですよ」
「まあそれは、どう遊ばして……」
「なに、有《あり》ったけ盗《と》られて了ったんです、実にさっぱりとやられました、はは……」
竹を割ったような笑いであった。
食事の給仕は奈美がした。そで[#「そで」に傍点]とはなんの屈託もなく話しをした助次郎が、娘の給仕で箸《はし》を取ると急に固くなるのが眼に見えた。
娘の眼は膝《ひざ》をはなれなかった。
男の眼も眩《まぶ》しそうに絶えずよそを見ていた。
「こんなことを申上げましては失礼かも存じませぬが」
そで[#「そで」に傍点]が固くなった空気をほぐすように、
「お尋ね先へすぐおいで遊ばせないのでしたら、ひと先《ま》ずわたくし共へお立寄り下さいませんでしょうか。……実はお奈美さまがお弱いので店とは別に、ずっと橋場の寮の方に住って居《お》りますし、其所《そこ》には亡《な》くなった主人《あるじ》の建てました離家《はなれ》が空いて居りますから、少しも他《よそ》に遠慮なくおいで願えるのでございますが」
「はあ、かたじけないです、が……」
と助次郎は生真面目《きまじめ》に、
「なにしろ、……つまり、そのような御婦人ばかりのお住居《すまい》に拙者のような者が参っては、世間の眼もどうあるか知れず、また……」
「いいえ決して、決してその御心配には及びませぬ。寮へはめったに人も訪ねて参りませぬし、また、たとえ人眼についたとしましても、貴方さまはわたくし共の御恩人、お世話を申すのは当りまえのことでございます。……どうぞそんな御気兼を遊ばさず、当分のお宿というお積《つもり》で是非お運び下さいまし」
「どうぞおいで遊ばして……」
初めて奈美が、訴えるような声で云いながら眼をあげた。……助次郎は返辞に困った様子で、然しそれ以上拒むことも出来ず、暫《しばら》くはただ眩しそうに箸を動かしていた。
相談が決った。
翌《あく》る朝の旅出が奈美にとってどんなに楽しいものであったかは記《しる》すまでもあるまい。……道々そで[#「そで」に傍点]が附近の風物を助次郎に説明するのを聞きながら、彼女の面《おもて》には幾らか不安そうな、そして震えるような歓びの微笑が虹のように消えつ見えつしていた。
橋場の寮へ着いたのは暮れ方であった。
店の方へは知らせてないので、別に迎えの者もなく、意外に早い帰宅で驚いている二人の婢《はしため》と庭番を急《せ》きたてながら、そで[#「そで」に傍点]はすぐに離家の支度をさせた。
寮は総泉寺《そうせんじ》の地端《じはず》れにあった。
千坪ほどの敷地に、大河から水を引いた泉池があり、贅《ぜい》を凝らした母屋《おもや》と、池を隔てた黒竹《くろちく》の植込のなかに茶室風の離室が建っている。……寮を出て少し行けば真崎《まさき》の渡しで、向島の桜並木も、木母寺《もくぼじ》の森も指乎《しこ》のうちにあった。
翌る朝の起出《おきで》に、横木戸から寮を出た助次郎は、奈美の指さすままに四辺《あたり》を見廻しながら、
「ううむ、これは閑静ですな」
と眼を細めながら云った。
「播磨《はりま》にあった拙者の別屋敷が思出されます、……江戸にもこんな静かな景色があるのですね」
「ここまで来ればお江戸も田舎でございますわ」
「実に静かだ、……こんな処《ところ》で一生暮せたら……」
助次郎はふと呟くように云った。
[#3字下げ]こぼれ花[#「こぼれ花」は中見出し]
秋の明るいひざし[#「ひざし」に傍点]が障子にあった。
奈美は琴を弾いている。
楽器ほど人の心を反映するものはないと云う。若《も》しそれが事実なら、いま奈美の指下《ゆびした》に響鳴する十三|絃《げん》の音色の美しさは、その澄んだ活々とはずみのある韻律は、そのまま彼女の胸のうちを表白するものに違いない。
助次郎が来てからもう七日になる。
この日々《にちにち》、奈美はまるで萎《しお》れた草が雨を得たように、頬にも眸《め》にも張《はり》のある光が湛《たた》えられ、久しいあいだ忘れたように手も触れなかった琴を、四五日このかたは折さえあると座に直すのであった。
奈美はふと手を止めた。
丸窓の障子に人影が映っているのに気付いたのである。……奈美はつ[#「つ」に傍点]と起《た》って窓を明けた。
萩《はぎ》のなかに助次郎が佇《たたず》んでいた。
「まあ、佐伯さまでございましたか」
「やあ……御免なさい」
男は恥るように苦笑した。
「お稽古《けいこ》の邪魔をして了いましたね。なつかしい曲を聴いたものだから、つい誘われて来たのです」
「まあ……羞《はずか》しゅうございますわ」
奈美は頬を染めながら縁側の方へ出た。
「あまり手にしませんのですっかり忘れて居りますの、さぞ可笑《おか》しかったことでございましょう」
「……たしか、千鳥の曲ですね」
「はい、でも間違いだらけで……」
「これを聴くと、いつも姉を思出すんです」
助次郎も縁先へ歩寄《あゆみよ》って来た。……裾《すそ》に萩のこぼれ花が哀れに着いている。
「お姉さまがおいで遊ばしますの?」
「母代りのいい姉でした。拙者は腕白者でいたずらの絶間のない方でしたが、強くは叱《しか》ることも出来ないという風な、気の優しい姉でした。……不幸な悲しいことばかりの境涯でしたが、いつもじっと我慢して、……その我慢が出来なくなると独りでそっと琴を取出し、忍び音に弾きながら悲しさを紛らわしていたのです、それが……いつも千鳥の曲でした」
助次郎の眼は空高い雲を見上げていた。
「さぞ……、お美しい方でいらっしゃいましょうね」
「美しい人でした。いまも貴方の弾く曲を聴きながら、思っていたのですよ。……姉は美しい人でしたが、あの美しさは仕合せ薄い運命《まわりあわせ》をもっていたと」
「いまはお仕合せなのでございましょう?」
「三年まえに二十三で……亡くなりました」
助次郎はふと自分の詠歎《えいたん》に気付いた風で、
「やあ、とんだ話になって了いましたな」
と強《しい》て明るく微笑した。
「この曲を聴くと道を歩いていても、すぐ姉を思出す癖がついているものですから、つい自分に負けて悲しいことを申上げて了ったのです。どうかお聞流し下さい」
「いいえ、悲しい者には悲しい人のお話が慰めでございますわ」
奈美はそっと袖口《そでぐち》を眼に当てた。
「お姉さまのお身上が、なんだかわたくしのことを聞いているようで、つい身につまされて了いました」
「貴女が悲しい身上ですって?」
「このような家《うち》に住み、松田屋の一人娘という身分で贅沢なことをと思召《おぼしめ》すかも知れませぬが、母には早く別れ、父も死にましてからの奈美は、ばあやのそで[#「そで」に傍点]の他に真実いたわって呉れる者もなく、弱い躰で……行先《ゆくさき》のたのしみもない悲しい身上でございますわ」
「……拙者がいけなかった」
助次郎は笑って云った。
「貴女は姉の話に吊込《つりこ》まれたのですよ。……木の葉の散るのを見ても泣きたくなる、箸のころげるのも可笑しい、貴女はそういう年頃なんだ、そんな風に考えてはいけない、もうこの話は止《よ》しましょう」
「そう思召しますか」
奈美は訴えるように男の眼を見上げた。
「佐伯さまには奈美が仕合せに見えまして? いいえ、そで[#「そで」に傍点]は知って居りますわ、わたくしなにもかも捨てて尼になろうと、幾度そう思ったか知れませぬ」
「…………」
「松田屋は百万長者と云われましても、いつどうなるか知れぬ店ですわ、そして店などがどうなろうと奈美に関わりはございません。身ひとつになって世間から逃げることが出来たら、その方がわたくしに仕合せだと思います」
助次郎の眼は、燃えるように娘のうなだれた衿元《えりもと》に注がれた。
そで[#「そで」に傍点]が静かに入って来た。
「まあ、佐伯さま此方《こちら》に……」
「お邪魔をしています」
助次郎はぎょっとして身を引いた。
「つまらぬ話をして奈美どのを悲しがらせて了いました、どうかそで[#「そで」に傍点]どのからお詫《わ》びを云って下さい。拙者はこれで……」
「まあお待ち遊ばせ」
そで[#「そで」に傍点]は慌《あわ》てて呼止めた。
[#2字下げ]露の夜空[#「露の夜空」は大見出し]
[#3字下げ]深夜の投げ礫《つぶて》[#「深夜の投げ礫」は中見出し]
そで[#「そで」に傍点]が呼止めたのは、若い主人の哀れな身上を語るためであった。
話は日暮れまで続いた。
松田屋の主人茂兵衛は五年まえに死んだ。店は京の松田屋の系統で、いまでも京の方を本店《ほんだな》と呼んでいるし、ひと頃は本店の二男|辰之助《たつのすけ》を奈美の婿《むこ》に迎えるという話もあったくらい両方の店は深い関係をもっていた。
然し茂兵衛が死んで三周忌が済んだ頃から、少しずつ店の様子が違って来た。
初めはそれと気付かなかったが、支配人の喜右衛門がうわべは実直に装《よそお》いながら実は腹の良くない男で、いつか店の勢力を自分の手に握ってしまい、本店とは自然と手を切るように拵《こさ》え始めた。……これは店の利益を確実にするという口実であったが、むろん本心はそうでなく、自分の位置を不動のものにする第一着手だったのである。
本店との縁が切れれば、辰之助と奈美の縁談も自然と消滅するかたちになった。
奈美にとっては見ぬ人であるが、いちどは婿に迎えると聞いて乙女の胸に俤《おもかげ》を偲《しの》んだ名である。その辰之助との談《はなし》がむざんに破られたとなると、見ぬ人ながら心には傷手《いたで》が残った。
――どんなお方であったか。
と思い、また、……どのように自分のことを考えていて呉れたかと思う。
――こんな事になって、さぞ怒っておいでなさるであろう。
そういう思《おもい》が、世間を知らぬ蕾《つぼみ》のような乙女の心をいつか深く蝕《むしば》んでいた。
そこへ思懸《おもいが》けぬ談が持上って来た。……本店の監視を除き、辰之助との縁を切った喜右衛門は、周囲の勢《いきおい》を導きながら、自分の伜《せがれ》の松助を奈美の婿に据えようと計り始めた。……奈美はむろん頭から拒絶した。
然しどうすることが出来よう。
店には真実のある者がいない訳ではないが、実権を握っているのは喜右衛門とその腹心の者たちで、下手に楯《たて》を突けば店を逐《お》われるだけである。……奈美のために身も惜《おし》まぬ者といえば乳母のそで[#「そで」に傍点]があるばかりだ。
奈美は喜右衛門の圧迫から遁《のが》れるために、一昨年《おととし》の春からこの寮に来ている。
これから自分がどうなるのか。
松田屋の店がどうなるのか……主人《あるじ》たるべき奈美にとってまるで分らない状態であった。
「……分らぬものだ」
助次郎は自分の住居《すまい》へ戻って来ると、行燈《あんどん》の傍にごろりと横になった。
「長者番付に載っている大家《たいけ》でも、裏にはこんな悲劇がある。……これだけの家《うち》に住み、美衣飽食をしていながら、あの美しい人の心は傷《いた》んでいるし、あの眼には泪《なみだ》の乾くときがないのだ……分らないものだ」
窓の外で竹の葉がそうそうと鳴る。
「知らなかった」
深く、溜息《ためいき》を吐くように云ったとき、
――とん!
と窓の戸に物の当る音がした。
寝転んでいた助次郎はひょいと起直《おきなお》り、そのまま庭へ下りると、母屋《おもや》の気配を窺《うかが》いながら静かに裏手へ廻った。
裏手は櫟《くぬぎ》の植込になっている。
その暗がりからぬっ[#「ぬっ」に傍点]と人が現われた。……助次郎は近寄りながら、
「……誰だ」
「あっしです、銀太《ぎんた》で……」
「なにしに来た」
「様子を訊《き》いて来いというんでね、拇指《おやゆび》が。みんなもう待兼ねているんですから」
「急いだって仕様がねえ」
助次郎は伝法に冷笑した。
「五百や千じゃあねえ、何万と纏《まとま》った仕事をしようと云うんだ、まだほんの膳立てが出来たばかりだと、そう云って呉んな」
「へっへっへ、金兄哥《きんあにい》」
銀太と呼ばれた相手は、紺|手拭《てぬぐい》の頬冠《ほおかぶ》りを脱《と》って裾をはたきながら、
「膳立てはいいが、据え膳は危《あぶの》うござんすぜ」
「気障《きざ》な声を出しあがるな」
「こちとら[#「こちとら」に傍点]は庚申塚《こうしんづか》で痛《いて》え眼をみたばかりだが、兄哥はこんな粋な寮で小町娘と差向いの、乙うやに[#「やに」に傍点]下っているいい御身分だ。生木《なまき》同志でひょんなことにでもなると……へっへ、あとが怖《こお》うござんすからね」
「痕権《きずごん》がそう云ったか。ふん……それじゃあおいらの言伝《ことづて》も頼まれて呉れ、いいか」
助次郎は刺すような口調で、
「おいらは一番罪の深え役割を勤めているんだ、つまらねえ疑いを受けるならたった今からでも身を退《ひ》くって、な」
「冗、冗談じゃあねえ兄哥、そりゃ」
「てめえは唯《ただ》そう云やあいいんだ、金三は男だ、初心《うぶ》な娘と間違いをするほど呆《ぼ》けちゃあいねえとな、忘れるなよ」
云い捨てると共にさっさと立去った。
[#3字下げ]障子にうつる影[#「障子にうつる影」は中見出し]
翌《あく》る日……。
助次郎は身寄りの者を訪ねると云って、寮を出掛けた。帰って来たのは夜になってからである。……然《しか》し用が足りなかったものか、中二日おいてまた出掛けた。
その日は雨催いの空で、野面《のづら》をわたる風もめっきり肌寒く、橋場あたりのひっそりとした黄昏《たそがれ》は、冬のように荒涼たるものだった。
日のとぼとぼ暮れ。
寮から下男の弥助が出て来た。店の印のある提灯《ちょうちん》を手に、河岸沿《かしぞ》いの道を日本堤の方へすたすたと歩いて行ったが、宗源寺《そうげんじ》の門前まで来るとひょいと右へ曲った。このあたりも寮造りの家《うち》が多い。
そのうちのひと構え、黒い板塀を取廻した家の裏木戸から、弥助は馴れた様子でつい[#「つい」に傍点]と中へ入った。……そのまま庭を横切って行くと母屋の縁先へ出る、……広縁の障子に明々《あかあか》と灯《あかり》がさして、どうやら小酒宴《こざかもり》でもしているらしい人声が聞えた。
「弥助でございます、……御免を」
そう呼びかけて障子を明ける、部屋の中は燭台《しょくだい》を左右に四人の男が膝を崩して盃のやりとりをしていた。
「遅かったじゃないか、どうした」
「へえ、いつものことですが脱けるには骨が折れます、御免を」
身を跼《かが》めながら座についた。
「富吉、盃をやってお呉れ」
「いえもう、それは」
「遠慮するな、もうすぐこの喜右衛門の世が来るんだ。そうなればおまえも下男などでは置かない、何処《どこ》かへ店を出して一軒の主人にしてあげるんだ、……さあ景気よく呑《の》んで、それから様子を聞かせて貰《もら》おう」
「その浪人者というのは」
と側《そば》から頭髪《かみ》の薄い中老の男が乗出した。
「むろんまだいるだろうな、弥助どん」
「へえ、……居りますとも、今日もどこかへ用足しに行くと云って出ましたが、今頃はもう帰って居りましょう」
「それで二人の様子はどうだな」
「それが、その」
弥助は盃を返して口を押拭《おしぬぐ》いながら、
「初めにお話し申した通り、お奈美さまの方はもうすっかり打込んでおいでなさるのですが、浪人者は案外の堅人《かたじん》でなかなか此方《こちら》の思う壺《つぼ》に嵌《はま》らず、今日こそは今夜こそはと覘《ねら》っていても、まだ機《おり》がない始末で」
「仕様がないな……番頭どん」
自ら喜右衛門と名乗った男は、痩《や》せた色の黒い顔を右手に座っている者の方へ振向けた。
「こんな事で日を過していて、若《も》し折角のいい種《たね》が腐って了《しま》いでもしたら、面倒だ。なんとか早間《はやま》に始末する工夫はないだろうか」
「ないことはございません」
相手は酒で赤くなった眼をあげながら、
「いつか私が申上げたように、明日にでもお支配人が踏込んで行くのですよ。……棟《むね》は違っても同じ屋敷|内《うち》、堅気《かたぎ》の商人《あきんど》の娘が見も知らぬ男を引入れているからには、それだけでも淫奔者《みだらもの》の云訳《いいわけ》は立ちますまい」
「それが一番の早道ですね」
髪の薄い男が頷《うなず》いて云った。
「二人が出来るまで待つことはない、それだけで充分でございましょう。そういう淫奔者《みだらもの》には松田屋の家督は譲られないという理窟《りくつ》はちゃんと立ちます」
「なにしろ、肝心の浪人者がいるあいだに事を運んで了わぬと、又と云ってこんないい運が拾えるかどうか分りませんでな」
「お待ち、……誰だ!」
喜右衛門がそう声をかけた時。……広縁の障子を明けて静かに助次郎が現われた。
「あ、おまえ様は」
と弥助が仰天して叫ぶ。
「……動くな!」
助次郎は呶鳴《どな》って一歩、大きく踏出した。左手に提げた大剣の柄《つか》に手が掛っている、……弥助は震えながら尻込《しりご》みをして、
「浪、浪人者です、いまの話の浪……」
「如何《いか》にも、いま話に出た浪人者だ。元播州|龍野《たつの》藩士で佐伯助次郎と云う、……そう名乗ってはいるが、おい、喜右衛門」
助次郎はぐいと自分の顔を指して、
「おまえ私の顔を見忘れたらしいな」
「……な、なにを云う」
「おまえは死んだ茂兵衛と京の松田屋から来た男だ。その時分はまだ二つか三つだったこの辰之助、松田屋|本店《ほんだな》の二男の顔を忘れて了ったのか」
「た、……辰之助とな?」
「ええ動くな、江戸の松田屋がごたごたしていると聞いてやって来た。貴様たちの悪企《わるだく》みの種《たね》はすっかりあがっているぞ、四五日うちには親爺《おやじ》の伊左衛門も来る筈《はず》だ。……主家横領の企《たくら》みがどんな重罪かは知っているだろう、覚悟は出来ているだろうな」
[#2字下げ]渡る初雁《はつかり》[#「渡る初雁」は大見出し]
[#3字下げ]燕《つばめ》は遠き巣にかえる[#「燕は遠き巣にかえる」は中見出し]
「なんという思懸けないことでしょう」
そで[#「そで」に傍点]は見違えるように血色のいい顔になっていた。
「まるで夢のようでございますね、あの腹黒い喜右衛門をはじめ、あの男の息のかかっている番頭手代たちがいちどきに店から出奔するなんて、本当に訳が分りませんですよ」
「佐伯さまとお会いしてから、なんだか色々と仕合せが来るようだわ」
「今から思うと本当に江ノ島の弁天様のおひき合せかも知れません。……喜右衛門たちはお店のお金を持出して逃げたそうですけれど、御身代から見て是《これ》で縁が切れれば安いくらいのものでございます」
「与兵衛がそう云ったのですね」
「昨日すっかり帳合《ちょうあい》を済ませましたそうで、これまでごまかされた分とも五千両近い額だと申しました。与兵衛さんはあの通りの人柄ですから、いずれ本店からお人が見えましたらもうお店も万々歳でございます」
「本店からはいつ頃来るの……?」
「さあ、遅くも月の末にはおいでになれますでしょう、辰之助さまも御一緒だとか」
「ばあや」
奈美はふっ[#「ふっ」に傍点]と色を変えた。
「辰之助さまが、いらっしゃるの?」
「お奈美さま」
「辰之助さまが……此処《ここ》へ。なぜそれを聞かせてお呉れでなかった。辰之助さまとはあのときお談《はなし》が切れている筈です、それなのにどうして今頃……」
「まあお聞き遊ばせ、お奈美さま」
そで[#「そで」に傍点]が膝《ひざ》を進めたとき、
「……御免」
と縁先に助次郎の声がした。そで[#「そで」に傍点]はすばやく奈美に眼配せをすると、立って行って障子を明けた。
降って来そうな夕闇《ゆうやみ》の中に、外出《そとで》の支度をして立っていた助次郎は、そで[#「そで」に傍点]を見ると微笑しながら、
「ちょっと出て参りたいが、降りそうなので傘をお貸し願おうと思って……」
「はい只今」
そで[#「そで」に傍点]はすぐ小走りに入った。
「お奈美どの」
助次郎は縁先へ寄りながら、
「お店の方が収《おさま》ったそうですね」
「……はい、おかげさまで」
「これで貴女《あなた》も落着かれますね、……貴女はお美しいが、拙者の姉のように不仕合せではない、これからきっとお仕合せになれますよ」
奈美はつきあげるように障子の際《きわ》まですり寄った。……然しそれより早く、傘を持ってそで[#「そで」に傍点]が戻って来た。
「お待遠でございました、どうぞ」
「かたじけない」
「でも、これからどちらへ……?」
「なに、身寄りの者が今宵《こよい》来いと云うものですから、殊《こと》に依《よ》ると拙者も仕官することになるかも知れません」
「まあそれは結構でございますこと。これで貴方《あなた》さまが御出世遊ばせば、一時《いちじ》に喜びが重《かさな》ると申すものでございますわ」
「その時は祝って頂きましょうかな」
ははははと明るく笑って、
「では行って参る、お奈美どの……御免」
「…………」
奈美は答えられなかった。
虫が知らせると云うのであろう、思わず立上って縁先へ出ると、夕闇のなかへ吸われるように去って行く助次郎の姿を、眸子《ひとみ》の底に刻み付けようとするかの如《ごと》く、身を震わせて見送るのだった。
助次郎は寮を出ると、そのまま真崎の渡しの方へと歩いて行った。
暮れた空から雨が降って来た。
「とうとう来あがったな」
助次郎が傘をひらくのと一緒に、
「……金|兄哥《あにい》か」
と向うから声をかけた者がある。
「銀太のお迎えか」
「みんな待兼ねていますぜ、……降って来やあがったから約束の場所じゃあ濡《ぬ》れるんで、遅かったら植半《うえはん》へでも入《へえ》ろうかって云ってたところでさあ」
「揃《そろ》ってるんだな、みんな」
「仕度も出来てますぜ」
「そいつはいい手廻しだ」
助次郎はにっ[#「にっ」に傍点]と笑うや、さびのあるいい声で唄いだした。
[#ここから2字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]……燕は遠き巣に帰る。
露霜おりし秋の夜《よ》に
来るかりがねの文使い
泪《なみだ》で書きしそろかしく
[#ここで字下げ終わり]
時雨《しぐれ》そぼろとかかる傘のうちから、小唄の哀調は噎《むせ》ぶように野面《のづら》を渡った。
「銀太、よく覚えて置けよ」
[#3字下げ]琴の音ほろほろと[#「琴の音ほろほろと」は中見出し]
助次郎が静かに云った。
「若様|金三《きんざ》のおはこ[#「おはこ」に傍点]だ、……燕は遠き……いい文句だなあ、――こいつだけはおいらの他に唄える奴ぁねえ、忘れるなよ」
「……いい機嫌だな」
左手の叢《くさむら》から、そう声をかけながら、三人の男が出て来た。
先頭にいるは、高頬に刀痕《かたなきず》のある男、その他の者もみんな六郷近くの庚申塚で、奈美主従の駕《かご》を襲ったあぶれ者たちである。
「雨に降られて待兼ねていたんだ、自慢の唄より仕事の手順を聞こうぜ」
「なあに急《せ》くこたあねえ」
助次郎は傘の内で冷やかに笑って云った。
「痕の権兵衛《ごんべえ》は智恵者で、松田屋の土蔵にうなっている金を根こそぎ掠《さら》おうと、若様金三を使ってひと芝居、うまく書いた筋書だが、……どうやら大詰がとちり[#「とちり」に傍点]そうだぜ」
「金三、てめえまさか今になって」
「お手の筋だ!」
助次郎はもういちど冷笑した。
「此処まで運んだ芝居だが、おいらは厭《いや》になった、この仕事は止《や》めだ」
「畜生、矢張《やっぱ》りそうか、なまじ踏める面を持っているおかげで、あの小娘に現《うつつ》を抜かしゃあがったな、……金三!」
痕権は一歩さがった。
「てめえ覚悟はいいだろうな」
「いまの小唄が念仏代りよ、……おい権、それから銀太に竹、吉公《きちこう》も鉄もみんな逃げやあしめえな、……じゃあ始めるぜ」
助次郎は傘をすぼめて抛出《ほうりだ》した。
しとしとと降る時雨のなかに、ぎらぎらと短刀が鈍く光りだした。
×××
つれづれのまま、千代紙を切抜いて貼《は》った行燈《あんどん》に灯がおぼろだ。
奈美は丸窓に倚《よ》って庭を見ている。
あの夜《よ》出たまま遂《つい》に戻って来ない人……明るい笑声がいまも眼に耳に残って消えない。京の本店からは支配人と二人の手代に附添われて、曾ての約束の人辰之助が来ている。
――添えるお方ではなかったわ。
奈美はそう思う。
――佐伯さまは立派なお武家、わたしは商人《あきんど》の娘だもの、夢をみていたわたしがいけなかったのよ。そう……これでいいのだわ、佐伯さまはきっとお仕合せになっていらっしゃる、そして奈美が仕合せであるように望んでいて下さるのだわ。
虫の音はもうない。
庭面《にわづら》が自然と明るくなったので、ふと見上げると月が出ていた。
「ええ評判々々」
遠くから瓦版《かわらばん》を売る声が近づいて来た。
「今|業平《なりひら》、梶原源太《かじわらげんた》、若様の金三《きんざ》と異名を取った無類の美男が、つい過《あやま》って踏込んだ浮世の裏道、悪事はしても非道はせずと、関東一円を疾風《はやて》の如く荒し廻った始末から、遂に仲間、痕権はじめ四人の者を手にかけてお縄となる結末まで、おなじみ白狼斉狸軒《はくろうさいりけん》が妙筆を以《もっ》て書現わしましたる一冊、……当の金三は明朝五時、鈴ヶ森に於て御処刑となりまする、悪人ながら義に強き若様金三の一代記、さあさあ早いが勝じゃ、お早いが勝じゃ……」
「まあ、いやだこと、またお仕置があるのねえ」
奈美は眉《まゆ》をひそめながら振返った。
そで[#「そで」に傍点]は縫物の手を休めた、……近く挙げられる辰之助と奈美の婚礼に、奈美の着る緋《ひ》の長襦袢《ながじゅばん》である。これだけは人手にかけたくないと、この夜頃、そで[#「そで」に傍点]は老いの眼に眼鏡をかけながら針を運んでいるのだった。
「ねえばあや[#「ばあや」に傍点]、……ねえ」
「はい」
「琴を出してお呉れな、いまの読売《よみうり》を聞いてなんだか気が沈んで了ったの、……今夜は久し振りに琴を弾いて、忘れたいわ」
「なにを忘れたいと仰有《おっしゃ》います、いまの読売でございますか」
「読売も、なにもかもよ」
そして唯ひとつのことを、……残り少くなりつつある乙女の日のために、独りそっと胸に掻抱《かきいだ》いてみたいのだ。
そで[#「そで」に傍点]が琴を取おろした。
「行燈を消してお呉れ」
「まあ……それではこれが縫えませぬ」
「いいの、今夜はおまえも婚礼のことなど忘れてお呉れ、もう今夜きりで二度と弾かない曲を聴かせてあげる」
そで[#「そで」に傍点]は行燈を消した。
明け放した広縁から、畳のうえまで月光がさし込んでいる、奈美は琴爪《ことづめ》を指に嵌《は》めながら胸の中でそっと云った。
――佐伯さま、あなたはいつか、道を歩いていてもこの曲を聴くと立止ると仰有いましたのね、いま何処《どこ》においでか分りませぬけれど、奈美はあなたのために弾きますの、……お聴き下さいましね、あなたのための曲ですわ、あなたの他には誰のためにも弾かない曲ですのよ。
祈るように呟《つぶや》いて、静かに指を十三|絃《げん》の上へおろした。
千鳥の曲が、水のような月光の庭へ、ほろほろとながれ始めた。
[#地から2字上げ](「譚海」昭和十四年十二月号)
底本:「怒らぬ慶之助」新潮社
1999(平成11)年9月1日発行
2006(平成18)年4月10日八刷
底本の親本:「譚海」
1939(昭和14)年12月号
初出:「譚海」
1939(昭和14)年12月号
※底本は、「鈴ヶ森」の物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)緋牡丹《ひぼたん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)百|石《こく》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#歌記号、1-3-28]
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[#2字下げ]江ノ島道[#「江ノ島道」は大見出し]
[#3字下げ]病める緋牡丹《ひぼたん》[#「病める緋牡丹」は中見出し]
町家《ちょうか》の者であろう、十八九になる娘とその乳母とも思える老女の二人が、白々とした秋風の道を藤沢の宿《しゅく》から江ノ島へ向って歩いていた。
老女も大家《たいけ》の奥に仕えるらしく品のある人柄だが娘はまたとびぬけて美しい、艶々《つやつや》と黒い髪と、同じように黒い大きな眸子《ひとみ》だけでも見る者の心を惹《ひき》つけずにはおかないだろう。どこか弱々しさがあるだけ、透通《すきとお》るほど白い肌に、鮮かなの朱《あか》がどうかすると病める緋牡丹の花といった感じを与えている。
「お疲れではございませんか」
老女が気遣わしげに振返った。
「無理を遊ばしては、あとでまたお躰《からだ》に障《さわ》りますよ。弥助《やすけ》の追いつくまで少しお休み遊ばしては……」
「大丈夫よばあや[#「ばあや」に傍点]、今日はなんだかとてもいい気持なの、……松の匂《におい》が風といっしょに躰のなかへ滲込《しみこ》んで来るようだわ」
「空の色なども江戸とは違いますね」
「まるで春のような緑色をしているわ」
片瀬川に添った明るい道が松林に入ると、松の香を含んだ爽《さわや》かな風がひんやりと肌に沁《し》みる。……ふとすると風の音にまじって、遠くから微《かす》かに潮騒《しおざい》が聞えるほどの静けさだった。
「まて、その女共、待て」
突然うしろから、そう呼びかける声がした。
「待てと云うに、おのれ待たぬか」
「…………」
老女と娘はなにごとが起ったのかと振返った。
一人の若侍が走って来る。……四辺《あたり》を見廻したが他には誰もいない。自分たちを呼ぶのかと不審げに立止っていると、走寄《はせよ》って来た若侍はいきなり二人の前へ、
「ふとい奴だ、もう遁《の》がさぬぞ」
と叫びながら立塞《たちふさ》がった。
老女は本能的に主人を脊《せ》に庇《かば》った。辻斬《つじぎ》りとか追剥《おいは》ぎの類《たぐい》だと思ったのである。然《しか》し相手の様子を見るとすぐ、そういう徒類とは余りに違っている人品なので、もう一度不審を起した。
若侍は二十四五でもあろうか、色の白い眉《まゆ》の秀《ひい》でたすばらしい美男である。頬の線こそ少しきついが、高い額から鼻筋へかけての唆《そそ》るような気品は、海道の馬子《まご》や駕舁夫《かごかき》などがひと口に、「歌舞伎者《かぶきもの》だな」と値をふみそうな色めいたものをさえ感じさせる。……そのうえ身姿《みなり》もよく、安く見ても四五百|石《こく》取りの若様という恰幅《かっぷく》だ。
老女は然し油断のない身構えで云った。
「わたくし共になにか御用でございますか」
「白々しいことを申すな」
若侍は烈《はげ》しく遮《さえぎ》って、
「如何《いか》にも見かけは良家の者のように作っているが、もうその手は食わぬぞ、さ、……ゆうべの品を返せ」
「なにを仰有《おっしゃ》いますやらとんと解《げ》し兼ねまするが、若《も》しやお人違いではございませぬか、わたくし共は」
「ええ止《や》めい、ゆうべの宿で拙者の旅嚢《りょのう》より金子《きんす》を盗去《ぬすみさ》ったのは其方《そのほう》共に相違ない。それとも人違いと申すなら藤沢まで戻れ、番所へ参って理非を明白にしよう、どうだ」
「失礼ながら貴方《あなた》さまは、人違いをなすっておいででございます」
老女は初めて微笑しながら云った。
「わたくし共は江戸表《えどおもて》日本橋|小伝馬町《こでんまちょう》の呉服商、松田屋茂兵衛の家《うち》の者。こちらにいますのは主人の奈美、わたくしに召使のそで[#「そで」に傍点]と申しまして、主人気晴しの保養旅で江ノ島へ参詣《さんけい》の途中でございます。……うろんと思召《おぼしめ》しますなら旅切手《たびぎって》を御覧に入れましょうから暫《しばら》くお待ち下さいまし、もう下男が追いついて来る頃と存じます」
「いや、……然し、……どうも拙者は……」
若侍は明かに狼狽《ろうばい》し始めた、……老女の態度を見、その言葉を聴き、更に娘の姿を見ているうちに、ようやくこれは人違いだということが分って来たらしい。……色白《いろじろ》の頬がみるみる赤く染ったと思うとひどく恥かしそうに、
「やあ、……これは、正に、正に人違いをしたようです。旅馴《たびな》れぬものですから、それに、のっぴきならぬ金子で。どうもゆうべ宿で泊合せた女が余りお二人に似ているものですからつい、……どうぞお赦《ゆる》し下さい」
「ばあや[#「ばあや」に傍点]、ちょっと……」
娘が老女を眼で招いた。そして耳許《みみもと》でなにか囁《ささや》くと、老女は微笑しながら向直って、
「人違いとお分り下されば、わたくし共も安心でございます。それで……あの、甚《はなは》だ失礼なことを申上げますが、お旅先で賊にお会い遊ばしてはさぞ御不自由でございましょう、若《も》しなんでございましたらわたくし共が御用立てを」
「いや、いやとんでもない」
若侍は慌《あわ》てて手を振りながら、
「御厚志はまことにかたじけないが、そんなことは決して、まことに、……どうか只今《ただいま》のことはお忘れ下さい、御免」
そう云うと呼止める隙《すき》もなく、まるで逃げるように走去《はしりさ》って行った。
[#3字下げ]つきぬ縁《えにし》[#「つきぬ縁」は中見出し]
「……本当にお気の毒な、まだ世馴れない御様子なのに、……道中は怖《こお》うございますこと」
老女が呟《つぶや》くように云った。
娘の眸子《ひとみ》は吸われるようにいつまでも、若侍の後姿を見送っていた。透通るような白い頬にはいつか活々《いきいき》とした血色《ちのいろ》が動き、潤《しめ》った朱い唇のあいだから洩《も》れる息吹は隠しきれぬ感動に震えていた。
老女はすぐその様子に気づいた。
そしてその娘の感動を、壊れ易いギヤマンでも手にしたかのように、そっと身を遠退《とおの》きながら、あらぬ方へ眼をやった。
間もなく下男の弥助が追いついて来たので、主従はそのまま江ノ島へ向ったが娘の奈美はもうそれまでの晴れやかさを失くし、美しい海島《うみしま》の風景にも心楽まず、ともすればうるみを帯びた眼で恍惚《うっとり》と遠く俤《おもかげ》を追う様子だった。
ひと眼の恋……。
そうかも知れない。躰が弱く、日頃から籠《こも》りがちで世間にも人にも触れることの少い娘の心は、清らかに乾いた砂地のようなものだ。露が落ちればそのまま浸入《しみい》るに違いない、……殊《こと》にあの見知らぬ若侍の美貌《びぼう》は、奈美の美しさと如何《いか》にも似合わしかった。いちど相見たうえはどちらもその他に似合わしい相手をみつけることは出来ないだろう。
――運命《まわりあわせ》なのだ。
老女そで[#「そで」に傍点]はそう思った。
鎌倉へ廻っても娘の様子は同じだった。そして四五日そこで滞在する筈《はず》だったのが、一夜泊っただけで奈美は江戸へ帰ろうと云いだした。
「ずっと旅続きですから、二三日お休みになってからになさいましたら、……でないときっと、お疲れになりますですよ」
「でも……帰りたいの」
奈美は淋《さみ》し気に云った。
「やはり家《うち》の方がいいわ。……空の色も、虫の声も、お江戸とは違ってなんだか身にしみるようなのだもの、帰りましょう」
そで[#「そで」に傍点]はふっと眼を外らせた。
宿から駕《かご》で出た。
乗りづめでは駕も疲れる、保土《ほど》ヶ|谷《や》で午食《ひる》をとって少し歩き、川崎の宿へかかると黄昏《たそがれ》になった。
――ここで泊ろう。
と云うのを、それがめぐりあわせなのであろう、刻限すれすれに川を越して道を続けた。
主従は気付かなかったが、神奈川の宿あたりからずっと跟《つ》けていた人相のよくない三人|伴《づ》れがあった。……なかの一人は高頬に刀痕のある、剃刀《かみそり》のような眼をした男だったが、娘たちが川を越すのを見ると、得たりといった様子で伴れの二人に眼配せをした。
奈美とそで[#「そで」に傍点]の駕を先に、夕闇《ゆうやみ》の道を庚申塚《こうしんづか》の松並木へかかった時である。
「おい、その駕、ちょいと待って呉れ」
そう云いながら、例の三人がばらばらと行手へ立ち塞がった。
ぎらりと、棒鼻《ぼうはな》の提燈《ちょうちん》に光るものを見て、駕舁夫たちはあっ[#「あっ」に傍点]と叫んだが、駕をそこへ下ろすなり横っ飛びに逃げ出した。
「な、なんだ、なんだおまえたちは」
下男の弥助はそれでも震えながら主人の駕を護《まも》ろうとしたが、うしろへ廻った一人がつ[#「つ」に傍点]と寄ったと見ると、道傍《みちばた》の叢《くさむら》にしたたかに叩伏《たたきふ》せられて了《しま》った。
「おい、出て来ねえ」
痕の男は光る物を奈美の駕の垂《たれ》へ突込みながら云った。静かだが凄《すご》みの利《き》いた声だった。
「婆《ばば》あを出すなよ」
「合点《がってん》です」
「……さあ出るんだ娘さん、温和《おとな》しくすりゃあ痛い目をみずに済む。なにもおめえをどうしようと云うのじゃあねえ、小伝馬町の店から金の届くまで大事にお守《も》りをしてやるだけだ、出て来ねえのか」
「はい、……」
奈美が垂をあげて出ようとした。
その刹那《せつな》である。そで[#「そで」に傍点]の駕を押えていた仲間の一人がわっ[#「わっ」に傍点]と云ってのめり、もう一人が当身《あてみ》でも食《くら》ったか声もなく顛倒《てんとう》したと思うと、
「おのれら、一人も遁《の》がさんぞ!」
と叫びながら現われた者があった。
痕の男は咄嗟《とっさ》に向直《むきなお》る、その面上へ、間髪《かんぱつ》を入れずさっ[#「さっ」に傍点]と大剣が伸びてきた。……気合の鋭さ、危《あや》く躱《かわ》したが、受けきれぬとみたか痕の男は、鼬《いたち》のように素早く、松並木のなかへとび込んで逃去った。
「待て、うぬ……待て曲者《くせもの》!」
叫びながら、追おうとしたがすぐ、駕の方に気付いて振返った。
駕から転げ出て、しっかりと主人を抱緊《だきし》めていたそで[#「そで」に傍点]は、戻って来た相手を見るなり。思わずあっ[#「あっ」に傍点]と声をあげた。
「まあ、……貴方《あなた》さまは」
[#2字下げ]千鳥の曲[#「千鳥の曲」は大見出し]
[#3字下げ]虹《にじ》のよろこび[#「虹のよろこび」は中見出し]
「本当にふしぎな御縁でございますこと」
「全く奇縁です」
盃《さかずき》に二つ三つの酒でもう眼のふちがほんのり染まっていた。
「江ノ島道の時は拙者の方が賊に遭い、今宵《こよい》は貴女《あなた》がたがこのような御災難、再びお眼にかかるのもふしぎだし、災難が似ているのもふしぎです。……ああ、忘れていましたが、拙者は播州《ばんしゅう》浪人で佐伯《さえき》助次郎と申します」
「まあ、御浪々でいらっしゃいますか」
「身寄の者が江戸に居るので、それを尋ねて参る途中ですが、……其処《そこ》へ届ける金子《きんす》を盗まれたので、あのような取乱した様《さま》を御覧に入れて了いました」
「御大金でございましたか」
「いや、お話し申すほどの高《たか》ではないが、浪人の身上《みのうえ》ではすぐ調達も出来ず、と云ってその金を持たずには志す先を訪ねる訳にも参らぬ事情があるものだから、……なんとかして取戻してやろうと先廻りをしていたのです。それが思わぬところでお役に立ったのは仕合せでした」
佐伯助次郎と名乗る若侍は、そう云って明るく笑った。
奈美はまだひと言も口を利かなかった。
庚申塚で救われた相手が彼だと分ったときから、大森|宿《じゅく》のこの宿《やど》のひと間で、食膳《しょくぜん》を前に相対してもう半刻《はんとき》以上も経《た》ったが……余りに意外な再会の歓《よろこ》びが躰中に火と燃えるようで、眼をあげて相手を見ることさえ出来ないのだ。
「本当にこれは江ノ島の弁天様の御加護でございましょう、さ……どうぞお重ね遊ばして」
「いやもう駄目です」
助次郎は盃を伏せた。
「酒は嗜《たしな》まぬ方で、それに腹が減っているものですから、すっかり酔って了いました。お恥しい話だが朝からなにも口にしないのですよ」
「まあそれは、どう遊ばして……」
「なに、有《あり》ったけ盗《と》られて了ったんです、実にさっぱりとやられました、はは……」
竹を割ったような笑いであった。
食事の給仕は奈美がした。そで[#「そで」に傍点]とはなんの屈託もなく話しをした助次郎が、娘の給仕で箸《はし》を取ると急に固くなるのが眼に見えた。
娘の眼は膝《ひざ》をはなれなかった。
男の眼も眩《まぶ》しそうに絶えずよそを見ていた。
「こんなことを申上げましては失礼かも存じませぬが」
そで[#「そで」に傍点]が固くなった空気をほぐすように、
「お尋ね先へすぐおいで遊ばせないのでしたら、ひと先《ま》ずわたくし共へお立寄り下さいませんでしょうか。……実はお奈美さまがお弱いので店とは別に、ずっと橋場の寮の方に住って居《お》りますし、其所《そこ》には亡《な》くなった主人《あるじ》の建てました離家《はなれ》が空いて居りますから、少しも他《よそ》に遠慮なくおいで願えるのでございますが」
「はあ、かたじけないです、が……」
と助次郎は生真面目《きまじめ》に、
「なにしろ、……つまり、そのような御婦人ばかりのお住居《すまい》に拙者のような者が参っては、世間の眼もどうあるか知れず、また……」
「いいえ決して、決してその御心配には及びませぬ。寮へはめったに人も訪ねて参りませぬし、また、たとえ人眼についたとしましても、貴方さまはわたくし共の御恩人、お世話を申すのは当りまえのことでございます。……どうぞそんな御気兼を遊ばさず、当分のお宿というお積《つもり》で是非お運び下さいまし」
「どうぞおいで遊ばして……」
初めて奈美が、訴えるような声で云いながら眼をあげた。……助次郎は返辞に困った様子で、然しそれ以上拒むことも出来ず、暫《しばら》くはただ眩しそうに箸を動かしていた。
相談が決った。
翌《あく》る朝の旅出が奈美にとってどんなに楽しいものであったかは記《しる》すまでもあるまい。……道々そで[#「そで」に傍点]が附近の風物を助次郎に説明するのを聞きながら、彼女の面《おもて》には幾らか不安そうな、そして震えるような歓びの微笑が虹のように消えつ見えつしていた。
橋場の寮へ着いたのは暮れ方であった。
店の方へは知らせてないので、別に迎えの者もなく、意外に早い帰宅で驚いている二人の婢《はしため》と庭番を急《せ》きたてながら、そで[#「そで」に傍点]はすぐに離家の支度をさせた。
寮は総泉寺《そうせんじ》の地端《じはず》れにあった。
千坪ほどの敷地に、大河から水を引いた泉池があり、贅《ぜい》を凝らした母屋《おもや》と、池を隔てた黒竹《くろちく》の植込のなかに茶室風の離室が建っている。……寮を出て少し行けば真崎《まさき》の渡しで、向島の桜並木も、木母寺《もくぼじ》の森も指乎《しこ》のうちにあった。
翌る朝の起出《おきで》に、横木戸から寮を出た助次郎は、奈美の指さすままに四辺《あたり》を見廻しながら、
「ううむ、これは閑静ですな」
と眼を細めながら云った。
「播磨《はりま》にあった拙者の別屋敷が思出されます、……江戸にもこんな静かな景色があるのですね」
「ここまで来ればお江戸も田舎でございますわ」
「実に静かだ、……こんな処《ところ》で一生暮せたら……」
助次郎はふと呟くように云った。
[#3字下げ]こぼれ花[#「こぼれ花」は中見出し]
秋の明るいひざし[#「ひざし」に傍点]が障子にあった。
奈美は琴を弾いている。
楽器ほど人の心を反映するものはないと云う。若《も》しそれが事実なら、いま奈美の指下《ゆびした》に響鳴する十三|絃《げん》の音色の美しさは、その澄んだ活々とはずみのある韻律は、そのまま彼女の胸のうちを表白するものに違いない。
助次郎が来てからもう七日になる。
この日々《にちにち》、奈美はまるで萎《しお》れた草が雨を得たように、頬にも眸《め》にも張《はり》のある光が湛《たた》えられ、久しいあいだ忘れたように手も触れなかった琴を、四五日このかたは折さえあると座に直すのであった。
奈美はふと手を止めた。
丸窓の障子に人影が映っているのに気付いたのである。……奈美はつ[#「つ」に傍点]と起《た》って窓を明けた。
萩《はぎ》のなかに助次郎が佇《たたず》んでいた。
「まあ、佐伯さまでございましたか」
「やあ……御免なさい」
男は恥るように苦笑した。
「お稽古《けいこ》の邪魔をして了いましたね。なつかしい曲を聴いたものだから、つい誘われて来たのです」
「まあ……羞《はずか》しゅうございますわ」
奈美は頬を染めながら縁側の方へ出た。
「あまり手にしませんのですっかり忘れて居りますの、さぞ可笑《おか》しかったことでございましょう」
「……たしか、千鳥の曲ですね」
「はい、でも間違いだらけで……」
「これを聴くと、いつも姉を思出すんです」
助次郎も縁先へ歩寄《あゆみよ》って来た。……裾《すそ》に萩のこぼれ花が哀れに着いている。
「お姉さまがおいで遊ばしますの?」
「母代りのいい姉でした。拙者は腕白者でいたずらの絶間のない方でしたが、強くは叱《しか》ることも出来ないという風な、気の優しい姉でした。……不幸な悲しいことばかりの境涯でしたが、いつもじっと我慢して、……その我慢が出来なくなると独りでそっと琴を取出し、忍び音に弾きながら悲しさを紛らわしていたのです、それが……いつも千鳥の曲でした」
助次郎の眼は空高い雲を見上げていた。
「さぞ……、お美しい方でいらっしゃいましょうね」
「美しい人でした。いまも貴方の弾く曲を聴きながら、思っていたのですよ。……姉は美しい人でしたが、あの美しさは仕合せ薄い運命《まわりあわせ》をもっていたと」
「いまはお仕合せなのでございましょう?」
「三年まえに二十三で……亡くなりました」
助次郎はふと自分の詠歎《えいたん》に気付いた風で、
「やあ、とんだ話になって了いましたな」
と強《しい》て明るく微笑した。
「この曲を聴くと道を歩いていても、すぐ姉を思出す癖がついているものですから、つい自分に負けて悲しいことを申上げて了ったのです。どうかお聞流し下さい」
「いいえ、悲しい者には悲しい人のお話が慰めでございますわ」
奈美はそっと袖口《そでぐち》を眼に当てた。
「お姉さまのお身上が、なんだかわたくしのことを聞いているようで、つい身につまされて了いました」
「貴女が悲しい身上ですって?」
「このような家《うち》に住み、松田屋の一人娘という身分で贅沢なことをと思召《おぼしめ》すかも知れませぬが、母には早く別れ、父も死にましてからの奈美は、ばあやのそで[#「そで」に傍点]の他に真実いたわって呉れる者もなく、弱い躰で……行先《ゆくさき》のたのしみもない悲しい身上でございますわ」
「……拙者がいけなかった」
助次郎は笑って云った。
「貴女は姉の話に吊込《つりこ》まれたのですよ。……木の葉の散るのを見ても泣きたくなる、箸のころげるのも可笑しい、貴女はそういう年頃なんだ、そんな風に考えてはいけない、もうこの話は止《よ》しましょう」
「そう思召しますか」
奈美は訴えるように男の眼を見上げた。
「佐伯さまには奈美が仕合せに見えまして? いいえ、そで[#「そで」に傍点]は知って居りますわ、わたくしなにもかも捨てて尼になろうと、幾度そう思ったか知れませぬ」
「…………」
「松田屋は百万長者と云われましても、いつどうなるか知れぬ店ですわ、そして店などがどうなろうと奈美に関わりはございません。身ひとつになって世間から逃げることが出来たら、その方がわたくしに仕合せだと思います」
助次郎の眼は、燃えるように娘のうなだれた衿元《えりもと》に注がれた。
そで[#「そで」に傍点]が静かに入って来た。
「まあ、佐伯さま此方《こちら》に……」
「お邪魔をしています」
助次郎はぎょっとして身を引いた。
「つまらぬ話をして奈美どのを悲しがらせて了いました、どうかそで[#「そで」に傍点]どのからお詫《わ》びを云って下さい。拙者はこれで……」
「まあお待ち遊ばせ」
そで[#「そで」に傍点]は慌《あわ》てて呼止めた。
[#2字下げ]露の夜空[#「露の夜空」は大見出し]
[#3字下げ]深夜の投げ礫《つぶて》[#「深夜の投げ礫」は中見出し]
そで[#「そで」に傍点]が呼止めたのは、若い主人の哀れな身上を語るためであった。
話は日暮れまで続いた。
松田屋の主人茂兵衛は五年まえに死んだ。店は京の松田屋の系統で、いまでも京の方を本店《ほんだな》と呼んでいるし、ひと頃は本店の二男|辰之助《たつのすけ》を奈美の婿《むこ》に迎えるという話もあったくらい両方の店は深い関係をもっていた。
然し茂兵衛が死んで三周忌が済んだ頃から、少しずつ店の様子が違って来た。
初めはそれと気付かなかったが、支配人の喜右衛門がうわべは実直に装《よそお》いながら実は腹の良くない男で、いつか店の勢力を自分の手に握ってしまい、本店とは自然と手を切るように拵《こさ》え始めた。……これは店の利益を確実にするという口実であったが、むろん本心はそうでなく、自分の位置を不動のものにする第一着手だったのである。
本店との縁が切れれば、辰之助と奈美の縁談も自然と消滅するかたちになった。
奈美にとっては見ぬ人であるが、いちどは婿に迎えると聞いて乙女の胸に俤《おもかげ》を偲《しの》んだ名である。その辰之助との談《はなし》がむざんに破られたとなると、見ぬ人ながら心には傷手《いたで》が残った。
――どんなお方であったか。
と思い、また、……どのように自分のことを考えていて呉れたかと思う。
――こんな事になって、さぞ怒っておいでなさるであろう。
そういう思《おもい》が、世間を知らぬ蕾《つぼみ》のような乙女の心をいつか深く蝕《むしば》んでいた。
そこへ思懸《おもいが》けぬ談が持上って来た。……本店の監視を除き、辰之助との縁を切った喜右衛門は、周囲の勢《いきおい》を導きながら、自分の伜《せがれ》の松助を奈美の婿に据えようと計り始めた。……奈美はむろん頭から拒絶した。
然しどうすることが出来よう。
店には真実のある者がいない訳ではないが、実権を握っているのは喜右衛門とその腹心の者たちで、下手に楯《たて》を突けば店を逐《お》われるだけである。……奈美のために身も惜《おし》まぬ者といえば乳母のそで[#「そで」に傍点]があるばかりだ。
奈美は喜右衛門の圧迫から遁《のが》れるために、一昨年《おととし》の春からこの寮に来ている。
これから自分がどうなるのか。
松田屋の店がどうなるのか……主人《あるじ》たるべき奈美にとってまるで分らない状態であった。
「……分らぬものだ」
助次郎は自分の住居《すまい》へ戻って来ると、行燈《あんどん》の傍にごろりと横になった。
「長者番付に載っている大家《たいけ》でも、裏にはこんな悲劇がある。……これだけの家《うち》に住み、美衣飽食をしていながら、あの美しい人の心は傷《いた》んでいるし、あの眼には泪《なみだ》の乾くときがないのだ……分らないものだ」
窓の外で竹の葉がそうそうと鳴る。
「知らなかった」
深く、溜息《ためいき》を吐くように云ったとき、
――とん!
と窓の戸に物の当る音がした。
寝転んでいた助次郎はひょいと起直《おきなお》り、そのまま庭へ下りると、母屋《おもや》の気配を窺《うかが》いながら静かに裏手へ廻った。
裏手は櫟《くぬぎ》の植込になっている。
その暗がりからぬっ[#「ぬっ」に傍点]と人が現われた。……助次郎は近寄りながら、
「……誰だ」
「あっしです、銀太《ぎんた》で……」
「なにしに来た」
「様子を訊《き》いて来いというんでね、拇指《おやゆび》が。みんなもう待兼ねているんですから」
「急いだって仕様がねえ」
助次郎は伝法に冷笑した。
「五百や千じゃあねえ、何万と纏《まとま》った仕事をしようと云うんだ、まだほんの膳立てが出来たばかりだと、そう云って呉んな」
「へっへっへ、金兄哥《きんあにい》」
銀太と呼ばれた相手は、紺|手拭《てぬぐい》の頬冠《ほおかぶ》りを脱《と》って裾をはたきながら、
「膳立てはいいが、据え膳は危《あぶの》うござんすぜ」
「気障《きざ》な声を出しあがるな」
「こちとら[#「こちとら」に傍点]は庚申塚《こうしんづか》で痛《いて》え眼をみたばかりだが、兄哥はこんな粋な寮で小町娘と差向いの、乙うやに[#「やに」に傍点]下っているいい御身分だ。生木《なまき》同志でひょんなことにでもなると……へっへ、あとが怖《こお》うござんすからね」
「痕権《きずごん》がそう云ったか。ふん……それじゃあおいらの言伝《ことづて》も頼まれて呉れ、いいか」
助次郎は刺すような口調で、
「おいらは一番罪の深え役割を勤めているんだ、つまらねえ疑いを受けるならたった今からでも身を退《ひ》くって、な」
「冗、冗談じゃあねえ兄哥、そりゃ」
「てめえは唯《ただ》そう云やあいいんだ、金三は男だ、初心《うぶ》な娘と間違いをするほど呆《ぼ》けちゃあいねえとな、忘れるなよ」
云い捨てると共にさっさと立去った。
[#3字下げ]障子にうつる影[#「障子にうつる影」は中見出し]
翌《あく》る日……。
助次郎は身寄りの者を訪ねると云って、寮を出掛けた。帰って来たのは夜になってからである。……然《しか》し用が足りなかったものか、中二日おいてまた出掛けた。
その日は雨催いの空で、野面《のづら》をわたる風もめっきり肌寒く、橋場あたりのひっそりとした黄昏《たそがれ》は、冬のように荒涼たるものだった。
日のとぼとぼ暮れ。
寮から下男の弥助が出て来た。店の印のある提灯《ちょうちん》を手に、河岸沿《かしぞ》いの道を日本堤の方へすたすたと歩いて行ったが、宗源寺《そうげんじ》の門前まで来るとひょいと右へ曲った。このあたりも寮造りの家《うち》が多い。
そのうちのひと構え、黒い板塀を取廻した家の裏木戸から、弥助は馴れた様子でつい[#「つい」に傍点]と中へ入った。……そのまま庭を横切って行くと母屋の縁先へ出る、……広縁の障子に明々《あかあか》と灯《あかり》がさして、どうやら小酒宴《こざかもり》でもしているらしい人声が聞えた。
「弥助でございます、……御免を」
そう呼びかけて障子を明ける、部屋の中は燭台《しょくだい》を左右に四人の男が膝を崩して盃のやりとりをしていた。
「遅かったじゃないか、どうした」
「へえ、いつものことですが脱けるには骨が折れます、御免を」
身を跼《かが》めながら座についた。
「富吉、盃をやってお呉れ」
「いえもう、それは」
「遠慮するな、もうすぐこの喜右衛門の世が来るんだ。そうなればおまえも下男などでは置かない、何処《どこ》かへ店を出して一軒の主人にしてあげるんだ、……さあ景気よく呑《の》んで、それから様子を聞かせて貰《もら》おう」
「その浪人者というのは」
と側《そば》から頭髪《かみ》の薄い中老の男が乗出した。
「むろんまだいるだろうな、弥助どん」
「へえ、……居りますとも、今日もどこかへ用足しに行くと云って出ましたが、今頃はもう帰って居りましょう」
「それで二人の様子はどうだな」
「それが、その」
弥助は盃を返して口を押拭《おしぬぐ》いながら、
「初めにお話し申した通り、お奈美さまの方はもうすっかり打込んでおいでなさるのですが、浪人者は案外の堅人《かたじん》でなかなか此方《こちら》の思う壺《つぼ》に嵌《はま》らず、今日こそは今夜こそはと覘《ねら》っていても、まだ機《おり》がない始末で」
「仕様がないな……番頭どん」
自ら喜右衛門と名乗った男は、痩《や》せた色の黒い顔を右手に座っている者の方へ振向けた。
「こんな事で日を過していて、若《も》し折角のいい種《たね》が腐って了《しま》いでもしたら、面倒だ。なんとか早間《はやま》に始末する工夫はないだろうか」
「ないことはございません」
相手は酒で赤くなった眼をあげながら、
「いつか私が申上げたように、明日にでもお支配人が踏込んで行くのですよ。……棟《むね》は違っても同じ屋敷|内《うち》、堅気《かたぎ》の商人《あきんど》の娘が見も知らぬ男を引入れているからには、それだけでも淫奔者《みだらもの》の云訳《いいわけ》は立ちますまい」
「それが一番の早道ですね」
髪の薄い男が頷《うなず》いて云った。
「二人が出来るまで待つことはない、それだけで充分でございましょう。そういう淫奔者《みだらもの》には松田屋の家督は譲られないという理窟《りくつ》はちゃんと立ちます」
「なにしろ、肝心の浪人者がいるあいだに事を運んで了わぬと、又と云ってこんないい運が拾えるかどうか分りませんでな」
「お待ち、……誰だ!」
喜右衛門がそう声をかけた時。……広縁の障子を明けて静かに助次郎が現われた。
「あ、おまえ様は」
と弥助が仰天して叫ぶ。
「……動くな!」
助次郎は呶鳴《どな》って一歩、大きく踏出した。左手に提げた大剣の柄《つか》に手が掛っている、……弥助は震えながら尻込《しりご》みをして、
「浪、浪人者です、いまの話の浪……」
「如何《いか》にも、いま話に出た浪人者だ。元播州|龍野《たつの》藩士で佐伯助次郎と云う、……そう名乗ってはいるが、おい、喜右衛門」
助次郎はぐいと自分の顔を指して、
「おまえ私の顔を見忘れたらしいな」
「……な、なにを云う」
「おまえは死んだ茂兵衛と京の松田屋から来た男だ。その時分はまだ二つか三つだったこの辰之助、松田屋|本店《ほんだな》の二男の顔を忘れて了ったのか」
「た、……辰之助とな?」
「ええ動くな、江戸の松田屋がごたごたしていると聞いてやって来た。貴様たちの悪企《わるだく》みの種《たね》はすっかりあがっているぞ、四五日うちには親爺《おやじ》の伊左衛門も来る筈《はず》だ。……主家横領の企《たくら》みがどんな重罪かは知っているだろう、覚悟は出来ているだろうな」
[#2字下げ]渡る初雁《はつかり》[#「渡る初雁」は大見出し]
[#3字下げ]燕《つばめ》は遠き巣にかえる[#「燕は遠き巣にかえる」は中見出し]
「なんという思懸けないことでしょう」
そで[#「そで」に傍点]は見違えるように血色のいい顔になっていた。
「まるで夢のようでございますね、あの腹黒い喜右衛門をはじめ、あの男の息のかかっている番頭手代たちがいちどきに店から出奔するなんて、本当に訳が分りませんですよ」
「佐伯さまとお会いしてから、なんだか色々と仕合せが来るようだわ」
「今から思うと本当に江ノ島の弁天様のおひき合せかも知れません。……喜右衛門たちはお店のお金を持出して逃げたそうですけれど、御身代から見て是《これ》で縁が切れれば安いくらいのものでございます」
「与兵衛がそう云ったのですね」
「昨日すっかり帳合《ちょうあい》を済ませましたそうで、これまでごまかされた分とも五千両近い額だと申しました。与兵衛さんはあの通りの人柄ですから、いずれ本店からお人が見えましたらもうお店も万々歳でございます」
「本店からはいつ頃来るの……?」
「さあ、遅くも月の末にはおいでになれますでしょう、辰之助さまも御一緒だとか」
「ばあや」
奈美はふっ[#「ふっ」に傍点]と色を変えた。
「辰之助さまが、いらっしゃるの?」
「お奈美さま」
「辰之助さまが……此処《ここ》へ。なぜそれを聞かせてお呉れでなかった。辰之助さまとはあのときお談《はなし》が切れている筈です、それなのにどうして今頃……」
「まあお聞き遊ばせ、お奈美さま」
そで[#「そで」に傍点]が膝《ひざ》を進めたとき、
「……御免」
と縁先に助次郎の声がした。そで[#「そで」に傍点]はすばやく奈美に眼配せをすると、立って行って障子を明けた。
降って来そうな夕闇《ゆうやみ》の中に、外出《そとで》の支度をして立っていた助次郎は、そで[#「そで」に傍点]を見ると微笑しながら、
「ちょっと出て参りたいが、降りそうなので傘をお貸し願おうと思って……」
「はい只今」
そで[#「そで」に傍点]はすぐ小走りに入った。
「お奈美どの」
助次郎は縁先へ寄りながら、
「お店の方が収《おさま》ったそうですね」
「……はい、おかげさまで」
「これで貴女《あなた》も落着かれますね、……貴女はお美しいが、拙者の姉のように不仕合せではない、これからきっとお仕合せになれますよ」
奈美はつきあげるように障子の際《きわ》まですり寄った。……然しそれより早く、傘を持ってそで[#「そで」に傍点]が戻って来た。
「お待遠でございました、どうぞ」
「かたじけない」
「でも、これからどちらへ……?」
「なに、身寄りの者が今宵《こよい》来いと云うものですから、殊《こと》に依《よ》ると拙者も仕官することになるかも知れません」
「まあそれは結構でございますこと。これで貴方《あなた》さまが御出世遊ばせば、一時《いちじ》に喜びが重《かさな》ると申すものでございますわ」
「その時は祝って頂きましょうかな」
ははははと明るく笑って、
「では行って参る、お奈美どの……御免」
「…………」
奈美は答えられなかった。
虫が知らせると云うのであろう、思わず立上って縁先へ出ると、夕闇のなかへ吸われるように去って行く助次郎の姿を、眸子《ひとみ》の底に刻み付けようとするかの如《ごと》く、身を震わせて見送るのだった。
助次郎は寮を出ると、そのまま真崎の渡しの方へと歩いて行った。
暮れた空から雨が降って来た。
「とうとう来あがったな」
助次郎が傘をひらくのと一緒に、
「……金|兄哥《あにい》か」
と向うから声をかけた者がある。
「銀太のお迎えか」
「みんな待兼ねていますぜ、……降って来やあがったから約束の場所じゃあ濡《ぬ》れるんで、遅かったら植半《うえはん》へでも入《へえ》ろうかって云ってたところでさあ」
「揃《そろ》ってるんだな、みんな」
「仕度も出来てますぜ」
「そいつはいい手廻しだ」
助次郎はにっ[#「にっ」に傍点]と笑うや、さびのあるいい声で唄いだした。
[#ここから2字下げ]
※[#歌記号、1-3-28]……燕は遠き巣に帰る。
露霜おりし秋の夜《よ》に
来るかりがねの文使い
泪《なみだ》で書きしそろかしく
[#ここで字下げ終わり]
時雨《しぐれ》そぼろとかかる傘のうちから、小唄の哀調は噎《むせ》ぶように野面《のづら》を渡った。
「銀太、よく覚えて置けよ」
[#3字下げ]琴の音ほろほろと[#「琴の音ほろほろと」は中見出し]
助次郎が静かに云った。
「若様|金三《きんざ》のおはこ[#「おはこ」に傍点]だ、……燕は遠き……いい文句だなあ、――こいつだけはおいらの他に唄える奴ぁねえ、忘れるなよ」
「……いい機嫌だな」
左手の叢《くさむら》から、そう声をかけながら、三人の男が出て来た。
先頭にいるは、高頬に刀痕《かたなきず》のある男、その他の者もみんな六郷近くの庚申塚で、奈美主従の駕《かご》を襲ったあぶれ者たちである。
「雨に降られて待兼ねていたんだ、自慢の唄より仕事の手順を聞こうぜ」
「なあに急《せ》くこたあねえ」
助次郎は傘の内で冷やかに笑って云った。
「痕の権兵衛《ごんべえ》は智恵者で、松田屋の土蔵にうなっている金を根こそぎ掠《さら》おうと、若様金三を使ってひと芝居、うまく書いた筋書だが、……どうやら大詰がとちり[#「とちり」に傍点]そうだぜ」
「金三、てめえまさか今になって」
「お手の筋だ!」
助次郎はもういちど冷笑した。
「此処まで運んだ芝居だが、おいらは厭《いや》になった、この仕事は止《や》めだ」
「畜生、矢張《やっぱ》りそうか、なまじ踏める面を持っているおかげで、あの小娘に現《うつつ》を抜かしゃあがったな、……金三!」
痕権は一歩さがった。
「てめえ覚悟はいいだろうな」
「いまの小唄が念仏代りよ、……おい権、それから銀太に竹、吉公《きちこう》も鉄もみんな逃げやあしめえな、……じゃあ始めるぜ」
助次郎は傘をすぼめて抛出《ほうりだ》した。
しとしとと降る時雨のなかに、ぎらぎらと短刀が鈍く光りだした。
×××
つれづれのまま、千代紙を切抜いて貼《は》った行燈《あんどん》に灯がおぼろだ。
奈美は丸窓に倚《よ》って庭を見ている。
あの夜《よ》出たまま遂《つい》に戻って来ない人……明るい笑声がいまも眼に耳に残って消えない。京の本店からは支配人と二人の手代に附添われて、曾ての約束の人辰之助が来ている。
――添えるお方ではなかったわ。
奈美はそう思う。
――佐伯さまは立派なお武家、わたしは商人《あきんど》の娘だもの、夢をみていたわたしがいけなかったのよ。そう……これでいいのだわ、佐伯さまはきっとお仕合せになっていらっしゃる、そして奈美が仕合せであるように望んでいて下さるのだわ。
虫の音はもうない。
庭面《にわづら》が自然と明るくなったので、ふと見上げると月が出ていた。
「ええ評判々々」
遠くから瓦版《かわらばん》を売る声が近づいて来た。
「今|業平《なりひら》、梶原源太《かじわらげんた》、若様の金三《きんざ》と異名を取った無類の美男が、つい過《あやま》って踏込んだ浮世の裏道、悪事はしても非道はせずと、関東一円を疾風《はやて》の如く荒し廻った始末から、遂に仲間、痕権はじめ四人の者を手にかけてお縄となる結末まで、おなじみ白狼斉狸軒《はくろうさいりけん》が妙筆を以《もっ》て書現わしましたる一冊、……当の金三は明朝五時、鈴ヶ森に於て御処刑となりまする、悪人ながら義に強き若様金三の一代記、さあさあ早いが勝じゃ、お早いが勝じゃ……」
「まあ、いやだこと、またお仕置があるのねえ」
奈美は眉《まゆ》をひそめながら振返った。
そで[#「そで」に傍点]は縫物の手を休めた、……近く挙げられる辰之助と奈美の婚礼に、奈美の着る緋《ひ》の長襦袢《ながじゅばん》である。これだけは人手にかけたくないと、この夜頃、そで[#「そで」に傍点]は老いの眼に眼鏡をかけながら針を運んでいるのだった。
「ねえばあや[#「ばあや」に傍点]、……ねえ」
「はい」
「琴を出してお呉れな、いまの読売《よみうり》を聞いてなんだか気が沈んで了ったの、……今夜は久し振りに琴を弾いて、忘れたいわ」
「なにを忘れたいと仰有《おっしゃ》います、いまの読売でございますか」
「読売も、なにもかもよ」
そして唯ひとつのことを、……残り少くなりつつある乙女の日のために、独りそっと胸に掻抱《かきいだ》いてみたいのだ。
そで[#「そで」に傍点]が琴を取おろした。
「行燈を消してお呉れ」
「まあ……それではこれが縫えませぬ」
「いいの、今夜はおまえも婚礼のことなど忘れてお呉れ、もう今夜きりで二度と弾かない曲を聴かせてあげる」
そで[#「そで」に傍点]は行燈を消した。
明け放した広縁から、畳のうえまで月光がさし込んでいる、奈美は琴爪《ことづめ》を指に嵌《は》めながら胸の中でそっと云った。
――佐伯さま、あなたはいつか、道を歩いていてもこの曲を聴くと立止ると仰有いましたのね、いま何処《どこ》においでか分りませぬけれど、奈美はあなたのために弾きますの、……お聴き下さいましね、あなたのための曲ですわ、あなたの他には誰のためにも弾かない曲ですのよ。
祈るように呟《つぶや》いて、静かに指を十三|絃《げん》の上へおろした。
千鳥の曲が、水のような月光の庭へ、ほろほろとながれ始めた。
[#地から2字上げ](「譚海」昭和十四年十二月号)
底本:「怒らぬ慶之助」新潮社
1999(平成11)年9月1日発行
2006(平成18)年4月10日八刷
底本の親本:「譚海」
1939(昭和14)年12月号
初出:「譚海」
1939(昭和14)年12月号
※底本は、「鈴ヶ森」の物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ