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太田陽一

太田陽一(おおたよういち、1908年1月23日~1988年1月9日)は、内務庁官僚、自治省官僚、衆議院議員
生誕 1908年1月23日
秋田県北秋田市
逝去 1988年1月9日
秋田県秋田協連病院

来歴

生い立ち

1908年1月9日、厳冬期の秋田県に生まれる。
旧制秋田高校東北大学理学部数学科を経て、高等文官行政科として、内務庁へ入庁。

自治官僚

入省直後、上長から警察官僚か自治官僚かを選択しろと迫られて、警察官僚を選択したが同期にすり替えられて地方財政局に配属される。資財課、理財計画課、納税課を歴任。1939年に徳島県庁に出向辞令を受け、会計部監査室長、図書館部管理室長を歴任。都道府県の自治財政を統括する立場にあったが、年次の低さや内務庁内部からの視線もあって地方に飛ばされることとなった。1944年戦争激化に伴う混乱の最中、自治省地方財政局交付税課長補佐。
1945年に終戦を見ると、地方財政局総務課長。1946年自治大臣補佐官。戦後期の地方発展を包括的にサポート。その後、地方財政局付(課長相当)、大臣官房審議官(地方財政局担当)、徳島県副知事、大臣官房付を最後に、1952年に退官。

衆院議員選挙

日本共和党の推薦により、第16回衆議院総選挙旧秋田全県区から初当選。当選同期は、花の52年組と呼ばれる名物議員揃いで、以降の総選挙で5連続当選を果たした代議士は、24名全員が、閣僚や党幹部のポストに就いた。当選後、日本共和党から追加公認を受ける。当選同期には、赤城勇作多田信鉄らがいる。

不適切発言と辞職

1955年5月に鶴田内閣商工政務次官に抜擢。第121回国会(通常会)の中で「今般日本の財政状況を見ると、貧乏人が麦を喰ってバラックで眠らなければならない」と発言したことで野党から追及を受ける。数日で発言を撤回して、辞表を提出。
1957年6月の遠山内閣組閣後、鳥山大幹事長に離党届を提出。しかし、「今は誰一人としてかけてはならない時期だ。次の機会にもう一度挑戦してみろ」と背中を押され離党を踏みとどまる。地方活性化三原則の発表後、幹事長の後押しで自治部会長。地行続の親玉と呼ばれていた鳥山大の下で、族議員としての地位を高める。
同期が、杉浦内閣の要職を固める中、東北地方の代弁者として地元第一を信条に地方活動を重点的に行う。1960年6月、鳥山大両院議員総会長のサポートを目的に、両院議員総会事務総長。鳥山大の懐刀として成長すると、保守党地行族の領袖である大場達夫に名前を売ると、衆議院自治委員長に就任する。

党内派閥の中で

1963年6月、保守党治水会の発足に合わせる形で、鳥山大に派閥設立を提案。1966年、強力な後ろ盾だった鳥山大が政界引退。この時期、石原幸一と対立して、同じく無派閥の藤原忠篤鵜杉努らとともに、抵抗勢力と名指しされ、党・内閣の要職を与えられない日々を過ごした。
1968年10月、派閥論理の外にいた青山剛志総裁の下、党組織運動局長。1969年、地方公共事業投融資の増額を目指した予算案を予算委員会でリードした。特に東北地方日本海側及び山陰地方の開発実現を目指す。1973年5月、党政調副会長兼自治部会長。

自由党へ合流

1977年6月、片山愛康総裁の下、国会対策委員長第26回衆議院総選挙に出馬をせず、政界引退。秋田県の市町村会館にて「長らく迷惑をかけてきたことを県民の皆さんにお詫び申し上げて、国会議員を辞職いたします」と宣言した。同日、花の52年組であった山崎公時衆議院議長が祝辞を出した。議員辞職後、自由党は名誉党員に付することとして離党を認めなかった。

秋田の在野にて

1984年10月、自由党/東北連合名誉顧問。党首とともに全国遊説、地方での選挙応援を行った。自由党の牙城だった秋田県選挙区を守る活躍を見せた。精力的に政治活動に力を注いできたが、年齢とともに衰えを見せることが多くなった。1988年1月、自身の80回目の誕生日を超えることなく逝去した。長らく国政政党で日陰もの扱いされ、決して表だった要職を務められたわけではなかった。

略年歴


 ・地方財政局資財課
 ・地方財政局理財計画課
 ・地方財政局納税課
 ・会計部監査室長
 ・図書館部管理室長
  • 1944年10月_地方財政局交付税課長補佐
  • 1945年10月_地方財政局総務課長
  • 1946年8月_自治大臣秘書官
  • 1948年1月_地方財政局長付
  • 1948年4月_大臣官房審議官(地方財政局担当)
  • 1949年10月_徳島県副知事
  • 1951年1月_大臣官房付
  • 1952年3月_退官

 ・当選後、日本共和党から追加公認

最終更新:2026年06月01日 23:59