来歴
生い立ち
自治官僚
入省直後、上長から警察官僚か自治官僚かを選択しろと迫られて、警察官僚を選択したが同期にすり替えられて
地方財政局に配属される。資財課、理財計画課、納税課を歴任。1939年に
徳島県庁に出向辞令を受け、会計部監査室長、図書館部管理室長を歴任。
都道府県の自治財政を統括する立場にあったが、年次の低さや
内務庁内部からの視線もあって地方に飛ばされることとなった。1944年戦争激化に伴う混乱の最中、
自治省地方財政局交付税課長補佐。
1945年に終戦を見ると、地方財政局総務課長。1946年
自治大臣補佐官。戦後期の地方発展を包括的にサポート。その後、地方財政局付(課長相当)、
大臣官房審議官(地方財政局担当)、
徳島県副知事、大臣官房付を最後に、1952年に退官。
衆院議員選挙
不適切発言と辞職
1955年5月に
鶴田内閣の
商工政務次官に抜擢。
第121回国会(
通常会)の中で「今般日本の財政状況を見ると、貧乏人が麦を喰ってバラックで眠らなければならない」と発言したことで野党から追及を受ける。数日で発言を撤回して、辞表を提出。
1957年6月の
遠山内閣組閣後、
鳥山大幹事長に離党届を提出。しかし、「今は誰一人としてかけてはならない時期だ。次の機会にもう一度挑戦してみろ」と背中を押され離党を踏みとどまる。
地方活性化三原則の発表後、幹事長の後押しで自治部会長。
地行続の親玉と呼ばれていた
鳥山大の下で、族議員としての地位を高める。
同期が、
杉浦内閣の要職を固める中、東北地方の代弁者として地元第一を信条に地方活動を重点的に行う。1960年6月、
鳥山大両院議員総会長のサポートを目的に、両院議員総会事務総長。鳥山大の懐刀として成長すると、
保守党地行族の領袖である
大場達夫に名前を売ると、
衆議院自治委員長に就任する。
1963年6月、
保守党治水会の発足に合わせる形で、
鳥山大に派閥設立を提案。1966年、強力な後ろ盾だった
鳥山大が政界引退。この時期、
石原幸一と対立して、同じく無派閥の
藤原忠篤、
鵜杉努らとともに、抵抗勢力と名指しされ、党・内閣の要職を与えられない日々を過ごした。
1968年10月、派閥論理の外にいた
青山剛志総裁の下、党組織運動局長。1969年、地方公共事業投融資の増額を目指した予算案を
予算委員会でリードした。特に東北地方日本海側及び山陰地方の開発実現を目指す。1973年5月、党
政調副会長兼自治部会長。
秋田の在野にて
1984年10月、
自由党/東北連合名誉顧問。党首とともに全国遊説、地方での選挙応援を行った。
自由党の牙城だった
秋田県選挙区を守る活躍を見せた。精力的に政治活動に力を注いできたが、年齢とともに衰えを見せることが多くなった。1988年1月、自身の80回目の誕生日を超えることなく逝去した。長らく
国政政党で日陰もの扱いされ、決して表だった要職を務められたわけではなかった。
略年歴
・会計部監査室長
・図書館部管理室長
- 1944年10月_地方財政局交付税課長補佐
- 1945年10月_地方財政局総務課長
- 1946年8月_自治大臣秘書官
- 1948年1月_地方財政局長付
- 1948年4月_大臣官房審議官(地方財政局担当)
- 1949年10月_徳島県副知事
- 1951年1月_大臣官房付
- 1952年3月_退官
- 1975年4月_自由党へ合流
- 1977年6月_党国会対策委員長
- 1983年1月_政界引退を発表
- 1983年7月_名誉党員
- 1984年10月_党東北連合名誉顧問
最終更新:2026年06月01日 23:59