文学の定義は難しい。これは他人の文学定義を理解しようとするより、文学と称される作品を実際に読むことが有用である。人によって定義がまちまちであるから、文学についての議論はときおり起こる。
文学性というのは言語として定義しにくいので、大まかにいうと「雰囲気」と云うことができる。これは誤謬がとても多い。文学性とはときおり作者と同じ感性をもった人間にしか伝わらないことがある。
たとえば芥川や太宰のような退廃的な雰囲気が嫌いな人間は、彼らの文章を認めないことすらある。かくいう僕も皮肉屋なので、夏目漱石の「吾輩は猫である」は読破できなかった。他人の毒を進んで読む気にはなれなかった。
こうした雰囲気という点においては、文学小説は詩に近いとも云える。
文学の目的
文学とは、人に享楽を与えるよりも、大切だと作者が判断した物事を伝えることに重きを置く。また社会諷刺や政治風刺など批判の意味をこめたものなどもこれに当たる。また哲学や思想などに強い影響を与えた作品も、文学とされることが多い。
現在とは違って、昔の小説は娯楽の多くを占めていた。現代にあるようなテレビや映画、ましてやラジオすらなかった時代があり、識字率が今より低いことで小説を読むことのできない人間も多かった。おそらくそういった時代において、小説という手段は大衆にものごとを伝える手段として有用だったのだろう。諷刺などは直接批判するのではなく、物語の陰に本意を隠すことができる。いわゆる「わかる人にはわかる」のである。もし訴求されても言い逃れすることができる。現代より言論統制も厳しかった頃には、そういった手段もあったのだろう。
また現代では、思想に殉じるものは少ない。三島由紀夫は日本の未来を憂い、自身の思想を小説にしたためた。そしてその思想のために、割腹自殺をした。彼にとっては、小説とは表現のいち手段であった。
芥川や太宰も、自殺をしている。これが思想のためなのか、単に衝動的なものなのかはハッキリとしない。梶井基次郎などは病弱であったため早世したが、その病弱がための繊細さというものも文学的といえる。
文学の終焉
既に文学は終焉しているとも云える。文学は文字での表現における芸術性と同じようなもので、平和になるに連れて芸術が萎んだように、文学も萎んでいる。現在の文学性とは、もはやエンターテインメントであり、「楽しむための文学」に程近い。己の作家としての地位を築くために血が滲むほどの努力はしても、それを書くことによって死ぬほどの大々的な価値をもつ文章など現在では到底ありえない。思想に殉じることがなくなったために、文学も枯れたのかもしれない。
最終更新:2011年08月06日 07:33