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湯口敏彦 - (2025/06/02 (月) 09:18:15) のソース

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1971年に巨人にドラフト1位指名を受け入団したプロ野球選手。しかしその後プロ野球史に残るとある事件が起こることとなる。

#region(湯口事件)
1972年11月22日二軍首脳陣公認のもと寮生活1年の締めくくりとしての慰労会が行われ、そこで湯口選手は同僚と朝方まで飲んでいた。
翌23日、巨人で行われた紅白戦において川上監督の心変わりのため本来登板予定のなかった湯口選手が急遽登板した。もちろん大量に酒を飲んでいたため二日酔いの状態で登板することとなり結果として打者一巡に2ホームランと打ち込まれたため川上監督から「お前は2年間もムダメシを食っていたのか!」と叱責され、中尾二軍監督から厳しい叱責を受けたと言われている。また、この日虚ろな気持ち合宿所に帰ることができなかったため試合後同僚と飲みに出かけ、朝方帰宅した際中尾二軍監督から鉄拳制裁を食らったという。
その後同月27日に行われた納会では話しかけられても反応しない、目の焦点が合っていないなど明らかに異常で、後日診療所でうつ病と診断された。そのため杉並区の精神病院に入院していたのだが、巨人と湯口選手の父は口裏を合わせて「風邪をひいた」とマスコミに言っていたという。
そして2度の入退院を繰り返したのち1973年に二軍キャンプに合流する(これはマスコミを警戒した球団側の意向であったといわれる)。しかし湯口選手はチームメイトが話しかけても反応しない、車のエンジン音に「怖いよう!」と恐怖を露にする、深夜に宿舎内をうろついたり突然大声を出すなど明らかに正常ではなく、結果再入院することとなる。
1973年3月22日、湯口選手が病院のベッドで亡くなっているのが発見された。死因は心不全とされているがマスコミなどでは「自殺ではないか」という疑惑が向けられていた(その後の検死によりその説は否定されている)。
#region(事件の影響)
彼の死後川上監督は「巨人こそ大被害を受けましたよ。大金を投じ年月をかけて愛情を注いだ選手なんですから。せめてもの救いは、女性を乗せての交通事故でなかった事です」との声明を発表し、これが決定打となり巨人はさらなるバッシングを受けることとなった。
またこの事件の影響でイメージが低下し、同年行われたドラフト会議において巨人が指名した選手7人のうち4人が指名を拒否するという事態が起こった。
#endregion
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分類:真実、鬱
危険度:1

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