【チャンネル桜】防人の道 今日の自衛隊 -平成20年4月8日号 ◆ 坂川隆人(元海将補)2/3 ◇『論語』子路第十三の十八 葉公(しょうこう)、孔子に語りて曰わく、吾が黨に直躬(ちょくきゅう)なる者有り。 其の父、羊を攘(ぬす)みて、子之を證す。 孔子曰わく、吾が黨の直(なお)き者は是に異なり。 父は子の爲に隱し、子は父の爲に隱す。 直きこと其の中に在り。 | |
【チャンネル桜】防人の道 今日の自衛隊 -平成20年4月8日号 ◆ 坂川隆人(元海将補)3/3 |
はじめに -批判的史学をめざして- 1932年12月に創立された歴史学研究会は、自らの歴史を振り返ってすでに『歴史学研究会 四十年のあゆみ』、『歴研半世紀のあゆみ』を刊行している。昨年、六十周年を迎えるにあたっても記念行事・出版を考えたが・・・財政的にもあまり余裕のない状況だったので、つつましい企画で満足することにした。 ・・・ 歴史学研究会の創立は、必ずしも反「史学会」とか、その後有力になっていく皇国史観に逸早く対抗するとかの意識をもってのことではなかったようだ。・・・だが、第二次世界大戦後、歴研はマルクス主義者を中心に時代のエートスに応える歴史研究者の団体として大きな影響力を及ぼすに至った。いわゆる「戦後史学」の中軸をになったと言ってよかろう。しかし1970年代になると、「戦後史学」はイデオロギーの面でも歴史研究の方法の点でも批判に晒されるようになった。その頃の特徴は批判者の多くが歴研と同根の「左翼」の人々であったことである。 1980年代の末ともなると、ソ連邦が消滅するという、それを長らく願っていたような人ですら意表をつかれるような事態が生じた。歴研を批判していた「左翼」にとっても歴研批判どころではなくなり、土台が一緒に揺らいだと言える。・・・歴研委員会の中ですら、歴研にとっては馴染みの「人民的・変革的・科学的」という言葉に対する違和感が表明された。 私は、1990年の総会の答弁で述べたとおり、その三つの言葉を「下からのまなざしをもち、現実の矛盾から目を逸らさず、学問的な手続きをきちんとふむ」ことと理解する。・・・歴研は今もこの三つを追及しようという人々の集まりである。あくまでも現実と歴史に批判的な目を持ち続けるのが「歴研」であろう。そして、江口委員長の時代から、党派的分裂の危機を何度も乗り越えてきた伝統を持っている。 その伝統と観点に立って、1992年12月5日(土)、東京大学本郷キャンパスで「いま、なぜ歴史学か」というテーマを掲げてシンポジウムを開催し、約200名の参加を得た。・・・ さらに、全12巻の「講座世界史」(東京大学出版会)と「国民国家を問う」(青木書店)との出版を準備している。これも六十周年記念企画の一環である。 以上すべての企画に協力された方々に深く感謝したい。とくに若い委員の諸君に。そうした若い諸君の存在こそが歴研の未来を保証してくれるのである。 1993年3月 委員長 西川 正雄 |
あとがき (前略)60年、70年ごろと現在では歴史学をとりまく状況も学問のスタイルも大きく異なっている。最近の委員の中に、自分は社会主義者であると自認したり、人民闘争史を追求していると自己紹介したりする人は皆無といってもいい。しかし、では戦後の歴研がこだわってきたテーマや戦わされた議論は無駄だったのだろうか。私にはとてもそのようには思えない。60年代、70年代の歴研がこだわった精神、築いたもの、そこから今につながっている地下水脈を確認することが、歴史学の危機とまでいわれる現在の状況の中で、歴研が今後も魅力ある歴史学会として活動していくための足場となるだろう。三回にわたった討論会はいずれも予定時間を超過して、活発な議論が交わされた。70年なんてまだ生まれていなかった、という若い会員も多いだろうが、是非、三つの討論会記録をお読みいただきたいと思う(後略) 2002年12月14日 歴研創立70周年記念誌作成担当 榎原 雅治 |
※「戦後の歴研がこだわってきたテーマや戦わされた議論は無駄だったのだろうか」⇒完全に無駄・無意味でした。もういい加減にしましょう。 ※「60年代、70年代の歴研がこだわった精神、築いたもの・・・歴研が今後も魅力ある歴史学会として活動していくための足場となるだろう」⇒嘘の上塗りは止めましょう。 |
① | 日本の歩みを常に肯定的に捉える正統史観(後述のように戦後は左翼からのレッテルとして“皇国史観”と蔑称された史観) | と、 |
② | 日本の歩みを常に否定的に捉えるマルクス主義史観(戦後は“東京裁判史観”とも呼ばれ、また近年は特に批判者から“自虐史観”と蔑称されている史観) | の対立がある。 |
戦前~戦中 (『國史』教科書時代) | 敗戦 | 戦後 (『日本史』教科書時代) | ||||
保守 | 皇国史観(皇国護持史観) ・那珂通世(神武天皇即位紀元に関する讖緯説(辛酉革命説)を提唱) ・白鳥庫吉(東宮御学問御用掛として後の昭和天皇に進講) ・平泉澄(東大国史学科主任教授、皇国史観の中心人物と見做され戦後公職追放。最近もNHKがJAPANデビュー第二回【天皇と憲法】の中で博士を理不尽なまでに激しく糾弾した。⇒NHKの正体・上級編参照) ・津田左右吉(戦後、唯物史観派からは「津田史学は唯物史観」として自派の源流のように言われたが、津田氏本人は「唯物史観などは学問じゃありません」と猛反発し否定、逆に皇室擁護の論陣を張っている) |
⇒ | 保守 | 正統史観(正統史学) ・平泉澄(平泉博士は昭和59(1984)年まで存命し、日本の正統史学の権威として精力的に活動を続けた) ・田中卓(平泉澄博士の学問的後継者、建国記念日(紀元節)復活に貢献) ・大原康夫 ・高森明勅 | ||
右翼 | 皇国美化史観 ・大川周明(国家社会主義と有色人種解放論のイデオローグ) ・田中智学(アジア解放のスローガン「八紘一宇」論の提唱者) ・加藤玄智(天皇絶対神論・国家神道論の提唱者) |
消滅 | 自由主義 | 自由主義史観 ・藤岡信勝 ・西尾幹二 | ||
‡唯物史観への対抗イデオロギーとして出現 | ‡過度の自虐史観への反動として出現 | |||||
左翼 | 唯物史観(マルクス主義史観) ・羽仁五郎(講座派) ・井上清(講座派、のち共産党員) ・土屋喬雄(労農派) |
⇒ | 左翼 | 東京裁判史観(自虐史観) ・羽仁五郎(日教組代表、参院議員) ・井上光貞 ・家永三郎 ・色川大吉 ・直木孝次郎 ・丸山眞男(政治学者、隠れマルクス主義者) |
干支は60年の周期で単純に繰り返すので簡易に計算できる。そのため神武天皇の即位年の「辛酉年」は日本書紀の編年から遡ると紀元前660年に相当することになる。 明治時代に歴史学者那珂通世が、日本書紀はその紀年を立てるにあたって中国の前漢から後漢に流行した讖緯説(しんいせつ)を採用しており、推古天皇が斑鳩に都を置いた西暦601年(辛酉年)から逆算して1260年遡った紀元前660年(辛酉年)を、大革命である神武天皇即位の年として起点設定したとの説を立てた(参考8:『日本書紀(一)』補注(巻第三)一八 400頁)。 これは隋の煬帝により禁圧されて散逸した讖緯説の書(緯書)の逸文である『易緯』の鄭玄の注に、干支が一周する60年を1元(げん)といい、21元を1蔀(ぼう)として算出される1260年(=60×21)の辛酉(しんゆう)年に、国家的革命(王朝交代)が行われる(辛酉革命)という事に因む。 辛酉年の春正月の朔(訓はつひたち、新月すなわち月齢0=太陰太陽暦では常に1日で、このときの干支は庚辰)に、天皇、橿原宮に即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。是歳を天皇の元年とす。(「辛酉年春正月庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」『日本書紀』神武天皇元年正月朔の条)。 |
稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣の銘によれば5世紀中葉の地方豪族が8世代にもわたる系図を作成したのは事実である(参考1) 稲荷山古墳鉄剣銘文は「意富比魁(オホヒコ)」から「乎獲居臣(ヲワケの臣)」にいたる8人の系図を記録している。銘文にある「意富比魁(オホヒコ)」を『古事記』、『日本書紀』が記録する第八代孝元天皇の第一皇子「大彦命」であるとする説がある。「意富比魁(オホヒコ)」と「大彦命」が同一人物を指すなら、『古事記』、『日本書紀』(四道将軍の一人)の大彦命の記事と稲荷山古墳鉄剣銘文の記録が結びつくことになる。 川口勝康(首都大学東京教授)は次のように解説する。「稲荷山古墳出土の鉄剣銘文中の乎視居臣 (おわけのおみ) なる人物の系譜にみえる上祖の意富比魁は、オホヒコとよまれ、記紀の大彦命にあたる可能性が高い(平凡社『世界大百科事典』)」。 また、岸俊男(京都大学名誉教授)は次のように解説する。「ヲワケを東国国造の系譜に属する者と考える説と、上祖オホヒコを記紀に阿倍臣や膳臣 (かしわでのおみ) の始祖としてみえる孝元天皇の皇子大彦命とし、あるいは杖刀人は阿倍臣に従属する丈部(はせつかべ) であるとみて、ヲワケを中央豪族の一員と考える説に大きく見解が分かれている(平凡社『世界大百科事典』)」。 安本美典は、『本朝皇胤紹運録』によると「大彦命」の孫は「豐韓別命」であり、鉄剣銘文の「意富比魁(オホヒコ)」の孫「弖已加利獲居(テヨカリワケ)」と読み方が似ているとする |
「皇国史観」(赤旗より引用)という用語は、「早くても昭和17(1942)年6月頃から、大体は昭和18(1943)年頃から文部省周辺の人々によって使われだしたもの」(昆野伸幸『近代日本の国体論』より引用)であり、戦前/戦中の史学者自身が使った用語ではない(戦後にマルクス主義史家が「レッテル」として普及させた用語である)。 そして、その内容としては、①国史学者・平泉澄博士に代表される「あくまで歴史の範囲で思考する」流れと、②アジア主義者/国家改造運動家・大川周明に代表される「日本を盟主とするアジア解放を主張する」流れ(昆野氏論文)の2つがあったが、戦後に史学界を占拠したマルクス主義史家は、皇室や日本国を貶めんがために、日本の伝統的な歴史観/国家観に根ざした①、と、大東亜共栄圏を包摂せんとする新しい思想を示した②、をワザと混用して「戦前/戦中の史学=皇国史観=軍国主義、アジア侵略、全体主義」という刷り込みを行った。 これに関して平泉澄博士の門下生の田中卓博士は、「一概に皇国史観といってもそれは、・・・①平泉史学による「皇国護持史観」と、②戦争末期という時代に迎合して浅薄な国体賛美に努めた「皇国美化史観」と呼ばれるべきもの(の2つ)がある」と述べ、平泉博士や自らの史観は、日本の伝統を正しく受け継ぐ「正統史観」であると述べている。 なお、ソ連が崩壊した1991年以降は、史学界(主流は、未だ隠れマルクス主義者と思われる)も、従来のように(彼らの言う)「皇国史観」に対して実証研究もせずレッテルだけ貼って一方的に批判することは許されなくなってきており、リンク先にある赤旗や長谷川氏・昆野氏のように戦前/戦中の資料を実際に読んで「実は皇国史観にも多様な内容があった」「実は皇国史観は1940年代に作られた用語だった」などと軌道修正を図っているが、そんな姑息な事をする位ならば、<1>彼らが戦後一貫して貶めようとしてきた①平泉博士・田中博士らの史観(皇室や日本国を常に善いものと見る正統史観)は実は全体主義とも侵略思想とも無関係だった、<2>国家改造とアジア解放を唱えた②は実はマルクス主義(具体的にはコミンテルン)の脅威への対抗イデオロギーとして生まれた(実際に、全体主義であり侵略思想であったのはマルクス主義の方だった)、と素直に認めればよいのである。(そうする勇気など、とてもないだろうが) |
講座派とは、1925-35年頃、マルクス主義経済学者・史学者を二分した日本資本主義論争において、日本資本主義の本質は軍事的半封建的段階にあるとして、来るべき革命は「ブルジョワ民主主義革命」(第一革命)であると主張した論者達であり、戦前~戦後を通じて日本共産党の思想的基盤を為した。主な論者として山田盛太郎、平野義太郎、羽仁五郎(マルクス主義歴史学者。戦後に日教組代表・参議院議員となり国会図書館法前文を起草)、服部之総、山田勝次郎、大塚金之助らがいる。 |
労農派とは、日本資本主義論争において、明治維新は不完全ながらブルジョワ革命であり、日本における封建制は消滅しており、現下で国家権力を握っているのはブルジョワジーであるとして、来るべき革命を「社会主義革命」(第二革命)であると主張した論者達であり、のちの社会主義協会(日本社会党の最左派にして主流勢力)の思想的基盤を為した。主な論者として山川均、猪俣津南男、荒畑寒村、櫛田民蔵、土屋喬雄、大内兵衛、向坂逸郎(マルクス主義経済学者。戦後に向坂派社会主義協会を擁して日本社会党の最大のイデオローグとなる)、宇野弘蔵らがいる。 |
マルクス主義史観最大のイデオローグで、昭和20年3月に北京で逮捕され東京で収監されていたが、GHQにより釈放(出獄)された。その直後から猛烈な皇室否定・廃止論を発表。更にGHQの後ろ盾で日教組代表となり、その組織票で参議院議員に当選。GHQの指令を受けて国立国会図書館の設立に関与し連合国にとって不都合な図書の隠滅(GHQ焚書)に協力したとされる。現在の国立国会図書館法の前文「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立って憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命としてここに設立される」は羽仁五郎の起草である。 |
歴史教科書から古代の皇室の記述を大幅に削除し、皇室の起源を応神天皇(のち崇神天皇)など出来る限り遅い時代に設定する学説を打ち立てたが、最晩年には自説に無理があることを認めたといわれる。なお井上光貞の全集第11巻「私と古代史学」(岩波書店)にアメリカ人学者から「日本の史学者はマルクス主義史観一辺倒・結論先にありきに陥っている」と批判されたことを告白するエッセーが載っている。また山川出版の「高校日本史」教科書(1951年の初版)や中公文庫の「日本の歴史」の古代史は井上が根本部分を執筆している。 |
東大国史学科で平泉澄博士の最後の教え子の一人だったが、終戦後にあっさり転向して当時公職追放の身となっていた恩師を「狂信的な皇国史観の指導者」として猛烈に批判した(公正な学問的批判ではなく平泉博士への卑劣な人格攻撃だったとされる)。小田実(ベトナム反戦運動で活躍したが、近年KGBのエージェントだった事が判明)と共に日市連(昭和天皇の闘病中に「天皇が死んでも戦争の責任は消えない」と書かれた横断幕を掲げて都心でデモを行ったサヨク市民団体)の共同代表を務めた。現在でも毎日新聞に自虐的な歴史観を披露した記事がよく掲載される。中公文庫「日本の歴史」の近代史の執筆者の一人。WIKIPEDIA |
自虐史観もうやめたい!―反日的日本人への告発状 谷沢永一 (著) 2005/06 内容 もう中国・韓国に謝るな! いかにも禍々しい日本罪悪論をはじめて言い出した発頭人は誰なのか。 日本の世論をミスリードしてきた「進歩的文化人」、日本罪悪論の火元12人を徹底批判。 | |||
<目次> | |||
こんな国家に誰がした | ― | 今も続く、スターリンの呪縛 | |
「日本は第二次大戦の主犯」と言う歴史の偽造家 | ― | 戦後の学界、言論界の大ボス・大内兵衛への告発状 | |
「ソ連はすべて善、日本はすべて悪」の煽動者 | ― | 日本罪悪論の海外宣伝マン・鶴見俊輔への告発状 | |
国民を冷酷に二分する差別意識の権化 | ― | 戦後民主主義の理論的指導者・丸山眞男への告発状 | |
栄達のため、法の精神を蹂躙した男 | ― | 反日的日本人の第一号・横田喜三郎への告発状 | |
金日成に無条件降伏の似非出版人 | ― | 進歩的文化人の差配人・安江良介への告発状 | |
恫喝が得意な権力意識の化身 | ― | 「進歩的インテリ」を自称する道化・久野収への告発状 | |
祖国をソ連に売り渡す“A級戦犯” | ― | 進歩的文化人の麻酔担当医・加藤周一への告発状 | |
その正体は、北京政府の忠実な代理人 | ― | 日本の伝統の徹底的な否定論者・竹内好への告発状 | |
最も無責任な左翼・教条主義者 | ― | マスコミを左傾化させた放言家・向坂逸郎への告発状 | |
日本を経済的侵略国家と断定する詭弁家 | ― | 現代の魔女狩り裁判人・坂本義和への告発状 | |
国家間の原理を弁えない謝罪補償論者 | ― | ユスリ、タカリの共犯者・大江健三郎への告発状 | |
近代日本を全否定した国賊 | ― | 進歩的文化人の原型・大塚久雄への告発状 | |
★評価 書誌学者 故・谷沢永一氏による好著。青年時代に一時共産党員だった経歴を持つ著者だけに12人の国賊文化人たちへの批判が実に的確。目次だけでも読む価値あり。 |
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物語日本史(上) (中) (下) 平泉澄(著) 講談社学術文庫 『物語日本史』の序文(抜粋)(全文は「人権擁護法案マガジン・ブログ版」物語日本史(平泉澄)を読む 第1回、第2回、第3回) (略)昭和二十七年四月、占領は解除せられ、日本は独立しました。長い間、口を封ぜられ、きびしく監視せられていた私も、ようやく追放解除になりました。一年たって昭和二十八年五月二日、先賢の八十年祭に福井へ参りましたところ、出て来たついでに成和中学校で講話を頼まれました。その中学校を私は知らず、中学生は私を知らず、知らぬ者と知らぬ者とが、予期せざる対面で、いわば遭遇戦でありました。講話は極めて短時間で、要旨は簡単明瞭でありました。「皆さん!皆さんはお気の毒に、長くアメリカの占領下に在って、事実を事実として教えられることが許されていなかった。今や占領は終わった。重要な史実は、正しくこれを知らねばならぬ。」と説き起して、二、三の重要なる歴史事実を説きました。その時の生徒の顔、感動に輝く瞳、それを私は永久に忘れないでしょう。生徒一千、瞳は二千、その二千の瞳は、私が壇上に在れば壇上の私に集中し、話し終って壇を下りれば壇下の私に集中しました。見るというようなものではなく、射るという感じでした。帰ろうとして外へ出た時、生徒は一斉に外へ出て私を取巻き、私がタクシーに乗れば、タクシーを取巻いて、タクシーの屋根の上へまで這い上って釆ました。彼らは黙って何一ついわず、何一つ乱暴はしない。ただ私を見つめ、私から離れまいとするようでした。ようやくにして別れて帰った私は、二、三日後、その生徒たちから、真情流露する手紙を、男の子からも、女の子からも、数通もらいました。私の一生を通じて、最も感動の深い講演でありました。 成和中学の感動の忘れがたさに、それより十数年後の昭和四十五年、時事通信社より一貫せる日本歴史を書くよう求められた時、純真なる少年に呼び掛ける形を取りました。当時すでに七十六歳の私は、余命計り知るべからず、これを児孫への最後の贈り物、つまり遺書として書こうとし、したがって学者らしく事実を羅列して博学を誇るがごとき形式を好まず、ただ歴史の精粋を抜いて、誠実に父祖の辛苦と功業とを子孫に伝え、子孫もまたこの精神を継承して進むことを期待しつつ、しみじみと誠実に語ろうとして筆を執ったのでありました。(中略)願わくはこの小さき贈り物を満載せる帆船の行手、風穏やかにして波静かなれ。 昭和五十三年十二月十日朝 白山寒林の中にて 平泉 澄 |
丸山眞男と平泉澄昭和期日本の政治主義 植村 和秀 (著) 柏書房 (2004/10)単行本 丸山眞男といえば、進学校の学生が全共闘世代の教師に「夏休み(冬休み)の課題に『日本の思想』(岩波新書)の中の一章を読んで感想を書け」と言われて、面白くも無いヘンテコで拗けた文書を読まされて難儀するのがオチの“戦後日本を代表する政治思想家”なのだが、そうした丸山の思想に半ば洗脳されていた著者(京産大法学部教授、ドイツ政治思想史専攻)が、京都の古本屋でたまたま、丸山眞男と思想的に対極にある平泉澄の戦前の著作を手に取り、その流麗な文体・精緻な論理構成に打たれて、可能な限りの事実検証・文献検証を重ねて両者の思想的対立の根源に迫った好著。 「筆者には丸山眞男も平泉澄も、その支持者の多くのように、無条件に支持することはできない。丸山には心情的には共感できるが、しかし論理的には納得できない。平泉に論理的には共感できるが、しかし心情的には納得できない。それにもかかわらず、丸山と平泉の思想史的な意義の重さと、人間的な偉大さとは、素直に承認したい。」(著者:植村氏)・・・丸山眞男的あるいは進歩派文化人的な「戦後民主主義」思想にドップリ漬かった人への解毒剤としてお勧め。 また昭和初年~昭和40年頃までの日本の思想状況の本当の所を知りたい人にもお勧めしたい。 「生きて皇室を守るべし。雑草を食っても生きよ」終戦前後の混乱期における平泉同学の知られざる奮起、まさに大日本帝国の殿(しんがり)としての貢献、阿南惟幾・下村定の陸軍最後の二人の陸相と平泉博士とのエピソードも興味深い。 |
昭和の思想 植村 和秀 (著) 講談社選書メチエ(2010/11)単行本 上記『丸山眞男と平泉澄昭和期日本の政治主義』が内容的にハイレベルすぎて、初心者のみならず中級者でさえ中々に読みこなせないという難点に答えるかのように2010年秋に出版された簡潔な昭和期政治思想の概略本。 内容(「BOOK」データベースより) 「戦前=戦後」だけでなく、昭和はつねに「二つの貌」を持っていた。皇国史観から安保・学生運動まで、相反する気分が対立しつつ同居する昭和の奇妙な精神風土の本質を、丸山眞男・平泉澄・西田幾多郎・蓑田胸喜らの思想を元に解読する。 <目次> 第1章 日本思想は二つ以上ある 第2章 思想史からの靖国神社問題―松平永芳・平泉澄 第3章 思想史からの安保闘争・学生反乱―丸山眞男 第4章 思想史からの終戦と昭和天皇―阿南惟幾・平泉澄 第5章 思想史からの世界新秩序構想―西田幾多郎・京都学派 第6章 思想史からの言論迫害―蓑田胸喜 第7章 二〇世紀思想史としての昭和思想史 |
あなたが日本の危機に気が付いたきっかけは? | 一言コメント掲示板です。何をきっかけにして危機的状況なのに気が付いたか是非どうぞ。 |
あなたが受けた反日教育は? | 一言掲示板です。今思うと、あれって反日教育だったな?って思う事を情報共有も兼ねて書き込んで下さい。 |
国民が知らない~wiki避難所 | ※外部掲示板です。突っ込んだ議論や情報提供、編集に関する事等なんでも書けるスレッド型掲示板です。 |