■北朝鮮工作員・拉致実行犯の釈放要望書に“署名”
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■南京大虐殺記念館のイベントに参列し“謝罪”


 
民主党の菅直人幹事長ら一行6人は5日、南京大虐殺記念館で行われた追悼イベントに参加した。菅幹事長のほか2人が日本の国会議員。 
日本の最大野党・民主党の幹部を務める菅幹事長らは館内を見学した後、犠牲者に向けて花輪を捧げた。また南京大虐殺の生存者である李秀英さんと倪翠萍さんと会見し、当時の惨状について聞いた。菅幹事長は李さんと倪さんに向けて心をこめて謝罪した。菅幹事長は「お体を大切になさってください」と気遣い、より多くの人がお二人を通じて虐殺の歴史を知ることを望むと語った。小泉首相が先ごろ靖国神社を訪問したことについて菅幹事長は「断固として反対する」と強調した。 
「人民網日本語版」2002年5月6日(web魚拓) 
 
■「もう沖縄は独立した方がいい」と“放言”
 菅直人首相が副総理・国家戦略担当相だった昨年9月の政権交代直後、民主党の喜納昌吉参院議員(党沖縄県連代表)に対し、「基地問題はどうにもならない」「もう沖縄は独立した方がいい」などと語っていたことが15日分かった。
 首相は23日に沖縄訪問を予定しているが、就任前とはいえ、国土・国民の分離を主張していたことは大きな波紋を呼びそうだ。
 喜納氏が、鳩山前政権末に記した新著「沖縄の自己決定権-地球の涙に虹がかかるまで」(未来社)で明らかにした。
 この中で喜納氏は政権交代後、沖縄の基地問題に関して菅首相と交わした会話を紹介。喜納氏が「沖縄問題をよろしく」と言ったところ、首相は「沖縄問題は重くてどうしようもない。基地問題はどうにもならない。もうタッチしたくない」と漏らし、最後は「もう沖縄は独立した方がいい」と言い放ったという。
 喜納氏は著書の中で「半分ジョークにしろ、そういうことを副総理・財務相であり、将来首相になる可能性の彼が言ったということ、これは大きいよ。非公式だったとしても重い」と指摘している。
産経新聞(平成22年6月16日)
TBS 070420(イブニングニュース)衆院教育再生特別委員会にて安部首相VS管代表教科書検定沖縄戦をめぐり論戦
菅「選挙にかかわる地域の問題を国会で大いに取り上げるべきだ」
菅「都合が悪い時になると"それはこたえるべきことでない"政治家として卑怯な態度といわざる得ませんね」
■なんでもパクる 自分の所信を持たない政治家
民主党・コピペ総理がカンニングして作成したマニフェスト。菅自ら反対していた自民党のアイディアを自分のものにしています。
■元祖プロ市民の典型的ポピュリスト政治家
		| 「菅さん」はほかならぬ菅直人である。27歳だった菅氏がリーダーを務めた青年グループは、1974年の参院選で当時81歳の婦人運動家、故市川房枝を半ば強引に立候補させる。市川は当選し、菅氏も76年の衆院選に立候補するが落選。その後2回の落選を経て、80年の衆院選で初当選した。 36年後、菅青年は菅首相になった。「市民派」首相は日本では初めてだ。筆者は菅氏が厚生大臣として薬害エイズ問題の追及で名を馳せていた96年に、その記者会見に出たことがある。ボソボソと話すあのいつもの口調で、正直魅力的な人物には見えなかった。
 ただ市民派出身のクリーンさと、当時まだ鉄の団結力(と縄張り意識)を誇っていた日本の官僚機構に1人で切り込み成果を挙げた姿に、日本政治が今後向かうベクトルと合っている、とも感じさせられた。自民党国会議員の元秘書に「いつか首相になるかも」と言ったら鼻で笑われたが、「クリーンさ」と「政治主導」は14年後の日本政治でもっとも必要とされるものになった。だからこそ、菅氏は首相に選ばれた。(以下↓参照)
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東工大在学中は学生運動に精を出し、卒業後も民間で働くことなく、当時高齢で引退していた婦人運動家の市川房江氏を参議院選挙に担ぎ出して当選させ、更に自分も市川の地盤・知名度・信用を利用する形で国政選挙にデビューした菅直人は、江田三郎(元社会党書記長、江田五月・現参院議長の父)の目に留まり、江田父子の作った社会市民連合(社市連、のち社会民主連合(社民連)に改称)から衆議院選挙に挑戦。1980年に初当選を果たし、“市民派議員”として一躍有名になりました。
菅直人氏は、その経歴・過去の言動から見て、中南米によく居るような“ポピュリスト(人気取り)”政治家である懸念が非常に強い人物です。また上のnewsweekの記事のように学生運動崩れの左翼が多いマスコミには非常に受けのいい人物でもあります。注意しましょう。
動画の4分過ぎに注目して聞いて下さい。千葉景子法務大臣への懸念も語られています。
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佐々淳行(元内閣安全保障室長)氏は、1960-70年代の学生運動・極左運動が過激していた当時に警察庁公安部外事課長を勤め、連合赤軍あさま山荘事件では機動隊の指揮を執っている。
■リベラル・マキアベリスト菅直人
    
    
        | + | 上の動画で語られている菅直人首相の政治的恩師である江田三郎(元社会党書記長)の「構造改革戦略」について解説します。 | 
		| イタリア共産党の構造改革戦略 イタリア共産党の理論的指導者A.グラムシの思想をもとにP.トリアッチ(元副首相)が推進した先進自由主義国におけるマルクス主義革命戦略。1956年のイタリア共産党大会で採択され、長く同党の革命戦略となった。
 内容としては、自由主義社会の内部に強固な左翼思想を持つ者が浸透して各部署にブルジョワジーに対抗する「陣地」(拠点)を構築し、ブルジョワのヘゲモニー(支配権)を徐々に奪っていき、社会主義的変革への諸条件を形成していく、というもので、戦後長くキリスト教民主党を中心とした保守・自由主義政権が続いたイタリア政治において左翼政権を樹立するための現実的戦略として長期間かけて継続された。
 実際にこの戦略が効を奏すのは、1995年に左翼連合・オリーブの木(Ulivo)連盟政権が成立し、さらに1998年に共産党の後継政党である左翼民主党のM.ダレーマ書記長を首相とする政権が出来た時である。
 
 |  		| 江田三郎(元社会党書記長)の構造改革戦略 1960年の日本社会党党大会及び1962年発表の「江田ビジョン」で、書記長だった江田三郎は、従来の社会党のイデオロギーを前面に出した闘争路線を批判し、イタリア共産党の構造改革戦略を日本でも採用すべきことを提案した。しかし江田は社会党で主流派を占める社会主義協会から「伝統的な革命論の放棄である」と猛批判を受け、「江田ビジョン」発表後に辞任を余儀なくされ、更に1977年には社会党から離党して、息子の江田五月(現・参議院議長)と共に社会市民連合を結成した(のちに社会民主連合に党名変更)。
 菅直人は江田三郎・江田五月の支援を受け同党から「市民派候補」として衆議院選挙に挑戦し初当選を果たした。
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■道路交通法違反の疑いが浮上
歩行者の赤信号無視は道交法第7条(信号機の信号等に従う義務)違反により、 2万円以下の罰金又は科料が課されることになる。 
■「ブーメラン」の名手
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【笑ってはいけない】菅直人の予算委員会
■池上彰とMr.ニュースに擁護される
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池上氏はこのニュースで菅氏の一回の食事を取り上げ、それまで行っていた食事を取り上げもせず庶民派であると捏造しました。一方で、麻生元総理について揚げ足取り的批判をいまだに繰り返しています。
■役人をバカにする
■バカにした役人に助けてもらい質問者にバカにされる
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最終更新:2025年10月14日 16:53