【付喪神(つくもがみ)】
器物が百年の時代を経過すると「付喪神」になるとされる。「ツクモ」は白い色の草で、それを年老いた者の白髪に見立てたことから「ツクモガミ」という言葉は古いものを示すようになったとされる。『付喪神』という絵物語では、多くの器物たちが付喪神となって人間を襲うが、最後には剃髪をして仏になったとされる。
付喪神の秘訣
百年を経過していなくとも付喪神になることの出来る日というものが存在する。それは節分の夜で、この日は陰陽の均衡が複雑に移り替わることから
端境(はさか)にあたり、奇妙な事象が発生可能な日であると考えられていた。
丑満時・漆密時(うしみつどき)は闇が世を蔽う事で端境が無効化される時帯。王莽時・王摩時(おうまがとき)は昼と夜に移り替わる事で端境が曖昧化する時帯である。
方角では、艮(うしとら、東北)が端境にあたり、そこから「
鬼門」という考えも生み出されている。丑の時刻が過ぎて寅の時刻に移る時帯が、夜から日の出(曙、あけぼの)へ移り替わる時刻、さらにそれに付け加えて、丑は十二月、寅は一月にあたり冬が春に移る「節分」(端境)であることに由来するとされる。
丑(十二月) |
節分 |
寅(一月) |
冬の陰陽 |
(端境) |
春の陰陽 |
【神佐備(かむさび)】
「神錆」とも書かれる。『萬葉集』において「神左備」(カムサビ)や「可美佐夫」(カミサブ)は、「神々しい」という語義で用いられる。『萬葉集古義』では、「かむさび」という言葉について「年老たるを云」または「年経て物ふりたるを云」とある。
- いつの間に神左備けるか香具山の鉾榲(ほこすぎ)がもとに薜(こけ)むすまでに(259)
- 難波津を漕ぎでてみれば可美佐夫る生駒高嶺に雲ぞたなびく(4380)
神佐備は、「ふりたる物」(年老いた者)に対して用いられていた表現であり、付喪神に用いられている「神」という部分は、この神佐備を現わしているといえる。しかし、神佐備という言葉は、山、川、岩、木などの
常磐堅磐(ときわ・かきわ)を本来意味している。付喪神に用いられている「神」は「年を経ても変わる事のない不変の存在」ではなく、「年を経ることによって変じる存在」を示してしまっており、意味が逆転している。
神佐備 |
神 |
付喪神 |
不変のままの存在 |
(かみ) |
年経て変じた存在 |
【九十九神】
民間信仰では、九十九神とも呼ばれる。「九十九」という字が用いられるようになった起源は、織り目が九十九に見える葛織(藤衣)に由来するとされる。葛織は九十九織とも書かれる。織り目の数が多くあるということを示している。そこに由来を求めて九十九神は葛織の始祖である葛天氏がその本体であるとも考えられていた。衣食生活のための様々な器物を発明した葛天氏を崇拝する信仰というかたちで九十九神は民間に信じられていたのである。
「葛天氏之民」という言葉は、「古代の純朴粗野な人々」という語義も持っている。ここで言われている「始祖である葛天氏」というのも当時の古典知識から来た仮託に過ぎず、黎明時代の人々という意味に過ぎない。
『拾芥抄』によると八十四(八十五)の次、九十六に関連する
厄の数は九十七ではなく九十九である。
藤衣は喪服
中世まで藤衣は「喪服」の意味で用いられて来た。賀茂真淵は『冠辞考』8巻にて「藤衣はわが国の古への喪服也」とも書いている。付喪神に「喪」という文字が用いられているのも、九十九神の民間信仰での説との混ざり合いが見られる。
ただし実際、貴族らの間で喪服に用いられていたのは藤衣ではなく麻衣であった。藤衣は名称としてのみ使われ続けていたのである。
【付喪神と百鬼夜行】
近世以降に数多く描かれている『百鬼夜行絵巻』として知られる作品群は、道具の変じた付喪神たちが数多く描かれている。そのため現代では「付喪神」と「百鬼夜行」が同義にイメージされる事もあるが、『百鬼夜行絵巻』は本来の「百鬼夜行」の魑魅魍魎たちを描いたものではないため、同義としては捉えてしまうのは誤りである。
百鬼夜行日に現われる魑魅魍魎たちは、民間に信仰されていた九十九神たちとは性質が異なる。『百鬼夜行絵巻』自体が『付喪神』の亜流あるいは一部として描かれていた図様を、古くから存在して来た「百鬼夜行」という言葉を借用して題しているだけに過ぎない。
最終更新:2024年04月19日 22:08