むかしむかし 遥かむかし
まだすべての海が空気よりも澄んでいたころ
男は、砂浜に打ち上げられた、一つの大きな棺を見つける
中を開けると、見たこともない大きな獣が一匹
獣はひどく弱っていたが、生きていた
男は獣を家に連れて帰り、毛布を与え、水を与え、食事を与え、寝床をくれてやった
獣はみるみる快復し、男に感謝した
人の言葉を話せないその獣は、強い念波で男の心に直接語りかけた
―ありがとう、心強き者よ
男は心の中でそれに応じる
―気にしないでいい 傷が治ったら故郷に帰りなさい
獣は、にたりと嗤った おぞましい表情だった
―心強き者よ、私に帰る場所はない ずっと旅をしているのだ
―どこへ向かっている?
男は、心の中で問うた
―誰も見たことのない場所である 心強き者よ、そなたに頼みがある
―なんだい
―私が望むものを一つ、永遠に我に捧げ続けると約束してほしい そすればそなたの血筋に、永遠の繁栄を与えると約束する
男はふっと力なく笑った
―獣よ、私は病んでいる もう永くない 子供もいない、血筋は私で途絶える
―永遠の繁栄などない 私に子孫はないのだから
獣が胸中に言った
―心強き者、そなたに与える富と名声は永遠だ そなたの栄華は終わらない
―そなたは間もなく死ぬ 子孫も残せずに だが大したことではない
―そんなのは、そなたの道の一つでしかない
獣はそう伝えて、ふたたび嗤った
―道がいくつもあるのか 私は
男は問うた
―すべての命に、道はある 枝分かれした無数の生だ
―面白いことを言う 獣よ、お前はなにが欲しい
―そなたへ願うのはただ一つ
―そなたの子孫がこの先幾度も、特別な女児を産んだとき
その子を我に譲り続けてほしいのだ
永遠に
―どうやって渡す?
―我が迎えに往く
獣はにやりと口を歪めた
男はようやく気が付いた
その獣は、人の世の生き物ではなかった
…昔、母にこんな話を聞かされたっけな
神宮寺 樹はふと幼き頃の記憶を思い返した。
母はよく、寝る前にこの話をしてくれた。
男と獣の、不思議な“契約”の話。
子どもごころには単なる寓話だが、今思い返してみるとなんとも不気味な内容だ。
確かこの話には続きがあったはずだが、どうも思い出せない。
樹「……」
樹が大学の講義室で顔を渋くしていると、後ろから誰かに肩をたたかれた。
振り向くと、ショートカットの愛らしい女性がにこりと甘くほほ笑んで、
女性「すみません、先週の分のノート、取ってますか?」
と言った。
彼女の透き通るような瞳に吸い寄せられ、樹の表情は固まった。
返事を忘れ、息をするのも忘れ、ただその美しい瞳の色をじっと見つめていた。
女性はほんのりと赤面して、
女性「あ、あの……聞いてます?」
と困惑した声を出した。
樹「あ、ああ……ノ、ノートだね……。あるよ」
女性「見せてもらってもいいですか?」
樹「ど、どうぞ……」
樹がノートを後ろの席にまわそうとすると、女性は立ち上がって席を離れ、
樹の隣の席へと移動してきた。
女性「ここで」
樹の隣で、女性が言った。樹は顔を赤くした。
彼女の名は『早苗(さなえ)』。
これが樹とその妻との馴れ初めだ。
樹の家、神宮寺の一族は地元の名士だった。
先代が水戸藩の家老であったとか、不動産業や貿易業を転がしていまの莫大な財を築いただとか教えられた気もするが、詳しくは覚えていない。
とにかく樹はこの旧いしきたりを重んじる名家の血筋に生まれ、その大きなお屋敷で二十年という時を過ごした。
早苗とは、もう二年の付き合いになっていた。
早苗は、なぜだかいつも神宮寺の屋敷に入るのをためらった。
樹の母や父、一族の者に嫌味があるわけではないらしい。むしろ好んでくれていた。
しかし、門をくぐって屋敷へと歩みを進めると彼女は鉛を飲み込んだような顔をした。
まるで、屋敷自体が彼女を追い払おうとしているかのようだった。
だから、当然断られると思っていた。
樹「早苗、僕の奥さんになってほしい」
周りを縁取る紅葉の木々を映して、大きな湖が紅色に煌めいている。
美しい水面を眺めながら、手すりに手をかけた樹が、隣の早苗にプロポーズした。
早苗は、言葉に詰まってしばらく俯いた。
樹(いいんだ、伝えることができただけで、それで……)
プロポーズを受けるということは、神宮寺の屋敷に嫁ぐということである。
あの屋敷で過ごす早苗の姿を、想像できない。
秋風に揺らぐ水面を見つめ、押し黙っていると、早苗が返事を口にした。
早苗「よろしくおねがいします……」
彼女の瞳は潤んでいた。樹もつられて、涙がこぼれそうになった。
*
早苗が屋敷に住むようになって一年が経ったある日。
じめじめとした蒸し暑い春の日だったことを思い出す。
その日は予定日よりも一週間早かった。
父のかかりつけの医師や母、祖母が立会い、早苗は神宮寺の屋敷で赤子を産んだ。
数時間に及ぶ激痛の波に何度も呑まれて、命からがらやっと絞り出した新しい家族。
真っ赤に染まったそのちっちゃな命は、自分の存在をなにかに訴えるように、屋敷中に響き渡る声で泣いた。
母「女の子よ。よく頑張ったわね、早苗さん」
早苗「……」ハァハァ、ゼェゼェ
祖母「名前は決まっているのかい」
樹の祖母が赤子を抱きかかえて早苗の顔に近づけた。
早苗は力の抜け切った手をゆっくりと持ち上げて、娘の顔に触れた。
早苗「『美』しく『咲』いた『苗』が、やがて大きな『樹』になるように……」
早苗「この子は『美咲紀(みさき)』です。私と樹の、大切な娘……」
美咲紀は初めて出会う母に、早苗は初めて出会う娘に。
自分の声を聴かせて、手に触れて。親子は互いに存在を確かめ合った。
樹「早苗!」
仕事を切り上げて帰宅した樹が、障子を開くと同時に妻の名を呼んだ。
早苗「樹…」
樹は、祖母の腕に抱えられた娘の姿を見た。
ぽろと涙が一筋、頬を伝った。
樹は妻と娘のもとに駆け寄って、それぞれのか弱い手を強く握った。
樹「ありがとう、ありがとう……産んでくれて、産まれてきてくれて……!」ポロポロ
樹は娘を抱きかかえた。
樹「なんて、なんて重いんだ……。これが命か…僕たちの……」
樹「娘か……美咲紀……」
割れ物を扱うように優しく、力強く娘を抱きしめて、樹は何度も何度も美咲紀の名を呼び続けた。
父「……」
その部屋に一人、美咲紀の誕生を喜ばしく思っていない者がいた。
神宮寺家・現当主である、樹の父だった。
*
時が経つのはあっという間だった。
美咲紀が三歳になった誕生日の日、樹は父に呼び出され、彼の書斎へ向かった。
渡り廊下を通ると、中庭で美咲紀が樹の母とボールを蹴って遊ぶ姿が見えた。
父の書斎は、屋敷の奥にあった。
食堂の前の廊下を通ると、忙しく動き回る使用人たちとすれ違った。
夕方開く美咲紀の誕生日会の、料理の準備に追われているのだ。
廊下を通って突き当りの、父の書斎に樹が入った。
父「ノックぐらいしろ」
書架の前で一冊の本を開いた父が、樹に言った。
樹「ごめん。話ってなにかな」
父は樹に座るようイスに促して、自分もその向かいに腰かけた。
父「今日は美咲紀の誕生日か。三つになるな」
樹「ああ。あっという間だ」
父「……早苗さんはどうだ」
樹「…あんまりよくはないね。今日もほとんど部屋から出てない」
早苗の体調が悪くなったのは、美咲紀を産んでから間もなくしたころからだった。
彼女は日に日に弱っていった。原因は医者にもわからなかった。
いまではほとんど外に出ることもなくなり、苦い薬と薄味の飯を細々と口に運んで、布団にこもる毎日だ。
美咲紀はよく早苗の部屋に入っては、母に甘えた。
早苗は弱々しい笑みを浮かべて、美咲紀の無邪気の姿に喜んだ。
樹は、早苗のその笑顔が苦しかった。
樹「…早苗は、結婚する前からこの屋敷が苦手だったみたいだ。
僕は、彼女を蝕んでいるのがこの場所じゃないかと思う」
父「……」
樹「もう少ししたら、どこかアパートにでも越すよ。僕と早苗と美咲紀の三人で。
気分でも変えて、体調が良くなればいいと思って。いいかな?」
父「それは止めんよ。お前の好きにしなさい」
樹「ありがとう。今日は、早苗の話がしたかったの?」
そう訊くと、父は手に持った一冊の本を樹によこした。
古ぼけた手記のようなものだった。
父「これをやろうと思ってな」
樹「なにこれ?」
ぱらぱらと中をめくると、筆で描かれた奇妙な獣の絵が目に止まった。
二本の脚で立つその不気味な獣の手には、小さな女の子が連れられている。
父「この家はいずれお前に継がれる、樹。だから今の内に、神宮寺のことを少しでも多く学んでもらわんといかん」
父「よく聞くんだ。もしこの先……美咲紀や早苗さんの身になにか、不幸なことがおきたとしても……」
樹「は? 不幸?」
父「お前はこの血を続けていかなければならない。不幸に耐えてな…それが」
父「神宮寺の宿命だ…」
父の眼は、はじめてみる色をしていた。
樹(なんだろう、父さんの、この眼……)
樹(“焦り”……?)
美咲紀がいなくなったのは、その日の夜だった。
*
樹は使用人の一人を激しく責め立てた。
彼女は言った。
中庭でシャボン玉を吹いて遊んでいたら、いつの間にかいなくなっていたのだと。
隣にいたハズの美咲紀が、ほんの数秒で姿を消したと。
樹は信じなかった。
警察が来て、マスコミが来て、閑静な神宮寺の屋敷は一気に騒がしくなった。
使用人の女性は樹に解雇され、神宮寺家に恨まれ、警察に疑われ、マスコミに追い回されて、絶望の内に自ら首をくくった。
樹と早苗は、二人で屋敷から離れた小さなアパートに越した。
屋敷に居続けるのは、早苗の体力的にも精神的にも限界だった。
体調は徐々に回復していったが、早苗は病んでいた。
樹「早苗!」
早苗は毎日のように夜になると、ふらふらと街に出て虚ろな瞳で徘徊をした。
呪詛のように娘の名前を呟きながら、夜の街を歩き回った。
仕事帰りの疲れ切った体で、彼女を見つけて連れ戻すのは樹の役割だった。
樹「早苗…帰ろう」
早苗「……」
街のどこかに、消えた娘がいるかもしれない。
淡い期待を胸にほっつき歩いては、より心の傷を深くして帰ってくる。そんな日々だった。
探偵やら、警察やら、霊能力者やら、色んなものを頼った。
藁をも掴む思いで試してみては、本当に藁を掴んだ。二人に心の余裕はもうなかった。
ある晩、早苗は樹の横で泣きながら言った。
早苗「夜が怖いの。また誰か、いなくなりそうで……。美咲紀を忘れられないの……」
樹も同じだった。二人は夜の闇におびえながら、震える体を寄せ合った。
*
第二子の妊娠が発覚したのと、美咲紀が戻ってきたのは同じタイミングだった。
めでたい事実が同時にやってきた。
樹「美咲紀! ……美咲紀ッ!!」ボロボロ
早苗「ああ…ありがとう、ありがとう神様……!」ボロボロ
二人は涙を流しながら、マスコミのカメラが焚くフラッシュの中、四年ぶりに再会した娘を抱きしめた。
七歳になった娘は、無表情で両親の胸に抱かれていた。
周囲が惜しみない拍手を送り、あらぬ疑いをかけられ自殺した使用人のことなど忘れ去ったように、
めでたいニュースだと家族三人の写真をテレビや新聞で報道した。
美咲紀は、神宮寺の屋敷の中庭に、ある日ぽつんと立っていたらしい。
夜だった。彼女が消えた時刻と、ちょうど同じ時間だったという。
闇の中に立つ美咲紀の姿を見つけた樹の母が、樹と早苗に連絡したのだ。
早苗「お帰りなさい、美咲紀……お帰りなさい……」
樹「もう、離さないからな…美咲紀」
美咲紀「……」
早苗「お姉ちゃんになるんだよ、美咲紀。いまね、私のおなかにあなたの兄弟がいるの…」
空白の四年間、美咲紀がどこでなにをしていたのか、知るものはいない。
ただ一人、樹の父は―――
父(あ、あの目………あれは……)
彼女が戻ってきたことに、恐怖していた。
美咲紀「……」チラッ
父「!」ゾクッ
美咲紀は祖父をちらと一瞥して、それからにやと微かに嗤った。
*
美咲紀が戻ってきて、三人は屋敷には戻らず、アパートで暮らした。
早苗もすっかり回復し、樹は元気な妻と娘がいるこのせまい部屋が、なによりも幸福な宝だった。
ただ一つ、気になることがあった。
樹「美咲紀。来週みんなで動物園にでもいこうか」
早苗「いいわね。行きましょう」
美咲紀「ううん、私はいい。二人で楽しんできて」
自分の娘に、大きな“違和感”を覚えるのだ。
七歳の子が、こんな言葉を吐くだろうか? 美咲紀の眼はいつもどこか遠く、冷たく、表情は凍っていた。
喜怒哀楽は見せる。だけどそれが、なんだか子供のものに見えない…とても大人びているように思えたのだ。
事実、わんぱくだった彼女はほとんど外で遊ばなくなった。代わりに、家に籠って勉強ばかりしていた。
教師「神童ですよ、美咲紀ちゃんは!」
帰ってきてからというもの、美咲紀は小学校の教材では足りなくなった。
大学生のテキストを使っていた。信じがたい光景だった。
それがすごく不気味に思えて、樹はまるで美咲紀が別人にすり替わってしまったのかと感じていた。
まだあった。
美咲紀は、どうやら学校の外に年上の友達がいるようなのだ。
仕事帰り、樹は美咲紀がその年上の友達二人と、三人で一緒にいるのを見たことがある。
一人は大人びた少女で、もう一人はやたら派手な格好をしたパンク少女。
どういう接点があるのか、わからなかった。家に帰った美咲紀に聞くと、「ただの友達よ」とそれきりだった。
樹は母から、こんな話も聞かされていた。
屋敷に遊びにきた美咲紀が、なにやら樹の父と口論をしていたらしい。
なんでも、美咲紀が祖父の書斎に勝手に入り、書架を荒らしていたそうなのだ。
樹は、美咲紀がなぜ父の書斎に行ったのか、わからなかった。
*
ある日の晩、アパートに一本の電話が届いた。
樹が受話器を取ると、聞きなれない声の男が言っていた。
警察だった。樹は、彼の言葉を聞くと顔面を真っ青にし、部屋を飛び出した。
ゴオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!
樹「そ、そんな……」
樹が向かったのは神宮寺の屋敷だった。屋敷は燃え盛る炎に包まれ、まるで見世物のように周囲に人が集まっていた。
もくもくとどす黒い煙が空に上り、夜の闇と同化した。
放水車の必死の放水もむなしく、炎は一向に収まらず、中にいた神宮寺の命ごと、広大な敷地を焼き尽くした。
後を追って走ってきた早苗が、樹の隣で絶句した。
炎は、まるで意思をもつ巨大な生き物のようにうねり、見る者すべての肌を粟立たせた。
樹には、炎が嗤っているように見えた。
後の調べで、ガソリンによる放火だということが判明した。
樹の父と母、祖母、使用人三名の焼死体が発見された。
樹(父さん、なぜだ……。なにがあったんだ……)
葬儀の前日、樹は父に渡された手記の存在をふと思い出した。
樹(あのとき、父さんはなにを伝えようとしていた……?)
家に戻り、アパートの押入れに詰め込んだダンボール箱を開け、手記を探した。
手記を見つけてページを開くと、見たこともない言語でつらつらと書かれたその手記に、
樹「……!!」
家が炎に包まれたイラストのある、ページを見つけた。
樹「なん…だ、これ……」
不気味なイラストだった。燃え盛る家の周囲に、人の死体と思われる絵が散らばっている。
次のページを開くと、またあの不気味な獣の絵があった。嗤っていた。
樹「!」ゾクッ
獣が、幼い女の子を連れているイラスト。それをみた一瞬、樹の脳裏に美咲紀の顔が浮かんだ。
樹(まさか…)
浮かんだ想像を振り払うように、樹は手記を閉じてダンボールに押し込んだ。
彼の後ろで、美咲紀はその姿をじっと見つめていた。
*
それから三か月後、ある冬の日。
その日が、神宮寺最後の日だった。
樹「早苗! がんばれ!」
早苗「うう、ううぅう……」
疾走する一台の車。運転席に座る樹は、後部座席で呻く早苗に必死に声をかけた。
産まれるのだ。もうすぐ、二人の第二子が。美咲紀の兄弟が。
限界までスピードを出して病院まで急ぐ乗用車に、直後悲劇が襲った。
キィィィッ!
樹「!!」
バゴォォォォッ!
横から飛び出した車が、二人を乗せた車と衝突したのだった。
車はコントロールを失ってガードレールにぶつかり停車した。
ガラスが砕け、作動したエアバッグに樹は割れた頭を埋めた。血がどくどくとあふれ、意識が遠のいていく。
人がぞろぞろ集まってくるのがわかった。
樹「さ……な……え……」
後ろを振り向くことができない。首が動かせなかった。
通行人「大丈夫か!? しっかりしろ!」
サラリーマン風の中年男性が、樹を見て言った。
樹は、今にも消え入りそうな声で、男性に言った。
樹「妻は……大丈夫で…すか……。産まれる……んだ、……病院へ……」
通行人「生まれる!?」
男性は後部座席を覗いた。早苗が、大きなおなかを抱えて横たわっていた。
シートは濡れていた。
通行人「破水してる! 急いで病院に!」
やがて救急車が到着し、樹と早苗が救急隊によって運び出され、救急車に乗せられた。
車の中で、隣に寝そべる死にかけの早苗を見て、樹は涙を流した。
救急隊員「あれ? 向こうの車は運転手は?」
救急車の外で、救急隊員の一人が首をかしげた。
樹の車に衝突した相手の車は、運転席に誰もいなかったのだ。
救急隊員「すみません! どなたかこちらの運転手をご存じないですか!?」
周囲の人混みに声を掛けるが、反応がない。
仕方なく、救急隊員は車を出発させた。
美咲紀「……」
人混みの中で、一部始終を眺めていた美咲紀が微かに嗤った。
*
……ダメだ、母体は助からない
……子供を取り出すんだ、子供だけでも……
何か、聞こえてくる。医師の声だ。
はっと気が付くと、樹は分娩室の前に立っていた。
樹「? あれ…いつの間に……」
ずきりと頭が痛んだ。触れると手のひらが真っ赤になった。
頭の肉が裂けているらしく、血がとくとくと流れている。
だが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
樹は分娩室に入ると、その場にあったタオルで出血を抑えた。
樹「早苗……」
分娩台に、早苗が横たわっていた。
彼女を数名の医師と助産師が取り囲んでいる。
医師たちは入室した樹を無視して、赤ん坊の取り上げに集中していた。
樹「……」
やがて、一人の助産師が、赤子を取り上げた。
元気な鳴き声が分娩室に響き渡った。
男の子だった。
樹「ああっ、よかった……! よかった……!」
しかし、医師たちの表情は重かった。
分娩台に乗せられた早苗は、石のように固まり、動かなくなっていた。
医師「くそ……」
樹「えっ、え……?」
医師「また、救えなかった……」
樹は、頭が真っ白になった。
医師の言葉を、これ以上理解したくなかった。理解できる脳みそはいらなかった。
樹「……」
呆然と立ち尽くす樹の隣で、産まれたばかりの男の子を抱く助産師が、呟いた。
助産師「この子は……どうなるのでしょう……」
助産師「お母さんもいない、ほかに身寄りもない……。この子は、天涯孤独の身です」
医師「……養護施設だろうな」
助産師「あんまりです、そんなの……!」
苦しそうに声を出す助産師に、樹は言う。
樹「なにを。僕はその子の父親です、僕が……」
医師「私のせいだ……」
樹の言葉を無視して、医師が呟いた。
待ってくれ、勝手に話を進めないでくれ。そう口に出そうとしたときだった。
医師「父親だけでなく、母親まで……私は、その子から奪ってしまった……!」
………
………父親だけでなく?
胸中に繰り返した樹は、その言葉でようやく理解し、泣いた。
樹「……俺は……」ブワッ
助産師に抱えられた息子に手を伸ばす。
樹「死んでるのか……もう……」
樹の指先は、彼と早苗の息子―――『天斗(てんと)』の体をすり抜けた。
……すまん、天斗……
*
美咲紀「よくやったわね、彩。ご苦労さま」
彩「……いえ」
同時刻。アパートの居間で、美咲紀がコップにジュースを注ぎながら、椅子に座る年上の少女にそう言った。
少女は『彩(あや)』と呼ばれていた。
美咲紀「この“棺”はいい。みなぎる力を感じるわ。
神宮寺の命を吸って、“燃料”も確保したし……」
彩「そうですね。“棺”、“燃料”、そして“舟”……。二つが揃ったということで」
美咲紀「残るは“舟”。これが楽しいのよね、“舟”探しが……」
そういって、美咲紀は注いだジュースを飲みほした。
テーブルの上には、手記が開かれていた。奇妙な獣のイラストがあるページだ。
美咲紀「ゆっくり楽しみましょう。まだまだ旅は長いわ」
第8話 棺(The Contract) おわり
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