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みんなの新武将/対仏大同盟 - (2016/07/13 (水) 06:30:35) のソース
#CONTENTS ---- *注意点 基本的に、新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。 新武将の能力値や適性の&color(blue){決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物}であり、&color(blue){その正誤も、各人それぞれ異なります。} 当然、&color(red){万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。} (能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。) 可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には&color(blue){各プレイヤーの裁量次第}であることをお忘れなきようお願い致します。 &color(red){理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。}(過去に何度も編集合戦が起きています。) どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、 &color(red){お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する}ことをおススメします。 もう一度言いますが新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。 &color(red){能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。} ここはあなただけのページではありません。 2015年3月29日より、荒れる原因が生じているとの指摘があり、能力の追加も禁止となりました。 それ以前に追加された能力値は、特に反論がないもののみ、暫定的に記載しています。 適正・特技、親愛嫌悪候補などにつきましては、従来通りとなっています。 特技が複数ついている人物もいますが、複数つけるか、1つを選ぶかもお好みで。 各人物のアイテムもお好みでお願いします。持たせ方は[[こちら>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/66.html]]特に武勇に優れる「偉人」「猛将」などの 個人武勇を反映再現する場合、武力数値を上下するよりも一騎打ち性能をピンポイントで強化することができるので、非常に有用。 &color(red){武力=一騎打ちの強さ、だけではないという点にも留意したい。}アイテム効果は[[こちら>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/16.html]]。能力効果は[[こちら>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1598.html]] *対仏大同盟 対仏大同盟とは、1789年を境に本格化したフランス革命を抑えつける目的で発生した、欧州諸国による連合同盟である。 イギリス・ロシア・プロイセン・オーストリアなどが中心となったが、時勢や利害関係などもあり、各国は離合集散を繰り返した。 フランス革命当時、フランス国王であったルイ16世と、王妃であったマリーアントワネットが、王妃の実家であるオーストリアへ逃亡しようとするも失敗。 それを機としてフランス革命は反国王、反体制派へと進むこととなり、ついに1791年に国民公会の実行した投票結果を経て、国王・王妃が刑死するに至った。 ヨーロッパの国、特に縁戚関係もあった各国の国王などの王室、教皇などはこれを強く危険視し、大連合を組んでフランス革命勢力に宣戦布告を開始する。 しかし、フランス革命後の革命政府における、[[ラザール・カルノー>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2754.html#id_c49ed95a]]の軍制改革や、軍事に長けた[[ナポレオン・ボナパルト>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2754.html#id_9422ea16]]が実権を持つにつれ、 戦局はフランス優位に展開し、1802年のアミアンの和約では、フランスは戦争前より大きな領土、莫大な利権を保持するに至った。 この超大国フランスと皇帝ナポレオンへの反撃は1809年に始まったと言ってもよく、当時陸戦においてはほぼ負けなしと言われたナポレオンを オーストリアの[[カール大公>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2756.html#id_063b8ea9]]が初めて破り、フランス元帥だった[[ランヌ>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2754.html#id_8a319319]]を戦死させるに至る。大勢を決するには至らず、ナポレオン優位は変わらなかったが、 今まで窮地を迎えても決定的な敗北のなかったナポレオンに土をつけた意義は大きかった。その後、再び対仏大同盟軍に契機が訪れる。 1812年、ナポレオンは大陸封鎖令に不明瞭な対応を続けたロシア遠征を決定。大軍勢と快進撃をもってロシアを攻略していった。 だが、[[ロシア>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2756.html#id_92922eb8]]は初めから精強無比のフランス軍と正面からやりあうことをせず、焦土戦術とゲリラ作戦を展開。ロシア側の被害も大きかったが、天候を味方につけた結果、 フランス軍は飢えと寒さとゲリラに苦しみ、軍勢の9割以上を損失、または捕虜とされ事実上壊滅した。直接対決ではないが、ナポレオンに大きな損害を与えたのはこれが初めてである。 これを契機とし、1813年には対仏大同盟の大反撃が開始され、主に東部戦線ではプロイセンやロシア、西部戦線ではイギリスが奮闘しスペインからフランス軍を駆逐しつつあった。 東部戦線ではライプツィヒの戦いが展開され、36万のオーストリア・プロイセン・ロシア・スウェーデン連合軍がナポレオン軍を直接戦闘で破り、ナポレオン軍をドイツから駆逐することに成功する。 ナポレオンは事ここに至っても戦術的勝利を数多く収めていたが、既に戦略的には大敗したと言ってもよく、ナポレオンの留守のうちにパリは降伏を決意。ナポレオンは退位しエルバ島に流された。 ナポレオンのいなくなったヨーロッパでは、ウィーン会議が行われるも、会議は紛糾。それを見たナポレオンはひそかにエルバ島を脱出し、パリへ凱旋。各国は再びナポレオンへの対応へと追われた。 帰還してからも戦争で勝利を収めていたナポレオンであったが、1815年6月、ついにワーテルローの戦いでナポレオンはイギリス・オランダ・プロイセンの連合軍に敗れた。 イギリス総司令官の[[ウェリントン>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2756.html#id_b59449a2]]、プロイセン総司令官の[[ブリュッヘル>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2756.html#id_d6af78d9]]らの活躍により、ナポレオンは再び退位させられ、大西洋の孤島セントヘレナ島で生涯を終えた。 戦後、ウィーン体制を経てヨーロッパは比較的安定した状況となるが、戦勝国のイギリスと欧州覇権を握りたいロシアの対立、敗戦国フランスの協調など、ヨーロッパは新たな展開を迎えていくことになる。 詳細な説明は[[こちら>https://goo.gl/GpkhZC]]や[[こちら>https://goo.gl/X0f28v]]や[[こちら>https://goo.gl/p2KrKV]]など ※備考 光栄(現:コーエーテクモ)による発売ソフト、「[[ランペルール>https://goo.gl/CQRaQQ]]」における[[各人物の能力値表>http://goo.gl/cMxt0g]] フランス・スペインなど一部の勢力は → [[フランス革命・ナポレオン戦争>みんなの新武将/フランス革命・ナポレオン戦争]] *詳細 「みんなの新武将」として記述・登録できる人物(武将)の時代・国家(地域)などは基本的に[[ランペルール>http://goo.gl/cMxt0g]]の登場人物に準ずる。 一番の早生まれは[[カサノヴァ>https://goo.gl/vlP7ny]]含む3人の1725年。一番の遅生まれは[[ヴィクトリア>https://goo.gl/ZhPy0X]]で1819年である。 登場国家はランペルールで登録されている14ヶ国の他、近隣諸国などの「その他」の15項目としている。 時代の異なる欧州の人物は[[こちら>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2724.html]]、アメリカなどは[[こちら>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2726.html]]を参照。 日本・中国などの同時代人物はみんなの新武将・該当項目ページをそれぞれ参照。 *漢字表記 三国志11は無印PK問わず、姓名にそれぞれ2文字までしか表記できない。 そのため、カタカナ表記の偉人は、そのままだと三国志11に登録することができない事が多い。 しかし、漢字・中国語表記をすることで、文字数を減らし、登録することができるようになる。 よって、当項目では武将や偉人を投稿する場合、漢字表記もそれとわかるよう併記することが望まれる。 例:ウィリアム・ピット(威廉·皮特)、カール大公(卡尔大公)など *イギリス **ウィリアム・ピット |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性| |42|8|95|96|81|富豪・徴税・威圧|C|C|C|C|C|C|1759|1806|冷静|維持・長|4/5|4/5|73| 【ウィリアム・ピット】 近世イギリスの政治家。「威廉·皮特」。政治家の家系に生まれ、若年の頃から英才教育を受けた。 1781年に政界進出すると、アメリカ独立戦争への反対を行った。その後、若年ながら大蔵大臣、1783年には イギリス最年少の首相に就任。東インド会社の再編成や国会改革などを行う。フランスの影響力が増すと オランダ、プロイセンらと同盟を結んだ。フランス革命戦争では一貫して反フランスの立場を取り、後の ナポレオン戦争にまで至る、対仏大同盟の主軸としての方針を打ち出し、フランスと戦争を続けた。フランスとの 戦争を進めるために海軍増強も行ったが、戦争に多額の資金を投入したためイギリス国力を疲弊させている。 その後はナポレオン・ボナパルトの躍進を食い止めるために奔走するが、打倒フランスを果たせないまま死去。 **アーサー・ウェルズリー |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性| |97|88|91|72|94|金剛・洞察・藤甲|A|S|S|S|A|A|1769|1852|冷静|維持・長|5/5|1/5|75| 【アーサー・ウェルズリー】 近世イギリスの軍人、政治家。「阿瑟·韋爾斯利」。初代ウェリントン公爵。 フランス革命戦争、インド戦役で軍功をあげ、第二次マラータ戦争では8倍近くの 敵を破った。1805年にインド方面からイギリスへ転進してくると、ナポレオン戦争に従事し、 フランス軍の猛勢を食い止め、イギリス軍の中心的役割を果たす。苦しめられながらも ナポレオン麾下の元帥たちに度々勝利をおさめ、ナポレオンのヨーロッパ制圧を阻止し続けた。 スペイン進撃ののち、ワーテルローの戦いで奮戦し、ついにナポレオンを直接破って完全失脚させることに成功する。 戦後は政治家として名を馳せ、首相も務めた。祖国イギリスでは救国の英雄として讃えられている。 ※その他候補となった特技:威風・鉄壁・強運・不屈 **ホレーショ・ネルソン |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性| |76|97|88|56|93|水神・明鏡・威風|B|B|A|C|S|S|1758|1805|剛胆|維持・長|4/5|2/5|70| 【ホレーショ・ネルソン】 近世イギリス海軍の提督。中国語表記は不明。 12歳で海軍に入隊し、以後アメリカ独立戦争、ナポレオン革命戦争など様々な戦場に立ち、その信念から 常に率先して敵と戦った。そのため負傷もあったが、常に大きな戦果をあげ、ナポレオン革命戦争時には 連戦連勝を誇り、ナポレオン率いるフランス軍の脅威として苦しめた。コペンハーゲンの海戦や トラファルガーの海戦で大勝を収め、イギリス本土を救ったが、自身はトラファルガーの海戦終盤で狙撃され、戦死した。 艦隊決戦を重視し、「ネルソン・タッチ」と呼ばれた独自の戦術で相手の海軍に大きな被害を与えており、 死後もその威光からワーテルローの戦勝を呼んだと言われ、後世「イギリス海軍の強さは、ネルソンの亡霊である」とさえ言われている。 **シドニー・スミス |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性| |90|82|79|60|77|水将・推進・不屈|B|C|S|B|A|S|1764|1840|アントワーヌ・フェリポー|剛胆|維持・長|5/5|2/5|72| 【シドニー・スミス】 近世イギリス海軍の軍人。「悉尼·史密斯」。 13歳にしてイギリス海軍に入隊し、アメリカ独立戦争に従軍。 1780年には月光の海戦に従軍して抜群の軍功を立て、年齢条件適用外ながら海尉に任命される。 以後各地の海戦に参戦して地位を伸ばす。フランス革命戦争ではトゥーロン救援に従事し、 フランス軍の妨害を行う。その後もフランス軍との戦闘を続け、アッコ防衛戦ではフェリポーらと 協力してナポレオンの侵攻を跳ね除けた。ナポレオン戦争ではスペインや地中海方面でフランス軍と戦い、 百日天下ではワーテルローに向けて救援軍を走らせ、連合軍のパリ行軍も支援した。ナポレオンをして「わが運命を失わしめた男」と言われたという。 **ローランド・ヒル |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性| |82|90|64|61|85|急襲・騎将・連戦|A|B|S|S|S|B|1772|1842|剛胆|維持・長|4/5|1/5|75| 【ローランド・ヒル】 近世イギリスの軍人。「罗兰·希尔」。1790年に入隊し、フランス革命戦争では トゥーロンやエジプトでフランス軍との戦いに従軍した。ナポレオン戦争では主にポルトガル、スペイン方面で 戦功を立て、アーサー・ウェルズリーの指揮下で数々の戦争に参加。彼と協力してフランス軍の アンドレ・マッセナらと争い、ブサコの戦いではフランス軍を退けている。イギリス軍の中核としてフランス 本土への侵攻も行った。百日天下の際には、アーサー・ウェルズリーの麾下として第二軍団を指揮。 ワーテルローの戦いではフランスの皇帝老親衛隊と戦い、これを潰走させて連合軍勝利を決定づけた。 晩年、アーサー・ウェルズリーの跡をつぎ、イギリス軍最高司令官となる。 **アントワーヌ・フェリポー |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪|性格|素質|義理|野望|相性| |86|65|78|82|62|築城・鉄壁・明鏡|C|S|S|B|A|B|1767|1799|シドニースミス|ナポレオン|冷静|維持・長|4/5|1/5|138| 【アントワーヌ・フェリポー】 革命期フランスの軍人、のちイギリスの軍人。「アントワーヌ・ル=ピカール=ド=フェリポー」「安托万」 フランス西部のヴァンデで生まれ、パリの士官学校を卒業した。しかし王党派であったため、フランス革命を機に 亡命。コンデ公ルイ6世アンリの指揮下として革命戦争を従軍する。のち王党派の反乱を支援すべくパリへ帰還。 この際パリで捕虜となっていた英国軍人のシドニー・スミス脱出を手引し、そのまま自身もイギリス軍に加わる。 1799年にはスミスに同行してアッコ防衛戦で指揮を取り、現地軍と協力してナポレオンの侵攻を悉く跳ね除けた。 しかし、防衛戦の最中に急死。死因は熱病ともペストとも言われる。 ※ パリ士官学校時代はナポレオン・ボナパルトの同期生にして仇敵で、しばしば周囲の仲裁を無視して対立した。一方スミスとの仲は昵懇で、のちにスミスは「我らの熱意ある友フェリポー」と彼を悼んでいる。 *オーストリア(ハプスブルク君主国) **フランツ2世 |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性| |51|22|58|70|83|眼力・威圧・名声|C|C|C|C|C|C|1768|1835|剛胆|維持・長|3/5|4/5|120| 【フランツニセイ】 神聖ローマ皇帝、のちオーストリア帝国の皇帝。フランツ1世とも。「弗朗茨二世」。 父の死後1792年に即位し、父の方針を踏襲してフランス革命への積極的な介入及び 革命政府への宣戦布告を行い、第一次対仏大同盟結成の中心的役割を果たす。1795年の ポーランド分割にも関与するが、1805年のアウステルリッツで惨敗した後はローマ帝国を解体し、 以後は積極的な政軍介入を避け、弟のカール大公やメッテルニヒなど有能な人材を抜擢して一任した。 その後、ウィーン会議で国益を回復。40年の長きに渡って君臨し続け「善き皇帝フランツ」と呼ばれた。 **カール・フォン・エスターライヒ |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性| |93|37|90|64|89|虚実・百出・詩想|A|A|S|S|A|B|1771|1847|冷静|維持・長|5/5|1/5|125| 【カール・フォン・エスターライヒ】 オーストリア帝国の軍人、皇族。兄は神聖ローマ帝国皇帝のフランツ2世。「カール大公」の名称で知られる。 「カール・フォン・エスターライヒ=テシェン」「卡尔大公」。父の命により子供のいなかった伯母夫婦の養子となり、 テシェン公を継承。フランス革命とほぼ同時期に軍隊へ入隊し、若年ながらフランス革命戦争で軍功を立てる。 特にイタリア戦役ではフランス総裁政府軍のジュールダンとモローを打ち破り、フランスを苦しめている。 ナポレオン戦争では最高司令官として1809年にナポレオンをアスペルン・エスリンクの戦いで破り、元帥のランヌを戦死させた。 しかし、ナポレオンの勢いを完全封殺することは出来ず、ヴァグラムの戦いで敗北。最終的にオーストリアは屈服した。 以後は前線から退き、軍事思想家として軍事研究に注力したと言われている。オーストリアではナポレオンを初めて破った人物として高く評価された。 **メッテルニヒ |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性| |78|12|92|98|70|論客・富豪・遁走|C|C|C|C|C|C|1773|1859|冷静|維持・長|4/5|1/5|120| 【メッテルニヒ】 オーストリア外相。梅特涅。ナポレオン敗北後ウィーン会議を主催し、後のウィーン体制の礎をつくる。 しかし、フランス二月革命の影響によるウィーン暴動によってロンドンに亡命。その後オーストリアに帰国し、ウィーンで没した。 **ヨーゼフ・ラデツキー |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性| |82|85|79|58|81|騎将・急襲・駆逐|B|C|A|S|A|C|1766|1858|剛胆|維持・長|5/5|1/5|122| 【ヨーゼフ・ラデツキー】 オーストリア帝国の軍人。「约瑟夫·拉德茨基·冯·拉德茨」 1784年にオーストリア軍隊へと入り、露土戦争ではロシアへの援軍として参戦した。 フランス革命、ナポレオン戦争ではカール大公やメラスに従い、マレンゴの戦いやホーエンリンデンの戦い、 アスペルンの戦い等に参加し、勇猛な騎兵連隊として名を馳せた。ライプツィヒの戦いではシュヴァルツェンベルクに 従い参謀を務めて戦勝に貢献。戦後はウイーン会議に参加する。ナポレオンがセントヘレナ島に配流した後も 重鎮として遇され、騎兵師団長、大将、元帥と昇進。1848年のイタリア独立戦争でも軍功を上げた。1857年引退し、翌年逝去。 ※ オーストリアが誇る作曲家「ヨハン・シュトラウス1世」の代表曲「ラデツキー行進曲」のラデツキーとは彼のことを指す。 *プロイセン **ブリュッヘル |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|嫌悪|性格|素質|義理|野望|相性| |85|98|66|31|82|神将・不屈・連戦|S|A|A|S|S|C|1742|1819|フリードリヒ大王・ベルナドット|猪突|維持・長|5/5|1/5|103| 【ブリュッヘル】 プロイセン王国の軍人。もとはスウェーデン軍の軍人。「ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル」「布吕歇尔」 若年の頃よりスウェーデン軍に入隊するが、捕虜となって以降プロイセン軍の軍人となる。 当初は七年戦争で軍功を立てるという有望な資質を持ちながら、時の王であるフリードリヒ大王と対立し、その際に軍を離れた。 のち軍に復帰し、軽騎兵を率いて数々の軍功を立てたという。フランス革命戦争では中心的な役割を果たし、プロイセン軍の重鎮となった。 ナポレオン戦争では、旧態依然としたプロイセン軍が敗れる中抵抗を続け、降伏後はシャルンホルストらと協力して軍制改革を 行い、ナポレオンに反攻。ライプツィヒの戦いではプロイセン軍の指揮をとって勝利に貢献した。ナポレオンの百日天下では 敗戦を経験しつつも不屈の精神でナポレオン軍と当たり続け、ワーテルローの戦いでは勝利を決定づける猛攻をかけ、ナポレオンを失脚させる。 1819年死去。敗戦しても敵に挑みかかり、猛攻をかけつづける様は「前進元帥」と讃えられた。 **シャルンホルスト |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性| |89|63|95|81|68|虚実・連環・反計|A|B|S|S|S|B|1755|1813|グナイゼナウ・クラウゼヴィッツ|冷静|維持・長|4/5|1/5|80| 【シャルンホルスト】 プロイセン王国の軍人、軍事学者。「ゲルハルト・ヨハン・ダーヴィト・フォン・シャルンホルスト」、「沙恩霍斯特」。 もとはハノーファーの生まれであり、1773年にハノーファー軍に属す。当時から軍事の論文、雑誌を執筆し、 高名な軍事学者として名を馳せた。その後、フランス革命戦争ではハノーファー軍として属し、ネーデルランドで軍功を立てる。 1795年の和睦の後は敵国フランスに関する論文を執筆し、それを評価したプロイセンの招聘を受けてプロイセン軍に入隊。 ナポレオン戦争でプロイセン軍主力が敗れると降伏し、その後はグナイゼナウやクラウゼヴィッツらとともに プロイセンの軍制改革と再建に全力を注いだ。ナポレオンのロシア戦役失敗後は参謀総長としてプロイセン軍の中枢を担ったが、 リュッツェンの戦いで負傷し、その傷が治らないままオーストリアとの交渉を行ったため、敗血症によって志半ばで倒れた。 ※その他候補となった特技:指導・規律 **グナイゼナウ |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性| |69|52|90|55|73|百出・鬼謀・深謀|B|A|S|S|S|C|1760|1831|シャルンホルスト|冷静|開眼|5/5|1/5|100| 【グナイゼナウ】 プロイセン王国の軍人、軍事学者。「アウグスト・フォン・グナイゼナウ」「格奈泽瑙」。 ドイツのザクセン王国で生まれ、一時期オーストリア軍に入隊、その後アメリカ独立戦争に従軍していた。 1786年に志願してプロイセン軍に入隊。その後1794年の戦争でポーランドにて軍功を上げた。1806年には ナポレオン戦争に従軍するも、プロイセン軍は敗退。この時最後まで抵抗を続けたが最終的に降伏する。しかし その後もプロイセン軍として忠誠を誓い、シャルンホルストの補佐官として軍制改革を補佐した。1813年の諸国民解放戦争では 参謀次長としてシャルンホルストを補佐。彼が志半ばで倒れるとその後任として参謀総長となり、ブリュッヘルの全幅の信頼のもと プロイセン軍の中枢を担った。緻密な作戦でナポレオンの失墜に多大な功績を残し、百日天下でもブリュッヘルやイギリス軍らと連携して ナポレオンを敗北させた。晩年は陸軍元帥に就任するも、ポーランドの反乱鎮圧の際にコレラに罹り、亡くなった。 **クラウゼヴィッツ |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性| |86|47|89|79|72|神算・洞察・運搬|S|S|S|S|A|B|1780|1831|シャルンホルスト|冷静|開眼|5/5|2/5|100| 【クラウゼヴィッツ】 プロイセン王国の軍人、軍事学者。「カール・フォン・クラウゼヴィッツ」「克劳塞维茨」とも。 若年の頃より陸軍で研鑽を積み上げ、その才の高さから推薦されシャルンホルストから軍事学を学ぶ。 ナポレオン戦争の際はプロイセン軍に従軍しており、ナポレオン率いるフランス軍に敗北した後も 奮戦を続けたが降伏、フランスの捕虜となる。釈放後は軍制改革を行いつつ、ナポレオンの戦術を学び、 一方でシャルンホルストとともに秘密裏に諸国と接触をはかり、ロシア軍として冬戦争にも従軍。 反ナポレオン体制を着々と構築し、フランスへの反攻体制を築き上げ、ナポレオン失脚へ多大な功績を残す。 晩年は軍務に励む傍ら、軍事見解を著述。死後「戦争論」として、広く膾炙された。 **ビスマルク |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性| |75|67|92|97|84|威圧・論客・富豪|C|C|B|C|B|C|1815|1898|剛胆|維持・長|4/5|3/5|85| 【ビスマルク】 プロイセン王国の政治家、宰相。「俾斯麦」。「鉄血宰相」の異名を取る。 皇帝ヴィルヘルム1世に仕え、プロイセンの外交官として主に活躍した。 その後、これまでの功績や自由主義への批判などから、1862年首相に任命され、 ドイツ統一と軍制改革、古豪フランスへの締め付け政策を行った。 内政では社会主義思想を弾圧しつつ、社会保障を認めるという「飴と鞭」を機敏に使い、 普墺戦争、普仏戦争をはじめとするドイツ躍進とヨーロッパの秩序構築に多大な功績を残したが、 晩年は皇帝ヴィルヘルム2世に疎まれ失脚。失意のまま没した。 ※ 全名「オットー・エドゥアルト・レオポルト・フュルスト・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン」。 **カール・モルトケ |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性| |99|76|100|62|90|強行・洞察・神算|A|C|S|S|S|B|1800|1891|剛胆|晩成・長|5/5|1/5|83| 【カール・モルトケ】 プロイセン王国の軍人。参謀総長。近代ドイツ陸軍の父とも呼ばれる。「毛奇」 始めはデンマーク軍に所属していたが、のちにプロイセン軍へ移り、参謀将校となる。 その後は長く参謀本部に所属しつつもオスマン帝国の軍事顧問なども勤めたが、 58歳の際にプロイセンの参謀総長に就任。デンマーク戦争、普墺戦争、普仏戦争では 作戦立案の中核を担い、クラウゼヴィッツの思想を受け継いだ采配によってその勝利と ドイツ統一に多大な功績を残した。鉄道や電信を重用し、外線作戦による敵戦力の殲滅など 彼の戦争采配は、近代戦争の礎となる。 ※ 全名「ヘルムート・カール・ベルンハルト・グラーフ・フォン・モルトケ」。甥の「ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ」と区別するために「大モルトケ」と呼ばれることがある。 *ロシア **ゾフィー・アウグステ・フリーデリケ |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性| |85|36|90|91|92|眼力・威圧・発明|C|C|C|C|C|C|1729|1796|剛胆|維持・長|3/5|1/5|30| 【ゾフィー・アウグステ・フリーデリケ】 近世ロシア帝国の皇后、のち皇帝「エカチェリーナ2世」。「弗里德里克」。 プロイセン領邦君主の娘として生まれ、母の実家の縁からロシア皇太子に嫁ぐ。 6代皇帝であったエリザヴェータが薨去すると、夫で皇太子でもあったピョートル3世が 即位し皇后となるが、夫が軍部と対立を重ね、軍事クーデターを招く。 軍部に擁立され自らが8代皇帝として即位し、以後はロシア近代化を 推し進めつつ、露土戦争やポーランド分割などでロシアの国益を増大させた。一方で 皇帝権力固めにも奔走し、反乱を悉く鎮圧。「大帝」の異名をとった。 ※ ロシア皇帝でありながら、ロシア人の血を一滴も引いていない。だが彼女はロシア正教に改宗しロシア語を熱心に学んだりした。ポチョムキン公を含む有力貴族の愛人がいたが、公私を分け隔てている。 **アレクサンドル・パヴロヴィチ |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性| |63|42|87|85|93|名声・築城・威圧|C|C|C|C|C|C|1777|1825|剛胆|早熟・長|4/5|2/5|30| 【アレクサンドル・パヴロヴィチ】 近世ロシア帝国の皇帝。ロマノフ王朝10代目、アレクサンドル1世。「亚历山大一世」。 パーヴェル1世の皇子として生まれたが、父と祖母エカチェリーナ2世が対立していたこともあり、祖母のもとで育てられた。 1801年父帝が暗殺されると即位し、スペランキー改革を実行して国内の近代化を測るが、ナポレオンとの対立で 道半ばにして挫折。ナポレオンとは当初協調体制を築いていたが、徐々に警戒するようになり対立。 1805年の三帝会戦では直接対決をして敗れたが、1812年の祖国解放戦争では、精強なフランス軍と直接対決することをせず、 バルクライやクトゥーゾフを司令官とし焦土作戦を展開。ナポレオンに多大な犠牲を出させて撤退させる。 その後も反ナポレオン連合に与し続け、ナポレオン失脚に貢献。ウィーン体制では神聖同盟を提唱した。1825年に急逝。死後も多くの伝説を残す。 **アレクサンドル・スヴォーロフ |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性| |100|96|83|36|22|連戦・強行・急襲|S|S|C|S|C|C|1729|1800|剛胆|維持・長|3/5|3/5|25| 【アレクサンドル・スヴォーロフ】 近世ロシア帝国の軍人。ロシア帝国で4人しかいない大元帥のうちの1人。「亚历山大·瓦西里耶维奇·苏沃洛夫」 常勝不敗の軍人として知られ、ロシア・スウェーデン戦争に従軍したのを皮切りに ポーランドやオスマン帝国との戦いで連戦連勝をあげた。機動力を駆使した奇襲を得意としており、 少数の軍勢で何度も大軍を破っている。戦争に従事すると、各地の反乱の鎮圧に向かわされたりと 生涯を数多くの戦場で過ごした。1798年のフランス革命戦争にも従軍、戦後1800年に大元帥の地位を 与えられたが、同年突如として全ての地位を取り上げられ、失意のまま同年中に亡くなった。 戦争で数々の勝利をもたらす傍ら、平時では幾度も周囲と対立したことが原因とされる。 ※その他候補となった特技:洞察・神将・藤甲・駆逐・威風・飛将・強運・闘神・騎神 ※ パーヴェル1世の死後、息子アレクサンドル1世によって名誉が回復される。ナポレオンと並ぶ軍事の2大巨頭と扱われており、精鋭で知られたフランス軍も彼の前には度々敗北した。 **ミハイル・クトゥーゾフ |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性| |92|80|86|82|91|火神・遁走・攻城|B|A|A|S|A|C|1745|1813|冷静or小心|維持・長|4/5|2/5|31| 【ミハイル・クトゥーゾフ】 近世ロシア帝国の軍人。「ミハイル・イラリオーノヴィチ・ゴレニーシチェフ=クトゥーゾフ公爵」「米哈伊尔·库图佐夫」 アレクサンドル1世をはじめ、皇帝3代に仕えた宿将。ポーランド・トルコ・オスマンとの戦いで名を挙げ、 負傷により隻眼となった後も、ロシア軍の躍進に貢献。イズマイル要塞の攻略戦では果敢な攻撃で陥落させ、 上官のアレクサンドル・スヴォーロフから賞された。ナポレオン戦争ではアレクサンドル1世の下で戦うが、 アウステルリッツ三帝会戦で敗北。しかし翌年にはトルコとの戦いで総司令官として軍功を立てる。 ナポレオンのロシア戦役では、ナポレオンの快進撃を最小限に抑え、焦土作戦とゲリラ戦術を駆使した持久戦を展開。 多くの犠牲を払いながらもナポレオン軍に大損害を与え、ナポレオンの凋落に多大な功績を残した。 国民や兵士からの信望は厚く、後年スターリンがその英名にあやかったと言われる一方、彼の活躍を疑問視する声もある。 ※その他候補となった特技:強運・明鏡 *オランダ *デンマーク *イタリア **ジュゼッペ・ガリバルディ |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|嫌悪|性格|素質|義理|野望|相性| |76|84|70|38|97|遁走・名声・強行|B|C|S|A|A|A|1807|1882|カヴール、ナポレオン・ボナパルト、ルイ・ナポレオン|剛胆|維持・長|3/5|5/5|60| 【ジュゼッペ・ガリバルディ】 イタリアの軍人。「イタリア統一三傑」の1人。「朱塞佩·加里波底」 フランス領ニースに生まれ、若い頃は貿易商人として海上貿易に携わる。 のち青年イタリアに加入し、フランスや南米への亡命を経てローマ共和国に 加担するが、オーストリア、フランスの介入を経て再び亡命を余儀なくされる。 のちにイタリア統一戦争が始まるとこれに加担。1860年には赤シャツ隊を率いて 両シチリア王国を併合。多くの苦難と敗北を乗り越えてイタリア統一の祖となった。 晩年は政治家になることなく隠棲。自由の象徴として祖国イタリアでは屈指の人気を誇る。 *ヴェネツィア *スペイン **エスポス・イ・ミナ |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性| |65|84|74|61|81|遁走・射手・強行|A|A|S|B|B|C|1781|1836|剛胆|維持・長|4/5|1/5|20| 【エスポス・イ・ミナ】 スペインのゲリラ指導者。「フランシスコ・エスポス・イ・ミナ」「李米娜」 スペイン王家がナポレオン体制に吸収された後も、民衆を指導してゲリラ活動を展開し フランス軍に多大な損害を与えて、対仏大同盟軍を間接支援した。ゲリラ活動によってフランス軍は 大軍を駐屯せざるを得ず、徐々に苦しめられていった。その資質はフランス軍も恐れたと言われている。 スペインでは偉大なゲリラ指導者の1人と言われ、スペイン独立戦争でも大きな功績を立てた。 ゲリラ戦争の祖とも言われる。 ※その他候補となった特技:待伏 *ポルトガル *オスマントルコ **ムラード |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性| |88|93|6|39|68|猛者・威圧・勇将|B|C|A|S|C|C|1750|1801|剛胆|維持・長|3/5|3/5|65| 【ムラード】 オスマン帝国の人物。エジプトマルムークの長。「穆拉德」「ムラード・ベイ」 1791年にイブラヒムと共謀してマルムーク実力者の1人として君臨。ナポレオンのエジプト遠征軍に 対抗するが、ピラミッドの戦いで優秀なマルムークを率いるもナポレオンの近代戦術の前に敗退。 後任や別働隊のドゼー、クレベールらにも敗れ、その後フランスと和平を結んだ。しかしその翌年に病没。 剛腕無比で知られ、牛の首を片手所持の半月刀で切り落とせるとまで言われたが、文字を読むことが出来なかったという。 **ムハンマド・アリー・パシャ |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性| |83|84|91|96|95|富豪・発明・名声|A|B|A|S|B|C|1769?|1849|冷静or剛胆|維持・長|2/5|4/5|50| 【ムハンマド・アリー・パシャ】 オスマン帝国の人物。ギリシャ圏の出身であり、のちエジプト「ムハンマド・アリー朝」の創始者。「帕夏」。エジプトの父と呼ばれる。 ナポレオンがエジプト遠征を行った際は、宗主国であったオスマン帝国の命により非正規部隊ながら戦闘に参加して軍功を上げる。 その後、アミアンの和約によってイギリス・フランス両軍が撤退すると、エジプトは権力闘争の場となり、 それを制して市民の支持を背景にエジプト新総督に就任。支配体制を構築して半独立を保った。アラビアやスーダンへの 遠征を成功させ、宗主国オスマン帝国が弱体化すると完全に独立。シリアにも勢力を伸ばしたが、その勢力拡大を 危険視したオスマン帝国に、イギリスロシアオーストリアの参戦を許した。自身もフランスと盟を結ぶが、エジプト・トルコ戦争でイギリスに敗れた。 エジプトにて新王朝を創設し、数々の近代化政策や軍事改革、財政農業工業改革を推し進め、エジプト近代化の祖となった。 補足:その偉業と没落は、日本ではしばしば明治維新から戦前における大日本帝国と同一視される。 *目安相性表 &color(red){実際に三国志11に登録する}際、当時の史実の世界観をより反映しやすくなります。 数値元の三国志武将についてはあまり考慮していません。 [[相性>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/983.html#id_35633e07]]は円形になっており、遠ければ遠いほど登用や処断、外交関係に影響します。 001:[[ナポレオン・ボナパルト>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2754.html#id_9422ea16]] 015:[[ロベスピエール>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2754.html#id_03c36933]] 020:[[エスポス・イ・ミナ>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2756.html#id_199b3687]] 030:[[アレクサンドル・パヴロヴィチ>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2756.html#id_5a8c3e32]] 050:[[ムハンマド・アリー・パシャ>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2756.html#id_541971eb]] 075:[[アーサー・ウェルズリー>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2756.html#id_b59449a2]] 100:[[クラウゼヴィッツ>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2756.html#id_0b7b411b]] 125:[[カール・フォン・エスターライヒ>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2756.html#id_063b8ea9]] 140:[[ルイ・オーギュスト>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2754.html#id_4c43055b]] 001:フランス・ボナパルト朝 015:フランス・共和主義革命勢力 020:スペイン・郷土勢力 030:ロシア・ロマノフ王朝 050:オスマン帝国・エジプト 075:イギリス 100:プロイセン 125:オーストリア・ハプスブルク 140:フランス・ブルボン朝 ---- #comment_num2(size=50,vsize=3,num=10,logpage=みんなの新武将/対仏大同盟/コメント)