真田丸戦記

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真田丸戦記 - (2017/01/15 (日) 22:39:42) の編集履歴(バックアップ)



概要

通常版および4-IIの武将列伝に該当する、本作の人物などに関する辞典・用語解説機能。
城下町での会話などによって随時収集され、「出来事」の項目に限り、収録時に真田の六文銭が充填される。
また、各項目の収集・閲覧に関するトロフィーもある。

用語の並びは五十音順であるが、同じく「出来事」の項目のみ時系列順である。
クリア後には全開放されるため、未収録になってしまった事項があっても問題ない。
逆に、クリア後にしか開放されない項目(特に真田とは縁の薄い無双武将の項)もある。

なお、内容自体は通説を踏まえた良好なものだが、人物・無双武将関連は本シリーズの創作を優先している箇所が多い。
あくまでもゲーム内の資料であるため、本作を「教科書」や「資料集」の代用にするのはくれぐれも慎まれるよう。


一覧表

人物

明石全登

宇喜多家臣。大坂城五人衆。

執政として宇喜多秀家に仕え、関ヶ原で先鋒を務めた。
その後、没落した主家再興のため、大坂の陣に豊臣方として参戦する。

めでたいこと、幸せなことが好き。それを象徴する花も好き。

明智光秀

織田家臣。

常に冷静で思慮深い人物。
乱世を終わらせる人物として信長を深く尊敬し従っているが、
歴史と伝統を重んじる光秀には、
信長の考えはしばしば理解の外にある。
心優しい性格でもあり、
信長の振る舞いにいつしか疑問を抱くようになる。

世間知らずだが行動力だけは人一倍の娘に悩まされている。

浅井長政

茶々の父。お市の夫。

北近江の大名。信義に厚く、優しくも凛々しい好男子。
乱世を終わらせるため織田信長と同盟し、
信長の妹・お市を妻に迎える。
お市とは深い愛情を寄せ合うものの、信長の苛烈すぎる戦略には
やがて疑問を覚え、ついには袂を分かつに至る。
反信長同盟の一角を担い、一時は信長を苦しめたが、
最終的には浅井家は滅ぼされ、長政も城と共に炎に消えた。
その姿は幼い茶々の心に深い傷を残している。

穴山信君

武田二十四将の一人。

武田信玄の甥で一門衆の筆頭格。
合戦では主に本陣の守備を担当した。
のちに出家して「梅雪」と号した。

甘利信忠

武田二十四将の一人。

父は、武田譜代家老の甘利虎泰。
弟に、同じく武田家臣の甘利信康がいる。

取次としての役割を果たしており、
信濃(現在の長野県)だけでなく、
関東や東北諸国との外交に携わっている。
そのため、高い政治手腕を誇っていたと考えられる。

綾御前

越後の大名・上杉謙信の姉。

慎ましく気品があり、洗練された物腰の淑やかな女性。
上杉家の進む先を示す道標のような役割を果たし、
上杉の将兵らを厳しく導く一方、
彼らを優しく包み込み癒す包容力も持つ。

井伊直虎

遠江井伊谷城主である井伊家の女当主。

恥ずかしがり屋で「ごめんなさい」「すみません」が口癖。
周囲に今川、徳川、武田といった大国がひしめく中、
井伊家を守るために必死に戦った。

のちに徳川家康に庇護され、井伊家は存続。
その恩を返すべく、徳川軍の先陣として活躍する。

井伊直政

徳川家臣。

通称は「井伊の赤鬼」。
井伊直虎のはとこで、のちに養子となり井伊家当主となった。
武田滅亡後、山県昌景の「赤備え」を引き継ぎ
徳川の先陣を務める。
戦上手なだけでなく、政治や外交にも通じており、家康からの
信頼も厚い。徳川家の最善を尽くすことを信念とし、
それを阻む真田家を敵視している。
本多忠勝とはライバル関係にあり、たびたび衝突することも。

石川五右衛門

天下の大泥棒。

根拠なく自分に絶対的な自信を持ち、
自己中心的な言動で場をかき回す。
しかし、おっちょこちょいで明るく脳天気な態度から、
憎まれることが少ない。
反骨精神旺盛で、権力には屈しない。

実は伊賀の抜け忍で忍術使い。

石田三成

豊臣家臣。

豊臣秀吉子飼いの武将の一人。
才覚に優れ、高い理想と志を持ち、秀吉に絶対的な忠誠を誓う。
しかし、その姿勢は権力者におもねる傲慢な人物と誤解されやすく
他人からの理解を求めず、己の成すべきことを成せばいいとする
性癖が、さらに周囲との軋轢を生んでしまう。
一方、その心情を知る者からは深い信頼を寄せられている。

真田昌幸に対しても、はじめは警戒を露にするが…。

出浦昌相

信濃の国衆。名は盛清とも。

武田家に仕えた、甲州透破(すっぱ)の棟梁とされる。
甲州は甲斐(現在の山梨県)、透破は忍者のこと。

信濃の国衆を束ねる者として昌幸を見込んでおり、
いち早く臣従する。

忍者には様々な道具が必要。きっと高級な糸も必要。

稲姫

徳川家臣。本多忠勝の娘。

父・忠勝を誰より尊敬し、目標としている。
そのために戦時平時問わず凛とした姿勢を崩さず、
何事にも正々堂々、生真面目に対応しようとする。
気は強いが礼儀正しく、心優しい大和撫子。
その分、変化球にはやや弱い。

のちに真田信之の妻となり、その生涯を支える。

今川氏真

今川義元の長男。今川家の現当主。

尾張(現在の愛知県西部)に侵攻した父・義元が、
桶狭間の戦いにおいて信長に討たれたため、
今川家を継ぐこととなった。
桶狭間の戦いで、多数の今川家臣が討ち死にし、
当主・義元も討たれたことから、
家臣に不満が広がり相次ぐ離反を招いた。

和歌や蹴鞠などの技芸に通じた文化人であったとされる。

今川義元

今川家第十一代当主。

駿河・遠江(共に現在の静岡県の一部)を治める大大名にして、
「海道一の弓取り」と讃えられた勇将。
れっきとした足利将軍家一門であり、天下を継ぐ大義名分を持つ。
内政・外交・軍事いずれも秀で、今川家全盛時代を作り出した。

…のであるが、当人は戦や政より歌や蹴鞠を好む風流人。
雅に争いのない世を夢見ていたが、
桶狭間で織田信長の奇襲を受けて命を落とす。

色部長実

上杉二十五将の一人。

父は川中島で奮戦し、
謙信から「血染めの感状」をもらった色部勝長。
謙信死後は、上杉景勝に仕えて活躍。
出羽(現在の山形県・秋田県の一部)の国で起きた一揆を
大谷吉継と共に見事に鎮圧し、
豊臣秀吉に「北国路まれに見る名将」と評された。

上杉景勝

上杉謙信の養子。
謙信の姉・綾御前の実子。

非常に寡黙で、笑顔を見せることがほとんどない。
謙信から受け継いだ上杉の義の何たるかを常に己に問い、
沈思黙考している。

腹心の部下である直江兼続とは親友のような間柄であり、
昌幸と勝頼の関係にも同じものを感じている。

上杉景虎

北条氏康の七男。早川殿の弟。初名は北条三郎。

北条と上杉の同名の証として上杉謙信の養子となり、
景虎の名を与えられた。
妻は綾御前の娘で景勝の姉。
つまり景勝とは二重の意味で義兄弟となる。

当初は人質として北条から出されたと悲観していたが、
謙信の薫陶や景勝との切磋琢磨を通して成長する。
やがて上杉を支える男になろうと決意するに至るが…。

上杉謙信


宇喜多秀家


お市


大谷吉継


奥平信昌


阿国


織田信長


飯富虎昌


甲斐姫・壱


甲斐姫・弐


片倉小十郎


加藤清正


上泉信綱


ガラシャ


木曽義昌


木村重成


くのいち


黒田官兵衛


黒田長政


高坂昌信


小少将


後藤又兵衛


小早川隆景


小早川秀秋


雑賀孫市


佐々木小次郎


佐助・壱


佐助・弐


真田信綱


真田信之・壱


真田信之・弐


真田信之・参


真田昌輝


真田昌幸・壱


真田昌幸・弐


真田幸隆


真田幸村・壱


真田幸村・弐


真田幸村・参


柴田勝家


島左近


島津豊久


島津義弘


須田満親


高梨内記


高橋紹運


滝川一益


武田勝頼


武田信玄


武田信繁


武田義信


竹中半兵衛


立花誾千代


立花宗茂


伊達政宗


茶々・壱


茶々・弐


長宗我部元親


長宗我部盛親


土屋昌次


土屋昌恒


藤堂高虎


徳川家康・壱


徳川家康・弐


徳川秀忠・壱


徳川秀忠・弐


豊臣秀長


豊臣秀吉


直江兼続


長野業正


南条元忠


ねね


濃姫


羽柴秀吉


服部半蔵・壱


服部半蔵・弐


馬場信房


早川殿


風魔小太郎


福島正則


北条氏康


堀田作兵衛


本多忠勝


前田慶次


前田利家


松永久秀


宮本武蔵


村松殿・壱


村松殿・弐


室賀正武


毛利勝永


毛利元就


森蘭丸


柳生宗矩


矢沢頼綱


矢沢頼幸


山県昌景


山本勘助


横谷重氏


横谷幸重


渡辺糺


地名

浅間山麓

現在の長野県と群馬県の県境にある浅間山の麓。

浅間山が噴火すると東国に災いが起こるという言い伝えがあり、
天正十年(1582)の二月に噴火した際は、
ちょうど信長が武田征伐軍を起こしたタイミングと重なったため、
武田家中に大きな動揺が走ったという。

安土

琵琶湖東岸の安土山付近(現在の滋賀県近江八幡市安土町付近)。
織田信長が築城した安土城があったことで有名。

安土城は地下の石倉も併せると七重層で、高さは約32mほど。
四層目までは吹き抜けになっており、
最上階の七層目は内外ともに金が貼られていたという。
城下町には『安土山下町中掟書』が出され、
町民の安全と自由が保障され、市場は楽市とした。
山崎の戦いののち、本丸と天守は焼失。
だが、二の丸などは残っていたという。

伊賀山中

伊賀(現在の三重県西部)の山奥。

伊賀忍の修行場とされる。
伊賀の修行は非常に厳しいことで知られており、
そのため伊賀忍は身体能力に優れる者が多い。

岩屋城

筑前国御笠郡(現在の福岡県太宰府市浦城)の城。

大友家臣・高橋紹運が城主として守り、九州統一を目指して
攻め来たる島津軍と激闘を繰り広げた。島津軍が二万から五万と
いわれるのに対し、岩屋城の将兵は七百人あまりであったという。
紹運の武名を惜しんで敵味方双方から五度にわたり降伏勧告が
出されたが、紹運はすべて丁重に断り、最後は城兵ことごとく
討死した。紹運の死に敵方の島津も涙したという。
この岩屋城の奮戦で島津軍の侵攻速度が鈍り、
豊臣の援軍が間に合って、大友家は救われた。

上田城

信濃国小県郡(現在の長野県上田市)の城。

天正十一年(1583)真田昌幸によって築城された。
江戸時代には真田信之が入るが、幕府の命令で城は破却。
信之は松代(現在の長野県長野市松代町松代)に転封される。
その後、この地を治めた仙石政忠が城の再建を申請。
現代に残る名城の姿を復活させた。

越後

現在の新潟県。

雪深い地であり、その豪雪が謙信の動きにも大きな制約を与えた。

米の名産地で、必然的に酒がうまい。

江戸

武蔵国(現在の東京都・埼玉県)の地名。現在の東京。

元々は江戸氏の支配地であったが、室町時代に衰亡。
その後、扇谷上杉氏の家老・太田道灌が入り、江戸城を築いた。

北条征伐後、関東移封となった家康が本拠を据え、
以後、目覚ましく発展していく。

奥州

陸奥国(現在の青森県・岩手県・宮城県・福島県・秋田県北東部)
の別称。または陸奥国と出羽国(現在の山形県・秋田県の一部)の
総称。後者の場合は一般に「奥羽」と呼ぶ。「みちのく」とも。

都から遠く離れているため、
古来より中央権力にまつろわぬ勢力がたびたび登場した。

大坂城

摂津国東成郡生玉荘大坂
(現在の大阪府大阪市中央区大阪城)の城。

豊臣秀吉が築城したが、大坂夏の陣によって焼失。
遺構も残っていないため、
秀吉が作った城がどのようなものかはわからない。
大坂の陣ののち、徳川秀忠の手によって
新たな大坂城が誕生したが、火災や落雷などで何度も損傷した。

現代の大坂城はその江戸時代に作られた姿を復元したもの。

桶狭間

尾張(現在の愛知県西部)の一地域。
織田信長が今川義元を討ち取った桶狭間の戦いで名高い。

現在の愛知県名古屋市緑区と愛知県豊明市にまたがる地域と
されるが、具体的な地点は諸説あって特定されていない。
『信長公記』では義元は「桶狭間山に本陣を構えた」と
記されているが、この桶狭間山がどこを指すのかも不明である。
また、同じく『信長公記』では
義元が討たれたのは「田楽狭間」だと記述されている。

小田原城

関東の戦国大名である北条市の本拠地である城。
難攻不落・無敵の城として名高く、
上杉謙信率いる十万を超える大軍の猛攻も凌ぎ切った。
北条軍たちの小田原城への信頼はとても厚い。

海津城

武田信玄が山本勘助に築城させた武田の城の一つ。
現在では松代城と言われている。
信濃(現在の長野県)の千曲川沿いに築かれ、
三方を山に囲まれているため堅固な造りとなっていた。

初代城主は高坂昌信で、
上杉と争った第四次川中島の戦いにおいて、
重要な拠点として機能している。
築城の名手とされる山本勘助が指揮したとされ、名城と名高い。

春日山城

越後(現在の新潟県上越市)にあった山城。別名、鉢ヶ峰城。

上越市の春日山山頂に築かれた難攻不落の城。
長尾家の本拠で、上杉謙信の父・長尾為景が大改修を行った。
御館の乱では上杉景勝が入場し、上杉家が会津に転封されると、
堀氏の居城となる。

慶長十二年(1607)、廃城となった。

関東

室町から戦国時代にかけては、
相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野の坂東八ヵ国に
伊豆・甲斐を加えた十ヵ国を指す。

本来は天武天皇が都を守るために設置した三つの関から
東を指す言葉であり、「東国」とほぼ同義。
京を中心とする関西とは様々な面で異なる気風を持つ。
源頼朝が鎌倉幕府を開いて以来、
京を基盤とする政権に対し独立心が旺盛で、
北条家の精神はこれを引き継いだものといえる。

木津川口

織田と毛利の水軍が激突した河口。

木津川は現在の大阪の淀川下流の支流。
明治時代まで多くの船舶が出入りしていた。

第一次木津川口の戦いでは毛利水軍七~八百艘と、
織田水軍三百艘が激突したとされており、
第二次木津川口の戦いでも大規模な海戦が行われた。

畿内

京に近い国々を指す。
山城・大和・河内・和泉・摂津の五ヵ国。

政治、経済、文化の中心地であり、
多くの大名がその支配権をめぐってしのぎを削った。

紀見峠

紀伊国(現在の和歌山県)と河内国(現在の大阪府東部)の国境。

京・大坂から高野山へ向かう参詣道として用いられた
高野街道の中継地でもある。
九度山を脱出して大坂へ向かった真田幸村も、
この峠を越えたものと思われる。

日本の都。
山城(現在の京都府)に位置する。

「四神相応の地」と呼ばれる風水的に優れた地であったことから、
延暦十三年(794)に平安京として遷都され、
以後千年の間、この国の都であり続けた。
中国の都にちなんで「洛陽」とも称され、
京に上ることを「上洛」、京の域内を「洛中」などと呼ぶ。
風水的に優れていても軍事的には攻めやすく守りにくい地形で、
武家政権の中枢が置かれることは少ない。

九度山

紀伊国(現在の和歌山県)高野山麓の地名。

関ヶ原の戦いで敗れた真田昌幸・幸村親子が配流された地。
この地で幸村は十四年を過ごしている。

高野山の入り口。
高野山は女人禁制であるため、女性はここまでしか入れない。
昌幸・幸村は本来、高野山へ盃流であったが、
妻子を伴っていたため九度山に移されたとも。

上野


小倉


小諸


西国


妻女山


薩摩


真田の郷


真田本城


信貴山


信濃


新府


駿河


諏訪湖畔


高天神城


中国


躑躅ヶ崎館


敦賀


手取川


天目山


戸石城


東海道


東国


土佐


長篠城


中山道


名胡桃城


沼田城


肥後


耳川


山崎


用語

浅井家

北近江(現在の滋賀県北部)を治める大名家。
元当主は浅井長政である。

元は近江守護である京極家の家臣であったが、
長政の祖父・亮政の代に勢力を伸ばした。
この頃、南近江の六角家との争いで苦境に立たされた際、
同盟した越前(現在の福井県)の朝倉家に
おおいに助けられている。
この朝倉との深い縁が、浅井の前途を暗いものとした。

朝倉家

越前(現在の福井県)を治める大名家。
元当主は朝倉義景である。

朝倉家は本来、但馬(現在の兵庫県北部)を本拠としており、
越前朝倉家はそこから分かれた系統である。
七代孝景の代に応仁の乱で活躍、勢力を伸ばした。

十一代義景の代に足利義昭に頼られ、
上洛を要請されるがこれに応えず。失望した義昭は
織田信長を頼り、信長に大義名分を与えることとなった。

伊賀忍

伊賀流の忍者。

伊賀(現在の三重県西部)を本拠地とした。
甲賀忍が主君への忠節を重んじるのに対し、伊賀忍は金銭の
契約以上のことは求めないとされる。また、要請があれば
雇い主が敵同士でも双方に忍者を派遣したという。
本能寺の変の際、堺から脱出する徳川家康を助け
(神君伊賀越え)、この功から徳川に重用された。

最も有名なのは服部半蔵だが、史実では半蔵は忍者ではない。

今川家

駿河・遠江(ともに現在の静岡県の一部)を治める大名家。
現当主は今川氏真である。
足利将軍家の親族であり、宗家の相続権を持つ名門。

武田家・北条家と三国同盟を結び、氏真の父・義元の時代には
最盛期を誇ったが、義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれると
たちまち凋落。従属していた徳川家康に離反され、
三河(現在の愛知県東部)の支配権も失った。
このことから武田との関係も微妙となるが、
北条とは固い繋がりを保持している。

上杉家

越後(現在の新潟県)を治める大名家。
現当主は上杉謙信である。義を重んじる家風。
長きに渡る川中島の戦いも信玄に信濃(現在の長野県)を
追われた豪族に助けを求められた謙信が
これに応えたことで幕を開けた。

実は越後は内乱が多く、家臣の謀反が相次ぐ地域であったが、
謙信の神がかった強さとカリスマ性でまとめ上げられていた。

上田合戦

真田昌幸が居城・上田城周辺で徳川の大軍を撃退した二度の戦い。

◆第一次上田合戦
天正十三年(1585)、徳川から離反して上杉についた真田を
討伐するため、徳川軍が攻め寄せた。昌幸は地の利を生かした
戦術で数倍の敵を撃退。真田の名を天下にとどろかせた。

◆第二次上田合戦
慶長五年(1600)、関ヶ原へ向かう徳川秀忠率いる別働隊を
足止め、ついに本戦に間に合わせなかった。

オウギ

生薬の一種。漢字で書くと「黄耆」。
強壮薬として効果がある。

信玄の死に気落ちしている勝頼を元気づけようと考えた幸村が
薬の材料として採取してきた。

大坂牢人衆

大坂の陣に当たって、豊臣方について戦った牢人たちの総称。

諸大名は豊臣恩顧の者たちも含め、皆、徳川の威を恐れて
豊臣方に味方しようとはしなかったが、関ヶ原の戦い以降没落し、
牢人となった武将たちは身を立てる最後の機会と考えて
大坂に参じた(当然、単に報酬目当ての食い詰め者も多かった)。

中でも有名なのが真田幸村・後藤又兵衛・明石全登・
長宗我部盛親・毛利勝永の五人で、大坂城五人衆と呼ばれる。

大友家

豊後(現在の大分県)を治める大名。
現当主は義統であるが、実権は父・宗麟(義鎮)が
握り続けており、二元政治状態となっている。

鎌倉時代から続く名門。
宗麟の代には立花道雪など有力な家臣にも恵まれ、大友家は
北九州に大きな版図を誇った。しかし、やがて宗麟は家中に
不和を招き、今山の戦いや耳川の戦いで龍造寺・島津に大敗。
急速に勢力を縮小させていく。豊臣秀吉を頼ることで滅亡は
免れたが、以後、九州の雄たる地位を取り戻すことはなかった。

お地蔵様

地蔵菩薩が親しみをもって呼ばれた名称。

地蔵菩薩はサンスクリット語でクシティ・ガルバ。
無限の慈悲を持ち、人々を苦悩から救うとされる。
特に子どもの守り神としての面が強い。
日本では同祖神と習合し、路傍の石像としてよく見られる。

真田本城のお地蔵様にお供えをすると、
霊験により別の何かに成り代わるという。
村松殿「あらあら。不思議なこともあるものですね」

織田家

尾張(現在の愛知県西部)を治める大名家。
現当主は織田信長である。

元は尾張守護代の家老職に過ぎなかったが、次第に頭角を現し、
信長の父・信秀の代に大きく勢力を伸ばした。
信秀の急死後、うつけと評判であった信長を不安視して
一時家中が乱れるが、信長はこれをまとめ上げ、
さらに尾張を統一。
今川義元を桶狭間で破り、天下へと大きく躍進していく。

御館の乱

天正六年(1578)、上杉謙信の後継を巡り、
謙信の二人の養子、上杉景勝と上杉景虎が激突した戦い。

同年三月に謙信が急死した際、後継者が明確に定められていなかっ
たため、跡目争いが勃発した。最終的に景勝が勝利したが、
この内乱で上杉家はおおいに衰退し、景勝側に加担したことで
北条と手切れとなった武田家もさらに苦しい立場となった。

ちなみに御館とは関東管領・上杉憲政を謙信が迎えたときに用意
した居館。春日山城を景勝が押さえたため、景虎は御館に入った。

鍛冶屋

武器を購入・強化することができる施設。
町に一軒はある基本施設であり、
戦国の世においては欠かせない場所である。
腕のよい鍛冶職人がいることが、
町の価値向上につながるといっても過言ではない。

家督

その家の地位や財産、つまり家そのものを継ぐ権利のこと。
基本的に嫡子が継ぐことになっているが、
後継者が定まらぬまま、先代が死んでしまうなど
きちんとした相続が行わわない場合、
家督相続争いが発生することが多い。

関白

天皇に代わって政治を行う役職。
実質的に公家の最高位に当たる。

天正十五年(1585)七月、羽柴秀吉は朝廷での
関白を巡る争いに介入し、強引に自ら関白に就任した。

丸薬

飲みやすいよう、練り合わせて球状にした薬剤。
「○○○丸」という名称が多い。

国衆

その国の有力名主。国人領主とも。
幕府や朝廷から任じられた領主とは異なる、在地の勢力。
鎌倉時代には支配勢力に反抗する「悪党」とも呼ばれた。
戦国時代に入り守護の弱体化が進むとさらに独立性を強化。
戦国大名の郎党となるものが多い一方で、
大名格にまで成り上がるものも現れた。

真田に限らず、長宗我部や毛利なども元は国衆である。

城下町の外に時折現れる野生動物。

見た目は怖いが、実はおとなしい性格らしい。
どこかで出会う度に絆を深められる…かもしれない。

黒田家

筑前(現在の福岡県)を治める大名家。
現当主は黒田官兵衛である。

官兵衛は播磨(現在の兵庫県南西部)の豪族・小寺氏の家臣に
過ぎなかったが、羽柴秀吉に見出され、軍師として
その天下取りにおおいに貢献した。
しかし、その働きに比べて領地は大きくはなかった。
一説には切れ者過ぎる官兵衛を
秀吉が警戒していたためだといわれる。

君側の奸

君主の側に侍り、
君主を意のままに操って悪事をなす奸臣のこと。

関ヶ原の戦いにおいて、徳川家康の建前はあくまで
「君側の奸である石田三成を除き、豊臣家を守ること」であり、
だからこそ豊臣恩顧の諸大名も家康に従った。

無論、三成からすれば、五大老筆頭の地位にありながら
天下への野心を露わにする家康の方が君側の奸であった。

甲賀忍

甲賀流の忍者。

近江国(現在の滋賀県南部)を本拠地とした。
「惣」と呼ばれる自治組織を持ち、
合議制で郡の運営を定めていたという。
伊賀忍とは異なり忠義を重んじ、南近江を治める六角家に従って
織田信長とも戦った。結果、大きな痛手をこうむることとなる。

ちなみに甲賀は正しくは「こうか」と読む。

甲相駿同盟


子飼い


雑賀衆


真田家


真田屋敷


山賊


賤ヶ岳七本槍


忍び


島津家


銃眼扉


銃眼砦


上洛


征夷大将軍


関ヶ原の戦い


太閤


大名


武田家


伊達家


反物


弾薬


茶屋


中国大返し


釣り場


出丸


徳川家


豊臣家


縄張り


南蛮


荷駄


幕府



兵糧



奉行


北条家


三方ヶ原の戦い


三日天下


密偵


名代


毛利家


矢沢家


山内家


与力


よろず屋


練兵


和議


出来事

上杉と武田の因縁

武田に信濃(現在の長野県)を追われた者たちのために
上杉は武田領への侵攻を開始する。

越後の龍・上杉謙信率いる上杉軍と、
甲斐の虎・武田信玄率いる武田軍は、
川中島の地において、幾度となく争うこととなる。

ちなみに越後は現在の新潟県で、甲斐は現在の山梨県である。

川中島周辺の地形

川中島とは信濃国(現在の長野県)の千曲川と犀川に囲まれた
三角地帯である。

千曲川の川岸には武田の重要拠点である海津城や、
第四次川中島の戦いで上杉軍が布陣した妻女山がある。

川中島周辺の天候

周囲を川に囲まれた川中島の空気は湿度が高いと考えられる。
朝晩に冷え込み、風もない日は霧が発生する恐れがあった。

信玄と謙信の一騎討ちで知られる第四次川中島の戦いも、
濃霧に見舞われたという話である。

武田から恩恵を受ける理由

かつて武田信玄の父である信虎に信濃を侵攻され所領を奪われた
真田家だったが、信虎を追放した信玄に仕えることにより、
旧領を回復することができた。

以降は信玄によって所領を保証されることとなり、
真田家は発展していく。

山本勘助の策

第四次川中島の戦いの戦いにおいて、武田の軍を二手に分けて、
妻女山に布陣した上杉軍を一方の部隊で夜襲し、
山から下りたところをもう一方の部隊で挟撃し討ち取るという策。

啄木鳥がエサを捕るときに、
木の反対側をつついて虫を驚かせて穴から這い出させ、
出てきたところを捕らえるという習性にならい、
啄木鳥戦法と名付けられた。

義信事件

武田信玄の嫡男・義信の傅役、
飯富虎昌らが信玄の暗殺を企て処刑された。

義信も責任を問われ、甲府の東光寺に幽閉され、
正室であった今川義元の娘とも離縁させられた。

小田原城の戦い

永禄四年(1561)に上杉謙信が、
北条氏康の籠もる小田原城を攻めた戦い。
北条家の圧迫を受けていた関東管領・上杉憲政が謙信に助けを
求めたことから、謙信は永禄三年(1560)に関東遠征軍を
進発。上野・武蔵の諸豪族を従え、小田原城に迫った。
しかし、小田原城の守りは堅く、北条と同盟のあった武田家・
今川家も北条を支援したため戦陣は長期化。味方からの不満も
高まり、国元で一揆などが起こったこともあって、
さしもの謙信も攻略を諦めて撤収した。
このことが小田原城の難攻不落ぶりをおおいに知らしめた。

信長包囲網

畿内を制した織田信長の脅威に対抗するため、
諸大名で結成された連合。反信長連合とも。
音頭を取っていたのは、信長によって将軍につけられた足利義昭。
実権を信長に握られ、傀儡であることを嫌った義昭が
諸大名に檄を飛ばし、信長の台頭を恐れる者たちがこれに応じた。
主な参加勢力は武田家・上杉家・朝倉家・浅井家・三好家・
毛利家・雑賀衆など。
一時は信長を窮地に追いやるが、武田信玄の病死による
武田軍上洛の頓挫や浅井・朝倉の滅亡を契機に崩壊した。

徳川の駿河侵攻

桶狭間の戦いを契機に今川から独立した徳川家康は、
三河の支配を確立すると積極的に今川領に侵攻した。
武田信玄による今川攻めの際はこれに呼応し、
遠江を領国化している。
しかし、武田とは間もなく関係が悪化し、
駿河を巡って争うようになる。
その結果、信玄の西上作戦、とりわけ三方ヶ原の戦いで
手痛い敗北を喫するが、信玄の死後はその混乱に乗じて
再び駿河へ侵攻を行っていた。

浅井・朝倉滅亡

元亀元年(1570)、越前の朝倉家を攻めようとしていた
織田信長は義弟・浅井長政の裏切りに遭い、ほうほうの体で
退却する(金ヶ崎退き口)。信長は直ちに逆襲に転じ、
姉川の地で浅井・朝倉連合軍を撃破した。
この姉川の戦いで浅井・朝倉の被害は甚大で、
以後も信長包囲網の一角を担って戦ったものの、
次第に追い詰められていく。
そしてついに天正元年(1573)には一乗谷城の戦いで
朝倉家が、小谷城の戦いで浅井家が滅亡に追いやられた。

長篠の戦い

天正三年(1575)、武田軍と織田・徳川連合軍が三河国
(現在の愛知県東部)長篠城を巡って激突し、
武田軍が大敗した戦い。
織田信長が三千挺もの鉄砲を用意し、馬防柵と三段撃ちという
戦術で無敵の武田騎馬隊を完膚なきまでに
叩きのめしたというのが通説だが、異論も多い。

この戦いで重臣の多くを失ったことが武田家凋落の第一歩で
あったことは間違いないが、むしろこれ以降の御館の乱や
高天神城防衛時の立ち回りこそが致命的であったとする説もある。

謙信の死

天正六年(1578)、上杉謙信は手取川の戦いで織田家の
柴田勝家率いる軍団を撃破。なお衰えぬ軍略を見せつけた。

ところがそれから間もなくして謙信は不意に倒れ、そのまま
帰らぬ人となる。謙信は後継者を明確に定めていなかったため、
家中は上杉景勝派と上杉景虎派に分かれて争う「御館の乱」が
勃発。上杉家の勢威は著しく衰えることとなる。

死因については、たいへんな酒豪であったことに起因する
脳卒中とするのが有力である。お酒はほどほどに。

甲相同盟

武田家と北条家の間で結ばれた同盟。
甲は甲斐(現在の山梨県)、相は相模(現在の神奈川県)のこと。

本来、両家は今川家も含めて三国同盟を結んでいたが、
武田信玄が今川家を攻めたことから関係は破綻、
今川と結びつきの強い北条は武田家と敵対し、上杉と結んでいた。
しかし今川の衰運は覆しがたく、武田と争う不利を悟った北条は
再び武田と結び、甲相同盟が復活した。勝頼は氏政の妹を正室に
迎えるなど、同盟の強化を図っていたが、御館の乱への対応で
同盟は解消、武田家は苦しい立場となる。

木津川口の戦い

大坂の木津川河口で織田軍と毛利水軍が激突した戦い。
天正四年(1576)と天正六年(1578)の
二度にわたって行われ、互いに極端な結末となった。

◆第一次木津川口の戦い(天正四年)
毛利水軍が用いた炮烙火矢により、織田軍は壊滅的な被害を被る。

◆第二次木津川口の戦い(天正六年)
炮烙火矢に対抗すべく、信長は鉄甲船を用意。
毛利水軍を撃破し、大坂湾の制海権を確保した。

甲州征伐・壱

織田信長が武田討伐のため徳川・北条と連合して起こした戦い。

長篠の戦いでの大敗後、
人心を失いつつあった武田家からは離反が相次ぎ、
ついには信玄の娘婿であった木曽義昌が織田方に寝返る。
いよいよ武田を滅ぼす好機と判断した織田信長は、
嫡男の織田信忠を総大将に甲州征伐の軍を起こす。
織田家の同盟者である徳川・北条も侵攻を開始すると、
武田はたちまち追い詰められるところとなった。

甲州征伐・弐

追い詰められた武田勝頼に対し、真田昌幸は甲斐を捨て、
真田本城へ一時身を寄せるよう進言する。
勝頼はその場では了承したものの、なぜか真田本城ではなく
重臣・小山田信茂の岩殿城へ向かった。
しかし信茂は織田方に寝返り、
進退窮まった勝頼一行は天目山で自害する。
このとき、勝頼自害の時間を稼ぐため、土屋昌恒は
敵の大軍に飛び込み奮戦、「片手千人斬り」と称される激闘の末、
討死した。その忠義と勇姿は敵方からも高く評価されている。
こうして甲斐の名門・武田家は滅び去った。

武田の上野侵攻

御館の乱で上杉景勝に味方し、勝利させた見返りとして、
武田家は東上野の支配権を得た。
とはいえ、当地は以前より武田・北条・上杉が争奪を
くり返してきた要地であり、
実際には「上杉は手を退いた」というレベルの話でしかなく、
武田は北条と争って勝ち取る必要があった。
武田勝頼は駿河方面で徳川との争いに備えなければならなかったため、
東上野侵攻は真田昌幸に任された。
この成功で、真田はおおいに地盤固めを進められることとなった。

高天神城の戦い

遠江(現在の静岡県西部)の高天神城は徳川の要衝であり、
武田信玄でさえ攻め落とせなかったが、
武田勝頼がこれを攻略し名を挙げた。
ところが長篠の戦いのあと、武田の衰退に乗じて
徳川家康が奪回を目指して攻め寄せる。北条への備えや、
織田との和議を模索していた勝頼は動くに動けず、
結果として城主・岡部元信以下、城兵のことごとくが討死する。
理由はどうあれ、「高天神城を見捨てた」という事実は
武田の権威を地に落とし、
その後の木曽義昌ら武田家臣の離反を決定づけた。

中国攻め

天正五年(1577)以降、織田信長が羽柴秀吉に命じて、
毛利家の勢力圏である中国地方を攻略させた戦い。
鳥取城や三木城、高松城などの攻略で秀吉の城攻めの巧みさが
遺憾なく発揮され、信長にも激賞されている。
一方、荒木村重や別所長治の謀反などで
秀吉が苦境に立たされることも多かった。
天正十年(1582)五月、秀吉は高松城を水攻めしている
さなか、信長に出馬を要請。信長は明智光秀に援軍を命じると
共に、自身も出陣すべく京に入ったが…。

本能寺の変


神流川の戦い


小牧長久手の戦い


秀吉の台頭


秀吉、関白就任


表裏比興


豊臣家臣団


九州征伐


東国の情勢


家康、江戸へ入る


武断派と文治派の対立


上杉征伐


関ヶ原までの徳川の動き


西軍諸将の奮戦


徳川の豊臣対策


真田紐


真田丸


関ヶ原後の西軍諸大名


冬の陣後の情勢


夏の陣前の情勢