巻一百六十八 列伝第九十三

唐書巻一百六十八

列伝第九十三

韋執誼 王叔文 王伾 韓曄 陳諌 凌準 韓泰 陸質 劉禹錫 柳宗元 程异



  韋執誼は、京兆の旧族である。幼い頃から才能があった。進士に及第し、成績優秀で、右拾遺を授けられた。加冠の年齢を超えると、翰林に入って学士となり、そこで聡くも側近に媚びへつらい、徳宗の厚遇を得た。詩歌の唱和に預かり、詔によって称えられた。裴延齢韋渠牟らが互いに寵を競っていたから、彼らに出入りして顧問に備えた。帝の降誕日のときに、皇太子(後の順宗)が仏画を描いて献上したから、帝は韋執誼を派遣して称賛し、太子から韋執誼に帛を賜り、韋執誼に詔して東宮に謝礼に行った。太子はついに会うのに別の理由に託けることはなくなった。そこで「君は王叔文を知っているか。素晴らしい才能だぞ」と言い、韋執誼はこれによって王叔文と親しくなった。母の喪によって辞職した。喪があけると、吏部郎中となり、しばしば召されて禁中に到った。補闕の張正一が上書によって召見され、王仲舒韋成季劉伯芻裴茝常仲孺呂洞と親しかったから行ってお祝いとしたが、ある者が韋執誼に向かって、「彼らは君と王叔文が党派を結んでいることについて議論しようとしている」と言ったから、韋執誼は、韋成季たちの集団が広く伺いのぞんでいると申し上げた。帝は金吾に詔して、何度も飲食していることを調査し、全員を追放した。

  順宗が即位すると、病のため親政せず、王叔文を用いたが、そこで韋執誼を抜擢して尚書左丞・同中書門下平章事(宰相)とした。王叔文と王伾が宮中にあって命令を伺い、韋執誼によって執行させようとし、そこで朝廷を専権して惑わし乱した。韋執誼は王叔文に引き立てられたが、しかし公の場での議論の際に迫って、天下に自分は王叔文の与党ではないことを示そうとし、そこで度々異論を述べた。しかし密かに王叔文のもとで謝して「あえて盟約に背いて異論を述べるのは、共に国家の事を救おうとするからだ」と言ったが、王叔文はしばしば異論を遮ったから、かえって仇怨となった。憲宗に譲位されると、王叔文・王伾を配流とし、その与党をバラバラに左遷し、韋執誼を貶して崖州司戸参軍とした。帝は韋執誼が宰相の杜黄裳の婿であったから、一番最後に貶した。

  韋執誼はすでに形勢は傾き、禍いが自分にも及ぶだろうとわかっていて、なおも宰相の地位にいたとはいえ、息も絶え絶えになって無気力となり、人の足音を聞くだけでたちまち動悸がするようになり、失脚に到った。それより以前、顕官となる以前、人がよく貶地として用いられる嶺南の州県について言うのを嫌った。郎中となり、かつて「職方観図」のもとに行った際に、嶺南になるとたちまち目を瞑り、近くの者に命じて撤去させた。宰相となると、座していた堂に地図があり、かえりみることはなかった。すでに数十日がたち、試しに見てみると崖州の地図であった。不祥だと思い憎んだが、果して崖州に貶されて死んだ。


  王叔文は、越州山陰の人である。棋待詔となった。よく読書をし、明確に政治の道を申した。徳宗は詔して東宮に仕えさせ、太子は引き立てて侍読とし、そこで政治および宮市の弊害を論じた。太子は、「あなたはお上に見えて、まさに極言すべきである」と言い、列座していた者は皆褒め称えたが、王叔文だけは黙り込んでいた。去る間際に太子は「君は無言だったがどうしてか」と聞くと、王叔文は「太子がお上に仕えるのは、お上の膳を視て健康を尋ねるくらいで、政治に参与しているわけではありません。また陛下の在位は長く、私のような小人が太子とお上の関係を悪化させてしまえば、殿下が世情を汲み取ったところで、どうして自ら弁解できましょうか」と答え、太子は謝して「先生でなければこの発言は聞けなかった」といい、これより重んじられ、宮中の事はすべて参与に預かった。

  王叔文は心が狭く軽率で、遂に気まま勝手に発言して自身の才能を疑わず、「私は宰相となるべきである。私は将軍となるべきである。後日に厚遇されて用いられるだろう」と言った。密かに天下の有名の士と交遊を結んで、士で速やかに昇進したいと願う者は、王叔文に付き従った。韋執誼陸質呂温李景倹韓曄韓泰陳諌柳宗元劉禹錫のような者は死を約した友となり、凌準程异もまたそこでその党派に仕え、こっそりと出入りし、その他は末席に連なることもできなかった。藩鎮や将帥も、ある者は密かに賄賂を送って結びつきを得た。

  順宗が即位すると、病のため聴政することができず、宮中奥深く幄を設けてそこにおり、牛昭容・宦人の李忠言を側に侍らせ、群臣が奏上すると、幄の中より奏上の内容を聞いた。王伾は密かに宦官たちに「陛下は普段から王叔文を厚遇していた」と語ったから、蘇州司功参軍から起居郎・翰林学士を拝命した。大抵、王叔文は王伾に、王伾は李忠言に、李忠言は牛昭容にと、互いの権勢をたよった。王伾は主に順宗の意思を伝受し、王叔文は主に裁可し、そしてこれを中書省に授け、韋執誼は詔書を作成して施行した。当時、李景倹は親の喪にあい、呂温は吐蕃に使者として派遣されていたから、ただ陸質韓泰陳諌凌準韓曄柳宗元劉禹錫らが共にこの名誉に預かり、自身らを伊尹・周公旦・管仲・諸葛亮の再来とし、傲慢にも天下に人なしと言っていた。王叔文はなにかあるたびに「銭や穀物は、国家の大本であり、その相場を操作するには、士に市場を管理させるべきである」と述べ、そこで杜佑を用いて度支・塩鉄使を領させ、自身はその副使にするよう奏上し、その内実は自身が実権を掌握した。しばらくもしないうちに戸部侍郎に遷った。

  宦官の倶文珍はその権勢を嫌い、王叔文の翰林学士を罷免した。詔が出されると、非常に驚いて「私はしばしばこの職によって事を議論しなければならない。そうでなければ、禁中に入ってよることはない」と言い、王伾もまた尽力して願い出たから、そこで三・五日に一度、翰林に入って政務を見たが、しかしもとの職に戻ることはなかった。省にあっては職するところに仕えず、日々その党派を引き連れ、神策兵を取って、天下の命を制しようと謀った。そこで宿将の范希朝を西北諸鎮行営兵馬使とし、韓泰を司馬として副使にした。ここに諸将は書を中尉に送って、別れを告げて去ろうとしたから、宦官ははじめて兵権を奪われようとしていることを悟り、大いに怒って「我が部下は必ずその手に死ぬだろう」と言い、そこで諸鎮に諭して、慎んで兵を他人に所属させないようにした。范希朝と韓泰は奉天に到着したが、諸将は到着しなかったから、帰還せざるを得なかった。

  王叔文の母が死んだが、隠蔽して発覚させず、酒を翰林に置いて、李忠言倶文珍らも皆出席して、金を集めて宴会をし、そこで声をあげて「天子は重病ではなく、この前、兎を苑中で射られたが、その様は鞍に跨って飛ぶかのようであった。あえて異議を申す者があれば斬る」と言い、また自ら「私の親は病にかかっているが、身をもって国の大事に任せているから、朝も夕もと侍ることができない。今はまさに急であるから、許されよ。しかし政務に心や力を尽くし、人を好き嫌いや扱いの難しさや易しさで避けることはしない。天子のみ心に報いるのみである。今一度ここを去ってしまえば、百の謗りがあったとき、誰が私を助けてくれようか」と述べ、また、「羊士諤は私をけなしたから、私は羊士諤を杖殺しようとしたが、韋執誼は怯んだから果たせなかった。劉闢がやって来て韋皋のために三川の地を求めたが、私は普段から劉闢を知っていたわけではなかったから、そこで我が手をとろうとしたが、こんなことをするのは悪人ではないのか。木場を掃除してそこで斬ろうとしたが、韋執誼が不可とした。この二賊の誅殺する機会を失ったことを思うたびに、人をして恨み嘆くことになるだろう」と言った。度支を領掌したことによる利害を述べて自身の功績としたが、その言葉のたびに倶文珍が詰問したから、王叔文は答えることができなかった。近くの者が密かに「母親が死んでもう腐っているというのに、まさにここに留まろうとして、一体何をするつもりなのか」と語ったから、翌日喪を発表した。韋執誼はますます王叔文の言葉を用いなくなり、そこで再起しようと謀って、韋執誼と自分に従わない者を斬ろうとしたから、聞く者は恐れおののいた。

  広陵王(後の憲宗)が太子となると、群臣は皆喜んだが、ただ一人王叔文は心配し、杜甫の「諸葛祠詩」を詠んで自らの状況を述べ、悲泣して涙を流した。太子がすでに監国になると、渝州司戸参軍に貶された。翌年、誅殺された。


  王伾は、杭州の人である。始め書待詔によって翰林に入り、太子宮で侍書となった。順宗が即位すると、左散騎常侍・待詔に遷った。王伾はもともと卑しく穢れた身分であり、容貌は風采が上がらず、楚語を話し、他に大志はなかったが、帝は馴れ馴れしく可愛がり、王叔文の男だてや優美な言葉には及ばず、帝は王叔文に礼をつくした。しかし出入りするところにいたっては、また王伾の絶え間なさには及ばず、王叔文は入っても翰林までであり、しかも王伾は柿林院に到って牛昭容らに会っていた。その党派が盛んとなると、門前には羹が沸くように人が集まったが、王伾は最も天下で賄賂を受け取り、日夜止むことがなかった。巨額を貯め込み、穴をあけて珍品を受け取り、出すことができなかったから、その上で寝ていた。

  王叔文が親の喪にあい、王伾は日々宦官および杜佑に王叔文を起用して宰相とするように要請し、また北軍を総べさせるよう要請したが許されなかった。また威遠軍使によって同中書門下平章事(宰相)とするよう要請したが、また不可とされた。そこで一日に三度上表したがすべて返答がなかった。心配のあまり、行ってはまた臥せた。夜になると大声で「私は病気となった」と叫び、輿に乗って邸宅に帰った。開州司馬に貶され、そこで死んだ。支党は全員追放され、ただ陸質だけその以前に死んでいたから免れた。


  韓曄は、韓滉の族子で、俊才であった。司封郎中の職によって饒州司馬に貶された。永州刺史の官で終わった。


  陳諌は聡明で聡く、かつて染署(染色を行う役所)の帳簿を見て、すべて尺寸の寸法を言い当てた。一度書籍をみると、死ぬまで忘れなかった。河中少尹から台州司馬に貶され、循州刺史で終わった。


  凌準は、字は宗一で、史学を得意とした。翰林学士から連州司馬に貶され、貶所で死んだ。


  韓泰は、字は安平で、策謀を得意とし、王伾王叔文に頼られ重んじられ、よく大事を決した。戸部郎中・神策行営節度司馬によって虔州司馬に貶された。湖州刺史の官で終わった。


  陸質は、字は伯沖である。七代の祖である陸澄は、梁に仕えて名儒となった。代々呉に住んだ。『春秋』に明るく、趙匡および趙匡の師である啖助に師事し、陸質はことごとく二家の学問を伝えられた。陳少游が淮南の藩鎮となると、上表して陸質を幕府に置き、朝廷に推薦されて、左拾遺を授けられた。累進して左司郎中に遷り、信州・台州二州刺史を歴任した。

  陸質は普段より韋執誼と親しく、韋執誼が王叔文に従って密かに権勢を得ようとすると、その力によって召されて給事中となった。憲宗が太子となると、詔して侍読となった。陸質の本名は陸淳であったが、太子の名を避けて改名した。当時韋執誼は、太子は自分が専断していることを怒っているのを恐れており、そのため陸質を東宮に侍らせ、密かに太子の意を伺ってあれこれ釈明しようとした。陸質は合間を見てそのことについて発言してみたが、太子がたちまち怒って「陛下は先生に命じて私に学問を講じさせようとされているが、どうして他のことに口を出してくるのか」と言い、陸質は恐れ畏まって退出した。

  韋執誼が失脚する前、陸質の病は重くなり、太子が即位すると、見舞いされて礼を加えられた。卒すると、門人は陸質がよく聖人の書をよくしていたから、後世に広めようと、私に文通先生と諡した。著書するところは非常に多く、世間に通行した。


  劉禹錫は、字は夢得で、自らを中山靖王の系統から出たと称した。代々儒者であった。進士に及第し、博学宏辞科に合格し、文章を巧みにした。淮南の杜佑が上表して書記とし、京師に入って監察御史となった。もとより韋執誼と親しかった。当時、王叔文は太子(順宗)の厚遇を得て、劉禹錫も名声によって世の中に重んじられ、これと交わり、王叔文は事あるごとに劉禹錫を宰相の器があると称えた。太子が即位すると、朝廷の大議・秘策の多くは王叔文から出て、劉禹錫および柳宗元とともに禁中で議論し、申し述べたところは必ずその通りに従われた。屯田員外郎、判度支・塩鉄案に抜擢され、いささか権力を笠に着て、多くの士を中傷した。武元衡は柳宗元からこころよからずと思われており、御史中丞から太子右庶子に左遷されてしまった。御史の竇群は劉禹錫が邪心を抱いて政治を乱していると弾劾し、竇群は即日罷免されてしまった。韓皋はもとから高貴の出身であったから、王叔文らと親しくするのをよしとせず、斥けられて湖南観察使となった。だいたい進退するところは、好き嫌いのままに人をあれこれしたから、人は王叔文一派の名を口にするのをはばかり、「二王・劉・柳」と号したのだった。

  憲宗が即位すると、王叔文らは失脚し、劉禹錫は連州刺史に左遷され、まだ到着する前にさらに朗州司馬に左遷された。朗州は夜郎といった諸夷と接し、風俗は非常に田舎じみていて、家々では巫鬼を好み、何かあるたびに祠るから、「竹枝」を歌い、演奏しながら徘徊し、その歌声は粗野であった。劉禹錫は屈原が沅・湘の間にいて「九歌」をつくって楚人に神を迎え送らせたから、そこでその歌声によって「竹枝辞」十篇あまりをつくった。ここに武陵の村々では大半がこれを歌った。

  それより以前、王叔文に連座して左遷された者は八人で、憲宗はずっと排斥して復職させないようにしたいと思い、そこで詔して後に恩赦があっても赦さないとした。しかし宰相がその才能や困窮ぶりを悲しみ、過去の過ちを忘れて用いようとしていたが、ちょうどその時、程异が呼び戻されて転運の任務にあたっており、そこで劉禹錫らに詔してすべて遠州の刺史に補任しようとした。しかし武元衡が執政となっており、諌官も言葉厳しく用いてはならないとしたため、ついに沙汰止みとなった。

  劉禹錫は長い間塞ぎ込んで、鬱々として無聊であり、その詩文に吐露し、多くを風刺して深遠に託し、「問大鈞」・「謫九年」等の賦数篇をつくった。そこに以下のように述べた。「張九齢が宰相になると、放逐された臣下はよい地におくべきではなく、すべて五渓のような不毛な地に移すべきであると建言した。しかし張九齢は京内の職から始安郡に移されると、風土病について嘆き、宰相を罷免されて荊州の長官になると、囚人になったような思いを持ったのだ。張九齢は自身が僻地の出身でありながら、一たび失意を味わうとそれに堪えることできず、ましてや中華の地に生まれた人や士族を何としても僻地に追いやらないと気がすまないということがあってよいのだろうか。世の論者は張九齢を開元の良臣であると思っているが、しかし死んで跡継ぎがなく、彼に人を忌み嫌う性質があって他人に寛大になれず、何か大きな目に見えぬ罪科があって、そのためほかの美点長所でもつぐなえなかったのだ」詩文に感じさせて権力に接近したが、恨みを解けなかった。しばらくして召還された。宰相は尚書省の役人に任命しようとしたが、劉禹錫が「玄都観に花を看る君子」の詩をつくり、語句に謗るものがあり、当局者が喜ばず、京師を出さえて播州刺史となった。詔が下され、御史中丞の裴度が、「播州はとても遠うございます。猿どもの住処で、劉禹錫の母は八十歳あまりになり、住むことができません。その子とは死出の別れとなっていまいます。陛下の孝道の治世が傷つくことを恐れています。今しばらく近い土地に遷されますように」と述べたが、帝は「人の子たる者は慎まなければならず、親に心配かけないものだ。劉禹錫は他人よりも罪は重い。最も赦すことができない」と言うと裴度は答えられなかった。帝は居ずまいをただして「朕が言ったことは、人の子たる態度を責めたものであって、親を傷づけたいとは思っていない」と述べ、そこで連州に変えて、また夔州刺史に移した。

  劉禹錫はかつて天下の学校が廃せられることを嘆き、そこで宰相に奏記した。以下に述べた。

  「もの言う人とは天下の少士のことをいいますが、人材を養う方法を知らず、心が塞がって高揚しませんが、決して天が人材を生んでいないわけではありません。これは耕作をしないのに食料庫に余剰がないと嘆いているのと同じで、そうではないのでしょうか。貞観年間(627-649)、学舎は千二百、生徒は三千人あまりで、外夷も子弟を遣わして入附する者は五箇国におよびました。今建物は壊れて生徒は減少し、学官でなければ振わず、病んでも贖って給付されることもないのです。

    だいたい学官というのは、春秋の二度、先師を釈奠するのであるから、このように天子の大学の辟雍、諸侯の大学の頖宮を廃止するのは天下に及ぼすことができないのです。今州県ではすべて春秋の上丁日によって孔子廟を祀っていますが、その礼は古通りではなく、非常に孔子の意にそむいているのです。漢の初期の群臣は屠殺業から身をおこし、そのため孝恵帝から高后(呂后)にかけての時代に原廟を郡国に設置したのです。元帝の時になると、韋玄成が議論して廃止となりました。子孫というのはなおもあえて違礼してその先祖を饗応することはありません。ましてや後学が先聖の道を師としているのにこれに違おうとするでしょうか。『伝』(『礼記』祭儀の誤り)に「祭礼は何度も執り行うものではなく」とあり、また「神を祭るときは、実際に神がそこにおられるように敬虔に祭る」とあり、祭献を煩多にしてしまえば、どうやってその教えを行えるのでしょうか。今教化は衰退し、非礼の祭りを行ってこれに媚びたところで、儒者は病んでしまうでしょう。歴代のお祭りを見てみるとこの事は行われなかったのです。

    武徳年間(618-626)初頭、詔して国学に周公・孔子廟を建立し、四時祭(定例の礼祭)とした。貞観年間(627-649)、詔して孔子廟を兗州に修造しました。後に許敬宗らが奏上して、天下の州県に三人の献官を設置し、その他は社を建立しました。玄宗は儒臣と協議し、釈奠での牲牢(犠牲)をやめ、酒と肉をすすめることとしました。当時、王孫の李林甫が宰相となりましたが、学問に精通していなかったので、御史中丞の王敬従に、明衣を着て牲牢させて著して法としたから、ついにあって無いようなものになってしまいました。今夔の四県の毎年の釈奠の費用は十六万、天下の州県となると毎年だいたいの費用は四千万にもなり、たまたま三献官をたすけて衣裳で身を飾るようになると、妻子を遣わすから、学問は補えなくなるでしょう。

    礼官・博士に議論を下し、天下州県の牲牢・衣幣をやめ、春秋の祭は開元の時のようにし、その資材を記録して半分を所属の州に賜い、学校を増設させ、推挙は半分は太学に帰させ、それでも万計を下らないようであれば、学室を造営すべきであり、器などの道具を揃え、供え物を豊かにし、掌握の人員を増やすことによって備えさせ、儒官はそれぞれ月給を加え、州県の進士は皆監督にさせれば、貞観の風は粲然として復活するでしょう。」

  当時その建言は用いられなかった。

  和州刺史から呼び戻されて主客郎中に任じられ、また「玄都観に遊ぶ」の詩をつくり、また述べた。「流されてから十年たって、都に戻ってきた。道士は桃を植えて、そのいっぱいなことは霞のようである。また十四年すぎて、また戻ってくることができたが、ただ兔葵(いえにれ)と燕麦(からすむぎ)が春風にそよいでいるばかりである」と述べ、権力に近い者を謗り、聞く者はますますその行いを苦々しく思った。しばらくして東都(洛陽)の分司となった。宰相の裴度は集賢殿大学士を兼任し、劉禹錫を推薦して礼部郎中・集賢直学士とした。裴度が罷免されると、出されて蘇州刺史となった。政務が優秀であったため、金紫服を賜った。汝州・同州の二州に異動した。太子賓客となり、また東都の分司に戻った。

  劉禹錫は最後まで自身の才能をたのみ、狭量で人を恨まずにはおれず、年をとるとだんだん落ち着いてきて、盛んに少ないところをあわせて文章で悠々自適となった。普段より詩をよくし、晩年にはさらに磨きがかかり、白居易を詩文の唱和は非常に多かった。白居易は詩によって自ら名をなした者で、かつて高く評価して「詩豪」としたが、また「その詩があるところは、まさに神があって護持しているようだな」と言った。

  会昌年間(841-846)、検校礼部尚書となった。卒し、年七十二歳であった。戸部尚書を贈られた。それより以前、病となると自ら「子劉子伝」を作った。以下に述べる。「漢の景帝の子の劉勝は、中山に封ぜられ、子孫は中山の人となった。七代の祖の劉亮は、元魏のときの冀州刺史で、洛陽に遷って、北部都昌人となり、墳墓は洛北山にあり、後にその地が狭くていられないから、滎陽の檀山原に葬った。徳宗が天下をすてると、太子が即位し、当時、王叔文が囲碁をよくして書籍に通じており、閑暇のことによって奏上し、長い間蓄積していったが、多く者は知らなかった。蘇州掾から官歴がはじまり、超えて起居舎人・翰林学士を拝命し、丞相の杜佑の推薦のお陰で度支・塩鉄使となった。翌日、自ら副使となり、貴くなったことは世間を震撼させた。王叔文は、北海の人で、自身をかの王猛の後裔であると言っていたが、たしかに遠祖の風があり、東平の呂温・隴西の李景倹・河東の柳宗元もそうだと信じていた。三人は皆私ととても親しく、昼も夜も一緒に過ごし、その能力を語り合った。王叔文は本当に巧みに治道をとなえ、よく口弁で人をうつし、用いられることになっても、人のために施すところは自分のためにはしなかった。太上皇帝が長らく病まれ、宰臣および用いられた者は答えることができず、宮中の事は秘され、功績は尊大な臣下のものに帰され、これによって貶められたのである」 その自ら弁解することはだいたいこのようであった。


  柳宗元は、字は子厚で、その先祖は思うに河東の人であろう。従曽祖父の柳奭は中書令となったが、武后のため罪を得て、高宗の時に死んだ。父の柳鎮は、天宝年間(742-756)末の乱に遇い、母とともに王屋山に隠れ、何かあるごとに常に行って孝養を行なおうとし、後に呉に移った。粛宗が賊を平定すると、柳鎮は上書して言上したから、左衛率府兵曹参軍に抜擢された。郭子儀の朔方府を助け、三度殿中侍御史に遷った。竇参と衝突したため、夔州司馬に左遷された。戻って侍御史で官を終えた。

  柳宗元は若くして聡明で周囲の者たちより秀でており、文章をつくると高尚で俗離れしていて精緻であったから、当時の同輩は敬服した。進士と博学宏辞科に及第し、校書郎を授けられ、藍田県の尉に任命された。貞元十九年(803)、監察御史裏行となった。王叔文韋執誼と親しく、二人は柳宗元の才能を優れたものとした。王叔文らが政権を得ると、引き入れられて宮中のことに近侍し、国家の経営を共にし、礼部員外郎に抜擢され、大いに用いられようと願った。

  しばらくして王叔文が失脚すると、邵州刺史に貶され、道中の半ばにさらに永州司馬に貶された。排斥され、永州の地もまた荒れ果てており、そこで自ら山や沢を歩き回り、その鬱々とした感情を防ぎ、すべて諸文にあわせ、「離騒」数十篇に倣って、読む者をすべて感傷にふけさせた。常に蕭俛と親しく、書を送って心の内を述べた。

  「僕は不幸にして、先年仕官して危うく不安な状態に当面してから、平素門を閉じてはいるが、他人の口舌が無数にうるさく、その上久しく交際していた者もあって、それで危ないところを我が家に来る場合にはいうまでもない。うるさい人々の中でも仕官を求めながら不採用の者どもは、皆集まって僕の仇敵となって、僕の罪を造り出し大げさに飾り立て、それがはびこり拡がって益々勝手な評判をしている。これでは明白に事態を見わけて、自分で心中に判断するのでなければ、誰が僕の善悪を暗く定かでない中で知ることができるであろうか。けれども僕は当時年三十三で、監察御史裏行から礼部員外郎の官を得て、順序を越えて顕官美職を取得したのである。世の仕官を望む者たちが怪しみ怒り、ねたみそねむのを免れたいと思っても、一体できるであろうか。罪人王叔文と交わること十年、官もこの人のせいで進んだのであるから、僕の辱めのもとは彼らとの結合にあったのである。聖王の朝廷はお心弘く寛大で、貶め退けられることも軽くて、それでは衆の怒りを塞ぐことができなかった。誇りは次から次へと移って、口やかましく声高く、次第に奇怪な人民のようになった。智を飾り立てて仕官を求める者は、更に僕のことを言って、敵人の心や目を悦ばせ、新たに変わった事をして、務めて互いに喜び許して、それで以て出世の手引きの路を求めるのである。そうして僕たちは何の手出しもできずに益々困しみ辱められ、さまざまの罪がやたらに生じ、その糸口もわからないのである。何と悲しいことよ。人と生まれて六、七十年の生命を得るものは少ないのである。今僕はすで三十七である。長じてこのかた、日月が益々短くなるのを覚え、歳々にそれが一層甚しくなった。おおよそ数十回の寒さ暑さを過ごさないで、この身は無くなるであろう。そうだとすれば善悪や名誉恥辱も、この上どうして言うに足ろう。あれこれ言ってやまなければ、それこそ益々罪を犯すだけであろう。

    僕は南方異民族の中にいて、久しく炎熱や風土病の毒にも慣れて、眼がぼんやり昏く脚が重い病気も、いつものことと考えるようになり、ふと北風が朝早く吹いて、かすかな寒さが体にあたると、肌にぞっとしみわたり、毛髪もさびしく衰えを覚え、驚いて見つめ、はっとおそれて、変な気候だと思う。この心持ちはほとんど中国の人でないようである。楚や越の地方の言葉の音声はことにちがっていて、もず鳥のような悪い声のけたたましいのも、今ではこれを聴いても、平気で気にもかけず、もはや同類になってしまっている。家に生まれた小童も、皆自然にやかましくしゃべっているのが、昼夜耳に満ちて、北方中国の人の言語を聞くと、啼きさけんで逃げかくれ、病人の私でも、おそれて駭くのである。門を出て町の盛り場に行く者が、その十中八九が杖をついてやっと立ち上がるのを見ると、自分でもここに生きているのもあと幾何であろうかと考える。どうしてこの上、止まることを知らずに自分の長短優劣を論じたりして、この上にまた重ねて一世の人々からそしり笑われたりしようか。そんなことはしたくないのである。『周易』の困の卦を読んで、「言っても信ぜられない、と卦辞にあるのは、口を主として弁解しようとすれば、反って窮して困しむと」という文句までくると、僕は繰り返し読んでいよいよ喜んでいう、「ああ、私が家々に一つの口を置いて、それで自分のことを言いわけをしたとて、悪口は益々蒸しくなるだけであろう」と。そこでいっそう啞のように黙ることを好み、木や石の仲間になろうと思い、二度と弁解しようとは考えないのである。

    今天子は教化を盛んにし、邪正を定められ、天下の人はよろこび楽しんでいる。それなのに僕と仲間の四、五人と共に不幸に沈み陥っていることがこのようである。どうしてそれが運命ではないのだろうか。運命は天の定めである。かれこれ論する者が左右できるものではない。私はまた何を恨もうか。しかし治平の世に住んで、終身物の分からぬ人の仲間でいるのは、やはり少し恥ずかしい気もあって、まだ世事に対して忘れ切ることができないのである。もし今の乱賊が平定して喜びの恩賞がある際のついでに、僕の罪名が清められ、天子のお恵みの余りの潤いを受けさせられることができれば、朽ちた切り株の形を崩れ腐って、生い植つことはできなくても、やはり霊芝の事を蒸し出して、それで以てめでたいしるしの物となすには十分であろう。一たび廃官禁錮の罰を赦して、数県でも都近くに移していただければ、世間の人は必ず罪がやや解けたというであろう。このようにして後、憂いのために散消しつつある僕の魂魄を召し収めて、宅地一脚を設定して農耕の民となり、朝な夕な歌謡して、文章を作らせてくださるならば、木鐸を振り鳴らして人民を集めて政事を通達教示する官の者が、その歌謡文章を採取して、これを天子の御所の寝殿に献上して、それで聖徳ある唐王朝の雅楽の歌篇を補い増されることを、こいねがうのである。その際僕は官位を得なくても、また何もしないでただ太平の民となるだけではないのである。」

  また京兆尹の許孟容に書簡を送って、次のように述べた。

  「宗元は若いころ、罪を負った者王叔文と親しく仲善くしていましたが、始めは彼の才能をすぐれたものと思い、共に仁義の行いを確立し、世の教化を補い助けることができると思いました。そして過って私自身の力を計らず、まじめに勉めはげみ、ただ中正信義を志とし、堯舜、孔子の道を盛んにし、人民を利し安んずることをもって努めとし、愚かで見識の低い身の努力してもできないことに気がつかなかったのです。私のもとよりの考えはこの通りであったのです。ところが終わりころには行きづまり不安になって、仕事の道は壅がりさまたげられ、貴人や近侍の臣にもとりさからい、無謀疎略で理にもとり、底知れぬ罪に蹈みこんでしまいました。ところが今その仲間の者が、幸いにも寛大なお赦しを得て、各々善い土地を得て任官し、何ら国家の仕事もなくて坐したまま俸禄を食んでいます。これは聖天子の御恵みがこの上なく厚いことである。この上どうして更に役に立たぬ長い病人のような今の境遇を除き棄てられるのを待って、政府に用いられるというような望みの外なるお恵みをこいねがいましょうか。私は当時年も若く気が鋭く、物事の目に見えぬかすかな動きを見分けられず、道理に当たるか否かを知らずに、ただ一心に直ちに成し遂げようと思ったので、結果として刑法におちいってしまったのは、皆自分で求め取ってこれを得たものであるから、またどうして怪しみましょう。当然のことと思っています。

    宗元は多くの仲間の人々の中で、罪の情状は最も基しい。神が罰を下して、また直ちに死ぬこともできないで、いまでもやはり人に対して物を言い、食を求めて自分で活き、迷って恥を知らずに、ただ一日また一日と暮らしているのです。しかしまた母の不幸があって、自分で思うに、わが柳氏の姓を得て家を創立してこのかた二千五百年、代々長子相続で継承して来たが、今私は非常の罪を抱いて、遠く異人種の原族の国に住み、低地の湿気の多い暗い霧の立ちこめる中で、ある時死んで溝や谷にうずまり捨てられ、先祖から伝わる系統をむなしく地に落としてしまうかも知れないと心配しています。それゆえ、心を痛め悲しみ、心も骨も熱く沸き返る思いです。ただひとりさびしく後つぎの子もなく、国のはての片田舎では士人の娘も少ないので、結婚の相手もないのです。世間もまた罪人と親戚となり近づくことを承知しない。それゆえ大切な後嗣ぎも、絶えないこと細い糸のようで、いつも春秋の定時の祭りの供物を捧げるときにひとりさびしく立って、振り返りみても後嗣ぎの者がいないので、心を痛めてすすり泣き恐れ憂え、この祖先の祭りの仕事もやがてしまいになるかもしれぬと心配になるのであります。心を痛めて骨を傷めること、刀の切っ先を受けるようであります。これは誠に貴下も共にあわれみ惜しんで下さることと存じます。

    祖先の墓は城南にあります。他の子弟のこれを守る者がないので、ただ村の近所のものに頼んでおきました。私がお上のお叱りで追われてから、様子も存亡も、何一つ郷里に知らせていないので、墓を守る者も、もとよりそれでますます怠っているでしょう。これを思って昼夜常に哀しみいきどおり、そのたびに、墓地の松や椎の木を斬り折りし、草刈や牛羊の放牧を取り締まらず、祖先に対して大きな罪を犯していることを慣れています。近世は礼法では墓参とその清掃を重くみています。ところが今私はその礼を欠くこと四年になります。毎年の寒食の節句にあうたびに、北方故郷に向かって声を長く引いて叫び泣き、頭で地を叩いて拝し詫びています。想うに、その日は田野道路に、男も女もあまねく満ち、身分の低い者たちや傭い人乞食の類も、皆その父母の墓所に診ることができ、馬の医者や夏の草切りのようなしがない者の亡魂でも、子孫の追善供養を受けないものはないでしょう。そうではありますが、この墓参りのことは、もはや望みをやめました。この上何を申しましょう。城西に数頃の田があって、数百株の果樹を植えてありますが、中には亡父の手で自ら土盛りをし植えたものが多いのです。今はもはや草荒れてしまい、その都度切り倒して、また惜しいと思うものもないだろうと心配です。家に朝廷から賜った書類が三千巻あって、今でも善和里の旧宅にあります。その宅は今はもはや三たび主人が代わって、その書類の有る無しも知ることができません。これらのことは皆先祖からの授受の主なもので、常に心にかかっているのでありますが、それでもどうにもしようがなくて、わが身を立てることが一たび失敗してからは、万事瓦が破れ裂けるように崩れ去って、身は地方官に埋もれ、家は破滅し、世の最も大きな辱めとなりました。二度とどうして思い切って、この上にも大君子の貴下が撫で慰め、救い憐んで、まだ私を人数の中に置いてくださるように望みましょうか。とてもお願いできることではありません。そこで食事の時も物の辛さ塩からさ、適度の味もわからず、湯浴み髪洗い、洗面うがいなども、どうかすると歳の四時、三月を越えることがあり、一たび皮膚を掻くと、埃や垢が爪に満ちるのであります。誠に憂い恐れ悲しみ傷み、それを告げうったえる相手がなくて、この有様になったのであります。

    昔から徳のすぐれた人、才能のある者で、わが志を取り守り、本分に従いながらも、他人の譲りや論議を被って、自分で弁明することのできなかったものは、殆んど百をもって数えるほどであります。故に兄もないのに兄嫁を盗んだとされ、父を亡くした娘を娶ったのに、妻の父を打ったという、無実の罪を得た者がありました。それでも、その時世のすぐれた人物の力で、事情が明白に判別されて、ついにはその賢人才子であることが歴史書の上に輝いています。斉の管仲は盗賊に遭ったが、その二人を採用して斉の功臣にし、匡章という者は、国中で不孝の名を被ったけれども、孟子はこれを尊んで礼遇したのでありました。今はもはや古人のような実行為がなくて、誤りがあるのであるから、世人が自分の真実を明らかに認めてくれることを望みたくても、得られないのであります。漢の直不疑は金を盗まれた同舎の郎官から疑われて無実を弁明できなかったので、金を買って弁償し、また後漢の劉寛は自分の乗車の牛を、盗まれた牛だといいはる者のために、車を下りて、牛をその村人に帰してやりました。これは似て疑わしいことが弁明できず、口や舌で勝てることでないのを知ったので、このようにしたのでありました。鄭の詹師は晋に捕らえられ、縛られていたが、ついには死ななかったし、鄭から晋に献じた楚の囚人鍾儀は琴を与えられ、南方の音曲を奏したが、終わりには国に返ることができました。また春秋の晋の大夫羊舌肸、字は叔向は、囚人となっていたが、自分で必ずまぬがれることを予期し、魏の范痤は屋根にのがれて危うく高い所にまたがり、生をもって死に易えることができました。漢の蒯通は自分を煮ようとする鼎の耳に取りつかまって弁じ、斉の上級の食客となり、張蒼や韓信は、斧や押し切りの刑具に伏して殺されようとしたのに、ついに将軍・宰相の位を手に入れました。鄒陽は獄中から書をたてまつり、それでもって自分で活きることができ、賈誼は退けられ追放されたが、また文帝に宮中の宣室に召されて用いられました。倪寛はしりぞけられ殺されるところを、許されて後に御史大夫まで栄達し、董仲舒と劉向とは、獄に下されて誅せられるところを、まぬがれて漢の儒学者の尚び仰ぐ師となりました。これらは皆秀ですぐれた、博識能弁、世にまれな元気ある人物であって、自分で危機をまぬがれることができたのでありました。今私は、恐れいじけて、穢れ濁り、下等な才能、つまらぬ技術をもって、また恐懼の長いやまいにかかっているのですから、憤りなげいて、臂を振りあげ、自分も昔の人々のように、この難儀をまぬがれて、身分を回復したいと思っても、いよいよ遠ざかり隔たってしまうのであります。

    賢ある者は、今の時代に志を通することができなければ、必ず後の世に貴い地位を取るものであります。古人で書物を著した者は、皆これであります。私も近頃このことを努力したいと思っています。しかしながら私は力が薄弱で才能は劣っていて、人にすぐれた知能もないので、筆を取って詳細に述べたいと思っても、精神も意志もみだれ疲れて、前後を忘れ、ついには文章を作り上げることができません。昔は読書をしても、自分でつかえて滞るまでにはならなかったのですが、今はすっかりかたくなに、記憶力がなくなって、古人の伝記を一つ読むことに、数枚から後は、再三巻子を伸べてまた前文の姓氏を調べて見るのですが、たちまちまたすっかり忘れてしまうのです。たとえ万が一にも、刑部省の囚人の名簿から私を除いて、また士人の列とされたとしても、また世の役に立つに構えないでありましょう。」

  しかし、多くの者は柳宗元の才能が優れているのを恐れ、再度こらしめて心を改めさせようとしたから、柳宗元の才能を用いようとする者はいなかった。

  柳宗元は長い間没落しており、そこで文章をつくり、思索はますます深まった。かつて書一篇を著し、「貞符」と名付けた。以下の通りである。

  「臣が貶された永州の流人である呉武陵が臣に向かって、「董仲舒が三代の受命の符についての文章を書いたが、正しいか、それとも正しくないか」と尋ねた。臣は「正しくない。そのことはどうして一人董仲舒だけのことであろうか。司馬相如・劉向・揚雄・班彪・班彪の子の班固は無知のように踏襲し、古代の祥瑞の事物を受命としてきたのだ。その述べるところは邪教の占い師や歌手のようなもので、後の時代を惑わしたのだ。これによって聖人の皇位の本質を知り、至徳を顕彰して大功を称揚するようなことには到らないのだ。非常に趣旨を逸脱しているのだ」と答えた。臣は尚書郎であった時、かつて「貞符」を著したが、唐王朝の正徳は、天命を生きている人々の思いから受け、積み重なること長く、終わりや果てはないであろうという意味を述べた。内容は広遠であった。たまたま貶されて中央から左遷されたから、充分な研究はできなかった。呉武陵は叩頭して臣を迎え、「これは重要な事です。批判されるからといって途中でやめたりして、そのため聖王の法がたてられないようなことがあってはなりません。邪説謬論がはびこるのを阻止して、邪説謬論が正しい教えを抜き去って、後世の規範とさせるようなことがあってはならないのです」と述べ、臣は感激にたえず、そこで「貞符」を完成させようとした。思うに蛮夷の地である永州に埋没して、世の中に聞かれるようなことがないのは、なおさらあってはならないようなものである。仮に一度大いなる道を明らかにして、世の中に施したら、たとえ死んだとしても心残りに思うところはない。そのように考えて「貞符」を完成させることを自ら決心した。臣宗元、稽首拝手して以下のように述べます。

    誰が古えの初めのことを讃えたのだろうか、つまり古えは素朴かつ無知蒙昧で争いがなかったが、時代が変遷するにつれて変化し、奮って奪い合い、攻撃的に戦って激しく揺れ動き、もっぱら好き勝手に暴威を振うようになったのだ、と。これは道の知らない者の言いである。思うに、人代の初め、生じては多くてあふれ、木々が林立するように多く群がった。外には雪や霜や風雨・雷や雹が猛威を振るったから、そこで空いている巣穴に屋根を架け、草木を引き抜き、皮革を取り、飢えや渇きといった食欲や雄雌の性欲をその中で満たし、禽獣を食らって、果実や穀物を囓ったのである。たまたま住むところがかち合えば、交りの中に入ると争い、相反の中に入ると戦い、力が強い者は手で捕まえ、歯が丈夫な者は噛り、爪が強い者は引っかいて抉り、群衆を率いる者はわめき散らし、兵法に優れた者は敵を殺したから、混乱の様相をきたし、草や野は血に塗れた。その後、強い有力者が出るとその下に治まり、しばしば要害の地に役所を置き、号令を用いて指令し、君臣は什伍の制を法として立てた。君は徳が優れた者が継ぎ、道を怠った者は奪われた。そこで聖人が生まれてその名を黄帝といい、その戦車を行かせて、その天下の中を貫いて、国を治める法を一つに統べ合わせ、度量を等しくするが、それでもなお極めて公平な道をたてることができなかった。そこで聖人が生まれてその名を堯といい、州の長官や四方の諸侯を治める官を置き、守り支えてこれを統べ、徳があり功績があり能力がある者を立てて、一緒にこの天下を支え、腕をまわし指を導き、かがんだり伸ばしたりして把握し、統率しないものはなかった。堯が年を取って老いると、聖人舜を挙げて天位を譲り与え、大いに公平な国がようやく建った。以上のことからみてみると、当初は嘘つきどもがかなりかき乱しても、その後に徐々に落ち着いてくるのである。非徳は樹立されないのである。だから孔子は『尚書』を著して、堯については「克く俊徳を明らかにす」と述べ、舜については「濬哲・文明ない」と述べ、禹については「文命はつつしんで帝に承く」と述べ、湯王については「克く寛く克く仁あり、信を兆民にあらわす」と述べ、武王については「有道の曽孫」と述べたのである。「典誓」(『尚書』諸篇)を調べ考えるに、正しいことであろう。この徳こそは本当に受命の符であって、それによって王朝の長い存続の年月が定められる根源だったのである。後の妖淫・囂昏・好怪の連中は、そこで始めて大電・大虹・玄鳥・巨跡・白狼・白魚・流火の烏を述べて符とした。これはすべて珍しくて怪しげなことで、恥づべきことである。根本が正しくないことがわからないのである。

    漢は統治には寛仁を用い、よく民衆を懐かせ、愚か者や賢人を登用し、傷ついた者を洗って治療したり、寒がっている者には駆けつけて温めてやり、病気を治して楽しませ、ここにそれを符としたのである。そのよこしまな臣下は地上ではまむしを取り上げ、上では天に輝く光を引っ張り出して、類によって推し量り、めでたいことだと叫び、無知の民を欺いた。葬式用の馬車や祀りで使う鼎を増やしては、馬具を使うよう唆し、東の泰山・石閭山に大号をつくってこれを「封禅」といったのだが、すべて『尚書』に記載されたものではなかった。王莽や公孫述は漢の功績を受け継ごうと、ついに奢り背いてしまったのである。その後賢帝が現れ光武帝といったが、よく天下を平定して、再び旧物を受け継いだが、それでも赤伏を崇めて、それによってその徳に傷をつけてしまった。魏・晋でも、乱れ分裂したから、その符は正しくない。国家が用いるのにはよくなく、用いたら国家が長らえることはないのだ。非難するのに建議して行う必要はないのである。

    大戦乱の時代は過ぎて隋の時代になると、四海をめぐって食べ物を煮る鼎となり、天地に跨って炉となり、天下の竈は烈火の炎をあげ、煽られて凶暴な炎となり、そこの人々は湧き上がって赤く焼き爛れ、名付けて「騰蹈」と呼び、救い止めることはなかった。ここに高祖の大聖の遺業がおこり、灼熱の炎を消し止める長雨が大いに降り、深い流れとなってゆらぎそそぎ、炎にあたって蒸発しては清らかになり、洗われてそよ風となり、人々はそこで水の流れに休まり、乾いては生じ、保っては成り、広く行き渡っては安らかとなったのである。叩いたり斬ったりして殺戮されたり、血脂を流し手足の節が離れるような禍いがならず、人々はそこでよく完全に平定された世の中を楽しみ、その肌膚をかたしろとし、平坦な道へと達したのである。燃やしたり割いたりするような攻撃的な排斥のため死に陥るような害は起こらず、人々はそこでよく同類や一族が集まり、歌い舞って喜びにひたり、用いるのに大いなる徳にあたったのである。徒党は奮って加担するよう呼びかけ、義軍を労い迎え、喜びの声は天地を動かし、義軍の麾下に到ったのである。大盗賊や軍閥が立て籠もって、天命を阻んで徳を遮ったとしても、義軍の威信により殺戮され、すべて大いなる始祖の道の手に堕ちたのである。漢の劉氏は暴虐ではなかったから、人々はそこで大いなる嘉祥を受けたのだが、隋王朝が去ると、よく唐に帰し、足踏みして謳歌し、どこまでも広大に広がって和み安らかとなったのである。帝が武威を用いるのは、思うに人の為なのであろう。敬しんで税を定め、積んで下に納め、これを「豊国」というのである。郷には義倉を設け、納めて謹慎の意を示し、毎年一定の割合で救荒に用い、人々を豊かな年とするのである。刑罰を選ぶのに、残忍ではないよう罪を懲らしめ、これを「厳威」というのである。罪が小さければ罰金とし、罪が大きければ奴婢とし、和らぎ楽しんで自らの身を慎み、そのことを用いれば治めるのにいたりとどまるのである。だいたいその欲するところは、求めなくても得られ、だいたいその悪とするところは、祈らずとも消え失せる。四夷は拝服し、軍事はおこらず、財貨も使い尽くさない。大いに後嗣を宣揚し、後代まで唐室が続いたのである。十聖祖はその治世をすくい、孝仁・平寬なのは、わが祖法なのである。恩沢は長くそしてますます深く、仁は増してますます高く、人々が唐を推戴し、長々無窮となるのである。

    この為に天命を受けるのは天からではなく、その人の徳の有無によるのである、よい符はめでたい現象において現れるのではなく、その人の仁において現出するのである。重要なのは人間の仁であって、天からめでたいしるしが出現するのではない。天からめでたいしるしが出現するのではないことは、これはただ貞符のみであるのだ。まだ仁を失って長く続いた者はいないし、まだめでたいしるしをたのんで命が長かった者などいなかったのだ。商の王は桑と楮によって栄え、鳴いている雉によって大きくなり、宋の君主は法星によって命が長かったが、鄭は龍によって衰え、魯は麒麟によって弱まり、白い雉は漢を亡ぼし、黄色い犀は王莽を殺した、などと言うが、どうしてそれらが符であると言えようか。唐の徳が代々施され、光り輝きよく治まって、甚だ盛んで甚だ大きく、人々を安らかにすることに限りが無いことには、これらの現象は及ばないのだ。郊廟をお祀りし、この事を雅詩で記錄し、謹んで徳を美しく輝かせることを告げるのである。帝は真実なのだろう。そこで吉祥に関する奏上を却け、貞符の秘奥を究明し、徳のまだ大きくないところを思い、仁のまだ備わっていないところを求め、それによって国家の統治を極め、人事を慎んで行うのである。その詩に言う。

    ああ、素晴らしき徳を敬う人よ。百姓は王者とする。正しい符は広大にして擁護する。仁は広大な地域を包み込み、敵を破って武器を新しくする。恩沢の潤いは竈を乾かし、悲惨な民を洗い流す。その道徳的に悪い人を亡ぼし、駆除平定させる。素晴らしいかな、その和風よ、暖かい風が吹いている。父子は和楽し、互いに安んじて喜び合う。賦税が納まって我らが糧食は厚く増えていく。刑罰は軽くて清明で、我らは全うして傷つかない。我が子孫に賜う、百代の幸福を。十聖治世を継承するのは、仁君の子に。子は父に親孝行しようと思い、災いが起これば自分に変えようと願う。唐朝を擁護し、神よそのようにあれ。雅詩を称揚し、天の大いなる福をうける。天の誠実な神意は、人間の仁の中に見るべきなのである。神は何に現れるのだろうか。仁に帰着するのである。四極の北の濮鉛、四極の南の祝栗、疆域は西に東に、ただ心を一つにする。唐の世の中を祝えば、天を後回しにしても失敗することはない。皇帝の長寿を祝おう、地と同じく長く久しいのだ。どうして僅かばかりに祝おうか、心から本当に敬愛するのだ。神と人は互いに心力を合わせ、道を互いに告げる。唐朝は億万年になり、揺らぐことなく危うきこともない。我が世代よりも長く延び、永々と助けよう。仁が増えれば崇く、どうして唐朝を思わないことがあろうか。天に向かって叫ぶ、皆がああというのだ。素晴らしいことかな、唐朝の皇霊よ、符によって変わることなんてないのだ。」

  柳宗元は召還されず、心の内に思い悩み悲しみ、行き詰まって困窮することになった過ちを後悔し、賦をつくって自らの戒めとした。以下にいう。

  「あやまちに懲りて今になって昔の事に思いをはせると、誰がわたしの心の求めるところを非としようか。しかも卑賎の位にいて世の中を憂えるのは、まことに昔の記錄のあやまちとするところである。私ははじめ古人の道を学んだ。古今では人が策謀を異にするのを不思議がった。さて古人の聡明さを考えて師とすべきだと思い、全力を尽くして聡明の士に追い抜こうと遥か遠く尋ね廻った。清誠なる私は信直である上、仁愛の友が群がり集まっている。日々に正道を施しのべて絶やさず、堯舜を迎えて仁愛の友に加えてその道を師とした。貴族たちは自分勝手に漠然としてとりとめなく広い。群民たちは正しからずして私心をいだく。凡人たちは皆並び立ち互いに交わり合う。私は一人大中のよろしきところを求めようと苦辛する。

    みずから言うことに、道には現象があるが形はない。機に臨んで変に応じ志に従うがよい。力が及ばないときは危険だし過ぎれば正しさを失う。謹んで自らの中道を守って時に応じて行え、と。万物は盛んに茂りこの道に従って安んじる。剛柔・弛張して出入にも経綸の方策がある。能者を登用し邪曲な者をおさえる、それで始めて白黒や濁清が分明となる。私はこの正道を踏んで害されることはない。

    聖賢の大いなる教えを奉じてわが心を修め、わが志に得たことを心からよろこぶ。そこで再びわが信ずるところを策書に記したが、物事が明白で迷いはないと思った。愚かな私は自分の意見に固執して行った。さて己の誠一でないだろうことを恐れる。深謀遠慮して広く図ることもなく、専ら古人の道をよく守り行った。讒妬の輩が陰謀を企てても戒めとしないで、己れのとるところをしっかり守って専念する。わが党の不善を悲しんで、仕官するも進退窮する目に遭遇した。形勢は危ぶみ疑い詐謀ばかりが行われ、天地が隔絶するような時に出逢ってしまった。されば退いて己れの身を全うしようとすると、昔の誓約にそむくであろうことを恐れる。そこで道をしっかり守って忠を尽くそうとすると、讒妬の輩が口を大きく開いて荒々しくおどすのである。進むも退くも自分は寄りどころなし。だから刑具の鼎で烹られようとも甘んじて受けよう。幸いに天子のご鑑識により赦され、郡の長官の印綬を帯びて南方に行く。さてわが罪は大なのに恩寵厚く、もっともであろう。初め永州に流され後に柳州に遷された。すでに天の明罰をおそれ、その上鬼神の幽責をおそれる。心身ともに落ち着かず夜も眠れず昼もおどろく。我が身の不安さはくじかが猛獣に逐われるのを恐れて休む時がないのに同じだ。

    広々と水流盛んな洞庭を越えて、渦巻き流れる湘水を遡る。つむじ風が突然吹いて高波をあげ、舟はくしき押さえられてぐるぐるめぐる。日は土けむりに覆われてうす暗く、青黒い雲が湧き上空に集まる。夕暮れには砕け散りいやな雨が降り出した。やかましく悲しげな猿の啼き声を聞く。衆鳥が集まって啼きさけぶ。渚を湧き出るように山容をつらね、漂うように遥かを追う、いずこに留めようか。言ってわが形魂を寄属することなし。郡山おどりあがって左右に曲がりくねる。さかまく波のくずれくだける早瀬が一処に集まる。背き離れて尺ほど進み尋ほど退く。さざ波はゆれ動きめぐり流れる。私は年の瀬に柳州にとどまり、ほだしは乱れて身にまつわる。

    わが艱難の非常なるを悲しみ、『凱風』の悲しい詩のように私もなった。我が罪は天にとどき天は私を極刑に降した。恥を忍んですみやかに死なずに生きることを選んだ。二年の間柳州に暮らしたが、それでも頭を垂れて落胆しつつもわが身を守る。はたまた身を渕に投じて命を絶ってしまおうか。誰が罪を明らかに定め禍いを塞いでくれようか。さて身を亡ぼして後来の回復が望めないのは、先聖の業績を顧みてもそれでも不可である。進もうとすると前路は空しく東西に切断して進めない。退いてかくれようとすれば、またそれもできない。孤囚となって一生を終わり、長く拘禁されて失意のままに生きる外はない。

    以前の我が志は立派だったのに、今どうしてこんな罪過にかかってしまったのか。私は俸禄をむさぼり名声を盗んで、世俗から浮き出てしまったのか。はたまた正直をもって身を顕わして、民衆に嫉まれたのか。言葉を選ばずとことん正義を貫くのは、まことに群禍を招く要因であった。

    私は長轅の車に乗って、つづら折りの高く険しい道を行く。急流に棹をこいで大江を渡り、高くおどりあがる波に遡る。幸いに死を免れて、身体を完全に保ち得た。仮にも前日の行ないに懲りた余命には、先聖賢の事業を踏んで不公平にはすまい。蛮夷の永州に死するは勿論我が分とする所である。たとえ顕栄恩寵を蒙る身になっても何の益があろうぞ。至上中正の道をもって我が則とし、まことに天命に任せることにしよう。」

  元和十年(815)、柳州刺史に遷った。当時、劉禹錫は播州刺史に任じられたが、柳宗元は、「播州は人の住むようなところではありません。私は劉禹錫が今苦しい立場に追い詰められて、その親に言うべき言葉がないのを見るに堪えないのです。もし親が行かなければ、それは母子の永縁の決別になるのです」と述べ、そこで詳細に奏上して自身が赴任する予定の柳州を劉禹錫に授けて、自らは播州に往くことを申し出た。当時、大臣もまた劉禹錫のために請願したから、そこで連州刺史に改められた。

  柳州の人は男女が子供を質草に借金をし、返済時期を過ぎて返済できなかった場合、利子と元金が同等ならば、子供を没収して奴婢としていた。柳宗元は方策を設け、ことごとく金を返して子供たちを帰らせた。特に貧しい者は、毎日の労賃を書かせて、その合計が借金と利子相当に充分であれば、その質草を帰らせるようにした。すでに奴婢の身に陥った者は、柳宗元が自身の銭を出して返済の助けとした。南方で進士となる者は、数千里を走って柳宗元に従って文章を学び、直接の講義や指をもって画き示すような直接の指導を受けて文章をつくる者は、全員が有名となった。世の人は「柳柳州」と号した。元和十四年(819)卒した。年四十七歳。

  柳宗元の若い時は無頼で、「功績をあげてやる」と言っていたが。罪とされて失脚すると、遂に振るわなかった。しかしその才能は本当に高く、名声は時代を覆った。韓愈はその文章を評して、「雄渾で深淵、かつ上品で勢いがあることは、司馬子長(司馬遷)に似ている。崔寔・蔡邕は格段優れているというほどでもない」と言った。没後、柳州の人は柳宗元を懐かしみ、人に托して柳州の堂に降ったといい、人で馬鹿にする者はたちまち死んだ。羅池を廟とし、韓愈は碑に事蹟を書いたのだという。


  程异は、字は師挙で、京兆長安の人である。郷里にあっては孝行で称えられた。明経科に及第し、鄭県の尉に補任された。役人の事務仕事に精通し、王叔文に引き立てられ、監察御史の官をもって塩鉄揚子院留後となった。王叔文が失脚すると、郴州司馬に貶された。

  李巽が塩鉄のことを領すると、程异を計算の才能があるから任用すべきであると推薦し、抜擢して任用することを願い出て、そこで侍御史を授けられ、再び揚子留後となった。しばらくして淮南等道両税使に任じられた。程异は廃れているところを復活させ、自身を励まして忠節を尽くし、旧弊を改変したり、よいところは残したりした。入京して衛尉卿・塩鉄転運副使に遷った。蔡の呉元済の討伐するにあたって、程异は江表に派遣されて財物を整え、そこで諸帥府に行って諭し、羨余を貢納させた。そのため程异が至ったところは、下々からの収奪はせず、苛斂誅求を加えず、必要な物のみを豊かにさせた。遂に御史大夫を兼任して塩鉄使となった。元和十三年(818)、工部侍郎同中書門下平章事(宰相)となり、それでも塩鉄を領した。程异は銭や穀といった徴税財務に辣腕を振るって宰相となったため、自らに人望がないことから、しばらくあえて宰相の印綬を用いて執筆しなかった。翌年、西北の軍政は治まらず、朝議の結果巡辺使を設置することとなり、憲宗は誰が任命されるか尋ねたから、そこで自ら行くことを願った。卒すると、尚書左僕射を追贈され、恭と諡された。自身は官舎にあって、財貨を貯めることはなく、世間ではその清廉さを重んじられたという。


  賛にいわく、王叔文は小人であることを自認しながらも、密かに天下の権勢を伺い、陽虎が魯宗室の宝の大弓を奪って『春秋』に盗賊と異なることがないと書かれたようなのと同じになった。柳宗元らは節を曲げて王叔文に従い、短い期間の厚遇を得たが、帝が病気で昏迷状態にあるのを貪り、明敏な太子を抑え込み、権力を私にしたのである。そのため賢者もその方向へと病んでいき、不肖の者に媚びたのだから、一度失脚すると復活することなかったのは、当然のことではないか。彼がもし悪人に従わず、自らその才能に邁進していれば、すぐれた卿や優秀な大夫となっていたのと失わずにすんだのである。何と惜しいことであろうか。

   前巻     『新唐書』    次巻
巻一百六十七 列伝第九十二 『新唐書』巻一百六十八 列伝第九十三 巻一百六十九 列伝第九十三四

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2024年03月19日 11:13
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。