「第二章 足元に広がる嘘 ③」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら
第二章 足元に広がる嘘 ③ - (2006/08/27 (日) 01:44:27) の1つ前との変更点
追加された行は緑色になります。
削除された行は赤色になります。
第二章 足元に広がる嘘 ③ 偽装砲台と弾薬庫<br>
<br>
<br>
偽装砲台と弾薬庫 要塞本54頁<br>
<br>
坂下通り人口から北へ向かうと、すぐに吹上稲荷が左手に現れた。なぜか、歩道の中央に鳥居<br>
がそびえている。参道の先に石灯寵があり、「皇紀二千六百年記念燈」と朱色の文字が刻まれて<br>
いる。坂下通りに戻り、少し歩いたところで、レンガづくりの建物が目に入った。 『日本築城史』<br>
のなかから抜け出してきたような建築だった。左上がその写真である。『日本築城史』 には次の<br>
ようにある。<br>
<br>
4 弾薬庫<br>
<br>
火砲の弾薬を備蓄するには、要塞には火薬本庫・火薬支庫・弾薬本庫が必要である。明治時<br>
代これらの建物は、四周の外壁を煉瓦積みとして火災に備え、内壁は木組板張り、屋根は土居<br>
瓦茸で、屋上に避雷針を立て、床は木組、揚床である。<br>
<br>
この建物が建っている場所は、以前は歩道の中央だっただろう。その後、他の家並みがとなり<br>
まで押し寄せてきたように見える。近所の方に話をうかがうと、この建物はずっと昔からここに<br>
あるが、何の建物か、持ち主は誰か、何もわからないそうである。少し先の交番でも何もわから<br>
ず、ゼンリンの住宅地図でも真っ白だった。いまどきの東京とは思えないような話である。<br>
<br>
──これが実際に明治期の弾薬庫だったとすれば、五〇〇メートル離れた所に砲台があったの<br>
ではないか<br>
<br>
そんなことを考えながら左右を見渡したものの、『日本築城史』によれば、砲台には周到な偽<br>
装が施されていたため、付近の住民に砲台が見つけられたことは一度もなかったとあった。明治<br>
中期に臨時砲台建築部がつくられて以来、一度もである。戦前ならともかく、いまとなっては跡<br>
形も残っていないだろう。当時、砲台はどのような偽装を施されていたのか、『日本築城史』に<br>
は次のようにある。<br>
<br>
<br>
植樹は目標を覆い、不規則な陰影をつくり、地下構造物の入口を遮蔽し、ずり(価値のな<br>
い岩石や鉱物・土砂など)や捨土を覆い、交通路に陰影を落とし、非常に有効で、永久築城<br>
の遮蔽偽装には、先ずもって実施すべきものである。<br>
このような植樹の後、大砲の砲身は黒松や赤松などの常緑樹に隠され、その上に偽装家屋を建<br>
てたこともあったそうである。大砲の砲身の上にどんな家が建っていたのか知らないが、砲身を<br>
回転させると、その家も一緒に回転したのだという。陸軍がそんなワケのわからないことをする<br>
から、この通りにはワケのわからない都市伝説がたくさんあるのだと思う。<br>
<br>
第二章 足元に広がる嘘 ③ 偽装砲台と弾薬庫<br>
<br>
<br>
偽装砲台と弾薬庫 要塞本54頁<br>
<br>
坂下通り入口から北へ向かうと、すぐに吹上稲荷が左手に現れた。なぜか、歩道の中央に鳥居<br>
がそびえている。参道の先に石灯寵があり、「皇紀二千六百年記念燈」と朱色の文字が刻まれて<br>
いる。坂下通りに戻り、少し歩いたところで、レンガづくりの建物が目に入った。 『日本築城史』<br>
のなかから抜け出してきたような建築だった。左上がその写真である。『日本築城史』 には次の<br>
ようにある。<br>
<br>
4 弾薬庫<br>
<br>
火砲の弾薬を備蓄するには、要塞には火薬本庫・火薬支庫・弾薬本庫が必要である。明治時<br>
代これらの建物は、四周の外壁を煉瓦積みとして火災に備え、内壁は木組板張り、屋根は土居<br>
瓦茸で、屋上に避雷針を立て、床は木組、揚床である。<br>
<br>
<img src=
"http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&act=open&pageid=42&file=%E6%96%B0%E8%AA%AC%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E8%A6%81%E5%A1%9E%E5%BC%BE%E8%96%AC%E5%BA%AB%E9%A2%A8%E5%91%B3.JPG">
<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
この建物が建っている場所は、以前は歩道の中央だっただろう。その後、他の家並みがとなり<br>
まで押し寄せてきたように見える。近所の方に話をうかがうと、この建物はずっと昔からここに<br>
あるが、何の建物か、持ち主は誰か、何もわからないそうである。少し先の交番でも何もわから<br>
ず、ゼンリンの住宅地図でも真っ白だった。いまどきの東京とは思えないような話である。<br>
<br>
──これが実際に明治期の弾薬庫だったとすれば、五〇〇メートル離れた所に砲台があったの<br>
ではないか<br>
<br>
そんなことを考えながら左右を見渡したものの、『日本築城史』によれば、砲台には周到な偽<br>
装が施されていたため、付近の住民に砲台が見つけられたことは一度もなかったとあった。明治<br>
中期に臨時砲台建築部がつくられて以来、一度もである。戦前ならともかく、いまとなっては跡<br>
形も残っていないだろう。当時、砲台はどのような偽装を施されていたのか、『日本築城史』に<br>
は次のようにある。<br>
<br>
<br>
植樹は目標を覆い、不規則な陰影をつくり、地下構造物の入口を遮蔽し、ずり(価値のな<br>
い岩石や鉱物・土砂など)や捨土を覆い、交通路に陰影を落とし、非常に有効で、永久築城<br>
の遮蔽偽装には、先ずもって実施すべきものである。<br>
このような植樹の後、大砲の砲身は黒松や赤松などの常緑樹に隠され、その上に偽装家屋を建<br>
てたこともあったそうである。大砲の砲身の上にどんな家が建っていたのか知らないが、砲身を<br>
回転させると、その家も一緒に回転したのだという。陸軍がそんなワケのわからないことをする<br>
から、この通りにはワケのわからない都市伝説がたくさんあるのだと思う。<br>
<br>
表示オプション
横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示: