「大東京の地下400年 九層倍の嘘 潰爛編」の編集履歴(バックアップ)一覧に戻る

大東京の地下400年 九層倍の嘘 潰爛編 - (2009/02/01 (日) 00:28:33) の編集履歴(バックアップ)


大東京の地下400年 九層倍の嘘 潰爛編

  以下は繰り返しになりますが、盗用と改竄が、歪曲、捏造が判り易いので挙げておきます。なお、本項でも、秋庭さん被盗用元ポイント部分(盗用部分の対比等)はで示す。

27」水路変更前の江戸の川床を現在の地下鉄が走るのは、なぜ?

 1614(慶長19)年の「天下普請」は9月の大阪冬の陣まで行なわれ、豊臣秀吉子飼い
の武将や秀吉に恩義のある大名を駆りだして、幕府に反抗する気力、財力を奪った。
この
年に行なわれたのが「江戸の水路の変更」だった。
埋め立てられた日比谷入江に沿って、西の丸下(今の皇居外苑)を囲むように外濠がつく
られ、石垣が積み上げられた日本橋川と汐留川はつながれ外濠にリフォームされた。
今の飯田橋の東小石川橋から昌平橋にかけて、本郷台地を2つに割るように新たな
水路
今の神田川がつくられ、近くを流れる平川や小石川、当時の江戸湊に流れこんでい
石神井川は、隅田川につながった。いずれも最初は小さい水路を掘り、年数をかけて
徐々に幅を広げ、濠なら江戸城側に石を積み重ね、川なら護岸工事をしてつくられた。

盗用かつ改竄の好例部分である。

天下普請の側面
図18-③の工事のうち、慶長十六年の分は西丸築城工事(現在の皇居)が中心で、御手伝大名
は主に東北日本の大名たちが動員されている。
慶長十九年(一六一四)の工事は、九月の大坂冬の陣の直前まで行なわれた。この工事は主に
運河開削と石垣工事で、御手伝大名の大部分は西国筋の大名に割り当てられている。その多く
は「太閤子飼い」や「豊臣恩顧」の猛将・勇将たちだったのだが、この工事で彼等の財力は底
をついていて、大坂冬の陣で反徳川勢力にはなり得ない状況にあった。
つまり天下普請は非常
に戦略的な効果をもっていたのである。
この時期の工事の特徴は、いったん埋め立てられた日比谷入江に西丸下(皇居外苑)を囲む
形に
、ふたたび濠が掘られ現在もみられる石垣が築かれた。そして日本橋川と汐留川外濠化
されると同時に、これらの濠(運河)で結ばれた。また江戸前島の東岸には櫛形の埠頭もつくら
れている。
そして江戸湊に流れ込んでいた石神井川は、放水路神田川によって直接隅田川に放流され
始めている。
図18・③は豊臣を倒して徳川の天下が確立してから五年目の、はじめて本格的な江戸城普請を
している状態をしめす。もっともこの工事の前に、初期の日光東照宮造営という大規模な天下
普請の時期をはさんでいる。
江戸の水路について見ると、平川・小石川の水を石神井川と同じく隅田川に放流するため、
現在の飯田橋東方の小石川橋から、本郷台地を開削して昌平橋にいたる放水路をつくっている。
これが神田川であり別名御茶ノ水の掘割りと呼ばれる。この水路で切りはなされた本郷台地
南端が駿河台である。このとき平川は③の点線のように小石川橋の南から九段下の堀留まで埋
め立てられて、堀留から下流の日本橋川は、外濠と運河を兼ねた水路に変った。

(以下略)


外濠の開削
日比谷入江を埋め立てたかわりに図18-②にみるように江戸前島の中央部に南北に通じる外濠
を掘った。現在の地名でいえば北から道三堀と日本橋川の合流点の呉服橋-〝鍛冶橋人〟が出土
した鍛冶橋-数寄屋橋-山下橋-幸橋を結ぷ線で、幸橋の南で汐留川に合流するものである(現
在はすべて埋め立てられて、鍛冶橋以南には高速道路がかぶさっている)。
これは結果として外濠になったものだが、開削当時は築城資材運搬用の運河の役目を兼ねた
ものであって、この外濠兼用運河の機能は、太平洋戦争後の昭和二十三年六月まで城辺河岸の
名で不十分ながら残されていたものである。
外濠のつくられ方は、はじめに小規模な水路を掘り徐々にそれを拡げて行き江戸城側に
石垣を積んでいった
のだが、その石垣もかなりの年数をへだてて、二回ないし三回にわたって
積み重ねていったものだった。それは石垣の石の切り方や築き方に、御手伝大名たちの技術の
個性が歴然として残っていたことでもわかる。
外濠に限らず小名木川でも、これからのべる関東地方の水路工事の場合でも、最初の形その
ままという例は少なく、水路も護岸も拡幅、績み重ねがくり返し行なわれていた点に、この時
代の工事の特徴がみられる。

   付け方が、少し拙いかもしれないが、単語と文意、文脈を諮って赤字を付してみた。ご覧の通り、単に盗用するだけでなく、自分勝手に文意や内容を変えているため、元の鈴木氏の解釈と大幅に異なる内容になっている。秋庭さんは鈴木氏の文を盗用しているだけで、鈴木氏が元にした資料すら当たっていない上に、鈴木氏の文章も図版も理解出来ないままに、改竄して論を進めている事がよく判ると思う。

 
 このような江戸の河川の変遷を知る手がかりとなるのは、今の地下鉄だといわれる。
『江戸の都市計画』という著書で、鈴木理生氏は、江戸の川と今の地下鉄のルートを見比
べて興味深いデータを紹介している。たとえば、銀座線の上野から神田までは、水路が変
えられる前の石神井川左岸の土手の地下であり、神田から新橋までは当時の江戸前島の中
央部。赤坂見附から渋谷までは台地の下なので、銀座線で川の下を走るのは、新橋から赤
坂見附まで。外濠にリフォームされた汐留川の下だ。
丸ノ内線は、池袋から御茶ノ水までは本郷台地の下であり、御茶ノ水から銀座までは江
戸前島の地下で、霞ヶ関から新宿方向は再び地盤の堅い台地の下を走っている。軟弱なの
は銀座から霞ヶ関までの日比谷入江を埋め立てた約700メートルだけだ。
ところが、その後の地下鉄は、江戸の川の下を走ることが多くなる。千代田線の根津-
湯島ほ当時の石神井川のど真ん中だし、大手町から日比谷までは江戸前島の海岸線に沿っ
て走っている。日比谷線の入谷から秋葉原は谷山筋にそって走っているそうだ。
都営三田線の千石から大手町は当時の小石川の真下だ。当時の平川を走るのが有楽町線
の東池袋から市ヶ谷までと東西線の飯田橋から大手町まで。都営新宿線の新宿三丁目から
市ヶ谷までは長延寺川の谷底を走っている。

改竄および歪曲の好例部分である。

鈴木理生氏の「都市のジャーナリズム 江戸の都市計画」(三省堂1988年刊)「Ⅶ江戸の都市計画 東京の地下鉄」全文を上げます。


東京の地下鉄

これまでたびたびかかげた、東京の原形をしめす地形図をみるとわかるように、江戸城から
北側の自然河川はいずれもほぽ北から南に向かって流れて海に注いでいた。それを改善したの
が第一次の平川のつけかえであり、つぎが石神井川を昌平橋から直角に東に放流させる神田川
の開削だった。そして最後が御茶ノ水の掘割りであって、この掘割りは同時に江戸城の外濠の
役目も果したのである。
このような原地形と河流の変遷を、視覚的に確認するもっとも良い教材は、営団地下鉄が毎
年だしている案内地図と、同じ図柄の美しい地図のカレンダーがある。
それでわかることは、最古の銀座線の上野-神田間は旧石神井川左岸の自然堤防の地盤を走
り、神田-新橋間は地盤の良い江戸前島の中央部を走る。そして新橋-赤坂見附間は汐留川の
河流(大部分が「溜池」になっていた)を走って、台地内の地下に入る。
丸ノ内線も御茶ノ水-銀座間は、地盤のよい江戸前島を走り、日比谷公園で約七百メートル
の日比谷入江を〝横切って〟霞が関の台地に入る。
ところが掘削技術が向上した時期につくられた地下鉄の路線の多くは、すっかり姿を消した
東京の川に沿って走るようになる。
千代田線の根津-湯島間は旧石神井川の流路そのものであり、大手町-日比谷間は江戸前島
の海岸線にそって走る。
日比谷線の入谷-秋葉原間は、昭和通りの下(地質学では道路の昭和通りを「昭和通り谷」と
呼ぶ)の谷筋にそって走り、岩本町-茅場町間は旧石神井川の河流に平行して走る。
都営三田線の千石-大手町間は、まったく小石川の下を走るもので、河床を利用した地下鉄
の典型的なものである。同じく有楽町線の東池袋-飯田橋間と、飯田橋-市ヶ谷間、東西線の
飯田橋-大手町間も「東京の川」平川とその支流の谷底を走る路線である。また都営新宿線の
新宿三丁目-市ヶ谷間もかつての長延寺川の谷底を走るものであることを、つけ加えなければ
ならない。
これに対して都営浅草線の浅草-人形町間は隅田川右岸の自然堤防を利用したもので、地盤
の良い部分をうまく選んで建設した例として挙げられる。
千代田線・都営新宿線・都営三田線でとりかこまれた本郷台地は、みごとにその等高線を浮
かびあがらせている。
東京を流れた川の原形が、地下鉄路線のあり方で再現されるのは、中山道や甲州街道のよう
な古い道路は、台地の尾根を通るが、近世都市江戸は、アヅミ族のように谷間に沿って内陸部
に拡大したため、この時期の主な道路は中小河川に沿ってつけられたことによる。地下鉄は建
設費節約のためその路線の大部分が公道の下を利用するが、それがかつての中小河川のあり方
を再現していることがおもしろい。

 

 

 

 このように、地下鉄が江戸時代の川の下を走っているのには理由がある。
玉川上水のつくられ方で紹介したように、江戸の初期には、川をせきとめて川幅いっぱ
いの木の枠を組み、土砂の壁で三方を囲んで地下道をつくるということが行なわれていた。
そこに水を流せば上水になり、水を流さなければ地下道になった。
上水や地下道の上は盛り土をして道路として使われた。上水のルートも地下道のあるこ
とも公表されなかったから、道路の下に地下道があるなんて誰にもわからなかった。この
道路が時を経て「公道」になり、公道の地下に地下鉄が走るようになったのだ。
地主がいない公道だから建設費も少なくすむ、それが地下鉄が公道の地下を走る理由な
のか、地下道がすでにあるからなのか、その両方なのかわからないが、江戸の川の下の地
下道は、誰かの手で地下鉄が走れるほどに大きく広げられた。

捏造の好例部分である。


勿論捏造であるから本来は元となる文章は無い。しかし、この部分、

道路が時を経て「公道」になり、公道の地下に地下鉄が走るようになったのだ。
地主がいない公道だから建設費も少なくすむ、それが地下鉄が公道の地下を走る理由な
のか、地下道がすでにあるからなのか、その両方なのかわからないが、江戸の川の下の地
下道は、誰かの手で地下鉄が走れるほどに大きく広げられた。

は鈴木氏の上記、

 東京を流れた川の原形が、地下鉄路線のあり方で再現されるのは、中山道や甲州街道のよう
な古い道路は、台地の尾根を通るが、近世都市江戸は、アヅミ族のように谷間に沿って内陸部
に拡大したため、この時期の主な道路は中小河川に沿ってつけられたことによる。地下鉄は建
設費節約のためその路線の大部分が公道の下を利用するが、それがかつての中小河川のあり方
を再現していることがおもしろい。

を捻じ曲げ、蔑ろにして、すなわち秋庭さんが他者の真っ当な結論を盗用し、しかもその真っ当な元の文を歪曲・改竄して自説をでっち上げていると言う事が良く判るところだと思う。


28」御茶の水の砲台地下と江戸城西の丸地下を結ぶ「抜け穴」の謎

 今の御茶の水には砲台があったといわれている。幕末以降につくられた砲台はほとんど
が品川のような海に面した場所や、お台場のような海のなかの埋立地にある。
御茶の水の砲台は、それよりはるか昔、江戸時代の初め、神田川が駿河台に掘られたと
きに設けられた。

 

 今、神田小川町の交差点からJR御茶ノ水駅に向かう道は急な上り坂だ。神田川にかか
る聖橋は山の頂上の感じで、神田川は深い谷の底を流れているように見える。丸ノ内線の
電車が川の土手から出てくるのを見ると、その深さに想像がつく。
橋がなければ本郷方向からとても渡れそうにない場所だ。ここに砲台があったと聞くと、
誰もが納得する地形だ。本郷方向からの敵に向かって大砲を撃てば見晴らしがいいから砲
弾は敵に命中するに違いない。

 


聖橋のすぐそばには現在、大きなビルが建っているが、砲台は、今丸ノ内線と千代田線
が地下で交差している地点にあったらしい。しかし、なぜか大砲は外側、本郷方向に向い
ておらず、内側を向いていたという。内に入りこんだ敵を撃つ砲台だったようだ。

 

 そのことを証明する、おもしろい小話が残されている。この砲台建設を担当した伊達政
宗が2代将軍・秀忠と将棋を指していたときのこと。次の一手を考えながら政宗がぼつり
とつぶやいた。「本郷から攻めようか?」と。
この言葉に秀忠は次の一手が指せなくなった。それは、軍事機密であり、大名たちには
知られてはいけないことだった。

 


地下に目を向けると、この砲台と西の丸を直線で結ぶラインは、今千代田線が走ってい
る小川町から御茶ノ水を結ぶルートに合致するが、ここには江戸城と砲台を結ぶ地下道が
あったはずだ。ふだんは大砲の弾薬を運ぶ道として使われていて、何か事が起きたときは、
将軍を江戸城の外に脱出させる「抜け穴」のひとつだったに違いない。

 


29」大名屋敷や官庁が霞ヶ関に集まった最大の理由は「地下」にある!


「天下普請」で江戸という都市がつくられていたころ、霞ヶ関は「桜田」と呼ばれていた。
桜田門の「桜田」だ。当時の桜田は、日比谷入江を埋め立てたばかりで、誰の所有地でも
なかった。
ここに最初に目をつけたのは、「天下普請」に駆り出された大名たちであった。彼らは
自らが埋め立てた、この土地に屋敷をつくって江戸屋敷としたのだ。参勤交代が制度化さ
れ、全国の大名が江戸屋敷を持つようになると、埋立地はさらに広がり、今の新橋までが
埋め立てられて大名屋敷になった、という。

 


そんな外様大名たちが薩摩、長州を中心に結束して、徳川幕府を倒して立ち上げたのが
明治政府だ。明治政府は、大名屋敷をすべて接収して官庁のほか兵営や練兵場にも転用し
た、とされている。


しかし、軍事施設がしだいに都心から郊外に移され、永田町に国会議事堂が建つと、国
の省庁のほとんどがここに集められることになった。
明治以降の政府が霞ヶ関に官庁を集めた最も大きな理由は地下にある、と私は考えてい
る。南北線の遺跡調査団が江戸の武家屋敷の周辺から深くて幅広い溝を見つけ、武家屋敷
に「抜け穴」と呼ばれた地下道がつくられていたことはPART1で紹介した。

 

 霞ヶ関には、江戸時代から地上に出ることなく地下道を往来することができる地下網が
あった。そのうえ軟弱な地盤は地下道を掘るには人手もカネもかからない。明治以降に数
多くの地下道が掘られたはずだ。今、地下鉄がここに集中している理由も同じだ。

 

30」ペリー来航で東京湾につくられた砲台と砲台を結ぶ地下道の謎


徳川幕府が生まれて約250年を経た日本に大きな衝撃を与えたのが「ペリー来航」だ
1853年6月3日、アメリカの東インド艦隊司令長官、マシュー・カルプレイス・ペリ
ー率いる4艘の黒船が浦賀沖に現われた。
黒煙を上げながら近づいてきた戦艦ミシシッピー号が1700トン、戦艦サスケハナ号
が3500トン、黒船の大きさもさることながら、大砲100門を装備した艦隊は当時の
幕府を震え上がらせた。

 米国wikipediaによりますと、サスケハナ2450屯、ミシシッピー3220屯。実はこれも怪しい、容積はサスケハナの方が若干大きい、しかし秋庭さんが書く倍ほどの差では無い。艦級から言うとどちらも蒸気外輪式フリゲート。秋庭さんのネタ元は「品川区のあゆみ」辺りかな?要するにまた受け売りなんですな。

 ペリーは一度帰国して、翌1854年1月に戦艦7艘、大砲128門を搭載した艦隊を
率いて再び日本にやってくるが、その間のたった半年で幕府はそれに備えなければならな
かった。
しかし、当時の江戸では大砲に使う金属の調達さえままならない状況に加えて新たに砲
台を建設する必要があった。

 

 品川に砲台をつくるため岩石類は相模の国(今の神奈川県)と伊豆(今の静岡県)から舟で
運ばれ、土砂は近くの御殿山を切り崩して運ばれた。
そのため強制的に家が取り払われて道になり、東海道は土運び以外の人や荷車は昼間通
行禁止となり、目黒川の水路も変更され、昼夜兼行の突貫工事が行なわれた、という。

この部分は、「帝都東京・隠された地下網の秘密[2]」では「品川区のあゆみ」よりと引用形式になっているんだけど、いつから秋庭さんオリジナルになったんでしょうか?

 しかし、ペリーが再来日したとき、砲台は完成しておらず、品川砲台と7つのお台場に
据えられた大砲は32門、砲弾は2発しかなかった。
選りすぐりの藩士を大砲にはりつかせてペリーを迎えたが、大砲を撃った藩士はひとり
もいなかった。

 藩士って何?幕府が造った砲台でなんで藩士?江戸藩士、徳川藩士?居ねぇよそんなものぁ。旗本、御家人皆逃げちまったのかい?外様や親藩、御三家にすら、そんな砲台預けんでしょ。いつ筒先がお城を向くかわかりゃしねぇ。ってのが秋庭さんのこの章の主張だったんじゃないの?

 結局、大砲を使わずに幕府は開国を決定した。その翌月に完成した品川砲台と3つのお
台場の建設費は76万3870両、弾薬その他の費用を加えると100万両近くといわれて
いる。
まさに、当時の徳川幕府は全財産をはたいて江戸を守る砲台をつくったのだ。
そのせいではないが、それから10年ほどで幕府はぶっ潰れて明治政府に政権を譲り渡す
ことになる。

 はい、そのせいでは有りません、トータルでの経済政策、外交政策の失敗が幕府瓦解の原因です。しかし無意味な印象操作ですな?

しかし、1945年、アメリカ軍に戦艦による攻撃を避けさせた東京湾の巨
大な砲台の基礎は、90年ほども前にすでにつくられていたのだ。

お台場は東京湾要塞とは違います。「1945年、アメリカ軍に戦艦による攻撃を避けさせた東京湾の巨大な砲台」なる戯言に関しては、こちらを御覧ください。秋庭さん浄法寺大佐怒ってるよ、盗用してかつ歪曲して、嘘ばっか書いてちゃ。


ここで忘れてはならないのは、砲台と砲台、砲台と弾薬庫をつなぐ地下道だ。砲台の建
設と同時につくられたはずで、明治以降の地下要塞建設とつながっていくことになる。

 


31」フランスの築城理論を導入して、江戸の地下を近代化!

 砲弾の射程距離がせいぜい数百メートルだった幕末から明治初期にかけては、海上の戦
艦を砲撃しようとすれば、海岸の山の斜面に砲台をつくればよかった。
しかし、射程距離が5キロ、10キロ、20キロと延びると、山の裏側に砲台をつくること
が可能になり、そのはうが戦艦からの攻撃をかわせることから、意外な場所に砲台がつく
られるようになる。築城理論は大砲の射程距離の延長とともに変化していく。
1871(明治4)年、明治政府は上原勇作陸軍工兵大尉をフランス、ベルギーに派遣し、
フランスの新しい築城理論を学ばせている。上原大尉は帰国後、東京湾に猿島、小原台、
花立の3つの砲台を設計し、留学の成果を帝都防衛に役立てている。そして、お台場には
156門の大砲が据えられた。
明治政府が導入したフランスの築城理論は、17世紀の後半にポーバンという将軍が確立
したものだ。江戸城建設のモデルとなつたオランダの城と違って、「水の壁」でなく「土
の壁」 で囲まれた城がつくられた。
「土の壁」といっても、地面に垂直に壁を立てるのではなく、地面の一方を高さ数メート
ルはど持ち上げる。いわば「地面の壁」で城を囲むのだ。壁の裏側には深い塹壕を掘って、
そこに半地下道をつくり、人はここを移動する。
要塞全体の形はバリエーションがあるが、中心にはオランダの城と同じような五角形が
多用されていたり、正多角形の頂点の位置に砲台を設け、敵に十字砲火を浴びせるという
考え方には変わりがない。この築城理論は、大規模な都市要塞ばかりでなく小さな山間部
の要塞にも及んでおり、その両方を混合したものにも利用できるのがメリットだ。
たとえば、外周に大規模な地下砲台を配置しておいて、それより小さい内周に地下弾薬
庫をつくり、敵が攻めてきたときに弾薬を砲台に運ぶというシステムにすれば、各砲台に
弾薬を分散配置しているよりも弾薬輸送の時間が短縮できるのだ。
明治政府が導入した、フランスの築城理論を発展させた先に、まえがきに紹介した中村
順平の「地下東京計画」がある。オランダの築城術で生まれた「江戸の地下道」は、フラ
ンスの築城理論で「東京の地下道」へと近代化していくことになる。


32」「市区改正」の裏側で、地下要塞計画が進められた!

 1889(明治22)年、宮城(今の皇居)に新宮殿が落成した。この年、東京では「市区改
正」と呼ばれる都市計画がスタートしている。それは江戸をヨーロッパのロンドンやパリ
のような近代都市・東京に変えようという計画であった。
この事業には陸・海軍はもとより、各省庁の代表、政治家や東京府の知事、渋沢栄一な
どの財界人も参加して、初年度から東京府の年間予算を超える膨大を予算が組まれた。そ
の財源には国家からの多額の補助金と東京府民にかけられた新しい税金が投入された。
しかし、5年経っても6年経っても、10年経っても東京は、何ひとつ変わらなかった。東
京都都市整備局が発表している『東京の都市計画の変遷』には、「市区改正」について次
のように書かれている。
東京の都市計画は、明治21年に公布された「市区改正条例」と、それに基づき明治22年
に告示された「市区改正設計」に始まる。
この市区改正設計による計画は、区部(旧15区の範周)の区域を対象としたもので、その
内容は道路、河川、橋梁、鉄道、公野市場、火葬場、墓地からなり、明治23年に上水道
の計画が追加された。
財源難もあって、市区改正事業が大幅に遅れるなかで、最低限の項目を選ぶ形で明治36
年に「市区改正新設計」が告示された。
っまり、「市区改正」は財源難で大幅に計画の実施が遅れ、最初の計画の告示から15年
後に計画が見直された、というのが東京都の公式見解になっている。
日本建築学会編『近代日本建築学発達史』 でも「10年経っても1本の道路も敷かなかっ
た」とされている。
しかし、当時の資料を読むと、「財源難」とは裏腹の 「湯水のごとく予算が使われた」
形跡があった。本当に10年以上も何も行なわれなかったのだろうか? 大きな疑問を抱い
た私は、資料を探し歩いた。
ここに日本建築学会が、戦後に公開した「市区改正」 の道路計画第二案がある。ごく普
通の道路計画にしか見えないが、この地図に「1等1類」 の道路として海のなかを走る道
路が描かれている。
それは当時の佃島砲台と越中島砲台を結んでいる。砲台と砲台を地下道でつなぐのはフ
ランスの築城理論にあり、海底の下に道路をつくるということは地下に道路をつくること
を意味している。そして、今、都営大江戸線がここを走っている。
ただ、地下道建設には大きな問題がある。当時、イギリスで開発されたばかりのシール
ド機を使わなければ、それはできない計画なのだ。これだけでも多額の予算が必要になる。
まして江戸の地下網を近代化するとなれば、地上の都市計画は吹き飛んでしまう。
もしかして、明治政府は、「市区改正」という大きなアドバルーンで国民の目をくらま
して、その裏側で秘かに地下の要塞計画を実施していたのではないだろうか? 計画から
15年も経って計画を見直し、最低限必要な事業だけ実施しても、私はだまされない。


33」東京の地下は要塞地帯法と軍機保護法で国民から隠された!

1887(明治20)年に、初めて東京の精密な地図『東京五千分の一』が完成している
その翌年には、各省庁にあった地図室が廃止され、すべての地図は陸軍の管轄下に置かれ
ることになり、その次の年に「市区改正設計」が告示された。
東京の地上と地下の情報を手中にした陸軍が、それを利用しない理由は何もない。「帝
都防衛」を担う陸軍は、フランスの築城理論に基づいて砲台を建設し、砲台と砲台、弾薬
庫をつなぐ地下道網の整備という大きな責務を担っていたはずだ。
完成した精密な地図に地下要塞計画図を描き、「市区改正」事業の裏側で、厖大な予算
を湯水のごとく使って陸軍は、地下要塞建設を進めていたに違いない。
しかし、軍事機密を公にすることはできないから、1899(明治32)年、明治政府は要
塞地帯法と軍機保護法を同時に施行して国民に目隠しをしたのだ。束京の地下を見ている
と、そんな歴史の裏側が透けて見える。
当時の文部省があった場所に今は東西線竹橋駅があり、駅のあるビルはなぜか地下7階
まである。海軍省があった場所には今、日比谷線霞ヶ関駅があり、霞ヶ関には地下鉄が3
路線も走っている。大蔵省と内務省のあった大手町には今、地下鉄の路線が5路線も集中
している。いずれもそうしなければならない合理的な根拠はない。
考えられるのは、かつてここに地下拠点があったから、という理由だけだ。官庁の地下
なら「軍事機密」の地下網建設工事をしていても、国民の目にも耳にも入ることはない。
陸軍による地下要塞建設は、官庁の地下から始まったと、私は考えている。


34」明治以降の要塞建設は、地下に砲台や地下道をつくった!

かつて陸軍築城本部の要塞建設を監督する立場にあつた浄法寺朝美氏(元陸軍大佐)は、
著書『日本築城史』のなかで、明治以降、陸軍が行なつた要塞建設について次のように書
いている。
「近代築城は主建築物は地下とし、鉄筋コンクリートづくりだ。砲座は、露天のものは偽
装迷彩し、砲塔砲台は厚い鋼のアーマープレートで覆われ、隠顕砲台といって、平時は穿
井に隠れ、射撃時地面上に現れ、射撃が終われば、再び穿井に隠れるというものもあった。
弾薬庫、観測所、電灯所(探照灯の発電所、掩灯所、照明座などをまとめて電灯所という)も、
地下鉄筋コンクリート造りで、敵眼から発見されないような掩蔽法が溝ぜられ、術工物は
極力小型として分散配置し、砲爆撃による被害の局限を図った。主要構築物は、砲撃弾の
直撃に耐える耐弾構造物だ」
浄法寺氏は、江戸時代の城づくりと区別して明治以降の要塞建設を「近代築城」と呼ん
でいる。「近代築城」は、より低い位置につくるのがポイントだ。砲台は主に地下につく
られるようになり、弾薬庫も地下につくられた。敵の砲撃や爆弾投下による被害を最小限
にするため、砲台も弾薬庫も1カ所に集中させず分散配置された、という。
砲台や弾薬庫が置かれた場所は地下道で結ばれ、その地下道は通常1キロ前後、長いと
ころでは2キロを超えた。そして地下砲台の周囲8キロは1899(明治32)年7月14日か
ら「要塞地帯法」が適用された。
同法によって要塞の防備状況は国の最高機密とされ、公表されなくなつた。要塞内での
測量、撮影、地表の高低を変える土木工事、土地利用の変更、道路や鉄道の建設など、要
塞内のあらゆることに陸軍大臣や要塞司令官の許可が必要とされた。
東京の市街地だけでなく、東京湾全体がすっぽり「要塞地帯法」の対象になって。東京
の地下は陸軍が管理するところになり、国民の目から隠されることになったのだ。

 

記事メニュー
目安箱バナー