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序章?前相撲にも成れぬ 論外コード - (2012/02/13 (月) 11:06:02) の編集履歴(バックアップ)
序章?前相撲にも成れぬ 論外コード
序章? 序の口どころか、番付にも上がれぬ前相撲、それにも上がれぬ新弟子検査落ちの様なお話。
森鷗外の「帝都地図」
序章「鷗外コード」
森鷗外が作った地図の謎
文豪・森鷗外は一九〇九(明治四十二)年、左のような地図を発表している。タイトルは「東
京方眼図」、左上に「森林太郎立案」とある。林太郎は鷗外の本名である。
だが、鷗外が地図を作っていたということは、あまり知られていないと思う。また、鷗外の作
品だけに、すでに多くの人に研究され、評価も解釈も確定しているかというと、そんなこともな
いようだ。左の地図には多くの謎があるにもかかわらず、いまもその謎はほとんど解明されてい
ないのである。
まず、「森林太郎立案」とあるものの、地図を緯度、経度の方眼で表すという手法は、江戸時
代の伊能忠敬のころから用いられていたもので、とくに鷗外が立案したとは考えられないのであ
る。それでは、このとき鷗外は何を立案したのだろうか。
また、この地図は北が上、つまり方位は正しく描かれているにもかかわらず、右下をご覧いた
だきたい、方位マークのようなものが書かれているが、そのマークは大きく左に傾いているので
ある。
文字や記号の謎については、これから順次、紹介していくが、この地図では上野公園に「上」
の字がなく、「野公園」とある。馬場先門には「門」の字がなく、「馬場先」である。「い六」の
方眼には「新橋」という字が上下逆さに善かれていて、しかも、そこは「新橋」ではないのである。
さらに、白山神社や日枝神社には赤い鳥居のマークがあるが、根津神社や東照宮には鳥居がな
い。この地図には赤丸や赤い三角、赤い×や旗のようなマークまであるが、それは地図記号には
存在しないもので、しかもどこにも説明がないのである。
(森鷗外の「帝都地図」 4頁)
「左のような地図」と5ページ目に挙っているのがこれ。
で、何か気になるこの白線、
前項で挙げた、坂崎氏の「一葉からはじめる…」附録の「東京方眼図」全体を愚生が写真で撮ったものを見ると、
矢印部分折り目の位置が、白線と一致しちゃいました(笑
どういう事かは言うまでもありませんね。
繰り返し言います。
坂崎氏の「一葉からはじめる…」(2004年刊)、秋庭さんの「森鷗外の…」(2011年刊)です。
だが、鷗外が地図を作っていたということは、あまり知られていないと思う。また、鷗外の作
品だけに、すでに多くの人に研究され、評価も解釈も確定しているかというと、そんなこともな
いようだ。
鷗外全集とかにこのことは載ってますし、秋庭さんも書いていますが、主人公が東京方眼図を使う鷗外の「青年」の話は有名ですね。
すでに多くの人に研究され、評価も解釈も確定しているかというと、そんなこともな
いようだ。
そりゃ秋庭さんの様なけったいな解釈をする人は他におりませんが、森林太郎立案と言うことの「立案」については評価も解釈も定まってますけれど。
文字や記号の謎については、これから順次、紹介していくが、この地図では上野公園に「上」
の字がなく、「野公園」とある。馬場先門には「門」の字がなく、「馬場先」である。「い六」の
方眼には「新橋」という字が上下逆さに善かれていて、しかも、そこは「新橋」ではないのである。
さらに、白山神社や日枝神社には赤い鳥居のマークがあるが、根津神社や東照宮には鳥居がな
い。
「上野公園」の「上」の字は描き漏らしちゃったんだと思われます。「馬場先門」ですが、この地図のできる4年前、明治38年に撤去されていますので、「馬場先」で正しいかもしれませんね。「い」の「六」の新橋については、後の項で秋庭さんが複写した図が出てきますのでその時にでもふれたいと思います。赤い鳥居のマークとかは、神社には社格というものや、由来が有りますので「暗号」だのへったくれだのでは無く、明治42年当時の状況で判断する必要があるんじゃないでしょうか?「東京10社」に含まれていても、官幣社でないからとか、根津と東照宮の本来の祭神は権現だったりとか、場所的にランドマークにならないからと言うような、もっと単純なことが理由かもしれませんし。
まぁ、6~7頁ここからが佳境というか、病膏肓と言うか(笑
地図のルールから外れた地図
左は地図の中心、旧江戸城周辺である。矢印①の先に「天神ハシ」とある。そこから「平河
橋」へと細い矢印が延びている。この矢印は鴎外が書いたものだが、この地図には何も説明がな
く、その後の鴎外研究でも意味は説明されていない。「ハシ」とカタカナで書かれている理由も
わかっていないという。
矢印②の先には 「北白川御銅像」 とある。つまり、北白川宮の 「宮」がないのである。ここ
で明治という時代について、いまさら私が説明する必要はないと思う。こういうことが単なるミ
スではすまなかった時代である。また、ほとんどの読者は「御銅像」という言葉を初めて目にし
たのではないだろうか。ふつうは、銅像に「御」はつけないものだからである。
矢印③には「近衛歩兵第一旅団司令部」とある。しかしながら、鴎外はこれを「近衛歩」で改
行し、以下、「兵第一」「旅団司」「令部」という、不思議な改行をくりかえしている。なぜ、最
後の行にまとめて「司令部」と書かないのだろう。しかも当時、そこにあったのは旅団司令部で
はなく、近衛師団司令部だったのである。
また、矢印④の先には 「愛生」とあるが、当時、そこにそのような町は存在せず、それ以前も
以後もそのような町はなかった。つまり、それは鴎外が作った架空の町名である。その右には
「梨本宮」「宮内大臣」などとあるが、通常、地図では「梨本宮邸」「宮内大臣邸」などと記すも
のである。しかも、その邸宅の建物どころか、位置を示すポイントもないから、どこにその邸宅
があるのかもわからない。つまり「東京方眼図」は、地図の決まりにのっとっていない 〝地図″
なのである。
(森鷗外の「帝都地図」 6頁)
「左は地図の中心、旧江戸城周辺である。」
矢印①の先に「天神ハシ」とある。そこから「平河橋」へと細い矢印が延びている。
この矢印は鷗外が書いたものだが、この地図には何も説明がなく、その後の鴎外研究でも意味は説明
されていない。
と仰るのがこの図です。
でっ、仰るところの、矢印なるものを、秋庭さんの附録で見てみるとこんな感じ。
7頁の白黒の図より、「矢印」とやらボヤけてませんか?とても、同じものとは思えない。そこで、坂崎氏の縮小版「東京方眼図」を見てみると、
何か、こっちの方が鮮明で、7頁の図に近い様な(笑 というかそっくり(笑
この矢印は鷗外が書いたものだが、
だそうですので、オリジナルの明治42年春陽堂刊行「森林太郎立案 東京方眼圖」現物を当たってみた。
大阪府立中央図書館蔵「東京方眼圖」(明治42年春陽堂刊)部分
どこに鷗外の書いた矢印があるんでしょうか?
さて、秋庭さんも次項でお書きの通り、この明治42年刊の東京方眼圖が昭和46年頃から昭和60年頃まで、何度か「日本近代文学館」から復刻刊行されています。その復刻版の該当部分がこれだ。
大阪市立中央図書館蔵日本近代文学館復刻「東京方眼圖」(昭和50年ほるぷ社刊)部分
インクが散ったものか、明治42年版に無い汚れの様な点が、ついてますね。
どうやら、坂崎氏の複製元が明らかになったようです。「日本近代文学館」の復刻版ですね。坂崎氏判型としては4割位、図としては実質2割程度の縮小掛けちゃったものだから、曲線と少し離れていた、日本近代文学館復刻版の汚れが印刷の潰れで、曲線と接するように矢印に見えなくも無い様な、くっ付き方をしてしまった訳ですね。
まぁ、秋庭さんのやることはこんなもんですが、坂崎氏もこんな調子で、出典を書かないわ、勝手に改版(縮小)して地図の比率を変えちまうわじゃ、オリジナルは保護期間が切れたとは言え、復刻版の著作権やオリジナルと復刻版の著作者人格権をどう考えているのやら?
どうなんでしょうかね?自称編集者さん?
〝鴎外コード〟を読み解く
すなわち、この地図は特別な目的のために作られている、と考えられるのである。かつてレオ
ナルド・ダ・ヴィンチが「最後の晩餐」などに残した暗号が〝ダ・ヴィンチ・コード〟なら、こ
の地図の多くの謎は〝鴎外コード″と呼べるのではないだろうか。本書は、そのコードを解き明
かそうというものである。
本書付録としてカラーの「東京方眼図」がある。鴎外がわざわざカラーで印刷していることか
ら、赤い色にテーマがあると想像できる。道路の上に延びている赤い筋は、当時開通したばかり
の路面電車、のちの都電のルートである。筋の途中にある赤丸は、都電の停留所があったところ
だ。ここで、左の図の銀座周辺をご覧いただきたい。
都電を表す赤い筋が、グリーンで描かれた外堀の中へと延びている。矢印のように、外掘の中
には都電の停留所を示す赤丸もある。だが、路面電車が水の中を走るはずもなければ、水の中に
停留所があるわけもない。こういうとき、この筋は地下鉄のルートを表していると解釈されると
思う。常識をもって考えれば、ほかには解釈が存在しないだろう。東京には戦前の早い時期から
地下鉄が走っていたのである。
つまり、この地図は東京の地下を描くという、特別な目的のために作られていた。それは当然
のことながら〝公式の歴史″とは異なっているが、本書はかつて江戸という都市がどのように築
かれ、明治時代にその地下がどう改造され、また、鴎外がそれにどうかかわっていて、なぜ、鴎
外がこのような地図を作るに至ったかということを、歴史上の文書、資料、法律などから解明し
ようというものである。
(森鷗外の「帝都地図」 8頁)