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序章?前相撲にも成れぬ 論外コード - (2012/02/11 (土) 10:37:55) のソース
<p>序章?前相撲にも成れぬ 論外コード<br /><br /><br /><br /><br /> 序章? 序の口どころか、番付にも上がれぬ前相撲、それにも上がれぬ新弟子検査落ちの様なお話。<br /><br /> <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">森鷗外の「帝都地図」<br /><br /> 序章「鷗外コード」</span><font face="Times New Roman, serif"><br /></font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"> 森鷗外が作った地図の謎</span><br /> 文豪・森鴎外は一九〇九(明治四十二)年、左のような地図を発表している。タイトルは「東<br /> 京方眼図」、左上に「森林太郎立案」とある。林太郎は鴎外の本名である。<br /> だが、鴎外が地図を作っていたということは、あまり知られていないと思う。また、鴎外の作<br /> 品だけに、すでに多くの人に研究され、評価も解釈も確定しているかというと、そんなこともな<br /> いようだ。左の地図には多くの謎があるにもかかわらず、いまもその謎はほとんど解明されてい<br /> ないのである。<br /> まず、「森林太郎立案」とあるものの、地図を緯度、経度の方眼で表すという手法は、江戸時<br /> 代の伊能忠敬のころから用いられていたもので、とくに鴎外が立案したとは考えられないのであ<br /> る。それでは、このとき鴎外は何を立案したのだろうか。<br /> また、この地図は北が上、つまり方位は正しく描かれているにもかかわらず、右下をご覧いた<br /> だきたい、方位マークのようなものが書かれているが、そのマークは大きく左に傾いているので<br /> ある。<br /> 文字や記号の謎については、これから順次、紹介していくが、この地図では上野公園に「上」<br /> の字がなく、「野公園」とある。馬場先門には「門」の字がなく、「馬場先」である。「い六」の<br /> 方眼には「新橋」という字が上下逆さに善かれていて、しかも、そこは「新橋」ではないのである。<br /> さらに、白山神社や日枝神社には赤い鳥居のマークがあるが、根津神社や東照宮には鳥居がな<br /> <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">い。この地図には赤丸や赤い三角、赤い</span><font face="Times New Roman, serif">×</font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">や旗のようなマークまであるが、それは地図記号には</span><br /> <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">存在しないもので、しかもどこにも説明がないのである。</span><font face="Times New Roman, serif"><br /></font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"> (森鷗外の「帝都地図」 4頁)</span><font face="Times New Roman, serif"><br /><br /></font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"> 地図のルールから外れた地図</span><br /> 左は地図の中心、旧江戸城周辺である。矢印①の先に「天神ハシ」とある。そこから「平河<br /> 橋」へと細い矢印が延びている。この矢印は鴎外が書いたものだが、この地図には何も説明がな<br /> く、その後の鴎外研究でも意味は説明されていない。「ハシ」とカタカナで書かれている理由も<br /> わかっていないという。<br /> 矢印②の先には 「北白川御銅像」 とある。つまり、北白川宮の 「宮」がないのである。ここ<br /> で明治という時代について、いまさら私が説明する必要はないと思う。こういうことが単なるミ<br /> スではすまなかった時代である。また、ほとんどの読者は「御銅像」という言葉を初めて目にし<br /> たのではないだろうか。ふつうは、銅像に「御」はつけないものだからである。<br /> 矢印③には「近衛歩兵第一旅団司令部」とある。しかしながら、鴎外はこれを「近衛歩」で改<br /> 行し、以下、「兵第一」「旅団司」「令部」という、不思議な改行をくりかえしている。なぜ、最<br /> 後の行にまとめて「司令部」と書かないのだろう。しかも当時、そこにあったのは旅団司令部で<br /> はなく、近衛師団司令部だったのである。<br /> また、矢印④の先には 「愛生」とあるが、当時、そこにそのような町は存在せず、それ以前も<br /> 以後もそのような町はなかった。つまり、それは鴎外が作った架空の町名である。その右には<br /> 「梨本宮」「宮内大臣」などとあるが、通常、地図では「梨本宮邸」「宮内大臣邸」などと記すも<br /> のである。しかも、その邸宅の建物どころか、位置を示すポイントもないから、どこにその邸宅<br /> があるのかもわからない。つまり「東京方眼図」は、地図の決まりにのっとっていない 〝地図″<br /> <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">なのである。</span><font face="Times New Roman, serif"><br /></font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"> (森鷗外の「帝都地図」 6頁)</span><font face="Times New Roman, serif"><br /><br /></font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"> 〝鴎外コード〟を読み解く</span><br /> すなわち、この地図は特別な目的のために作られている、と考えられるのである。かつてレオ<br /> ナルド・ダ・ヴィンチが「最後の晩餐」などに残した暗号が〝ダ・ヴィンチ・コード〟なら、こ<br /> の地図の多くの謎は〝鴎外コード″と呼べるのではないだろうか。本書は、そのコードを解き明<br /> かそうというものである。<br /> 本書付録としてカラーの「東京方眼図」がある。鴎外がわざわざカラーで印刷していることか<br /> ら、赤い色にテーマがあると想像できる。道路の上に延びている赤い筋は、当時開通したばかり<br /> の路面電車、のちの都電のルートである。筋の途中にある赤丸は、都電の停留所があったところ<br /> だ。ここで、左の図の銀座周辺をご覧いただきたい。<br /> 都電を表す赤い筋が、グリーンで描かれた外堀の中へと延びている。矢印のように、外掘の中<br /> には都電の停留所を示す赤丸もある。だが、路面電車が水の中を走るはずもなければ、水の中に<br /> 停留所があるわけもない。こういうとき、この筋は地下鉄のルートを表していると解釈されると<br /> 思う。常識をもって考えれば、ほかには解釈が存在しないだろう。東京には戦前の早い時期から<br /> 地下鉄が走っていたのである。<br /> つまり、この地図は東京の地下を描くという、特別な目的のために作られていた。それは当然<br /> のことながら〝公式の歴史″とは異なっているが、本書はかつて江戸という都市がどのように築<br /> かれ、明治時代にその地下がどう改造され、また、鴎外がそれにどうかかわっていて、なぜ、鴎<br /> 外がこのような地図を作るに至ったかということを、歴史上の文書、資料、法律などから解明し<br /> <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">ようというものである。</span><font face="Times New Roman, serif"><br /></font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"> (森鷗外の「帝都地図」 8頁)</span></p> <p><br /><br /><br /> </p>