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第一章「鷗外の地図が見つかった」ってことで。そこんとこ宜しく! - (2012/02/16 (木) 10:25:48) のソース

<h2>第一章「鷗外の地図が見つかった」ってことで。そこんとこ宜しく!<br />
 </h2>
<p>          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><b>鷗外の地図</b></span><br />
         「鷗外の地図が見つかったんですよ」<br />
          扉を開けると同時に声をかけられた。二〇〇三年のことである。当時の文京区立本郷図書館の<br />
         一角には森鷗外の記念室があったから、私はすぐに後ろを向いた。記念室の窓に明かりがあった。<br />
         「地図、ですか」<br />
          借りていた本をカウンターに載せ、私はもう一度、振り向いた。文豪で、軍医で、鷗外は語学<br />
         も達人だったと聞いてはいたが、地図まで作っていたとは知らなかった。<br />
         「見ますか」と聞かれたときは驚いた。<br />
         「ぜひ」という声に力が入ってしまった。図書館の人とはみな懇意にしていたから、<br />
         「たぶん、記念室にとっては十年に一度の大ニュースですね」<br />
          廊下を歩きながら、そんなことをいった。<br /><br />
   「東京方眼圖」との出会い2003年ですか?2008年以前には「東京方眼圖」の「と」の字も、おくびにも漏らされておられなかった秋庭さん。<br /><br /><br /><br />
ずいぶん長くかかったんですねぇ。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />
          初めに室長の部屋に通され、「この本を書かれた方です」と職員に紹介された。室長の机の上<br />
         には、私の書いた『帝都東京・隠された地下網の秘密』がおかれていた。お祝いの言葉を述べる<br />
         とすぐに私は事務室に通され、壁に張られた地図を見上げた。このときのことは、いまでもよく<br />
         覚えている。しばらくのあいだ、私は感想を口にすることもできなかった。<br />
         一面に文字ばかり広がっている。それがすべて手書きで、思い思いの方向を向いている。「総<br />
         理大臣」「大蔵大臣」などとあるが、それは人物を表す言葉である。「川上銅像」「大村銅像」と<br />
         あるものの、位置を示す点がないから、どこに銅像があるかわからない。また、この地図には建<br />
         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">物がひとつもなく、赤い四角や旗のようなマークは、本来の地図記号には存在しないものである。</span><br />
                                        <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 20頁)</span><br /><br />
         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">鉄道の線路も国鉄でもなければ私鉄でもなく、警察や郵便局のマークもない。つまり、この地図</span><br />
         は地図の決まりにのっとっていないのである。<br />
         「どうですか」<br />
          そう聞かれたとき、何と答えたかは覚えていない。ただ、私は以前にも、こういう地図を見た<br />
         ことがあった。全長数千キロに及ぶといわれる、ベトナムの地下道を表した地図である。<br /><br />
         <b>地図が入手困難だったべトナム</b><br />
         一九九〇年代の後半まで、私はテレビ局で記者をしていた。社会部、外報部を経て、メキシコ<br />
         とベトナムでは特派員も経験した。ベトナムでは支局を開設するにあたり、首都ハノイの地図を<br />
         入手するところから始めなければならなかった。地図が市販されていなかったからである。<br />
         「市内の地図が必要だ」<br />
          私は現地の助手にいった。<br />
          ベトナムに支局を開設すると、政府から助手が派遣されてくる。メーカーでも商社でも銀行で<br />
         も同様である。彼は助手であると同時に、その企業が何をしているかを監視する役も兼ねている。<br />
         それは支社、支局を持つ際の前提条件だから、断ることはできない。毎月、給料を払っていても、<br />
         彼が「この企業はベトナムにはふさわしくない」と判断すれば、支局は閉鎖を命じられることに<br />
         なる。<br />
         「それはむずかしい」<br />
          彼はそう答え、「地図は必要ないと思う」と付け足した。当時、ハノイには三、四社の通信社<br />
         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">と新聞社の支局があったが、どこにも地図はないということだった。とはいえ、テレビは映像が</span><br />
                                        <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 21頁)</span><br />
         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">なければ何も始まらない。会議も式典も動物園の話題でも、現地へ行って撮影するのが仕事で、</span><br />
         そのためには地図が不可欠だと説明し、<br />
         「必要か、必要でないかは私が決める」といった。<br />
         「わかった。やってみよう」<br />
          彼が答え、二カ月後、地図が届いた。丁寧に作られた手作りの地図で、立体模型のような凹凸<br />
         があった。外国企業の支社、支局では初めてだ、と彼は胸を張り、たしかに現地の駐在員たちは<br />
         「ベトナムにも地図があったのか」と、決まって驚きの声を上げた。<br />
          そのときはわからなかったが、半年くらいしたころ、地図が間違っていることに気がついた。<br />
         よく見ると道筋が違う。橋の場所が違う。テレビ局や省庁の場所も違えば、市の中心にある湖の<br />
         形も違っていた。<br />
         「どういうことなんだ」というと、<br />
          彼はおもむろに地図に目をやり、<br />
         「だから私は必要ないと思うといったが、あなたは私に理由を尋ねることもなく、どうしても必<br />
         要だといった」と答えた。<br />
          その後、私はイラクやシリアでも地図が実際とは違うということを経験したが、このときは初<br />
         めてだったから、そんなものに数万円も払ったかと思うと力が抜けた。<br />
         「まったく……」<br />
          私がソファに倒れこむと、<br />
         「あなたは兵役の経験がないからだ。うらやましい」<br />
         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"> 慰めの言葉をかけられた。</span><br />
                                        <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 22頁)</span><br />
         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">「私のいとこは軍で地図を作っている」</span><br />
          助手がそういって深くうなずいた。どうやら地図を作っているというのは、その年の首席か次<br />
         席の成績だということらしく、そういう優秀な男たちが額をつきあわせ、この道のカーブは実際<br />
         より急にしようとか、いや、逆のほうがいいとか、橋はここに架かっていることにしておこうな<br />
         どと決めているという。<br />
         「そんな地図を作って、いったい何の……」といいかけたところで、<br />
         「あなたはこの地図がわかっていない」<br />
          彼は私をさえぎり、<br />
         「この地図には『ホー・チ・ミン・ルート』が描き込まれている。だから、マスコミの支局に持<br />
         ってくるのは困難だった」といった。<br />
          私がその 「ホー・チ・ミン・ルート」とは何のことかと尋ねると、彼はあきれはてたという表<br />
         情で天井を仰ぎ、ソファに倒れた。<br />
         「命知らずの記者だと聞いてはいたが、本当だ」などとつぶやいたから、<br />
         「大きなお世話だ」と返した。<br /><br />
         <b>地下道が描き込まれた暗号地図</b><br />
          彼によれば、ベトナムがアメリカに勝利したのは、「ホー・チ・ミン・ルート」と呼ばれる、<br />
         数千キロに及ぶ移動と輸送のルートを築き上げたからで、地上の道もあれば地下もあり、川を船<br />
         で進むものも、密林や峡谷をロープで渡るものもあった。南部はアメリカの支配下にあったから、<br />
         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">はとんどの道は地下に作られ、北部も爆撃が激しくなった時期には、ほとんどが地下化されてい</span><br />
                                       <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 23頁)</span><br /><br />
         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">たという。</span><br />
         「この地図にはその地下道が描き込まれている。ここだけの話だが、そのなかには国境を越えて<br />
         カンボジアを進むルートもあれば、サイゴンの沖合二キロを進んでいるものもあって、当時は<br />
         『サイゴン・ルート』と呼ばれていた。観光名所のクチのトンネルなどは、全体から見れば十分<br />
         の一にもならない」<br />
          その地図には三分の二にべトナム全土の地図が描かれ、左上三分の一がハノイの市街図になっ<br />
          ていた。<br />
         「つまり、これはベトナムの勝利を記念する地図で、党本部の壁に飾られているものと同じもの<br />
         だ。党本部と交渉するには、どうしても仲介役が必要だから、そのために私は聞き飽きた武勇伝<br />
         を最初から聞き直し、何度も何度も夜を明かして、その仲介役のおかげでようやく地図を持ち出<br />
         す許可を得て、いまハノイでもっとも優秀な業者に同じものを作るよう頼んだ。だから、二カ月<br />
         近くもかかった」<br />
         「そういう勝利を記念するとかいう大それたものじゃなくて、そのへんのどこにでもあるような<br />
         地図でよかったんだ」というと、<br />
         「あなたは、まだわからないのか。そういうものは存在しない。そういうものがあったら、初め<br />
         から何もむずかしくない」<br />
          彼は努めて冷静にいった。<br />
          この話はどう考えても彼に分があった。私が日本の常識を持ち込んで、彼を振り回していたに<br />
         違いなかった。たしかに正確な地図が簡単に入手できたら、優秀な男たちを集めて改描(地図の<br />
         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">改竄している意味がなくなってしまう。だから、ふつうの地図などというものは、どこにもな<br />
                                        </span><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 24頁)</span><br />
         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">いということである。</span><br />
          私は事前に説明を聞くべきだったと述べ、彼の交渉力を称えた。ソファから立ち上がり、栄光<br />
         の、しかし何の役にも立たない地図を見上げた。いわれてみれば、タイトルらしきところに「ホ<br />
         ー・チ・ミン」とあった。<br />
         「とはいえ、アレキサンダー大王の時代じゃないんだから、サイゴンをホー・チ・ミンに変えた<br />
         のはやりすぎだろ。二十世紀はケネディだって空港の名前までで、都市名を変えるようなことは<br />
         していない」というと、<br />
         「私も家族と旅行しているときなどは、サイゴンと呼んでいる。今日はレニングラードの話はし<br />
         ない」<br />
          彼が答えた。<br />
         「で、どれがその『サイゴン・ルート』なんだ?」と尋ねると、<br />
          彼は笑いながら首を振り、答えようとしなかったが、<br />
         「どうせ撮影できないんだろ」というと、ふりかえって私を見た。<br />
          それから「できない」というふうに首を振り、地図に指をすべらせた。<br />
          表面上は何も描かれていないが、文字と記号で表されているということらしかった。文字は大<br />
         きさがふぞろいで、思い思いの方向を向いていた。党本部や外務省などという文字はあっても、<br />
         建築物のマークはなく、位置を示す点もないから、どこにあるのかわからない。どうやら市の中<br />
         心にある小さな湖の下に、かつての北ベトナムの中枢があって、そこから四方八方に地下道が延<br />
         びていたらしかった。<br />
         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"> ベトナム戦争時、西側のメディアはサイゴンにいた。ハノイのことは何も伝わってこなかった。</span><br />
                                        <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 25頁)</span><br /><br />
         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">第二次大戦の総量を上回る爆弾を投下されながら、北ベトナムがしっかりと生き延びていたのは、</span><br />
         この小さな湖のおかげだったのかもしれない。<br />
         「とはいえ、そんな話は聞いたこともなかった」というと、<br />
         「じっは、以前、あなたの国の『赤旗』の記者がそれに気づいて、記事を送ろうとしたことがあ<br />
         った」と彼がいった。<br />
          その記者はベトナム語が堪能で、ほとんどベトナム人と変わらなかったため、はじめに地図上<br />
         の丁寧語の使い方がおかしいと気づき、文字の配置や角度が暗号になっていることを突き止めた<br />
         という。だが、記者の助手が察知したため、記事は送信されなかった。<br />
          この件は特派員を管轄する外務省を飛び越し、党中央で議論され、拘束、強制送還という話も<br />
         出たが、その記者は党中央にも食い込んでいたため、友人の一人が「戦争はもう過去のことだ」<br />
         と周囲をなだめ、処罰を免れたということである。ハノイの地下基地と地下道の報告は、こうし<br />
         て闇に葬られた。<br />
          その後、私は当の記者に会う機会があって、湖や地下基地について聞くと、<br />
         「何だ、その話か。あれは釣りのポイントを書いただけだ」<br />
          記者はそういって大笑いした。<br />
          私が笑わずに黙っていると、<br />
         「ほら、釣りの雑誌にはいろんな形のマークがついているだろ。あのマークをつけただけの話だ」<br />
          記者はまた大笑いした。<br />
          私は笑わなかったが、それ以上は聞かなかった。もちろん、ハノイの釣りのポイントを紹介す<br />
          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">るほど、ヒマな新聞があるはずはなかった。</span><br />
                                        <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 26頁)</span><br /><br />
         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><b>「東京方眼図」の〝公式の解釈〟</b></span><br />
         扉の音がして室長が中に入ってきた。壁際にいた職員が机に戻り、私は改めてお祝いの言葉を<br />
         述べた。地図の感想を尋ねられてから、十五分ほど経っていただろうか。そろそろ頭のなかが整<br />
         理されていた。<br />
         「この地図には森林太郎立案とありますけれども……」と切りだすと、<br />
         「そうですね」<br />
          室長はうなずいて壁に目をやった。私が尋ねようとしていることが、よくわかっている、とい<br />
         うことらしかった。<br />
         地図に緯度と経度を書き入れるという手法は、一七七九(安永八)年の「改正日本輿地路程全<br />
         図」で導入され、一八二一(文政四)年の伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」にも緯度と経度が<br />
         入れられていた。明治政府もそれを引き継ぎ、当初から緯度、経度入りの地図を作っていたから、<br />
         それは鷗外が考えたことではない。<br />
          そうすると、このとき鷗外は何を立案したのか? まず、私はそれを尋ねた。<br />
         「この地図には縦に十一個、横に八個の方眼があります。縦には数字の番号、横には『いろは』<br />
         がつけられていますから、『い四』『ろ五』などと方眼を特定することができます。鷗外は、これ<br />
         に合わせて東京の地名を網羅した索引を編纂しました。<br />
         『東京方眼図』という本は、二六頁の携帯用の地図と、一七〇頁あまりの地名索引の二部構成に<br />
         なっています。索引で『日本橋』を引くと『に六』とありますから、地図で『に六』の方眼を見<br />
         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">れば、すぐに日本橋が見つかります。</span><br />
                                         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 27頁)</span><font face="Times New Roman, serif"><br /><br />
         </font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">つまり、東京の町や村がどこにあるか、ひと目でわかるようになったということです。この地</span><br />
         図によって、市民は初めて自由に東京を行き来できるようになった、といわれています」<br />
          室長はそう説明した。<br />
         「その本は明治時代に出版されたのですか」<br />
         「そうです」<br />
          室長がうなずいた。<br />
         「つまり、鷗外が立案したのは、方眼と索引を対応させることだったんですか」<br />
         「そう考えていいと思います」<br />
          何となく、もっともらしく聞こえるが、その程度のことを鷗外は「自分が立案した」と大書す<br />
         るだろうか。私の頭に疑問がわきだしてきた。その後の鷗外研究でも同じように解釈されている。<br />
         つまり、室長の説明が〝公式の解釈″ということだが、私には納得できなかった。<br /><br />
         <b>索引と一致しない地図</b><br />
          左はその『東京方眼図』の本の索引で、アイウエオ順の「イ」のページである。旧仮名遣いだ<br />
         から、いまとなっては漢字のほうが読みやすいかと思う。初めの「イウラクチャウ」は有楽町、<br />
         次の「イウレイザカ」は幽霊坂である。幽霊坂は三つあって、「に四」「へ四」「と三」とあるが、<br />
         地図のページを見ると、ひと目で見つかるどころか、全然見つからない。幽霊坂はひとつとして<br />
         載っていないのである。<br />
         「イキザカ/壱岐坂」「イキドノザカ/壱岐殿坂」という坂も、やはり地図の上にはない。「幾世<br />
         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">橋」もなければ「石嶋橋」もない。次のページの「市ヶ谷停車場」には「へ五」と書かれている</span><br />
                                       <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 28頁)</span><br />
         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">が、この地図には市ヶ谷駅もないのである。いまの中央線(当時は甲武線)は、この本が出版さ</span><br />
         れる二十年も前に開業し、市ヶ谷駅はすでに存在していたが、鷗外はこの駅を載せていないので<br />
         ある。<br />
          この地図で市民が自由に東京を行き来できるようになった、ということだったが、本当にそう<br />
         だろうか。<br />
         「この本の大きさは、江戸時代の切絵図を参考にしたといわれていまして、一ページに三つの方<br />
         眼が縦に並んでいます」<br />
          室長が解説を続ける。<br />
          とはいえ、この地図の方眼は縦に十一個、横に八個である。十一も八も、三では割り切れない。<br />
         つまり、一ページに三個ずつ方眼を載せていけば、どうやっても余りが出るから、大きな空白が<br />
         できてしまうことになる。案の定、左の図のように第一ページには「い二」の方眼しかなく、上<br />
         下は空白である。<br />
         上の部分の空白は、本来「東京方眼図」というタイトルの「東」という字が方眼いっぱいに、<br />
         でかでかと書かれることになっていたが、それでは読者に違和感を与えるだけだからと、空白に<br />
         したのではなかったのか。<br />
         数が割り切れないのも、文字が大きすぎるのも、それはもともと、この地図が本として出版す<br />
         るために作られていたのではなく、大きな一枚図が初めに完成していて、それを多少強引に携帯<br />
         用の本に収めようとしたため、このような不体裁になったように思えてならない。<br />
         いまの〝公式の解釈〟では、『東京方眼図』は方眼と索引を対応させたことが画期だとされて<br />
         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">いるが、それならなぜ、区名や町名が方眼をまたがって書かれているのだろう。</span><br />
                                        <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 30頁)<br /><br />
         </span><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"> そもそも、当時の市民が行ってみたいと思っていたところは、三越や銀座のカフェー、浅草十</span><br />
         二階(凌雲閣)などだったが、「方眼図」にはどれも載っていない。また、当時の路面電車には路<br />
         線名があって、どれに乗れば新宿に行けるとか、渋谷に行くにはどこで乗り換えるという情報が<br />
         不可欠だったが、「方眼図」には路線の区別もなければ停留所名もない。この地図を使って、ど<br />
         こにどうやって行けというのだろう。<br />
          だいたい、市民が東京を行き来するための地図なら、路面電車の会社にでもまかせておけばよ<br />
         いことである。デフォルメした路線図で十分、正確な地図を作る必要もない。文豪であり、軍医<br />
         でもあった鷗外が、そんな地図を作るために労力を割くだろうか。この地図はそんな目的のため<br />
         に作られたものではなかったはずである。</p>
<p lang="ja-jp" style="margin-bottom:0cm;" xml:lang="ja-jp">
         <b>分割された地図と一枚図の地図</b><br />
         「つまり『東京方眼図』という本では、地図がこまかく分割されていましたから、大きな一枚図<br />
         を見た人はばとんどいなかったはずです」<br />
          室長が顔を上げ、話を続けた。<br />
         「当時、一枚図も出回っていたという方もおりますが、当記念室では、そのような事実は確認で<br />
         きていません。また、本の地図を切って貼り合わせれば一校の大きな地図ができたでしょうが、<br />
         そのようなことをした例も確認できていません」<br />
          「そうですか」<br />
          室長の口調に押されて、私は相槌を打った。<br />
         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">「戦後しばらくしてから、戦前の地図集が編纂されることになりまして、その会議に私も記念室</span><br />
                                      <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 32頁)</span><br />
         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">の一員として出席し、『東京方眼図』も入れてほしいと主張しましたが、こま切れの地図だから</span><br />
         ということで除外されてしまいました。そういうことなら、一枚図を探そうということになりま<br />
         した。誰だってこま切れの地図を作るはずはありませんからね。どこかに一枚図があるはずと思<br />
         い、記念室をあげての大捜索が行なわれました」<br />
          鷗外の自宅の書庫はもちろんのこと、出版社や鷗外の立ち回り先、親族の家も一軒一軒訪ね歩<br />
         いて探したが、見つからなかったという。それなら、本の地図をコンピュータに取り込んで一枚<br />
         につなげようという話も出たそうだが、本が古くて紙が歪んでいるため、うまくつながらないと<br />
         業者に断られたという。<br />
         「その一枚図がこのたび出てきたというわけです」<br />
          室長の顔がほころんだ。<br />
         「ご存じのように、このたび記念室が移転することになりまして、書庫の整理をしていましたと<br />
         ころ、突然、この地図が出てきました。書庫の底で眠っていたということです。親族の方のお話<br />
         では、これはたった一枚のオリジナルで、一度も複写されたことがないということでした。つま<br />
         り、一枚図を見た人はいないということで、記念室としましては〝初公開″と銘打って展示をし<br />
         ようかと検討しているところです」<br />
          いまどき、それくらいは当然のキャッチコピーだから躊躇するには及ばない──そのとき、私<br />
         はそんなことを述べたが、いま思えば、それはこの地図のことも、室長のことも、何もわかって<br />
         いなかったからである。<br />
         それから十年、私は「東京方眼図」について調べ続けているが、このときの室長の話は嘘では<br />
         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">ないものの、首をかしげたくなるようなことが少なくない。まず、初めに挙げておかなければな</span><font face="Times New Roman, serif"><br />
                                       </font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 33頁)</span><font face="Times New Roman, serif"><br />
         </font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">らないことは、二十年も前にすでに一枚図が出版されていたということである。</span><br />
         一九八四(昭和五十九)年、日本近代文学館から名著復刻全集の一巻として『東京方眼図解<br />
         説』という本が出版されている。この本に一枚図がついていた。本書巻末についている地図と同<br />
         じものである。ところどころ、方眼や赤いマークが一ミリから二ミリほどずれているものの、地<br />
         図の輪郭と文字はまったく同じで、一般の人には真偽の見分けがつかないと思う。その本の解説<br />
         には、次のようにある。<br /><br />
           『東京方眼図』は一枚ものと帖仕立本と、両方そろわないと不完全なのだ。帖仕立本も稀観<br />
          にぞくするようになったが、一校図の方は、さらに稀観である。稀観中の稀観といえるだろ<br />
          う。</p>
<p lang="ja-jp" style="margin-bottom:0cm;" xml:lang="ja-jp">  
       つまり、明治時代に出版された『東京方眼図』という本には一枚図がついていなかった。が、<br />
         それでは不完全だから、「復刻版」ではそれをつけたということである。<br />
          ただし、この一枚図は、印刷の専門家が見ると、オリジナルの完成図の版下を使って地図と文<br />
         字を作ったあと、赤色の部分を新たに書き足しているため、寺院マークの形や大きさなどが少し<br />
         違っているということである。<br />
          森鷗外記念室は鷗外研究の公式の拠点として設置され、一枚図の大捜索を行なったが見つけら<br />
         れず、結果的に近代文学館に先を越された状況にあった。しかし、オリジナルを人手したことで、<br />
         「復刻版」の完成図は鷗外が作ったオリジナルではなく、戦後に作られたものだとわかり、名誉<br />
         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">を回復。逆に「これまで一度も本物の一枚図を確認したことはない」という立場に転じ、堂々と</span><br />
                                        <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 34頁)</span><font face="Times New Roman, serif"><br /><br />
          </font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">〝初公開″と銘打った展示を決定した、というわけである。</span><br />
          もうひとつ、首をかしげるのは、室長が書庫から一枚図が出てきたとしていることである。諸<br />
         般の事情から、そういう話が作られたと思われるのだ。実際のところは、鷗外の親族から入手し<br />
         たに違いない、と私は思っている。<br />
          なぜなら、本当に書庫の底から見つかったとしたら、親族には何度コピーされたかわかるはず<br />
         がない。「これはたった一枚のオリジナルで、一度も複写されたことがない」 といえるのは、オ<br />
         リジナルを手元に保管していた人物だけである。ただ、この事実を明らかにしてしまうと、以前<br />
         行なった大捜索の際、鷗外の親族がこの地図を出さなかったことがあからさまになるため、親族<br />
         が悪者になりかねない。そうしたことを配慮して、「書庫から見つかった」としていたのではな<br />
         いかと思う。<br />
          なぜ、初めに親族が一枚図を出さなかったかということについては、この地図が何を目的とし<br />
         て作られたかということと深く関係があるのではないだろうか。本書を読み進めていくうちに、<br />
         おのずとわかっていただけると思う。<br />
          まもなく 〝初公開″ の展示が始まり、記念室には連日、文壇の大御所や有名作家が現れ、室長<br />
         は親族のわきで満面の笑みを浮かべていた。それを見ていて私は思った。この展示によって、近<br />
         代文学館が先に一枚図を公開した「復刻版」は、人々の記憶から永久に消し去られてしまうので<br />
         はないか。そして、それこそが室長が心の底で望んでいたことではなかったのかと。<br />
          わが国はヨーロッパ諸国に比べると、民主主義の歴史が浅いから、〝公式の記録″ と 〝民間の<br />
         記録″ が異なっている場合、公式のものが優先されてしまう。室長はそれがわかっているから、<br />
         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">あえてこのような展示をしたということである。</span><br />
                                         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 35頁)<br /><br />
         </span><strong><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">改竄された「東京方眼図」</span></strong><br />
          展示が終わって、一枚図の「東京方眼図」が壁から外されたところで、私は第一号のコピーを<br />
         とらせていただいた。翌日、一枚図は国会図書館に送られ、その後、全国の図書館で公開されて<br />
         いる。<br />
          じつは、本書付録の「東京方眼図」は全国で公開されているものと同じであって、私が持って<br />
         いる第一号のコピーではない。左ページにあるのが私の持っている第一号コピーである。親族が<br />
         「一度も複写されていない」といっていたから、正真正銘のオリジナルのコピーである。<br />
          二つの矢印の先をご覧いただきたい。陸地測量部の前から東に向かって細い一本の線が延びて<br />
         いる。これが折り目のたぐいでないことば、堀や川などの水中に断続的に続いていることから、<br />
         おわかりいただけよう。この線は隅田川の河口にある八丁堀の川口町へと続いていて、緯度経<br />
         度の線より少し明るい赤色だった。ところが全国公開されている一枚図では、この線が消されて<br />
         いるのである。<br />
          この線は方眼の中間に書き足されているから、誰が見ても横線が一本多く見えた。それは中世<br />
         ヨーロッパの地図などで用いられていた、都市建設の座標軸、地下道の基準線を描く手法と同じ<br />
         もので、詳細は後述するが、鷗外はそれにならって余分な線を描き込んでいたはずである。とこ<br />
         ろが、いま全国で公開されている一枚図では、海や湖、川や堀などが新たなグリーンで塗り直さ<br />
         れ、この線が塗りつぶされているから、基準線が見つけられなくなってしまった。このような赤<br />
         色の基準線は、このほかにも上野不忍池の中央を横切っているものがあったが、それも塗りつ<br />
         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">ぶされている。</span><br />
                                        <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 36頁)</span><br /><br />
         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"> 戦後六十年を過ぎ、二十一世紀を迎えたわが国では、個人の作品を政府が改竄することは許さ</span><br />
         れていないはずだが、明らかに改竄されているのである。仮に私の解釈が見当外れだったとして<br />
         も、他人の作品に手を入れてはならないはずである。<br />
          なぜ、このようなことが行なわれたのだろうか。その謎を解くには、東京の地下の真実を知る<br />
         必要があると思う。それを知れば、「東京方眼図」を鷗外が発表した目的も、室長の言葉の意味<br />
         も、そして何よりも謎だらけの「東京方眼図」を読み解くこともできるはずである。初めて一枚<br />
         図を見てから十年、私はそう考えている。<br />
          その間、私は東京の地下の透明化を訴えてきた。それはなぜ、ある地図では地下鉄が交差して<br />
         いるのに別の地図では離れているのか、また、なぜ戦後に開通した地下鉄のトンネルが「二〇〇<br />
         ヤード」という戦前に使われていた単位で設計、施工されているのか、といった文書資料にもと<br />
         づいたアプローチもあれば、実際にそのトンネルを確認し、なぜ開通したばかりのトンネルが百<br />
         年も前に作られたコンクリートのように変色して水がしたたっているのか、といった現場の状況<br />
         からのアプローチもあった。が、本書ではそうした疑惑の掘り起こしともいうべき部分はカット<br />
         し、「方眼図」の謎の解明に集中した。したがって、そういう疑惑の現状については、いままで<br />
         の著書などを参考にしていただきたい。<br />
          森鷗外は文豪であり、軍医であり、さらには当時の公衆衛生の権威でもあった。その知識は広<br />
         く、しかも深いから、私ひとりでこの作品をすべて解き明かすことはできそうにないが、私なり<br />
         の説明がついたものを公開することで、江戸初期から四百年、私たち市民の目から隠されてきた、<br />
         東京の地下の真実を読者に理解していただければと願っている。そして、それが「東京方眼図」<br />
         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">に込められた鷗外の思いを伝えることにもなる、と考えている。</span><br />
                                        <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 38頁)<br /><br />
  ってことらしい(笑<br /></span></p>
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