地下妄の手記

後生 だからやめてくれ 新宿・都営軌道 参

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後生 だからやめてくれ 新宿・都営軌道 参


      単行本148頁~149頁

       小田急電鉄は一九二〇(大正一九)年、新宿-大塚間の地下鉄の認可、東京-小田原間の延
      長変更を願い出、翌年には、起点を新宿三丁目、いまの都営新宿線の新宿三丁目駅に移すとして
      いた。一九二三 (大正一二)年には、それと前後して、東京市が次のような地下鉄計画を申請し
      ている。この計画を立てたのは当時、東京市長だった後藤新平で、市議会は満場一致でこの案を
      可決している。

       第三十三号 電気軌道線路新設特許申請に関する件

       左記電気軌道線路の新設に関し特許申請を為すものとす。
        一、赤坂区葵町二番地先に起こり、虎ノ門公園に至る道路
           前項終点より同公園東角に至る新設軌道敷
           前項終点より地下に入り、道路下を桜田門外において右折し、
           日比谷公園有楽門を左折し、濠端に沿い、東京駅前を右折し、
           同駅前広場を経て駅前道路下並びに濠下を過ぎ、
           大手町一丁目三番地先において道路上に出づる随道(すいどう)
            (後略)

       内務省委員会実の「新宿・葵線」の終点から、東京駅へと向かう地下鉄だったということであ
      る。


 単行本誤植などが多いので、秋庭さん自身による「改竄」じゃなかった「訂正」もあるが、文庫版のこの部分を挙げておきます。

      文庫版154頁~155頁

       小田急電鉄は一九二〇(大正)年、新宿-大塚間の地下鉄の認可、東京-小田原間の延
      長変更を願い出、翌年には、起点を新宿三丁目、いまの都営新宿線の新宿三丁目駅に移すとして
      いた。

要約すれば、

     <秋庭世界の小田急の申請と認可>

    1920(大正9)年  新宿-大塚間の認可
                 東京-小田原間の延長変更願い出

    1921(大正10)年 起点を新宿三丁目九番地に変更(地下の謎86に「九番地」の記述あり)。

と言う時系列になるようです。
 では、「小田急電鉄五十年史」から、実際の詳細を見てみましょう。

     <実際の小田急の申請と認可>

    1920(大正9)年 3月 新宿-大塚間免許
       同     年 8月 東京-小田原間免許申請

    この時(1920年8月)提出の起業目論見書に
     一、線路ノ起点、終点及其経過地名
     既免許線ノ終点東京市四谷区新宿三丁目九番地々先ニ起リ官線山手線ノ下ヲ過キ
     幡ヶ谷本村砧村ヲ経テ登戸渡附近ニ(以下略、小田急電鉄五十年史より)
    と言う記述があります。最初っから新宿-大塚間の起点は新宿三丁目九番地だったんじゃないんでしょうか。
    ただし、この新宿三丁目九番地は都営新宿線の新宿三丁目駅とは全然別の場所だと言う事は別記の通りです。

    1922(大正11)年5月新宿-小田原間免許

    1924(大正一三)年新宿-大塚間免許失効

 お判りでしょうか、これが秋庭さんの得意の省略と、東京高速がしてもいない起点(終点)の変更を「捏造」することによる詐術です。

       さて、一九二三 (大正一二)年には、それと前後して、東京市が次のような地下鉄計画を申請し
      ている。この計画を立てたのは当時、東京市長だった後藤新平で、市議会は満場一致でこの案を
      可決している。

       第三十三号 電気軌道線路新設特許申請に関する件

       左記電気軌道線路の新設に関し特許申請を為すものとす。
        一、赤坂区葵町二番地先に起こり、虎ノ門公園に至る道路
           前項終点より同公園東角に至る新設軌道敷
           前項終点より地下に入り、道路下を桜田門外において右折し、
           日比谷公園有楽門を左折し、濠端に沿い、東京駅前を右折し、
           同駅前広場を経て駅前道路下並びに濠下を過ぎ、
           大手町一丁目三番地先において道路上に出づる随道
            (後略)

       内務省委員会案の「新宿・葵線」の終点から、東京駅へと向かう地下鉄だったということであ
      る。

 変ですね、秋庭さんの言う、内務省委員会案の「新宿・葵線」は四ツ谷から地下鉄になり、葵町に至るのではなかったのでしょうか?
 その葵町を起点とする、秋庭さん曰くところの「後藤新平の地下鉄」、あるいは「虎ノ門地下鉄」なるものは、地上が起点となっています。変ですね。

 わたし、この東京市の決議「第三十三号」未見ですが、「東京地下鉄道千代田線建設史」(1983年帝都高速度交通営団刊)に、この計画と思しき記述がありました。

 「千代田線建設史」7頁

 12.大正12年(1923年) 3月20日
   東京市、虎ノ門・東京駅・新橋間4キロの地下鉄道を出願。ただしこの計画は本格的な地下鉄道ではなく、将来高架鉄道にする前提で路面電車を地下化するものだった。

 これから見ると、秋庭さんの「後藤新平の地下鉄」は虎ノ門から東京駅へ回った後の行き先があったんではないんでしょうか?(後略)のところが非常に興味深い(笑

  以上平成19年8月22日未明の記述でした。

 平成19年8月22日午前 mori-chi さんの「そらめく日々」に【秋庭系東京地下物語'07《隠蔽》】(最終話)がアップされました。
 その中に、「虎ノ門地下鉄」の経路が記述されています。
 私は、千代田線建設史の記事から、「虎ノ門・東京駅・新橋間4キロ」の地下鉄道としましたが、4キロと言う距離が、以前書いた、「東京高速鐵道略史の略史 その3」と対比しても、変なので私、一寸暈し気味に書いてました。
 しかし、今回 mori-chi さんが書いて下さったのを見ると、新橋ではなく、竹橋が正解のようですね。
  (後略)以降を mori-chi さんの分で見ると「大手町一丁目三番地先」より地上に出た「市電の地下鉄」は「元衛町外国語学校正門前」現在の内堀通りKKR東京や丸紅東京本社ビル前か ら、「一ツ橋新架橋」一ツ橋を渡って、「神田区錦町三丁目十四番地地先」現在の学士会館の手前辺りまで行く予定だったようです。
 この計画の頓挫の理由についても、【秋庭系東京地下物語'07《隠蔽》】(最終話)
に詳しく記されていますので是非の御一読をお勧めいたします。

  平成19年8月22日23時追補

 更なる追補。

 後藤新平の虎ノ門地下鉄 虎ノ門-大手町じゃなくて虎ノ門-竹橋とする区間の記述は、秋庭さん「地下妄」の原点「帝都東京・隠された地下網の秘密」にも、

         帝都東京・隠された地下網の秘密単行本212頁~213頁

     一九二二年(大正十一) 四月、鉄道敷設法が骨抜きにされ、東京市は自由に地下鉄を敷けるよ
     うになっている。十一月には「虎ノ門-竹橋」 の地下鉄建設が発表され、新聞各紙がこれを報じ
     ている。この路線は当時の市電が地下を走るもので、線路幅は「馬車」、予算ほ七〇〇万、ルー
     トは以下のようなものだった。

       虎ノ門-桜田門-日比谷-二重橋-東京-大手町-竹橋


と言う記述があり、また、「新説東京地下要塞」単行本にも132頁にも、

     翌年、原敬が暗殺され、二年後には山県が他界し、三年目に東京市議会で次のような発言が
    あった。
     後藤新平が東京市長に就任し、虎ノ門-竹橋に地下鉄を敷くと発表した後のことである。

 などと書かれている。 実は、これらの虎ノ門-竹橋の記述が私の中で、「後藤の虎ノ門地下鉄」と結びつかなかった。だから、葵町二丁目から、秋庭さん曰くところの戦前と住居表示の変わっていない大手町一丁目三番地先の区間が「虎ノ門地下鉄」と思っていたようです。
 そのように思えたのは、秋庭さんの、虎ノ門地下鉄を語る方向が「帝都東京・隠された地下網の秘密」とそれ以降では微妙に異なって来ているからではないかということにあります。
 具体的には、最初は「竹橋」まで通じていた「虎ノ門地下鉄」が、「写真と地図で読む!帝都東京・地下の謎」辺りから、大手町で止まってしまっているから。そう思ってしまったのでしょう。

 取り敢えず、私の誤認と言う事で秋庭さんも「虎ノ門-竹橋」で「虎ノ門地下鉄」を説明しているところもあると言うことを、追補しておきます。

    平成19年9月28日 0時30分追補


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