小早川秀秋

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&font(#6495ED){登録日}:2009/12/01(火) 18:51:28 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 10 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- &bold(){小早川秀秋}とは、日本の戦国武将の1人。 『[[関ヶ原の戦い>関ヶ原の戦い(戦国時代)]]』の勝敗を決定づけたと言われることから、[[徳川家康>徳川家康(戦国武将)]]関係の作品を始め多くの創作にも登場する。 ●目次 #contents *【史実】 **◆概要 1582-1602 [[豊臣秀吉>豊臣秀吉(戦国武将)]]の義理の甥(秀吉の正室おねの兄・木下家定の五男)。近江国の長浜にて生を受ける。 [[関ヶ原の戦い>関ヶ原の戦い(戦国時代)]]において傍観する西軍の将の中で最初に裏切り、その後の裏切りの連鎖を引き起こした。 名前の推移:木下辰之助→木下秀俊→羽柴秀俊→小早川秀俊→小早川秀秋→小早川秀詮 ※最終的な名乗りは「小早川秀詮」であるが、改名したのが関ヶ原の後で、名乗った期間がかなり短いため、一般的には「秀秋」の表記が使われる。 **◆人物 学問を学ぶ姿勢はあまりなく優柔不断で悪政をしいたとも幼少期は利口であったとも言われる。&bold(){短気であったことはほぼ確定}らしい。 ちなみに小早川家には優秀な家臣がいたため藩主として目立った悪政をしいたという事はないとか、そもそも秀秋年齢自体、かなり若かったので良くも悪くも目立ってなかった模様。 後世のイメージ操作はよくあることだから仕方ないね。 **◆来歴 実子のいなかった豊臣秀吉の養子となり(この時の名前は「羽柴秀俊」)、急に裕福になるが、 秀頼が生まれたことで跡継ぎとしての立場が無くなり冷遇を受けていたところで黒田如水の助力を貰い小早川家の小早川隆景の養子となる。 歪んだ性格は幼少期に散々持ち上げられたり突き落とされたりしたためとも言われる。 この後、いわゆる豊臣秀次事件に連座して領地を没収されるが、養父の隆景が隠居したためその跡を継いでいる。 朝鮮出兵(15才)の際には敵兵に囲まれた加藤軍に救援に行き活躍するも、その戦果を報告された秀吉によって「守備任せたのになに突撃してんの馬鹿なの?死ぬの?」と説教を食らった挙句大幅減封及び転封。 &s(){ちなみに転封前の領地は石田三成に奪われている。}→三成はこれを辞退したが、秀秋旧領は豊臣家直轄地となり、その代官に任命されている。 加藤軍を救援した際の秀秋はリアル無双したそうな。 秀吉の死後に[[徳川家康>徳川家康(戦国武将)]]の根回しで減封は取り消されいい具合に家康に釣られる。ただし多くの家臣が以前の減封により秀秋の元を離れた。 伏見城の戦いにおいては東軍鳥居元忠に援軍を申し入れるも、 「援軍とか聞いてない。どうせそう見せかけて裏切るんでしょ?よくあるんだよねそういうの」 と拒否され、西軍に付かざるを得なくなり(これは[[島津義弘>島津義弘(戦国武将)]]も同様)不本意にも武功を上げてしまう。 秀秋がこの際の行動を悔いてノイローゼになり各地をうろうろしているうちに関ヶ原の戦いが起こる。   ***関ヶ原の戦い そもそも会津討伐に参加するため畿内に入ったところ、成り行きで西軍になったため割とすんなり東軍の内通に応じるが、 『あいつ絶対裏切るだろ…』と思っていた三成と[[大谷吉継]]から「勝ったら関白にしてやる」などと釘を刺される。 そのためかそうでないのかは分からないが1万5000もの兵(西軍で2番目の兵数)を率いる秀秋は西軍有利にも関わらず傍観。 家康がキレたところでようやく寝返り大谷隊に攻めかかるが事態を予測していた大谷隊から予備の600人の部隊が出てくるとびっくりして押し返される。 しかし、連鎖的に寝返った脇坂隊、赤座隊らの助力もありこれを撃破、これを期に3万を率いる家康本隊も加勢し東軍の勝利となった。 余談だが、敗戦後落ち延びていたものの捕縛され、重罪人として晒されていた石田三成に何を思ったのか会いに行っている。 言うまでもないが三成がそんな目に遭っている最大の要因とも言っても過言ではない秀秋がそんなことをすればトラブルになることは火を見るより明らかであり、 同行していた細川忠興に止められたが三成の視界に入ってしまう。 三成は秀秋を見るなり彼を罵倒し、 「お前が裏切るつもりだったことを見抜けなかったのは自分の落ち度だが、約束を破って人を裏切るなど武士の風上にも置けない。 この世の末までお前のやったことを語り継ぎ、笑ってやろう」とさえ言われるも、秀秋は何も言い返せなかったという。 ***関ヶ原の戦い後 戦後は岡山55万石に加増され内政に力を注ぐが家臣の出奔や不審死が相次ぎ、そして自らも21才の若さで急死している。 死因に関しては複数の説があり、病死の他に、無礼を働いた小姓を斬ろうとして&bold(){返り討ちに遭った}、村の視察中に怒った農民に&bold(){股間を潰されて死んだ}、 果ては大谷吉継の祟りで狂い死んだなどの説があるが、病死以外はなんとも情けない死因ばかりであり、 これらに関しては『因果応報』的な意味合いの強い俗説とも言われている。 ちなみに、秀秋は晩年家老を手討ちにするなどの奇行が目立っていたが、 三成に言われたことを気にして精神的に参り、三成や吉継などの幻影を見るほど精神薄弱状態だったらしい。 秀秋の急死の後、小早川家は跡継ぎがいなくなったため無嗣断絶として取り潰された。 秀秋や小早川家のこの末路に関しては、石田三成や大谷吉継の怨霊の仕業とまことしやかに囁かれたとかなんとか。 ただ、秀秋が若くして亡くなったことに関しては&bold(){秀秋が重度のアル中だった}ことに端を発するというのが現在の説である。 詳しくは余談にて。 そして毛利家の一門であるはずの小早川家だが、秀吉一門に再乗っ取りされたことなどもあってかすぐ再興されることはなかった。そしてそのまま廃藩置県を迎えた。 関ヶ原後は毛利本家も大減封でそれどころではなかったとはいえ、いくらなんでも放置されすぎでは… なお秀秋の人間関係は叔父(秀吉)には&bold(){「秀頼!秀頼!秀頼!」と要らない子扱い}され、養父(隆景)には&bold(){「あいつが毛利家を継いだら毛利は滅びるぞ!」と懸念}されたことで養子となり、&bold(){全く戦の経験がないのに朝鮮出兵では15歳にして総大将にされ} 小早川家家臣は&bold(){「あの当主にはお仕えできません」と出奔}し、西軍の同僚からは&bold(){「あいつは東軍だから注意しろよ」と最初から敵扱い}され、 ある程度は自分のアル中ぶりが原因としても相当ハードだったらしい。 **◆余談 -アル中 秀吉の後継者と目されていた秀秋は&bold(){12歳にして連日酒宴漬けの生活}になり、梯子を外され小早川家の養子となってからも変えられなかった。 このため親である高台院などからも大量の借金を抱えるようになった上、&bold(){関ヶ原前後の18、9歳の頃には肝硬変と見られる症状が出て黄疸も出ていた。} 肝硬変は一度起こってしまえば治らない不治の病で、透析や肝移植などもできないこの時代で発症すれば長生きなどできない。 ましてや秀秋は生活を改善することもなかったらしく、当然病状は加速度的に悪化していき、残りの余命もガシガシ削れていったことだろう。 &bold(){とどのつまり体の状態と生活習慣からして関ヶ原後まもなく死ぬのも当たり前、そんなになってまで酒浸りの人間が正気を保てているわけもない。} 三成や大谷の一件が精神に影響があったのかは秀秋当人にしか分からないが、少なくとも早世に関しては祟り云々ではなく秀秋の生活習慣が原因であり、 当主が若くして心身ともにこんな状態になり、後継ぎもいないという状況では小早川家も最早家運尽きたと言わざるを得ず、 このように酒にやられていては先代からの優秀な家臣たちが小早川家から離れていくのも当然の道理と言えよう((ただ、小説「我が名は秀秋」の作者である矢野隆先生は秀秋が酒浸りだったことに関して否定的だったりと否定的な意見もある。先生に関しては願望的な部分もあるだろうが。))。 彼がアル中でなくもう少し長く生きていたら後世での評価も違ったのだろうか。 -近年の新説 と、上記のような色々とあれな評価を受けていたが昨今では関ヶ原でどっちつかずの態度などは取っておらず、最初から東軍だったとか開戦時に一気に大谷軍に突っ込んでいっただとかそもそも開戦のきっかけは秀秋だったなどという説がある。 そもそも松尾山から西軍を追い払って布陣した時点で既に東軍であると認識されてもおかしくない。 どの説でも秀秋の活躍によって西軍を総崩れにしており、今までとは違った秀秋の姿が見え始めているのかもしれない。 -養父との関係 義父となった小早川隆景との関係などについては隆景は秀秋が名島に来る時には かなり気を使った手紙を書いており(あんまりにも気を使いまくっていたので秀吉に注意されたとのこと)、 秀秋が養子となった時に開かれた宴はそれはもう壮大な宴だったらしい。 その様に自分を歓迎してくれた隆景を秀秋は大層、慕った様で堅田元慶が隆景の馬印をもっていたので譲ってもらったり、 等身大隆景の木像を作ってもらったり、隆景が死ぬとその死を悼む和歌を詠んだという話があり、親子仲は大変、よかった様だ。 上記の「あいつが毛利家を継いだら毛利は滅びるぞ!」というのも本当は隆景が秀秋を自分の子供にしたかったからそう言った可能性も……さすがにないか? まあ単に毛利本家に豊臣一門が入ることを危惧したのだと思われる。 -能 能で演じたのが女役ばかりだったらしい。 -陣羽織 彼の物とされる陣羽織が残っているが、そのデザインは&bold(){&font(#ffb74c){ド派手な色した羽織りの背中に命を刈り取る形をした鎌×2が描かれている}}というもの。 戦国の世のオシャレ度合いを物語る名品として名高い。 *【創作】 単純な気弱な人物から、あえて苦悩する優秀な人物など様々。 -合戦アドベンチャー「采配のゆくえ」 長い間裏切り者として散々な評価を受けまくっている彼だが合戦アドベンチャー「采配のゆくえ」ではなぜか萌えキャラと化した。あと顔芸。 新たな小早川秀秋像も形成されつつある…のかもしれない。 -横山光輝作の漫画「徳川家康」 歴史小説徳川家康(山岡荘八)を原作とした横山光輝作の漫画「徳川家康」では関ケ原で東軍、西軍両方からの誘いを受け、両者のやり方に呆れながら酒を飲んでいた。 また、家康から大砲を撃たれるものの、他の作品のように慌てたりする様子もなく冷静に裏切りを決めている。 酒を飲んでいる時、体調不良の様子も見られる。秀秋の死因ではないかと考えられている若い頃からの酒飲みによる肝疾患による体調不良のような描写も描かれている。 -ゲーム「[[戦国BASARA3]]」 戦国はっちゃけアクションゲームの「戦国BASARA3」では、小太りで美食家で鍋とおたまで戦うウザキャラという、 これまた(いろんな意味で)従来のキャラ性をぶち壊したキャラとして登場。 伏見城には超巨大な鍋が設置してあり、合戦中でも作戦は兵士と[[天海>天海(戦国BASARA)]]まかせで自分は鍋を食う。&font(#ff0000){何しに来たんだお前}。 キャラとルートによっては裏切らせず最後まで西軍に残らせられるが、メリットが無いから結局プレイヤーから裏切らせる悲しい扱いをされる。 -「[[戦国乙女]]」 戦国乙女「小早川ヒデアキ」名義で登場。石田三成、真田幸村、黒田官兵衛そのほかメジャー武将を差し置いての参戦に多くのファンが驚いた。 [[毛利モトナリ>毛利モトナリ(戦国乙女)]]の部下であり、彼女から拝領した妖刀「隆景」を鎌に差し替えて使用している。 泣き虫でヘタレで臆病者であるが、運ばかりはずば抜けて高い。 Legend Battleでは意図的に最弱性能にされているが、隆景を解放することで他の乙女並みの強さを得る。 -「[[殿といっしょ]]」 極めて優柔不断で忘れっぽく、関ヶ原でどちらに加勢するかを花占いで決めようとしたほどのボンクラ。 あまりの無能ぶりに、作中No.1の我慢強さを誇る家康が「これ以上待たされたら鉄砲を打ちかけてやる」と爆弾発言するほど憤慨していた。 -「[[ねこねこ日本史]]」 登場人物のほとんどが猫であるので当然、秀秋も猫(たまに犬やら猿もいるが)。 関ケ原の戦いでは高いという理由で松尾山に動いて(猫だから)、家康から江戸名物にゃんぎょうやきをもらって全部食べたが忘れたのか日向ぼっこし続け、 曇ってきたので日向があたっている光成のところに突撃(という名の日向への移動)し、光成を蹴散らし、日向ぼっこした。 と関ケ原の戦いとかどうでもよくただ日向ぼっこしていただけで両軍を翻弄しナレーターから「小早川の勝ち」という他作品では見られないであろう、 ある意味、小早川秀秋大勝利という珍しい展開を迎えている。 -「[[へうげもの]]」 普段は数奇のセンスにうるさい気だるげな若殿、しかしキレたらヤバいヤンキーじみた特攻隊長として描かれる。 直接のシーンこそないが朝鮮の役で大暴れした逸話にも言及されるなど、作中でもそのキレっぷりは知れ渡っているようだ。 関ヶ原では「家老二人が言うことを聞かぬのよ」などと白々しく言ってのけつつ、家ぐるみで堂々と日和見を決め込む。 しかし織部の身体を張った説得で趨勢を悟ってからの決断は早く、一瞬のうちに臨戦態勢に入って家臣たちを恐れさせた。 -[[NHK大河ドラマ]] 2014年の「軍師官兵衛」、2016年の「真田丸」にて、どちらも浅利陽介氏が演じて話題となった。 演技力もさることながら、氏の顔が&b(){肖像画とソックリ}((ちなみに秀秋の肖像画であるがこれは若くして亡くなった秀秋を想い、ねねが自分の手元にいた頃の秀秋をイメージして描かれたらしい。つまり、肖像画の秀秋は13~10歳ぐらいの子供の模様。また、ねねが秀吉の菩提を弔うために建立した高台寺に秀吉の肖像画と一緒に飾られた。))ということで今後も秀秋が出るなら氏が演じるのでは?と言われているとかいないとか。 追記と修正は優柔不断で信用の無い人以外お願いします。 #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,8) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - BASARAの秀秋君 &br()実は他人の筆跡を模倣できる書や文の達人だったりしてたな (劇場版) -- 松永さん (2013-07-15 23:49:31) - 百万人の戦国無双の秀秋もなかなかいいキャラだったよ、細川忠興並とは言わないが病みキャラだったが、こいつは状況や過程から裏切りまだ許せるんだ、むしろ田中吉政の屑っぷりの方が -- 名無しさん (2013-08-07 01:24:37) - 「風雲児たち」に出てくるこの人は、いかにも優柔不断そうな自画像をさらに福笑いみたいにし、裸の大将みたいなしゃべり方にしたキャラだった。本人は草葉の陰でどう思っているのだろう。 -- 名無しさん (2013-08-12 20:33:14) - 裏切り・背信は国が滅びようとも永久に語り継がれるから仕方ないとも思ってそうだけどね -- 名無しさん (2013-08-12 21:35:35) - 糞ドラマ「戦国自衛隊~関ヶ原の戦い~」の唯一の評価点。 -- 名無しさん (2013-10-09 19:37:41) - 朝鮮出征では20人くらい倒したとか何とか -- 名無しさん (2013-11-28 09:29:24) - 遠くの銃声にびびって東軍に寝返ったと聞いたことある -- 名無しさん (2013-11-28 09:35:48) - 『影武者徳川家康』(漫画版)では、三成が吉継の霊と語っているのを見て、大谷勢の亡霊見てびびってたな -- 名無しさん (2013-11-28 11:07:08) - 義風堂々では エラいイケメンだった -- 松永さん (2013-11-28 12:09:22) - ↑途中発信失礼 &br() 大谷さんが ね -- 松永さん (2013-11-28 12:11:22) - ↑6 秀秋はカッコよかったね 他作品での扱いがひどすぎるだけなんだけど -- 名無しさん (2013-11-28 12:17:17) - 隆慶一郎の小説だとやたらかっこよかった -- 名無しさん (2013-12-30 10:01:11) - 無双のねね外伝、関ヶ原乱入ではモブながらかなりの存在感だったなあ -- 名無しさん (2014-01-31 11:24:31) - 戦国自衛隊での伊庭とのやり取りは必見。「歴史を信じるなら家康だ……」「本当だな……!それで本当に戦の世が終わるんだな……!」「コクリ」→「目指すは石田治部少!!我に続け!!!」カッコよすぎ -- 名無しさん (2014-01-31 12:26:34) - 小早川家は跡継ぎがいないので断絶したけど、隆景は毛利の血統だからどうなんだろ。 -- 名無しさん (2014-03-26 21:46:40) - 隆景も実子が居ないし、そもそも小早川は秀秋の頃には「毛利両川」と言われた半家臣でもなくなってる -- 名無しさん (2014-05-26 10:25:32) - まあそこそこの能力はあったんだろうな。20歳にもなってないのに朝鮮で総大将だし -- 名無しさん (2014-05-26 10:40:10) - 朝鮮での減封罰は本国帰還命令を無視したのも秀吉に怒られた原因。その場合清正死んでただろうけど -- 名無しさん (2014-05-26 13:17:09) - 秀頼が生まれた後は冷遇なんてもんじゃない。一緒に養子になった義理の兄の秀次は妻子はもちろん使用人まで皆殺し。秀秋も一歩間違えば殺されてた。受けた仕打ち考えたら西軍につくわけがない -- 名無しさん (2014-08-11 23:29:35) - 西軍が勝ったとしてもその後の日本が戦国の世に逆戻りした可能性高いしそうなれば西欧諸国の植民地になった可能性もある。小早川の決断は日本の将来を決したと言えるな -- 名無しさん (2014-08-12 00:34:33) - ものすごい男色家としても有名。片倉重綱はイケメンだったんで秀秋に追いかけ回されたことがあったそうな -- (2014-08-14 01:30:55) - 関ヶ原の戦いが -- 名無しさん (2014-08-14 01:43:10) - ↑ミスった関ヶ原の戦いが短期で終わったのはこいつの裏切りがあってのことなのに優柔不断扱いはおかしくない? -- 名無しさん (2014-08-14 01:44:23) - ↑それこそ後世のイメージ操作だよな -- 名無しさん (2014-08-14 20:14:12) - 「采配のゆくえ」の顔芸は本気でビビった -- 名無しさん (2014-08-14 21:51:44) - 嫌われすぎて死因が「農民に股間を蹴られて死亡」とか語られてるからな… -- 名無しさん (2014-08-15 09:22:05) - 基本的に善政を敷いてたし領民には慕われてたんだけどな。これでも秀吉の養子やぞ -- 名無しさん (2014-08-15 09:54:35) - 徳川幕府からすれば神君家康の策略にまんまとはまった愚かな若造、明治政府からすれば脅しに屈して家康に味方した臆病者と印象付ける必要があったからな、そりゃネガティブなイメージしかつかないわな -- 名無しさん (2014-08-16 00:47:30) - この人のいいところを探そうぜ!! -- 名無しさん (2014-08-29 07:14:55) - ない。以上 -- 名無しさん (2014-08-29 07:31:51) - 秀吉以外には結構好かれてる所。朝鮮戦役で清正助けた所。 -- 名無しさん (2014-08-29 10:50:01) - もうちょい図太いところがあればなぁ。戦国武将なんて裏切り寝返り当たり前だったし。 -- 名無しさん (2014-08-29 14:59:26) - 三成に卑怯者って罵られた時言い返せればもっと評価違ったかもね。そこで黙っちゃいけない -- 名無しさん (2014-08-29 15:05:40) - > (2013-11-28 11:07:08) 確かそのびびって奇行を行ったことが、次郎三郎(家康の影武者)と三成が会見するきっかけになったんだっけか? -- 名無しさん (2014-08-29 15:31:33) - 最近では元々東軍だったって言われてるよね。まぁ先にいた西軍から陣地奪ってるし、徳川には元々内通していて鳥居元忠を攻めた事を謝る書状があるし、三成も元々信用していなかったらしい証拠もあるし裏切ったって言うのは不当な評価よね。これまでもこれからも裏切り者と言われるんだろうけど。 -- 名無しさん (2014-10-09 08:51:19) - ↑藤堂高虎も「武士は七回(八回)主を変えてなんぼ…」みたいなこと言ってるしね……ついでに三成や吉継の祟りというなら真っ先に徳川に行きそうなものだが(裏切ったからと言うなら見抜けなかった二人にも大きな落ち度があることになる。吉継は見透かしていたらしいけど) -- 名無しさん (2014-10-09 09:06:56) - というか元々は家康の上杉征伐の為の出征軍を無理矢理西軍に編成されただけだしね -- 名無しさん (2014-11-01 16:22:03) - 『逆風の太刀』の秀秋はかっこよかったな -- 名無しさん (2014-11-02 00:04:30) - 秀吉の親戚っていうよりねねの親戚ってイメージ -- 名無しさん (2014-11-02 21:28:54) - 個人的な考えだけど関ヶ原時に迷っていたかというのも怪しいと思う -- 名無しさん (2014-11-15 20:56:27) - ↑関ヶ原の項目だと戦開始から4時間で裏切ってる。 -- 名無しさん (2014-11-15 21:23:24) - ↑それも一番いいタイミングをうかがってただけという説もある -- 名無しさん (2014-11-20 02:09:43) - てか、関ヶ原の合戦当時19歳。悩みもすりゃー迷いもするさ。 -- 名無しさん (2014-11-20 02:21:15) - 4時間が長いのか? -- 名無しさん (2014-12-15 15:57:18) - 優柔不断なイメージが定着している人が戦国大戦の秀秋見たらどう思うだろう。「こんなん秀秋じゃない!」って言いそうだが -- 名無しさん (2014-12-15 17:00:38) - ↑2 そりゃ最初から裏切るよって聞いてたのにいつまでも動かなかったら家康もやきもきする。決着の時間自体は合戦の規模に比べて異例の短さな分、秀秋の立ち位置が如何に重要だったかが分かる -- 名無しさん (2014-12-15 17:10:21) - 三成に罵られた際に言い返せてればな… わしは豊家のためにおぬしを裏切ったのだとか言えてれば気骨のある一本筋の通った武将として評価されただろうに -- 名無しさん (2015-10-12 00:39:24) - ⬆それでも後世では偽善者とか言われそうだけどな -- 名無しさん (2015-10-12 08:47:32) - ↑でも卑怯者、小心者と言われるよりはましだと思うが  -- 名無しさん (2015-10-22 00:13:18) - 死因はいろいろ情けなく言われてるがアルコール中毒になったことによる肝臓系の病気と考えるのが妥当だろうな -- 名無しさん (2015-11-02 20:11:48) - 短気なのは、色んなところへ養子に出されたり戻されたりを繰り返して心が不安定だったんだろうな -- (2015-11-02 20:29:29) - そもそも10代後半で重い決断ばっか強いられすぎてるかな。そりゃ情緒不安定にもなるわ -- 名無しさん (2015-11-02 20:45:32) - 一時期は天下人の跡継ぎ候補、そして名門武家の分家、そして改易からの復帰か… 確かにメンタル不安定になるわ -- 名無しさん (2015-11-03 09:39:41) - 関ヶ原の戦いを描く時、作品によって東西で善悪が割れるけど、大体「小早川が悪」ってのは一緒なんだよね…まぁ、幕末の井伊直弼にも言える事だが。 -- 名無しさん (2015-11-03 10:08:39) - 裏切りは喜ばれても裏切り者は疎まれる好例 -- 名無しさん (2015-11-03 10:26:56) - 最近では擁護されるようになったのか関ヶ原は松尾山に入ると言う西軍に対する明らかな反逆行為により包囲された小早川を救出するために起きた戦いだったとか脇坂をはじめとする四将に裏切りを説得し、全員から了解を得たから大谷に攻撃したから迷っていたと見えるだけと言う説もある -- 名無しさん (2015-12-05 19:13:32) - 三成に卑怯者と罵られたとかは創作だろうから言い返すも何もないと思う 逆風の太刀はかなりカッコ良かったな -- 名無しさん (2016-03-30 12:29:01) - 事前に三成に、「西軍に着いてもいいけど、何かあったら裏切らせてもらうから覚悟しておくことだな」と言い放ってたらかっこいいのになぁ。 -- 名無しさん (2016-03-30 12:44:58) - 後年の創作のせいで評価落としまくった人というイメージ。初陣の朝鮮で大活躍はもっと色んな人に知られていい -- 名無しさん (2016-05-22 06:27:49) - 本人の資質は抜きにしても秀吉の晩年の奇行でゆがんだイメージがある。少なくともあの秀吉に見いだされた人なんだから無能なはずはない。そんな人物があの仕打ちなんだからそりゃ裏切りますよ、豊臣家に恨みはあれど自分の輝かしい未来を奪った人に付いていくことはできないだろうし -- 名無しさん (2016-08-24 13:59:32) - 大幅減封された際に大坂城で三成に切りかかろうとしたらしいね そんな関係じゃ裏切るのも当たり前か -- 名無しさん (2016-09-11 09:52:59) - い、今川義元よりはマシだから -- 名無しさん (2016-09-11 10:25:50) - ぶっちゃけこの人のたどってきた経緯や秀吉や三成から受けた処遇なんかを考えるとそもそも最初に西軍についたこと自体が不思議な位なんだよなあ -- 名無しさん (2016-09-11 10:44:22) - ↑始め東軍につこうとしてたら西軍に囲まれてやむを得ず西軍についただけだからなあ 伏見城攻め後はほとんど何もしてないし家康に接近しまくってるし -- 名無しさん (2016-09-11 10:52:39) - そもそも、裏切りなんて戦国時代ではみんなやっているからな。三成が潔癖(頭でっかち)なだけだという気もする。 -- 名無しさん (2016-09-11 18:21:24) - ↑ それはそうだけど、三成の不備を指摘して開き直れなかった、へし折れて自滅してったのは本人の限界 -- 名無しさん (2016-09-11 18:48:50) - 皮肉なことに裏切り上等みたいな奴ではなかったんだろうな -- 名無しさん (2016-09-11 19:37:25) - 国替えから2年。酒の飲みすぎで死亡。2年のうちの晩年には奇行が目立つ。そりゃ評価も下がるだろう。 -- 名無しさん (2016-09-23 03:06:02) - ↑7ネタだと思うがそもそも比べるまでもなく大大名の義元さんとは人物の大きさが違うし、死に方も不運であって別に情けなくもない。加えてお前も本当に戦国大名なのかと言いたくなる息子の氏真もなんやかんや波乱万丈の人生ながらも夫婦円満、お家存続、天寿をまっとうのフルコンボよ。いやホントにこういう人もいるのになぁ -- 名無しさん (2016-09-23 04:55:11) - ある意味「未来を決めた(作った)若者」なんだけどなぁ。 -- 名無しさん (2016-09-23 08:38:47) - ↑5 創作逸話に死んだ後反論しろとか、大軍を前に開き直らないと限界とか、そんな無茶言われても…… -- 名無しさん (2016-10-11 09:47:00) - ↑ んなこと言ってたら「ダメなアル中がくたばった」の一言で終わりな話だぞ -- 名無しさん (2016-10-11 18:06:35) - ここ十年くらいで急速に再評価がされてきてる武将 最近では関ヶ原開戦時に大谷軍に突っ込んでいたという話もある -- 名無しさん (2017-01-05 23:00:23) - 開戦後さっさと徳川に御味方して西軍が総崩れになったって記録が関ヶ原の2日後の徳川方書状や宣教師の書簡にあるみたいだね。真田丸の考証の先生が紹介してたけど。 -- 名無しさん (2017-01-07 02:02:15) - 他家に養子に出されては戻された日々で荒れて若い頃からアル中、ねねの他大勢の人間から借金までしていた。最近では酒の飲みすぎで肝硬変を患っていたのが死因らしい -- 名無しさん (2017-02-11 23:12:02) - とりあえずみんな「我が名は秀秋」読もうぜ -- 名無しさん (2019-01-31 12:39:20) - 最近じゃあ鬼切丸伝で怨霊ネタを使われて死んだ人 -- 名無しさん (2019-01-31 16:08:37) - 鉄砲を撃ちかけられて~は有名だが現地調査したら弾はおろか銃声さえ届かないと判明、やっぱ死人に口なしで悪い部分押しつけられたんやろな -- 名無しさん (2019-01-31 16:16:31) - 浅利陽介氏、ググってみたら確かにイメージぴったりだわw -- 名無しさん (2019-08-03 01:56:01) - 結果的に徳川家臣ダシに使ってMVP獲ったという恨み買ったが、小早川家の戦後の処遇も考えたら井伊や福島が戦場に居る状況で寝返りは出来んわな。絶対に難癖付けられる -- 名無しさん (2021-01-03 23:54:17) - 上でも言われてたけど、裏切り上等なら三成に罵られて苦悩のあまり早世したりしなかっただろうな。もっと松永久秀あたりを見習ってみればよかった -- 名無しさん (2021-01-04 00:06:50) - 苦悩とか以前に関ヶ原辺りでもう早世が確定するほど病状進んでるぞ -- 名無しさん (2021-01-04 00:19:43) - せめて30代まで生きてまともに領地を治めてればもっとマシな評価だっただろうとは思う -- 名無しさん (2021-01-04 00:37:39) - 10代なうえに全然戦してないのに朝鮮攻めの重要ポストなったのは戦死させるか失敗させて理由付けて粛清する気だったのかな秀吉 -- 名無しさん (2021-03-25 00:58:48) - 小早川秀秋は裏切り者の代名詞で有名だが秀秋は死後に言われるようになったが片桐且元は生前から裏切り者と言われていた。 -- 名無しさん (2021-04-10 21:20:54) #comment #areaedit(end) }
&font(#6495ED){登録日}:2009/12/01(火) 18:51:28 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 10 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- &bold(){小早川秀秋}とは、日本の戦国武将の1人。 『[[関ヶ原の戦い>関ヶ原の戦い(戦国時代)]]』の勝敗を決定づけたと言われることから、[[徳川家康>徳川家康(戦国武将)]]関係の作品を始め多くの創作にも登場する。 ●目次 #contents *【史実】 **◆概要 1582-1602 [[豊臣秀吉>豊臣秀吉(戦国武将)]]の義理の甥(秀吉の正室おねの兄・木下家定の五男)。近江国の長浜にて生を受ける。 [[関ヶ原の戦い>関ヶ原の戦い(戦国時代)]]において傍観する西軍の将の中で最初に裏切り、その後の裏切りの連鎖を引き起こした。 名前の推移:木下辰之助→木下秀俊→羽柴秀俊→小早川秀俊→小早川秀秋→小早川秀詮 ※最終的な名乗りは「小早川秀詮」であるが、改名したのが関ヶ原の後で、名乗った期間がかなり短いため、一般的には「秀秋」の表記が使われる。 **◆人物 学問を学ぶ姿勢はあまりなく優柔不断で悪政をしいたとも幼少期は利口であったとも言われる。&bold(){短気であったことはほぼ確定}らしい。 ちなみに小早川家には優秀な家臣がいたため藩主として目立った悪政をしいたという事はないとか、そもそも秀秋年齢自体、かなり若かったので良くも悪くも目立ってなかった模様。 後世のイメージ操作はよくあることだから仕方ないね。 **◆来歴 実子のいなかった豊臣秀吉の養子となり(この時の名前は「羽柴秀俊」)、急に裕福になるが、 秀頼が生まれたことで跡継ぎとしての立場が無くなり冷遇を受けていたところで黒田如水の助力を貰い小早川家の小早川隆景の養子となる。 歪んだ性格は幼少期に散々持ち上げられたり突き落とされたりしたためとも言われる。 この後、いわゆる豊臣秀次事件に連座して領地を没収されるが、養父の隆景が隠居したためその跡を継いでいる。 朝鮮出兵(15才)の際には敵兵に囲まれた加藤軍に救援に行き活躍するも、その戦果を報告された秀吉によって「守備任せたのになに突撃してんの馬鹿なの?死ぬの?」と説教を食らった挙句大幅減封及び転封。 &s(){ちなみに転封前の領地は石田三成に奪われている。}→三成はこれを辞退したが、秀秋旧領は豊臣家直轄地となり、その代官に任命されている。 加藤軍を救援した際の秀秋はリアル無双したそうな。 秀吉の死後に[[徳川家康>徳川家康(戦国武将)]]の根回しで減封は取り消されいい具合に家康に釣られる。ただし多くの家臣が以前の減封により秀秋の元を離れた。 伏見城の戦いにおいては東軍鳥居元忠に援軍を申し入れるも、 「援軍とか聞いてない。どうせそう見せかけて裏切るんでしょ?よくあるんだよねそういうの」 と拒否され、西軍に付かざるを得なくなり(これは[[島津義弘>島津義弘(戦国武将)]]も同様)不本意にも武功を上げてしまう。 秀秋がこの際の行動を悔いてノイローゼになり各地をうろうろしているうちに関ヶ原の戦いが起こる。   ***関ヶ原の戦い そもそも会津討伐に参加するため畿内に入ったところ、成り行きで西軍になったため割とすんなり東軍の内通に応じるが、 『あいつ絶対裏切るだろ…』と思っていた三成と[[大谷吉継]]から「勝ったら関白にしてやる」などと釘を刺される。 そのためかそうでないのかは分からないが1万5000もの兵(西軍で2番目の兵数)を率いる秀秋は西軍有利にも関わらず傍観。 家康がキレたところでようやく寝返り大谷隊に攻めかかるが事態を予測していた大谷隊から予備の600人の部隊が出てくるとびっくりして押し返される。 しかし、連鎖的に寝返った脇坂隊、赤座隊らの助力もありこれを撃破、これを期に3万を率いる家康本隊も加勢し東軍の勝利となった。 余談だが、敗戦後落ち延びていたものの捕縛され、重罪人として晒されていた石田三成に何を思ったのか会いに行っている。 言うまでもないが三成がそんな目に遭っている最大の要因とも言っても過言ではない秀秋がそんなことをすればトラブルになることは火を見るより明らかであり、 同行していた細川忠興に止められたが三成の視界に入ってしまう。 三成は秀秋を見るなり彼を罵倒し、 「お前が裏切るつもりだったことを見抜けなかったのは自分の落ち度だが、約束を破って人を裏切るなど武士の風上にも置けない。 この世の末までお前のやったことを語り継ぎ、笑ってやろう」とさえ言われるも、秀秋は何も言い返せなかったという。 ***関ヶ原の戦い後 戦後は岡山55万石に加増され内政に力を注ぐが家臣の出奔や不審死が相次ぎ、そして自らも21才の若さで急死している。 死因に関しては複数の説があり、病死の他に、無礼を働いた小姓を斬ろうとして&bold(){返り討ちに遭った}、村の視察中に怒った農民に&bold(){股間を潰されて死んだ}、 果ては大谷吉継の祟りで狂い死んだなどの説があるが、病死以外はなんとも情けない死因ばかりであり、 これらに関しては『因果応報』的な意味合いの強い俗説とも言われている。 ちなみに、秀秋は晩年家老を手討ちにするなどの奇行が目立っていたが、 三成に言われたことを気にして精神的に参り、三成や吉継などの幻影を見るほど精神薄弱状態だったらしい。 秀秋の急死の後、小早川家は跡継ぎがいなくなったため無嗣断絶として取り潰された。 秀秋や小早川家のこの末路に関しては、石田三成や大谷吉継の怨霊の仕業とまことしやかに囁かれたとかなんとか。 ただ、秀秋が若くして亡くなったことに関しては&bold(){秀秋が重度のアル中だった}ことに端を発するというのが現在の説である。 詳しくは余談にて。 そして毛利家の一門であるはずの小早川家だが、秀吉一門に再乗っ取りされたことなどもあってかすぐ再興されることはなかった。そしてそのまま廃藩置県を迎えた。 関ヶ原後は毛利本家も大減封でそれどころではなかったとはいえ、いくらなんでも放置されすぎでは… なお秀秋の人間関係は叔父(秀吉)には&bold(){「秀頼!秀頼!秀頼!」と要らない子扱い}され、養父(隆景)には&bold(){「あいつが毛利家を継いだら毛利は滅びるぞ!」と懸念}されたことで養子となり、&bold(){全く戦の経験がないのに朝鮮出兵では15歳にして総大将にされ} 小早川家家臣は&bold(){「あの当主にはお仕えできません」と出奔}し、西軍の同僚からは&bold(){「あいつは東軍だから注意しろよ」と最初から敵扱い}され、 ある程度は自分のアル中ぶりが原因としても相当ハードだったらしい。 **◆余談 -アル中 秀吉の後継者と目されていた秀秋は&bold(){12歳にして連日酒宴漬けの生活}になり、梯子を外され小早川家の養子となってからも変えられなかった。 このため親である高台院などからも大量の借金を抱えるようになった上、&bold(){関ヶ原前後の18、9歳の頃には肝硬変と見られる症状が出て黄疸も出ていた。} 肝硬変は一度起こってしまえば治らない不治の病で、透析や肝移植などもできないこの時代で発症すれば長生きなどできない。 ましてや秀秋は生活を改善することもなかったらしく、当然病状は加速度的に悪化していき、残りの余命もガシガシ削れていったことだろう。 &bold(){とどのつまり体の状態と生活習慣からして関ヶ原後まもなく死ぬのも当たり前、そんなになってまで酒浸りの人間が正気を保てているわけもない。} 三成や大谷の一件が精神に影響があったのかは秀秋当人にしか分からないが、少なくとも早世に関しては祟り云々ではなく秀秋の生活習慣が原因であり、 当主が若くして心身ともにこんな状態になり、後継ぎもいないという状況では小早川家も最早家運尽きたと言わざるを得ず、 このように酒にやられていては先代からの優秀な家臣たちが小早川家から離れていくのも当然の道理と言えよう((ただ、小説「我が名は秀秋」の作者である矢野隆先生は秀秋が酒浸りだったことに関して否定的だったりと否定的な意見もある。先生に関しては願望的な部分もあるだろうが。))。 彼がアル中でなくもう少し長く生きていたら後世での評価も違ったのだろうか。 -近年の新説 関ヶ原の戦いではギリギリまで裏切るかどうか迷い、家康に鉄砲で脅されてようやく裏切ったと言われ、優柔不断なイメージで語られていた秀秋だが、 関ヶ原前後の動きなどが研究されるにつれ、「最初から東軍でどっちつかずの態度など取っていない」とか、「開戦時に一気に大谷軍に突っ込んでいった」とか、 「開戦のきっかけが秀秋だった」などという説があり、東軍寝返りの理由も、叔母だが母のように慕う北政所の立場を慮ってのものとする説も。 そもそも松尾山から西軍を追い払って布陣した時点で東軍だと認識されてもおかしくない。 どの説でも秀秋の活躍によって西軍を総崩れにしており、今までとは違った秀秋の姿が見え始めているのかもしれない。 -養父との関係 義父となった小早川隆景との関係などについては、隆景は秀秋が名島に来る時にはかなり気を使った手紙を書いており(あんまりにも気を使いまくっていたので秀吉に注意されたとのこと)、 秀秋が養子となった時に開かれた宴はそれはもう壮大な宴だったらしい。 その様に自分を歓迎してくれた隆景を秀秋は大層、慕った様で堅田元慶が隆景の馬印をもっていたので譲ってもらったり、 等身大隆景の木像を作ってもらったり、隆景が死ぬとその死を悼む和歌を詠んだという話があり、親子仲は大変、よかった様だ。 上記の「あいつが毛利家を継いだら毛利は滅びるぞ!」というのも本当は隆景が秀秋を自分の子供にしたかったからそう言った可能性も……さすがにないか? まあ単に毛利本家に豊臣一門が入ることを危惧したのだと思われる。 -能 能で演じたのが女役ばかりだったらしい。 -陣羽織 彼の物とされる陣羽織が残っているが、そのデザインは&bold(){&font(#ffb74c){ド派手な色した羽織りの背中に命を刈り取る形をした鎌×2が描かれている}}というもの。 戦国の世のオシャレ度合いを物語る名品として名高い。 *【創作】 単純な気弱な人物から、あえて苦悩する優秀な人物など様々。 -合戦アドベンチャー「采配のゆくえ」 長い間裏切り者として散々な評価を受けまくっている彼だが合戦アドベンチャー「采配のゆくえ」ではなぜか萌えキャラと化した。あと顔芸。 新たな小早川秀秋像も形成されつつある…のかもしれない。 -横山光輝作の漫画「徳川家康」 歴史小説徳川家康(山岡荘八)を原作とした横山光輝作の漫画「徳川家康」では関ケ原で東軍、西軍両方からの誘いを受け、両者のやり方に呆れながら酒を飲んでいた。 また、家康から大砲を撃たれるものの、他の作品のように慌てたりする様子もなく冷静に裏切りを決めている。 酒を飲んでいる時、体調不良の様子も見られる。秀秋の死因ではないかと考えられている若い頃からの酒飲みによる肝疾患による体調不良のような描写も描かれている。 -ゲーム「[[戦国BASARA3]]」 戦国はっちゃけアクションゲームの「戦国BASARA3」では、小太りで美食家で鍋とおたまで戦うウザキャラという、 これまた(いろんな意味で)従来のキャラ性をぶち壊したキャラとして登場。 伏見城には超巨大な鍋が設置してあり、合戦中でも作戦は兵士と[[天海>天海(戦国BASARA)]]まかせで自分は鍋を食う。&font(#ff0000){何しに来たんだお前}。 キャラとルートによっては裏切らせず最後まで西軍に残らせられるが、メリットが無いから結局プレイヤーから裏切らせる悲しい扱いをされる。 -「[[戦国乙女]]」 戦国乙女「小早川ヒデアキ」名義で登場。石田三成、真田幸村、黒田官兵衛そのほかメジャー武将を差し置いての参戦に多くのファンが驚いた。 [[毛利モトナリ>毛利モトナリ(戦国乙女)]]の部下であり、彼女から拝領した妖刀「隆景」を鎌に差し替えて使用している。 泣き虫でヘタレで臆病者であるが、運ばかりはずば抜けて高い。 Legend Battleでは意図的に最弱性能にされているが、隆景を解放することで他の乙女並みの強さを得る。 -「[[殿といっしょ]]」 極めて優柔不断で忘れっぽく、関ヶ原でどちらに加勢するかを花占いで決めようとしたほどのボンクラ。 あまりの無能ぶりに、作中No.1の我慢強さを誇る家康が「これ以上待たされたら鉄砲を打ちかけてやる」と爆弾発言するほど憤慨していた。 -「[[ねこねこ日本史]]」 登場人物のほとんどが猫であるので当然、秀秋も猫(たまに犬やら猿もいるが)。 関ケ原の戦いでは高いという理由で松尾山に動いて(猫だから)、家康から江戸名物にゃんぎょうやきをもらって全部食べたが忘れたのか日向ぼっこし続け、 曇ってきたので日向があたっている光成のところに突撃(という名の日向への移動)し、光成を蹴散らし、日向ぼっこした。 と関ケ原の戦いとかどうでもよくただ日向ぼっこしていただけで両軍を翻弄しナレーターから「小早川の勝ち」という他作品では見られないであろう、 ある意味、小早川秀秋大勝利という珍しい展開を迎えている。 -「[[へうげもの]]」 普段は数奇のセンスにうるさい気だるげな若殿、しかしキレたらヤバいヤンキーじみた特攻隊長として描かれる。 直接のシーンこそないが朝鮮の役で大暴れした逸話にも言及されるなど、作中でもそのキレっぷりは知れ渡っているようだ。 関ヶ原では「家老二人が言うことを聞かぬのよ」などと白々しく言ってのけつつ、家ぐるみで堂々と日和見を決め込む。 しかし織部の身体を張った説得で趨勢を悟ってからの決断は早く、一瞬のうちに臨戦態勢に入って家臣たちを恐れさせた。 -[[NHK大河ドラマ]] 2014年の「軍師官兵衛」、2016年の「真田丸」にて、どちらも浅利陽介氏が演じて話題となった。 演技力もさることながら、氏の顔が&b(){肖像画とソックリ}((ちなみに秀秋の肖像画であるがこれは若くして亡くなった秀秋を想い、ねねが自分の手元にいた頃の秀秋をイメージして描かれたらしい。つまり、肖像画の秀秋は13~10歳ぐらいの子供の模様。また、ねねが秀吉の菩提を弔うために建立した高台寺に秀吉の肖像画と一緒に飾られた。))ということで、今後も秀秋が出るなら氏が演じるのでは?と言われているとかいないとか。 追記と修正は優柔不断で信用の無い人以外お願いします。 #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,8) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - BASARAの秀秋君 &br()実は他人の筆跡を模倣できる書や文の達人だったりしてたな (劇場版) -- 松永さん (2013-07-15 23:49:31) - 百万人の戦国無双の秀秋もなかなかいいキャラだったよ、細川忠興並とは言わないが病みキャラだったが、こいつは状況や過程から裏切りまだ許せるんだ、むしろ田中吉政の屑っぷりの方が -- 名無しさん (2013-08-07 01:24:37) - 「風雲児たち」に出てくるこの人は、いかにも優柔不断そうな自画像をさらに福笑いみたいにし、裸の大将みたいなしゃべり方にしたキャラだった。本人は草葉の陰でどう思っているのだろう。 -- 名無しさん (2013-08-12 20:33:14) - 裏切り・背信は国が滅びようとも永久に語り継がれるから仕方ないとも思ってそうだけどね -- 名無しさん (2013-08-12 21:35:35) - 糞ドラマ「戦国自衛隊~関ヶ原の戦い~」の唯一の評価点。 -- 名無しさん (2013-10-09 19:37:41) - 朝鮮出征では20人くらい倒したとか何とか -- 名無しさん (2013-11-28 09:29:24) - 遠くの銃声にびびって東軍に寝返ったと聞いたことある -- 名無しさん (2013-11-28 09:35:48) - 『影武者徳川家康』(漫画版)では、三成が吉継の霊と語っているのを見て、大谷勢の亡霊見てびびってたな -- 名無しさん (2013-11-28 11:07:08) - 義風堂々では エラいイケメンだった -- 松永さん (2013-11-28 12:09:22) - ↑途中発信失礼 &br() 大谷さんが ね -- 松永さん (2013-11-28 12:11:22) - ↑6 秀秋はカッコよかったね 他作品での扱いがひどすぎるだけなんだけど -- 名無しさん (2013-11-28 12:17:17) - 隆慶一郎の小説だとやたらかっこよかった -- 名無しさん (2013-12-30 10:01:11) - 無双のねね外伝、関ヶ原乱入ではモブながらかなりの存在感だったなあ -- 名無しさん (2014-01-31 11:24:31) - 戦国自衛隊での伊庭とのやり取りは必見。「歴史を信じるなら家康だ……」「本当だな……!それで本当に戦の世が終わるんだな……!」「コクリ」→「目指すは石田治部少!!我に続け!!!」カッコよすぎ -- 名無しさん (2014-01-31 12:26:34) - 小早川家は跡継ぎがいないので断絶したけど、隆景は毛利の血統だからどうなんだろ。 -- 名無しさん (2014-03-26 21:46:40) - 隆景も実子が居ないし、そもそも小早川は秀秋の頃には「毛利両川」と言われた半家臣でもなくなってる -- 名無しさん (2014-05-26 10:25:32) - まあそこそこの能力はあったんだろうな。20歳にもなってないのに朝鮮で総大将だし -- 名無しさん (2014-05-26 10:40:10) - 朝鮮での減封罰は本国帰還命令を無視したのも秀吉に怒られた原因。その場合清正死んでただろうけど -- 名無しさん (2014-05-26 13:17:09) - 秀頼が生まれた後は冷遇なんてもんじゃない。一緒に養子になった義理の兄の秀次は妻子はもちろん使用人まで皆殺し。秀秋も一歩間違えば殺されてた。受けた仕打ち考えたら西軍につくわけがない -- 名無しさん (2014-08-11 23:29:35) - 西軍が勝ったとしてもその後の日本が戦国の世に逆戻りした可能性高いしそうなれば西欧諸国の植民地になった可能性もある。小早川の決断は日本の将来を決したと言えるな -- 名無しさん (2014-08-12 00:34:33) - ものすごい男色家としても有名。片倉重綱はイケメンだったんで秀秋に追いかけ回されたことがあったそうな -- (2014-08-14 01:30:55) - 関ヶ原の戦いが -- 名無しさん (2014-08-14 01:43:10) - ↑ミスった関ヶ原の戦いが短期で終わったのはこいつの裏切りがあってのことなのに優柔不断扱いはおかしくない? -- 名無しさん (2014-08-14 01:44:23) - ↑それこそ後世のイメージ操作だよな -- 名無しさん (2014-08-14 20:14:12) - 「采配のゆくえ」の顔芸は本気でビビった -- 名無しさん (2014-08-14 21:51:44) - 嫌われすぎて死因が「農民に股間を蹴られて死亡」とか語られてるからな… -- 名無しさん (2014-08-15 09:22:05) - 基本的に善政を敷いてたし領民には慕われてたんだけどな。これでも秀吉の養子やぞ -- 名無しさん (2014-08-15 09:54:35) - 徳川幕府からすれば神君家康の策略にまんまとはまった愚かな若造、明治政府からすれば脅しに屈して家康に味方した臆病者と印象付ける必要があったからな、そりゃネガティブなイメージしかつかないわな -- 名無しさん (2014-08-16 00:47:30) - この人のいいところを探そうぜ!! -- 名無しさん (2014-08-29 07:14:55) - ない。以上 -- 名無しさん (2014-08-29 07:31:51) - 秀吉以外には結構好かれてる所。朝鮮戦役で清正助けた所。 -- 名無しさん (2014-08-29 10:50:01) - もうちょい図太いところがあればなぁ。戦国武将なんて裏切り寝返り当たり前だったし。 -- 名無しさん (2014-08-29 14:59:26) - 三成に卑怯者って罵られた時言い返せればもっと評価違ったかもね。そこで黙っちゃいけない -- 名無しさん (2014-08-29 15:05:40) - > (2013-11-28 11:07:08) 確かそのびびって奇行を行ったことが、次郎三郎(家康の影武者)と三成が会見するきっかけになったんだっけか? -- 名無しさん (2014-08-29 15:31:33) - 最近では元々東軍だったって言われてるよね。まぁ先にいた西軍から陣地奪ってるし、徳川には元々内通していて鳥居元忠を攻めた事を謝る書状があるし、三成も元々信用していなかったらしい証拠もあるし裏切ったって言うのは不当な評価よね。これまでもこれからも裏切り者と言われるんだろうけど。 -- 名無しさん (2014-10-09 08:51:19) - ↑藤堂高虎も「武士は七回(八回)主を変えてなんぼ…」みたいなこと言ってるしね……ついでに三成や吉継の祟りというなら真っ先に徳川に行きそうなものだが(裏切ったからと言うなら見抜けなかった二人にも大きな落ち度があることになる。吉継は見透かしていたらしいけど) -- 名無しさん (2014-10-09 09:06:56) - というか元々は家康の上杉征伐の為の出征軍を無理矢理西軍に編成されただけだしね -- 名無しさん (2014-11-01 16:22:03) - 『逆風の太刀』の秀秋はかっこよかったな -- 名無しさん (2014-11-02 00:04:30) - 秀吉の親戚っていうよりねねの親戚ってイメージ -- 名無しさん (2014-11-02 21:28:54) - 個人的な考えだけど関ヶ原時に迷っていたかというのも怪しいと思う -- 名無しさん (2014-11-15 20:56:27) - ↑関ヶ原の項目だと戦開始から4時間で裏切ってる。 -- 名無しさん (2014-11-15 21:23:24) - ↑それも一番いいタイミングをうかがってただけという説もある -- 名無しさん (2014-11-20 02:09:43) - てか、関ヶ原の合戦当時19歳。悩みもすりゃー迷いもするさ。 -- 名無しさん (2014-11-20 02:21:15) - 4時間が長いのか? -- 名無しさん (2014-12-15 15:57:18) - 優柔不断なイメージが定着している人が戦国大戦の秀秋見たらどう思うだろう。「こんなん秀秋じゃない!」って言いそうだが -- 名無しさん (2014-12-15 17:00:38) - ↑2 そりゃ最初から裏切るよって聞いてたのにいつまでも動かなかったら家康もやきもきする。決着の時間自体は合戦の規模に比べて異例の短さな分、秀秋の立ち位置が如何に重要だったかが分かる -- 名無しさん (2014-12-15 17:10:21) - 三成に罵られた際に言い返せてればな… わしは豊家のためにおぬしを裏切ったのだとか言えてれば気骨のある一本筋の通った武将として評価されただろうに -- 名無しさん (2015-10-12 00:39:24) - ⬆それでも後世では偽善者とか言われそうだけどな -- 名無しさん (2015-10-12 08:47:32) - ↑でも卑怯者、小心者と言われるよりはましだと思うが  -- 名無しさん (2015-10-22 00:13:18) - 死因はいろいろ情けなく言われてるがアルコール中毒になったことによる肝臓系の病気と考えるのが妥当だろうな -- 名無しさん (2015-11-02 20:11:48) - 短気なのは、色んなところへ養子に出されたり戻されたりを繰り返して心が不安定だったんだろうな -- (2015-11-02 20:29:29) - そもそも10代後半で重い決断ばっか強いられすぎてるかな。そりゃ情緒不安定にもなるわ -- 名無しさん (2015-11-02 20:45:32) - 一時期は天下人の跡継ぎ候補、そして名門武家の分家、そして改易からの復帰か… 確かにメンタル不安定になるわ -- 名無しさん (2015-11-03 09:39:41) - 関ヶ原の戦いを描く時、作品によって東西で善悪が割れるけど、大体「小早川が悪」ってのは一緒なんだよね…まぁ、幕末の井伊直弼にも言える事だが。 -- 名無しさん (2015-11-03 10:08:39) - 裏切りは喜ばれても裏切り者は疎まれる好例 -- 名無しさん (2015-11-03 10:26:56) - 最近では擁護されるようになったのか関ヶ原は松尾山に入ると言う西軍に対する明らかな反逆行為により包囲された小早川を救出するために起きた戦いだったとか脇坂をはじめとする四将に裏切りを説得し、全員から了解を得たから大谷に攻撃したから迷っていたと見えるだけと言う説もある -- 名無しさん (2015-12-05 19:13:32) - 三成に卑怯者と罵られたとかは創作だろうから言い返すも何もないと思う 逆風の太刀はかなりカッコ良かったな -- 名無しさん (2016-03-30 12:29:01) - 事前に三成に、「西軍に着いてもいいけど、何かあったら裏切らせてもらうから覚悟しておくことだな」と言い放ってたらかっこいいのになぁ。 -- 名無しさん (2016-03-30 12:44:58) - 後年の創作のせいで評価落としまくった人というイメージ。初陣の朝鮮で大活躍はもっと色んな人に知られていい -- 名無しさん (2016-05-22 06:27:49) - 本人の資質は抜きにしても秀吉の晩年の奇行でゆがんだイメージがある。少なくともあの秀吉に見いだされた人なんだから無能なはずはない。そんな人物があの仕打ちなんだからそりゃ裏切りますよ、豊臣家に恨みはあれど自分の輝かしい未来を奪った人に付いていくことはできないだろうし -- 名無しさん (2016-08-24 13:59:32) - 大幅減封された際に大坂城で三成に切りかかろうとしたらしいね そんな関係じゃ裏切るのも当たり前か -- 名無しさん (2016-09-11 09:52:59) - い、今川義元よりはマシだから -- 名無しさん (2016-09-11 10:25:50) - ぶっちゃけこの人のたどってきた経緯や秀吉や三成から受けた処遇なんかを考えるとそもそも最初に西軍についたこと自体が不思議な位なんだよなあ -- 名無しさん (2016-09-11 10:44:22) - ↑始め東軍につこうとしてたら西軍に囲まれてやむを得ず西軍についただけだからなあ 伏見城攻め後はほとんど何もしてないし家康に接近しまくってるし -- 名無しさん (2016-09-11 10:52:39) - そもそも、裏切りなんて戦国時代ではみんなやっているからな。三成が潔癖(頭でっかち)なだけだという気もする。 -- 名無しさん (2016-09-11 18:21:24) - ↑ それはそうだけど、三成の不備を指摘して開き直れなかった、へし折れて自滅してったのは本人の限界 -- 名無しさん (2016-09-11 18:48:50) - 皮肉なことに裏切り上等みたいな奴ではなかったんだろうな -- 名無しさん (2016-09-11 19:37:25) - 国替えから2年。酒の飲みすぎで死亡。2年のうちの晩年には奇行が目立つ。そりゃ評価も下がるだろう。 -- 名無しさん (2016-09-23 03:06:02) - ↑7ネタだと思うがそもそも比べるまでもなく大大名の義元さんとは人物の大きさが違うし、死に方も不運であって別に情けなくもない。加えてお前も本当に戦国大名なのかと言いたくなる息子の氏真もなんやかんや波乱万丈の人生ながらも夫婦円満、お家存続、天寿をまっとうのフルコンボよ。いやホントにこういう人もいるのになぁ -- 名無しさん (2016-09-23 04:55:11) - ある意味「未来を決めた(作った)若者」なんだけどなぁ。 -- 名無しさん (2016-09-23 08:38:47) - ↑5 創作逸話に死んだ後反論しろとか、大軍を前に開き直らないと限界とか、そんな無茶言われても…… -- 名無しさん (2016-10-11 09:47:00) - ↑ んなこと言ってたら「ダメなアル中がくたばった」の一言で終わりな話だぞ -- 名無しさん (2016-10-11 18:06:35) - ここ十年くらいで急速に再評価がされてきてる武将 最近では関ヶ原開戦時に大谷軍に突っ込んでいたという話もある -- 名無しさん (2017-01-05 23:00:23) - 開戦後さっさと徳川に御味方して西軍が総崩れになったって記録が関ヶ原の2日後の徳川方書状や宣教師の書簡にあるみたいだね。真田丸の考証の先生が紹介してたけど。 -- 名無しさん (2017-01-07 02:02:15) - 他家に養子に出されては戻された日々で荒れて若い頃からアル中、ねねの他大勢の人間から借金までしていた。最近では酒の飲みすぎで肝硬変を患っていたのが死因らしい -- 名無しさん (2017-02-11 23:12:02) - とりあえずみんな「我が名は秀秋」読もうぜ -- 名無しさん (2019-01-31 12:39:20) - 最近じゃあ鬼切丸伝で怨霊ネタを使われて死んだ人 -- 名無しさん (2019-01-31 16:08:37) - 鉄砲を撃ちかけられて~は有名だが現地調査したら弾はおろか銃声さえ届かないと判明、やっぱ死人に口なしで悪い部分押しつけられたんやろな -- 名無しさん (2019-01-31 16:16:31) - 浅利陽介氏、ググってみたら確かにイメージぴったりだわw -- 名無しさん (2019-08-03 01:56:01) - 結果的に徳川家臣ダシに使ってMVP獲ったという恨み買ったが、小早川家の戦後の処遇も考えたら井伊や福島が戦場に居る状況で寝返りは出来んわな。絶対に難癖付けられる -- 名無しさん (2021-01-03 23:54:17) - 上でも言われてたけど、裏切り上等なら三成に罵られて苦悩のあまり早世したりしなかっただろうな。もっと松永久秀あたりを見習ってみればよかった -- 名無しさん (2021-01-04 00:06:50) - 苦悩とか以前に関ヶ原辺りでもう早世が確定するほど病状進んでるぞ -- 名無しさん (2021-01-04 00:19:43) - せめて30代まで生きてまともに領地を治めてればもっとマシな評価だっただろうとは思う -- 名無しさん (2021-01-04 00:37:39) - 10代なうえに全然戦してないのに朝鮮攻めの重要ポストなったのは戦死させるか失敗させて理由付けて粛清する気だったのかな秀吉 -- 名無しさん (2021-03-25 00:58:48) - 小早川秀秋は裏切り者の代名詞で有名だが秀秋は死後に言われるようになったが片桐且元は生前から裏切り者と言われていた。 -- 名無しさん (2021-04-10 21:20:54) #comment #areaedit(end) }

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